2025年05月11日
京都府京丹波町・三ノ宮西城跡訪城レポ日記

京都府京丹波町にある三ノ宮西城跡に行ってきました。
三ノ宮西城跡は、三ノ宮集落の背後、標高280m(比高差35m)の山上に築かれた中世山城跡で、
あの土佐山内家の発祥の地とされています。近年、地元の方により整備されて見学しやすくなっており、攻めてみることにしました。

※「三ノ宮東城跡」『丹波綾部道路関係遺跡発掘調査報告』京都府埋蔵文化財調査研究センター
より引用・加筆。
三ノ宮西城跡の縄張り図。山頂の主郭から3段の曲輪を形成し、北端と南端を堀切で、西側を竪堀で防御している縄張りとしては単純な山城跡です。

現地の案内図。

登城口にある忠霊碑。

登城道を進むと大きな穴が現れます。縄張図では「穴」、現地の案内図では「井戸」となっている遺構です。いつ頃掘られたものか不明ですが、三ノ宮西城跡に伴うものとしても、井戸というより水溜と言った方がいいかもしれません。

軍垈爾瞭鄰爾遼拈據

軍埓召涼堀。

軍圈軍圓ら上は地元の方々の整備により伐採され見学しやすくなっています。切岸も中々の高さがあります。

恭圈

恭圓ら麓を望む。元々の切岸がかなり急峻なうえに木々が伐採されているため、かなり高く感じます。

恭圓ら軍圓鯔召燹

主郭。山頂部分全体を大きく削平しているためかなり広く、それなりの建物が建てられていたことが分かります。

主郭に建てられた説明板。

三ノ宮西城跡は三ノ宮東城跡と合わせて山内氏の居城で、城主は山内一豊の祖父にあたる山内孫太郎久豊と伝えられています。

主郭から南東方向を望んだ先に京都縦貫道が通っていますが、かつてはここに三ノ宮東城跡がありました。

※「三ノ宮東城跡」『丹波綾部道路関係遺跡発掘調査報告』京都府埋蔵文化財調査研究センター
より引用
京都縦貫道の建設にあたり、三ノ宮東城跡がこ工事予定地にかかるため、発掘調査が行われました。
発掘調査により中世の山城跡の全貌が明らかになり、主郭には城主等が住む館や櫓、そして桝形虎口となっている主郭虎口が確認されました。三ノ宮東城跡は三ノ宮西城跡と比べ規模が大きく防御も固いことから、三ノ宮東城跡が本城で、三ノ宮西城跡が支城だったのではと考えられています。
三ノ宮東城跡は残念ながら消滅しましたが、その全貌は発掘調査により明らかになり、報告書もネットで閲覧できますので、ぜひご一読してはいかかでしょうか。
残された三ノ宮西城跡は比高差も高くなく整備もされており、ちょっとした散歩気分で気軽に見学できる城跡なうえ、麓には駐車場も整備されているため、城跡見学の初心者の方にお勧めの城跡です。
2025年05月06日
福知山市・六十内古墓(六十内廃寺跡)探索レポ日記


京都府福知山市の六十内地区に中世墓が残されています。福知山市遺跡地図および京都府遺跡地図では「六十内古墓」として記載されている既知の遺跡ですが、30年ほど前に叔父の案内で訪れて以来今日まで再訪することが無く、さらに六十内古墓への行き方も完全に忘れていたため、再び叔父の案内で六十内古墓の探索を行うこととしました。



30年前に探索した際の六十内古墓の写真。実は今から5年前に単独で再探索を試みましたが、完全に六十内古墓への行き方を忘れてしまい、断念していました。今回は再度叔父の案内で向かいました。

約30年ぶりに訪れた六十内古墓。そこには当時のまま確かに石塔群が存在してました。

六十内古墓は宝篋印塔1基と五輪塔2基、そして五輪塔の残欠が数点残されています。
宝篋印塔および五輪塔は室町時代前期〜中期頃のものと思われます。

宝篋印塔は基壇の上に立ち、移築されたものではなく、建立された当時のままと思われ、おそらく宝篋印塔の下には今でも被葬者を納めた蔵骨器である壷か甕が埋納されているものと思われます。
宝篋印塔は相輪も外された状態で置かれており、再び笠部に乗せて完全な形に復元することが可能です。


30年前に撮影したアングルとほぼ同じ方向で撮影。
30年前の写真と比較すると、宝篋印塔に乗せられた相輪の残欠が外され(五輪塔の傍らに置かれている)、一番右側の五輪塔の空風輪も外されている一方、真ん中の五輪塔は水輪(丸い石)が乗せられて元の姿に戻されています。散らばっていた五輪塔の空風輪も集められ、30年前は無かった宝篋印塔の相輪が新たに見つけ出されたのか宝篋印塔の傍らに置かれています。叔父の話では年に1回に参拝のために手入れをしている人がいるらしく、その際に整理された可能性があります。他の変化として、右側の杉が30年の時を経て大きくなっていること、また、手入れのためか鹿の捕食によるものか30年前と比べて下草がまったく無くなり見やすくなっています。

六十内古墓の背後は斜面を削り整地した痕が見られます。
また、その傍には円形状に礫が積まれたマウンドが確認できます。集石墓の可能性があります。

福知山市及び京都府の遺跡地図には六十内古墓としか記載されていませせんが、古墓の周囲には明らかに建物を建てるための平坦地が3段ほどあり、礎石と思われる石も見つけました。六十内地区でもここは寺の跡という言い伝えがあり、六十内古墓は室町時代まで存在した六十内廃寺跡(仮称)に伴う墓地だったと思われます。

ところで、六十内地区の背後の山には六十内城跡という中世山城があることが遺跡地図に記載されています。六十内城跡は遺跡地図では六十内古墓の南東の山上に記されていますが、叔父の話や六十内地区では六十内古墓のやや南東の山上に「片山城」という名の城があり、六十内古墓のある廃寺は「片山城」の城主に関わる寺だったと言い伝えられています。
この「片山城」があったとされている位置は、遺跡地図には何も記されていませんが、最近京都府エリアが公開されたCS立体図を確認すると、城跡らしき段状の地形が確認でき、過去に実際に登った叔父の話では、いくつもの平坦面や堀切と思われる切通し状の掘り込みがあったとのこと。以上の点を踏まえると、まだ未確認の中世山城である「片山城」が存在し、それこそが六十内地区を治めていた領主の本城だった可能性が出てきます。いずれにしろ現地にて踏査確認する必要がありそうです。

六十内古墓のある廃寺跡に関しては文献等の記録が一切なく、寺院名を初め寺伝や廃絶時期など一切不明です。唯一残されている六十内古墓の石塔を見ると、室町前期〜中期頃と考えられ、兵火によるものか何かの理由で戦国期までには廃絶した可能性があります。天田郡内での中世寺院の廃絶となると、明智光秀の侵攻によるものが頭に浮かびますが、もしかするとそれ以前の赤井直正による天田郡侵攻による廃絶まで遡るかもしれません。少なくとも江戸時代には完全に寺は失われ、かつての境内だった平坦地の一部は耕作地として利用され、石塔群のある六十内古墓の一帯だけは供養のため残されたものと考えられるのかもしれません。
六十内古墓は特に宝篋印塔が建てられた600年ほど前そのままの姿で現代まで伝えられており、廃寺跡と共に地方の小集落に伝わる、中世の姿を留める貴重な中世墓および中世寺院の遺構と評価できそうです。
京都府与謝野町の中世墓遺跡群レポ日記(福井遺跡)
京都府与謝野町には鎌倉時代〜室町時代にかけて造営された大規模な中世墓の遺跡群が2か所残されています。その中世墓群の2つ、幾地地区の地蔵山遺跡と後野地区の福井遺跡を訪ねてみました。
この記事は後野地区にある福井遺跡の探索レポ日記となります。
※地蔵山遺跡の探索レポ日記はこちら。

福井遺跡は後野地区にある西光寺の裏山に位置する大規模中世墓群です。


西光寺の境内には、応永16年の銘がある板碑があります。

その西光寺の背後に鎌倉時代〜室町時代にかけて造られた中世墓群である福井遺跡があります。


山の斜面にずらりと一列に並ぶ五輪塔群や石仏群は圧巻です。

福井遺跡は大小53段の平坦地を造り、そこに墓を造っています。

最上段には3基の五輪塔が残されています。

福井遺跡は過去に発掘調査が行われ、その後整備されています。

福井遺跡は多数の五輪塔や石仏が並ぶ大規模中世墓群ですが、地蔵山遺跡と異なり、石造物の種類は五輪塔と石仏の2種類のみです。また、区画溝を掘り、基壇を設けている地蔵山遺跡の中世墓と違い、墓の造りも簡素に見えます。地蔵山遺跡の埋葬者よりやや庶民に近い人物が埋葬された中世墓群なのでしょうか。その福井遺跡も鎌倉時代〜室町時代中期までは五輪塔を墓塔として建て、室町時代後期からは一般の庶民まで広がったのか、五輪塔より安価な小石仏を墓塔とした中世墓が建てられるようになったと思われます。
この記事は後野地区にある福井遺跡の探索レポ日記となります。
※地蔵山遺跡の探索レポ日記はこちら。

福井遺跡は後野地区にある西光寺の裏山に位置する大規模中世墓群です。


西光寺の境内には、応永16年の銘がある板碑があります。

その西光寺の背後に鎌倉時代〜室町時代にかけて造られた中世墓群である福井遺跡があります。


山の斜面にずらりと一列に並ぶ五輪塔群や石仏群は圧巻です。

福井遺跡は大小53段の平坦地を造り、そこに墓を造っています。

最上段には3基の五輪塔が残されています。

福井遺跡は過去に発掘調査が行われ、その後整備されています。

福井遺跡は多数の五輪塔や石仏が並ぶ大規模中世墓群ですが、地蔵山遺跡と異なり、石造物の種類は五輪塔と石仏の2種類のみです。また、区画溝を掘り、基壇を設けている地蔵山遺跡の中世墓と違い、墓の造りも簡素に見えます。地蔵山遺跡の埋葬者よりやや庶民に近い人物が埋葬された中世墓群なのでしょうか。その福井遺跡も鎌倉時代〜室町時代中期までは五輪塔を墓塔として建て、室町時代後期からは一般の庶民まで広がったのか、五輪塔より安価な小石仏を墓塔とした中世墓が建てられるようになったと思われます。
京都府与謝野町の中世墓遺跡群レポ日記(地蔵山遺跡)
京都府与謝野町には鎌倉時代〜室町時代にかけて造営された大規模な中世墓の遺跡群が2か所残されています。その中世墓群の2つ、幾地地区の地蔵山遺跡と後野地区の福井遺跡を訪ねてみました。
この記事は幾地地区にある地蔵山遺跡の探索レポ日記となります。
※福井遺跡の探索レポ日記はこちら。

地蔵山遺跡は幾地地区の南側の丘陵端、集落を見下ろす場所に位置し、東西約250m、南北約200mの規模を持つ中世墓群です。
平成16年の確認調査では、五輪塔・宝篋印塔・石仏・板碑など計382基の石造物が確認されています。

地蔵山遺跡の説明板。地蔵山遺跡は鎌倉時代初期から江戸時代初期まで造営された墓地ですが、石造物のほとんどは室町時代の物のようです。

最下段の墓域。敷地はかなり広いですが、石造物の数はまばらです。

五輪塔と石仏がセットのような形でいくつかの場所に配置されています。
背後には室町時代末期〜江戸時代初期の一石五輪塔が見えます。

室町時代後期頃の五輪塔。

最下段から登っていくと、そこからは地蔵山遺跡の中心と言える中世墓群が広がります。
墓域はいくつかの小さな段を造り、そこに墓を造り石塔や石仏を建てています。

墓域に建ち並ぶ五輪塔群。

各中世墓は堀状の区画溝を掘り、墓としています。

所狭しと並ぶ五輪塔や石仏は圧巻。

こちらの中世墓は石組で区画を造り、五輪塔や石仏を建てています。今の墓地とそう変わらない造りです。

五輪塔を陽刻した板碑。

文明28年の銘のある宝篋印塔。

もう一つの宝篋印塔。地蔵山遺跡では宝篋印塔は2基のみであり、文明28年の宝篋印塔には「一結十五人」の文字もあることから、墓石というより、供養塔のような目的で建てられたのかもしれません。

地蔵山遺跡の中世墓は、このように区画溝を掘り土を盛り上げ、基壇となる石を積み上げ、その上に石塔を建てる餓鬼草紙に描かれた墓そのままの当時のままの姿が保たれており、中世墓の遺跡として大変貴重です。


地蔵山遺跡には石塔を建ててない(失われた)墓、集石墓や石塚もあります。

また、自然石に円形の孔を穿ったものもありました。建物の礎石にも思えましたが、これ1つのみであり、そもそも建物を建てられるようなスペースも無いことから、

餓鬼草紙にも描かれた木製の卒塔婆を建てるための台石ではないかと思いました。

地蔵山遺跡の最高所には自然石を墓塔とした中世墓がありました。大きめの自然石の墓塔を中心として左右に石仏を配置したこの墓は、三尊像を意識したものでしょうか。

地蔵山遺跡は、幾地地区を見下ろす位置に築かれた大規模中世墓群です。地蔵山遺跡は中世の村の墓地の雰囲気を実感できる貴重な中世墓遺跡群でした。
次は後野地区の福井遺跡を訪ねます。
この記事は幾地地区にある地蔵山遺跡の探索レポ日記となります。
※福井遺跡の探索レポ日記はこちら。

地蔵山遺跡は幾地地区の南側の丘陵端、集落を見下ろす場所に位置し、東西約250m、南北約200mの規模を持つ中世墓群です。
平成16年の確認調査では、五輪塔・宝篋印塔・石仏・板碑など計382基の石造物が確認されています。

地蔵山遺跡の説明板。地蔵山遺跡は鎌倉時代初期から江戸時代初期まで造営された墓地ですが、石造物のほとんどは室町時代の物のようです。

最下段の墓域。敷地はかなり広いですが、石造物の数はまばらです。

五輪塔と石仏がセットのような形でいくつかの場所に配置されています。
背後には室町時代末期〜江戸時代初期の一石五輪塔が見えます。

室町時代後期頃の五輪塔。

最下段から登っていくと、そこからは地蔵山遺跡の中心と言える中世墓群が広がります。
墓域はいくつかの小さな段を造り、そこに墓を造り石塔や石仏を建てています。

墓域に建ち並ぶ五輪塔群。

各中世墓は堀状の区画溝を掘り、墓としています。

所狭しと並ぶ五輪塔や石仏は圧巻。

こちらの中世墓は石組で区画を造り、五輪塔や石仏を建てています。今の墓地とそう変わらない造りです。

五輪塔を陽刻した板碑。

文明28年の銘のある宝篋印塔。

もう一つの宝篋印塔。地蔵山遺跡では宝篋印塔は2基のみであり、文明28年の宝篋印塔には「一結十五人」の文字もあることから、墓石というより、供養塔のような目的で建てられたのかもしれません。

地蔵山遺跡の中世墓は、このように区画溝を掘り土を盛り上げ、基壇となる石を積み上げ、その上に石塔を建てる餓鬼草紙に描かれた墓そのままの当時のままの姿が保たれており、中世墓の遺跡として大変貴重です。


地蔵山遺跡には石塔を建ててない(失われた)墓、集石墓や石塚もあります。

また、自然石に円形の孔を穿ったものもありました。建物の礎石にも思えましたが、これ1つのみであり、そもそも建物を建てられるようなスペースも無いことから、

餓鬼草紙にも描かれた木製の卒塔婆を建てるための台石ではないかと思いました。

地蔵山遺跡の最高所には自然石を墓塔とした中世墓がありました。大きめの自然石の墓塔を中心として左右に石仏を配置したこの墓は、三尊像を意識したものでしょうか。

地蔵山遺跡は、幾地地区を見下ろす位置に築かれた大規模中世墓群です。地蔵山遺跡は中世の村の墓地の雰囲気を実感できる貴重な中世墓遺跡群でした。
次は後野地区の福井遺跡を訪ねます。
2025年04月20日
福知山市夜久野町・東光寺宝楼閣レポ日記(昭和7年竣工時写真あり)

※画像はGoogleのストリートビューより。
京都府福知山市夜久野町の国道9号線を兵庫県朝来市方面に向かって進み、下夜久野駅を過ぎてすぐの額田地区の右手山上に古い塔が見えます。これは麓にある東光寺が管理する昭和7年に建てられた宝楼閣という塔です。以前から気にはなっていた塔ですが、今回建築中の写真と竣工時の写真を入手したため、訪問してみることにしました。

今回入手した宝楼閣の古写真3枚のうちの1枚、建築中の宝楼閣。宝楼閣は鉄筋コンクリート造5階建て。写真は塔がほぼ完成しており、外観の仕上げを残すのみとなっています。とび職の人が命綱無しで5階におり、今ではちょっと信じられないですね。

今回入手した宝楼閣の古写真3枚のうちの1枚、完成した宝楼閣。
壁面には梵字が書かれ、扁額も掲げられています。
宝楼閣の前には建設関係者や地元の警官らしき人達が写り、最上階には多くの人が登っています。高い建物が無かった当時、夜久野の風景を一望できる宝楼閣は当時の人たちの多くの関心を引いたことでしょう。
そんな宝楼閣の93年を経た現在の様子を訪ねてみました。

現在の宝楼閣。竣工時の古写真と同じアングルで撮影してみましたが、竣工当時と全く変わらない姿で建っていました。

正面から。2層目の裳階(もこし・・・階層を分けない庇状の屋根)の瓦が落ち痛んでいますが、全体的には大きな痛みは見られません。

入口に掲げられた扁額。揮毫は仁和寺門跡の石堂恵猛。

1階内部。

現在は老朽化により危険ということで登ることはできませんが、コンクリートの質が良いのか、93年を経ても一部の剥落がある以外は大きな痛みは見られませんでした。

宝楼閣1階外壁に刻まれた発起人と寄付者名。

同じく、宝楼閣1階外壁に刻まれた世話人名と設計者・施工者名。
戦前の地方の建築物でこれだけの情報があるのは珍しいです。

今回入手した宝楼閣の古写真3枚のうちの1枚、宝楼閣竣工時の関係者の記念写真。
中央におられるお坊さんが発起人であると東光寺第14世の大月亮純氏。
東光寺のご住職から頂いた資料によると、時は東光寺14世住職の大月亮純師の頃、亮純師が夢の中で地蔵菩薩様に宝楼閣を案内していただいたという夢を見て、それを当時の筆頭総代の荻野孫兵衛氏に話しをしたところ、大変ありがたい話であるので、その様な物を作ろう という話に。東光寺の周辺にはたくさんの石仏が並んでおり、これは四 国八十八霊場の各寺院のご本尊様とお大師様の石仏であり、八十八箇所霊場を東光寺に移したものであるとのこと。この八十八箇所創設祈念宝楼閣の建設が決定。そして宝楼閣が完成したとのことです。建設着工時に基礎を造るため地面を掘ったところ、鎌倉時代の経筒と銅鏡が出土。そこが経塚だったことが分かりました(経筒と銅鏡は東光寺が保管)。
完成時は遠足のコースになるなどにぎわっていたようですが、今はひっそりとその姿を留めています。
今回入手した宝楼閣の建設中および竣工時の古写真の複製を当時の東光寺住職・大月亮純氏の曾孫にあたる現住職の方にお渡しすることができました。現在、竣工時の写真は持っておられず、2枚目の古写真は見たことがないそうで喜んでおられました。
宝楼閣は夜久野町額田という小さな地区において、多くの人の思いにより建設され、地元のランドマークとして存在し、額田地区の歴史を物語るだけでなく、竣工時と全く同じ姿で現在も存在し続けているという点でも貴重な近代建築であると評価することができます。
※関連記事
古写真・東光寺宝楼閣古写真3枚(昭和7年・建設中1枚、竣工記念写真2枚)
(管理人の別ブログ・古写真・古絵葉書関連記事)
2025年03月22日
京都御苑の野鳥観察

