2024年05月24日

ミズゴケの楽園。

ちょっと最近、仕事などで落ち込むことがあり、気分転換がしたく出かけました。
場所はとある湿原。

ミズゴケ湿原1










そこまで山奥ではなく、遊歩道も整備された湿原で、最近苔に興味がある私は、自然観察も含めて歩いてみましたが、ここの湿原、凄いところでした。
ミズゴケ湿原2










谷から水が流れてきて、低地に水が溜まり湿地となっているのですが、その水辺に生えているコケのほとんどがミズゴケでした。
ミズゴケ湿原3










流れの周りに生えている緑のコケはほぼミズゴケ。
ミズゴケ湿原4










こちらも。
ミズゴケ湿原5










木洩れ日に照らされたミズゴケ。
ミズゴケ湿原7










水が流れ込む湿地帯にもミズゴケが。
ミズゴケ湿原11










湿地や水辺から離れた場所はさすがにミズゴケは生えていませんでしたが、流れのそばや湿地の場所はほぼミズゴケで占められ、その群生の範囲はかなりの広さになります。
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ミズゴケと混生する他の植物。

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やや乾いた場所には別のコケ(スギゴケ?)が生えていましたが、その中にもミズゴケが進出していました。
ミズゴケ湿原9










群生しているミズゴケのアップ。おそらくオオミズゴケ。ミズゴケは世界中に自生し、その保水力の高さから、様々な用途に利用され、一番よく使われるのは園芸用。かつては脱脂綿の代わりや食用にも利用されていたようです。そんなミズゴケですので、乱獲の問題があり、日本でも主に蘭などの用土に利用するためのミズゴケの乱獲がかつては行われていました。また、開発等の自生地の環境の変化で数を減らし、正直どこでも見られるコケではなくなりました。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種にも指定されています。
そんなミズゴケがこれだけの広範囲に群生している湿原は中々貴重ではないかと思います。

ミズゴケ湿原12









今回散策した湿原を見て、ミズゴケが繁茂する湿原をイメージした苔テラリウムを作りたくプラケースに造ってみました。土台の用土はホームセンターの乾燥ミズゴケ。そこに実家の裏で採取したオオミズゴケを植え付け、周りに実家近くの小川の中洲や川岸に生えていた小さいシダやなんかの草(笑)、そしてウォータークローバーの小株を植えて湿原の混生を再現。何か枯れ木とか石とかを置いても良かったのですが、とりあえずはこんな感じで。
ミズゴケ湿原14










あと、この湿原の苔テラリウムを作りたかったのは、食虫植物のモウセンゴケを育てたかったから。モウセンゴケは湿地性を好む植物で、この苔テラリウムと相性の良い植物ですので。植え付けたのは、メルカリで発注したトウカイコモウセンゴケ。うまく育てばいいけど。

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実は去年から苔テラリウムに手を出し始めて、簡単なものですが、ちょこちょこ作ってます。別に売るとかじゃなく、作る過程が楽しいので、作り続けてます。最近はちょっとミズゴケに興味が移ってるので政策は休止してますが。最後に過去に制作したいくつかの苔テラリウムを紹介しておきます。

苔テラリウム古墳1










「山中に眠る石室が露出した古墳」

苔テラリウム城跡1










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「草に埋もれる城跡の石垣」
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「枯山水の庭園」
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「日本庭園の路地」
苔テラリウム小道1










「山道」

besan2005 at 11:20|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 自然 | 苔テラリウム

2024年03月24日

富雄丸山古墳・造り出し部埋葬施設出土木棺等現地説明会レポ日記

15.造り出し粘土槨







去年、国宝級の発見と言われた鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡と東アジアでも最大級の蛇行剣が出土した富雄丸山古墳の造り出し部の埋葬施設。その埋葬施設内部の発掘調査が行われ、木棺や銅鏡、竪櫛などが出土し、3/17に現地説明会が行われたので行ってきました。
写真は盾形銅鏡と蛇行剣が出土した状態の去年の写真で、木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨と言います)の上に置かれていました。
去年参加した富雄丸山古墳の現地説明会レポ日記

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今回の富雄丸山古墳の現地説明会は、16日午後と17日に開催されれ、16日には3000人くらい訪れたと聞き、10時からの開始予定でしたが、8時に到着。古墳の近くには新たな案内板が設置されていました。看板が富雄丸山古墳の形で、矢印が蛇行剣w ちなみにもう一つ、鼉龍文盾形銅鏡の形をした案内板も設置されているようです。
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8時に到着しましたが、誰もおらず。8時30分くらいから列が出来始め、1時間早めた9時から県が゛区開始となりました。
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発掘された埋葬施設。埋葬施設の上には屋根がかけられ、その中を通路を歩きながら見学する感じでした。
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しかし、1番乗りだった私はまだそんなに多くの人がいなかったため、じっくりと見学することができました。
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埋葬施設全体。出土した木棺は非常に保存状態が良く驚きました。粘土槨の上に乗せられていた盾形銅鏡と蛇行剣から溶け出した金属イオンが作用して、木棺の腐食を防いだそうですが、古墳の木棺は大抵残っていないため、当時の木棺の姿を伝える貴重な発見です。木棺は割竹形木棺。木棺本体はコウヤマキで作られ、小口板はスギで作られています。
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木棺の南東側には銅鏡が3枚重ねられて埋葬されていました。
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銅鏡をアップで撮影してみました。表面(鏡面)を上にしているので文様はまだ不明ですが、縁の感じを見ると、三角縁というより平縁に見えます。当時日本にも多く伝わった漢式の内行花文鏡かなと思ってます。しかし、アップにすると益々木棺の保存状態の良さに驚きます。
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木棺内に残された水銀朱。当時、朱の赤色は魔除けの意味合いがあり、古墳に埋葬された木棺や石棺の内部に塗られていました。水銀朱は金属なので、1700年以上経った現在でも鮮やかにその朱の色が残されています。ちなみに、竪櫛も9個ほど埋葬されていたそうですが、保存のために取り上げられていました。

さて、この造り出し部に埋葬された人物はどのような人だったのか。棺内に剣や刀、鏃などの武具が埋葬されていないこと、竪櫛が埋葬されていることから、被葬者は女性ではとの見方がされています。富雄丸山古墳の主である墳頂部に埋葬された人物の姉か妹ではとの説もあるようですが、それにしては副葬品が質素に見えます。それこそ首飾りである玉類とかあってもおかしくはないと思いますが、一切ないのが。私は富雄丸山古墳の主に仕えていた側近的な人物で、巫女的な存在だったのではと考えてます。棺外に置かれた盾形銅鏡と蛇行剣は主を守る魔除けの意味があったのではと。あくまで私の推測ですが。

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1巡したあともう1度見たくなって2巡。その際にスマホにある3Dモデルが作成できるアプリを試してみることに。流れに沿って連続写真を撮るだけで簡単に3Dモデルが出来ました。便利な時代になりましたね。
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2巡目を終えて富雄丸山古墳を後にした直後に見学者が一気に増えたようで40分待ちとかになったようです。やはり早めに来てよかった。
富雄丸山古墳の調査はまだ続くようなので、今後どんな発見があるのか楽しみですね。

今回の富雄丸山古墳の現地説明会資料のPDFはこちらからDLできます。


besan2005 at 12:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 遺跡

2024年02月25日

下鴨森ガ前児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市左京区下鴨西高木町にある下鴨森ガ前児童公園を探索しました。下鴨森ガ前児童公園は昭和14年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

1下鴨森ガ前児童公園北門 左京区下鴨西高木町 昭和14年5月14日 










下鴨森ガ前児童公園北門。
2下鴨森ガ前児童公園北門










門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。
3下鴨森ガ前児童公園北門










反対側も同じデザインで、シンメトリー。
4下鴨森ガ前児童公園北門










公園内から。
5下鴨森ガ前児童公園南門










下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。
9下鴨森ガ前児童公園北西角塀










北西隅の塀。
11下鴨森ガ前児童公園バーゴラ










下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。
12下鴨森ガ前児童公園国旗掲揚台










下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。
戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
13下鴨森ガ前児童公園国旗掲揚台










国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。
17下鴨森ガ前児童公園花壇










下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。
18下鴨森ガ前児童公園花壇










四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。
14下鴨森ガ前児童公園基礎










何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。
16下鴨森ガ前児童公園砂場










下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。

下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。


besan2005 at 10:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前の都市公園

あおい(下鴨膳部)児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市左京区下鴨東梅ノ木町にあるあおい(下鴨膳部)児童公園を探索しました。(※戦前は下鴨膳部児童公園という名前でしたが、現在は「あおい児童公園」となっています。以下は「あおい児童公園」と称します)。
あおい児童公園
は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

1あおい児童公園東門 左京区下鴨東梅ノ木町 昭和10年5月14日










あおい児童公園東門。

2あおい児童公園東門










門柱脇の袖塀はアールデコ調のデザイン。
3あおい児童公園東門










反対側も同じデザインで、シンメトリーになっています。

4あおい児童公園東門










公園側から。
5あおい児童公園南門










あおい児童公園南門。南門も東門と同じデザインです。
13あおい児童公園土地区画整理記念碑










公園内には大きく「記念」と彫られたインパクトのある石碑があります。
14あおい児童公園土地区画整理記念碑










背面の碑文。昭和8年に下鴨土地区画整理事業を記念して設置された記念碑です。
京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・萩児童公園にも記念碑が残されています。
9あおい児童公園国旗掲揚台










あおい児童公園には国旗掲揚台も残されています。装飾の少ないモダニズムなデザイン。
10あおい児童公園国旗掲揚台










戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
11あおい児童公園国旗掲揚台










国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。
あおい児童公園の国旗掲揚台の背面にもポールを立てるための窪みがあり、固定していた金具の跡も残されています。
16あおい児童公園砂場










あおい児童公園には砂場もありますが、あまり使われていないのか荒れていました。

あおい児童公園は少ないながらも質の高い戦前の児童公園の遺構が残されており、この地域の分譲地としての開発の歴史を伝える貴重な近代化遺産と言える公園です。


besan2005 at 10:08|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前の都市公園

萩児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市左京区下鴨萩ヶ垣内町にある萩児童公園を探索しました。萩児童公園は昭和15年12月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

1萩児童公園南西角門 左京区下鴨萩ケ垣内町 昭和15年12月1日










萩児童公園南西角門。低い門柱が建てられています。
2萩児童公園南西角門銘板










銘板。これは戦後の物でしょうか。
3萩児童公園南門










萩児童公園南門。南西角門よりシンプルな門柱。
4萩児童公園東門










萩児童公園東門。こちらは門柱にタイルの装飾があります。
5萩児童公園東門










南側の門柱と塀。
6萩児童公園東門










北側の門柱と塀。
7萩児童公園東門銘板










銘板。東門の門柱は他の入口より手が込んでおり、東門が正門だったと思われます。
8萩児童公園北門










北門。南門と同じ簡素な門柱。

9萩児童公園土地区画整理記念碑










萩児童公園のある一帯は昭和9年に洛北土地区画整理事業で開発された分譲地でした。萩児童公園内には土地区画整理事業の完成を記念した石碑が残されています。京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・あおい児童公園にも記念碑が残されています。
10萩児童公園ラジオ塔










萩児童公園にはラジオ塔が残されています。ラジオ塔は日本放送協会(現・NHK)がラジオ普及のために各地の公園等に設置された街頭ラジオで、最盛期には465基あまり設置されましたが、現在は37基しか現存していません。
11萩児童公園ラジオ塔










そのうち京都市内にはこの萩児童公園の他に、円山・紫野柳・船岡山・橘・小松原・八瀬の7か所の各公園に現存しており、うち船岡山公園のラジオ塔は平成27年に新たに受信機が設置され機能が復活しました。
12萩児童公園ラジオ塔










萩児童公園のラジオ塔に残る「JOOK」の文字。これは京都放送局「現・NHK京都放送局」のコールサイン。
10萩児童公園ラジオ塔










萩児童公園のラジオ塔は、大きな庇を設けたコの字型の他に類を見ない形状で、中々モダンなデザインです。
13萩児童公園国旗掲揚台










萩児童公園の国旗掲揚台。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。
14萩児童公園国旗掲揚台










国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。萩児童公園の国旗掲揚台の背後にはポールを固定した金具が残されており、使われていた当時の様子を知ることができる貴重な遺構となっています。
112紫野柳公園ラジオ塔










国旗掲揚台の中には、紫野柳児童公園のラジオ塔のように、ラジオ塔と国旗掲揚台が一体化したものもあります。
15萩児童公園砂場










萩児童公園の砂場。角を丸くした古いタイプのものと思われます。
17萩児童公園ベンチ










萩児童公園のベンチ。擬石洗い出し仕上げの古いもの。
18萩児童公園ベンチ










公園内の各所にこのような古いベンチが残されています。
19萩児童公園プール跡










萩児童公園には25mプールが残されています。
21萩児童公園プール跡










戦前の京都市の児童公園にはある一定以上の広さを持つ公園にはプールの設置が求められました。それは児童の心身鍛錬と防火用水としての機能を持たせるためでした。戦後しばらくはプールとして使用され続けていましたが、管理の問題から次第に廃止され、埋め立てられたり撤去されたりしていきました。また、学校と隣接した公園のプールは学校の敷地に取り込まれ、学校が管理するプールとなっていきました。
23萩児童公園プール跡










この萩児童公園のプールも現在は埋め立てられ広場となっています。現在京都市内の児童公園にある25mプールで現存しているのは萩児童公園の他には、
南岩本・六條院・唐橋西寺の児童公園がありますが、全て埋め立てられたプール跡となっており、機能しているものはありません。

萩児童公園は、代表的なラジオ塔をはじめ、土地区画整理記念碑・国旗掲揚台・25mプール跡・門柱など戦前の児童公園の遺構がよく残され、日本土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
萩児童公園は、戦前の児童公園の雰囲気を知ることができる近代化遺産として貴重な公園となっています。


besan2005 at 07:21|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前の都市公園

2024年02月12日

坂本城発掘調査現地説明会参加レポ日記。

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2024年2月11日に滋賀県大津市の坂本城の発掘調査現地説明会に参加してきました。
坂本城は元亀2年(1571)に織田信長の命を受け、明智光秀が琵琶湖の湖畔に築いた城です。
明智光秀が討たれ坂本城が落城した後、丹羽長秀が入城しましたが、天正地震で破損した後に廃城となり、建物や石垣のの石は大津城に使われたため地上から姿を消しました。

IMG_3000










完全に地上から姿を消した坂本城は、江戸時代には完全に忘れ去られ絵図も残されていないことから
長らく「幻の城」と呼ばれました。近年の琵琶湖の渇水で琵琶湖畔に面した本丸部分の石垣が姿を現し話題となりましたが、石垣は基底部の1段のみであり、往時の姿からはかけ離れたものでした。しかし、坂本城の唯一の遺構として話題を集めていました。
しかし、2024年2月7日、今まで地上部分には存在していなかったと思われていた坂本城の石垣と堀が発見されるという驚きのニュースが報じられました。
2月10日と2月11日に現地説明会が行われるという話を聞いて、11日分のの説明会に参加してきました。
1待機列










前日の説明会では、開始前に整理券が無くなったと聞き、当日は9時30分整理券配布ののところ、6時30分に配布場所の石積みの郷公園に到着。さすがに私1人だろうと思っていたけど、すでに10人くらい並んでいてびっくり。7時30分くらいから続々と人が集まり、配布時となった9時30分には3重くらいの列になってました。
タイトルなし










イメージとしてこんな感じ。
坂本城縄張り図001










※現地説明会資料より。今回発見された石垣は三の丸に位置する場所で、さらに平成30年の調査で外堀と推定されていた場所の発掘調査が行われましたが、外堀にあたる遺構が確認されなかったことから、これまで考えられていた坂本城の外郭が狭くなる可能性があるようです。
坂本城トレンチ002










※現地説明会資料より。今回の発掘調査地の調査区と各遺構の位置図。
2石垣










発見された石垣。堀底に近い部分の石垣が高さ1mほど残されてました。
3石垣










手前にはかつて上に積まれていたであろう石垣の部材が堀底に転落しています。廃城時に地上部分の石垣は崩され石材は大津城に運ばれ、堀下の部分の石垣はそのまま堀と一緒に埋め立てられたのでしょう。
4石垣










石垣は約30m検出しました。恐らく調査区外へも同様の状態で残存石垣が残されていると思います。
石垣の改修説明










この石垣で報道時から気になってた箇所が1つ。左右の石垣と積み方に差異がある箇所があり、石垣の隅のようなラインも見えることから、もしかしたら改修をした後ではと考えています。
私の解釈を画像に記載してみました。
なお、石垣の背後に溝が検出されていますが、詳細は不明とのこと。
9堀対岸推定ライン










また、現場の西側、現場の外になりますが、用水路とコンクリートの擁壁があるのですが、調査担当者によれば、これが今回発見された石垣の対岸になるラインではと想定しており、この下に同様の石垣が眠っている可能性があります。堀幅は推定12mとなり、中々の広さの堀となります。
5石垣










先ほどの石垣の続き。手前に出土した転用石が並べられています。転用石が使用されているのはいかにも織田配下の家臣の城といったところ。明智光秀の城では福知山城の石垣が有名ですね。
7船着き場










石垣の北側から検出された石垣。石積み遺構とされてますが、どうやら先ほどの石垣と続いているようです。
8船着き場










この石積み遺構、説明では船着き場ではと推定されているようです。
船着き場説明










説明では「船着き場」とだけ説明されてましたが、遺構の状況をよく見ると堀へと至る石段らしきものも確認できました。また、その堀へと至る階段とするための石垣の構築(石垣を直交させて石段の壁としている)も確認できました。私の解釈を画像に記載してみました。
ちなみに堀の水深自体は浅かったと思われ、いわゆる高瀬舟のような底が平らな船ではと考えられています。
島津家久が記した天正3年の日記には坂本城を訪れた際、船による出迎えを受け、船で坂本城を巡った後、光秀の歓待を受け、船で宴会をしたことが書かれています。今回の発掘調査では、その島津家久の記述を裏付ける発見と言えます。
10遺物










出土遺物としては、瓦が少なく土師器皿やすり鉢、瓦質土器など雑器が多く、中国青磁とかの輸入陶磁器の数は僅か。今回の調査で礎石建物や井戸が確認されており、屋敷があったことが分かってますが、瓦の数が極端に少ないこと、雑器が多いことから、板葺きのような建物の下級武士の屋敷ではなかったかと考えられています。
11木製品










そして今回出土した木製品で注目されるのが「オール状木製品」が見つかったこと。
いわゆる船の櫂 (かい。つまりオール)とみられ、船があった裏付けとされています。
12終了










今回発見された坂本城の石垣はかなり貴重な成果で、遺構の保存に関しては現在協議中とのこと。開発による調査のため、開発原因者次第になりますが、何とか保存の方向に向かってくれればと願ってます。
参加した11日の現地説明会もかなりの大盛況で、整理券が配布された9時30分からわずか1時間で4回800人分の整理券が無くなったとのこと。坂本城石垣発見の関心の高さがうかがえる説明会でした。


besan2005 at 20:17|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 滋賀県 | 城郭

2024年01月16日

福知山市筈巻・天神神社の鰐口「丹州天田郡筈巻村中・天満宮御宝前」の銘文

鰐口1










先日、ネットオークションにて鰐口を入手しました。
鰐口とは仏堂の前に吊り下げて音を鳴らす仏具で、神仏分離令までは神社の社殿の前にも下げられていました。(今でも社殿前に下げられている神社もあります)
鰐口3










写真の関係でうまく写せてませんが、「目」という左右の出っ張りの幅は約20cm。
鰐口4










「口」という下部の開口部の幅は約1cm。
鰐口7






上部には湯口(鋳造の際に銅を流し込んだ部分)の痕が残っています。

実はこの鰐口には村の歴史を物語る銘文が残されています。
鰐口5










向かって右側にある銘文。
「丹州天田郡筈巻村中」
これは、現在の京都府福知山市筈巻に該当します。
鰐口6










向かって左側にある銘文。
「天満宮御宝前」
調べたところ、筈巻地区に天神神社という菅原道真を祭神とした神社があることが分かりました。
天神神社1










筈巻地区の天神神社の位置。
天神神社2









ストリートビューの天神神社。(後日、取材に行きます)。
案内板によれば、室町時代末期の文禄年間(1592〜1595)の頃、福知山市の六人部にいた高橋氏がこの地を開墾した際、北野天満宮を勧請し祀ったのが最初とされています。
実際に筈巻に天満宮である天神神社が存在することから、鰐口に刻まれている銘文は偽銘ではなく、本来、天神神社に存在したものであることが分かります。

鰐口2










鰐口の裏面には何も刻まれていません。
鰐口にはよく年号が刻まれていて、それが鰐口の年代を記すものになるのですが、残念ながらこの鰐口には年号がありません。となると、刻まれている銘文と形状からの判断になるわけなのですが。
まず、銘文で気にになったのが「天満宮」という表記。現在は天神神社という社名になっていますが、北野天満宮からの勧請だったこともあり、当初は「天満宮」と呼ばれていた可能性があります。
この天神神社がいつから天満宮から天神神社へと社名が変わったのか今のところ不明ですが、近代は天神神社と称していたようです。
次に鰐口の形状。私は仏具に関して専門ではないので詳しい鑑定はできないため、ネットで各時代の鰐口の特徴を調べてみましたが、基本的に室町時代までは「目」の出っ張りが低く、「唇」という開口している部分の高さと変わらないこと。「口」の部分の幅が狭いこと。江戸時代以降は「目」の出っ張りが顕著になるようです。

以上の事から、この鰐口は室町時代の特徴を備えた古風な形状を成し、当初の呼称と思われる「天満宮」の名称が刻まれていることから、もしかしたら天神神社の創建当時のものの可能性がありますが、あくまで私個人の考察なため確証はありませんので、今後さらに調査したいと思います。

どちらにせよ、ほとんど資料が残されていないであろう天神神社の歴史を物語る資料であり、仮に創建当初の文禄年間の作だとすれば、さらに貴重な資料になると思われるのですが。

※追記
この記事を執筆した後、筈巻地区内にある無量寺さんに問い合わせてみました。
筈巻は江戸時代初期に村として成立し、慶安2年(1649)までは福知山藩領。以後は天領だったのこと。天神神社の創建は文禄年間の言い伝えですが、今のような形の神社となったのは、筈巻村として成立した江戸時代以降ではとのこと。
また社名は天神神社だがそれは通称で、現在でも地区では天満宮と言ってたりする。
とのお話をいただきました。
鰐口1










さらにSNSにてこの鰐口に関しての情報を求めたところ、古美術に詳しい方からの見解が。
]霧の銅は金味が比較的新しく、江戸時代の雰囲気。
形状は室町時代後期〜安土桃山時代の古風な作風。
以上から江戸時代初期頃ではと判断。

との情報を得ました。
江戸時代初期の作と考えると、筈巻村が江戸時代初期に成立しその際に小祠だった天神神社が今の形に整備された際に奉納された可能性があります。まだ調査は進めますが、筈巻地区の歴史を物語る重要資料になる可能性がありそうです。 

besan2005 at 11:34|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 郷土史

2024年01月14日

神戸海軍操練所跡・神戸港第一波止場防波堤跡発掘調査現地説明会レポ日記

2神戸海軍操練所現場入口










神戸市で開催された、神戸海軍操練所跡と神戸港第一波止場防波堤跡の発掘調査の現地説明会に参加してきました。神戸港のウォーターフロント再開発事情に伴う工事の事前発掘調査で見つかった遺構群であり、幕末〜明治期にかけての神戸港の成り立ちを物語る貴重な発見となりました。
今回の調査で重要な点は3つ。
)詼期の江戸幕府により築造された神戸海軍操練所の石積み遺構。
⊃生由港時に築造された明治初期の第一波止場の石積み防波堤。
L声C羇までに行われた第一波止場防波堤を修築・増築した遺構と信号灯・信号所の基礎遺構。
となります。
3調査区全体図









※現地説明会で配布された資料に掲載されている発掘現場の全体図。赤枠で囲んでいる部分の遺構が、第鬼の幕末期の神戸海軍操練所時代の石積み遺構(赤枠はブログ管理者による加筆)。

まずは幕末期の神戸海軍操練所跡の遺構。
1神戸海軍操練所記念碑










神戸海軍操練所は元治元年、幕府の軍艦奉行であった勝海舟の進言で設立した海軍士官の養成機関と海軍工廠を合わせた日本海軍発祥の地ともいえる施設でした。
塾頭は坂本龍馬。神戸海軍操練所は幕府の機関でありながら、幕府の終焉を予想していた勝海舟により、討幕派の志士も多く集っていました。
勝海舟は禁門の変で軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所は慶応元年に閉鎖。明治に入り、神戸海軍操練所の跡地を利用して第一波止場の防波堤が築造されました。

3現場全体










発掘現場全体。幕末期の神戸海軍操練所跡と神戸開港時の明治初期の第一波止場の防波堤遺構、明治中期までの防波堤増築部分からなる近世近代の複合遺構です。
4神戸海軍操練所石積










北から撮影した幕末期の神戸海軍操練所跡の石積み遺構。遺構は手前の石積みで、表面は見学路の反対になるので、鏡で映しています。
5神戸海軍操練所石積










一番北側で確認された神戸海軍操練所跡の石積みの表目面。
いわゆる城郭にも使われた切込み接ぎともいえる布積み。
6神戸海軍操練所石積










その南側で確認された石積み遺構。
7神戸海軍操練所石積










一番南側で確認された石積み遺構。神戸海軍操練所跡の石積みは第一波止場防波堤の下に埋もれる形で、約26mほど現存しているようです。
これらの石積みを勝海舟や坂本龍馬が見ていたかもしれないかと思うと、感慨深いものがあります。

そして、明治初期の神戸開港時に築造された第一波止場防波堤、それ以後の明治中期までに行われた防波堤の修築・増築の跡と信号灯・信号所の基礎遺構。
8第一波止場防波堤石積










明治初期〜明治中期までの第一波止場防波堤遺構。西から撮影。
9第一波止場防波堤石積










第一波止場防波堤の石積み表面。第鬼の幕末の神戸海軍操練所時代の石積みを土台として利用し、その上に第挟の神戸開港時の第一波止場防波堤が築造され、明治中期までにさらにその上にほ防波堤が増築されました。
10第一波止場防波堤石積










北から。防波堤の構造がよく分かります。
11信号灯基礎










明治中期までに建設された信号灯の基礎。新旧の2時期あります。
12信号所基礎










同時期の信号所の基礎。
13明治時代中期第一波止場の様子








※現地説明会資料より引用・加筆。
この第一波止場の防波堤と信号灯・信号所は、明治中期に撮影された古写真に写されています。
奥に見える白亜の洋館は初代神戸税関。そこから左側は外国人居留地で、現在の海岸通りになります。
14古写真アングル










古写真とだいたい同じアングルで撮影。今から130年以上前に撮影された古写真に写る防波堤や施設と同じものを実際にこの目で見ている感動。
IMG_7127










見学路の足元には明治期の石積み防波堤の天端が露出していました。
第一波止場防波堤は時代とともに埋められていき、阪神高速道路建設の際に完全に埋め立てられました。そのおかげか良好な状態で遺構が発見され、神戸港の成り立ちを知る重要な近代の遺跡と判明しました。今回発見された遺構はまだ検討中ですが、敷地が神戸市所有であるため、保存整備の方向が検討されているようです。整備された後の姿を楽しみにしたいものです。
15出土遺物