京都御苑の満開の梅林を見に来たついでに、かなり久しぶりに京都御苑の野鳥観察もしてきました。
京都御苑は京都市のど真ん中にありながら、広大な敷地と多くの木々により、森の様相を構成しており、多くの野鳥がやってきます。中には、アオバズクやオオカタ、アオバトなどの珍しい野鳥も生息しています。
今回撮影できた野鳥たちを紹介していきます。

メジロ。梅の花の蜜を吸いにたくさん集まっていました。(花びらもちぎっていたけど・・・)

見た目が可愛いのと、鳴き声も可愛いので人気のある小鳥です。

ちなみにウグイスに良く間違われます。「梅にウグイス」とよく言われますが、ウグイスが梅の木に止まっている姿はあまり見たことがありません。

シジュウカラ。首に黒ネクタイがあるお馴染みの小鳥。せわしなく飛び回るから撮りづらい。

カラスが木の枝をくわえて何かをしてました。

しきりに地面に木の枝を叩きつけていたけど、何をしてたんだろう。

ツグミ。渡り鳥で冬鳥。飛んでいるより地面を歩いている方が多い。

これはメスかな。

アオジ。地面を歩き回って餌を探しているけど、近づいたらすぐ逃げる。

イカル。大きなクチバシが特徴。高い木の枝から全く降りてこなかった。

キジバト。住宅街で朝から「デーデーポッポー」と鳴いてるヤツ。
地面を歩き回ってました。意外に素早い。ちなみに公園にいる灰色のハトはドバト。

ヤマガラ。こちらはオス。近くに来てくれて唯一まともに撮れたw

ドヤってるヤマガラ。

田舎とか里山とかでは見かけますが、街中で見かけるのは珍しいです
京都御苑が街中にありながら広大な森となっているからでしょうね。。

アオサギ。デカいので存在感のある鳥。全然動かない。

コサギ。川とかでよく見る鳥。こちらは池の中を歩き回っていました。


この他にもカワセミとかもよく見られるのですが、今回は見かけませんでしたので、
次、近衛邸の糸桜を見に行ったときにでもチャレンジしてみます。
2025年03月21日
古文書・野寺村 棚橋甚左衛門屋敷絵図(室町時代末期の地方在地領主の館の絵図か)

最近入手した天正17年11月の年号のある古文書です。古文書には館を描いた平面図と、「野寺村」「棚橋甚左衛門屋敷絵図」の文字があり、野寺村にあった棚橋甚左衛門という人物の屋敷を描いた「差図(指図とも。建物等の平面図や配置図)」と思われます。
図面には建物や堀などが描かれ、それぞれに建物名や寸法などが書かれています。

古文書の指図をトレースし色分けしてみました。これによると、主屋と思われる庇付きの縦長の建物、「ざしき」と書かれた客間と思われる離れの建物、「水屋」と書かれた炊事関係の建物、「土蔵」と書かれた建物が2棟、堀に隔てられた南側の敷地にある離れの建物、表門と押立門、各所に配置された雪隠(便所)、井戸が確認できます。また、指図には描かれていませんが、敷地を囲むように塀があったと思われ、北側と南側の敷地を隔てる堀には恐らく木橋が架かっていたのではないかと思われます。敷地の北側・西側・南側には幅約3.6mの堀が巡り、東側には幅約5.4mの道路が通っています。通りに面して門を構え、門の無い三方には掘りを巡らすなど防御性のある敷地を持つことから、野寺村にあった棚橋甚左衛門という在地の武士の居館を描いた古文書だと思われます。
中世の武士の館は城でもありますので、敷地の周囲を堀で取り囲むように作っているのが一般的ですが、この棚橋甚左衛門屋敷は東側の道路に面した部分には堀を構えていません。推測にはなりますが、敷地的に道路側は堀を作れるスペースが無かったこと、門のある道路側は元々警備を固くするため、堀を作る予定が無かったことなどでしょうか。
この棚橋甚左衛門屋敷の差図で一つ疑問点があります。敷地を南北に分割し、その間には堀を設け、さらに別々の門を設けていることです。

ここで別の資料の指図を見てみます。東寺百合文書にある「備中国新見庄地頭方百姓谷内家差図」を管理人がトレースし色分けしたもの。堀に囲まれた客殿の敷地の北側に主殿のある敷地があり、同じ谷内家の屋敷でありながら別区画にされています。この古文書では主殿は建築中だったようですが、客殿の堀を延長して主殿の敷地を巡らさずに塀のみで囲っています。谷内家の屋敷は政所としても使用していた客殿の敷地と居住区域である主殿の敷地を完全に分けていたようです。

この同じ屋敷の敷地を堀で隔てた事例として京都府亀岡市で発掘された犬飼遺跡があります。
(図面引用・京都府遺跡調査報告集第185冊 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター)
この犬飼遺跡は13世紀〜14世紀の在地領主の居館跡であり、この居館も間に堀を設けて敷地を分けています。東側と西側の敷地は谷内家と同じく、同じ屋敷でありながら性格の異なる敷地は堀で隔てており、こうした屋敷の区画は中世の居館として良く見られたようで、一遍上人絵伝にも同じ屋敷内で堀に隔てられた屋敷がみられます。報告書では谷内家の例に当てはめると、西側は客殿の敷地、東側は家人の生活の場である主殿の敷地ではと推測しています。

谷内家や犬飼遺跡と同じく敷地内を堀で隔てて区画を分けている棚橋甚左衛門屋敷ですが、北側の主屋があったと思われる敷地の門は大型の表門(長屋門か)で、南側の敷地の門は押立門(冠木門と同じ屋根のない簡素な門)といった差があります。差図には庇のある建物と南側の敷地の建物は建物名が書かれておらず用途が分からないため推測で書いてますが、谷内家や犬飼遺跡の例を参考にすると、北側は客殿もしくは政所、南側は生活の場である主殿の敷地と考えることも出来ます。
※後日、それに合わせた復元図を掲載予定。
いずれにしろ、中世末期の地方領主の居館を記した興味深い資料であることは間違いないと思われます。
2025年03月02日
宮津市の近代建築探索レポ日記。(2025年3月1日再探索分追加 )
※2025年3月2日再探索。新たに6件の近代建築を後半に追加。
今回の記事は2020年3月28日に探索した宮津市街地内の近代建築となります。宮津市由良地区の近代建築の探索レポ日記は前回記事にしております。
宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記
ミップルの側にある道の駅に車を停めて、あとは徒歩で市街地を探索。

ジッソパルケ。宮津市新浜。

だいぶ改装されていますが、昔見たときは結構古い下見板張りの建物でした。よく見たらオリジナルの姿が残されています。

旧橋北汽船本社。宮津市新浜。大正12年。

宮津湾内の観光船を運営していた会社の本社事務所。現在は丹海交通の案内所として使用されています。

宮津市の新浜地区はかつて遊郭街でした。いくつか当時の建物らしい住宅が残されてますが、そのうち気になったのがこれ。もしかしたら門番詰所だった可能性があります。

新浜会議場。宮津市新浜。昭和初期。古い街並みの中に挟まれるようにあります。

旧医院。宮津市魚屋町。昭和初期。道路側の外観はだいぶ改造されています。
※2025年3月1日取り壊し確認。2024年に取り壊しか。

玄関部分にかろうじて当時の雰囲気が残されています。

茶六本館。宮津市魚屋町。明治期・昭和10年増築。国登録有形文化財。宮津市の老舗旅館です。

旧小川湯。宮津市小川。大正2年。外観が改修されているのであまり古そうに見えませんが、大正2年築。

斜め横から。

玄関部分の装飾に大正期の名残がありますね。

佐藤医院。宮津市京街道。大正15年。宮津市内を代表する近代建築。

瀟洒で素晴らしい洋館。

これほどの建物なのに国登録有形文化財にもなっていないのが不思議。

宮本会館。宮津市宮本。昭和4年。

外観は当時の姿をよく残しています。

カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂。宮津市宮本。明治29年。京都府指定文化財。宮津市を代表する近代建築で、宮津市で一番有名な近代建築。何でも日本で2番目に古いカトリック天主堂だとか。

内部は畳敷きで知られるカトリック宮津教会ですが、老朽化による痛みが大きく内部には入れず。早々の修復が望まれます。


側面・背面はまた違った趣があります。カトリック宮津教会は昭和2年の北丹後地震で被害を受け、修復を受けています。

宮津小学校 自彊館。宮津市字外側。昭和6年。宮津小学校の小講堂だった建物を移築したもの。
※2021年取り壊し。一部部材を籠神社前の自強館に使用。

中村眼科医院。宮津市魚屋町。昭和初期頃。

玄関部分に趣がありますね。外観も当時の姿を保っています。内部が気になるところ。

宮津聖アンデレ教会。宮津市島崎。昭和3年。素朴で落ち着いた色合いの下見板張りのレトロ教会。

教会堂。

牧師館。牧師館は現在は使用されていないようです。

宮津聖アンデレ教会の近くにある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。塀があるため見づらいですが、付属洋館は中々のレベルです。

清輝楼。宮津市魚屋町。明治34年・大正13年増築。国登録有形文化財。宮津市最大かつ老舗の旅館。創業は元禄年間で、吉田茂や芦田均といった首相経験者の政治家や、菊池寛・吉川英治・上村松園といった著名人が数多く宿泊した旅館です。

新大手橋の側にある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。立派な洋館が付属する住宅。

背面を見ても規模の大きさが分かります。

M邸。宮津市島崎。昭和初期頃か。こちらも大きなお屋敷です。
※2025年3月1日再探索分の近代建築追加

宮津武徳殿。宮津市万年。大正12年頃か。

元大日本武徳会宮津支所で、武道場でもあった建物。
元々は山上の桜山遊園にありましたが、現在は麓の桜山天満宮の境内に移築。桜山会館という地区の公民館として利用されています。建築年は検索しても分かりませんでしたが、大正13年の吉田初三郎作の鳥瞰図、「宮津橋立名所図会」の桜山遊園の場所にそれらしき建物が描かれています。

竣工当時の撮影と思われる古絵葉書(後日掲載予定)と比べると、窓回りなどは改変されているものの、おおむね当時の外観の姿を残しているものと思われます。

玄関の車寄せ屋根部分は当初は入母屋でしたが、現在は切妻に変更されています。

玄関車寄せ屋根の鬼瓦。細かい龍の造形。

M邸。宮津市万年。たまたま見つけた洋館付き住宅。

洋館の隅部分に装飾が施されています。他の近代建築サイトでも取り上げられていない物件。

日吉会館。宮津市日吉。下見板張りの洋館の公民館。先に紹介した宮本会館や新浜会議場など、宮津市街地には戦前の洋風の公民館がいくつか残されています。

日吉会館の扁額。これも戦前からの物でしょう。力強い筆跡。

宮津市街地を歩いていて見かけた建物。宮津市住吉。

1階が洋風、2階が和風の外観。元料理屋でしょうか。

1階窓部分。

I邸。宮津市鶴賀。宮津駅の近くにある大きなお屋敷ですが、今の今まで気付かなかった大きな洋館付き住宅。他の近代建築サイトでも触れられていない物件。

正面から。洋館の方が大きい気がします。

お屋敷自体もかなり大きいです。立地も考えると地元の名士の方のお屋敷だったんでしょうか。

旧宮津小学校講堂か。宮津市外側。宮津小学校の敷地に隣接している古い木造建築。

現在は宮津小学校の敷地外で工房の建物として使用されているようですが、昭和22年の航空写真に現在のプールの位置にあった旧校舎と渡り廊下で接続しており、元々は宮津小学校の施設で、大きさと形から講堂だったのではないかと思われます。

南側。

東側。戦前の旧宮津小学校の唯一現存している建物と思われますが、やはり老朽化しており、いつまで残されているか分かりません。
※番外編

その宮津小学校には宮津城で唯一現存している建物が残されています。
かつては太鼓門と言われていた宮津城の城門で、長く宮津小学校の校門として使用されていましたが、最近再移築・修復され、貴重な宮津城の遺構として保存されています。

その宮津小学校の近くでたまたま見かけた個人宅の門。民家にしてはかなり大きな門で、城門などによく使われる乳金具や八双金具などもしかしたら宮津城の移築門ではと思い帰宅後に調べてみたところ、ここの個人宅にお住まいの方はどうやら先祖が宮津藩の家老職だった家柄で、この門はかつての家老屋敷の門だったらしいです。宮津城や宮津藩に関わる建物等の遺構がほとんど残されていない現在、この門がかつての家老屋敷の門だったとすると、かなり貴重なものとなるのですが、太鼓門と違いネットでも取り上げているサイトはほぼ皆無でほとんど知られていないと思われます。
※以上ここまで2025年追加探索分。

さて、一通り探索をした後の宮津での昼食は宮津駅前にある富田屋(とんだや)さん。昭和10年頃創業とのことで、この店舗も恐らく創業当時のもの。宮津で昼食となった際にいつも足を運ぶ富田屋さんですが、理由は店舗がレトロだからと言うわけではなく…

ここの煮魚定食が本当に旨くてしかも安い!この定食で550円です!

富田屋さんのメニュー。信じられない安さ。

お店で出す料理の魚は地元産のもの。安くて旨い魚料理を出す店のため、お昼時はお客さんでいつもいっぱい。夜も地元の常連客らしき人が地魚料理をつまみに盛り上がってますw

ちなみに富田屋さん宿泊できます。しかも1泊2食付きで6000円と言う安さ。レトロな部屋で美味しい魚料理を頂ける私の大のお気に入りのオススメのお店です。
以上で宮津市の近代建築探索は終了。建物や古い街並みを見れるし、日本海の幸も楽しめる良い街ですよ。
今回の記事は2020年3月28日に探索した宮津市街地内の近代建築となります。宮津市由良地区の近代建築の探索レポ日記は前回記事にしております。
宮津市由良地区の近代建築探索レポ日記
ミップルの側にある道の駅に車を停めて、あとは徒歩で市街地を探索。

ジッソパルケ。宮津市新浜。

だいぶ改装されていますが、昔見たときは結構古い下見板張りの建物でした。よく見たらオリジナルの姿が残されています。

旧橋北汽船本社。宮津市新浜。大正12年。

宮津湾内の観光船を運営していた会社の本社事務所。現在は丹海交通の案内所として使用されています。

宮津市の新浜地区はかつて遊郭街でした。いくつか当時の建物らしい住宅が残されてますが、そのうち気になったのがこれ。もしかしたら門番詰所だった可能性があります。

新浜会議場。宮津市新浜。昭和初期。古い街並みの中に挟まれるようにあります。

旧医院。宮津市魚屋町。昭和初期。道路側の外観はだいぶ改造されています。
※2025年3月1日取り壊し確認。2024年に取り壊しか。

玄関部分にかろうじて当時の雰囲気が残されています。

茶六本館。宮津市魚屋町。明治期・昭和10年増築。国登録有形文化財。宮津市の老舗旅館です。

旧小川湯。宮津市小川。大正2年。外観が改修されているのであまり古そうに見えませんが、大正2年築。

斜め横から。

玄関部分の装飾に大正期の名残がありますね。

佐藤医院。宮津市京街道。大正15年。宮津市内を代表する近代建築。

瀟洒で素晴らしい洋館。

これほどの建物なのに国登録有形文化財にもなっていないのが不思議。

宮本会館。宮津市宮本。昭和4年。

外観は当時の姿をよく残しています。

カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂。宮津市宮本。明治29年。京都府指定文化財。宮津市を代表する近代建築で、宮津市で一番有名な近代建築。何でも日本で2番目に古いカトリック天主堂だとか。

内部は畳敷きで知られるカトリック宮津教会ですが、老朽化による痛みが大きく内部には入れず。早々の修復が望まれます。


側面・背面はまた違った趣があります。カトリック宮津教会は昭和2年の北丹後地震で被害を受け、修復を受けています。

宮津小学校 自彊館。宮津市字外側。昭和6年。宮津小学校の小講堂だった建物を移築したもの。
※2021年取り壊し。一部部材を籠神社前の自強館に使用。

中村眼科医院。宮津市魚屋町。昭和初期頃。

玄関部分に趣がありますね。外観も当時の姿を保っています。内部が気になるところ。

宮津聖アンデレ教会。宮津市島崎。昭和3年。素朴で落ち着いた色合いの下見板張りのレトロ教会。

教会堂。

牧師館。牧師館は現在は使用されていないようです。

宮津聖アンデレ教会の近くにある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。塀があるため見づらいですが、付属洋館は中々のレベルです。

清輝楼。宮津市魚屋町。明治34年・大正13年増築。国登録有形文化財。宮津市最大かつ老舗の旅館。創業は元禄年間で、吉田茂や芦田均といった首相経験者の政治家や、菊池寛・吉川英治・上村松園といった著名人が数多く宿泊した旅館です。

新大手橋の側にある洋館付き住宅。宮津市島崎。昭和初期頃か。立派な洋館が付属する住宅。

背面を見ても規模の大きさが分かります。

M邸。宮津市島崎。昭和初期頃か。こちらも大きなお屋敷です。
※2025年3月1日再探索分の近代建築追加

宮津武徳殿。宮津市万年。大正12年頃か。

元大日本武徳会宮津支所で、武道場でもあった建物。
元々は山上の桜山遊園にありましたが、現在は麓の桜山天満宮の境内に移築。桜山会館という地区の公民館として利用されています。建築年は検索しても分かりませんでしたが、大正13年の吉田初三郎作の鳥瞰図、「宮津橋立名所図会」の桜山遊園の場所にそれらしき建物が描かれています。

竣工当時の撮影と思われる古絵葉書(後日掲載予定)と比べると、窓回りなどは改変されているものの、おおむね当時の外観の姿を残しているものと思われます。

玄関の車寄せ屋根部分は当初は入母屋でしたが、現在は切妻に変更されています。

玄関車寄せ屋根の鬼瓦。細かい龍の造形。

M邸。宮津市万年。たまたま見つけた洋館付き住宅。

洋館の隅部分に装飾が施されています。他の近代建築サイトでも取り上げられていない物件。

日吉会館。宮津市日吉。下見板張りの洋館の公民館。先に紹介した宮本会館や新浜会議場など、宮津市街地には戦前の洋風の公民館がいくつか残されています。

日吉会館の扁額。これも戦前からの物でしょう。力強い筆跡。

宮津市街地を歩いていて見かけた建物。宮津市住吉。

1階が洋風、2階が和風の外観。元料理屋でしょうか。

1階窓部分。

I邸。宮津市鶴賀。宮津駅の近くにある大きなお屋敷ですが、今の今まで気付かなかった大きな洋館付き住宅。他の近代建築サイトでも触れられていない物件。

正面から。洋館の方が大きい気がします。

お屋敷自体もかなり大きいです。立地も考えると地元の名士の方のお屋敷だったんでしょうか。

旧宮津小学校講堂か。宮津市外側。宮津小学校の敷地に隣接している古い木造建築。

現在は宮津小学校の敷地外で工房の建物として使用されているようですが、昭和22年の航空写真に現在のプールの位置にあった旧校舎と渡り廊下で接続しており、元々は宮津小学校の施設で、大きさと形から講堂だったのではないかと思われます。

南側。

東側。戦前の旧宮津小学校の唯一現存している建物と思われますが、やはり老朽化しており、いつまで残されているか分かりません。
※番外編

その宮津小学校には宮津城で唯一現存している建物が残されています。
かつては太鼓門と言われていた宮津城の城門で、長く宮津小学校の校門として使用されていましたが、最近再移築・修復され、貴重な宮津城の遺構として保存されています。

その宮津小学校の近くでたまたま見かけた個人宅の門。民家にしてはかなり大きな門で、城門などによく使われる乳金具や八双金具などもしかしたら宮津城の移築門ではと思い帰宅後に調べてみたところ、ここの個人宅にお住まいの方はどうやら先祖が宮津藩の家老職だった家柄で、この門はかつての家老屋敷の門だったらしいです。宮津城や宮津藩に関わる建物等の遺構がほとんど残されていない現在、この門がかつての家老屋敷の門だったとすると、かなり貴重なものとなるのですが、太鼓門と違いネットでも取り上げているサイトはほぼ皆無でほとんど知られていないと思われます。
※以上ここまで2025年追加探索分。

さて、一通り探索をした後の宮津での昼食は宮津駅前にある富田屋(とんだや)さん。昭和10年頃創業とのことで、この店舗も恐らく創業当時のもの。宮津で昼食となった際にいつも足を運ぶ富田屋さんですが、理由は店舗がレトロだからと言うわけではなく…

ここの煮魚定食が本当に旨くてしかも安い!この定食で550円です!

富田屋さんのメニュー。信じられない安さ。

お店で出す料理の魚は地元産のもの。安くて旨い魚料理を出す店のため、お昼時はお客さんでいつもいっぱい。夜も地元の常連客らしき人が地魚料理をつまみに盛り上がってますw

ちなみに富田屋さん宿泊できます。しかも1泊2食付きで6000円と言う安さ。レトロな部屋で美味しい魚料理を頂ける私の大のお気に入りのオススメのお店です。
以上で宮津市の近代建築探索は終了。建物や古い街並みを見れるし、日本海の幸も楽しめる良い街ですよ。
2025年02月11日
アクアテラリウム水槽
約1年前からアクアテラリウム水槽を作って置いてます。元々、苔テラリウムに手を出してその影響から空いた水槽を利用して始めましたが、小瓶の苔テラリウムは維持が出来なくなり廃棄。今はアクアテラリウム水槽へと移行しています。アクアテラリウム水槽は近所のペットショップのアクアコーナーで店員さんの趣味もあるのか、いくつか展示としてアクアテラリウム水槽を置いてて、どれも結構いい感じであり、一度やってみたいと思っておりました。
現在、新たに追加した水槽含めて合計6つ。うち2つがアクアテラリウム水槽。

メインに置いているアクアテラリウム水槽で最初に設置したもの。GEXの45cm水槽で元々日本産淡水魚のコイやフナを飼ってましたが、白点病にかかり治療を試みるも結局治すことはできず全て★になったため、アクアテラリウム水槽として再スタートしたもの。拳大の石を配置し、その上に大きめの流木を2つ重ね、その上に各種の苔を植え付けています。

流木の上には何種類かの苔やシダを植え付け。ホームセンターやネットで購入したり、実家の庭や裏山で採取したもの。その上からフィルター付きの小型ポンプで揚水し上から水を流して苔全体に水を与え続ける感じに。最初はシノブゴケをベースにチョウチンゴケとかを植え付け、蓋無しで置いてましたが、苔が上手く育たず枯れてしまったため、チョウチンゴケやホウオウゴケなどを湿度や水を好み、み密閉に適した苔を中心に植え付けて2ヶ月。苔の調子は良くいい感じに生長しています。

苔やシダが生える地上部は上から常に水が流れる形にしており、その水が植えている苔全体を潤し、その水が下へと滴る形にしています。自然での山水が崖から滴るイメージ。

週に1度ポンプのフィルターの掃除をするために撤去して再設置をするため、
水が滴る位置はその都度変わります。

水中部には去年の春から夏にかけて自宅にて孵化し成長したメダカとエビ。少し前までは野生採取のミナミヌマエビを飼ってましたが、華やかな感じにしたいと今は改良品種のチェリーシュリンプを飼育。このアクアテラリウム水槽ではレッドチェリーシュリンプを数匹飼育。野生のミナミヌマエビや色の違うチェリーシュリンプを飼育すると交雑して、生まれたエビが先祖返りし赤い色が失われ、ただのエビになってしまう恐れがあるので、単色飼育を試みてますが、まだ除去しきれていないミナミヌマエビがいるかも。繁殖期になる前に全て撤去したいですが。

投入したレッドチェリーシュリンプたちはだいぶ慣れたようで、餌を与えると出てきます。

窓辺のアクアテラリウム水槽。去年の秋口に新たに設置したGEXの25cmキューブ水槽。こちらも大きめの石を土台にして、その上に流木と石を組み上げる感じで設置。流木には活着君を巻いてその上に苔を植え付けガラス蓋で密閉。植えている苔は45cm水槽とほぼ同じ。こちらも常に水がかかる状態で密閉しているため、植えている苔は活き活きとしています。

このアクアテラリウム水槽は真ん中に導水ラインを作り、上からポンプで揚水した水を流して小さな滝を作っています。地上部はその周りに苔を植え付け、植物が茂る谷から水が落ちる情景をイメージ。

滝部分のアップは上手く撮れなかったので、滝の下の水中部分を。
もう少し滝らしく水が落ちてくれれは良いんですが。
このアクアテラリウム水槽にはブルーチェリーシュリンプを数匹飼育。
ブルーチェリーシュリンプはチェリーシュリンプの中でも人気のある品種ですが、レッドチェリーシュリンプやイエローチェリーシュリンプと比べて奥に隠れることが多く、中々出てきません。
同じチェリーシュリンプでも性格に差があるんでしょうか。
この窓辺のアクアテラリウム水槽、夏場の高温がちょっと心配で、今年の夏を苔たちが越せるかどうか。

最後にアクアテラリウム水槽ではないですが、浴室にちょっと水槽を置きたくてミニ水槽を設置。
使用した水槽はGEXの200mm×100mm×100mmの横長のミニ水槽。苔テラリウムにもよく使用される水槽です。そこに流木や石に巻き付けたアヌビアス・ナナとミクロソリウムを配置。

生体はブルーチェリーシュリンプを4匹入れています。ろ過装置は無しですが、浴室なので入浴ついでに換水が出来る感じ。このブルーチェリーシュリンプも陰に隠れて中々出てこない。
設置した水草は耐陰性があり、CO2無添加と貧栄養でも育つアヌビアス・ナナやミクロソリウムが最適なので選択しましたが、アヌビアス・ナナの輸入物は微量な残留農薬がある可能性が高いので用心。魚とかは平気ですが、エビなんかの甲殻類はモロにダメージを受けるため、ろくに残留農薬の処理をせずに投入すると、もって1日、早くて半日で全滅してしまいます(過去にやらかした経験あり)。
私が水槽に使う水草はほぼ杜若園芸さんで生産されたものを使用しています。一応メインのシュリンプを投入する前に、水草の洗浄後にパイロットシュリンプとしてミナミヌマエビを1匹投入して1日〜2日様子を見てますが、今のところ全て大丈夫です。今回のアヌビアス・ナナ(ミクロソリウムはシュリンプ水槽で育ったものをネットで購入)も杜若園芸さんの栽培品で、2日ほど入れていたパイロットシュリンプも大丈夫でした。
ちなみに自宅の水槽は全て無加温。というのもこれ以上電源が確保できないのと、やはりひヒーターは今でもちょっと怖い気がして。なので寒さに強い日本産淡水魚やミナミヌマエビやヤマトヌマエビといった日本在来種、ミナミヌマエビの近縁種のチェリーシュリンプを主に飼育しています。
チェリーシュリンプと交雑しないビーシュリンプとか飼いたいですが、ビーシュリンプは水温が10℃を下回ると耐えられないそうで。今飼っている魚やエビにも本来はヒーターで加温する方がいいんでしょうけどね。特に魚には白点病の予防になりますし。


ちなみに入手して余った苔は、乾燥ミズゴケ植えの簡単な苔テラリウムにしてとりあえず保管。
苔も中々高いんだよなぁ。
苔つながりで、以前書いた辺り一面ミズゴケの群落地の記事も併せて紹介。
※ミズゴケの楽園
ここは圧巻でしたね。
ちなみに記事中で紹介している自分が制作した苔テラリウムは今は全てありません。
やはりアクアテラリウム水槽みたいにある程度の設備が無いと、長期の維持は難しいですね。
現在、新たに追加した水槽含めて合計6つ。うち2つがアクアテラリウム水槽。

メインに置いているアクアテラリウム水槽で最初に設置したもの。GEXの45cm水槽で元々日本産淡水魚のコイやフナを飼ってましたが、白点病にかかり治療を試みるも結局治すことはできず全て★になったため、アクアテラリウム水槽として再スタートしたもの。拳大の石を配置し、その上に大きめの流木を2つ重ね、その上に各種の苔を植え付けています。

流木の上には何種類かの苔やシダを植え付け。ホームセンターやネットで購入したり、実家の庭や裏山で採取したもの。その上からフィルター付きの小型ポンプで揚水し上から水を流して苔全体に水を与え続ける感じに。最初はシノブゴケをベースにチョウチンゴケとかを植え付け、蓋無しで置いてましたが、苔が上手く育たず枯れてしまったため、チョウチンゴケやホウオウゴケなどを湿度や水を好み、み密閉に適した苔を中心に植え付けて2ヶ月。苔の調子は良くいい感じに生長しています。

苔やシダが生える地上部は上から常に水が流れる形にしており、その水が植えている苔全体を潤し、その水が下へと滴る形にしています。自然での山水が崖から滴るイメージ。

週に1度ポンプのフィルターの掃除をするために撤去して再設置をするため、
水が滴る位置はその都度変わります。

水中部には去年の春から夏にかけて自宅にて孵化し成長したメダカとエビ。少し前までは野生採取のミナミヌマエビを飼ってましたが、華やかな感じにしたいと今は改良品種のチェリーシュリンプを飼育。このアクアテラリウム水槽ではレッドチェリーシュリンプを数匹飼育。野生のミナミヌマエビや色の違うチェリーシュリンプを飼育すると交雑して、生まれたエビが先祖返りし赤い色が失われ、ただのエビになってしまう恐れがあるので、単色飼育を試みてますが、まだ除去しきれていないミナミヌマエビがいるかも。繁殖期になる前に全て撤去したいですが。

投入したレッドチェリーシュリンプたちはだいぶ慣れたようで、餌を与えると出てきます。

窓辺のアクアテラリウム水槽。去年の秋口に新たに設置したGEXの25cmキューブ水槽。こちらも大きめの石を土台にして、その上に流木と石を組み上げる感じで設置。流木には活着君を巻いてその上に苔を植え付けガラス蓋で密閉。植えている苔は45cm水槽とほぼ同じ。こちらも常に水がかかる状態で密閉しているため、植えている苔は活き活きとしています。

このアクアテラリウム水槽は真ん中に導水ラインを作り、上からポンプで揚水した水を流して小さな滝を作っています。地上部はその周りに苔を植え付け、植物が茂る谷から水が落ちる情景をイメージ。

滝部分のアップは上手く撮れなかったので、滝の下の水中部分を。
もう少し滝らしく水が落ちてくれれは良いんですが。
このアクアテラリウム水槽にはブルーチェリーシュリンプを数匹飼育。
ブルーチェリーシュリンプはチェリーシュリンプの中でも人気のある品種ですが、レッドチェリーシュリンプやイエローチェリーシュリンプと比べて奥に隠れることが多く、中々出てきません。
同じチェリーシュリンプでも性格に差があるんでしょうか。
この窓辺のアクアテラリウム水槽、夏場の高温がちょっと心配で、今年の夏を苔たちが越せるかどうか。

最後にアクアテラリウム水槽ではないですが、浴室にちょっと水槽を置きたくてミニ水槽を設置。
使用した水槽はGEXの200mm×100mm×100mmの横長のミニ水槽。苔テラリウムにもよく使用される水槽です。そこに流木や石に巻き付けたアヌビアス・ナナとミクロソリウムを配置。

生体はブルーチェリーシュリンプを4匹入れています。ろ過装置は無しですが、浴室なので入浴ついでに換水が出来る感じ。このブルーチェリーシュリンプも陰に隠れて中々出てこない。
設置した水草は耐陰性があり、CO2無添加と貧栄養でも育つアヌビアス・ナナやミクロソリウムが最適なので選択しましたが、アヌビアス・ナナの輸入物は微量な残留農薬がある可能性が高いので用心。魚とかは平気ですが、エビなんかの甲殻類はモロにダメージを受けるため、ろくに残留農薬の処理をせずに投入すると、もって1日、早くて半日で全滅してしまいます(過去にやらかした経験あり)。
私が水槽に使う水草はほぼ杜若園芸さんで生産されたものを使用しています。一応メインのシュリンプを投入する前に、水草の洗浄後にパイロットシュリンプとしてミナミヌマエビを1匹投入して1日〜2日様子を見てますが、今のところ全て大丈夫です。今回のアヌビアス・ナナ(ミクロソリウムはシュリンプ水槽で育ったものをネットで購入)も杜若園芸さんの栽培品で、2日ほど入れていたパイロットシュリンプも大丈夫でした。
ちなみに自宅の水槽は全て無加温。というのもこれ以上電源が確保できないのと、やはりひヒーターは今でもちょっと怖い気がして。なので寒さに強い日本産淡水魚やミナミヌマエビやヤマトヌマエビといった日本在来種、ミナミヌマエビの近縁種のチェリーシュリンプを主に飼育しています。
チェリーシュリンプと交雑しないビーシュリンプとか飼いたいですが、ビーシュリンプは水温が10℃を下回ると耐えられないそうで。今飼っている魚やエビにも本来はヒーターで加温する方がいいんでしょうけどね。特に魚には白点病の予防になりますし。


ちなみに入手して余った苔は、乾燥ミズゴケ植えの簡単な苔テラリウムにしてとりあえず保管。
苔も中々高いんだよなぁ。
苔つながりで、以前書いた辺り一面ミズゴケの群落地の記事も併せて紹介。
※ミズゴケの楽園
ここは圧巻でしたね。
ちなみに記事中で紹介している自分が制作した苔テラリウムは今は全てありません。
やはりアクアテラリウム水槽みたいにある程度の設備が無いと、長期の維持は難しいですね。
チリモン探し

今から10年以上前、スーパーや鮮魚店、観光施設に売られているチリメンジャコに混ざっているチリメンジャコ、シラス、カタクチイワシ以外の海生生物を探して自由研究にするというのが話題とありました。ポケットモンスター(ポケモン)をもじって名づけられたチリメンモンスター(チリモン)は、海に生きる生物を身近に観察できる教材として広まり、ブームになりました。
最近のチリメンジャコは混ざって採れた他の海生生物はほぼ取り除かれるので、近年はチリモンは見かけなくなりました。しかし、無選別で売られているチリメンジャコもまだまだ売られており、それらは選別されたものより安価で売られています。この淡路産のチリメンジャコは1パック100円でした。
パッと見ただけで、色んな生物が混じるこのチリメンジャコ。久しぶりにチリモンを探してみました。

探すとこんな感じ。下のカタクチイワシ以外を紹介してみます。

アミ類。オキアミかと思います。かなりの数が混入しており、取り出したのはごく一部。

ゾエア類。ゾエアはエビやカニの幼生で、これらはカニのゾエア。こちらもかなりの数が混入しており、取り出したのはごく一部。

タコ。恐らくマダコの幼生。5匹見つかりました。

不明の魚の稚魚。アジかなと思いましたが、口が尖った感じでアジとは違うようです。
カワハギも考えましたが、カワハギより細長い。

鯛かなと思われる稚魚。1匹のみ見つかりました。

ハゼ?かなと思われる稚魚。

タツノオトシゴの幼生。1匹のみ見つかりました。

ウオノエの幼生。ウオノエは魚に寄生する寄生虫で、魚の口なんかに住み着き体液を吸います。
鯛の口に住み着くタイノエが有名ですね。
久しぶりにチリモン探しをすると面白いものです。とりあえず見つけたチリモンはウオノエ以外は頂くことに。チリメンジャコ他はご飯のお供にでもしますか。
ウオノエは・・・食しても影響は無いようですが、どことなく抵抗があるので、水槽の魚にあげました。
チリメンジャコに混じるチリモンは基本的に食しても人体に影響は無いようですが、フグの幼生だけは気を付けた方がいいようです。
2025年01月25日
京都府某所のオオカサゴケ自生地

京都府某所にあるオオカサゴケの自生地。

オオカサゴケは大型の苔の種類で、苔とは思えない花のような葉を広げる苔であり、園芸関係で非常に人気の高い苔。なので、個人や業者による乱獲が各地で起き、またオオカサゴケ自体成長が遅いうえに生育環境を選ぶため、中々増えない点も絶滅危惧種とされている理由です。京都府でも2013年までは準絶滅危惧種に指定されていました。2023年のレッドデータブック改訂版では新たに発見された生息地が増えたため、リスト外となりましたが、それでも希少な苔です。

この場所でも、ほんの3屬糧楼呂任里澤架遒確認できました。場所は山からの水が絶えず流れる小さな谷地。湿り気を好むオオカサゴケはこういう場所でしか生息できませんが、同じ山中の似た水が流れる別の谷地では全く見られないなど、生息域をかなり選ぶようです。

ここのオオカサゴケの自生地は3屬らいの範囲に数十ほどの株。人が押し寄せ根こそぎ持っていったらもう自生はしないでしょう。それほど脆く儚く美しいオオカサゴケ。自分は定期的に見守りたいと思います。
2024年10月14日
福知山市・河守防空監視哨跡探索レポ日記

京都府福知山市大江町にある河守防空監視哨跡を探索してきました。
防空監視哨とは、戦時中に敵機の来襲を監視するために設けられた民防空による見張り所で、軍の指導の下に在郷軍人や青年団、青年学校生徒などが防空監視隊を編成し交代で任務にあたってました。
大江町の河守地区に防空監視哨が存在し、記念の石碑が建てられているのを知ったのは、上記の2016年4月15日付の両丹日日新聞に載せられた、「中高生らが戦争遺跡を調査 防空監視哨訪ね」の記事を見たことからでした。非常に興味がある記事でしたが、肝心の元ページは文字化けにより判読不可。何とか場所を探そうと試みましたが、どうしても分からず行き詰っていたところ、フォロワーさんよりエンコードした記事を送ってくださり、ようやく場所を知ることが出来ました。