その他、出土品など。中世の室町時代の五輪塔や宝篋印塔の部材なども使用されていたようです。
16出土遺物










石製の建物の部材も見つかっています。居留地時代の洋館の部材を修築や増築時に利用したのでしょうか。

今回の現地説明会は事前予約制で、土曜日と日曜日に確か4回、100名ずつくらい枠があったと思いますが、12日の締め切りを待たずに定員が埋まってましたね。やはり幕末。それも坂本龍馬ゆかりの遺構発見となると人気を呼びますね。

besan2005 at 11:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 近代化遺産

2024年01月08日

五條市の近代建築探索レポ日記

20240107_100926










奈良県の五條市にある近代建築を探索してきました。五條市には古い町並みなどがよく残されています。まずはJR五条駅から出発。
51五条駅手洗い場










この五条駅のホームに人造石研ぎ出しの手洗い場が残されていました。国鉄時代、まだ蒸気機関車が現役だったころ、駅に着いた蒸気機関車の機関士たちが煤で汚れた手や顔を洗うために使われていました。時には乗客も使用したこの手洗い場はかつてどこの駅のホームにもありましたが、昨今の高架化などの改築で姿を消しつつあります。
駅から1周する感じで探索していきます。

1純喫茶飛騨 須恵町










純喫茶・飛騨。五條市須恵。駅前にある喫茶店。玄関のアーチが特徴的。

2五条酒造事務所 今井町 大正13年










五条酒造事務所棟。五條市今井町。
3五条酒造事務所










和洋折衷の建物。この事務所の建築年は分かりませんが、創業年の大正13年としておきます。
4五条酒造工場棟










五条酒造の工場棟。こちらも大正13年としておきます。
5五条酒造煙突










五条酒造株式会社の文字がある煉瓦造の煙突も現役で使われています。

6元タバコ屋 五條










旧たばこ店。五條市五條。中々いい雰囲気の建物。レトロな看板もいいですね。
7元タバコ屋










今は店舗としては使われていないようです。

8鍵谷邸 五條










K邸。五條市五條。
9鍵谷邸










軒周りのデンティル装飾が特徴的ですね。
10鍵谷邸










どうやら元は印刷会社の事務所だったようです。

11栗山家住宅 五條 慶長12年 国重文










栗山家住宅。五條市五條。近代建築ではないですが、五條市で一番有名な古民家と思われるので紹介。
建築年はなんと慶長12年(1607)。400年以上前の住宅で、年代の分かっている住宅としては日本最古だそう。
12栗山家住宅










屋根の破風とかまるでお城の御殿のような立派さ。国指定重要文化財ですが、現在も個人宅なのが凄い。

13フォトスタジオサクライ(旧吉野銀行五條支店・旧五条信用組合) 五條 昭和10年 大林組 










フォトスタジオサクライ。五條市五條。昭和10年。
14フォトスタジオサクライ










元は吉野銀行五條支店だった建物。その後、五條信用組合となり、現在は写真館として使われています。
15フォトスタジオサクライ










装飾は少なめですが、元銀行らしい堂々たる外観です。

20旧五新鉄道新町高架橋 新町 昭和14年頃










旧五新鉄道新町高架橋。五條市新町。昭和13年〜14年頃。
五新鉄道は、奈良県五條市と和歌山県新宮市を結ぶ鉄道路線として明治末期に構想が起こりました。
実際に工事が着工されたのは昭和12年。高架橋と生子トンネルの開通までは完成しましたが、戦争により工事中断。昭和35年に工事が再開するも結局工事は中止され未完成のまま終了しました。
21旧五新鉄道新町高架橋










すでに完成していた五條市の高架橋は撤去費用の面からかそのまま残され現在に至りますが、今となっては幻に終わった五新鉄道の姿を伝える貴重な近代化遺産となっています。
22旧五新鉄道新町高架橋










高架橋のアーチの下部分。木の型枠痕が残ります。
23旧五新鉄道新町高架橋










高架橋の橋脚部分。ここにも型枠痕が。戦前のコンクリート建築にはこういった型枠痕がよく残されています。
24旧五新鉄道新町高架橋










国道24号線側にも高架橋が残されています。
25旧五新鉄道新町高架橋










かつては高架橋が国道24号線を跨いでいましたが、さすがに危険性があるので、現在は国道を跨ぐ部分は撤去されています。
26旧五新鉄道新町高架橋










旧五新鉄道の説明板。

27神田橋 新町 昭和5年8月










神田橋。五條市新町。昭和5年8月。
28神田橋










先ほどの旧五新鉄道高架橋のそばにあるRC橋。竣工当時の姿をよく留めており、欄干の尖頭アーチの装飾など戦前のRC橋らしい意匠的なものです。
29神田橋










竣工年の昭和五年八月の文字がある銘板。
30神田橋










神田橋の工事関係者の名前が刻まれた銘板。工事関係者の銘板が設置された戦前の橋は珍しいです。

31旧五條代官所長屋門 新町










旧五條代官所長屋門。幕府の天領であった五條市には代官所がありました。元々は五條市役所の位置にありましたが、天誅組の変により焼き討ちにあい焼失。元治元年(1864)に現在の地に新たに移されました。
32旧五條代官所長屋門










この長屋門はその時のもので、現在は歴史民俗資料館となっています。
33旧五條代官所










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五條代官所の敷地の南側には石垣が残されています。
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五條代官所は明治維新後は五條県庁となり、その後は裁判所の敷地となって現在に至ります。

35割烹明月 本町










さて、再び近代建築探索へ。割烹明月。五條市本町。
37割烹明月










3階建ての大きな洋館が特徴的な建物です。
36割烹明月










隣接する和館も立派です。
38割烹明月










玄関には立派な唐破風が。元は料理旅館だったのでしょうか。

39煉瓦倉庫 本町










煉瓦倉庫。五條市本町。街を歩いていて見かけました。
40煉瓦倉庫










壁は煉瓦ですが屋根の形から蔵だったのでしょうが、隣の民家とは別の敷地みたいなので、この煉瓦蔵だけ残されているっぽいです。
41煉瓦倉庫










ちょっと入り口側に回らせてもらいました。そこには・・・
42煉瓦倉庫










見事な木製の彫り物の装飾が。ただの蔵にこれだけの装飾を施しているくらいなので、主屋はどれだけ立派だったんでしょうか。

43谷食料品店 須恵










谷食料品店。五條市須恵。
44谷食料品店










今はもう閉店しているようです。ちょっと気になった建物。

45赤壁薬局 須恵










赤壁薬局。五條市須恵。
47赤壁薬局










現在は国道24号線に面した赤壁薬局の一部になっていますが、かつては荒谷薬局という店だったようで、タイル壁に店名が残されています。

48洋風住宅 須恵










下見板張りの住宅。五條市須恵。
49洋風住宅










ちょっと気になった建物でした。もとは店舗でしょうか。

16新町通










五條市は近代建築だけでなく、伝建地区の歴史的な街並みなど見どころの多い町でした。

おまけ。
52ケアーズ アーニャのシャッター










商店街にあった、SPY×FAMILYのアーニャが描かれた店舗w
この店舗の店主のブログによれば、アーニャが大好きで描いてもらったようです。


besan2005 at 10:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 近代化遺産

2023年12月30日

北岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市南区東九条東岩本にある北岩本児童公園を探索しました。北岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

164北岩本公園南側東門 南区東九条東岩本 昭和14年5月20日










北岩本児童公園南側東門。
165北岩本公園南塀










南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。
166北岩本公園南側西門










西門。
167北岩本公園南側西門










公園から。
168北岩本公園南塀










西側の塀も同じデザイン。
169北岩本公園北門










北門。
170北岩本公園北門










171北岩本公園北門










門柱は全て同じデザインです。

172北岩本公園北門銘板










銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。
173北岩本公園東門










東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。
174北岩本公園東南隅塀










東南隅の塀。
175北岩本公園プール










北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。
176北岩本公園バーゴラベンチ










バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。
177北岩本公園バーゴラベンチ










バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。
178北岩本公園ベンチ










179北岩本公園ベンチ










ベンチは当時のもののようです。
180北岩本公園ベンチ










このような感じで並んでます。
181北岩本公園噴水か










北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。
182北岩本公園噴水か










半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。
183北岩本公園噴水か










反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。


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2023年12月24日

南岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市南区東九条南岩本にある南岩本児童公園を探索しました。南岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

148南岩本公園南門 南区東九条南岩本 昭和14年5月20日










南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。
149南岩本公園南門










塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。
150南岩本公園南門銘板










銘板は新しいもの。
151南岩本公園南門塀










南側の門と塀はこんな感じです。
153南岩本公園北門










南岩本児童公園北門。
154南岩本公園北門










155南岩本公園北門










北門の門柱は南門と違い意匠的です。

155南岩本公園北塀










北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。
156南岩本公園プール跡










南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も
萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。
158南岩本公園プール跡










児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
157南岩本公園プール跡










この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。
159南岩本公園プール手洗い場










プールの北側には手洗い場跡があります。
160南岩本公園プール跡手洗い場










水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。
161南岩本公園扉跡レール










手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。
162南岩本公園砂場










南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。

南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。


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2023年12月23日

富小路殿児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市中京区富小路通二条上る鍛冶屋町にある富小路殿児童公園を探索しました。富小路殿児童公園は昭和16年6月30日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

1富小路殿児童公園西門 中京区富小路通二条上る鍛冶屋町 昭和16年6月30日










富小路殿児童公園西門。
2富小路殿児童公園西門










門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…
3富小路殿児童公園西門










門柱は開園当初のもの。
4富小路殿児童公園西門銘板










西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。
5富小路殿児童公園バーゴラ










富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。
6富小路殿児童公園バーゴラ水飲み場










水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。
7富小路殿児童公園水飲み場










水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。
8富小路殿児童公園バーゴラ










斜めから。
9富小路殿児童公園バーゴラ










バーゴラの背面。
10富小路殿児童公園バーゴラ










バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。
11富小路殿児童公園バーゴラベンチ










IMG_6857










IMG_6858










バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。
12富小路殿児童公園砂場










砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。
13富小路殿児童公園地蔵尊










富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。
14富小路殿児童公園地蔵尊










実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。
IMG_6861










これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。
100.ハリストス正教会










富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。


besan2005 at 23:03|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前の都市公園

六條院児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市下京区高倉通五条下る二丁目富屋町にある六條院児童公園を探索しました。六條院児童公園は昭和17年8月15日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産


1六條院児童公園北門 下京区高倉通五条下る二丁目富屋町 昭和17年8月15日










六條院児童公園北門。
2六條院児童公園北門










門柱は当時のものですがかなり低いですね。
3六條院児童公園北門










反対側。この塀は戦後かも。
4六條院児童公園北門銘板










塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。
5六條院児童公園東門










東門。
6六條院児童公園東門銘板










こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。

7六條院児童公園北東隅










六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。
8六條院児童公園水飲み場










水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。
9六條院児童公園水飲み場










背面。
10六條院児童公園国旗掲揚台










国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。
11六條院児童公園国旗掲揚台










背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。
12六條院児童公園コンクリート製遊具










コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。
13六條院児童公園コンクリート製遊具










これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。
14六條院児童公園ベンチ










このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。
23六條院児童公園砂場










砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。
15六條院児童公園噴水










そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。
16六條院児童公園噴水










脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。
IMG_6903










現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。
17六條院児童公園噴水










噴水部分。
21六條院児童公園噴水










噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。
22六條院児童公園噴水










背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。
18六條院児童公園噴水










六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。
19六條院児童公園プール跡










実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。
20六條院児童公園プール跡植え込み










階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
24六條院児童公園水道










水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。


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2023年12月21日

船岡山公園に現存する昭和10年頃のすべり台。(京都市内で現存最古か)

京都市北区にある船岡山は、中世には応仁の乱での西軍の本陣が置かれ船岡山城が築城、明治2年には織田信長を祭神とする建勲神社が創建されるなど、歴史的な丘ですが、昭和10年11月1日に都市公園として整備されて以来、京都市の近代化遺産としての都市公園の遺構を多く残す公園でもあります。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。
船岡山公園古絵葉書ブログ用








こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。
1船岡山公園










現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。
船岡山公園003










古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。

このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。
2船岡山公園すべり台










船岡山公園の広場にあるすべり台。
3船岡山公園すべり台










右横から。
5船岡山公園すべり台










左横から
6船岡山公園すべり台










正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。
10船岡山公園すべり台










背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。
7船岡山公園すべり台










すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。
8船岡山公園すべり台










戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。
ブランコ手すりとすべり台下部










絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。
20231215_135635










逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。
IMG_6756










先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。
船岡山公園 すべり台図面ブログ用









いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。
11船岡山公園すべり台










最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。

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2023年12月16日

高原児童公園に残る都市公園としての近代化遺産とその活用例

京都市左京区田中西高原町にある高原児童公園を探索しました。高原児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。

1高原児童公園南側東門 左京区田中西高原町 昭和13年5月24日










高原児童公園南側東門。
2高原児童公園南側東門










3高原児童公園南側東門










門柱は特に意匠的ではないですね。
5高原児童公園南側東門










公園側から。誰かの忘れ物が…
9高原児童公園南側西門銘板










銘板。これは開園当時のもの。
6高原児童公園南側西門










高原児童公園南側西門
7高原児童公園南側西門










8高原児童公園南側西門










こちらも南側西門と同じデザイン。
10高原児童公園南側西門










公園側から
9高原児童公園南側西門銘板










銘板も当時のもの。
11高原児童公園西門










高原児童公園西門。

12高原児童公園西門










7高原児童公園西門










高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。
13高原児童公園西門銘板










全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。
14高原児童公園西門プレート










西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。
15高原児童公園噴水










竣工記念碑の噴水。
16高原児童公園噴水










昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。
18高原児童公園噴水










裏側。
19高原児童公園噴水










裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。
17高原児童公園噴水










噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。
20高原児童公園日時計










日時計。これも記念碑を兼ねています。
22高原児童公園日時計










日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。
23高原児童公園日時計










日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。
25高原児童公園地蔵尊










公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。

24高原児童公園説明版










京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。

25高原児童公園










竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。


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2023年12月15日

旧京都府警察本部庁舎(現・文化庁京都庁舎)の塔屋屋上に存在した防空監視哨に関して

京都府警察本部1










現在、文化庁京都庁舎となっている旧京都府警察本部庁舎は、昭和2年に昭和天皇即位の昭和大礼を記念して建てられた歴史的建造物です。
京都府警察本部2










その庁舎に低めの塔屋があるのですが、そこにかつて防空監視哨があったことを知ったのは、「京都空襲 8888フライト」という本の記述でした。
そこには鉄網コンクリートで造られた防空監視哨についての記述があり、民防空の防空隊本部としての中心的役割を担っていたとありました。防空監視哨の具体的な造りの記述に興味を持ち、原資料をあたったところ、京都府の歴史資料を数多く所蔵する北区の歴彩館に所蔵されていることが分かり、閲覧の申し込みをしました。
府庁内防空施設工事綴 (1)










歴彩館所蔵、国指定重要文化財・京都府行政文書「昭和十三年度 府廰内防空施設工事綴」。
この簿冊の中に仕様書や図面が収められていました。
府庁内防空施設工事綴 (24)










昭和13年に造られた防空監視哨。その請負業者は京都市中京区西ノ京にあった中野組。簿冊は45ページに渡り仕様書などが綴られています。
府庁内防空施設工事綴(46)










そしてこれが防空監視哨の設計図面。この図面をトレースして再作図して見ました。
府庁内防空施設工事綴(66)










また、同封されていた手描きの設計図面も参考にしました。
京都府警察本部屋上防空監視哨トレース図









こちらがトレースした図面。国指定重要文化財の資料のため、資料の保護からスキャニングは不可で、写真の直撮りしかできなかった上に、折り目で歪みが大きいため、無理矢理補正しながらトレースしました。なので、縮尺に幾分かの差異があると思います。
ここから外観・断面図・配置図に分けて見ていきます。
外観






外観。平面形は亀甲型をしており、各面にガラス窓の監視窓があり、上部には嵌め殺しの天窓もあり、四方・上空を監視できるようになっていました。入口のドアはペンキ塗りの檜材の防音扉。
断面図










断面図。防空監視哨は鉄網コンクリート造、屋根は防腐剤入りのモルタル塗り、床板は松材で、腰板は檜材。内部の壁と天井はブラスター塗り、内部にはオーク材の座面がレザー仕上げの高さが調節可能な回転椅子が2つと電話。監視員は回転椅子に座り四方を監視し、異常を発見したら階下の防空課直通の電話で即座に知らせることになっていました。
配置図









防空監視哨は庁舎の塔屋の上にあり、そこへは松材で造られたペンキ塗りの木製階段で上がることになっていました。塔屋の上にはサイレンもあり、空襲警報のサイレンを鳴らしていたものと思われます。
3.東側砲台










ちなみに、京都市役所本庁舎の屋上には今も高射機関砲の砲座が残されていますが、上へ上る階段や梯子が見当たらないため、もしかしたら、京都府警察本部庁舎の防空監視哨のように木製の階段が取り付けられていたのかもしれません。

※関連記事 
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)

この防空監視哨の設計図を見る限り、コンクリートを使った防御性のある堅牢な建物だったというだけでなく、美観や内部の過ごしやすさも考慮した手の込んだ造りとなっています。
塔屋










現在の航空写真を見ると、今でも塔屋のう上には亀甲型の防空監視哨の基礎や、サイレンの台座が残されていますが、防空監視哨の位置が図面と違うため、変更があったのかもしれません。
防空監視隊配置図ブログ用










戦前の防空には、高射砲や基地航空隊の迎撃機による兵器を用いた軍が管轄する「軍防空」と、各防空監視哨や特設見張所にて監視を行い、敵機の来襲や空襲を知らせる警察が主体の「民防空」がありました。警察や軍の指導の下、民間人による防空監視隊が組織され、各地域の防空監視哨で任務にあたりました。上の図はフォロワーさんからの提供の京都府内の防空監視隊配置図で、いくつかのエリアに分けられ、そのエリア内に防空監視哨とそれをまとめる監視隊本部があり、本部は警察署に置かれていました。京都府警察本部庁舎に置かれた京都監視隊本部は京都市内だけでなく、京都府全体の防空監視任務も束ねる中枢だったのではと思います。その京都府警察本部庁舎に造られた防空監視哨はそれに見合った立派なものにする必要があったのかもしれません。(郊外の防空監視哨は山の上に丸太を組んだ粗末な櫓のようなものが多かった)

今でも日本全国に何か所かコンクリート製の防空監視哨が残されていますが、この京都府警察本部庁舎屋上にあった防空監視哨の設計図は、当時の防空監視哨の構造を知ることができる貴重な資料と考えられます。


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2023年12月10日

比永城児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

京都市南区西九条比永城町ある比永城児童公園を探索しました。比永城児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産

123比永城公園北側東門 南区西九条比永城 昭和13年5月24日 










比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。
124比永城公園北側東門










公園側から。
125比永城公園北側西門










比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。
126比永城公園北側西門










公園側から。
127比永城公園西門










比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。
128比永城公園西門










公園側から。塀は失われています。
132比永城公園バーゴラ










バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。
133比永城公園バーゴラベンチ










別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。
134比永城公園砂場










砂場。隅丸タイプ。
129比永城公園水飲み場










比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。
130比永城公園水飲み場










反対側から。
131比永城公園水飲み場アップ










水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。
135比永城公園地蔵尊










公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。


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2023年12月03日

橘児童公園に残る都市公園の近代化遺産(ラジオ塔)

京都市上京区智恵光院通笹屋町下る橘町にある橘児童公園を探索しました。橘児童公園は昭和14年7月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

橘公園ラジオ塔2










橘児童公園にはかつて門・塀だけでなく、特徴的な水飲み場やプール跡など数多くの開園当初の遺構が残されていましたが、近年の大改修によりほとんどが撤去され、現在は地蔵尊とこのラジオ塔しか残されていません。橘児童公園のラジオ塔は燈籠型をしており、公園の西端にあります。
橘公園ラジオ塔1










ラジオ塔の下部には大きな開口部があり、ここに機器が収められ燈籠の火袋にあたる部分にスピーカーがあったのでしょう。
橘公園ラジオ塔4










ラジオ塔には「橘公園愛護会」の大理石の銘板があります。ラジオ塔は多くが寄付によって建てられています。
橘公園ラジオ塔5










内部はこんな感じ。橘児童公園の大改修の際、このラジオ塔だけが残されたのは、徐々にラジオ塔の認知度が進み、京都市も近代化遺産としての価値を認め、補修まで行っているのは素晴らしいですが、それなら、高原児童公園のように開園当初の門・塀・水飲み場・プール跡も生かした改修をしてほしかったです。プール跡は保存の要望もあったらしいですし・・・


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紫野宮西児童公園に残る近代化遺産

京都市北区紫野宮西町ある紫野宮西児童公園を探索しました。紫野宮西児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。紫野宮西児童公園は、昭和期に開園した京都市の児童公園でも初期の開園に位置し、紫野柳公園・下鴨ガ前公園・あおい公園と同じ開園日です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

紫野宮西児童公園は改修により当初の門や塀は失われ、他の施設もほとんどが当初の物ではありませんが、その中で2つのみ当初のものが残されています。
101紫野宮西公園ベンチ










紫野宮西児童公園のベンチ。
100紫野宮西公園ベンチ 昭和10年5月14日 北区紫野宮西町










アーチ型をしたこのベンチは中々目を引く存在で、開園当時も公園のシンボル的な存在だったと思われます。
102紫野宮西公園ベンチ










背面。別サイトでは国旗掲揚台と書いてましたが、支柱を支える場所などが無いため、ベンチでいいでしょう。これだけ残された理由は不明ですが、補修して今後も大切にしてもらいたいものです。
103紫野宮西公園地蔵堂










そして2つ目はおなじみ地蔵尊。地蔵盆が盛んな京都市で、公園内に地蔵尊を設置することで、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。

紫野宮西児童公園は改修により開園当初の遺構がほとんど失われましたが、唯一残されたベンチと地蔵尊が当時の雰囲気を今に伝えています。


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一條町児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市北区大将軍南一条町ある一條町児童公園を探索しました。一條町児童公園は昭和15年11月5日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

54一條町児童公園南門 北区大将軍南一条町 昭和15年11月5日










一條町児童公園南門。
55一條町児童公園南門










階段に手すり状にとりつく形で、門柱部分は丸く仕上げられています。
56一條町児童公園南門










反対側も同じ形でシンメトリーとなっています。
57一條町児童公園南門










南門を公園内から。
58一條町児童公園西門










一條町児童公園西門。南門とデザインは同じですが、こちらは高低差が無いため階段にはなっていません。
59一條町児童公園西門










60一條町児童公園西門










門柱も左右対称のデザイン。
61一條町児童公園西門










西門を公園内から。
62一條町児童公園北門










一條町児童公園北門。こちらも南門・西門と門柱は同じデザインですが、北門には手前にもう一つ門柱があり、右側に公園名の銘板があります。そのため、公園の正門はこの北門だったと思われます。
63一條町児童公園北門










北門を公園内から。
64一條町児童公園北門銘板










一條町児童公園北門の銘板。当時のものかどうかは不明ですが、もしかしたら当初のものかも。
塀はどうやら作り替えられているようです。
65一條町児童公園砂場










一條町児童公園砂場。角は丸く仕上げられ、内部に段があります。
66一條町児童公園砂場










縁は蒲鉾型に仕上げられており古いかも。
67一條町児童公園ベンチ










よく見る一般的な形のベンチ。開園当時のものかは不明。
68一條町児童公園地蔵尊










公園の東端に地蔵尊がありました。京都市内の児童公園内では地蔵尊をよく見かけます。
京都では盛んな地蔵盆があるためか、公園内に地蔵尊を置くことにより、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。

一條町児童公園は遊具等は開園当時と思われるものは砂場が可能性ありという程度ですが、門は開園当時のものが残されており、当初の姿を伺えることができます。


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鹿垣児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市中京区西ノ京西鹿垣町ある鹿垣児童公園を探索しました。鹿垣児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

※今回の鹿垣児童公園ですが、最初に訪問した時は地域の方々が公園の掃除をされており、写りこみなどで一部撮影ができない箇所があったため、後日撮影しなおしたものも含んでます。
39鹿垣児童公園南門 昭和13年5月24日 中京区西ノ京鹿垣 










鹿垣児童公園南門。
40鹿垣児童公園南門










門柱は丸くした造りで、花壇も備えています。
41鹿垣児童公園南門










反対側にも花壇が付けられ、左右対称となっています。

42鹿垣児童公園南門銘板










鹿垣児童公園南門の銘板。右書きで「児」の字が旧字体なので、開園当初のものでしょう。
43鹿垣児童公園北門










鹿垣児童公園北門。鹿垣児童公園は東側と西側が住宅地で塞がれているため、入り口は北側と南側の1つずつ。
44鹿垣児童公園北塀










北門は南門と違い門柱も塀のような薄さで重厚感はなく、花壇も設置されていない簡素な感じ。
45鹿垣児童公園北塀










鹿垣児童公園の大きな特徴といえるのがこの透かし塀。北塀も南塀も同じデザインとなっており、京都市内の児童公園ではここだけです。京都市内の戦前の児童公園の門柱や塀・柵は公園ごとにデザインに違いがあり中々興味深いものがあります。
46鹿垣児童公園北門銘板










鹿垣児童公園北門の銘板。こちらも開園当初のものと思われます。
北門と南門では、南門の方が意匠的であり、丸太町通に近いことから、南門が鹿垣児童公園の正門的な感じだったのかもしれません。
47鹿垣児童公園地蔵尊










園内には南門側に地蔵尊があります。京都市内の児童公園ではよく見かけます。恐らく京都は地蔵盆が盛んで、地域のコミュニティの場として地蔵盆の中心的場所の役目を果たす目的があったのかもしれません。
48鹿垣児童公園砂場










鹿垣児童公園砂場。北門側にあります。
49鹿垣児童公園砂場










ここの砂場は角隅。しかし縁の蒲鉾型の仕上げや、段を設けていることから、開園当時の可能性があります。
50鹿垣児童公園アーチ脚ベンチ










アーチ脚のベンチ。外側にも持ち送りを作っています。これは開園当時のものでしょう。
これと同じものが西町児童公園にも2つ残されています。
52鹿垣児童公園ベンチ










アーチ脚以外のベンチはシンプルな作りのベンチです。
51鹿垣児童公園ベンチ










別のベンチ。脚の埋まり具合のためか、高さに差があります。
53鹿垣児童公園ベンチ










別のベンチ。これら3つのベンチはコンクリート洗い出しの技法がされており、割と手が込んでます。
※コンクリート洗い出しとは、コンクリートを打設したあと乾く前に表面を水で洗い流し、セメントに混ぜている骨材の砂利の表面を露出される技法。通常のコンクリートの表面より見栄えが良く変化に富むので、建物の腰回りの壁などによく使われる。

鹿垣児童公園はトイレや遊具に古さがあるためいずれ改修の手が入ると思われますが、特徴的な門と塀、ベンチは是非残して活用してほしいです。


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北町児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市上京区天神通上ノ下立売上る北町にある北町児童公園を探索しました。北町児童公園は昭和15年10月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

32北町児童公園西側北門 昭和15年10月10日 上京区北町










北町児童公園西側北門。北町児童公園は北側・東側・南側を住宅地に囲まれているため、西側のみ2か所入口が設けられています。
33北町児童公園西側北門銘板










北町児童公園西側北門銘板。当初のものかは分かりません。
34北町児童公園西側南門










北町児童公園西側南門。北町児童公園の門柱はシンプルな角柱です。
35北町児童公園西塀










西側の柵。
36北町児童公園砂場










北町児童公園砂場。北町児童公園の砂場は角丸。京都市内の児童公園の砂場には隅が角型と角丸型があります。確証はないですが、角丸の方が古いのかなと。
37北町児童公園ベンチ










ベンチ。よく見る形です。
38北町児童公園ベンチ










もう一つのベンチ。古いですが、戦前か戦後かは分かりません。

北町児童公園は当初の遺構は少ないものの、開園当時の面影を残しています。近年、新たなトイレが造られたり、最近よく見る健康器具的なベンチなどが設置され、開園当初の門柱や柵を残しつつ、より使いやすいように改修された良い事例になっています。


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2023年11月26日

西町児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市上京区一条通紙屋川下る西町にある西町児童公園を探索しました。西町児童公園は昭和16年6月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

20西町児童公園北門 昭和16年6月10日 上京区西町










西町児童公園北門。
21西町児童公園北門










西町児童公園北門公園内から。
22西町児童公園










北門の門柱には、半球の装飾があります。入口のカーブが絶妙。
23西町児童公園北門銘板










北門の銘板。旧字体が使われており、開園当時のものと思われます。
24西町児童公園西門










西町児童公園西門。北門と違い装飾はシンプルです。
25西町児童公園西塀










西門と塀。
26西町児童公園東門










西町児童公園東門。西門と同じデザイン。北門には半円級の装飾と銘板があり、北門が公園の正門だったことが分かります。
27西町児童公園北東角










西町児童公園北東角の塀。隅切りがされています。土地区画の関係でこうなった可能性はありますが、もしかすると鬼門除けの意識もあったのかもしれません。
28西町児童公園ベンチ










公園内には開園当時と思われるベンチが残されています。脚のアーチが古さを感じます。
29西町児童公園ベンチ










別のベンチ。同じ形です。
30西町児童公園砂場










砂場。不定形の形をしており、角は丸く仕上げられています。
31西町児童公園水飲み場跡か










公園の東端にあったコンクリート構造物。コの字のコンクリートの縁と真ん中の設置跡から、手洗い場か水飲み場と思われます。

西町児童公園は開園当時の遺構が豊富に残されています。しかし、充分に管理されているとはあまり言えない状況。いずれ改修でこれらの遺構が失われる恐れがあります。


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円町児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市中京区西ノ京北円町にある円町児童公園を探索しました。円町児童公園は昭和15年10月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

14円町児童公園西側北門 昭和15年10月10日 中京区西ノ京北円町










円町児童公園西側北門。
15円町児童公園西側北門銘板










西側北門の門柱には円町児童公園の銘板があります。旧字体で書かれているため、開園当時のものと思われます。
16円町児童公園西側南門










円町児童公園西側南門。西側北門と全く同じデザインです。
こちらに銘板はありません。
17円町児童公園西塀










円町児童公園西側ライン。公園の敷地が佐井通りより高いため、石垣の擁壁の上に塀を設けています。
18円町児童公園東塀










対して東側は公園との敷地境程度の低い塀があります。
19円町児童公園東側北門










円町児童公園東側北門。塀や門柱は西側の2つの門と同じシンプルなデザインです。
ちなみに南側にも公園入口が設けられており、かつては門があったと思われますが、現在は失われています。
IMG_5449










円町児童公園は新しくトイレが作られた際に一緒に改修されたのか、公園内には開園当時のものと思われるものはありませんでした。しかし、西側の2つの門と東側の門と東西の塀、西側北門の銘板は開園当時のものと思われ、戦前の京都市の児童公園の様子を伝える貴重な遺構となっています。


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2023年11月18日

西ノ京児童公園に残る都市公園の近代化遺産

京都市中京区西ノ京笠殿町にある西ノ京児童公園を探索しました。
西ノ京児童公園は昭和14年8月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。

※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

3西ノ京児童公園北門










西ノ京児童公園西門。
4西ノ京児童公園北門










西門を公園側から。京都市内の戦前の児童公園はほぼ門柱と塀はコンクリート製ですが、各公園によって意匠が異なりますし、同じ公園でも門ごとにデザインが異なる場合もあります。
西門は開口部側の角をアールにしただけのシンプルなもの。
1西ノ京児童公園西門 昭和14年8月1日 中京区西ノ京笠殿町










北側西門。西門と同じデザイン。
2西ノ京児童公園西門










北側西門を公園側から。
5西ノ京児童公園北門










北側東門。西ノ京児童公園の3つの門は全て同じデザイン。
6西ノ京児童公園北門










北側東門を公園側から。
7西ノ京児童公園北西隅塀










西ノ京児童公園の北西角の塀。隅が切られています。
8西ノ京児童公園西塀










北側の塀。四角を基調としたシンプルなデザイン。
西ノ京児童公園内には数は少ないですが、開園当時の遺構がいくつか残されています。
9西ノ京児童公園ベンチ










コンクリート製のベンチ。角を丸く仕上げています。古いタイプのもの。
10西ノ京児童公園ベンチ










別のベンチ。同じデザイン。
11西ノ京児童公園国旗掲揚台










公園の東端にあるコンクリート構造物。
12西ノ京児童公園国旗掲揚台










裏側を見ると国旗掲揚台だとわかります。戦前の公園には大抵国旗掲揚台がありました。
紀元二千六百年記念で設置されたものも多く見かけます。
13西ノ京児童公園地蔵堂










京都市内の児童公園・都市公園ではお地蔵さんの祠をよく見かけます。京都では一般的な地蔵盆。地区の地蔵盆の際のお祭りの場として住民が集う場として最適だったのでしょう。

西ノ京児童公園は比較的開園当初の姿を留めていますが、外周の門や塀など痛みも目立ち、開放的でより地域住民に利用しやすい公園整備を目指す京都市は近いうちに改修を行い、古いコンクリートの塀や門などは撤去される可能性もあります。

besan2005 at 16:33|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前の都市公園

2023年11月17日

紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産。

昭和10年代、京都市では分譲地開発としての土地区画整理事業や住宅地の環境改良等で市内各地に児童公園が造られました。それらはこれまでの景勝地としての風致公園ではなく、都会の中の都市公園として作られました。児童公園の特徴として、仝園の区画をコンクリートの塀で囲み、門を設ける。⇒袈颪篋従譴覆匹了匐,遊べる施設を設ける。ベンチやラジオ塔などを設置して、地域住民向けの憩いの場所とする。などの特徴があります。それらの施設は当時の流行の建築デザインを取り入れたものが多く、近代化遺産として貴重なものとなっており、12ヶ所は選奨土木遺産にも認定されています。
昭和10年11月1日に都市公園として再整備され開園した船岡山公園は2018年に探索をしましたが、
船岡山公園に残る近代化遺産

調べていくと京都市内の各地に戦前に開設された児童公園が現役の公園として60ヶ所も残り、うち、42ヶ所が何らかの開設当時の施設が残されていることが分かりました。しかし、現在も地区の現役の公園であるため改修が進んでおり、数年前まで多くの開設当初の遺構が残されていた公園も最近改修で全て撤去された公園もいくつかありました。そこで、今からでも開設当初の遺構が残されている京都市内の児童公園を探索し、その記録を残していこうと考えました。

最初に紹介するのは、上京区紫野上柳町にある紫野柳公園。
104紫野柳公園南側西門 昭和10年5月14日 北区紫野上柳町










紫野柳公園南側西門。紫野柳公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、京都市内の児童公園でも初期の開設になります。紫野柳公園のある紫野地区の土地区画整理事業に合わせて造られた公園で、現在も開園当初の遺構が多く残されています。
105紫野柳公園南側東門










南側東門。
106紫野柳公園南側東門










南側東門を公園側から。門柱は意匠的なデザインです。
107紫野柳公園西門










西門。こちらは南側の2つの門柱とは違うデザインの門柱です。
108紫野柳公園南塀










南塀。
さて、紫野柳公園には有名な遺構があります。
109紫野柳公園ラジオ塔










それが公園東端にあるラジオ塔です。
110紫野柳公園ラジオ塔










111紫野柳公園ラジオ塔










京都市内には現存するラジオ塔が7か所ありますが、この紫野柳公園のラジオ塔が他と違うのは、付属のステージ・塀・ベンチもそのまま残されていることです。
IMG_5500










ベンチの背もたれと兼ねている塀には円形の意匠が。角の柱には横線が入り、いわゆるドイツ表現主義的な意匠が見られるとのこと。
112紫野柳公園ラジオ塔










ラジオ塔のアップ。ラジオ塔は様々なデザインのものが造られ、京都では燈籠型が多めですが、紫野柳公園のラジオ塔は近代的な形です。
113紫野柳公園ラジオ塔
 









スピーカーのあった場所には装飾的な金具が。その上の丸い穴には時計がはまっていたそうです。

114紫野柳公園ラジオ塔













裏側には受信機を収めていた穴が。
115紫野柳公園ラジオ塔内部










内部の様子。なんか赤い文字が書かれていますが、当時の物でしょうか・・・?
116紫野柳公園










紫野柳公園には他にも当時の設備が残されています。
117紫野柳公園藤棚テーブル










バーゴラのテーブル。戦前の児童公園には藤棚のバーゴラがよく設置されていました。
118紫野柳公園長ベンチ










コンクリート製の長いベンチ。背後の半円と同じく当初の物かと。

120紫野柳公園コンクリート製遊具










コンクリート製の遊具。
119紫野柳公園コンクリート製遊具










他の戦前の児童公園にも同じものが残されているようです。それは今後の探索にて。

121紫野柳公園土地区画整理記念碑










土地区画整理事業で造られた紫野柳公園には、それを記念した石碑があります。「区画整理之碑」の下には区画整理事業についての碑文が刻まれています。
122紫野柳公園記念碑










その隣にある記念碑。読みにくいですが、これも土地区画整理事業に関する記念碑。

紫野柳公園は選奨土木遺産に認定された戦前に開園した12か所の児童公園のうち、最も開園当初の姿を留めている都市公園として近代化遺産として貴重な公園となっています。

※土木学会認定選奨土木遺産の京都市内児童公園(年代順)

紫野宮西児童公園(北区 昭和10年5月14日 ベンチ・地蔵尊)

〇紫野柳児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・ラジオ塔・土地区画整理記念碑など)


〇下鴨森ガ前児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・花壇・国旗掲揚台など)

〇あおい(下鴨膳部)児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・国旗掲揚台・土地区画整理記念碑など)


高原児童公園(北区 昭和13年5月24日 門柱・竣工記念水飲み場・日時計など)


〇地蔵本児童公園(北区 昭和13年5月24日 門柱・国旗掲揚台座など)

比永城児童公園(南区 昭和13年5月24日 門柱・水飲み場・バーゴラ・地蔵尊など)


橘児童公園(上京区 昭和14年7月1日 ラジオ塔・地蔵尊)


〇小松原児童公園(北区 昭和14年7月20日 ラジオ塔・国旗掲揚台・プール跡など)

西ノ京児童公園(中京区 昭和14年8月1日 門柱・ベンチ・国旗掲揚台など)

〇萩児童公園(左京区 昭和15年12月1日 門柱・ラジオ塔・国旗掲揚台・土地区画整理記念碑など)


〇六條院児童公園(下京区 昭和17年8月15日 門柱・国旗掲揚台・水飲み場・噴水跡・プール跡など)




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2023年10月17日

伊根町・新井崎防備衛所 遺構探索レポ日記

今から5年前の2018年、京都府伊根町の新井崎にかつて陸軍の砲台があったことを知り、探索を行いました。その際に新井集会所の雑木林の中に明らかに旧軍時代のものと思われるコンクリートの遺構を確認し、これが新井崎砲台の遺構だと思っていたのですが、伊根町史に載っている新井崎砲台の見取り図と全然違い悩んでおりました。
2020年、本来の新井崎砲台の遺構が2018年に確認した遺構の北方約500mの位置にあることが判明し、この遺構は新井崎砲台の遺構ではないことが確定されましたが、ではこの遺構は何なのか、特定できる資料も見つからずずっと謎のままでした。

※2020年の新井崎砲台の探索レポ日記はこちら。
伊根町・新井崎砲台跡探索レポ日記

2023年、京都市の歴彩館が所蔵する京都府行政文書の「軍需施設引渡目録」内に新井崎防備衛所の図面があることを発見。
新井崎防備衛所図面










※歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録」より、新井崎防備衛所施設図面。
もしやと思い、2018年に探索した際の記録と照らし合わせると施設図と遺構の位置がほぼ一致。これにより、これまで詳細不明だった新井集会所近くの遺構が新井崎防備衛所の遺構だと判明しました。
そのため、今回改めて新井崎防備衛所の遺構という認識の下、資料の施設図面を参考に再探索をしてきました。

新井崎防備衛所遺構位置図ブログ用










※新井崎防備衛所遺構位置図。
改めて作図。史料の施設図と現地での探索結果を基にトレースしてみましたが、近年新たに道路を作ったりして地形が変わったりしており、位置と縮尺は完全に合わせられていません。あくまで概略図という認識でお願いします。

というわけで、遺構位置図を基に紹介していきます。

8人力発電所跡










ー力発電所跡。整地された上に造られています。恐らく探照灯への電力供給や衛所・兵舎への電力供給のためでしょうか。施設図では長方形に描かれていますが、実際は張り出しがあったりします。発電機の台座があると思われますが、埋もれている可能性があります。自力発電は外部からの電力供給ではなく、自力で発電すること。隣に油庫があることから、恐らくディーゼルによる発電機で発電していたと思われます。旧陸海軍のこういった施設は大抵自力発電で、今でも発電所の建物跡や発電機を収めていたコンクリート壕などが残されています。
7人力発電所跡










自力発電所跡の北隅部。
10人力発電所跡碍子










自力発電所跡には碍子が残されていました。

5油庫跡










¬庫跡。コンクリートの壁が残されています。
6油庫跡(西から)










壁には南側と西側に開口部があります。
南側が正面の出入口。西側が西隣の自力発電所跡との連絡用通路だったのでしょうか。
9人力発電所跡から油庫を望む










自力発電所跡から油庫方面を望む。自力発電所跡は整地された油庫よりも高い位置に造られています。

4探照灯跡










C犠氾跡。施設図では探照灯と思われる円が描かれていますが、実際は四角い基礎が残り、角から斜めに基礎が伸びてます。この上に探照灯があったのでしょうか。
IMG_0076










ちなみに、新井埼神社の先の岬に経文岩という岩の洞窟があり、そこに古いコンクリートが残されています。地元ではここに探照灯が格納されていたと伝えられれ、説明版にもそう書かれていますが、施設図には探照灯は油庫の隣に描かれており、経文岩自体は書かれてはいるものの、施設としての記載はありません。もしかしたらここにも探照灯を設置しようとして中止したのが伝わったのでしょうか。

1衛所東側基礎










け匳蠕彭貘Υ霑叩新井集会所の南、道路に面した小屋の裏に古いコンクリートの基礎の一部が残されています。位置的に衛所跡と思われ、施設図に描かれた衛所の形と照らし合わせると、東側の張り出した部分の基礎と思われます。

2衛所西側基礎










3衛所西側基礎










ケ匳蠕彑沼Υ霑叩L渦箸領側と軒下にコンクリートの基礎が残されれています。施設図の衛所の形と照らし合わせると、西側の基礎だと思われます。
その他の基礎部分は撤去されたものと思われますが、東西の端の基礎が残されていますので、衛所の規模は復元できます。

11衛所跡付近










新井崎神社へ降りる道から衛所があった場所を望む。現在民家のある場所のやや東側に衛所がありました。民家の位置から新井崎神社へ下る道は施設図に書かれているので、当時からのもののようです。

12兵舎跡付近










κ室棒弯篦蠱蓮施設図と衛所跡の遺構から推測すると、新井集会所とグラウンドの一部に兵舎があったようです。しかし、造成のためか面影は全くありません。
Г寮橘腓魯哀薀Ε鵐匹琉銘屬砲△辰燭隼廚錣譴泙垢、今となっては全く分かりません。

これにて新井崎防備衛所の遺構探索となります。

新井崎砲台遺構配置図






新井崎には海軍の防備衛所と陸軍の新井崎砲台があり、新井崎砲台の方は上の遺構位置図と先に紹介した新井崎砲台遺構探索レポ日記の通り、砲具庫や油庫、便所といった建物の他に観測所跡や境界杭など多くの遺構が残されています。海軍の防備衛所跡と陸軍の新井崎砲台跡を合わせて見学できる旧軍遺構が集中して存在しているお勧めのスポットです。


besan2005 at 19:20|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2023年09月22日

舞鶴要塞由良高射砲陣地予定地について。

京都市にある歴彩館にて京都府内の旧軍施設の資料を漁っておりましたら、今まで知らなかった興味深い資料が出てきました。

陸軍由良高射砲陣地2










歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録3−2 昭和21年〜24年度」
旧陸海軍の施設だった敷地や建物は終戦後に進駐軍に接収されましたが、その後、学校や民間へ引き渡されました。その際に進駐軍に現状と今後の使用方法を申請し、許可が下りれば申請した使用方法で払い下げが許可されました。
その軍需施設引渡目録の中に「旧舞鶴要塞由良高射砲予定地」という題の資料を見つけました。
どうやら現在の宮津市由良地区の由良海岸に高射砲陣地を構築する計画があったようですが、未完で終戦を迎えたようです。それで、その高射砲陣地予定地は村の公園地として利用すると書いてあります。

陸軍由良高射砲陣地









その由良高射砲予定地の図面がありました。赤で囲んだ場所が由良高射砲予定地の敷地となります。
真ん中に海岸へ降りる階段があります。接岸できるようにしたのでしょうか。
この場所、見覚えがあり、Google Mapの航空写真で確認してみました。

現在の由良






現在の汐汲浜公園の位置になります。敷地の形が図面と同じですね。

昭和22年








国土地理院HP公開の昭和22年撮影の航空写真。今と同じ形の敷地が写っています。

現在の汐汲浜公園は海岸を造成して造られていることは間違いない公園です。今と同じ形の敷地が引渡目録の地図に描かれており、それが舞鶴要塞の由良高射砲予定地とされていることから、この汐汲浜公園は元々は高射砲陣地として造成はしたものの、結局高射砲は設置されず終戦を迎えた可能性が高いです。高射砲陣地が計画される前から造成されていた可能性も考えられますが、どちららにせよ、陸軍がここを高射砲陣地にしようとした旧軍遺構と言って良いのではと考えますし、今では観光客や海水浴客でにぎわう由良海岸も戦時中は軍事拠点だったということになります。

※2023年10月7日、現地を確認してきました。
20由良海岸高射砲陣地予定地全景










由良高射砲陣地予定地全景。現在は汐汲浜公園となっています。敷地は結構広く陣地構築のスペースとしては十分かと思います。
21由良海岸高射砲陣地予定地擁壁










汐汲浜公園は造成されて作られており、海岸側の岸壁は波返しになっています。
22由良海岸高射砲陣地予定地中央階段










汐汲浜公園の中央には階段が作られ海岸に降りれるようになっています。この階段は図面にも書かれており、当初からあったものです。
23由良海岸高射砲陣地予定地中央階段擁壁










階段の擁壁部分。コンクリートは型板の残るもので、骨材や質を見ると戦前の古いものです。その上に新しく補修のコンクリートが重ね塗りされています。
24由良海岸高射砲陣地予定地中央階段下










階段下は岩場であり、この日は波が荒く降りられませんでしたが、波が穏やかな日は海岸に降りて遊べる感じになっています。恐らくですが、戦前の昭和期に公園整備として大規模な造成が行われ、戦時中、陸軍(舞鶴要塞)が高射砲陣地とするために土地を接収。高射砲陣地予定地としたが実現せず終戦を迎えた感じでしょうか。史料の申請書では今後は公園地としての利用となっているので、本来の用途に戻したのかもしれません。

besan2005 at 20:29|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2023年09月15日

京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)

※今回、京都市役所庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付ける資料を入手しました。記事本文中にて紹介しています。

1.外観全体










武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

2.資料













所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

6.地上から










河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

7.地上から










アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

16.屋上全体










京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

3.東側砲台










京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
4.東側砲台障壁










拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
11.平面図











京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
13.西側階段室内部










東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。
8.西側砲台










続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
9.西側砲台










西側階段室塔屋。
10.西側砲座上空













京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
12.改修前






こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
京都市役所001








所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
13.西側階段室内部










西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。

※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。
1.内訳書










工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。
1.工事竣成並清算報告










工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。

2.工事施工伺2










工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。
3.工事設計書1








工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。
2.工事設計書2









工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。

14.塔屋













京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。
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「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。

15.市役所から御所方面










京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
京都市内の高射砲陣地位置図










現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。

京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
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所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。

※2023年5月27日追記
朝日新聞 京都市役所砲台記事ブログ用







朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。
昭和21年航空写真









フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。
昭和28年撮影の京都市役所ブログ用







『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。
砲台




砲座の拡大。現在は失われている西側の砲座のコンクリート障壁が写されています。

今回、京都市の公文書に裏付けとなる資料を入手することができました。
京都市内に現存する貴重な防空砲台、しかも市役所本庁舎に現存ということも踏まえて、市役所側も何が説明版等で周知してもらいたいものですが。



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2023年09月12日

第十六師団司令部 副官官舎の現存確認について

16師団










※旧陸軍第十六師団司令部庁舎。

京都市伏見区深草にかつて陸軍第十六師団司令部がありました。戦後敷地は聖母女学院となりますが、
現在も明治41年完成の師団司令部庁舎や京都偕行社などの建物が現存しています。
京都偕行社










※旧京都偕行社。現在は愛徳修道会。

旧第十六師団司令部関連の現存遺構は良く知られており、様々な文献やサイトで見ることができます
(というわけで、第十六師団の詳細な解説は省略します)。
ですので、まだ知られていない遺構はもう存在しないと思われていたのですが…
今月、とある依頼を受け深草地域の旧軍遺構と戦争遺跡に関して改めて調べていたのですが、何気に第十六師団司令部のあった聖母女学院の一帯の航空写真を見ていると、あることに気づきました。
聖母女学院








※GoogleMapより引用。

赤枠で囲った建物。一見何の変哲もない民家に見えますがどうも引っかかる。
実はこの建物の北側にかつて第十六師団長官舎の建物があったのですが、
師団長官舎1









師団長官舎2









※在りし日の第十六師団長官舎(1995年頃。管理人撮影 )

保存運動が起きたものの、約20年くらい前に取り壊され、跡地は住宅地となりました。
しかし、この建物は新たに建てられた住宅とは規模も形も違い、また敷地の広さや傾きも違う。
戦後に建てられたものかもしれないが、どうも引っかかる。それにもし戦前からの建物であるなら、軍用地の中の建物となるため、第十六師団関連の建物の可能性があるのでは。
というわけで、近代京都オーバーレイマップの戦前の都市計画図および、国土地理院公開の昭和21年の航空写真と現在の航空写真を見比べてみることに。
16師団副官官舎位置図









建物の規模、位置、傾き等を考慮すると、これは当時の第十六師団司令部関連の建物の可能性が高いのではという結果に。特に昭和21年の航空写真を見ると現在と同じ寄棟の屋根であることが分かります。
都市計画図に描かれている太いラインは軍用地の境界である土堤を記したもので、件の建物がかつては軍用地内にあったものだということが分かります。
師団司令部航空写真








こちらは「未来へ紡ぐ深草の記憶から」というサイトにある第十六師団司令部の航空写真(昭和10年頃。所蔵・聖母女学院)。赤枠が問題の建物。この写真でも寄棟屋根であることが分かり、戦前から屋根の形状は変わらないということが判明しました。

これらの結果をいつもお世話になっっています盡忠報國様にお伝えし、意見交換を行いました結果、師団司令部の佐官クラスの副官官舎の可能性が極めて高いという見解を頂きました。
そこで、実際に9/9の土曜日に確認をしてまいりました。
副官官舎1










副官官舎と思われる建物の外観。現在は個人宅となっており(※表札を修正)、外観は大きく変更され屋根瓦も吹き替えられています。また、かつて土堤があったと思われる場所は生垣とブロック塀になっており、面影はありません。
副官官舎2










しかし、聖母女学院の敷地側となる奥側は当時のままの下見板張りの外観が保たれていました。奥には出窓らしきものも見えます。次に副官官舎の入り口、玄関の位置についてですが、現在は建物の東側に門がありますが、昭和10年代の航空写真や、昭和21年の航空写真を見ると、今より北側に門があり、副官官舎の北側の面に向かって道が伸びてます。
副官官舎1










敷地の入り口となる門は現在は東になっていますが、門から建物への導線は北側を通ってます。
玄関か










また、よく見ると今でも玄関入り口と思われる三角の小屋根が確認できます。
第二師団副官官舎










こちらは第二師団の副官官舎の平面図。
「旧陸軍省における官舎建築の供給制度と平面構成について」より引用。
この第二師団の副官官舎も方角は違いますが、建物の長辺側に玄関を設け、玄関を入って左側に浴室や台所、向かって右側に居間と客間があります。居間には出窓があり、先ほど上げた外観の写真と一致します。官舎はほぼ画一化された設計をしており、この第十六師団の副官官舎も第二師団副官官舎とほぼ同じ平面プランと間取りをしていたものと思われます。
平屋の官舎ですが、客間は床の間を備えた書院造となっており、格式を持っています。

盡忠報國様の見解だと、佐官級の丙号官舎の可能性が高いとのことでした。
奥に残る当時の外壁や建物の平面プラン、屋根の形状から躯体も含めて当時の状態で残されているものと思われます。
※本当は奥側へ回り込んで確認したかったんですが、聖母女学院の敷地となっているため不可能でした。ただ、写真は撮ってませんが、北側に立ち並ぶ住宅の隙間から少し確認することはできました。
第16師団副官官舎新築工事の件1









※「第16師団副官々舎新築工事の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031382800、永存書類乙輯第2類 第3冊 明治44年(防衛省防衛研究所)

アジア歴史資料センターに第十六師団の副官官舎新築に関する資料がありました。書かれている仕様書や図面が公開されていないのは残念ですが、新築工事の文書を作成した時期から見て、副官官舎が完成したのは明治45年頃でしょうか。
また、「建築敷地は買収必要なし」と書かれているため、すでに軍用地となっている師団の敷地内に新築したことが分かります。

師団長官舎は戦後大蔵省に移管され、結局取り壊されましたが、副官官舎の方は戦後すぐかどこかの時期で民家となり一部改装はされつつも現在まで残り続けたのでしょう。

第十六師団司令部関連の遺構は有名で、多くの人に知られているため、もうこれ以上の新たな遺構の発見は無いだろうと思われていただけに、今回の副官官舎の現存の確認は大きな成果ではないかと自負しております。

※詳細な考察と見解は、盡忠報國様のブログ記事に委ねることにしますw

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2023年08月27日

西脇小学校校舎見学会レポ日記。

1.西脇小学校 西脇町西脇 昭和9年・昭和12年 内藤克雄










2023年8月26日に行われた西脇小学校の校舎の見学会に参加してきました。
西脇小学校は昭和12年に完成した木造校舎で国指定重要文化財となっています。
設計者は内藤克雄。内藤克雄は昭和戦前期に北播磨地域を中心に活躍した建築家で、生涯800件以上の作品を手掛けましした。しかし、老朽化等の建て替えにより現存している作品はごくわずかです。

※関連記事
内藤克雄の作品を訪ねて

今回訪問した西脇小学校も建て替えの話がありました。特に高度経済成長期は利便性を優先する傾向があり、また新築の補助金は鉄筋コンクリート造に限られていたそうで、全国の古い木造校舎は次々と建て替えられていきました。(私の母校の小学校も在校中は木造校舎でしたが、建て替えられています。)
しかし、西脇小学校は保存の道を選びました。しかもただ保存するだけでなく現役の小学校校舎として使用し続けることを目的とし、児童の学校生活にも支障がきたさないよう現代的な改修がされています。西脇小学校は2021年に国の重要文化財に指定。それがきっかけとなり、今まで無名だった内藤克雄が注目され始め再評価へとつながっています。
2年ほど前に西脇市の近代建築を探索した際に内藤克雄の事を知り、以来、兵庫県下の探索の際は内藤克雄の作品を意識するようになりました。

※関連記事
西脇市の近代建築探索レポ日記

2年前の西脇市の探索では西脇小学校にはどうせ見れないだろうと行かなかったのですが、
今回、見学会の機会を得られましたので参加することにしました。

2.西脇小学校










西脇小学校の校舎は一番手前の第一校舎が昭和9年、第二・第三校舎が昭和12年に完成しました。
3年の時間差がありますが、基本設計は同じです。しかし、とある出来事のために、第二・第三校舎の
一部に設計変更がされました。それは後程。
3.西脇小学校