河守防空監視哨跡の場所。集落の道から伸びる山道をひたすら歩いていくと15〜20分で到着。

山道は倒木が多いものの、割と分かりやすい山道でした。

到着した河守防空監視哨跡。記念碑とお堂があります。

記念碑の正面には「大東亜戦争河守監視哨跡」

左側面には「元監視哨員及有志者一同」

右側面には「昭和四十四年四月建之」の文字が刻まれています。

河守防空監視哨跡の石碑のある場所を裏側から。整地された痕跡が見られます。
実はこの場所は麓の清園寺の奥の院に当たる場所で、明治期に整備されたようです。
ただし、記念碑の横に建つお堂は戦後に建てられたもののようで、戦時中は奥の院に至る山道や平坦地を利用して防空監視哨が設置されたものと思われます。
河守防空監視哨は集落から歩いて20分程度の場所にあり、おそらく普段の生活は麓の集落で行い、交代の際に登ったものと思われます。

「昭和十九年度京都府防空計画」に記載されている京都府内の防空監視哨。防空監視哨は各防空監視隊本部の下、任務にあたってました。防空監視省の多くは木造の櫓状のものだったようで、現在、防空監視哨は建物は失われ、山中に埋もれており、場所が分からなくなっているものも多くあります。
その中で、京都市右京区京北町の黒田防空監視哨は地元の方の尽力により、跡地に模擬櫓と説明板が設置されました。

防空監視哨を記した地図を基に作成した京都府内防空監視哨の位置図。
多くが山中に埋もれ、場所も分からなくなっている防空監視哨跡が多い中、記念碑として残されている河守防空監視哨跡は、戦時中の民防空の痕跡を伝える貴重な存在と言えます。

登山口の下にある護国神社の社号標。

その裏には「河守町軍友会」の文字が刻まれています。その他、紀元二千六百年記念の石碑がありました。
小さな集落の中の小さな神社の境内にも、戦前・戦中の姿を伝える遺物が残されています。
2024年10月07日
神戸女学院大学(ヴォーリズ建築校舎群)見学レポ日記
2024年9月28日、兵庫県西宮市にある神戸女学院大学の一般公開に行ってきました。
神戸女学院大学の現校舎は、昭和8年にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた校舎群で、
ヴォーリズ建築作品が一カ所に12棟建ち並び、当時のまま残されていることから、2014年に国の重要文化財に指定されました。
ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式の校舎群が建ち並ぶ姿は、壮観かつ女子大らしい華やかさを感じる空間です。

実は、昭和9年に刊行された神戸女学院の竣工記念帖を所有しています。
中には竣工当時の校舎の写真が乗せられており、それらも併せて紹介したいと思います。

正門前にある案内板。現在の神戸女学院大学のキャンパスの鳥観図が描かれています。
キャンパスは岡田山という小高い山の上にあり、ちょっとした登山。
学生さんは毎日この山を登ってるのか・・・・

昭和8年当時の神戸女学院の空撮写真。重要文化財に指定されている主要部は現在と変わらないように見えます。
正門は修理中で覆いがかかって見えませんでした…

最初に見えてきたのは音楽館。堂々たる大きな建物です。
壁面のタイルやテラコッタの装飾が華やかです。

竣工当時の音楽館。当時のままです。

坂を上がり切った場所にある守衛所。

他の見学者の方はあまり注目してませんでしたが、その可愛らしい姿に何枚か撮影。

最初に訪れたのは講堂。

ここで受付と最初の説明を受けました。

竣工当時の講堂。当時のまま。

正面から。

玄関ホールの階段。大理石の重厚な造り。

玄関ホールのシャンデリア。

講堂内部。入った当初は多くの人がいたので、帰り間際の人がいなくなった時を見計らって撮影。

講堂の大きな特徴は、この壇上にある大きなアーチ。

壇上には装飾に富んだ立派な演壇が。これも当時のもの。

天井には星形の照明があります。中々モダンなデザインです。

いったん外に。講堂の横にある通用門。ここを通ると中庭に出ます。

次は図書館。図書館1階のホールが荘厳でした。

このアーチの空間が素晴らしい。

奥にはミロのヴィーナスの模造が。

天井の照明。

壁面の照明。照明も可愛らしかったです。

アーチの柱頭飾り。中央には松明が。

図書館外観。

竣工当時の図書館。当時のまま。

図書館2階天井には、彩色の装飾がありました。

竣工当時の図書館2階天井。当時から彩色の装飾が施されていたようです。

図書館2階から3階に上がる螺旋階段。

図書館2階の閲覧机には竣工当時からの卓上ライトが今も残されています。

次は文学館へ。

先程の竣工当時の図書館の写真に写る文学館。当時はバルコニーがありました。

文学館の階段。玄関の階段ではないため、シンプルなデザイン。

出入口のドア。半円窓の装飾が美しい。

理科学館。こちらは中には入れませんでしたので、中庭から外観のみを見学。

総務館。講堂と併設している建物。

竣工当時の総務館の玄関。今と変わらない姿。

総務館玄関の階段ホール。

竣工当時の階段ホール。当時のまま。

正面のアーチ窓も当時のまま美しい姿を見せています。

階段の両脇にある、まるで街頭のような照明。

天井にも可愛らしい照明がありました。

総務館と文学館を繋ぐ渡り廊下。

最後に入ったのは礼拝堂。神戸女学院大学はミッション系スクールなので、チャペルがあります。

竣工当時の礼拝堂。こちらも当時のまま。

礼拝堂玄関上部のアーチにある「SEARLE CHAPEL」(ソール・チャペル)の文字。

礼拝堂内部は狭いうえに多くの人がいたので全体の様子は撮影できず。何とか撮影できた堂内のアーチ。

礼拝堂の平面積は狭いですが、天井は高く開放感があります。

正面の祭壇。ステンドグラス等は無くシンプルなデザイン。

礼拝堂の照明。

中庭の噴水。

今回の一般公開エリア外になりますが(というか近寄ることもできなかった)、神戸女学院中高部の校舎葆光館(ほうこうかん)。こちらも国指定重要文化財。

竣工当時の葆光館。こちらも当時のまま。

以上で神戸女学院大学のヴォーリズ建築校舎群の見学は終了。
見学者はかなり多く写真の撮影に苦労しましたが、終了間際になると多くの人が帰って行ったので、残り1時間でじっくり見学できました。
重要文化財の神戸女学院大学校舎群。ヴォーリズ建築を十分堪能できた1日でした。
※余談

文学館の側に神社があります。

岡田神社という神社で、廣田神社の摂社となってますが、延喜式に記載のある由緒ある神社。
ミッション系の女子大のキャンパス内に神社が存在していたのは意外でしたが、ちゃんと管理され新しい説明板もあるので大事にされているのでしょう。
ただ、神戸女学院大学のHPのキャンパスMAPにも大学構内の案内MAPにも記載がなく、その辺はやはり大学がキリスト教系だからという理由でしょうか。
神戸女学院大学の現校舎は、昭和8年にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた校舎群で、
ヴォーリズ建築作品が一カ所に12棟建ち並び、当時のまま残されていることから、2014年に国の重要文化財に指定されました。
ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式の校舎群が建ち並ぶ姿は、壮観かつ女子大らしい華やかさを感じる空間です。

実は、昭和9年に刊行された神戸女学院の竣工記念帖を所有しています。
中には竣工当時の校舎の写真が乗せられており、それらも併せて紹介したいと思います。

正門前にある案内板。現在の神戸女学院大学のキャンパスの鳥観図が描かれています。
キャンパスは岡田山という小高い山の上にあり、ちょっとした登山。
学生さんは毎日この山を登ってるのか・・・・

昭和8年当時の神戸女学院の空撮写真。重要文化財に指定されている主要部は現在と変わらないように見えます。
正門は修理中で覆いがかかって見えませんでした…

最初に見えてきたのは音楽館。堂々たる大きな建物です。
壁面のタイルやテラコッタの装飾が華やかです。

竣工当時の音楽館。当時のままです。

坂を上がり切った場所にある守衛所。

他の見学者の方はあまり注目してませんでしたが、その可愛らしい姿に何枚か撮影。

最初に訪れたのは講堂。

ここで受付と最初の説明を受けました。

竣工当時の講堂。当時のまま。

正面から。

玄関ホールの階段。大理石の重厚な造り。

玄関ホールのシャンデリア。

講堂内部。入った当初は多くの人がいたので、帰り間際の人がいなくなった時を見計らって撮影。

講堂の大きな特徴は、この壇上にある大きなアーチ。

壇上には装飾に富んだ立派な演壇が。これも当時のもの。

天井には星形の照明があります。中々モダンなデザインです。

いったん外に。講堂の横にある通用門。ここを通ると中庭に出ます。

次は図書館。図書館1階のホールが荘厳でした。

このアーチの空間が素晴らしい。

奥にはミロのヴィーナスの模造が。

天井の照明。

壁面の照明。照明も可愛らしかったです。

アーチの柱頭飾り。中央には松明が。

図書館外観。

竣工当時の図書館。当時のまま。

図書館2階天井には、彩色の装飾がありました。

竣工当時の図書館2階天井。当時から彩色の装飾が施されていたようです。

図書館2階から3階に上がる螺旋階段。

図書館2階の閲覧机には竣工当時からの卓上ライトが今も残されています。

次は文学館へ。

先程の竣工当時の図書館の写真に写る文学館。当時はバルコニーがありました。

文学館の階段。玄関の階段ではないため、シンプルなデザイン。

出入口のドア。半円窓の装飾が美しい。

理科学館。こちらは中には入れませんでしたので、中庭から外観のみを見学。

総務館。講堂と併設している建物。

竣工当時の総務館の玄関。今と変わらない姿。

総務館玄関の階段ホール。

竣工当時の階段ホール。当時のまま。

正面のアーチ窓も当時のまま美しい姿を見せています。

階段の両脇にある、まるで街頭のような照明。

天井にも可愛らしい照明がありました。

総務館と文学館を繋ぐ渡り廊下。

最後に入ったのは礼拝堂。神戸女学院大学はミッション系スクールなので、チャペルがあります。

竣工当時の礼拝堂。こちらも当時のまま。

礼拝堂玄関上部のアーチにある「SEARLE CHAPEL」(ソール・チャペル)の文字。

礼拝堂内部は狭いうえに多くの人がいたので全体の様子は撮影できず。何とか撮影できた堂内のアーチ。

礼拝堂の平面積は狭いですが、天井は高く開放感があります。

正面の祭壇。ステンドグラス等は無くシンプルなデザイン。

礼拝堂の照明。

中庭の噴水。

今回の一般公開エリア外になりますが(というか近寄ることもできなかった)、神戸女学院中高部の校舎葆光館(ほうこうかん)。こちらも国指定重要文化財。

竣工当時の葆光館。こちらも当時のまま。

以上で神戸女学院大学のヴォーリズ建築校舎群の見学は終了。
見学者はかなり多く写真の撮影に苦労しましたが、終了間際になると多くの人が帰って行ったので、残り1時間でじっくり見学できました。
重要文化財の神戸女学院大学校舎群。ヴォーリズ建築を十分堪能できた1日でした。
※余談

文学館の側に神社があります。

岡田神社という神社で、廣田神社の摂社となってますが、延喜式に記載のある由緒ある神社。
ミッション系の女子大のキャンパス内に神社が存在していたのは意外でしたが、ちゃんと管理され新しい説明板もあるので大事にされているのでしょう。
ただ、神戸女学院大学のHPのキャンパスMAPにも大学構内の案内MAPにも記載がなく、その辺はやはり大学がキリスト教系だからという理由でしょうか。
2024年09月28日
実家で使われている昭和型板ガラス
昭和30年代から50年代を中心に、模様が施された板ガラスを窓や障子や戸棚に使用されるのが流行りました。型板ガラスというロール法で作られた模様入りのガラス板で、各メーカーにより多くの種類の模様の型板ガラスが製造されました。しかし、昭和も後期になると次第に需要が無くなり、現在では国内での製造は終了。昭和中期くらいまでの古い住宅に今でも使われているものくらいしか残されていません。
新たなものが二度と作られないため、今となっては貴重なものになりつつある昭和型板ガラスですが、私の実家は大正4年築の旧家で戦後にガラス戸へと変更したり、両親が生活する離れを昭和40年代に建てたりしているため、今でも多数の昭和型板ガラスが残されています。そんな実家の昭和型板ガラスを記録として販売開始年代順に紹介したいと思います。
昭和型板ガラスの各製品に関しては、こちらのサイトを参考にしました。

「ダイヤ」昭和27年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。

「石目」昭和31年。日本板硝子製。主屋の縁側のガラス戸に使われているもの。

ちなみにガラス戸の鍵は未だにネジ錠です。昔の家はこれでしたね。

「まつば」昭和40年。日本板硝子製。玄関横の表の間のガラス戸に使われているもの。

「こずえ」昭和40年。旭硝子製。両親の離れ屋のガラス戸に使われているもの。

「銀河」昭和42年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。

こちらは台所の戸棚の引き戸に使われている「銀河」の型板ガラスですが、模様も大きいため日本板硝子製ではないかもしれません。

「いちょう」昭和42年。日本板硝子製。主屋の奥の間のガラス戸に使われているもの。

「ちぐさ」昭和46年。日本板硝子製。台所および洗面所・浴室の窓ガラスに使われているもの。

「さくら」昭和46年。セントラル硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。

「みどり」昭和46年。日本板硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。

こちらは台所の戸棚に使われている「みどり」の型板ガラス。

「ばら」昭和48年。セントラル硝子製。応接間の扉に使われているもの。

「きく」昭和45年〜昭和50年頃。日本板硝子製。元祖父母の部屋の扉に使われているもの。
ごく短期間の製造だったそうです。

「いろり」昭和50年。セントラル硝子製。台所のガラス戸に使われているもの。

「よぞら」昭和63年。日本板硝子製。両親の離れ屋の窓ガラスに使われているもの。

「つづれ」昭和63年。日本板硝子製。最後は私の自室のガラス戸に使われている型板ガラスです。
私が小学生の頃に2階の部屋を改装して私と妹の部屋が造られましたが、その時に設置されました。
実家の自室で過ごしていた時は全く気にも留めていませんでしたが。
実家で使われている昭和型板ガラスは、一番古い物が昭和27年、一番新しいものが昭和63年となっており、型板ガラスは昭和末期まで製造されていたことが分かりますが、平成に入ってからは全く製造されなくなったようです。
最近は昭和レトロブームで昭和型板ガラスが見直され、かつて使われていたり在庫として残されていた昭和型板ガラスを皿として再生したものが人気を博したり、SNSでも昭和型板ガラスを見て回ったり、書籍になったりしています。実家のこれらの型板ガラスが今後どうなるか分かりませんが、できる限り残していけたらと考えています。
新たなものが二度と作られないため、今となっては貴重なものになりつつある昭和型板ガラスですが、私の実家は大正4年築の旧家で戦後にガラス戸へと変更したり、両親が生活する離れを昭和40年代に建てたりしているため、今でも多数の昭和型板ガラスが残されています。そんな実家の昭和型板ガラスを記録として販売開始年代順に紹介したいと思います。
昭和型板ガラスの各製品に関しては、こちらのサイトを参考にしました。

「ダイヤ」昭和27年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。

「石目」昭和31年。日本板硝子製。主屋の縁側のガラス戸に使われているもの。

ちなみにガラス戸の鍵は未だにネジ錠です。昔の家はこれでしたね。

「まつば」昭和40年。日本板硝子製。玄関横の表の間のガラス戸に使われているもの。

「こずえ」昭和40年。旭硝子製。両親の離れ屋のガラス戸に使われているもの。

「銀河」昭和42年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。

こちらは台所の戸棚の引き戸に使われている「銀河」の型板ガラスですが、模様も大きいため日本板硝子製ではないかもしれません。

「いちょう」昭和42年。日本板硝子製。主屋の奥の間のガラス戸に使われているもの。

「ちぐさ」昭和46年。日本板硝子製。台所および洗面所・浴室の窓ガラスに使われているもの。

「さくら」昭和46年。セントラル硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。

「みどり」昭和46年。日本板硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。

こちらは台所の戸棚に使われている「みどり」の型板ガラス。

「ばら」昭和48年。セントラル硝子製。応接間の扉に使われているもの。

「きく」昭和45年〜昭和50年頃。日本板硝子製。元祖父母の部屋の扉に使われているもの。
ごく短期間の製造だったそうです。

「いろり」昭和50年。セントラル硝子製。台所のガラス戸に使われているもの。

「よぞら」昭和63年。日本板硝子製。両親の離れ屋の窓ガラスに使われているもの。

「つづれ」昭和63年。日本板硝子製。最後は私の自室のガラス戸に使われている型板ガラスです。
私が小学生の頃に2階の部屋を改装して私と妹の部屋が造られましたが、その時に設置されました。
実家の自室で過ごしていた時は全く気にも留めていませんでしたが。
実家で使われている昭和型板ガラスは、一番古い物が昭和27年、一番新しいものが昭和63年となっており、型板ガラスは昭和末期まで製造されていたことが分かりますが、平成に入ってからは全く製造されなくなったようです。
最近は昭和レトロブームで昭和型板ガラスが見直され、かつて使われていたり在庫として残されていた昭和型板ガラスを皿として再生したものが人気を博したり、SNSでも昭和型板ガラスを見て回ったり、書籍になったりしています。実家のこれらの型板ガラスが今後どうなるか分かりませんが、できる限り残していけたらと考えています。
2024年09月01日
舞鶴市・池内公民館(旧池内郵便局)探訪レポ日記

舞鶴市の郊外に中々良い感じの近代建築があることを知りました。
布敷地区にある池内公民館です。

一部増築や改築が見られるものの、おおむね昭和戦前期と思われる外観が保たれています。

特に特徴が表れているのが玄関の車寄せ部分。

派手さは無いですが、柱と梁を強調したデザインと上部のアーチ窓が目を引きます。

車寄せの天井は格天井となっており、和風のスタイルも取り入れられています。

3面に設置されたアーチ窓は明り取り用と思われますが、シンプルながらも良いデザインです。

玄関車寄せには当初の物と思われる古い看板がそのまま掲げられています。
写真では判読できませんが、現地でなんとか「池内郵便局」と読むことが出来ました。
現在は池内公民館として使用され、内部に布敷簡易郵便局が併設されていますが、かつては池内郵便局だったことが分かりました。

ただし、検索しても近代建築を扱うサイトでは全く見かけないなど、資料や情報が全く得られず、近代建築界隈でも知られていない物件のようで、建築年などの情報は得られませんでした。
ただし、外観は典型的な戦前の地方の役場建築・郵便局建築、国土地理院公開の昭和22年の航空写真に写っていることから、ここでは昭和戦前期の建築としておきます。
2024年08月31日
大津市の近代建築探索レポ日記(JR大津駅〜浜大津)
※2018年8月13日に探索した時のレポ日記です。2024年8月31日現在、記事の物件のうち、2件の取り壊しを確認しました。
2018年8月13日に滋賀県大津市のJR大津駅から浜大津にかけての近代建築探索を行いました。
まずはJR大津駅界隈から。

M邸。大津市音羽台。昭和5年。

設計はヴォーリズ建築事務所。ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式。

2階窓にはステンドグラスがありました。

滋賀県庁舎。大津市京町。昭和14年。

設計は佐藤功一。早稲田大学大隈記念講堂や日比谷公会堂の設計も行った建築家。
以下に竣工記念絵葉書の記事があります。
※古絵葉書・滋賀県庁舎改築記念

玄関ホール。

内部も当時のまま。

階段手摺の装飾。装飾が控えめな滋賀県庁舎でこの装飾は目立ちますね。

階段踊り場のステンドグラス。

この日は平日で庁舎内に入れました。
以前は滋賀県庁舎の近くに武徳殿があったのですが、探索日のほんの4ヶ月ほど前に取り壊されました。3月には見学会もあったようで、早く知っていればと後悔するばかり。

森寺眼科医院。大津市中央町。

看板建築っぽい感じ。

壁のポストの文字が右書きなので、戦前の物件でしょう。

U邸。大津市京町。滋賀県庁の近くの一等地にあるお屋敷。洋館もあり、結構な名士の御屋敷だったと思われます。

通用口もこの立派さ。

大津教会。大津市末広町。昭和5年。

設計はヴォーリズ建築事務所。滋賀県内の戦前の教会建築の多くはヴォーリズ建築事務所が手掛けてますね。

島林書店。大津市中央町。かなり意匠的な本屋さん。

現在は廃業し空き家状態なので、今後が気になります。

洋風商店。大津市中央町。探索中に見つけた物件。

軒周りの蛇腹装飾に面影が残されています。

尾松歯科医院。大津市中央町。昭和9年。

現役の歯科医院なので一部の窓回りとかに改修が入ってますが、大切に使われているようです。

古今書店。大津市中央町。レリーフが目を引きますね。。

大津聖マリア教会。大津市京町。

中々可愛らしい教会です。

1931の文字がある定礎。

松本理髪店。探索中に見かけた物件。右書きの店名が戦前らしさを感じます。
外観と腰回りのスクラッチタイルから昭和初期頃でしょうか。
現在は廃業。

大津百町館の離れの洋館。

大津百町館は元呉服商の町屋建築。この離れの洋館は昭和初期の建築。

石田歯科医院。大津市中央町。昭和12年。

意匠に富んだ中々洒落た洋館です。

2階には帆船のステンドグラスがある素敵な楕円形の丸窓が。
次に浜大津エリアに。

旧久保井医院。大津市浜大津。昭和3年

いかにも戦前の町の個人病院といった姿です。

旧豆信(取り壊し)。大津市長等町。大正頃。看板建築ですが、外観は意匠に富んでます。

窓上部のレリーフ。

窓回りと軒周りのレリーフ。優れた洋風商店建築でしたが、2022年頃に取り壊され現存していません。

柴屋町遊郭(取り壊し)。大津市長等町。

大津市長等町にはかつて柴屋町遊郭がありました。今も遊郭時代の建物がいくつか残されていますが、この建物はその中でも優れた意匠の建物。丸窓には竹の装飾があります。

壊れた窓から見える障子の組子は複雑で、ふんだんに手が掛けられた建物と分かります。
しかし、老朽化が進んでいたこともあり、現在は取り壊されています。

大門通の洋館群。大津市大門通。昭和初期頃。
大津市の大門通には戦前の分譲地と思われる一角があり、洋館付き住宅が数件残されています。
分譲地の入口には門柱まで備えられています。

大津市大門通の洋館付き住宅

大津市大門通の洋館付き住宅

大津市大門通の洋館付き住宅
こちらはメダリオンの装飾つき。

大津市大門通の洋館付き住宅
この大門通の分譲地に関しての史料は見つからなかったですが、かつて近くに江若鉄道の三井寺下駅があり、それに関わる分譲地だった可能性があります。

旧大津公会堂。大津市浜大津。昭和9年。

大津市でも代表格の近代建築の一つ。現在は貸しスペースなどに利用されています。

玄関ホールや階段は当時のまま。

いい雰囲気ですね。

3階部分はちょっとしたスペースがあり、ここで少し休憩し、歩き疲れた足を回復させました。
今回の探索では、大規模なものからひっそりと残る小さな物件まで、様々な近代建築に触れることができ、戦前の滋賀県庁舎近辺から浜大津界隈の雰囲気を感じることが出来ました。
2018年8月13日に滋賀県大津市のJR大津駅から浜大津にかけての近代建築探索を行いました。
まずはJR大津駅界隈から。

M邸。大津市音羽台。昭和5年。

設計はヴォーリズ建築事務所。ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式。

2階窓にはステンドグラスがありました。

滋賀県庁舎。大津市京町。昭和14年。

設計は佐藤功一。早稲田大学大隈記念講堂や日比谷公会堂の設計も行った建築家。
以下に竣工記念絵葉書の記事があります。
※古絵葉書・滋賀県庁舎改築記念

玄関ホール。

内部も当時のまま。

階段手摺の装飾。装飾が控えめな滋賀県庁舎でこの装飾は目立ちますね。

階段踊り場のステンドグラス。

この日は平日で庁舎内に入れました。
以前は滋賀県庁舎の近くに武徳殿があったのですが、探索日のほんの4ヶ月ほど前に取り壊されました。3月には見学会もあったようで、早く知っていればと後悔するばかり。

森寺眼科医院。大津市中央町。

看板建築っぽい感じ。

壁のポストの文字が右書きなので、戦前の物件でしょう。

U邸。大津市京町。滋賀県庁の近くの一等地にあるお屋敷。洋館もあり、結構な名士の御屋敷だったと思われます。

通用口もこの立派さ。

大津教会。大津市末広町。昭和5年。

設計はヴォーリズ建築事務所。滋賀県内の戦前の教会建築の多くはヴォーリズ建築事務所が手掛けてますね。

島林書店。大津市中央町。かなり意匠的な本屋さん。

現在は廃業し空き家状態なので、今後が気になります。

洋風商店。大津市中央町。探索中に見つけた物件。

軒周りの蛇腹装飾に面影が残されています。

尾松歯科医院。大津市中央町。昭和9年。

現役の歯科医院なので一部の窓回りとかに改修が入ってますが、大切に使われているようです。

古今書店。大津市中央町。レリーフが目を引きますね。。

大津聖マリア教会。大津市京町。

中々可愛らしい教会です。

1931の文字がある定礎。

松本理髪店。探索中に見かけた物件。右書きの店名が戦前らしさを感じます。
外観と腰回りのスクラッチタイルから昭和初期頃でしょうか。
現在は廃業。

大津百町館の離れの洋館。

大津百町館は元呉服商の町屋建築。この離れの洋館は昭和初期の建築。

石田歯科医院。大津市中央町。昭和12年。

意匠に富んだ中々洒落た洋館です。

2階には帆船のステンドグラスがある素敵な楕円形の丸窓が。
次に浜大津エリアに。

旧久保井医院。大津市浜大津。昭和3年

いかにも戦前の町の個人病院といった姿です。

旧豆信(取り壊し)。大津市長等町。大正頃。看板建築ですが、外観は意匠に富んでます。

窓上部のレリーフ。

窓回りと軒周りのレリーフ。優れた洋風商店建築でしたが、2022年頃に取り壊され現存していません。

柴屋町遊郭(取り壊し)。大津市長等町。

大津市長等町にはかつて柴屋町遊郭がありました。今も遊郭時代の建物がいくつか残されていますが、この建物はその中でも優れた意匠の建物。丸窓には竹の装飾があります。

壊れた窓から見える障子の組子は複雑で、ふんだんに手が掛けられた建物と分かります。
しかし、老朽化が進んでいたこともあり、現在は取り壊されています。

大門通の洋館群。大津市大門通。昭和初期頃。
大津市の大門通には戦前の分譲地と思われる一角があり、洋館付き住宅が数件残されています。
分譲地の入口には門柱まで備えられています。

大津市大門通の洋館付き住宅

大津市大門通の洋館付き住宅

大津市大門通の洋館付き住宅
こちらはメダリオンの装飾つき。

大津市大門通の洋館付き住宅
この大門通の分譲地に関しての史料は見つからなかったですが、かつて近くに江若鉄道の三井寺下駅があり、それに関わる分譲地だった可能性があります。

旧大津公会堂。大津市浜大津。昭和9年。

大津市でも代表格の近代建築の一つ。現在は貸しスペースなどに利用されています。

玄関ホールや階段は当時のまま。

いい雰囲気ですね。

3階部分はちょっとしたスペースがあり、ここで少し休憩し、歩き疲れた足を回復させました。
今回の探索では、大規模なものからひっそりと残る小さな物件まで、様々な近代建築に触れることができ、戦前の滋賀県庁舎近辺から浜大津界隈の雰囲気を感じることが出来ました。
2024年08月30日
養父市大屋町の近代建築と明延鉱山関連建物探索レポ日記
2024年8月10日、兵庫県養父市大屋町にある近代建築と明延鉱山を探索してきました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。

但馬銀行大屋支店。昭和6年

小さな町の中にある立派な洋館。

やはり目立ちますね。

壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。

門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。

おそらく昭和戦前期の建築と思われます。

当時の外観の姿を良く残しています。

正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。

妻側から。

玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。

講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。

※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。

明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。

説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。

北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。

かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。

こちらは10号社宅。

11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。

社宅内部。

家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。

北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。

プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。

北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。

北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。

工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。

手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。

玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。

隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。

最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。

北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。

旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。

旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。

旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。

かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。

南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。

南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。

郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。

明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。

現在は取り壊され何も残されていません。

明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。

展示されている、No18電気機関車。

昭和17年、三菱電機製。

こちらは電動客車白金号。昭和27年製。

桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。

こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。

明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。

元商店と思われる建物。

正垣百貨店。雑貨店のような感じ。

看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。

社宅と思われるる建物。

レトロなたばこ屋さんがありました。

味のある「たばこ」の看板。

龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。

川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。

川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。

消防団詰所。洋風の外観。

内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。

明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。

中々洒落た建物です。

妻側から。

玄関には第一浴場の文字もあります。

明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。

現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。

第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。

坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。

桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。

1部屋だけ住人がいるようです。

同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。

3棟が残されれています。

こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。

但馬銀行大屋支店。昭和6年

小さな町の中にある立派な洋館。

やはり目立ちますね。

壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。

門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。

おそらく昭和戦前期の建築と思われます。

当時の外観の姿を良く残しています。

正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。

妻側から。

玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。

講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。

※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。

明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。

説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。

北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。

かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。

こちらは10号社宅。

11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。

社宅内部。

家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。

北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。

プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。

北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。

北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。

工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。

手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。

玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。

隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。

最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。

北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。

旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。

旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。

旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。

かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。

南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。

南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。

郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。

明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。

現在は取り壊され何も残されていません。

明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。

展示されている、No18電気機関車。

昭和17年、三菱電機製。

こちらは電動客車白金号。昭和27年製。

桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。

こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。

明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。

元商店と思われる建物。

正垣百貨店。雑貨店のような感じ。

看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。

社宅と思われるる建物。

レトロなたばこ屋さんがありました。

味のある「たばこ」の看板。

龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。

川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。

川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。

消防団詰所。洋風の外観。

内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。

明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。

中々洒落た建物です。

妻側から。

玄関には第一浴場の文字もあります。

明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。

現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。

第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。

坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。

桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。

1部屋だけ住人がいるようです。

同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。

3棟が残されれています。

こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。
2024年08月04日
兵庫県丹波市氷上町・春日町他の近代建築探索レポ日記
2024年8月3日、兵庫県丹波市氷上町・春日町他の近代建築を探索してきました。
兵庫県丹波市は過去に柏原町・氷上町・青垣町・山南町の近代建築の探索をしています。
※関連記事
兵庫県丹波市柏原町の近代建築探索レポ日記
丹波市氷上町・青垣町、朝来市和田山町、養父市八鹿町、豊岡市日高町の近代建築探索レポ日記
丹波市山南町の近代建築探索レポ日記
兵庫県丹波市は過去に柏原町・氷上町・青垣町・山南町の近代建築の探索をしています。
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丹波市氷上町・青垣町、朝来市和田山町、養父市八鹿町、豊岡市日高町の近代建築探索レポ日記
丹波市山南町の近代建築探索レポ日記
今回は未訪問だった物件を補完する感じでの探索です。
※今回、諸事情により詳細な所在場所を伏せている物件があります。ご了承ください。
まずは柏原町で未訪問だった物件へ。

東鴨野公民館 丹波市柏原町鴨野。

昭和戦前期の建築でしょうか。外観はだいぶ古くなってますが、今も現役のようです。
次は氷上町へ。

石生駅東口駅舎。丹波市氷上町石生。昭和17年。
今となっては数少ない木造駅舎。

中々良い感じ。

待合室は窓が大きく開放感があります。

現在の石生駅は西口駅舎がメインとなっているため、かつての窓口は塞がれています。

丸窓が戦前の駅舎の雰囲気を感じさせます。

跨線橋も昔ながらの木造です。

犬岡区公会堂。丹波市氷上町犬岡。

やや和風の雰囲気を持つ公会堂です。

公会堂の前には記念碑があります。これは昭和15年11月10日に紀元二千六百年の記念式典に関わった地区の人を顕彰した記念碑。

こちらは公会堂の建設資金を寄付した人たちを記す記念碑。この記念碑に「昭和十四年十月竣工」の文字があり、この犬岡区公会堂の竣工年が判明しました。

丹波市氷上町成松にある古いビル。外観や基礎、門柱から戦前の築とは思います。

壁面に隣に建っていた建物の痕跡(いわゆるトマソン物件)があります。

このビル、鉄筋コンクリート造だとは思うのですが、木造にも見える。ただ、木造でこんな細長い3階建てのビルが建てられるとは思わないので。

旧下新庄公民館。丹波市氷上町下新庄。

西丹波地域に残る公民館建築ではハイレベルな洋館建築。

外観はオリジナルの状態で良く保たれています。

背面。

正面玄関。なんとなく、内藤克雄の作品の雰囲気を感じます。
※関連記事 内藤克雄の作品を訪ねて

外観はオリジナルで良く保たれていますが、内部は農機具倉庫に使われているためか、間仕切り壁がほぼ撤去され、天井部分しか面影が残されていないのが残念です。

旧清住公民館。丹波市氷上町清住。先ほどの旧下新庄公民館とよく似た外観。

背面。

側面。

こちらも内部は物置とされ、かなり荒れてました。
次に春日町へと向かいます。

多利公民館。丹波市春日町多利。

小規模ですが、こまめなメンテナンスがされており、大切に使われています。
外観が加東市にいくつか残る戦前の洋風公民館建築とよく似ています。
※関連記事 加東市・小野市の近代建築探索レポ日記(内藤克雄作品を訪ねて)

隣接して別館があります。こちらも古そう。
最期に一か所、探索前に調べていて偶然見つけた物件があります。
昭和初期と思われる個人宅ですが、地方の小さな田舎町としては中々のレベルの洋館です。
ただし今のところ、他サイト等では一切紹介されていないため、未だほぼ近代建築としては知られていない物件であること、現在もお住まいになっている個人宅であることから、丹波市内にある洋館とだけ紹介し、詳細は伏せることにします。なので、具体的な所在地はお答えいたしません。

こちらがK邸。派手さは無いですが、窓の下の欄干や丸窓等、戦前の洋風住宅建築の雰囲気が良く出ています。

玄関部分の正面。

反対の角部分。壁面は黒の下見板張りで落ち着いた外観です。

側面から。屋根は赤瓦を葺き、黒壁と対照的な華やかさが目を引きます。

背面には主屋と同じデザインの離れ棟が存在します。

基礎の通風孔には、凝ったデザインのガラリがはめられており、手をかけて建てられた洋館と分かります。これだけの洋館ですから、それなりに名のある設計者によるものと思われますが、情報が全くなく詳細不明です。家主の方に聞くのが一番だとは思いますが、中々難しいですね。
今回は氷上町を中心として未訪問の物件を補完する探索でしたが、この洋館の発見と言い、まだまだレベルの高い近代建築が知られず存在しているんだなと思わされた探索でした。
2024年07月08日
旧舞鶴海軍防備隊(現・海上保安学校)遺構探索レポ日記

舞鶴市にある海上保安学校は、かつて舞鶴海軍防備隊の敷地でした。海軍防備隊とは担当警備区の沿岸の防衛を行う機関です。舞鶴海軍防備隊は当初は現在の海上自衛隊造修補給処の場所ににありましたが、昭和16年に現在の海上保安学校の位置に移転しました。
戦後、海上保安学校の敷地となりましたが、舞鶴海軍防備隊の建物などの施設はそのまま引き継がれ、現在もいくつかの建物や遺構が残されています。

※京都府立京都学・歴彩館所蔵「海軍防備隊 返還目録 昭和26年」より、舞鶴海軍防備隊施設位置図。(掲載許可済み)
終戦時の舞鶴海軍防備隊の建物等の施設が書かれています。


※同資料より施設目録(掲載許可済み)
この施設位置図や施設目録の史料により、現存している建物や遺構との裏付けをすることが出来ました。

そして、今回の探索を基に作成した遺構位置図。これに基づき紹介していきます。

\橘隋真ん中の門柱ではなく、両側の煉瓦風の門が当時の正門と思われます。
当初はコンクリート打ちっぱなしの門柱で、少なくとも昭和30年の写真には写っています。

庁舎。昭和16年築。鉄筋コンクリート造3階建ての近代的な造りで、当時主流になりつつある装飾を廃した機能主義的デザインの建物。

しかし、正面の堂々たる車寄せと両脇に伸びる車寄せスロープに戦前までの庁舎建築らしさを感じます。

玄関奥の階段室。階段のデザインも昭和10年代らしくシンプルなデザインです。

こちらは、昭和15年築の現在は舞鶴教育隊本館となっている旧舞鶴海兵団庁舎。

舞鶴海兵団庁舎の階段もほぼ同じデザインです。当時、海軍内で一定の建築デザインの統一があったのかもしれません。

旧舞鶴海軍防備隊庁舎の車寄せから外側を望む。奥に見えいる築山も防備隊当時のものです。
庁舎の内部も見たかったんですが、残念ながら内部へは入れませんでした。

庁舎背面。旧舞鶴海軍防備隊庁舎の両翼の表面・背面は耐震補強で増築されています。

先ほどの階段の裏側はこんな感じでした。
庁舎を離れ、北側に向かいます。

5豕〕觚法I馗甞し核蛭隊時代の唯一現存する木造建物。現在は機関科の実習棟として使用されています。

入口は妻側になります。

内部。トラスの小屋組み等、機雷庫時代の面影が良く残されています。

木製の棚。これも海軍時代のものではないでしょうか?
そして、ここにはとんでもないものが置かれています。

この古い機械。実は旧海軍の潜水艦のエンジンとのこと。

発電機が併設されており、発電用のエンジンと思われます。
潜水艦は日中の浮上航行中にディーゼルエンジンで動くため、そのエンジンで発電し蓄電。
夜間の潜航中はディーゼルエンジンが使えないため、バッテリーに蓄電した電気で航行します。

横から。

ディーゼルエンジンのプレート。製造は新潟鐵工所。新潟鐵工所は戦前より鉄道車両や船舶などのディーゼルエンジンの製造を行っていた企業で、戦時中は海軍用の製品も納入しており、このプレートにも海軍の錨マークが刻印されています。

ディーゼルエンジンの注意書きプレート。昭和20年5月製造。

発電機は昭和電機製造株式会社。昭和19年11月製造。
それぞれの下請け会社で製造されたエンジンと発電機を舞鶴海軍工廠で組み立てたものと思われます。
このディーゼルエンジンと発電機は実際には潜水艦に搭載されることはなく、舞鶴海軍工廠にそのままになっていたのを払い下げを受け、以来実習用として使用されてきたそうです。
現在国内に3基のみ存在し、うち稼働できるのはこの鬼陲里澆箸里海箸如貴重な近代産業遺産となっています。
※稼働している様子。