運動場側から。この日も暑い日でした。
4.西脇小学校










第一校舎のファサード。切妻屋根と縦ラインを強調したセセッション風のスタイル。
これは内藤克雄が設計した他の学校でも見られるデザインです(現存せず)。
5.西脇小学校










玄関切妻部分の装飾。
6.西脇小学校










第一校舎全景。ファサード以外は装飾を控えたデザインです。
7.西脇小学校










玄関車寄の天井に残る座繰り。
8.西脇小学校










第一校舎内部から玄関を望む。
8.西脇小学校2










玄関から第二・第三校舎方面。西脇小学校は第一校舎の玄関から第三校舎まで渡り廊下で繋がれた一直線に突き抜ける導線となっており、その中心の通路の左右に各教室などが配置されています。
ちなみにかつては校舎と渡り廊下の間には階段がありましたが、現代に合わせてバリアフリーとなっています。
9.西脇小学校










第一校舎の廊下。私の世代には懐かしさを感じます。
ちなみに手前にトイレがありますが、元々ここにトイレは無くかつては校舎の東端の外にありました。
3.西脇小学校










この第一校舎の横に付属する建物がトイレでした。
まだ水洗ではなく汲み取りだった昔は、臭いの関係で外にトイレが作られていました。
しかし水洗トイレが普及した現在、従来のトイレの配置だと逆に不便となり、各棟の各階の教室の一部を改修してトイレにしています。
ちなみに元々トイレだったこの付属屋も綺麗に改修されて、今もトイレとして使用されています。
10.西脇小学校










反対側から。

11.西脇小学校










第一校舎の教室。一見昔ながらの教室に見えますが、天井部分に空調設備を隠すなど当時の姿を残しつつ、児童が快適に過ごせるよう工夫されています。
昔の教室には先生が立つ教壇がありましたが、現在は児童との距離が出来てしまうこと、先生が足を踏み外す危険もあることから、最近の学校では教壇は廃止されているところが多いそうです。この西脇小学校も同様で、当時の姿を伝えるために2か所の教室のみ教壇を残している以外は教壇を無くしているそうです。
12.西脇小学校










教室の窓から外を眺める。内藤克雄の作品は窓を大きく取っているものが多かったりします。
よく外を眺めていて怒られたっけなぁ。
ちなみに各教室の窓にはカーテンがつけられていますが、これは播州織で再現されたもの。
播州織は播磨地域での主力地場産業ですが、最近は衰退しており、その産業を再興する目的で織られたようです。 
13.西脇小学校










次に2階へと向かいます。階段は手すりのみ作り替えてますが、どうも仮っぽい気がします。いずれ当初の姿に復元するかもしれません。
14.西脇小学校










階段の踊り場。結構広いです。ちなみに2階部分の手すりの前にさらに金属の柵が作られていますが、これは児童が手すりを超えて飛び降りて遊ぶのを防ぐためとか。子供ってそういう無茶をしがちですしね。
15.西脇小学校










踊り場の窓が見上げる夏の空。
16.西脇小学校










第一校舎の2階廊下。
17.西脇小学校










窓から第二校舎を望む。
23.西脇小学校










まずは集会所となっている部屋。
24.西脇小学校










元は教室だったのを改修しています。かつての講堂の役割でしょうか。
18.西脇小学校










西端には記念室があります。
19.西脇小学校










記念室の内部。
20.西脇小学校










現在は畳敷きの展示室となってますが、かつては家庭科室だったようです。
21.西脇小学校










西脇小学校の改修後の模型。

22.西脇小学校










記念室前の階段。この上部の梁ですが、第二・第三校舎とは違いがあります。
27.西脇小学校










これが第二校舎の開口部の梁部分。両側に持ち送りがつけられています。これは第一校舎完成した年の昭和9年、室戸台風が発生し近畿地方を中心に大きな被害が出ました。そして第二校舎建設の際、学校や保護者からの要望で開口部の梁を補強する形で持ち送りが追加される設計変更がなされたとのことでした。なので、第二・第三校舎の開口部の梁には持ち送りが追加されています。
25.西脇小学校










で、続いて第二校舎へ。
26.西脇小学校










中庭に百葉箱がありました。これも懐かしい。今の学校って他にもまだあるのかなぁ。
28.西脇小学校










第二校舎2階廊下。第二校舎は1階は職員室や保健室、校長室、2階は教室と図書室があり、部屋の見学はできなかったので、そのまま第三校舎へ。
29.西脇小学校










第三校舎は1階の家庭科室を見学。
30.西脇小学校










かつては理科室でした。確かに机の配置とか見たらそんな雰囲気が。第一校舎2階にあった家庭科室をこちらに移したんですね。現在の理科室は鉄筋コンクリート造の校舎にあると思います。
31.西脇小学校










理科室と言えば隣に実験の器材なんかが置かれている理科準備室がありましたが、西脇小学校にも残されています。
32.西脇小学校










かつては実験器具とか標本とかが収められていた棚は、家庭科の実習で使う調理道具や食器類が収められています。
33.西脇小学校










最後にかつて存在した昭和3年完成の講堂の名残を見に行きます。講堂はかつて第一校舎の南側にありました。各校舎を繋ぐ渡り廊下も当時のもの。
34.西脇小学校










第二校舎の西側の渡り廊下には車寄せがあります。これは校長室や応接室のある第二校舎へ来客を通すためでしょうか。
35.西脇小学校










現在の体育館に講堂の車寄せ玄関部分が移築され保存されています。講堂は現在の木造校舎に先駆けて、昭和3年に内藤克雄の設計で完成しました。
36.西脇小学校










天井裏部分。講堂自体は洋風の外観でしたが、車寄せ玄関は和風の唐破風でした。
37.西脇小学校










講堂に掲げられていた扁額。

西脇小学校の見学会はこれで終了。建て替えの危機がありましたが、多くの方の保存運動や努力で保存が決定し、重要文化財にまで指定されました。しかも西脇小学校の素晴らしいところは、ただ保存しただけでなく、現役の小学校として使用され続けることを前提とした「生きた文化財」であることです。文化庁が指定文化財建築をただ残すだけでなく積極的に活用する方針を取り始めた今、一つの好例としてあり続けることでしょうね。ここで学んで卒業した児童は自慢の母校になると思います。

※西脇市のHPに西脇小学校校舎改修工事竣工式の時のパンフのPDFが公開されていますので、リンクを張っておきます。

西脇小学校校舎改修工事竣工式用パンフレット(表紙・裏表紙)
西脇小学校校舎改修工事竣工式用パンフレット(中面)

besan2005 at 23:06|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 学校建築

2023年08月26日

内藤克雄の作品を訪ねて

内藤克雄










※画像は株式会社内藤設計より。内藤設計は内藤克雄の息子様が引き継いでおられます。

内藤克雄は昭和初期頃に北播磨地域を中心に活動した建築家で、北は現在の丹波市、南は姫路市に
わたって役場や学校といった公的機関から病院や商業施設、個人宅まで800件もの数を手がけました。しかし老朽化等で次々と失われ、現存している数はごくわずかです。内藤克雄はこれまでほとんど知られてきませんでしたが、西脇小学校の保存活動と国指定重要文化財の指定により注目され、創業の地であり自宅兼設計事務所のあった小野市では特別展が開かれるなど再評価が進んでいます。
私が内藤克雄の存在を知ったのは2年前に探索した西脇市からでした。
西脇市の近代建築探索レポ日記
以来、小野市・加東市を探索するにあたり北播磨地域を中心に内藤克雄の作品がいくつか残されていることを知り興味を持った次第です。
加東市・小野市の近代建築探索レポ日記(内藤克雄作品を訪ねて)
内藤克雄は色んな顧客の依頼に応える形で設計をしているためか、様々なデザインの建物を残しています。私的には様々な建物の設計を卒なく無難にこなす器用な方だったように思えます。
今回は私が訪問した内藤克雄の作品を市町村ごとにまとめてみました。
※今後追加する可能性もあります。

西脇市

1.西脇小学校 西脇町西脇 昭和9年・昭和12年 内藤克雄









2.西脇小学校









4.西脇小学校









6.西脇小学校









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西脇小学校第一〜第三校舎(旧西脇尋常高等小学校校舎)
第一校舎・昭和9年
第二〜第三校舎・昭和12年
国指定重要文化財

1.旧来住邸勉学洋館。西脇 昭和11年 内藤克雄










旧来住邸勉学洋館。昭和11年。国登録有形文化財。

2.ときの郷。西脇 昭和11年。内藤克雄










ときの郷(旧高瀬家洋館)。昭和11年。

3.西脇市消防団第一分団本部(旧西脇消防屯所)。西脇。昭和10年。内藤克雄









4.西脇市消防団第一分団本部(旧西脇消防屯所)。西脇。昭和10年。内藤克雄









5.西脇市消防団第一分団本部(旧西脇消防屯所)。西脇。昭和10年。











西脇市消防団第一分団本部(旧西脇消防屯所)。西脇。昭和10年。

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鹿野町ふれあい館(旧比延公民館)。昭和初期頃。




小野市

10.内藤克雄設計事務所 小野市久保木町 昭和10年







11.内藤克雄設計事務所








旧内藤克雄設計事務所。昭和10年。
※現在も息子様がお住まいです、

21.旧小野小学校講堂







20.旧小野小学校講堂 小野市西本町 昭和11年 内藤克雄








小野市立好古館(旧小野尋常小学校講堂)。昭和11年。

22.旧小野小学校掲揚台 昭和15年








小野小学校掲揚台。昭和15年。

13.旧浄谷町公会堂 小野市浄谷町 昭和8年 設計・内藤克雄







14.旧浄谷町公会堂








浄谷公会堂。昭和8年。




加東市

8.旧東古瀬公会堂 加東市東古瀬 昭和10年 設計・内藤克雄








東古瀬公会堂。昭和10年。

23.長濱良三商店 加東市新定 昭和初期







24.長濱良三商店








長濱良三商店。昭和初期。

26.旧東条町役場 加東市天神 昭和9年







27.旧東条町役場








旧東条町役場。昭和9年。※現在は個人宅。

6.中古瀬公民館 加東市中古瀬








中古瀬公民館。昭和初期頃か。
※内藤克雄の設計の可能性がありと考えられるため紹介。

4.沢辺営農組合格納庫








沢辺営農組合格納庫(旧公民館か)。昭和初期頃か。
※内藤克雄の設計の可能性がありと考えられるため紹介。




丹波市

1.旧柏原町役場 丹波市柏原町 昭和8年 内藤克雄







2.旧柏原町役場







3.旧柏原町役場







4.旧柏原町役場








旧柏原町役場。昭和8年。※現在は観光案内所。

私が訪問した内藤克雄作品の建物は以上になります(内藤克雄設計と思われる建物も含む)。
内藤克雄が設計した建物の設計図の多くは現存しているそうです。それ以外にも内藤克雄が設計した建物が残されているかもしれません。また未訪問で現存している建物もあると思います。それらが判明し訪問ができましたら、またこの記事にて追加したいと思います。


besan2005 at 20:41|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 近代化遺産

2023年07月17日

岡崎市の近代建築探索レポ日記(2023.07.02)

20230702_130113










出張中の2023年7月2日に岡崎市の近代建築を探索してきました。岡崎市は現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」のゆかりの地でもありますね。
まずは名鉄・岡崎公園前駅の南側へ。

1田口邸 上六名町










T邸。上六名町。
2田口邸










中々良い感じの洋館が付属する建物。探索を始めたのは8時くらいでしたが、すでに暑さで汗だくに。
続いて、名鉄・岡崎公園前の北側から東へと向かうルートへ。

3八丁味噌カクキュウ本社 八丁町 昭和2年










八丁味噌カクキュウ本社。八丁町。昭和2年。
4八丁味噌カクキュウ本社










現在は記念館で見学もできますが、まだ開館してなかったので次へ。

5洋館付き住宅 八帖町










洋館付き住宅。八帖町。

6洋館付き住宅 中岡崎町










洋館付き住宅。中岡崎町。
7洋館付き住宅










結構立派な洋館。この日は覆いが掛けられていました。どうやら改修されているようでした。

8龍城温泉 田町 大正14年










龍城温泉。田町。大正14年。つい最近まで営業していたようです。
9龍城温泉










入り口前のモザイクタイル。

10志貴小児科医院 田町 昭和2年










志貴小児科医院。田町。昭和2年。龍城温泉の向かいにある洋館。
11志貴小児科医院










白亜の可愛らしい洒落た洋館です。

12洋風商店建築 篭田町










洋風商店。篭田町。軒周りの装飾が中々凝ってます。

13旧岡崎銀行本店 伝馬町通 大正6年 










旧岡崎銀行本店。伝馬町。大正6年。
14岡崎銀行本店










堂々たる煉瓦建築。現在は岡崎信用金庫の記念館となっています。
15旧岡崎銀行本店










内部は階段や天井に面影が残されていますが、それ以外は大きく改修されています。
ここからちょっと北の高台へ。

16六供配水場 六供町 昭和9年










六供配水場。六供町。昭和9年。
18六供配水場配水塔 昭和9年










巨大な配水塔が目立つ配水場。昭和9年築。
17六供配水場ポンプ室 昭和8年










ポンプ室は昭和8年築。
ここから再び下っていきます。近くの小学校にも近代建築があったのですが、
敷地の奥の方にあり見ることができなかったので断念。

20林弓具店 門前町 昭和初期










林弓具店。門前町。昭和初期。スクラッチタイルの良い雰囲気の洋館。

21日本福音ルーテル岡崎教会 伝馬町 昭和28年










日本福音ルーテル岡崎教会。伝馬町。昭和28年。戦後建築ですが、良い感じでしたので紹介。
ここから東に向かい東公園を目指します。今回の目的の建物がここにあります。

23旧本多忠次邸 










旧本田忠次邸。欠町。昭和7年。かの戦国武将、本多忠勝の末裔の洋館。
元々は東京の世田谷区にありましたが、本多忠勝のゆかりの街でもある岡崎市に移築されました。
22旧本多忠次邸。 岡崎市欠町。 昭和7年










外観はスパニッシュ様式。
24旧本多忠次邸










ベランダ。
25旧本多忠次邸










玄関。なんと入館料は無料。
47旧本多忠次邸平面図










平面図。まずは1階から。
26旧本多忠次邸階段










玄関ホール。この階段の手摺の感じが良いですね。
39旧本多忠次邸使者の間










玄関脇にある使者の間。使者の間があるのが凄い。
室内は和室で竿縁天井。
27旧本多忠次邸団欒室










団欒室。
28旧本多忠次邸食堂










食堂。やはり広いですね。どんな料理が並べられたのだろう。
29旧本多忠次邸食堂ステンドグラス










30旧本多忠次邸団欒室ステンドグラス










食堂のステンドグラス。
31旧本多忠次邸配膳室










配膳室。ここで日々の料理が作られ、食堂へと運ばれたのでしょう。
32旧本多忠次邸サンルーム










サンルーム。塔屋の1階にあり、タイル張りとなっています。冬場はここで日光浴をしてたんでしょうか。戦前の洋館には大抵サンルームがあります。
33旧本多忠次邸サンルームタイル










サンルームのタイル。
34旧本多忠次邸1階湯殿










1階湯殿。浴室は1階と2階にあるんですが、どちらも豪華で素敵な浴室です。
35旧本多忠次邸1階湯殿浴槽










浴槽。モザイクタイルで模様が造られた可愛らしいデザイン。
36旧本多忠次邸1階湯殿ステンドグラス










湯殿のステンドグラス。こんな素敵なお風呂に毎日入りたいものですw
1階の湯殿、2階の浴室は旧本田忠次邸の一番の見所と思っています。
46旧本多忠次邸裏階段










湯殿の側にある階段。
37旧本多忠次邸階段室










2階へはせっかくなので、玄関ホールにある階段から上がります。
38旧本多忠次邸階段室ステンドグラス










階段踊り場のステンドグラス。旧本田忠次邸には多種多様なステンドグラスが使われています。
40旧本多忠次邸書斎










書斎。洋館には書斎がつきもの。ここも本田忠次の書斎だった部屋ですが、割とモダンでシンプル。
1階のサンルームと同じような窓が並び、さぞ見晴らしがよかったでしょう。
41旧本多忠次邸書斎










反対から。
42旧本多忠次邸寝室










書斎の隣には寝室があります。2階には和室の客間が3部屋ありますが、展示をしていたので撮影は止めました。
43旧本多忠次邸2階浴室










2階浴室。1階の湯殿より狭いですが、こちらもモザイクタイルとか装飾に凝ってます。
44旧本多忠次邸2階浴室浴槽










こちらの浴槽も可愛らしい模様のモザイクタイル
45旧本多忠次邸2階浴室ステンドグラス










2階浴室のステンドグラスは魚が群れる図柄。
48旧本多忠次邸登場作品










旧本田忠次邸がモデルになっている漫画が1階サンルームに置かれていました。
49旧本多忠次邸庭園










庭には噴水も移築されていました。
旧本田忠次邸は素晴らしい洋館でした。1時間くらい滞在してましたね。
折り返して西へ向かっていきます。

50洋館付き住宅 若宮町










洋館付き住宅。若宮町。これも中々いい感じの洋館。

53旧額田郡役所










旧額田郡役所。朝日町。大正2年。
52旧額田郡役所 朝日町 大正2年










大正期の洋館らしい堂々たる瀟洒な洋館。
54旧額田郡役所










離れた場所にある小さな洋館。
55旧額田郡役所










裏側。で、その隣に。

56旧額田郡物産陳列所 大正2年










旧額田郡物産陳列所。朝日町。大正2年。こちらも素敵な洋館です。
旧額田郡役所と旧額田郡物産陳列所は近年まで資料館として公開されていましたが、現在は耐震性の問題で休館中。残念。

岡崎城天守1










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帰りは岡崎城へ立ち寄り。大河ドラマの影響か賑わっていましたね。

これにて岡崎市の近代建築探索は終了。岡崎市には多くの近代建築が残されており、見応えがありましたが、郊外までは回れなかったのが残念。あと、暑かったなぁ…




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2023年06月25日

田原市の近代建築探索レポ日記

14六階建










伊良湖試験場と福江観測所の探索の後、田原市の中心部の近代建築探索をしてきました。

1旧田原町立高等技芸女学校 田原町 昭和5年










旧田原町立高等技芸女学校。田原市田原町。昭和5年。
白亜の中々瀟洒な洋館です。
2旧田原町立高等技芸女学校










現在は田原市民俗資料館となっていますが、残念ながら休館中のまま。

3田原中部小学校 田原町 昭和9年










旧田原町立尋常高等小学校。田原市田原町。昭和9年。
現在は田原中部小学校。大きくモダンな近代的な学校で完成当時は町のシンボルだったことでしょう。
4田原中部小学校










特に正面の円形のファサードが素晴らしい。アーチと柱頭飾りのある意匠的なデザイン。

5内柴邸 本町 大正初期










U邸。田原市本町。大正初期。街中にこんな素敵な洋館がありました。
外壁がピンクの可愛らしい洋館。内部もさぞ素晴らしいことでしょう。
6内柴邸










このU邸には他にも和館とかも併設している大きなお屋敷です。

7旧渡辺外科医院 萱町 昭和初期










旧渡辺外科医院。萱町。昭和初期。
質素ながらも中々いい雰囲気の洋館。診療所だったようで、現在は個人宅。やはり内部が気になる。

8平野歯科医院 萱町 昭和7年










平野歯科医院。田原市萱町。昭和7年。最近改装されたようで、改装前にはあったベランダとかか撤去され、本来と思われる外観に戻されたのは素晴らしいですね。

9崋山文庫 田原町 昭和9年 










崋山文庫。田原市田原町。昭和9年。田原城内にある建物で、田原市出身の永瀬狂三設計。
田原市出身の渡辺崋山の遺品や作品を展示していた建物。
以上、田原市の近代建築の探索終了ですが、

泉郵便局










旧泉郵便局(昭和8年)や
旧福江町役場










旧福江町役場(昭和5年)の2件の近代建築を近くまで行ってたにもかかわらず、見逃していたのが大きな失態でした…
※2件の画像はいずれもGoogleMapのストリートビューより引用。


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陸軍伊良湖試験場・福江観測所遺構探索日記

愛知県田原市にある伊良湖試験場と福江観測所の遺構を探索してきました。
伊良湖試験場は明治34年、陸軍が大砲の実射試験場として開設した施設で、渥美半島の北西の部分に各施設が造られました。現在、有名な六階建の気象塔兼展望塔を始め昭和初期頃に建てられたと思われる鉄筋コンクリート造の建物がいくつか残されています。

伊良湖試験場遺構位置









今回探索した遺構の位置図。

1歩哨舎










(眈ゼ法8園の入り口に移築されています。
3境界石










歩哨舎の横に移設されている「陸軍省所轄地」の境界杭。

2解説版










説明版。
公園内には脱油庫の建物もあったようですが、取り壊されたようです。
次は公園の向かいにある田戸神社へ。

4正門










∪橘隋E銚与声劼了夏餐阿砲△詭臙譟1本だけ残されています。

5信管検査施設兼展望台










信管検査施設兼展望台。
田戸神社の境内に残る遺構。六階建が完成する前は木造の櫓を建て、信管の検査や気象観測をしていたそうです。これは櫓の柱の基礎。
6信管検査施設兼展望台










もう1つ残されています。
7信管検査施設兼展望台










その先にあるコンクリート構造物。
8信管検査施設兼展望台










境内側から。
9信管検査施設兼展望台










内部は空洞になっています。当時の写真を見ると、この上に木造の櫓が建っており、どうやら上から信管を落として作動を確認していたようです。
次に公園の外周を探索。

10コンクリート建物










じ園に隣接した民家の側に残るコンクリートの建物。検査室とも呼ばれています。
11配電室










イ海舛蕕惑枦甜爾蕕靴い任后
公園を後にしていよいよ有名な六階建のあるエリアへ。

12六階建










Φぞ歸齋鹽庫湘磧0卜標仍邯馨谿箙修任發辰箸睛名でシンボル的な建物。
昭和5年の完成で、大砲の弾道・風速・風向きなど観測していました。
13六階建










有名な遺構なので写真では何度も見てましたが、実際に見ると迫力あります。
14六階建










反対から。
17説明版










説明版。個人所有なので無断での立ち入りは禁止。
18内部










なので、入り口から1階内部のみを撮影。階段はしっかりしてそうです。
19機銃掃射痕か










壁面に機銃掃射の痕らしきものがありますが、分かりません。

15電信室










無線電信室。気象塔兼展望塔のすぐ近くにあります。
20230624_111936










渥美半島各所にある観測所や監的所との連絡を行っていました。
16遠景










気象塔兼展望塔と無線電信室の遠景。よく残されたと思います。
しかし、やはりコンクリートの剥離やそれによる鉄筋の露出など老朽化の問題は大きいかと。
ぜひ保存し伝えていってもらいたいものです。
有名なこの建物以外にも周辺に遺構が残されているのでそちらに向かいます。

20検圧所










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21検圧所










向かって左が避害所で右が検査官室。避害所は着弾等での爆風から守るためか、監視窓はスリットになってます。

24弾薬庫










弾薬置場。
23弾薬庫










弾薬庫とは違うものでしょうか。

25器具庫










器具庫。弾薬置場の裏、民家の側にあります。物置でしょうか。

26観測所か










煉瓦構造物。次の目的地、福江観測所へ向かう途中で見かけた怪しい煉瓦構造物。
27観測所か










草に覆われて全体がはっきり分かりませんが、どうも福江観測所や右禅坊観測所と同じ観測所だった可能性があります。
次に福江観測所に向かいますが、その前にどうしても寄りたかった場所が。

28福江小学校










歩兵第441連隊本部跡。現在、福江小学校となっている場所はかつて福江国民学校であり、戦争末期はその福江国民学校に陸軍歩兵第441連隊の連隊本部が置かれていました。 急造の部隊のため、兵舎とかは無く、福江国民学校だけでなく、近隣の学校や民家や寺などを兵舎に充てていたようです。

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歩兵第441連隊は本土決戦に備えて急造された54個師団の1つ、第153師団(護京部隊 編成地・京都)の所属部隊で、昭和20年4月10日に敦賀にて編成された連隊です。5月ごろには渥美半島に進駐して米軍の上陸に備えた沿岸守備隊でした。
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実は私の祖父が最後に配属されたのが歩兵第441連隊で、当時曹長だった祖父は連隊本部付の下士官としてこの地に赴任しました。写真の連隊旗と祖父母の写真(昭和20年)は祖父のアルバムにあったもの。
かつてこの場所で祖父が任務にあたり終戦を迎えたかと思うと感慨深いものがあります。
古写真・歩兵第441連隊 連隊旗・軍旗拝受式(祖父のアルバムより 昭和20年4月頃)
20181125063154944










祖父の遺品の一つの軍用行李。行李に書かれている「護京22653」は歩兵第441連隊のこと。
祖父の遺品の軍装品一覧の記事はこちら

そして最後に向かったのが。

29福江観測所










福江観測所。渥美護国神社の近くにある煉瓦造りの観測所。大正8年完成。
30福江観測所










2階建てで、2階部分は露天の展望台となってます。ここでは監的所の役割や遠距離射撃で砲撃された砲弾の観測を行ってました。
31福江観測所










階段を上がったところの2階部分。
32福江観測所










1階部分は屋根付きで、横長の窓があります。
33福江観測所










内部より。
34福江観測所










2階側の窓。
35福江観測所










観測をしていた横長の窓。
39福江観測所










外側から。
36福江観測所










階段部分の煉瓦壁はわざわざ段々にしています。
煉瓦建築ということもあるのと、入り口のアーチや石造の階段、2階の展望台も併せて中々洒落たデザインをしており、場所が護国神社に近ければ、整備して休憩所とか東屋とかにしてもいいくらいの良い雰囲気の建物に思えます。ちなみに渥美半島の南部の右禅坊にも観測所があり、福江観測所とほぼ同じ形の煉瓦建物ですが、右禅坊観測所の方は屋根が崩壊しており、今回は時間の関係もありパスしました。その他、外浜観測所もありましたが、現在は行けないようです。
37陸軍境界










福江観測所の側にある「陸」の境界杭。コンクリート製。
38陸軍境界










もう一つ、「陸軍」の境界杭。こちらは石製。石製が大正期、コンクリート製が昭和期でしょうか。

これにて伊良湖試験場と福江観測所、そして祖父が最後に赴任した歩兵第441連隊の連隊本部跡の福江小学校の探索は終了。以前から行きたかった伊良湖試験場の六階建だけでなく、祖父の軍隊時代の足跡も辿れる探索となりました。

besan2005 at 12:17|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 愛知県 | 旧軍遺構

2023年06月18日

豊橋市・第十五師団(豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校)・周辺陸軍施設探索日記

愛知県豊橋市にある旧陸軍第十五師団とその周辺にある陸軍施設を探索してきました。
陸軍第十五師団は日露戦争時に大陸で編成された師団を豊橋に置くことが決定し、現在の愛知大学の敷地に師団司令部を設置。その周辺に歩兵連隊・騎兵連隊・野砲兵連隊・輜重兵大隊等が置かれました。しかし、第十五師団は大正14年の宇垣軍縮により廃止(後、名古屋にて再編成)。第十五師団および師団と同時に廃止された歩兵第60連隊の敷地は下士官養成学校である豊橋陸軍教導学校となりました。昭和14年には豊橋陸軍教導学校の敷地内に陸軍予備士官学校が設置されました。
戦後、第15師団師団司令部と歩兵第60連隊の敷地は愛知大学となってますが、師団司令部庁舎他、いくつかの建物が残り、周辺の陸軍施設を含め数多くの遺構が残されています。
第15師団司令部遺構配置図