こちらも戦前の「裁断機」。おそらくこれも舞鶴海軍工廠に置かれていたものと思われます。

製造は大隈鉄工所。戦前より工作機械を製造した会社で、現在のオークマ株式会社です。
旧機雷庫を出て敷地を散策。

ち匕法μ庫か。「海上保安学校三十年史」には軽質油塗具庫となっていますが、返還目録の図面では単に倉庫となっています。

返還目録では煉瓦造となっていますが、近寄れなかったので確認できませんでした。

倉庫の隣に建つ小さな建物。返還目録にはそれらしいものは書かれていませんが、古そうだったし気になったので。形から油庫の可能性があります。

ッ残引揚場。返還目録にはスロープの形状のみ書かれていますが、三十年史では短艇引揚場となってます。
短艇(カッター)を引き上げるスロープですね。

一部修復されていますが、ほぼ防備隊時代のままと思われます。

γ残吊。当時の物かどうか確認するため細部を観察。
使われている鋼材は山形鋼と平鋼でリベット打ちの接続。戦前では一般的な工法でしたが、昭和30年代頃にはH形鋼が主流となるため、防備隊時代の可能性があります。

現在も現役で使われています。
次に正門辺りまで向かいます。

正門の東側に高台があり、階段が伸びてます。
その横に。

旧海軍時代のレリーフらしきものと、手水鉢があります。
遺構位置図Г硫媾蠅任后手水鉢は煉瓦造モルタル塗で、両側に水を流す溝が切られています。
手水鉢があることから、ここは防備隊の隊内神社の跡と思われます。
階段を上ると広場となっており、現在は殉職者の碑が建てられていますが、かつては社殿があったものと思われます。

その手水鉢の前に置かれた謎の物体。コンクリート製で表面には錨と桜花が陽刻されています。
防備隊時代の物とは思われますが、奥に手水鉢があるため、元々ここにあったものではなく、どこかから運んできたものと思われます。

階段の東側に神社の石積が残されています。
その東側の当日臨時駐車場となっていた場所へと向かいます。

┛揚場。護岸の一部が開口しており、スロープ状になっています。
海上保安学校の敷地内に現存する短艇引揚場と同じ性格のものと思われます。

防備隊桟橋跡。臨時駐車場となっている場所から海側へ向かうと、コンクリート造の桟橋跡が良好な形で残されていました。

ここは海上自衛隊の敷地のため普段は立ち入り禁止ですが、臨時駐車場となっていたため見学することが出来ました。

荷揚げクレーン台座。桟橋の西端には荷揚げ用のクレーンの台座が残されていました。

これは現在の海上自衛隊舞鶴造修補給処にある荷揚げ用の5トンクレーン。
昭和16年製のもので、防備隊桟橋跡にもこのようなクレーンが置かれていたものと思われます。

防備隊桟橋引込線跡。荷揚げクレーンがあったということは、運搬用貨車を引き込んだ引込線の痕跡が残されています。引込線は、桟橋の端から端まで通っており、痕跡も残されています。

桟橋の陸側には暗渠の蓋が並んでいます。

暗渠の一部は開けられていて中を覗くと、石積みの護岸が見えました。
明治・大正期に軍港整備として石積護岸が造られていましたが、昭和16年に舞鶴海軍防備隊が移転した際にこの桟橋が護岸の海側に増築する形で作られたことが良く分かります。しかし、暗渠の蓋は分厚く大きいです。

その他、桟橋跡には何にかの構造物の柱と思われる金属を切断した跡も残されていました。
海上保安学校となっている旧舞鶴海軍防備隊は探索前から庁舎と機雷庫の存在は把握していましたが、その他にも数多くの遺構が良好な状態で残されていることが判明し、旧軍遺構としては久しぶりに多くの成果を得た探索となりました。

旧軍遺構ではありませんが、海上保安学校にはもう一つ外せないものがあります。
それは実習灯台である舞鶴灯台。舞鶴灯台は昭和43年に完成した灯台ですが、

その灯台に設置されているレンズが第4等フレネルレンズ。

昭和10年3月、灯台局工場製の歴史あるもの。
おそらくどこかの灯台で使用されていたものを、こちらに実習用として移設したものと思われます。
もちろんちゃんと稼働します。こちらも貴重な近代産業遺産です。
2024年05月24日
ミズゴケの楽園。
ちょっと最近、仕事などで落ち込むことがあり、気分転換がしたく出かけました。
場所はとある湿原。

そこまで山奥ではなく、遊歩道も整備された湿原で、最近苔に興味がある私は、自然観察も含めて歩いてみましたが、ここの湿原、凄いところでした。

谷から水が流れてきて、低地に水が溜まり湿地となっているのですが、その水辺に生えているコケのほとんどがミズゴケでした。

流れの周りに生えている緑のコケはほぼミズゴケ。

こちらも。

木洩れ日に照らされたミズゴケ。

水が流れ込む湿地帯にもミズゴケが。

湿地や水辺から離れた場所はさすがにミズゴケは生えていませんでしたが、流れのそばや湿地の場所はほぼミズゴケで占められ、その群生の範囲はかなりの広さになります。

ミズゴケと混生する他の植物。

やや乾いた場所には別のコケ(スギゴケ?)が生えていましたが、その中にもミズゴケが進出していました。

群生しているミズゴケのアップ。おそらくオオミズゴケ。ミズゴケは世界中に自生し、その保水力の高さから、様々な用途に利用され、一番よく使われるのは園芸用。かつては脱脂綿の代わりや食用にも利用されていたようです。そんなミズゴケですので、乱獲の問題があり、日本でも主に蘭などの用土に利用するためのミズゴケの乱獲がかつては行われていました。また、開発等の自生地の環境の変化で数を減らし、正直どこでも見られるコケではなくなりました。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種にも指定されています。
そんなミズゴケがこれだけの広範囲に群生している湿原は中々貴重ではないかと思います。

今回散策した湿原を見て、ミズゴケが繁茂する湿原をイメージした苔テラリウムを作りたくプラケースに造ってみました。土台の用土はホームセンターの乾燥ミズゴケ。そこに実家の裏で採取したオオミズゴケを植え付け、周りに実家近くの小川の中洲や川岸に生えていた小さいシダやなんかの草(笑)、そしてウォータークローバーの小株を植えて湿原の混生を再現。何か枯れ木とか石とかを置いても良かったのですが、とりあえずはこんな感じで。

あと、この湿原の苔テラリウムを作りたかったのは、食虫植物のモウセンゴケを育てたかったから。モウセンゴケは湿地性を好む植物で、この苔テラリウムと相性の良い植物ですので。植え付けたのは、メルカリで発注したトウカイコモウセンゴケ。うまく育てばいいけど。

実は去年から苔テラリウムに手を出し始めて、簡単なものですが、ちょこちょこ作ってます。別に売るとかじゃなく、作る過程が楽しいので、作り続けてます。最近はちょっとミズゴケに興味が移ってるので政策は休止してますが。最後に過去に制作したいくつかの苔テラリウムを紹介しておきます。

「山中に眠る石室が露出した古墳」


「草に埋もれる城跡の石垣」

「枯山水の庭園」

「日本庭園の路地」

「山道」
場所はとある湿原。

そこまで山奥ではなく、遊歩道も整備された湿原で、最近苔に興味がある私は、自然観察も含めて歩いてみましたが、ここの湿原、凄いところでした。

谷から水が流れてきて、低地に水が溜まり湿地となっているのですが、その水辺に生えているコケのほとんどがミズゴケでした。

流れの周りに生えている緑のコケはほぼミズゴケ。

こちらも。

木洩れ日に照らされたミズゴケ。

水が流れ込む湿地帯にもミズゴケが。

湿地や水辺から離れた場所はさすがにミズゴケは生えていませんでしたが、流れのそばや湿地の場所はほぼミズゴケで占められ、その群生の範囲はかなりの広さになります。

ミズゴケと混生する他の植物。

やや乾いた場所には別のコケ(スギゴケ?)が生えていましたが、その中にもミズゴケが進出していました。

群生しているミズゴケのアップ。おそらくオオミズゴケ。ミズゴケは世界中に自生し、その保水力の高さから、様々な用途に利用され、一番よく使われるのは園芸用。かつては脱脂綿の代わりや食用にも利用されていたようです。そんなミズゴケですので、乱獲の問題があり、日本でも主に蘭などの用土に利用するためのミズゴケの乱獲がかつては行われていました。また、開発等の自生地の環境の変化で数を減らし、正直どこでも見られるコケではなくなりました。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種にも指定されています。
そんなミズゴケがこれだけの広範囲に群生している湿原は中々貴重ではないかと思います。

今回散策した湿原を見て、ミズゴケが繁茂する湿原をイメージした苔テラリウムを作りたくプラケースに造ってみました。土台の用土はホームセンターの乾燥ミズゴケ。そこに実家の裏で採取したオオミズゴケを植え付け、周りに実家近くの小川の中洲や川岸に生えていた小さいシダやなんかの草(笑)、そしてウォータークローバーの小株を植えて湿原の混生を再現。何か枯れ木とか石とかを置いても良かったのですが、とりあえずはこんな感じで。

あと、この湿原の苔テラリウムを作りたかったのは、食虫植物のモウセンゴケを育てたかったから。モウセンゴケは湿地性を好む植物で、この苔テラリウムと相性の良い植物ですので。植え付けたのは、メルカリで発注したトウカイコモウセンゴケ。うまく育てばいいけど。

実は去年から苔テラリウムに手を出し始めて、簡単なものですが、ちょこちょこ作ってます。別に売るとかじゃなく、作る過程が楽しいので、作り続けてます。最近はちょっとミズゴケに興味が移ってるので政策は休止してますが。最後に過去に制作したいくつかの苔テラリウムを紹介しておきます。

「山中に眠る石室が露出した古墳」


「草に埋もれる城跡の石垣」

「枯山水の庭園」

「日本庭園の路地」

「山道」
2024年03月24日
富雄丸山古墳・造り出し部埋葬施設出土木棺等現地説明会レポ日記

去年、国宝級の発見と言われた鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡と東アジアでも最大級の蛇行剣が出土した富雄丸山古墳の造り出し部の埋葬施設。その埋葬施設内部の発掘調査が行われ、木棺や銅鏡、竪櫛などが出土し、3/17に現地説明会が行われたので行ってきました。
写真は盾形銅鏡と蛇行剣が出土した状態の去年の写真で、木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨と言います)の上に置かれていました。
※去年参加した富雄丸山古墳の現地説明会レポ日記

今回の富雄丸山古墳の現地説明会は、16日午後と17日に開催されれ、16日には3000人くらい訪れたと聞き、10時からの開始予定でしたが、8時に到着。古墳の近くには新たな案内板が設置されていました。看板が富雄丸山古墳の形で、矢印が蛇行剣w ちなみにもう一つ、鼉龍文盾形銅鏡の形をした案内板も設置されているようです。

8時に到着しましたが、誰もおらず。8時30分くらいから列が出来始め、1時間早めた9時から県が゛区開始となりました。

発掘された埋葬施設。埋葬施設の上には屋根がかけられ、その中を通路を歩きながら見学する感じでした。

しかし、1番乗りだった私はまだそんなに多くの人がいなかったため、じっくりと見学することができました。

埋葬施設全体。出土した木棺は非常に保存状態が良く驚きました。粘土槨の上に乗せられていた盾形銅鏡と蛇行剣から溶け出した金属イオンが作用して、木棺の腐食を防いだそうですが、古墳の木棺は大抵残っていないため、当時の木棺の姿を伝える貴重な発見です。木棺は割竹形木棺。木棺本体はコウヤマキで作られ、小口板はスギで作られています。

木棺の南東側には銅鏡が3枚重ねられて埋葬されていました。

銅鏡をアップで撮影してみました。表面(鏡面)を上にしているので文様はまだ不明ですが、縁の感じを見ると、三角縁というより平縁に見えます。当時日本にも多く伝わった漢式の内行花文鏡かなと思ってます。しかし、アップにすると益々木棺の保存状態の良さに驚きます。

木棺内に残された水銀朱。当時、朱の赤色は魔除けの意味合いがあり、古墳に埋葬された木棺や石棺の内部に塗られていました。水銀朱は金属なので、1700年以上経った現在でも鮮やかにその朱の色が残されています。ちなみに、竪櫛も9個ほど埋葬されていたそうですが、保存のために取り上げられていました。
さて、この造り出し部に埋葬された人物はどのような人だったのか。棺内に剣や刀、鏃などの武具が埋葬されていないこと、竪櫛が埋葬されていることから、被葬者は女性ではとの見方がされています。富雄丸山古墳の主である墳頂部に埋葬された人物の姉か妹ではとの説もあるようですが、それにしては副葬品が質素に見えます。それこそ首飾りである玉類とかあってもおかしくはないと思いますが、一切ないのが。私は富雄丸山古墳の主に仕えていた側近的な人物で、巫女的な存在だったのではと考えてます。棺外に置かれた盾形銅鏡と蛇行剣は主を守る魔除けの意味があったのではと。あくまで私の推測ですが。

1巡したあともう1度見たくなって2巡。その際にスマホにある3Dモデルが作成できるアプリを試してみることに。流れに沿って連続写真を撮るだけで簡単に3Dモデルが出来ました。便利な時代になりましたね。

2巡目を終えて富雄丸山古墳を後にした直後に見学者が一気に増えたようで40分待ちとかになったようです。やはり早めに来てよかった。
富雄丸山古墳の調査はまだ続くようなので、今後どんな発見があるのか楽しみですね。
※今回の富雄丸山古墳の現地説明会資料のPDFはこちらからDLできます。
2024年02月25日
下鴨森ガ前児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨西高木町にある下鴨森ガ前児童公園を探索しました。下鴨森ガ前児童公園は昭和14年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

下鴨森ガ前児童公園北門。

門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。

反対側も同じデザインで、シンメトリー。

公園内から。

下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。

北西隅の塀。

下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。

下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。

下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。

四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。

何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。

下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

下鴨森ガ前児童公園北門。

門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。

反対側も同じデザインで、シンメトリー。

公園内から。

下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。

北西隅の塀。

下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。

下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。

下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。

四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。

何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。

下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。
あおい(下鴨膳部)児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨東梅ノ木町にあるあおい(下鴨膳部)児童公園を探索しました。(※戦前は下鴨膳部児童公園という名前でしたが、現在は「あおい児童公園」となっています。以下は「あおい児童公園」と称します)。
あおい児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

あおい児童公園東門。

門柱脇の袖塀はアールデコ調のデザイン。

反対側も同じデザインで、シンメトリーになっています。

公園側から。

あおい児童公園南門。南門も東門と同じデザインです。

公園内には大きく「記念」と彫られたインパクトのある石碑があります。

背面の碑文。昭和8年に下鴨土地区画整理事業を記念して設置された記念碑です。
京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・萩児童公園にも記念碑が残されています。

あおい児童公園には国旗掲揚台も残されています。装飾の少ないモダニズムなデザイン。

戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。
あおい児童公園の国旗掲揚台の背面にもポールを立てるための窪みがあり、固定していた金具の跡も残されています。

あおい児童公園には砂場もありますが、あまり使われていないのか荒れていました。
あおい児童公園は少ないながらも質の高い戦前の児童公園の遺構が残されており、この地域の分譲地としての開発の歴史を伝える貴重な近代化遺産と言える公園です。
あおい児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

あおい児童公園東門。

門柱脇の袖塀はアールデコ調のデザイン。

反対側も同じデザインで、シンメトリーになっています。

公園側から。

あおい児童公園南門。南門も東門と同じデザインです。

公園内には大きく「記念」と彫られたインパクトのある石碑があります。

背面の碑文。昭和8年に下鴨土地区画整理事業を記念して設置された記念碑です。
京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・萩児童公園にも記念碑が残されています。

あおい児童公園には国旗掲揚台も残されています。装飾の少ないモダニズムなデザイン。

戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。
あおい児童公園の国旗掲揚台の背面にもポールを立てるための窪みがあり、固定していた金具の跡も残されています。

あおい児童公園には砂場もありますが、あまり使われていないのか荒れていました。
あおい児童公園は少ないながらも質の高い戦前の児童公園の遺構が残されており、この地域の分譲地としての開発の歴史を伝える貴重な近代化遺産と言える公園です。
萩児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨萩ヶ垣内町にある萩児童公園を探索しました。萩児童公園は昭和15年12月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

萩児童公園南西角門。低い門柱が建てられています。

銘板。これは戦後の物でしょうか。

萩児童公園南門。南西角門よりシンプルな門柱。

萩児童公園東門。こちらは門柱にタイルの装飾があります。

南側の門柱と塀。

北側の門柱と塀。

銘板。東門の門柱は他の入口より手が込んでおり、東門が正門だったと思われます。

北門。南門と同じ簡素な門柱。

萩児童公園のある一帯は昭和9年に洛北土地区画整理事業で開発された分譲地でした。萩児童公園内には土地区画整理事業の完成を記念した石碑が残されています。京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・あおい児童公園にも記念碑が残されています。

萩児童公園にはラジオ塔が残されています。ラジオ塔は日本放送協会(現・NHK)がラジオ普及のために各地の公園等に設置された街頭ラジオで、最盛期には465基あまり設置されましたが、現在は37基しか現存していません。

そのうち京都市内にはこの萩児童公園の他に、円山・紫野柳・船岡山・橘・小松原・八瀬の7か所の各公園に現存しており、うち船岡山公園のラジオ塔は平成27年に新たに受信機が設置され機能が復活しました。

萩児童公園のラジオ塔に残る「JOOK」の文字。これは京都放送局「現・NHK京都放送局」のコールサイン。

萩児童公園のラジオ塔は、大きな庇を設けたコの字型の他に類を見ない形状で、中々モダンなデザインです。

萩児童公園の国旗掲揚台。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。萩児童公園の国旗掲揚台の背後にはポールを固定した金具が残されており、使われていた当時の様子を知ることができる貴重な遺構となっています。

国旗掲揚台の中には、紫野柳児童公園のラジオ塔のように、ラジオ塔と国旗掲揚台が一体化したものもあります。

萩児童公園の砂場。角を丸くした古いタイプのものと思われます。

萩児童公園のベンチ。擬石洗い出し仕上げの古いもの。

公園内の各所にこのような古いベンチが残されています。

萩児童公園には25mプールが残されています。

戦前の京都市の児童公園にはある一定以上の広さを持つ公園にはプールの設置が求められました。それは児童の心身鍛錬と防火用水としての機能を持たせるためでした。戦後しばらくはプールとして使用され続けていましたが、管理の問題から次第に廃止され、埋め立てられたり撤去されたりしていきました。また、学校と隣接した公園のプールは学校の敷地に取り込まれ、学校が管理するプールとなっていきました。

この萩児童公園のプールも現在は埋め立てられ広場となっています。現在京都市内の児童公園にある25mプールで現存しているのは萩児童公園の他には、南岩本・六條院・唐橋西寺の児童公園がありますが、全て埋め立てられたプール跡となっており、機能しているものはありません。
萩児童公園は、代表的なラジオ塔をはじめ、土地区画整理記念碑・国旗掲揚台・25mプール跡・門柱など戦前の児童公園の遺構がよく残され、日本土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
萩児童公園は、戦前の児童公園の雰囲気を知ることができる近代化遺産として貴重な公園となっています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