※第十五師団・周辺陸軍施設遺構位置図。
まずは師団司令部のあった愛知大学へ。連絡をしたら見学を許可していただきました。

14第15師団正門










\橘隋石張りの立派な門です。
20230617_082109










敷地を取り囲むコンクリートの塀は豊橋陸軍教導学校時代に造られたもの。
15第15師団庁舎










第十五師団司令部庁舎。明治41年に竣工。木造の庁舎で貴重な近代建築です。宇垣軍縮後は騎兵旅団司令部や陸軍予備士官学校の庁舎として使用され、現在は愛知大学記念館となっています。
18第15師団庁舎










背面。コの字型のシンメトリーないかにも庁舎といった建物。
16第15師団庁舎










玄関。訪れた土曜は休館で入れず…
17第15師団庁舎










窓越しに内部を撮影。階段等当時の姿が良く残されています。

19第15師団機銃廠










B莉集淹嫦諜―鴇魁L声41年築。機銃の整備等を行うための建物で、陸軍教導学校時代も同じ用途で使用されました。
20第15師団機銃廠










外観も当時のまま。棟瓦には陸軍の星章があります。

21養生舎










ね楡擬法昭和2年。豊橋陸軍教導学校時代の建築。屋根には陸軍の星章があります。
かつては第十五師団の偕行社の建物もありましたが、残念ながら10年ほど前に取り壊し。
次は同じ敷地内にある歩兵第六十連隊関連の遺構。

22第60連隊将校集会所










κ睚実茖僑囲隊将校集会所。明治41年築。第十五師団司令部庁舎の裏側にある建物。
23第60連隊将校集会所










明治後期〜末期の将校集会所によく見られる外廊下。
25第60連隊将校集会所










外廊下を歩くと内廊下へと至ります。
26第60連隊将校集会所










内部の感じ。天井に照明の座繰りが残されています。
24第60連隊将校集会所










外の扉の三角破風には陸軍の星章が。屋根瓦にも星章がそのままで、戦後取り外されることが多い中、これだけ残されているのは貴重です。
27第60連隊将校集会所便所










将校集会所には付属屋の便所も残されています。
28第60連隊将校集会所便所










内部も小便器以外は扉など当時の物っぽい。

29第60連隊将校集会所門










将校集会所の前にある門柱。
30第60連隊将校集会所燈籠










将校集会所の前には庭の跡が残されていますが、その一角にある燈籠。
31第60連隊将校集会所通路










将校集会所の敷地に入るコンクリートの通路。敷地を区切る土塁を切った形になってます。

34第60連隊弾薬庫跡










歩兵第六十連隊弾薬庫正門。弾薬庫自体は現在プールになってますが、正門と土塁の防爆壁が残されています。
35第60連隊弾薬庫跡土塁










歩兵第六十連隊弾薬庫防爆壁。

33第60連隊厩舎










歩兵第六十連隊厩舎跡。現在の建物は新しそうですが、もしかしたら基礎周りのみを改修してかつての厩舎の建物を利用している可能性もあります。現在も馬術部の厩舎。

32第60連隊正門










歩兵第六十連隊正門。第十五師団の正門とデザインがよく似ています。

36豊橋陸軍教導学校大講堂










豊橋陸軍教導学校大講堂。昭和2年築。
37豊橋陸軍教導学校大講堂










連隊廃止後の豊橋陸軍教導学校時代に建てられた大きな建物です。現在は愛知大学の体育館。
38豊橋陸軍教導学校大講堂










正面玄関。
39豊橋陸軍教導学校大講堂










持ち送りの金具。建物が大きいので持ち送りも大きいです。
愛知大学構内の旧軍遺構はここまで。次は周辺の旧軍施設を探索。
60第三師団陸軍兵器支廠正門・歩哨舎










第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所正門・歩哨舎。陸軍兵器廠は兵器や弾薬の管理や補給をしていた施設。各師団に支廠が置かれ、師団への兵器・弾薬等の補給任務にあたってました。第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所は第十五師団が設置された明治41年に開設。
61第三師団陸軍兵器支廠正門










正門。
62第三師団陸軍兵器支廠歩哨舎










歩哨舎。目の前を豊橋鉄道の線路が通り、愛知大学側からも門扉が閉まっているため、近づくことができないのが残念。

63第三師団陸軍兵器支廠南門










第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所南門。煉瓦造の門柱。南部中学校の敷地内にあります。

45豊橋憲兵分隊正門










豊橋憲兵分隊正門。
46豊橋憲兵分隊正門










昭和初期頃のものと思われます。ちなみに敷地は現在も交番。

47騎兵第19連隊東門










騎兵第十九連隊東門。門柱は当時のものでは無いかな?外周の土塁の石積擁壁は当時のもの。
48騎兵第19連隊東門擁壁










石積擁壁。外周土塁の前に新たにブロック塀が造られている様子が分かります。

49騎兵第19連隊正門跡か










圧格実莉酋縅隊正門跡か。門柱は新しいですが、
50騎兵第19連隊正門擁壁










51騎兵第19連隊正門擁壁










外周土塁の石積擁壁は当時のまま。外周土塁も当時のまま残されています。
52騎兵第19連隊4築山か










現在は福岡小学校の敷地となってますが、門の奥に築山のようなものが。門の広さと合わせてかつての正門ではと思いました。

53野砲兵第二十一連隊石積み擁壁










洩酲な実萋鷭衆賚隊石積擁壁。敷地は現在時習館高校となってますが、外周に石積擁壁が残されています。

59輜重兵第15大隊正門










雅禄妬実莉集淆臑眄橘隋K橋工科高校の敷地に残されています。

58輜重兵第十五大隊擁壁










轄禄妬実莉集淆臑眄仞冤癖鼻D麺冖腓世辰燭隼廚錣譴泙后3読隊の跡地は学校等になってますが、かつての敷地の出入り口がそのまま使われているため、当時の石積擁壁が多く残されています。

54騎兵第二十六連隊北門










患格実萋鷭熟始隊北門。団地の一角にひっそりと残されています。この団地、ほとんど住人がいないのか、一部の棟は閉鎖。仮に取り壊しとなればこの門柱も撤去される恐れもあります。

55騎兵第二十六連隊正門










㉑騎兵第二十六連隊正門・歩哨舎。騎兵第二十六連隊の敷地だった場所の一部が公園となり、そこに正門と歩哨舎が移築されています。
56騎兵第二十六連隊正門










門柱には木製の看板が掲げられ、その風化具合から当時の物ではと思いましたが、どうやら移設時に復元したもののようです。
57騎兵第二十六連隊歩哨舎










歩哨舎。同じ豊橋市にあった歩兵第十八連隊の歩哨舎や第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所の歩哨舎とよく似た造りです。
愛知大学周辺の旧軍遺構はここまで。ここから北上し、第十五師団の優れた建築を見に行きます。

40第15師団長官舎










サ貘莉集淹嫦陳拘閏法L声45年。洋館と和館が併設する建物。住居建築ということもあってか、華やかな外観です。
41第15師団長官舎










正面玄関。
旧第十五師団長官舎内部4










旧第十五師団長官舎内部3










窓越しに内部を撮影。暖炉等当時の状態で良く残されています。
42第15師団長官舎正門










煉瓦造の正門も残されています。旧第十五師団長官舎は愛知大学の公館として使用されていましたが、現在は使用されておらず空き家状態。豊橋市の指定文化財となってますから取り壊しは無いと思いますが、優れた明治期の近代建築であると同時に数少ない師団長官舎ですので、ぜひ整備して公開してもらいたいものです。
旧第十五師団長官舎を後にし小池駅へと向かう途中。
64陸軍境界杭










㉒「陸軍省所轄地」の境界杭を発見。
64陸軍省境界杭










もう1本見つけましたが、草ぼうぼうな上に私有地っぽかったので遠くから撮影。
ここから離れた場所にある向山町の工兵第十五大隊の跡地へ。

43工兵第15大隊炊事場










㉓工兵第十五大隊炊事場。明治41年。工兵第十五大隊で唯一残されている建物。
44工兵第15大隊炊事場










長い煉瓦造りの建物ですが、半分が個人宅として使用されていました。

以上で第十五師団関連の旧軍遺構の探索は終了。第十五師団司令部・歩兵第六十連隊の跡地にある愛知大学構内だけでなく、周辺の陸軍部隊の跡地にも本来ならば失われてそうな遺構が数多く残されているのが素晴らしいです。次回は同じ豊橋市にある旧陸軍歩兵第十八連隊の跡地にある遺構群の記事を書く予定です。

besan2005 at 08:27|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 愛知県 | 旧軍遺構

2023年05月18日

生駒市の近代建築探索レポ日記(宝山寺獅子閣一般公開見学)。

GW真っただ中の2023年5月3日に奈良県の生駒市の近代建築探索をしてきました。この日から、宝山寺獅子閣の一般公開が行われており、それに合わせて向かう事にしました。
まずは生駒駅の周辺から。

1.パレス温泉 本町










パレス温泉。本町。レトロな銭湯です。
20230503_082722










この看板がいい味出しています。
2.パレス温泉










建築は大正後期頃だとか。4月まで営業されていたようですが、私が訪れたときはすでに閉店していました。
生駒駅に戻り、隣の鳥居前駅からケーブルカーに乗り宝山寺駅へ。

3.宝山寺駅 元町 大正7年










生駒鋼索鉄道宝山寺駅。大正7年。鳥居前駅〜宝山寺駅間のケーブルカーは日本初の営業用ケーブルカーだそうで、開業した日の8月29日は「ケーブルカーの日」なんだとか。
4.宝山寺駅










駅舎内部。
5.宝山寺駅










ステンドグラス。
6.宝山寺駅










ホームへの通路。
7.宝山寺駅










運転室。日本初の営業用ケーブルカーの駅舎が開業当時のまま残されているのは貴重ですね。
宝山寺駅を出て、宝山寺へと向かいますが、その前に周辺を探索。

8.シエル 門前町










シエル 門前町。
9.シエル










大正期頃と思われる洋館。現在は雑貨屋さんのようです。

10.旧門前駐在所 門前町 昭和初期










旧門前駐在所。本町。
11.旧門前駐在所










昭和初期頃と思われる小さな建物。玄関部分の赤い照明が交番だった名残を伝えています。
現在は休憩所。

12.廃洋館 門前町










廃洋館。門前町。
13.廃洋館










洋館は昭和初期頃と思われますが、外観に手が加えられているっぽいです。
門柱はオリジナルのまま。スクラッチタイルをアクセントに使ってます。
14.廃洋館










この廃洋館は長くはないでしょうね。

15.宝山寺










長い参道を通り宝山寺へ。

16.宝山寺獅子閣 門前町 明治15年










宝山寺獅子閣。門前町。明治15年。国指定重要文化財。建てたのは大工の吉村松太郎。
17.宝山寺獅子閣










この獅子閣を建てるために横浜で3年間学んだとか。明治初期に流行った典型的な擬洋風建築です。
18.宝山寺獅子閣










玄関を通ってすぐ広い洋室のホールがあります。
20.宝山寺獅子閣










実は獅子閣の洋室はこのホールだけ。
19.宝山寺獅子閣










玄関のステンドグラス。
22.宝山寺獅子閣










奥の扉のステンドグラス。明治初期のステンドグラスはただの色板ガラスをはめただけのものが多く、絵画のステンドグラスになるのはもう少し後になります。
20230503_091337










洋室のホールの隣の部屋は和室。
23.宝山寺獅子閣










しかし、外観は洋風なので、窓も洋風のアーチ窓になります。
24.宝山寺獅子閣










2階へ。この螺旋が素晴らしい。
25.宝山寺獅子閣










2階ベランダ。
27.宝山寺獅子閣










ベランダから外観を望む。
31.宝山寺獅子閣










2階の装飾柱のアカンサスの柱頭飾り。
26.宝山寺獅子閣










南面は外回廊になっていて、見張らせるようになります。
28.宝山寺獅子閣










2階内部の部屋は完全な和室。
29.宝山寺獅子閣










天井は格天井という格式高いもの。客殿として建てられたそうですが、やはり寺院で客をもてなすためにはメインの部屋は和室である必要があったのでしょう。
30.宝山寺獅子閣










ただし、階段の手摺は洋風の装飾です。
32.宝山寺獅子閣










獅子閣の南側は麓側に面しており、1階2階とも外回廊になっていて、見晴らしを考えた造りになっています。また、懸け造りとなっています。
33.宝山寺獅子閣










南面の外観。

宝山寺獅子閣を後にし、宝山寺近辺を探索。
36.洋館住宅










洋館住宅。門前町。下見板張りの洋館住宅です。
35.洋館住宅










入り口側。
34.洋館住宅 門前町










気になる背後の建物は後程。

37.洋館住宅 門前町










近くの洋館住宅。

38.洋館付き住宅 門前町










洋館付き住宅。門前町。上記の2棟の洋館住宅が隣り合って建っています。当時の分譲地だったのでしょうか。

39.断食静養院 門前町 大正7年










静養院断食療養所。門前町。大正7年。
40.断食静養院










何か凄い名前の施設。
41.断食静養院










断食療法というものがあるらしく、どうやらこの静養院断食療養所は日本最初で最古の施設だそう。
42.断食静養院










静養院断食療養所の門柱。ここからが敷地ですが、建物まで結構長いです。
43.断食静養院










遠くから。施設は結構大きいです。
再び宝山寺駅へと向かい、今回のもう一つの目当ての場所へ。

44.生駒山上遊園地飛行塔 菜畑町 昭和4年










生駒山上遊園地飛行塔。菜畑町。昭和4年。日本最古の大型遊具と言われる建物。
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鉄骨部分を拡大すると、山型鋼(L字型鋼)をリベットで接合しています。戦前の鉄骨は山型鋼が主流で接続もリベット止めが主流。現在主流となっているH型鋼やハイテンションボルト接合は戦後になってからです。
45.生駒山上遊園地飛行塔










この飛行塔、戦時中に奈良海軍航空隊の防空監視塔として接収され使用されたため、金属供出を免れた経緯があり、その結果、貴重な建造物が現代にまで伝えられる結果となりました。
生駒山山上遊園地を後にし、再び生駒駅へ。さらに東へ。

46.洋館付き住宅 東新町










洋館付き住宅。東新町。
47.洋館付き住宅










歩いていて偶然発見。典型的な洋館付きの文化住宅。
48.洋館付き住宅










現在は空家のようです。

49.生駒ふるさとミュージアム(旧生駒町役場) 山崎町 昭和8年










旧生駒町役場。山崎町 昭和8年。
50.生駒ふるさとミュージアム(旧生駒町役場) 










地方都市の役場らしい和風の庁舎です。
51.生駒ふるさとミュージアム(旧生駒町役場) 










現在は生駒ふるさとミュージアムとして利用されていますが、内部の室内は展示室となり面影が全くないのが残念かな。

生駒市には数年前まで他にも洋館が残されていたようですが、現存していないのは残念でした。
それでも宝山寺獅子閣を始め色んな近代建築に出会えた探索でした。

besan2005 at 11:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 近代化遺産

2023年05月05日

和歌山市の近代建築探索レポ日記

0.和歌山城










2019年1月4日に探索した和歌山市の近代建築探索レポ日記です。記事を書いてる2023年からはもう4年が経つので、失われている建物もあるかもしれません。

1.旧日本勧業銀行和歌山支店 六番丁 大正14年










旧日本勧業銀行和歌山支店。六番丁。大正14年。
2.旧日本勧業銀行和歌山支店










大正時代の建物とは思えないモダンさ。現・みずほ銀行和歌山支店

3.旧和歌山郵便局電話分室 十一番丁 大正15年 山田守










旧和歌山郵便局電話分室。十一番丁。大正15年。
4.旧和歌山郵便局電話分室










設計はあの山田守。山田守は逓信省関連の建物を多く設計しています。

5.うどんの大田萬 本町










大田萬。本町。元は服飾店だったようですが、現在はうどん屋さんになっているようです。
この時はまだ空家でした。

6.下見板張りの大型洋館 本町










下見板張りの大型洋館。中之島町。北方面に向かっていて、たまたま見つけた建物。
7.下見板張りの大型洋館








個人宅には見えないので、何かの施設だったのでしょうか。航空写真を見たら、工場のようにも見えます。

8.下見板張りの洋館










学校に見えなくもないですが。
9.下見板張りの洋館










別棟の建物。こちらも大型の建物です。

10.本町小学校の空襲跡










姶成国民学校(現・本町小学校)の和歌山大空襲の痕が残る塀。
昭和20年7月9日の和歌山大空襲の際に焼け焦げた塀が残されています。

11.旧和歌山紡績紀ノ川工場 五筋目 大正8年










旧和歌山紡績紀ノ川工場。五筋目。大正8年。
12.旧和歌山紡績紀ノ川工場










昭和16年に大和紡績となり、現在は倉庫として使用されています。
13.旧和歌山紡績紀ノ川工場










大きな煉瓦建築です。

14.煉瓦の工場建築 西布経










旧和歌山紡績紀ノ川工場の煉瓦建物の近くにある煉瓦建築。西布経。
15.煉瓦の工場建築










これも和歌山紡績紀ノ川工場の建物の一部だったのでしょうか。

16.紀勢本線高架橋 西布経










南海本線高架橋。西布経。高欄のデザインを見たら古そうに見えますが…
17.紀勢本線高架橋










どうでしょうか?

18.旧西本組本社ビル 小野町 昭和2年













旧西本組本社ビル。小野町。昭和2年。
19.旧西本組本社ビル










西本組はかつて存在した大手の土木建築会社。
20.旧西本組本社ビル













現在はテナントビルとなっていますが、街のランドマークになってます。
21.旧西本組本社ビル













正面玄関の三角ペディメントが目を引きます。
22.旧西本組本社ビル










中に入らせてもらいました。
23.旧西本組本社ビル










内部の壁も当時のまま生かされており、良い雰囲気です。
24.旧西本組本社ビル










奥の階段室。
25.旧西本組本社ビル













階段も良い感じです。
26.旧西本組本社ビル













3階にはお手洗いがありました。

27.和歌山県庁 小松原通 昭和13年










和歌山県庁。小松原通。昭和13年。現存する数少ない戦前の県庁舎。
28.和歌山県庁










正面階段。
29.和歌山県庁










1階階段室。
31.和歌山県庁










正面のレリーフは、保田龍門作「丹生都比賣命」(昭和14年)
IMG_0763










2階階段。
32.和歌山県庁










正面のレリーフは、保田龍門作「高倉下命」(昭和14年)
30.和歌山県庁










正庁の間。ちょうど年始の挨拶がされた後でした。
竣工当時の絵葉書

33.戦前ビル 湊通丁南










戦前のビル。湊通南丁。偶然見つけた建物。
34.戦前ビル













屋上の高欄といい、戦前で間違いないと思い撮影。
35.戦前ビル










背面。元は何の建物だったんでしょう。倉庫かもしれませんが。

36.洋館住宅 湊通丁南










洋館住宅。湊通南丁。先ほどの戦前ビルの隣にある洋館。

37.滋野医院 真砂丁 大正10年










滋野医院。真砂丁。大正10年。
38.滋野医院










現役の立派な洋館医院。
39.滋野医院










玄関のステンドグラス。待合室をちょっと見せてもらいましたが、そちらも立派でした。
40.滋野医院










滋野医院に隣接して建つ洋館。恐らく院長さんの自宅でしょう。昭和初期っぽく見える大きく立派な洋館。

41.洋館付き住宅










洋館付き住宅。藪ノ丁。

42.真砂浄水場発電機室 吹上 昭和11年










真砂浄水場発電機室。真砂。昭和11年。真砂浄水場にある建物。
43.真砂浄水場北送ポンプ室 大正14年










こちらは北送ポンプ室。大正14年。もう一つ、南送ポンプ室もあるのですが、上手く撮影できませんでした。

44.鈴木邸 吹上町










S邸。吹上町。洋館付きの大きなお屋敷。

45.旧制和歌山中学校図書館 吹上 昭和4年










旧制和歌山中学校図書館。吹上町。昭和4年。現在は桐蔭高校の同窓会館。

46.旧紀陽織布社宅 鷹匠町 大正9年










旧紀陽織布社宅群。鷹司町。大正9年。
47.旧紀陽織布社宅










近代建築好きには割と知られている建物。煉瓦の建物がずらりと並びます。
49.旧紀陽織布社宅













一番端に当時の面影を残す1棟があります。1階が煉瓦造で2階が木造だったようですが、住み心地はどうだったんでしょうね。

50.藤谷邸 堀止東










F邸。堀止東。大きなお屋敷の一角にモダンな洋館があります。

51.洋館付き住宅 新堀東










新堀東にある洋風長屋。

52.島村邸 堀止東 大正15年 あめりか屋










S邸。堀止東。大正15年。大きな洋館住宅。設計・施工、あめりか屋。
53.島村邸










玄関部分のステンドグラス。

54.がんこ六三圓 堀止西 大正末期










がんこ和歌山六三園。堀止西。大正末期。相場師だった松井伊助の別邸だったお屋敷。
55.がんこ六三圓










現在はがんこチェーンの店舗となっています。お昼はここでいただきました。
56.がんこ六三園













六三園の敷地には日本建築だけでなくこのような煉瓦建築や
57.がんこ六三園










洋館も残されています。これは浴室棟。

58.郭家住宅 今福 明治6年










郭家住宅。今福。明治6年。
59.郭家住宅













元は郭百甫医院だったコロニアル様式の住宅兼医院。貴重な明治初期の洋館。
60.郭家住宅










しかし私が訪ねたときはだいぶ老朽化が進んでいました。
62.郭家住宅













現在、郭家住宅の保存の要望が出され、保存会が活動されています。修復保存され、通年公開されることを願っています。

63.旧陸軍歩兵第61連隊正門 砂山南










陸軍歩兵第61連隊正門。砂山南。
64.旧陸軍歩兵第61連隊歩哨舎










陸軍歩兵第61連隊歩哨舎。連隊の敷地は若山商業高校と西和中学校の敷地となってますが、この正門と歩哨舎が記念として残されています。

65.旧和歌山陸軍墓地忠霊塔 西高松 昭和16年










旧和歌山陸軍墓地忠霊塔。西高松。昭和16年。忠霊塔の建設に当たり、個人墓の墓標は万性寺に移されました。

66.岩崎邸 松ヶ丘 










I邸。松ヶ丘。昭和初期頃。
68.岩崎邸










ハーフティンバーのオシャレな洋館。

69.綿貫邸 東小二里町










W邸。東小二里町。大きなお屋敷に付属する洋館。

70.廃墟の洋館 松ヶ丘










廃墟の洋館。松ヶ丘。
71.廃墟の洋館










1階壁のタイルは陽刻のテラコッタになっており、贅を尽くした感じとなっています。

73.洋館付き住宅 西高松










洋館付き住宅。西高松。屋根が傷んでいるようで修理中でした。

74.洋館付き住宅群










洋風長屋。秋葉町。新堀東にある洋風長屋と同じタイプですね。

75.前田邸 秋葉町










M邸。秋葉町。

76.旧中原嘉吉邸 和歌浦東 昭和3年










旧中原嘉吉邸。和歌浦東。昭和3年。大きな屋敷にある立派な洋館。
77.旧中原嘉吉邸










中原嘉吉は染色業で財を成した人物。

78.旧由良山荘(旧由良浅次郎邸) 和歌浦東 明治43年










旧由良山荘(旧由良浅次郎邸)。和歌浦東。明治43年。廃墟界隈では有名な山の上に建つ巨大な洋館。元は由良浅次郎の自邸。由良浅次郎は合成染料の国産化などで財を成した人物。
現在は廃墟となっているこの巨大洋館、こちらのサイトによると、内部もかなり贅を尽くしたもので、超一級の洋館だと分かります。ちなみにここで真珠湾攻撃の密議がされたとも(本当かなぁ?)
洋館は老朽化が進んでいるとはいえ、丈夫に造られているのか、写真を見る限り痛みは少なく感じます。是非内部を見てみたいとはいえ、許可なく入ると不法侵入に・・・。文化財指定される価値は十分ある一級のこの洋館、なんとか修復保存して公開・活用されてもらいたいものですが。


besan2005 at 12:18|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 和歌山県 | 近代化遺産

2023年03月05日

京都市右京区嵐山・嵯峨野界隈の近代建築探索レポ日記

渡月橋










日本や世界で有数の観光地、京都市右京区の嵐山・嵯峨野界隈の近代建築を探索してきました。
嵯峨嵐山は神社仏閣や渡月橋など、まさに京都と言ったイメージの観光地ですが、市内中心部より数は少ないものの、洋風建築の近代建築もいくつか残されています。今回はそれらを探索。
まずは、JR嵯峨嵐山駅の南側に位置する嵐山地区へ。

1.嵯峨郵便局 大正10年










旧嵯峨郵便局。大正10年。JR嵯峨嵐山駅の旧駅舎が取り壊された現在、嵯峨嵐山界隈では一番有名な近代建築かも。近年までクラフト工房の店として使用されていましたが、現在はイギリス式の紅茶とスコーンの専門店となっています。

嵯峨駅舎









取り壊し前に撮影したJR嵯峨嵐山駅の旧駅舎。明治28年築の洋風駅舎で、京都市内でも最古に当たる洋風駅舎でしたが、高架駅化工事に伴い残念ながら取り壊し。残っていたら、国登録有形文化財にはなってたかも。
渡月橋方面へ。

2.西邸










N邸。渡月橋の近くに切妻屋根の同じ形をした洋館が並んでいる一角があります。
3.嵐山の洋館住宅群










恐らく戦前に区画整理され分譲されたエリアのようです。
4.嵐山の洋館住宅群










この洋館は建売だったのでしょうか?
5.嵐山の洋館住宅群










多くの住宅は外観が改装されていますが、N邸は当時と思われる外観が保たれています。
6.ベランダ










このベランダの柵は当時の物でしょうか。
6.洋館住宅群の煉瓦










切妻屋根の洋館が建ち並ぶ向かいには赤煉瓦の基礎の板塀を持つ住宅が並びます。こちらも同じ形の住宅が並んでおり、当時の建物と思われます。
ここから少し東へ。

7.早川邸










H邸。2軒の洋館が1つになっている感じに見える住宅。右側の方は表札無しなので空き家のようですが、左側は表札有。しかし、住人かいるようには見えませんでした…
ここから北に上がり車折神社方面へ。

8.六宇洞 写経道場










六宇洞。隣にある報徳寺の関連の建物と思います。写経道場の看板が出てましたが、報徳寺の庫裏かも。
9.六宇洞










建物は寺院風のデザインの中に洋風の要素も含むちょっと珍しい外観。お寺の施設なので寺院風の外観にしつつも、住宅としての性格のある建物だから洋館っぽい外観も取り入れたんでしょうか。
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車折神社は枝垂れ梅が満開でした。
嵐山界隈の探索はここまで。次はJR嵯峨嵐山駅の北側、嵯峨野エリアへと向かいます。

10.HATA邸










H邸。住宅地の狭い道を進んだ奥まった所にある洋館。アメリカンスタイルっぽい外観の洋館です。
11.HATA邸










本格的な洋館で、しっかりとした設計者の手によるものに思えます。昭和初期でしょうか。
設計者が気になりますが、京都市近代化遺産調査報告書には記載がありません。

12.今井邸










I邸。ハーフティンバーのこちらも本格的な洋館住宅。
13.今井邸










こちらも大規模な洋館で、設計者が気になりますが、京都市近代化遺産調査報告書に記載なし。
見た感じは、あめりか屋設計の昭和初期の洋館に思えるのですが。

14.秋山邸










A邸。こちらも昭和初期と思われる洋館住宅。昭和初期に良く使われた丸窓が玄関部分にあります。
15.秋山邸










外観のデザイン的に、熊倉工務店の設計のように思えますが、これも京都市近代化遺産調査報告書に記載は無し。
16.秋山邸










裏側にベランダがあるようです。

これにて阿鷲山・嵯峨野界隈の近代建築探索は終了。嵐山地区は古くからの景勝地ですが、中流家庭向けと思われる分譲地に建つ洋館群が見られる一方、嵯峨野は本格的な大型の洋館が残り、高級住宅地だった可能性が考えられています。嵯峨野の3件の洋館はどれも本格的で、名のある建築家か建設会社が設計しているような印象ですが、どれも京都市近代化遺産調査報告書に記載はなく不明なのが残念です。


besan2005 at 11:48|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2023年02月19日