萩児童公園南西角門。低い門柱が建てられています。

銘板。これは戦後の物でしょうか。

萩児童公園南門。南西角門よりシンプルな門柱。

萩児童公園東門。こちらは門柱にタイルの装飾があります。

南側の門柱と塀。

北側の門柱と塀。

銘板。東門の門柱は他の入口より手が込んでおり、東門が正門だったと思われます。

北門。南門と同じ簡素な門柱。

萩児童公園のある一帯は昭和9年に洛北土地区画整理事業で開発された分譲地でした。萩児童公園内には土地区画整理事業の完成を記念した石碑が残されています。京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・あおい児童公園にも記念碑が残されています。

萩児童公園にはラジオ塔が残されています。ラジオ塔は日本放送協会(現・NHK)がラジオ普及のために各地の公園等に設置された街頭ラジオで、最盛期には465基あまり設置されましたが、現在は37基しか現存していません。

そのうち京都市内にはこの萩児童公園の他に、円山・紫野柳・船岡山・橘・小松原・八瀬の7か所の各公園に現存しており、うち船岡山公園のラジオ塔は平成27年に新たに受信機が設置され機能が復活しました。

萩児童公園のラジオ塔に残る「JOOK」の文字。これは京都放送局「現・NHK京都放送局」のコールサイン。

萩児童公園のラジオ塔は、大きな庇を設けたコの字型の他に類を見ない形状で、中々モダンなデザインです。

萩児童公園の国旗掲揚台。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。

国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。萩児童公園の国旗掲揚台の背後にはポールを固定した金具が残されており、使われていた当時の様子を知ることができる貴重な遺構となっています。

国旗掲揚台の中には、紫野柳児童公園のラジオ塔のように、ラジオ塔と国旗掲揚台が一体化したものもあります。

萩児童公園の砂場。角を丸くした古いタイプのものと思われます。

萩児童公園のベンチ。擬石洗い出し仕上げの古いもの。

公園内の各所にこのような古いベンチが残されています。

萩児童公園には25mプールが残されています。

戦前の京都市の児童公園にはある一定以上の広さを持つ公園にはプールの設置が求められました。それは児童の心身鍛錬と防火用水としての機能を持たせるためでした。戦後しばらくはプールとして使用され続けていましたが、管理の問題から次第に廃止され、埋め立てられたり撤去されたりしていきました。また、学校と隣接した公園のプールは学校の敷地に取り込まれ、学校が管理するプールとなっていきました。

この萩児童公園のプールも現在は埋め立てられ広場となっています。現在京都市内の児童公園にある25mプールで現存しているのは萩児童公園の他には、南岩本・六條院・唐橋西寺の児童公園がありますが、全て埋め立てられたプール跡となっており、機能しているものはありません。
萩児童公園は、代表的なラジオ塔をはじめ、土地区画整理記念碑・国旗掲揚台・25mプール跡・門柱など戦前の児童公園の遺構がよく残され、日本土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
萩児童公園は、戦前の児童公園の雰囲気を知ることができる近代化遺産として貴重な公園となっています。
2024年02月12日
坂本城発掘調査現地説明会参加レポ日記。

2024年2月11日に滋賀県大津市の坂本城の発掘調査現地説明会に参加してきました。
坂本城は元亀2年(1571)に織田信長の命を受け、明智光秀が琵琶湖の湖畔に築いた城です。
明智光秀が討たれ坂本城が落城した後、丹羽長秀が入城しましたが、天正地震で破損した後に廃城となり、建物や石垣のの石は大津城に使われたため地上から姿を消しました。

完全に地上から姿を消した坂本城は、江戸時代には完全に忘れ去られ絵図も残されていないことから
長らく「幻の城」と呼ばれました。近年の琵琶湖の渇水で琵琶湖畔に面した本丸部分の石垣が姿を現し話題となりましたが、石垣は基底部の1段のみであり、往時の姿からはかけ離れたものでした。しかし、坂本城の唯一の遺構として話題を集めていました。
しかし、2024年2月7日、今まで地上部分には存在していなかったと思われていた坂本城の石垣と堀が発見されるという驚きのニュースが報じられました。
2月10日と2月11日に現地説明会が行われるという話を聞いて、11日分のの説明会に参加してきました。

前日の説明会では、開始前に整理券が無くなったと聞き、当日は9時30分整理券配布ののところ、6時30分に配布場所の石積みの郷公園に到着。さすがに私1人だろうと思っていたけど、すでに10人くらい並んでいてびっくり。7時30分くらいから続々と人が集まり、配布時となった9時30分には3重くらいの列になってました。

イメージとしてこんな感じ。

※現地説明会資料より。今回発見された石垣は三の丸に位置する場所で、さらに平成30年の調査で外堀と推定されていた場所の発掘調査が行われましたが、外堀にあたる遺構が確認されなかったことから、これまで考えられていた坂本城の外郭が狭くなる可能性があるようです。

※現地説明会資料より。今回の発掘調査地の調査区と各遺構の位置図。

発見された石垣。堀底に近い部分の石垣が高さ1mほど残されてました。

手前にはかつて上に積まれていたであろう石垣の部材が堀底に転落しています。廃城時に地上部分の石垣は崩され石材は大津城に運ばれ、堀下の部分の石垣はそのまま堀と一緒に埋め立てられたのでしょう。

石垣は約30m検出しました。恐らく調査区外へも同様の状態で残存石垣が残されていると思います。

この石垣で報道時から気になってた箇所が1つ。左右の石垣と積み方に差異がある箇所があり、石垣の隅のようなラインも見えることから、もしかしたら改修をした後ではと考えています。
私の解釈を画像に記載してみました。
なお、石垣の背後に溝が検出されていますが、詳細は不明とのこと。

また、現場の西側、現場の外になりますが、用水路とコンクリートの擁壁があるのですが、調査担当者によれば、これが今回発見された石垣の対岸になるラインではと想定しており、この下に同様の石垣が眠っている可能性があります。堀幅は推定12mとなり、中々の広さの堀となります。

先ほどの石垣の続き。手前に出土した転用石が並べられています。転用石が使用されているのはいかにも織田配下の家臣の城といったところ。明智光秀の城では福知山城の石垣が有名ですね。

石垣の北側から検出された石垣。石積み遺構とされてますが、どうやら先ほどの石垣と続いているようです。

この石積み遺構、説明では船着き場ではと推定されているようです。

説明では「船着き場」とだけ説明されてましたが、遺構の状況をよく見ると堀へと至る石段らしきものも確認できました。また、その堀へと至る階段とするための石垣の構築(石垣を直交させて石段の壁としている)も確認できました。私の解釈を画像に記載してみました。
ちなみに堀の水深自体は浅かったと思われ、いわゆる高瀬舟のような底が平らな船ではと考えられています。
島津家久が記した天正3年の日記には坂本城を訪れた際、船による出迎えを受け、船で坂本城を巡った後、光秀の歓待を受け、船で宴会をしたことが書かれています。今回の発掘調査では、その島津家久の記述を裏付ける発見と言えます。

出土遺物としては、瓦が少なく土師器皿やすり鉢、瓦質土器など雑器が多く、中国青磁とかの輸入陶磁器の数は僅か。今回の調査で礎石建物や井戸が確認されており、屋敷があったことが分かってますが、瓦の数が極端に少ないこと、雑器が多いことから、板葺きのような建物の下級武士の屋敷ではなかったかと考えられています。

そして今回出土した木製品で注目されるのが「オール状木製品」が見つかったこと。
いわゆる船の櫂 (かい。つまりオール)とみられ、船があった裏付けとされています。

今回発見された坂本城の石垣はかなり貴重な成果で、遺構の保存に関しては現在協議中とのこと。開発による調査のため、開発原因者次第になりますが、何とか保存の方向に向かってくれればと願ってます。
参加した11日の現地説明会もかなりの大盛況で、整理券が配布された9時30分からわずか1時間で4回800人分の整理券が無くなったとのこと。坂本城石垣発見の関心の高さがうかがえる説明会でした。
2024年01月16日
福知山市筈巻・天神神社の鰐口「丹州天田郡筈巻村中・天満宮御宝前」の銘文

先日、ネットオークションにて鰐口を入手しました。
鰐口とは仏堂の前に吊り下げて音を鳴らす仏具で、神仏分離令までは神社の社殿の前にも下げられていました。(今でも社殿前に下げられている神社もあります)

写真の関係でうまく写せてませんが、「目」という左右の出っ張りの幅は約20cm。

「口」という下部の開口部の幅は約1cm。

上部には湯口(鋳造の際に銅を流し込んだ部分)の痕が残っています。
実はこの鰐口には村の歴史を物語る銘文が残されています。

向かって右側にある銘文。
「丹州天田郡筈巻村中」。
これは、現在の京都府福知山市筈巻に該当します。

向かって左側にある銘文。
「天満宮御宝前」。
調べたところ、筈巻地区に天神神社という菅原道真を祭神とした神社があることが分かりました。

筈巻地区の天神神社の位置。

ストリートビューの天神神社。(後日、取材に行きます)。
案内板によれば、室町時代末期の文禄年間(1592〜1595)の頃、福知山市の六人部にいた高橋氏がこの地を開墾した際、北野天満宮を勧請し祀ったのが最初とされています。
実際に筈巻に天満宮である天神神社が存在することから、鰐口に刻まれている銘文は偽銘ではなく、本来、天神神社に存在したものであることが分かります。

鰐口の裏面には何も刻まれていません。
鰐口にはよく年号が刻まれていて、それが鰐口の年代を記すものになるのですが、残念ながらこの鰐口には年号がありません。となると、刻まれている銘文と形状からの判断になるわけなのですが。
まず、銘文で気にになったのが「天満宮」という表記。現在は天神神社という社名になっていますが、北野天満宮からの勧請だったこともあり、当初は「天満宮」と呼ばれていた可能性があります。
この天神神社がいつから天満宮から天神神社へと社名が変わったのか今のところ不明ですが、近代は天神神社と称していたようです。
次に鰐口の形状。私は仏具に関して専門ではないので詳しい鑑定はできないため、ネットで各時代の鰐口の特徴を調べてみましたが、基本的に室町時代までは「目」の出っ張りが低く、「唇」という開口している部分の高さと変わらないこと。「口」の部分の幅が狭いこと。江戸時代以降は「目」の出っ張りが顕著になるようです。
以上の事から、この鰐口は室町時代の特徴を備えた古風な形状を成し、当初の呼称と思われる「天満宮」の名称が刻まれていることから、もしかしたら天神神社の創建当時のものの可能性がありますが、あくまで私個人の考察なため確証はありませんので、今後さらに調査したいと思います。
どちらにせよ、ほとんど資料が残されていないであろう天神神社の歴史を物語る資料であり、仮に創建当初の文禄年間の作だとすれば、さらに貴重な資料になると思われるのですが。
※追記
この記事を執筆した後、筈巻地区内にある無量寺さんに問い合わせてみました。
筈巻は江戸時代初期に村として成立し、慶安2年(1649)までは福知山藩領。以後は天領だったのこと。天神神社の創建は文禄年間の言い伝えですが、今のような形の神社となったのは、筈巻村として成立した江戸時代以降ではとのこと。
また社名は天神神社だがそれは通称で、現在でも地区では天満宮と言ってたりする。
とのお話をいただきました。

さらにSNSにてこの鰐口に関しての情報を求めたところ、古美術に詳しい方からの見解が。
]霧の銅は金味が比較的新しく、江戸時代の雰囲気。
形状は室町時代後期〜安土桃山時代の古風な作風。
以上から江戸時代初期頃ではと判断。
との情報を得ました。
江戸時代初期の作と考えると、筈巻村が江戸時代初期に成立しその際に小祠だった天神神社が今の形に整備された際に奉納された可能性があります。まだ調査は進めますが、筈巻地区の歴史を物語る重要資料になる可能性がありそうです。
2024年01月14日
神戸海軍操練所跡・神戸港第一波止場防波堤跡発掘調査現地説明会レポ日記

神戸市で開催された、神戸海軍操練所跡と神戸港第一波止場防波堤跡の発掘調査の現地説明会に参加してきました。神戸港のウォーターフロント再開発事情に伴う工事の事前発掘調査で見つかった遺構群であり、幕末〜明治期にかけての神戸港の成り立ちを物語る貴重な発見となりました。
今回の調査で重要な点は3つ。
)詼期の江戸幕府により築造された神戸海軍操練所の石積み遺構。
⊃生由港時に築造された明治初期の第一波止場の石積み防波堤。
L声C羇までに行われた第一波止場防波堤を修築・増築した遺構と信号灯・信号所の基礎遺構。
となります。

※現地説明会で配布された資料に掲載されている発掘現場の全体図。赤枠で囲んでいる部分の遺構が、第鬼の幕末期の神戸海軍操練所時代の石積み遺構(赤枠はブログ管理者による加筆)。
まずは幕末期の神戸海軍操練所跡の遺構。

神戸海軍操練所は元治元年、幕府の軍艦奉行であった勝海舟の進言で設立した海軍士官の養成機関と海軍工廠を合わせた日本海軍発祥の地ともいえる施設でした。
塾頭は坂本龍馬。神戸海軍操練所は幕府の機関でありながら、幕府の終焉を予想していた勝海舟により、討幕派の志士も多く集っていました。
勝海舟は禁門の変で軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所は慶応元年に閉鎖。明治に入り、神戸海軍操練所の跡地を利用して第一波止場の防波堤が築造されました。

発掘現場全体。幕末期の神戸海軍操練所跡と神戸開港時の明治初期の第一波止場の防波堤遺構、明治中期までの防波堤増築部分からなる近世近代の複合遺構です。

北から撮影した幕末期の神戸海軍操練所跡の石積み遺構。遺構は手前の石積みで、表面は見学路の反対になるので、鏡で映しています。

一番北側で確認された神戸海軍操練所跡の石積みの表目面。
いわゆる城郭にも使われた切込み接ぎともいえる布積み。

その南側で確認された石積み遺構。

一番南側で確認された石積み遺構。神戸海軍操練所跡の石積みは第一波止場防波堤の下に埋もれる形で、約26mほど現存しているようです。
これらの石積みを勝海舟や坂本龍馬が見ていたかもしれないかと思うと、感慨深いものがあります。
そして、明治初期の神戸開港時に築造された第一波止場防波堤、それ以後の明治中期までに行われた防波堤の修築・増築の跡と信号灯・信号所の基礎遺構。

明治初期〜明治中期までの第一波止場防波堤遺構。西から撮影。

第一波止場防波堤の石積み表面。第鬼の幕末の神戸海軍操練所時代の石積みを土台として利用し、その上に第挟の神戸開港時の第一波止場防波堤が築造され、明治中期までにさらにその上にほ防波堤が増築されました。

北から。防波堤の構造がよく分かります。

明治中期までに建設された信号灯の基礎。新旧の2時期あります。

同時期の信号所の基礎。

※現地説明会資料より引用・加筆。
この第一波止場の防波堤と信号灯・信号所は、明治中期に撮影された古写真に写されています。
奥に見える白亜の洋館は初代神戸税関。そこから左側は外国人居留地で、現在の海岸通りになります。

古写真とだいたい同じアングルで撮影。今から130年以上前に撮影された古写真に写る防波堤や施設と同じものを実際にこの目で見ている感動。

見学路の足元には明治期の石積み防波堤の天端が露出していました。
第一波止場防波堤は時代とともに埋められていき、阪神高速道路建設の際に完全に埋め立てられました。そのおかげか良好な状態で遺構が発見され、神戸港の成り立ちを知る重要な近代の遺跡と判明しました。今回発見された遺構はまだ検討中ですが、敷地が神戸市所有であるため、保存整備の方向が検討されているようです。整備された後の姿を楽しみにしたいものです。

その他、出土品など。中世の室町時代の五輪塔や宝篋印塔の部材なども使用されていたようです。

石製の建物の部材も見つかっています。居留地時代の洋館の部材を修築や増築時に利用したのでしょうか。
今回の現地説明会は事前予約制で、土曜日と日曜日に確か4回、100名ずつくらい枠があったと思いますが、12日の締め切りを待たずに定員が埋まってましたね。やはり幕末。それも坂本龍馬ゆかりの遺構発見となると人気を呼びますね。
2024年01月08日
五條市の近代建築探索レポ日記

奈良県の五條市にある近代建築を探索してきました。五條市には古い町並みなどがよく残されています。まずはJR五条駅から出発。

この五条駅のホームに人造石研ぎ出しの手洗い場が残されていました。国鉄時代、まだ蒸気機関車が現役だったころ、駅に着いた蒸気機関車の機関士たちが煤で汚れた手や顔を洗うために使われていました。時には乗客も使用したこの手洗い場はかつてどこの駅のホームにもありましたが、昨今の高架化などの改築で姿を消しつつあります。
駅から1周する感じで探索していきます。

純喫茶・飛騨。五條市須恵。駅前にある喫茶店。玄関のアーチが特徴的。

五条酒造事務所棟。五條市今井町。

和洋折衷の建物。この事務所の建築年は分かりませんが、創業年の大正13年としておきます。

五条酒造の工場棟。こちらも大正13年としておきます。

五条酒造株式会社の文字がある煉瓦造の煙突も現役で使われています。

旧たばこ店。五條市五條。中々いい雰囲気の建物。レトロな看板もいいですね。

今は店舗としては使われていないようです。

K邸。五條市五條。

軒周りのデンティル装飾が特徴的ですね。

どうやら元は印刷会社の事務所だったようです。

栗山家住宅。五條市五條。近代建築ではないですが、五條市で一番有名な古民家と思われるので紹介。
建築年はなんと慶長12年(1607)。400年以上前の住宅で、年代の分かっている住宅としては日本最古だそう。

屋根の破風とかまるでお城の御殿のような立派さ。国指定重要文化財ですが、現在も個人宅なのが凄い。

フォトスタジオサクライ。五條市五條。昭和10年。

元は吉野銀行五條支店だった建物。その後、五條信用組合となり、現在は写真館として使われています。

装飾は少なめですが、元銀行らしい堂々たる外観です。

旧五新鉄道新町高架橋。五條市新町。昭和13年〜14年頃。
五新鉄道は、奈良県五條市と和歌山県新宮市を結ぶ鉄道路線として明治末期に構想が起こりました。
実際に工事が着工されたのは昭和12年。高架橋と生子トンネルの開通までは完成しましたが、戦争により工事中断。昭和35年に工事が再開するも結局工事は中止され未完成のまま終了しました。

すでに完成していた五條市の高架橋は撤去費用の面からかそのまま残され現在に至りますが、今となっては幻に終わった五新鉄道の姿を伝える貴重な近代化遺産となっています。

高架橋のアーチの下部分。木の型枠痕が残ります。

高架橋の橋脚部分。ここにも型枠痕が。戦前のコンクリート建築にはこういった型枠痕がよく残されています。

国道24号線側にも高架橋が残されています。

かつては高架橋が国道24号線を跨いでいましたが、さすがに危険性があるので、現在は国道を跨ぐ部分は撤去されています。

旧五新鉄道の説明板。

神田橋。五條市新町。昭和5年8月。

先ほどの旧五新鉄道高架橋のそばにあるRC橋。竣工当時の姿をよく留めており、欄干の尖頭アーチの装飾など戦前のRC橋らしい意匠的なものです。

竣工年の昭和五年八月の文字がある銘板。

神田橋の工事関係者の名前が刻まれた銘板。工事関係者の銘板が設置された戦前の橋は珍しいです。

旧五條代官所長屋門。幕府の天領であった五條市には代官所がありました。元々は五條市役所の位置にありましたが、天誅組の変により焼き討ちにあい焼失。元治元年(1864)に現在の地に新たに移されました。