京都市・西七条〜西京極〜西院〜壬生界隈の近代建築探索レポ日記

今回は京都市の西七条から西京極、西院、壬生界隈の近代建築探索をしました。
西院と壬生界隈の近代建築探索については、2019年11月27日に行っており、今回はその補足探索も兼ねていますので、過去記事の方もご覧ください。
京都市・二条〜西院〜壬生・大宮界隈の近代建築探索レポ日記

JR梅小路西駅からスタート。


1.第一工業製薬 下京区東久保町 昭和12年 










第一工業製薬本館。下京区東久保町。昭和12年。
2.第一工業製薬










3階建ての大きなオフィスビル。
6.第一工業製薬










かっては本館の横に同じ昭和12年築の工場棟と研究棟が建っていました。
3.第一工業製薬









工場棟と研究棟が建っていた頃の写真。だいたい20年くらい前。
4.第一工業製薬









現在は本館のみ残され、跡地にはマンションが建てられています。
このまま西へ。

7.日下部邸 下京区梅小路石橋町










K邸。下京区梅小路石橋町。洋館付き住宅ですが、洋館部分が大きく目立ち、主屋は控えめ。門柱も当時の物のようです。

8.旧工場か 下京区西七条中野町







旧工場。下京区西七条中野町。町工場でしょうか。和風の工場棟。
9.旧工場か







縦に長い建物です。

10.洋館付き住宅 下京区西七条南西野町










洋館付き住宅。下京区西七条南西野町。2棟の建物は接続しており、長屋的な構造になっています。

11.ハピネスハウス 下京区西七条比輪田町










ハピネスハウス。下京区西七条比輪田町。現在は何に使われているか不明。

12.岩井たばこ店 下京区西七条南衣田町










岩井たばこ店。下京区西七条南衣田町。七条通りには戦前の古い商店建築がちらほら残されていますが、このたばこ屋さんは戦前の文字とかが残っていて中々貴重。
13.岩井たばこ店










建物の雰囲気も良い感じですね。
14.岩井たばこ店










壁面にある「たばこ」の文字。軒周りの装飾も良い感じ。
15.岩井たばこ店










正面にはマークと「印判彫刻」「諸印刷」の文字があり、印刷関係の業務もしていた感じです。
ここから北上し右京区へ。

16.宝田工業 右京区西京極南庄境町










宝田工業。右京区西京極南庄境町。玄関側の角を丸く仕上げている手が込んでいる事務所建築。
17.宝田工業










こういったモザイクタイル張りの建物もあまり見なくなりましたね。
18.宝田工業










現在は使われていないようで空き家状態。良い建物だと思うので、再活用されればいいのですが。

19.京都友禅文化会館 右京区西京極豆田町 1968年










京都西陣文化会館。右京区西京極豆田町。戦後建築の昭和43年(1968年)の築ですが、レトロモダンなその雰囲気が気になって撮影。最近のアパートはポストモダン的な要素が多く、こういった純粋なモダニズム建築のアパートは少なく、やはりレトロな雰囲気を感じます。
20.京都友禅文化会館










かつてはモダンな建物だったこのアパートもすでに築55年。もう老朽化の影響が出ていそうな気がします。まだまだ入居できるようですが、今後どうなるか。

21.勝浦邸 右京区西京極西川町










K邸。右京区西京極西川町。主屋に2階建ての洋館が付属する住宅。もしかしたら、商店だったかも。
22.勝浦邸










喫茶リエは洋館の隣にある別の建物。

23.北尾邸 右京区西京極西川町










K邸。右京区西京極西川町。
25.北尾邸










外観は中々本格的な洋風。なんとなく元医院だった気がします。
24.北尾邸










立地は三角形の土地に建っているためか、不定形な形です。

26.旧西京極変電所 右京区西京極畑田町










旧西京極変電所。右京区西京極畑田町。現在の西京極変電所の横に建つ建物なので、建物の形などから変電所の旧建屋ではと思います。

27.旧西京極変電所










見た感じは昭和10年代の建築に見えます。取り壊さず倉庫か何かに再利用したのでしょうか。
ここから阪急に乗り西院へ。

28.京都市農業協同組合西院支部 右京区西院春日町










京都市農業協同組合西院支部。右京区西院春日町。農協の建物で、春日神社の隣にある建物。
29.京都市農業協同組合西院支部










元々は公民館とかそんな感じの建物だったのでしょうか。奥に洋館が付属しています。
次は東へ進み壬生方面へ。

30.理容那須 中京区壬生森町










理容那須。中京区壬生森町。外観はシンプルですが、中々味のある建物。

31.理容那須










いつまでも現役で続けて欲しいです。

32.芥川医院 中京区壬生森町










芥川医院。中京区壬生森町。前回訪問済みの建物。理容那須はこの芥川医院のすぐ近くで、なんで前回の探索で理容那須をスルーしてしまったのか。戦前の個人医院の洋館はどれも素晴らしいものが多いです。

33.芋松温泉 中京区壬生森町










芋松温泉。京都市中京区壬生森町。これも前回訪問済み。最近はこういう趣のある銭湯も減りましたね。

34.翠明荘 中京区壬生森町










翠明荘。中京区壬生森町。芋松温泉の向かいにある古いアパート。向かいなのに何故前回スルーしたのか。
35.翠明荘










で、このアパートですが、普通のアパートにしては雰囲気がなんか違う。
36.翠明荘










入口に唐破風が。あと玄関脇に意味深な丸窓とのぞき窓っぽいのが。
これ、遊郭関連の建物じゃないかと。普通、アパートの入口にこんな唐破風屋根は設けない。
20230218_101425










近くの通りには遊郭建築っぽい建物が並んでいたり。壬生には確かに壬生寺近辺に遊郭街があったそうですが、ここは少し離れているのが気になります。小規模な遊郭街が゛あったのでしょうか。
ここから二条駅方面へ。

37.植村邸 中京区壬生神明町










U邸。中京区壬生神明町。洋館付き住宅ですが、戦後かもしれません。

今回の探索はこれで終了。まだ未探索エリアだった西七条〜西京極界隈の物件を把握することができ、前回の探索で見逃した物件も埋めることが出来ました。

besan2005 at 11:54|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2023年02月12日

奈良市内の近代建築補足探索レポ日記(2023年2月11日)

4年前の2019年1月12日に探索した奈良市内の近代建築ですが、その後記事にするにあたりチェックしたところ、4年前の探索範囲で結構見逃している物件が多くあり、今回改めて補完するため補足探索をしてきました。4年前の探索分の記事と合わせてご覧いただけたらと思います。
奈良市内の近代建築探索レポ日記(2019年1月12日)
また、有名物件なので何度も見ているけど、いつもスルーしていた建物もこの際なので紹介したいと思います。

今回は近鉄新大宮駅からスタートし、前回探索範囲をなぞる形で回っていきます。
1.水野邸 芝辻町







M邸。芝辻町。童話に出てくるような可愛らしい洋館が付属しています。

2.権隋邸 法蓮町







G邸。法蓮町。住人の方のお名前はとても珍しい名字。庭木の手入れをしている人がいたのであまり近づけませんでしたが、中々レベルの高い洋館です。
3.権隋邸







背面。窓の先端が尖る尖頭アーチっぽいデザイン。昭和初期頃でしょうか。

4.洋室のある和洋折衷住宅 法蓮町







洋室付き住宅。法蓮町。
5.和洋折衷住宅







見づらいですが、玄関脇に小さな洋室が付属しています。現在は空家のようでいずれ姿を消しそうです。

6.堂浦邸 法蓮町







D邸。法蓮町。2019年に探索した際に訪問したI邸のすぐ隣の住宅。何故見落としたんだろうか。小さな洋館ですが、前面にドンとあるので存在感があります。

7.佐保会館 北魚屋西町 昭和3年







佐保会館。北魚屋西町。昭和3年。奈良女子大学の同窓会館の建物。実は4年前の探索時にこれを見ているのですが、その時は何故か写真を撮らなかった。

8.波多腰邸 西笹鉾町







H邸。西笹鉾町。奥に大き目の洋館が見えますが取りづらい・・・。

10.旧南都銀行手貝支店 手貝町 昭和15年







旧南都銀行手貝支店。手貝町。昭和15年。国宝・転害門の隣にある銀行。昭和15年の銀行建築と言えば、RC造のモダニズム建築かもしくは古典建築が主流だったと思いますが、奥に見えている転害門との調和を考えてか、和風の木造建築となっています。近年リフォームされ、転害門観光案内所として使用されています。

11.洋風商店建築 手貝町







12.洋風商店建築 手貝町







旧南都銀行手貝支店と同じ通りに並ぶ洋風の看板建築。

13.鼓阪小学校講堂 雑司町 昭和11年







鼓阪小学校講堂。雑司町。昭和11年。転害門の裏、東大寺の敷地に隣接する小学校。そのためか、建物自体はRC造ですが、外観は日本建築。当時から歴史的な景観に関しての配慮があったんですね。

14.奈良ホテル







2019年の探索でも訪問した奈良ホテル。辰野金吾設計の名建築は言うまでもないです。
15.奈良ホテルの防空壕







今回訪問したのはこれを見るため。実はこれは防空壕。
16.奈良ホテルの防空壕







宿泊者を空襲から守るために造られた防空壕は、銅鑼で知らせたそうです。

15.活活邸 紀寺笠屋街







活活亭。紀寺笠屋町。昭和初期頃の洋館住宅を再利用した鰻料理店。
16.活活邸







割とリーズナブルな値段で食べられるお店だったようですが、ネットの情報では2020年から休業をしているらしく、私は訪問した際はちょっと荒れ気味で、もう廃業かもしれません。食べログの写真を見ると、1階は和室。2階へ上がる階段はセセッション風の手摺で、是非見たかったですが…。

17.濱田邸 高畑町







H邸。高畑町。2019年にも訪問し、記事にも書いてますが、4年前には存在した手前の民家が更地になっており、全体が見渡せる状態になっていました。

19.スクラッチタイルの門柱 高畑町







スクラッチタイルの門柱・塀柱。高畑町。奥の住宅は建て直されているようですが、門と塀の柱が昭和初期頃の感じに見えるので掲載。

20.松居邸 紀寺町







M邸。紀寺町。これと同じような小型の丘屋根の洋館が付属する住宅は、2019年探索時の高畑町のK邸にもありました。

21.洋館付き住宅群 紀寺町







洋館付き住宅群。紀寺町。3軒ほどあります。

22.松原邸 紀寺町







M邸。紀寺町。奈良市内の洋館が付属する住宅の洋館は、切妻屋根で妻側を向けているのが多いですね。

23.イケダ醤油煉瓦倉庫 肘塚町 明治〜大正







イケダ醤油煉瓦倉庫。北京終町。大正10年頃。京終駅へと向かう途中の住宅街にある大きな煉瓦建築。
24.イケダ醤油







妻側。

25.京終駅 京終町 明治31年







JR京終駅。京終町。明治31年。JR桜井線の駅。
26.京終駅







レトロな木造駅舎ですが、近年リフォームされ、駅員室は喫茶店となっています。
27.京終駅







ホーム側から。大切に使われているのはいいですね。
28.京終駅







京終は「きょうばて」と読みます。由来はかつての平城京の外れという意味。日本でも有数の難読駅名・難読地名ですね。この京終駅から電車に乗りJR奈良駅へ。京終駅から奈良駅は1駅。

29.旧奈良駅舎 三条本町 昭和9年







旧奈良駅舎。三条本町。昭和9年。RC造の駅舎ですが、外観は寺院の仏塔をイメージした和風の要素のある建物。2001年の立体交差化で取り壊しが検討されましたが、地元住民や観光客から保存を望む声が湧きあがり、2004年に北東へ18m曳家して保存することが決定。2009年に奈良市総合観光案内所としてオープンしました。
30.旧奈良駅舎







内部も和の要素を取り入れたデザインで、天井は折上格天井となっています。現役の頃に行ったことありますが、現在は観光案内所という性格か寺院建築の柱や梁を模したオブジェとかが置かれてちょっと邪魔かな・・・。ちなみに建物内にはスタバもありますので、一息つくにはいい感じの建物です。

31.羽田邸 杉ヶ町







H邸。杉ヶ町。
32.羽田邸










もしかしたら、事務所建築だったのかもしれません。表札は一応ありましたが、上から消されているような感じにも見え、空き家かもしれません。

33.三条会館ビル 旧帝国実業貯蓄銀行 角振町 大正12年













三条会館ビル。角振町。大正12年。元は帝国実業貯蓄銀行。奈良市の繁華街である三条通りに面するレトロビル。昔から知られている建物で、幾度もテナントが変わり改修もされてきました。現在はうどん屋さんが入っています。

34.南都銀行本店 大正15年










南都銀行本店。橋本町。大正15年。設計・長野宇平治。旧六十八銀行奈良支店だった建物で、三条通りのランドマークと言える建物であり、奈良市を代表する近代建築。
35.南都銀行本店










京都市内もですが、20年ほど前はまだ戦前の古典様式の銀行が多く残されていましたが、銀行の合併や再編で10年ほど前から次々と姿を消し、今では貴重な存在となっています。この南都銀行本店は大切に保存されているようです。

36.日本聖公会奈良基督教会 登大路町 昭和5年










日本聖公会奈良基督教会。昭和5年。登大路町。まるで寺院のような教会。奈良という土地に合わせて寺院風の建築で建てられているのが面白いですね。

0.旧大阪電気軌道富雄変電所 富雄北 大正3年







旧大阪電気軌道富雄変電所。富雄北。大正3年。2023年1月29日の富雄丸山古墳現地見学会に行った際に訪問。保存運動があり、以前はレストランとして再利用されていたみたいですが、現在は再び空き家となっているようで、今後どうなるかが気になります…。

これで奈良市内の近代建築の補足探索は終了。一応把握している建物は廻れたかなと思います(奈良国立博物館は有名すぎるのでスルー)。しかし、まだ場所を把握していない物件が少しあり、また新たな物件が見つかる可能性もあるので、それからまた溜ったら再度補足探索をして追加記事を書きたいと思います。奈良市と洋風建築って中々結びつかないように見えますが、結構残されていたりしますので。

besan2005 at 11:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 近代化遺産

奈良市内の近代建築探索レポ日記(2019年1月12日)

奈良市内の近代建築探索のレポ日記です。今から4年前の2019年に1度探索を行いましたが、その後改めてチェックすると、結構スルーしている物件が多く、2023年2月11日に補完するための補足探索を行いました。そこで2019年1月12日の探索分と補足探索である2023年2月11日の探索分の2つに記事を分けることに。今回は2019年1月12日の探索レポ日記です。
2023年2月11日の補足探索レポ日記の記事はこちら

近鉄奈良駅から移動し、まずは奈良市内の西側からスタート。

1.スクラッチタイルの洋館 芝辻町










M邸。芝辻町。
2.スクラッチタイルの洋館













スクラッチタイル張りの背の高い洋館。軒周りの装飾が良い感じです。


3.松村邸 北市町 昭和初期













M邸。北市町。これはまた雰囲気のある洋館。
4.松村邸










一部改装されていますが、ドイツ風っぽい良い感じの洋館。昭和初期頃。
5.松村邸













入り口部分も凝ってますね。ここから北上。

6.洋館付き住宅 法連町










洋館付きの住宅。法蓮町。
7.洋館付き住宅










洋館付き住宅は割と見ますが、この住宅の洋館は結構大型。腰回りは板張りでデザインも凝ってます。表札が取り外されていてもしかしたら空家かも。

9.長谷邸










H邸。法蓮町。先ほどの洋館付きの住宅から同じ通りを少し北上した所にある住宅。
洋館のデザインに少しだけ差があるのみで、洋館の外観や規模、奥の主屋も含めてほぼ同じ。一体は分譲住宅地だったんでしょうか。

10.稲田邸 法連町










I邸。法蓮町。1階が洋館で2階が和風建築の和洋折衷住宅。
12.洋館住宅 多門町










洋館住宅。多門町。大きく取られた窓が特徴的です。

13.二塚・今西邸 多門町










F邸。多門町。
11.稲田邸










先ほどのI邸とよく似た造りの和洋折衷住宅です。

14.洋館付き住宅










T邸。東包永町。洋館自体はそこまで大きくないですが、主屋が小さめで路地が狭いため、大きく見えます。

15.廃屋の洋館住宅 西笹鉾町










廃屋の洋館。西笹鉾町。すでに廃墟化しており荒れていますが、結構立派な洋館です。
16.廃屋の洋館住宅










元は医院だったのかもしれません。昭和初期頃でしょうか。
※2023年2月11日、消失を確認しました。

17.旧奈良警察学校 西笹鉾町 昭和16年










旧奈良警察学校。西笹鉾町。昭和16年。

18.旧奈良警察学校










元は警察学校という建物ですが、外観は昭和初期の小学校建築っぽいです。

19.旧奈良警察学校










玄関部分の車寄せとかいかにも昭和戦前期といったデザイン。現在は天理教関連の施設として使用。


20.吉田邸 半田西町










Y邸。半田西町。
21.吉田邸










どことなく土蔵っぽい雰囲気を持つスクラッチタイルの洋館。

22.旧鍋屋交番 半田横町 昭和3年










旧北魚屋町交番。半田横町。昭和3年。現在は案内所として使用されています。

23.奈良女子大学本館 宿院町 明治42年










奈良女子大学本館。宿院町。明治42年。

24.奈良女子大学










※奈良女子大学の写真は2019年4月30日の一般公開の際に撮影したものです。
女子大の建物らしく、瀟洒で可憐な美しい洋館。国指定重要文化財。
26.奈良女子大学守衛所 明治42年










奈良女子大学守衛所。明治42年。
25.奈良女子大学奉安殿 昭和9年










敷地内には昭和9年に建てられた奉安殿が現存しています。
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本館1階廊下。
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1階部屋。
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2階講堂。2019年4月30日の奈良女子大学一般公開の際のレポ日記は改めて別記事にて書きたいと思ってます。

27.中西邸 登大路町










N邸。登大路町。昭和初期頃のかなり大型の洋館。

28.中西邸










どことなくスパニッシュの雰囲気を持ちつつも控えめな装飾の洋館は、京都の分譲住宅で多く建てられた熊倉工務店やあめりか屋っぽさを感じますがどうでしょうか。
29.中西邸










側面。
30.中西邸










アーチ窓にはステンドグラスがありました。

32.洋館付き住宅 今在家町










洋館付きの住宅。今在家町。擬石洗い出しの荒壁仕上の小さな洋館が付属しています。

33.江戸川ならまち店 下御門町










江戸川ならまち店。下御門町。かなり大きなお屋敷を飲食店に再利用した建物。洋館部分は応接室だったのでしょうか。

34.旧奈良県物産陳列所 登大路町 明治35年










旧奈良県物産陳列所。登大路町。明治35年。奈良公園内にある和洋折衷の名建築。国指定重要文化財。

35.喜多邸 芝辻町 大正14年










K邸。芝辻町。大正14年。
36.喜多邸










食用細菌の研究を行っていた会社のオーナーの住宅だった洋館。
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工場の建物も残されていて、現在はカフェとして使用されています。

37.旧奈良市水道計量器室 東之阪町 大正11年













旧奈良市水道計量器室。 東之阪町。大正11年。現在は使われておらず、史跡といった形で残されています。

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旧奈良監獄。般若寺町。明治42年。貴重な明治の監獄建築。設計は山下啓次郎。奈良少年刑務所の閉鎖により、ホテルとして再活用されることになり改修前の一般公開が2018年11月24日に行われました。
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地下や中庭は中世ヨーロッパの古城のような雰囲気でした。旧奈良監獄の一般公開のレポ日記は別記事にしていますので、そちらをご覧ください。
※旧奈良監獄・一般公開見学レポ日記

38.奈良ホテル 高畑町 明治42年 辰野金吾










奈良ホテル 高畑町。明治42年。辰野金吾設計の名建築。
P1030561










ラウンジ。
P1030576










階段室の天井。
P1030560













奈良ホテルといえば、この赤膚焼の擬宝珠が有名ですね。奈良ホテルに関しては
また別記事にしたいかなと。
15.奈良ホテルの防空壕







※2023年2月11日撮影。
奈良ホテルの敷地内には防空壕も残されています。これは補足編で触れます。

39.ゲストハウスたむら 高辻町










ゲストハウスたむら。高辻町。洋館付きの住宅を宿泊施設に再利用したもの。割と手ごろな値段で宿泊でき、この洋館内で手作り朝食を頂けるようで、いつか泊まってみたいかなと。
ここから、高畑町の住宅街へ。

40.並川邸 高畑町










M邸。高畑町。ログハウス風の洋館。

41.旧足立邸 高畑町 大正6年










H邸。高畑町。
42.濱田邸










昭和初期頃の洋館でしょうか。
17.濱田邸 高畑町







2023年2月11日の補足探索時に再度訪問したら、前の住宅が更地となり、洋館の全体が確認できるようになってました。
42.旧足立邸正門










旧足立邸。高畑町。大正8年。洋画家・足立源一郎の自邸として建てられた洋館。昭和3年に洋画家・中村義夫が譲り受け自邸としました。
18.旧足立邸







現在は「たかばたけ茶論」という喫茶店になってますが、開店が14;00からと待っていられないので、敷地外から撮影して終了。

43.河井邸 高畑町










K邸。高畑町。

43.青山邸 高畑町










A邸。高畑町。鎧戸のある洋館。

IMG_0967










T邸正門・塀。高畑町。かなり立派な門と塀のある住宅。奥の住宅は最近のものですが、この門の立派さを見ると、かつては相当な洋館が建っていたのかもしれません。

44.高畑町の煉瓦塀










煉瓦塀のある長屋。高畑町。

45.洋館住宅 高畑町










表札不明の洋館。高畑町。

46.洋館住宅 高畑町










洋館住宅。高畑町。昭和初期頃と思われる大きな洋館住宅。
47.洋館住宅










表札が外されており、現在は空家のようです。
48.洋館住宅










側面。マントルピースの煙突があることから、内部も手が込んでいそうです。
49.洋館住宅










ステンドグラスもありました。このまま空き家状態で失われていくのは勿体ないなぁ。

50.洋館住宅 高畑町










洋館住宅。高畑町。もしかしたら戦後かもしれませんが、一応掲載。

51.洋館住宅 高畑町










洋館住宅。高畑町。2階窓が鎧戸です。

52.平屋の洋館住宅 高畑町










平屋の洋館住宅。高畑町。旧足立邸の向かいにありました。
高畑町を後にし、近鉄奈良駅方面へ。

寛永堂










寛永堂。東向中町。元銀行だそうで、内部に装飾を施した柱が残されています。


IMG_0994













これにて2019年の奈良市内の近代建築探索レポは終了。今回探索した範囲で見逃した物件と有名すぎていつも撮影せずスルーしていた建物を含めて4年後の2023年に補足探索を行いましたので、次回はそちらのレポ日記を書きたいと思います。

6奈良市内某所の廃洋館













※建物の性格上、具体的な場所は明かせませんが、奈良市内に明治〜大正期築の大型の洋館の廃墟が存在します。
13奈良市内某所の廃洋館













廃墟化してかなり荒れてますが、外観を見てもかなりハイレベルな洋館と分かります。
17奈良市内某所の廃洋館










室内にはマントルピースやシャンデリアの座繰りが残されており、その豪華さが伺えます。奈良市内の戦前の洋館住宅としては、古さ・規模・デザイン性ともに随一かと思われます。
以前訪問した際のレポ日記を別記事にして書いております。
奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記
※具体的な場所はお答えできません。以前、荒らしに近い無礼なコメントがあり、リンク先の記事のコメント欄は閉じています。当記事でも同様のコメントに関しては即削除します。



besan2005 at 09:26|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 近代化遺産

2023年01月29日

富雄丸山古墳・現地見学会レポ日記

富雄丸山古墳現地説明会資料001













造り出し部分の埋葬施設から国宝級の発見があったと大きく報道された、奈良市にある富雄丸山古墳の現地見学会に行ってきました。
富雄丸山古墳は4世紀後半に築造された径109mの国内最大の円墳です。明治時代に墳頂部にある埋葬施設が盗掘され(出土したとされる副葬品は京都国立博物館が所蔵。国指定重要文化財)、昭和47年に埋葬施設が発掘調査されています。今回大発見があった場所は墳丘の裾に近い造り出しの部分から見つかった埋葬施設。ここから国内でも例を見ない盾形銅鏡と巨大な蛇行剣が見つかりました。



国宝級の発見と言われる盾形銅鏡と日本最大の蛇行剣はメディアにも注目され、続々と報道されまし
た。
盾形銅鏡と蛇行剣は保存処理中のため見れませんが、発掘現場の公開が28日と29日に行われ、28日は1400人、29日は3100人余りが見学に来たとか。さすがに注目されています。
私も29日の午前中に富雄丸山古墳の現地見学会に参加してきました。

1.富雄丸山古墳待機列







一般公開の開始時間の1時間前である9時に到着。すでに40人くらい並んでいました。
2.富雄丸山古墳盾型銅鏡







受付の机に置かれていた盾形銅鏡の実物大パネル。
3.富雄丸山古墳盾型銅鏡







実際見ると大きく感じます。
4.富雄丸山古墳蛇行剣







蛇行剣の実物大パネル。237cmの国内最大の蛇行剣は実際見るとめちゃデカい。
5.富雄丸山古墳円筒埴輪







出土した円筒埴輪。こちらは実物。
6.富雄丸山古墳説明板













富雄丸山古墳の説明板。史跡指定はされていませんが、国内最大の円墳という事で周囲は公園化され保存されています。今回の発見で史跡指定される可能性は十分あります。
7.富雄丸山古墳遠景







いよいよ、発掘現場の富雄丸山古墳へ。遠くに見えるのが富雄丸山古墳です。
8.富雄丸山古墳墳丘裾部







墳丘裾部の葺石。
9.富雄丸山古墳埴輪列







墳丘裾部の円筒埴輪列と葺石。かつては巨大な円墳の全体を葺石で覆い、円筒埴輪を巡らせていました。
10.富雄丸山古墳U区







U調査区。ここでも大きな発見がありました。
11.富雄丸山古墳鰭付円筒埴輪







U調査区の鰭付円筒埴輪。そして・・・
12.湧水施設形埴輪







湧水施設形埴輪。井戸のような湧水施設を模した埴輪だそうですが、こんな埴輪見たこと無い。
13.湧水施設形埴輪







盾形銅鏡と巨大蛇行剣ばかりに注目が行ってますが、この湧水施設形埴輪も大発見。
14.墳頂部







墳頂部。かつてはここに富雄丸山古墳の主の埋葬施設がありましたが、明治時代に盗掘されました。一部の出土品は京都国立博物館に所蔵され国指定重要文化財となってますが、もし盗掘されていなければどれだけの発見があったのだろうと思うと残念ですね。

15.造り出し粘土槨







そしてこれが今回、盾形銅鏡と国内最大の蛇行剣が出土した造り出し部分の埋葬施設。
粘土槨(ねんどかく)という木棺を粘土で覆った形の埋葬施設です。
16.造り出し粘土槨













粘土槨には盾形銅鏡と蛇行剣の実物大パネルが置かれていました。
富雄丸山古墳現地説明会資料002













現地見学会資料にある出土状況の写真。こんなの出てきたらビックリしますわ。
ちなみに盾形銅鏡と蛇行剣は粘土槨の外側から出土したもので、粘土槨の内部はまだ発掘されていません。これから調査されるとのことで、どんな発見があるか楽しみです。
20.2号墳







こちらは2号墳。横穴式石室墳なので、6世紀代まで時代が下ります。
21.3号墳







3号墳は盗掘されているようです。
18.遠景







見学を終えた10時ごろには見学者もだいぶ増えてきました。
19.NHK







NHKの取材班も。いずれNスぺで特集して欲しい。

富雄丸山古墳の現地見学会は貴重な発見のあった場所を感じさせるまたとない体験となりました。
今後、粘土槨の調査、そして盾形銅鏡と蛇行剣の一般公開に期待したいですね。


besan2005 at 21:09|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 遺跡

2023年01月22日

姫路市網干区の近代建築探索レポ日記

去年2022年12月29日に行った、たつの市の近代建築探索の翌日、12月30日に行った姫路市網干区の近代建築探索レポ日記です。ちなみにちょうど1年前に姫路市の市街地の近代建築探索を行ってまして、ブログ記事にもしておりますので、そちらもご覧ください。
スタートは山陽電鉄網干駅。そこから南下し東へと向かいます。


1.網干商工会館 興浜 昭和15年







網干商工会館。興浜。昭和15年。
2.網干商工会館







中々良い感じの洋館ですが、残念ながら去年の11月に閉鎖。もう少し早ければ。
3.網干商工会館







玄関ドアから内部。内部も当時の雰囲気が残されています。この建物も近いうちに取り壊されるようです。別サイトで内部の写真がありましたが、一度見てみたかったくらいの室内でした。

4.丸万料理鮮魚店 興浜







丸万料理鮮魚店。興浜。金比羅神社のすぐ横にある鮮魚店。かつては料理旅館だったのではと思います。現在も鮮魚販売だけでなく、魚料理の仕出しもしているようです。


5.旧山本邸 興浜 大正7年







旧山本家住宅。興浜。大正7年。旧網干銀行の創業者の邸宅。
6.旧山本邸







毎月2回、日曜日に公開しているようです。

7.知原眼科 新在家







知原眼科。新在家。
8.知原眼科







大正〜昭和初期くらいでしょうか。

9.旧網干銀行本店 新在家 大正12年







旧網干銀行本店。新在家。大正12年。網干区で一番有名な近代建築。さすがに存在感があります。以前は洋品店でアーケードが邪魔していましたが、現在はアーケードも撤去され見やすくなってます。現在は湊倶楽部というフレンチレストランですが、ランチのお値段が4500円で断念…。

10.旧長久医院 余子浜 昭和5年







旧長久医院。余子浜。車が・・・・
11.旧長久医院







別角度から。昭和初期くらいですかね。

12.旧銭湯 余子浜







旧銭湯。余子浜。現在は閉業。

13.林商店 余子浜







林商店。余子浜。2階部分が洋風です。

14.金井時計店 新在家







金井時計店。新在家。装飾に富んだ見ごたえのある看板建築。
15.金井時計店







軒の装飾。ちなみに隣にも看板建築がありますが、改修中でした。

16.旧赤穂塩務局網干出張所 新在家 明治33年頃







旧赤穂塩務局網干出張所。新在家。明治33年頃。かつて塩の販売は専売制でした。その名残の洋館。さすが役所の建物だけあって立派です。
17.旧赤穂塩務局網干出張所







別角度から。
18.旧赤穂塩務局網干出張所













廊下。現在は東京電機工業の本館で、国登録有形文化財。
19.旧赤穂塩務局網干出張所倉庫







木造倉庫もいくつか残されています。

19.旧タムラ技研本社 新在家







旧タムラ技研本社。新在家。外観は洋風に改装している町屋建築。現在は民家のようですが、大切に使われています。

20.大和産業 新在家







大和産業。新在家。敷地奥に気になる建物がありました。モダニズム建築ですが、バットレスの感じから昭和10年代っぽく見えます。

21.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場旧外国人技師住宅。新在家。明治43年。日本セルロイド人造絹糸の時代に外国人技師の邸宅として建てられた洋館。設計は設楽貞雄。近年の整備で異人館として見学可能になりました。
22.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







アメリカンスタイルの素敵な洋館。
24.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







内部を見学したいですが、平日じゃないとダメみたい。

25.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場旧外国人技師住宅。明治43年。異人館のすぐ近くに建つ洋館。ひちらも異人館と同様に外国人技師の邸宅として建てられました。こちらはダイセル網干工場の迎賓館となっているため見学不可。設計は同じく設楽貞雄。

26.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場旧外国人技師住宅。明治43年。こちらは平屋建て。
27.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







2階建てのアメリカンスタイルの洋館と違い、こちらはコロニアル様式っぽい感じで、やや古風に見えます。
28.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







正面バルコニー。
29.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場・旧外国人技師住宅







現在はダイセル網干工場社員のレクリエーション施設となっています。

30.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場事務所 新在家







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場事務所。新在家。
31.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場建物。ダイセル網干工場の敷地内には戦前の建物が今でも残されています。

36.ダイセル化学工業姫路製造所網干工場発電所







ダイセル化学工業姫路製造所網干工場旧発電所。新在家。明治43年。大きな煉瓦造の建物。

32.旧岡田燐寸製造所倉庫 新在家 昭和初期







旧岡田燐寸製造所倉庫。新在家。昭和初期。まるで取り残されたかのように存在する煉瓦の倉庫。
33.旧岡田燐寸製造所倉庫







かつて姫路市周辺にはマッチ工場がいくつもありました。この煉瓦倉庫はその名残です。
34.旧岡田燐寸製造所倉庫







周りの建物は建て替えられましたが、この煉瓦倉庫だけがそのまま残されている感じ。
35.旧岡田燐寸製造所倉庫







裏側。現在は大和産業の危険物倉庫となっていますが、倉庫の周囲が整備されているように見えます。現在の大和産業の前身が岡田燐寸製造所であり、もしかしたら記念碑的な感じで残しているのかもしれません。もしそうなら、説明板とか置いて欲しいですね。

以上で姫路市網干区の近代建築探索は終了。すでに知られている物件ばかりで新たな発見はありませんでしたが、それでも優れた近代建築に出会えた良い探索となりました。


besan2005 at 12:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 近代化遺産

2023年01月21日

京都市上京区(御所周辺〜西陣)の近代建築探索レポ日記

2019年5月11日に探索した御所〜西陣までの近代建築探索レポ日記です。一部、それ以前に訪問し現在は失われている建物も合わせて紹介します。上京区は物件が多く今回の記事はかなり長くなります。それでも全ては抑えきれていませんが。

さて、上京区の近代建築探索ですが、まず左京区の建物を2つほど。
1.洋館付き商店 左京区聖護院川原町










洋館付き住宅。左京区聖護院川原町。1階部分に貼られまくってるポスターがちょっと邪魔ですが、洋館はいい感じかと。

2.十両 左京区聖護院山王町










十両。左京区聖護院山王町。
3.十両










料理屋さんのようですね。

ここから上京区へ。
4.旧京都中央電話局上分局 上京区駒之町 吉田鉄郎 大正13年










旧京都中央電話局上分局。駒之町。大正13年。吉田鉄郎設計の有名な建物。以前は博物館でしたが、現在はスーパーになっています。

5.高嶋医院 上京区俵屋町










高島医院。俵屋町。
6.高島医院













この洋館が診察室だったんでしょうか。

7.旧第一銀行丸太町支店 上京区東東椹木町 昭和2年 西村好時










第一銀行丸太町支店。東椹木町。昭和2年。こちらも有名。設計は銀行建築を多く手掛けた西村好時。


8.石田・新井邸 上京区新烏丸頭町










I・A邸。新烏丸頭町。

9.石田・新井邸










洋館付きの住宅が並んでいます。

10.高木邸 上京区松蔭町 昭和7年 藤井厚二










T邸。松蔭町。昭和7年。
11.高木邸










あの藤井厚二の設計です。

12.吉田商店 上京区荒神町













吉田商店。荒神町。昭和初期らしい洋風の商店ビル。よく見たら裏側の屋根が丘屋根ではなく切妻風の屋根でシャレてます。
13.西川薬品 上京区宮垣町










西川薬局。宮垣町。看板建築でいいのかな?

14.岡村邸 上京区東桜町










O邸。東桜町。昭和初期。ハーフチンバーの大きな洋館。
15.岡村邸










こんな凄い洋館が街中に残されているのは京都ならではかもしれませんね。

16.石田邸 上京区東桜町










I邸。東桜町。煉瓦塀の住宅。

17.京都府立医科大学附属旧図書館上京区梶井町 昭和4年 










京都府立医科大学旧図書館。梶井町。昭和4年。これも有名な建物。ゴシックアーチがいかにも大学の建物っぽいですね。
京都府立医大講堂









かつては旧図書館の前に講堂がありました。写真は20年前くらいに撮影したもの。
この日は室内には入れませんでしたが、階段は登ることが出来ました。
18.京都府立医科大学附属旧図書館 










ゴシックアーチの玄関を入ると、1階階段があります。
19.京都府立医科大学附属旧図書館 










2階階段室。
23.京都府立医科大学附属旧図書館 










レトロな傘立て。
21.京都府立医科大学附属旧図書館 













入り口のドア。
20.京都府立医科大学附属旧図書館 










3階階段室。
22.京都府立医科大学附属旧図書館 













3階のゴシックアーチの窓。いい感じですね。

24.二宮邸 上京区宮垣町










N邸。宮垣町。
26.宮垣邸










大きめの洋館が付属する住宅。

27.旧山口玄洞邸 上京区梶井町 大正12年










旧山口玄洞邸。梶井町。大正12年。
28.旧山口玄洞邸










武田五一設計の名建築。巨大な玄関車寄せが特徴の洋館。
29.旧山口玄洞邸










玄関のステンドグラス。
30.旧山口玄洞邸










この大きな洋館は内部も贅を尽くした素晴らしいものだそうですが、現在、聖トマス学院の所有となっており、残念ながら非公開。内部、見てみたいなぁ。
31.旧山口玄洞邸










離れの建物。倉庫だったかな?

32.聖ドミニコ女子修道院 上京区梶井町










聖ドミニコ女子修道院。梶井町。ここもかつてのお屋敷だった模様。奥に洋館が見えます。

33.上山邸 梶井町










U邸。突抜町。和洋折衷の住宅ですね。

34.石崎邸 上京区新夷町 大正15年 藤井厚二










I邸。新夷町。大正15年。藤井厚二の設計。
35.石崎邸










玄関部分。煉瓦敷の階段がいいですね。

35.三共不動産 梶井町










三共不動産。梶井町。昭和初期くらいでしょうか。

35.了徳寺洋館 梶井町 旧伏見宮邸 昭和2年










旧伏見宮邸。梶井町。昭和2年。近年まで了徳寺の所有で荒れ放題でしたが、現在は真宗大谷派の所有。洋館もかなり傷みが目立ちます。
DNyJvukVQAI1wc0













「昭和大礼京都府記録」に掲載されている伏見宮邸の洋館内部の写真。さすが宮家のお屋敷だけあって内部も豪華。このまま朽ちるのは惜しいですね。

36.塩路邸 梶井町










S邸。梶井町。鴨川に面して建つ洋館住宅。

36.山本邸










Y邸。梶井町。S邸の隣に建つ洋館住宅。
36.山本邸 梶井町










鴨川側から見ると、より雰囲気を感じられます。

 36.藤田邸 扇町 










F邸。扇町。
37.藤田邸













中々存在感のある洋館です。

38.木村邸 突抜町










K邸。突抜町。奥に良い感じの洋館があります。

39.洋館付き住宅










洋館付き住宅。すいません。場所を失念しました。

40.石野邸 藪之下町










I邸。藪之下町。
41.石野邸










結構変化に富んだ見所のある昭和初期の洋館住宅です。

43.鈴木邸 桜木町










S邸。桜木町。これは本格的な洋館ですね。煉瓦の門柱と塀も合わせて、結構なお金持ちが建てた感じが。内部もさぞかし立派な造りなんでしょうね。個人宅だから無理だけど見てみたいなぁ。

44.洋館住宅 相国寺門前町










洋館住宅。相国寺門前町。
45.洋館住宅










同じデザインの洋館住宅が2棟並んでいます。

長田学舎2










長田学舎。相国寺北門前町。RC造と思われる和風建築。
長田学舎 相国寺北門前町










現在は演劇関係の施設として使用されてますが、2階窓が伝統的な寺院建築の花頭窓だったりと、元は相国寺の関連施設だったのかなと思います。

京都大学室町寮 竹園町 昭和17年







京都大学室町寮。竹園町。昭和17年。
京都大学室町寮2







吉田寮もですが、京都大学って戦前からの古い寮を今でも使ってますよね。しかし、何とも雰囲気のある建物。まるでタイムスリップしたかのよう。
京都大学室町寮3







入口も当時のままで雰囲気あります。

46.勝間邸 柳図子町 大正13年 藤井厚二










K邸。柳図子町。大正13年。こちらも藤井厚二の設計。

47.バザールカフェ 岡松町










バザールカフェ。岡松町。大正8年。宣教師の住宅としてヴォーリズ建築事務所が設計した建物。現在はカフェとして使用されています。

48.宇之助 築山北半町










宇之助。築山北半町。現在はお弁当屋さんの洋館付き住宅。

49.焼肉ホルモンニューみよし 北公次室町










焼肉ホルモン・ニューみよし。北公次室町。少し前までは空き家だった気がします。大型の商店建築で行く末が気になってましたが、新たな店舗が入って良かったです。

50.旧柳本邸 観三橘町 昭和4年 上野伊三郎










旧柳本邸。観三橘町。昭和4年。知る人ぞ知る有名物件。
51.旧柳本邸










設計者の上野伊三郎はブルーノ・タウトと深い関わりがあった建築家として知られています。

52.松浦邸 観三橘町










M邸。観三橘町。昭和初期頃の白亜の洋館。

62.室町通りの旧理髪店













理容キタムラ。北小路室町。大正期と言われるレトロな理髪店。1階が洋風で2階が和風なのが雰囲気あっていいですね。現在は廃業みたいですが。

56.山内邸 元土御門町 大正11年










Y邸。元土御門町。大正11年。
57.山内邸










付属の洋館、結構大きいですね。応接室だと思いますが、経営者の邸宅だったんでしょうか。

58.下川邸 仲之町










S邸。仲之町。こちらも立派な洋館が付属するお屋敷。

60.山本邸










Y邸。一松町。
59.山本邸 一松町










昭和初期頃でしょうか。大きな洋館住宅です。
61.山本邸













門は和風なんですね。


63.キョーラク 龍前町













キョーラク。龍前町。大正〜昭和初期頃。タイル張りの洋館事務所。


64.野村邸 西橋詰町










N邸。西橋詰町。主屋に付属する洋館ですが、洋館の方がデカくて主屋の存在感が薄くなってますね。

65.きらく堂薬局 大黒町










きらく堂薬局。大黒町。元は町工場の事務所でしょうか。

66.福本邸 菱屋町










F邸。菱屋町。元は個人医院かなと思われる洋館住宅。

68.木村邸 天秤町










K邸。天秤町。京都市内ではまだまだよく見かける平屋の小洋館付きの住宅。
69.木村邸













小さい洋館ですが、丁寧な仕事だと思います。

70.無風洞 中務町










無風洞。中務町。一応公式サイトがあり、藤井厚二の設計による洋館住宅らしい。しかし、建築年とかの記述がなく不明。

71.松永邸 松之下町










M邸。松之下町。和洋折衷な大きい住宅。

73.協織株式会社 元伊佐町 大正10年










協織株式会社。元伊佐町。大正10年。ここから西陣地区。西陣界隈はやはり織物関係だった建物が多く見られますね。

74.旧西陣織物館 大正3年 本野精吾










旧西陣織会館。元伊佐町。大正3年。本野精吾の代表作として知られる建物。現在は京都市考古資料館。

75.旧西陣織物会館事務所 元伊佐町 昭和11年













旧西陣織物会館事務所。昭和11年。考古資料館の背後にあるビルも戦前建築。モダンな建物です。現在は京都市埋蔵文化財研究所の事務所。

76.旧西陣小学校 幸在町 昭和10年








旧西陣小学校本館。幸在町。昭和10年。
77.旧西陣小学校








戦前の学校建築ってなんでこんなに素敵なんだろうなぁ。

78.BARBERやまぎし 下石橋南半町










BARBARやまぎし。下右橋南半町。ちょっと気になった理髪店。

79.昌栄織物 如水町










昌栄織物。如水町。洋館付き住宅が会社の事務所として使われている形です。

80.浅田商店 聖天町










浅田商店。聖天町。これも素敵な洋館の商店建築。
81.浅田商店










こういう建物、ずっと残ってほしいなぁ。

82.浄福寺診療所 大黒町










浄福寺診療所。大黒町。
83.浄福寺診療所








昭和初期頃の診療所。スクラッチタイルの外壁がいいですね。

84.洋館付き住宅 聖天町










洋館付き住宅。聖天町。こちらは一体化してますね。そのせいかモダンに見えます。

85.理容室いこい 大猪熊町










理容室いこい。大猪熊町。京都市内には戦前の洋風理髪店が割と残ってますね。

86.國定織物 大猪熊町










國定織物。大猪熊町。奥にレベルの高い付属洋館があります。
87.國定織物










洋館には凝った装飾が。

88.三上邸 牡丹鉾町













M邸。牡丹鉾町。現在は個人宅ですが、かつては事務所とかだったのでしょうか。昭和初期頃かな。

90.吉岡邸 末広町










Y邸。末広町。

91.山田立志堂 南上善寺町













山田立志堂。南上善寺町。かつては時計店だった昭和初期頃のビル。

92.西陣接骨鍼灸院 三軒町










西陣接骨鍼灸院。三軒町。軒周りに凝った装飾のある建物。1階部分とかかつてはもっと装飾に富んでいたのかもしれません。

93.茨木邸 二番町










I邸。二番町。大きな洋館が付くお屋敷です。

京都市上京区、御所界隈〜西陣までの近代建築探索はここまで。ちなみに中京区になるのでここでは取り上げませんでしたが、隣接した界隈の過去の探索分を記事にしてますので、合わせてご覧ください。
京都市中京区(二条城〜四条〜御所南界隈)近代建築探索レポ日記
京都市中京区(旧待賢小学校〜旧新道小学校界隈)の近代建築探索レポ日記

さて、この4年の間に今回の探索界隈でも失われた近代建築はいくつかあります。ここからはそれ以前に撮影して失われたものも含め、それらを取り上げたいと思います。

38.桂弘薬局 米屋町










桂弘薬局(※現存せず)。米屋町。アーチ窓が可愛い看板建築でした。

53.青柳邸 観三橘町 大正11年 武田五一










旧青柳邸(※現存せず)。観三橘町。大正11年。武田五一の設計の大型洋館住宅。残念ながら5年くらい前に取り壊され現存していません。写真はたまたま用事で通りかかった時に見つけて撮影したもの。
54.青柳邸










外観から分かる通り、手の込んだかなり立派な洋館。内部もレベルの高いものだったと思われますが、今となってはもう知ることは出来ず…。

55.旧富岡鉄斎邸書庫(旧府議会議員官舎) 薬屋町 大正期










旧富岡鉄斎邸書庫(※現存せず)。薬屋町。大正期。明治・大正期の文人画家として知られる富岡鉄斎邸の洋館の書庫で、近年まで京都府議会議員公舎として京都府北部の府議会議員の宿舎として使用されていましたが、去年主屋と共に取り壊されたようです。一応、保存活用の案もあったようですが、著名人の邸宅でも取り壊されてしまうんですね。ちなみにこちらのブログに書庫内部の写真がありますが、宿舎として使用するためかなり改造されています。


護王神社南の洋館4










旧大井邸洋館(※現存せず)。近衛町。護王神社の南側にあった洋館。
護王神社南の洋館2













主屋に隠れて見えづらかったですが、それでもレベルの高さを感じる洋館でした。
大井邸・大正期の洋館










その旧大井邸の洋館が、通りかかった際に取り壊されていました・・・

上京区役所2










上京区役所。(※現存せず)。堀出町。昭和12年。
上京区役所1










1階から3階まで真っ直ぐ伸びたステンドグラスが特徴的でした。

梅香荘2017年12月取り壊し1










梅香荘。(※現存せず)。明治28年。元々は京都電燈堀川変電所だった建物。
梅香荘2017年12月取り壊し2










その後、アパートに改装されましたが、6年前に取り壊されました。

旧みずほ銀行西陣支店










みずほ銀行西陣支店。(※現存せず)。昭和11年。旧第一銀行西陣支店。京都市考古資料館の向かいにあった古典様式の銀行建築。第一勧業銀行からみずほ銀行になったとき、多くの戦前の銀行建築が取り壊された気がします。

西陣には他にも
旧びわこ銀行西陣支店









京都市考古資料館の隣にあった、びわこ銀行西陣支店(大正10年)や、
山口銀行西陣支店1









山口銀行西陣支店2








旧山口銀行西陣支店などの銀行建築がありましたが、すべて失われました。


besan2005 at 12:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2023年01月14日

旧三井家下鴨別邸特別公開レポ日記

2022年8月の夏の文化財特別公開で公開された旧三井家下鴨別邸へ行った際の記事です。
旧三井家下鴨別邸は1階と庭園は普段から公開していますが、2階と3階は特別公開の日にしか入ることができません。今回は2階まででしたが、行ってみることにしました。

1.三井下鴨別邸正門







旧三井家下鴨別邸の正門。
2.三井下鴨別邸外観







旧三井家下鴨別邸の主屋。旧三井家下鴨別邸は元々明治13年に木屋町に建てられていた三井家の別邸を大正14年に三井家の祖霊社のある現在地の下鴨神社南の敷地に移築。増築を行い竣工しました。三井家の祖霊社は明治42年に完成しましたが、その敷地には元々屋敷があったらしく、旧三井家下鴨別邸の移築建築の際、元々の屋敷にあった茶室は残し旧三井家下鴨別邸の茶室としたようで、修理の際に慶応四年の年号がある棟札が見つかっています。旧三井家下鴨別邸は戦後、財閥解体により三井家から国へと移譲。国有地となった旧三井家下鴨別邸は昭和24年に京都家庭裁判所の官舎となりました。平成19年に官舎は廃止となり、平成24年に重要文化財に指定。修復され現在は文部科学省に移管されています。
3.三井下鴨別邸玄関







旧三井家下鴨別邸は江戸時代末期の茶室、明治時代の主屋、大正時代の玄関棟からなる近代和風建築です。写真は玄関棟。ここから入ります。
4.応接室







玄関入ってすぐの所にある洋室の広間。和風を基調とした旧三井家下鴨別邸の中で、玄関両脇にある応接室と洋室広間は数少ない洋風の部屋です。現在はレストランになっています。
5.1階座敷







1階座敷。旧三井家下鴨別邸の部屋で一番広い部屋。
6.1階座敷







1階座敷の床の間。
17.1階座敷次の間







1階座敷次の間。
10.1階8畳間







1階座敷次の間。奥には坪庭が。
11.1階中庭







坪庭部分。
32.1階廊下







1階廊下。
34.1階廊下










1階廊下。
18.1階座敷水屋













1階座敷の水屋。茶室だけでなく座敷でも茶を立ててたようです。
13.1階3畳間







1階3畳間。奥の板戸の絵は江戸時代後期の画家、原在正の作。
7.三井下鴨別邸蹲







1階座敷の縁側にある蹲。奥の建物が慶応4年の茶室。
8.三井下鴨別邸蹲







蹲。庭園へは1階の縁側から降りれます。
9.三井下鴨別邸庭園から







庭園側から見た旧三井家下鴨別邸。こうして見ると大きな建物です。三井家所有時は祖霊社の休憩所として使用されていたようです。
14.百日紅







庭園には百日紅や
15.桔梗







桔梗や
16.蓮







蓮の花が咲いていました。再び建物へ。
19.2階座敷







2階座敷。
21.2階座敷








庭園側は濡れ縁となっており、庭園を眺めることができます。木屋町時代は高瀬川側になってました。
22.2階座敷から







2階座敷から眺める。庭園。庭園は池泉回遊式。
20.2階座敷床の間







2階座敷の床の間。
23.2階4畳半間







2階4畳半間。
24.2階6畳半間







2階6畳半間。2階の上には中3階の部屋と3階望楼がありますが、今回の特別公開はここまで。
3階の特別公開も年に何回かあるようです。
25.2階東階段







2階東側階段の横には浴室と便所があります。
26.2階東階段







東側階段の手摺。
27.2階東階段








手摺のデザインは結構モダンなデザインで、大正14年移築時の物かと思います。
28.脱衣所







脱衣所の洗面台。
29.浴室













2階浴室。ちなみに1階には2ヵ所浴室があります。
30.2階便所







2階便所。当時としては珍しい洋式。これも大正期のものでしょう。1階にも3ヵ所便所があります。
31.2階洗面台













洗面台。水回りは近代的な方が使い勝手がいいのか、洋式で統一されています。
旧三井家下鴨別邸は取り壊しの話もあったようですが、近代和風建築としての価値が認められ、修復され重要文化財に指定されたことで、新たな京都観光の1つとして人気となっています。この日も多くの観光客が訪ねていました。



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2023年01月08日

たつの市の近代建築探索レポ日記

昨年、2022年12月29日に年末年始の休暇を利用して、兵庫県たつの市の近代建築探索をしてきました。
まずは本竜野駅前を探査。

1.洋風商店 龍野町堂本







駅前にある商店建築。たつの市龍野町堂本。
2.洋風商店







角の部分のベランダが良い感じです。
3.洋風商店







現在は使われていないようですが、元は美容室だったようです。

4.洋風商店 龍野町富永







洋風商店建築。たつの市龍野町富永。
5.洋風商店







事務所建築かもしれません。

7.田中邸







T邸。たつの市龍野町富永。
6.田中邸 龍野町富永







塔屋のある大きな建物。新しい建物かなと思いましたが・・・

9.田中邸







側面の窓がアーチになっていて古さを感じたので、一応撮影。

10.富永橋 龍野町富永







富永橋。たつの市龍野町富永。多分昭和初期。
11.富永橋そばの建物








12.富永橋そばの建物







富永橋の側にある建物。

13.ガレリアアーツ 龍野町富永







ガレリアアーツ。たつの市龍野町富永。揖保川の側に立つ洋風建築。

14.ガレリアアーツ







ツイッターで頂いた情報では元銀行だったとか。
ここから揖保川を渡り龍野城のある対岸の街へ。

15.洋風アーチ門のある屋敷 龍野町下川原







揖保川の対岸にある洋風アーチ門のあるお屋敷。たつの市龍野町下川原。
16.洋風アーチ門のある屋敷







アーチ門部分。中々の門構え。スパニッシュ風ですね。
17.洋風アーチ門のある屋敷













装飾部分。
18.洋風アーチ門のある屋敷







通用門の装飾。

19.3階建ての建物 龍野町下川原







3階建ての和風建築。リノベートされています。

20.大阪屋 龍野町下川原







大阪屋。たつの市龍野町下川原。洋風の商店建築。

21.古林医院 龍野町下川原







古林医院。たつの市龍野町下川原。
22.古林医院







町屋造りの病院。
23.古林医院







玄関部分も趣あります。

25.古林邸







F邸。たつの市龍野町下川原。楼閣付きの立派な4階建て木造建築。

26.洋風住宅 龍野町旭町







洋風住宅。たつの市龍野町旭町。この辺りには龍野町遊郭がありました。

28.龍野町遊郭建築 龍野町旭町







龍野町遊郭の建物。たつの市龍野町旭町。まさに遊郭建築といった大きな建物。
29.龍野町遊郭建築







置屋建築でしょうか。
30.龍野町遊郭建築







正面からでは入りきれないくらい大きい建物。

31.カネヰ醤油 龍野町上川原







カネヰ醤油。たつの市龍野町上川原。煉瓦の宇建が中々洒落てます。
32.カネヰ醤油







カネヰ醤油の工場。煉瓦の煙突が見えます。

33.遊郭建築か 龍野町上川原







近くにある気になった建物。

34.商店建築 龍野町旭町







商店建築。たつの市龍野町旭町。たまたま見つけた建物ですが、中々のインパクトがあり思わず撮影。
35.商店建築







全体にタイルを貼っていますが、かなり年季が入ってます。戦後建築かもしれませんが、この古色ぶりは中々のもの。

36.半壊の洋館 龍野町柳原







廃墟の洋風住宅。たつの市龍野町柳原。ほぼ半壊していて、近いうちに姿を消すでしょう。

37.旧龍野醤油協同組合本館(大正ロマン館) 龍野町上霞城 大正13年







旧龍野醤油協同組合本館。たつの市龍野町上霞城。大正13年。
38.旧龍野醤油協同組合本館(大正ロマン館)







たつの市を代表する近代建築の1つ。現在は大正ロマン館として使用され、内部にも入れますが、この日は年末休館で入れず…

39.満田邸 龍野町上霞城 







M邸。たつの市龍野町上霞城。
40.満田邸







かなり立派な洋館付き住宅。

41.うすくち龍野醤油資料館 昭和7年







うすくち龍野醤油資料館。たつの市龍野町大手。昭和7年。たつの市を代表する近代建築の1つ。
42.うすくち龍野醤油資料館







元々はヒガシマル醤油の本社屋でした。たつの市はヒガシマル醤油のお膝元の街。
43.うすくち龍野醤油資料館







そしてここも年末休館で入れず。29日まではやってて欲しかったなぁ。

ふるさと 龍野町立町







ふるさと。たつの市龍野町立町。外観が洋風の小料理屋さん
44.ふるさと







軒下の装飾。
45.ふるさと













玄関部分のタイル張り。

46.洋風住宅 龍野町立町







洋風外観の住宅。たつの市龍野町立町。2階窓がT邸のようなアーチ窓です。

47.旧中川医院 龍野町立町 明治30年







旧中川医院。たつの市龍野町立町。明治30年。貴重な明治の擬洋風建築。現在はカフェになっていますが、やはりお休み…

48.元理髪店 龍野町本町







旧理髪店。たつの市龍野町本町。洋風の散髪屋さん。
50.元理髪店







現在は廃業しているようですが、内部を覗くとそのまま残されていました。

51.写真の店トラヤ 龍野町川原町







写真の店トラヤ。たつの市龍野町川原町。洋館の写真館。
52.写真の店トラヤ







玄関部分が意匠的です。大正期の建物でしょうか。

53.サイレントリリィ 龍野町川原町







サイレントリリィ。たつの市龍野町川原町。 
54.サイレントリリィ







現在は雑貨店。大きな窓がモダンさを出してます。

55.サイレントリリィ







2階の装飾。折り紙の風車のような変わった装飾。

56.金葉会 龍野町川原町







金葉会。たつの市龍野町川原町。何かの会館だったのでしょうか。

58.川原町公民館







川原町公民館。たつの市龍野町川原町。
57.川原町公民館 龍野町川原町







スクラッチタイルを外壁に用いた昭和初期らしい外観。
59.川原町公民館







ただし、建物自体は木造の看板建築だと分かります。

60.杉原邸 龍野町川原町







S邸。たつの市龍野町川原町。
61.杉原邸







建物の半分が洋館で、半分が和風という変わった建物。

62.山下邸 龍野町曰山







Y邸。たつの市龍野町曰山。明治36年。まるで神戸の北野にあるようなレベルの高い洋館。
63.山下邸







明治36年築という古さも貴重。相当な資産家が建てたと思われる洋館。
65.山下邸







たつの市の洋館住宅としては一番のレベルの高さかと。
66.山下邸







玄関のアーチ窓にいるフクロウの像。内部とかも凄いんだろうなぁとは思いますが、何せ個人宅なので。最近外壁を塗り直しているようで、大切に使われていることが分かります。

67.ヒガシマル醤油第二工場事務所 龍野町曰山







旧ヒガシマル醤油第二工場事務所。たつの市龍野町曰山。たつの市の中心街から少し外れた場所にある工場。昭和初期でしょうか。
68.ヒガシマル醤油第二工場事務所







今は工場としては使われていないかも。

70.洋館平屋 龍野町曰山







洋風の平屋住宅。たつの市龍野町曰山。ヒガシマル醤油第二工場の近くにあります。

71.洋室のある町屋 龍野町曰山







洋室のある町屋。たつの市龍野町曰山。洋室部分は応接室だったんでしょうね。元商家かな。

73.洋館付き住宅







洋館付き住宅。たつの市龍野町中霞城。玄関部分が良い感じですね。

74.中塚邸 龍野町中霞町







N邸。たつの市龍野町中霞城。主屋を中心に洋館と洋風の玄関が付属する住宅。
76.中塚邸







洋館部分。背後の主屋も洋館側は外観が洋風になってます。
75.中塚邸







玄関部分も洋風。もしかしたら個人医院だったのかも。

77.ドイツ風洋館住宅 龍野町中霞町







ドイツ風の洋館住宅。たつの市龍野町中霞城。塀の奥に本格的な洋館住宅がありました。昭和初期でしょうか。
78.ドイツ風洋館住宅







門も意匠的。やや和風っぽくも見えますが。
79.ドイツ風洋館住宅







門の格子から敷地内を拝見。表札も出ていないため、空き家っぽいです。

80.近代和風建築 龍野町中霞町







数寄屋風近代和風建築。たつの市龍野町中霞城。元料理旅館でしょうか。レベルの高い数寄屋建築がありました。

81.常木邸 龍野町下霞城







T邸。たつの市龍野町下霞城。
82.常木邸







中々本格的な洋館が付属した住宅がありました。昭和初期でしょうか。

83.下見板張りの平屋 龍野町下霞町







下見板張りの平屋建物。たつの市龍野町下霞城。ちょっと気になった建物。
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向かいに建つ和風建築も良い感じでした。

84.加瀬タイル 龍野町下川原







加勢タイル。たつの市龍野町下川原。駅へと向かう途中に見つけた建物。

85.加瀬タイル







建物は町屋造りですが、タイル店だけあって本来は漆喰を塗るはずの壁はモザイクタイルでびっしりと貼られています。
86.加瀬タイル













1階部分に貼られたモザイクタイルで書かれた「タイル衛生陶器」の文字。
87.加瀬タイル













反対側には「KASETILE」の文字。タイル店としての誇りと自信を感じる細工です。

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たつの市は播磨の小京都と言われるくらい古い建物が多く残る風情ある街で、近代建築にも多く出会えました。ただ、年末ということで普段なら内部に入れる建物が軒並み休館だったのが残念。龍野城も外観は見れましたが、本丸御殿は入れず・・・。機会があったら今度は入りたいですね。

ヒガシマル醤油







上にも書きましたが、たつの市はヒガシマル醤油のお膝元の醤油の街。
うすくち醤油ラーメン







その醤油の街たつの市で頂いた「うすくち醤油ラーメン」。たつの市の薄口醤油を使用したラーメンはあっさりかつ醤油の風味や出汁が良く効いていて美味しかったです。


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2022年12月25日

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構探索レポ日記

兵庫県福崎町にかつて大阪陸軍航空補給廠姫路出張所という陸軍の施設がありました。
大阪陸軍航空補給廠姫路出張所は大阪陸軍航空支廠の機材や燃料の管理部門として昭和17年に完成しました。
今回、福崎町の近代建築探索のついでに大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の遺構の探索もすることにしました。ただし、遺構の詳細に関してはあまり分からなかったので、いつもお世話になっています「大日本者神國也」の管理人、盡忠報國様よりアドバイスを得て探索しました。
※大日本者神國也 大阪陸軍航空補給廠姫路出張所
しかし、目当てにしていたいくつかの遺構に関しては確認できなかったり、辿り着けなかったりと未探索に終わった遺構もあり、不完全燃焼な結果に。なので、当記事は探索できた遺構のみ紹介いたします。
なので、詳細な情報が知りたいという事でしたら、盡忠報國様のブログの記事を閲覧される方が良いかと思います。

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構配置図










大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構位置図。
戦後、大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の跡地は町の誘致により養鶏場が完成しますが、杜撰な経営により新たに工業団地となることが決定し、現在は福崎工業団地となっており、その際に主要な遺構はほぼ取り壊されたものと思われます。現在は敷地の中心から離れた箇所や山中に残された遺構が点在する形となっています。

1.正門







\橘隋L渦箸力討稜鴫阿力討忙弔気譴討い泙后L膸イ寮廚残っています。
2.正門







裏側。国旗を掲揚していた金輪が残されています。かつては門扉の金属製の蝶番がありましたが、恐らく戦後すぐに取られたものと思われます。

3.裏門







⇔¬隋B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の遺構では一番知られているもので、正門と違い門柱は2つ残さています。写真は敷地外から。
4.裏門







敷地内から。蝶番が全て取られています。
5.裏門説明板







裏門の脇には説明板が設置されています。

6.コンクリート構造物







コンクリート構造物。裏門の敷地内側のすく近くにある遺構。

7.コンクリート構造物







何の遺構かは不明。盡忠報國様は焼却炉ではと書かれています。

8.土堤







づ敖蕁B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の敷地を区切る境界の土堤。
9.土堤







断面は三角形です。

この他にも山中に乾燥火薬庫の跡が2ヵ所あり、火薬庫基礎や石垣擁壁や貯水槽が明瞭に残っているようですが、向かったはいいものの、進入路が全く分からず断念。 消化不良の残念な結果となりました。
あと、周辺には地下壕もいくつか残されているようです。

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舞鶴市・博奕岬防空砲台遺構見学レポ日記

舞鶴市の博奕岬にかつて明治時代に陸軍により建設された探照灯と太平洋戦争中に海軍が建設した防空砲台がありました。現在、海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっているため立ち入り禁止となっていますが、今回、フォロワーさんの粘り強い交渉により、海上自衛隊の方々の案内のもと、博奕岬防空砲台の遺構を見学することが出来ました。(2022年6月24日見学)。
交渉をしてくださったフォロワーさん、案内をしてくださった海上自衛隊の広報の方々には貴重な体験をさせて頂き、厚く御礼を申し上げます。

さて、博奕岬防空砲台ですが、上記の通り元々は明治33年に陸軍の探照灯が造られていました。その後、演習砲台として使用され、
昭和16年に海軍が敷地を取得。防空砲台として再利用されます。
博奕岬防空砲台 舞鶴海軍警備隊戦時日誌昭和17年10月20日









アジア歴史資料センター所蔵「舞鶴海軍警備隊戦時日誌(C08030485700)」より昭和17年10月20日撮影の博奕岬防空砲台。

博奕岬防空砲台遺構位置図








博奕岬防空砲台各遺構配置図。(管理人作成)

博奕岬防空砲台は昭和17年11月に完成します。
海軍の防空砲台は舞鶴市内に舞鶴湾を囲むように8ヵ所設置され、槇山・浦入・建部山のように明治期の陸軍の砲台を利用したものもありましたが、倉梯山防空砲台のように新たに設置された砲台もありました。
10年前に探索した倉梯山防空砲台のレポ日記。

博奕岬防空砲台は前述の通り海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっており、山頂の博奕岬防空砲台がある場所へと向かう山道の入り口には大きなゲートがあり、立ち入り禁止となっています。今回は海上自衛隊の方々の案内のもと、ゲートを通り向かうことになりました。

1軍道擁壁石垣










舗装路をそのまま登ると明治期の陸軍時代と思われる石積擁壁が出現。灯台へ至る舗装路もかつては軍道だったことが分かります。

2灯台前門柱













舗装路を登りきると灯台が見え、その手前にコンクリート製の門柱が現れます。

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岬の山頂にある博奕岬灯台灯台。最近外壁がリフォームされて綺麗になってますが、大正11年築。

IMG_1766













灯台の近くにある石製の門柱。明治期の物でしょうか。

3指揮所壕










灯台を過ぎさらに進むと、上部に荒廃した戦後の監視所の建物がある箇所に。その下のコンクリートの地下壕がかつての指揮所壕でした。

4指揮所壕










指揮所壕の入り口。

5指揮所壕入り口










指揮所壕の入り口に入ると、奥に木製の引き戸があります。

6指揮所壕内部










内部は物置になってましたが戦時中の当時のままでした。

7指揮所壕脇階段













指揮所壕入口脇の階段。戦時中も壕の上に監視の建物があったそうで、戦後に新たに建て替えたようです。

8指揮所壕脇の柵










指揮所壕の周りを囲むコンクリートの柵柱。

9指揮所壕近くの貯水槽










指揮所壕の近くの貯水槽。

IMG_1813










指揮所壕を過ぎ、しばらく歩くと道が分かれており、下へ下る道の方を進んでいくと、自衛隊の施設だったと思われる半ば廃墟と化した建物が見えてきます。そして、その建物の玄関の前に、

17地下式弾薬庫前高射砲座










高射砲の砲座がありました。8センチ高角砲の砲座と思われます。

10地下式弾薬庫










そしてさらに奥にコンクリートの弾薬庫壕が。

12地下式弾薬庫鉄扉










鉄扉も残されています。開いていたので入ってみました。

13地下式弾薬庫内部










14地下式弾薬庫内部










内部の奥壁は煉瓦になってましたが、どうも元々はもっと奥まであったのを途中で煉瓦で塞いだようにしか・・・。理由は不明ですが。

11地下式弾薬庫前貯水槽










弾薬庫壕前の貯水槽。

16地下式弾薬庫前木造建物










弾薬庫壕前、自衛隊施設に付属している木造建物。これも防空砲台時代の物で、別のフォロワーさんが紹介していた東京湾要塞金谷砲台の看守営舎によく似た造りですしかし、痛みもなく綺麗に残っています。

18埋第五号境界石













再び岬の上の道に戻り、そこから岬の先端に向かって尾根道を進みます。その尾根上に立つ「埋第五號」の境界石。見かけたことの無い珍しいタイプ。

19すり鉢状台座










尾根道を進んでいくとこのようなすり鉢状の台座が現れます。何かを据え付けていたボルトが見えるので、当初は砲座かと思ってましたがどうも違うのではという意見がメンバーから。探照灯は別の箇所にあるので、施設リストから聴音機か高角双眼鏡の台座ではと考えてます。

20すり鉢状台座正門










先ほどのすり鉢状台座の手前にはコンクリートの門柱と柵柱が。柵柱には未だに有刺鉄線が残されていました。

21貯水槽










一旦指揮所壕の場所まで戻り、今度は弾薬庫壕と高角砲座のあった地点の反対側の尾根下へ。
整地した平坦地となっており、小さな貯水槽などがありました。

22有蓋式退避壕










その脇にコンクリート製の半地下式の壕のようなものが。
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現地形を見ると、どうも当時は入り口前はスロープ状となってて、中に逃げ込めるようになっていたっぽいです。退避壕だったのでしょうか。

23電灯室










灯台まで戻り、灯台南東側の岬の最高所にある箇所へ。戦国期の山城の横堀のような土塁が回る道を歩いていくと、明治の陸軍時代の探照灯のあった電灯所に至ります。

24電灯室発電機台座










明治期の砲台の掩蔽部と同じ形ですが、奥に煉瓦の電灯井があるので、明治期から電灯所として造られていたようです。ただ、発電機は改められたのかコンクリートの台座となってました。

IMG_1839










内部から。入口脇に木製の壊れた古い椅子が放置されていました。当時の物でしょうか?

25電灯室井










電灯井。ここから探照灯を出し入れしていました。

26電灯室井上から










電灯所の上。先ほど下から見上げた電灯井の穴が見えます。かつてはどうやら屋根が掛けられていたようです。

IMG_1844










電灯所上部の周辺には探照灯の物らしきガラス片が大量に散乱していました。厚さは1cmくらいある分厚いもので、やや黄色がかってました。探照灯の撤去の際に割れたか破壊したのでしょう。

27電灯室門柱










電灯所を過ぎてすぐの所に立派な石製の門柱が建っていました。明治期の物の様で、この門柱の先も軍道らしき道が麓に向かって伸びているので、かつての正門だったのかもしれません。

28貯水槽か










門柱を過ぎて軍道跡を進むと水槽らしきものが見えました。他の旧軍遺構では見たことの無い造りです。雨水を貯めた水溜でしょうか。

29沈砂槽










さらに下って行くとコンクリート製の水槽がありました。形から恐らく沈砂式の浄水槽だったと思われます。

30発電室










電灯所から伸びる軍道跡を下って行くと灯台に至る舗装路に出ます。舗装路をそのまま下って行くと舗装路から枝に延びる旧軍道があり進むと煉瓦造の発電機室の建物が見えてきます。

31発電室門柱










発電機室の前にも石製の門柱と柵柱がありました。

33発電室










屋根は失われてますが煉瓦の躯体は 良好に残されており素晴らしいです。

32発電室内部










内部には煉瓦造の発電機の台座が残されています。明治期の探照灯時代から発電機室として作られたものです。

IMG_1868










発電機室の背後の一角。燃料を入れていたスペースでしょうか。

IMG_1859













木製の窓枠も残されていました。アーチ部分は丁寧に削って作られたもので木材もしっかりしたもので明治期の仕事の丁寧さが伺えます。昭和戦中期の細工の粗さとは対照的です。

34発電室脇基礎










発電機室の脇にある煉瓦基礎の建物跡。何の施設だったかは不明。

35発電室貯水槽










コンクリートの貯水槽。これは防空砲台時代のものと思われます。

38兵舎跡への石橋










発電機室を過ぎ、軍道跡を進むと石橋がありました。

36兵舎跡への石橋










37兵舎跡への石橋










小さな谷に架けた石橋ですが、石積の擁壁も相まって、まるで庭園のような優雅さを感じますw

39石橋脇の井戸










石橋の脇にある井戸。井戸枠は煉瓦積みでした。

40兵舎跡










石橋を過ぎると見えてくる兵舎跡の基礎。当時使われていた食器類の破片が散らばってました。

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便所跡。どうやら防空砲台時代の物のようです。

20220624_150845







反対側から。

20220624_150818













内部を見ると、やはり戦前のようですね。

今回の博奕岬防空砲台の見学会は、フォロワーさんの交渉により実現したもので、海上自衛隊の協力のもと正式な探索をすることが出来ました。重ねて御礼申し上げます。
というわけで、博奕岬防空砲台のある博奕岬は無許可での立ち入りは厳禁です。
そのあたりの話も隊員さんに聞いたのですが、海上自衛隊の敷地内なので、無断の侵入者があれば当然警ら隊がやってくること、海上自衛隊には逮捕権が無いので厳重注意で済むが、これが海上保安庁となると、逮捕される恐れがある(博奕岬灯台は海上保安庁の管轄で、立ち入り禁止区域)とのこと。
施設自体は老朽化しており現在は使われていませんが、以上の理由で無断進入は厳禁なのでご理解いただけたらと思います。博奕岬防空砲台の遺構に関しては拙い内容ですが、当記事で感じて頂けたらと思います。


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2022年12月18日

村野藤吾の設計・ルビノ京都堀川見学&宿泊レポ日記

1.ルビノ京都堀川外観







2022年12月15日、京都市にあるホテル、ルビノ京都堀川に宿泊を兼ねた見学をしてきました。
ルビノ京都堀川は公立学校関係の宿泊施設として、1972年に完成しました。設計は戦前・戦後のモダニズム建築の大家として知られる村野藤吾。京都市内にある村野藤吾の設計のホテルと言えば、ウェスティン都ホテルや都ホテル京都八条、ザ・プリンス京都宝ヶ池等がありますが、ツイッターのフォロワーさんが、このホテルも村野藤吾の作品だとつぶやいており、興味を持ったこと、さらには来年2023年3月31日に閉館ということもあり、宿泊料金も一般のビジホ程度いう価格もあって宿泊兼見学をしてみようと思いました。まずは外観。ホテルについたのは夜だったので、写真は翌朝の撮影になります。
2.ルビノ京都堀川パルコニー







角のベランダ。
5.ルビノ京都堀川客室棟







客室棟の外観。出窓は村野藤吾が好んだデザイン。
6.ルビノ京都堀川玄関







正面玄関。ここからはホテルに着いた前日の夜の撮影。

7.ルビノ京都堀川柵







玄関横にある柵。これも村野藤吾のデザインでしょうか。
では中に入りましょう。
8.ルビノ京都堀川ラウンジ







玄関ホール脇のロビー。
9.ルビノ京都堀川ラウンジ







この手摺の感じは村野藤吾っぽさが出てますね。
10.ルビノ京都堀川玄関ホール照明







玄関ホールの天井の照明。70年代のモダンさを感じます。
フロントでチェックインして、ホテルの人に許可をもらい、教えてもらいながら館内を探索。
まずは、一番村野藤吾らしさを感じるメインの場所へ。
11.ルビノ京都堀川階段







中央玄関。
12.ルビノ京都堀川階段







ルビノ京都堀川で一番の見所。
13.ルビノ京都堀川階段







3階まで続く赤絨毯の階段はレトロモダンな懐かしさも感じさせます。
14.ルビノ京都堀川階段







上から。
15.ルビノ京都堀川階段手摺







手摺の装飾。
16.ルビノ京都堀川階段







村野藤吾といえば階段。この絶妙なカーブの造作は素晴らしい。
17.ルビノ京都堀川階段







何度も上り下りしてましたw
次も階段ですが、ちょっと隠れた場所の穴場な階段へ。
しかし、ここはより村野藤吾らしさの出ている階段でした。
18.ルビノ京都堀川非常階段







1階から6階の屋上まで続く非常階段。
19.ルビノ京都堀川非常階段







一見、何の変哲もない無機質な階段に見えますが、この手摺に注目。
20.ルビノ京都堀川非常階段







この絶妙な手摺のカーブのデザインはまさに村野藤吾といった感じなのです。

23.ルビノ京都堀川非常階段6階







ウェスティン都ホテルもですが、村野藤吾と言えば階段の手摺と言われるほど、その優美な曲線が言われますが、このルビノ京都堀川の非常階段の手摺もまさにそんな感じ。
24.ルビノ京都堀川非常階段6階







特に最上階のこの手摺の優美な曲線は必見。
25.ルビノ京都堀川非常階段6階







手摺の優美な曲線は、女性らしさを感じるような柔らかな美しさを感じました。
26.ルビノ京都堀川非常階段6階







上から階段をのぞき込む。
28.ルビノ京都堀川非常階段













実際に手摺を伝いながら上から下まで何度か上り下りしてみましたが、階段の踊り場のカーブとかでも誘導されるような感じに伝うことができ、また、持つのに程よい高さと斜度で、美しさだけでなく機能性も考えられている感じでした。まさに機能美。
27.ルビノ京都堀川3階非常階段







十分に非常階段を堪能したあとは、2階と3階のフロアを探索。
まずは2階から。
30.ルビノ京都堀川2階小階段







2階にある小階段。
31.ルビノ京都堀川2階大宴会場前







2階大宴会場前のフロア。奥は吹き抜けになっています。
こちらも手摺が見どころ。
32.ルビノ京都堀川吹き抜け照明







吹き抜けの照明。この下にエスカレーターがあるのですが、封鎖されていました。
33.ルビノ京都堀川大宴会場扉







大宴会場の扉。
34.ルビノ京都堀川2階ロビー







2階ロビー。
35.ルビノ京都堀川2階ロビー







モダンなデザインですが、どことなく和風な感じもします。
36.ルビノ京都堀川2階カウンター







2階の小カウンター。格子の造りがいい感じ。
38.ルビノ京都堀川1階照明







天井の照明も昔のモダンな雰囲気があります。
25.ルビノ京都堀川2階宴会場扉







2階宴会場のガラス扉。こういう模様の入ったガラス戸も見なくなりましたねぇ。
40.ルビノ京都堀川2階廊下







廊下。
39.ルビノ京都堀川2階廊下







廊下の鏡台にも装飾が。
41.ルビノ京都堀川2階会議室







会議室の雰囲気もいわゆるレトロモダンさを感じる雰囲気です。
42.ルビノ京都堀川3階ロビー







次は3階へ。3階のロビー。
43.ルビノ京都堀川3階ロビー







3階のロビーは2階のロビーに比べて開放感があります。
44.ルビノ京都堀川3階フロア照明







天井の照明のデザインは、何となくアールデコっぽさを感じます。
45.ルビノ京都堀川和室広間







これは翌日撮影した和室の大広間。実は同じ日に中学校の修学旅行生が宿泊していて、
修学旅行生が出発した後に撮影させてもらいました。まだ蒲団がw
46.ルビノ京都堀川3階チャペル







3階の奥にあるチャペル。ルビノ京都堀川は結婚式場としても使われていました。
47.ルビノ京都堀川3階チャペル







チャペル前の部屋。かつては多くのカップルがここで結婚式を挙げたのでしょうね。
48.ルビノ京都堀川3階チャペル照明







チャペル前の照明。チャペルらしく華やかな証明です。
49.ルビノ京都堀川3階チャペル照明







正面の照明も花をモチーフにした華やかなもの。
50.ルビノ京都堀川3階チャペル扉







チャペルの扉。チャペルには入れなかったのは残念。
22.ルビノ京都堀川非常階段階数







さて、本日泊る客室へと向かいます。これは先ほど見学した階段の階数表。
文字がいい感じ。
51.ルビノ京都堀川5階廊下







本日泊る部屋は5階。廊下を歩き部屋へ。
52.ルビノ京都堀川客室







本日のお部屋。部屋はビジホと変わらないシンプルさ。
55.ルビノ京都堀川客室照明







56.ルビノ京都堀川客室照明







しかし、設備の照明にレトロさを感じニヤニヤ。
53.ルビノ京都堀川客室







机や椅子は木目を生かした家具調のもの。
57.ルビノ京都堀川客室椅子















特にこの椅子のデザインは気になりました。
村野藤吾の家具を調べた感じでは木目を生かした家具が多いようで、村野さんの得意とするカーブも家具にはよく取り入れられているようです。この椅子には曲線が少なくどうかなと思いましたが、背もたれの折れの部分が丁寧な造りで、もしかしたらと感じました。どちらにせよ、最近のホテルでは見かけない木製の椅子ですから、開業時からのものの可能性があります。
58.ルビノ京都堀川客室机







机の脚は先に向かうにつれ細くなる造り。村野さんのデザインのテーブルを見ていると似たようなデザインです。ちなみにホテルの方に聞いたら、客室の家具は村野藤吾のデザインかは分からないけど、開業当初からのものだそう。とすると、村野藤吾のデザインの家具の可能性もありますね。閉館後はどうなるんだろう。
54.ルビノ京都堀川客室







ベッドと横の照明装置は当初からのもので間違いないかと。柔らかな木調の調度品に触れながら一夜を過ごします。
59.ルビノ京都堀川客室からの眺め







客室から眺める京都の夜明け。おはようございます。
60.ルビノ京都堀川レストラン







客室から出たあとは無料の朝食(パンと飲み物のみ)を頂くために1階のレストランホールへ。
20221216_082951







照明とかを眺めたり。
61.ルビノ京都堀川レストラン







以前はレストランをやっていたそうですが、今はもう営業していないとか。
4.ルビノ京都堀川玄関







朝食とコーヒーを頂き、ルビノ京都堀川を後にしました。
62.ルビノ京都堀川ルームキー







ルビノ京都堀川の今後についてチェックアウト時にスタッフの方に聞きました。
閉館後は別の施設に使われるかもしれないが、老朽化もあり今後の予定は未定とのこと。
今年で開業50年ですから致し方が無い面もありますが、村野藤吾のデザインがふんだんに見られるホテルが無くなるのは惜しい気もします。これまで戦後のモダニズム建築には全く興味が無かった自分ですが、改めて鑑賞すると、丁寧にデザインされた階段や手すり、内装など見所満載で、さらには懐かしさを感じるレトロモダンな雰囲気に大いに楽しめ満足することが出来ました。
閉館まであとわずか。機会があれば訪れてみてください。


besan2005 at 11:31|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 商業施設
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