この長屋門はその時のもので、現在は歴史民俗資料館となっています。


五條代官所の敷地の南側には石垣が残されています。

五條代官所は明治維新後は五條県庁となり、その後は裁判所の敷地となって現在に至ります。

さて、再び近代建築探索へ。割烹明月。五條市本町。

3階建ての大きな洋館が特徴的な建物です。

隣接する和館も立派です。

玄関には立派な唐破風が。元は料理旅館だったのでしょうか。

煉瓦倉庫。五條市本町。街を歩いていて見かけました。

壁は煉瓦ですが屋根の形から蔵だったのでしょうが、隣の民家とは別の敷地みたいなので、この煉瓦蔵だけ残されているっぽいです。

ちょっと入り口側に回らせてもらいました。そこには・・・

見事な木製の彫り物の装飾が。ただの蔵にこれだけの装飾を施しているくらいなので、主屋はどれだけ立派だったんでしょうか。

谷食料品店。五條市須恵。

今はもう閉店しているようです。ちょっと気になった建物。

赤壁薬局。五條市須恵。

現在は国道24号線に面した赤壁薬局の一部になっていますが、かつては荒谷薬局という店だったようで、タイル壁に店名が残されています。

下見板張りの住宅。五條市須恵。

ちょっと気になった建物でした。もとは店舗でしょうか。

五條市は近代建築だけでなく、伝建地区の歴史的な街並みなど見どころの多い町でした。
おまけ。

商店街にあった、SPY×FAMILYのアーニャが描かれた店舗w
この店舗の店主のブログによれば、アーニャが大好きで描いてもらったようです。
2023年12月30日
北岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条東岩本にある北岩本児童公園を探索しました。北岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

北岩本児童公園南側東門。

南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。

西門。

公園から。

西側の塀も同じデザイン。

北門。


門柱は全て同じデザインです。

銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。

東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。

東南隅の塀。

北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。

バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。

バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。


ベンチは当時のもののようです。

このような感じで並んでます。

北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。

半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。

反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

北岩本児童公園南側東門。

南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。

西門。

公園から。

西側の塀も同じデザイン。

北門。


門柱は全て同じデザインです。

銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。

東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。

東南隅の塀。

北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。

バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。

バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。


ベンチは当時のもののようです。

このような感じで並んでます。

北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。

半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。

反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
2023年12月24日
南岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条南岩本にある南岩本児童公園を探索しました。南岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。

塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。

銘板は新しいもの。

南側の門と塀はこんな感じです。

南岩本児童公園北門。


北門の門柱は南門と違い意匠的です。

北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。

南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。

児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。

この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。

プールの北側には手洗い場跡があります。

水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。

手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。

南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。

塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。

銘板は新しいもの。

南側の門と塀はこんな感じです。

南岩本児童公園北門。


北門の門柱は南門と違い意匠的です。

北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。

南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。

児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。

この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。

プールの北側には手洗い場跡があります。

水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。

手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。

南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
2023年12月23日
富小路殿児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市中京区富小路通二条上る鍛冶屋町にある富小路殿児童公園を探索しました。富小路殿児童公園は昭和16年6月30日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

富小路殿児童公園西門。

門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…

門柱は開園当初のもの。

西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。

富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。

水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。

水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。

斜めから。

バーゴラの背面。

バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。



バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。

砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。

富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。

実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。

これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。

富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

富小路殿児童公園西門。

門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…

門柱は開園当初のもの。

西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。

富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。

水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。

水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。

斜めから。

バーゴラの背面。

バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。



バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。

砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。

富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。

実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。

これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。

富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
六條院児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市下京区高倉通五条下る二丁目富屋町にある六條院児童公園を探索しました。六條院児童公園は昭和17年8月15日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

六條院児童公園北門。

門柱は当時のものですがかなり低いですね。

反対側。この塀は戦後かも。

塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。

東門。

こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。

六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。

水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。

背面。

国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。

背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。

コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。

これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。

このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。

砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。

そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。

脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。

現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。

噴水部分。

噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。

背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。

六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。

実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。

階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。

水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産

六條院児童公園北門。

門柱は当時のものですがかなり低いですね。

反対側。この塀は戦後かも。

塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。

東門。

こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。

六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。

水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。

背面。

国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。

背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。

コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。

これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。

このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。

砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。

そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。

脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。

現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。

噴水部分。

噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。

背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。

六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。

実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。

階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。

水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
2023年12月21日
船岡山公園に現存する昭和10年頃のすべり台。(京都市内で現存最古か)
京都市北区にある船岡山は、中世には応仁の乱での西軍の本陣が置かれ船岡山城が築城、明治2年には織田信長を祭神とする建勲神社が創建されるなど、歴史的な丘ですが、昭和10年11月1日に都市公園として整備されて以来、京都市の近代化遺産としての都市公園の遺構を多く残す公園でもあります。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。

こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。

現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。

古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。

船岡山公園の広場にあるすべり台。

右横から。

左横から

正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。

背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。

すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。

戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。

絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。

逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。

先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。

いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。

最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。

こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。

現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。

古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。

船岡山公園の広場にあるすべり台。

右横から。

左横から

正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。

背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。

すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。

戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。

絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。

逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。

先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。

いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。

最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
2023年12月16日
高原児童公園に残る都市公園としての近代化遺産とその活用例
京都市左京区田中西高原町にある高原児童公園を探索しました。高原児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。

高原児童公園南側東門。


門柱は特に意匠的ではないですね。

公園側から。誰かの忘れ物が…

銘板。これは開園当時のもの。

高原児童公園南側西門


こちらも南側西門と同じデザイン。

公園側から

銘板も当時のもの。

高原児童公園西門。


高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。

全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。

西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。

竣工記念碑の噴水。

昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。

裏側。

裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。

噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。

日時計。これも記念碑を兼ねています。

日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。

日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。

公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。

京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。

竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。

高原児童公園南側東門。


門柱は特に意匠的ではないですね。

公園側から。誰かの忘れ物が…

銘板。これは開園当時のもの。

高原児童公園南側西門


こちらも南側西門と同じデザイン。

公園側から

銘板も当時のもの。

高原児童公園西門。


高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。

全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。

西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。

竣工記念碑の噴水。

昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。

裏側。

裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。

噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。

日時計。これも記念碑を兼ねています。

日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。

日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。

公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。

京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。

竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
2023年12月15日
旧京都府警察本部庁舎(現・文化庁京都庁舎)の塔屋屋上に存在した防空監視哨に関して

現在、文化庁京都庁舎となっている旧京都府警察本部庁舎は、昭和2年に昭和天皇即位の昭和大礼を記念して建てられた歴史的建造物です。

その庁舎に低めの塔屋があるのですが、そこにかつて防空監視哨があったことを知ったのは、「京都空襲 8888フライト」という本の記述でした。
そこには鉄網コンクリートで造られた防空監視哨についての記述があり、民防空の防空隊本部としての中心的役割を担っていたとありました。防空監視哨の具体的な造りの記述に興味を持ち、原資料をあたったところ、京都府の歴史資料を数多く所蔵する北区の歴彩館に所蔵されていることが分かり、閲覧の申し込みをしました。

歴彩館所蔵、国指定重要文化財・京都府行政文書「昭和十三年度 府廰内防空施設工事綴」。
この簿冊の中に仕様書や図面が収められていました。

昭和13年に造られた防空監視哨。その請負業者は京都市中京区西ノ京にあった中野組。簿冊は45ページに渡り仕様書などが綴られています。

そしてこれが防空監視哨の設計図面。この図面をトレースして再作図して見ました。

また、同封されていた手描きの設計図面も参考にしました。

こちらがトレースした図面。国指定重要文化財の資料のため、資料の保護からスキャニングは不可で、写真の直撮りしかできなかった上に、折り目で歪みが大きいため、無理矢理補正しながらトレースしました。なので、縮尺に幾分かの差異があると思います。
ここから外観・断面図・配置図に分けて見ていきます。

外観。平面形は亀甲型をしており、各面にガラス窓の監視窓があり、上部には嵌め殺しの天窓もあり、四方・上空を監視できるようになっていました。入口のドアはペンキ塗りの檜材の防音扉。

断面図。防空監視哨は鉄網コンクリート造、屋根は防腐剤入りのモルタル塗り、床板は松材で、腰板は檜材。内部の壁と天井はブラスター塗り、内部にはオーク材の座面がレザー仕上げの高さが調節可能な回転椅子が2つと電話。監視員は回転椅子に座り四方を監視し、異常を発見したら階下の防空課直通の電話で即座に知らせることになっていました。

防空監視哨は庁舎の塔屋の上にあり、そこへは松材で造られたペンキ塗りの木製階段で上がることになっていました。塔屋の上にはサイレンもあり、空襲警報のサイレンを鳴らしていたものと思われます。

ちなみに、京都市役所本庁舎の屋上には今も高射機関砲の砲座が残されていますが、上へ上る階段や梯子が見当たらないため、もしかしたら、京都府警察本部庁舎の防空監視哨のように木製の階段が取り付けられていたのかもしれません。
※関連記事
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)
この防空監視哨の設計図を見る限り、コンクリートを使った防御性のある堅牢な建物だったというだけでなく、美観や内部の過ごしやすさも考慮した手の込んだ造りとなっています。

現在の航空写真を見ると、今でも塔屋のう上には亀甲型の防空監視哨の基礎や、サイレンの台座が残されていますが、防空監視哨の位置が図面と違うため、変更があったのかもしれません。

戦前の防空には、高射砲や基地航空隊の迎撃機による兵器を用いた軍が管轄する「軍防空」と、各防空監視哨や特設見張所にて監視を行い、敵機の来襲や空襲を知らせる警察が主体の「民防空」がありました。警察や軍の指導の下、民間人による防空監視隊が組織され、各地域の防空監視哨で任務にあたりました。上の図はフォロワーさんからの提供の京都府内の防空監視隊配置図で、いくつかのエリアに分けられ、そのエリア内に防空監視哨とそれをまとめる監視隊本部があり、本部は警察署に置かれていました。京都府警察本部庁舎に置かれた京都監視隊本部は京都市内だけでなく、京都府全体の防空監視任務も束ねる中枢だったのではと思います。その京都府警察本部庁舎に造られた防空監視哨はそれに見合った立派なものにする必要があったのかもしれません。(郊外の防空監視哨は山の上に丸太を組んだ粗末な櫓のようなものが多かった)
今でも日本全国に何か所かコンクリート製の防空監視哨が残されていますが、この京都府警察本部庁舎屋上にあった防空監視哨の設計図は、当時の防空監視哨の構造を知ることができる貴重な資料と考えられます。
2023年12月10日
比永城児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区西九条比永城町ある比永城児童公園を探索しました。比永城児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産

比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。

公園側から。

比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。

公園側から。

比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。

公園側から。塀は失われています。

バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。

別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。

砂場。隅丸タイプ。

比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。

反対側から。

水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。

公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産

比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。

公園側から。

比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。

公園側から。

比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。

公園側から。塀は失われています。

バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。

別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。

砂場。隅丸タイプ。

比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。

反対側から。

水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。

公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。
2023年12月03日
橘児童公園に残る都市公園の近代化遺産(ラジオ塔)
京都市上京区智恵光院通笹屋町下る橘町にある橘児童公園を探索しました。橘児童公園は昭和14年7月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

橘児童公園にはかつて門・塀だけでなく、特徴的な水飲み場やプール跡など数多くの開園当初の遺構が残されていましたが、近年の大改修によりほとんどが撤去され、現在は地蔵尊とこのラジオ塔しか残されていません。橘児童公園のラジオ塔は燈籠型をしており、公園の西端にあります。

ラジオ塔の下部には大きな開口部があり、ここに機器が収められ燈籠の火袋にあたる部分にスピーカーがあったのでしょう。

ラジオ塔には「橘公園愛護会」の大理石の銘板があります。ラジオ塔は多くが寄付によって建てられています。

内部はこんな感じ。橘児童公園の大改修の際、このラジオ塔だけが残されたのは、徐々にラジオ塔の認知度が進み、京都市も近代化遺産としての価値を認め、補修まで行っているのは素晴らしいですが、それなら、高原児童公園のように開園当初の門・塀・水飲み場・プール跡も生かした改修をしてほしかったです。プール跡は保存の要望もあったらしいですし・・・
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

橘児童公園にはかつて門・塀だけでなく、特徴的な水飲み場やプール跡など数多くの開園当初の遺構が残されていましたが、近年の大改修によりほとんどが撤去され、現在は地蔵尊とこのラジオ塔しか残されていません。橘児童公園のラジオ塔は燈籠型をしており、公園の西端にあります。

ラジオ塔の下部には大きな開口部があり、ここに機器が収められ燈籠の火袋にあたる部分にスピーカーがあったのでしょう。

ラジオ塔には「橘公園愛護会」の大理石の銘板があります。ラジオ塔は多くが寄付によって建てられています。

内部はこんな感じ。橘児童公園の大改修の際、このラジオ塔だけが残されたのは、徐々にラジオ塔の認知度が進み、京都市も近代化遺産としての価値を認め、補修まで行っているのは素晴らしいですが、それなら、高原児童公園のように開園当初の門・塀・水飲み場・プール跡も生かした改修をしてほしかったです。プール跡は保存の要望もあったらしいですし・・・
紫野宮西児童公園に残る近代化遺産
京都市北区紫野宮西町ある紫野宮西児童公園を探索しました。紫野宮西児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。紫野宮西児童公園は、昭和期に開園した京都市の児童公園でも初期の開園に位置し、紫野柳公園・下鴨ガ前公園・あおい公園と同じ開園日です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
紫野宮西児童公園は改修により当初の門や塀は失われ、他の施設もほとんどが当初の物ではありませんが、その中で2つのみ当初のものが残されています。

紫野宮西児童公園のベンチ。

アーチ型をしたこのベンチは中々目を引く存在で、開園当時も公園のシンボル的な存在だったと思われます。

背面。別サイトでは国旗掲揚台と書いてましたが、支柱を支える場所などが無いため、ベンチでいいでしょう。これだけ残された理由は不明ですが、補修して今後も大切にしてもらいたいものです。

そして2つ目はおなじみ地蔵尊。地蔵盆が盛んな京都市で、公園内に地蔵尊を設置することで、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
紫野宮西児童公園は改修により開園当初の遺構がほとんど失われましたが、唯一残されたベンチと地蔵尊が当時の雰囲気を今に伝えています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
紫野宮西児童公園は改修により当初の門や塀は失われ、他の施設もほとんどが当初の物ではありませんが、その中で2つのみ当初のものが残されています。

紫野宮西児童公園のベンチ。

アーチ型をしたこのベンチは中々目を引く存在で、開園当時も公園のシンボル的な存在だったと思われます。

背面。別サイトでは国旗掲揚台と書いてましたが、支柱を支える場所などが無いため、ベンチでいいでしょう。これだけ残された理由は不明ですが、補修して今後も大切にしてもらいたいものです。

そして2つ目はおなじみ地蔵尊。地蔵盆が盛んな京都市で、公園内に地蔵尊を設置することで、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
紫野宮西児童公園は改修により開園当初の遺構がほとんど失われましたが、唯一残されたベンチと地蔵尊が当時の雰囲気を今に伝えています。
一條町児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市北区大将軍南一条町ある一條町児童公園を探索しました。一條町児童公園は昭和15年11月5日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

一條町児童公園南門。

階段に手すり状にとりつく形で、門柱部分は丸く仕上げられています。

反対側も同じ形でシンメトリーとなっています。

南門を公園内から。

一條町児童公園西門。南門とデザインは同じですが、こちらは高低差が無いため階段にはなっていません。


門柱も左右対称のデザイン。

西門を公園内から。

一條町児童公園北門。こちらも南門・西門と門柱は同じデザインですが、北門には手前にもう一つ門柱があり、右側に公園名の銘板があります。そのため、公園の正門はこの北門だったと思われます。

北門を公園内から。

一條町児童公園北門の銘板。当時のものかどうかは不明ですが、もしかしたら当初のものかも。
塀はどうやら作り替えられているようです。

一條町児童公園砂場。角は丸く仕上げられ、内部に段があります。

縁は蒲鉾型に仕上げられており古いかも。

よく見る一般的な形のベンチ。開園当時のものかは不明。

公園の東端に地蔵尊がありました。京都市内の児童公園内では地蔵尊をよく見かけます。京都では盛んな地蔵盆があるためか、公園内に地蔵尊を置くことにより、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
一條町児童公園は遊具等は開園当時と思われるものは砂場が可能性ありという程度ですが、門は開園当時のものが残されており、当初の姿を伺えることができます。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

一條町児童公園南門。

階段に手すり状にとりつく形で、門柱部分は丸く仕上げられています。

反対側も同じ形でシンメトリーとなっています。

南門を公園内から。

一條町児童公園西門。南門とデザインは同じですが、こちらは高低差が無いため階段にはなっていません。


門柱も左右対称のデザイン。

西門を公園内から。

一條町児童公園北門。こちらも南門・西門と門柱は同じデザインですが、北門には手前にもう一つ門柱があり、右側に公園名の銘板があります。そのため、公園の正門はこの北門だったと思われます。

北門を公園内から。

一條町児童公園北門の銘板。当時のものかどうかは不明ですが、もしかしたら当初のものかも。
塀はどうやら作り替えられているようです。

一條町児童公園砂場。角は丸く仕上げられ、内部に段があります。

縁は蒲鉾型に仕上げられており古いかも。

よく見る一般的な形のベンチ。開園当時のものかは不明。

公園の東端に地蔵尊がありました。京都市内の児童公園内では地蔵尊をよく見かけます。京都では盛んな地蔵盆があるためか、公園内に地蔵尊を置くことにより、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
一條町児童公園は遊具等は開園当時と思われるものは砂場が可能性ありという程度ですが、門は開園当時のものが残されており、当初の姿を伺えることができます。
鹿垣児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市中京区西ノ京西鹿垣町ある鹿垣児童公園を探索しました。鹿垣児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
※今回の鹿垣児童公園ですが、最初に訪問した時は地域の方々が公園の掃除をされており、写りこみなどで一部撮影ができない箇所があったため、後日撮影しなおしたものも含んでます。

鹿垣児童公園南門。

門柱は丸くした造りで、花壇も備えています。

反対側にも花壇が付けられ、左右対称となっています。

鹿垣児童公園南門の銘板。右書きで「児」の字が旧字体なので、開園当初のものでしょう。

鹿垣児童公園北門。鹿垣児童公園は東側と西側が住宅地で塞がれているため、入り口は北側と南側の1つずつ。

北門は南門と違い門柱も塀のような薄さで重厚感はなく、花壇も設置されていない簡素な感じ。

鹿垣児童公園の大きな特徴といえるのがこの透かし塀。北塀も南塀も同じデザインとなっており、京都市内の児童公園ではここだけです。京都市内の戦前の児童公園の門柱や塀・柵は公園ごとにデザインに違いがあり中々興味深いものがあります。

鹿垣児童公園北門の銘板。こちらも開園当初のものと思われます。
北門と南門では、南門の方が意匠的であり、丸太町通に近いことから、南門が鹿垣児童公園の正門的な感じだったのかもしれません。

園内には南門側に地蔵尊があります。京都市内の児童公園ではよく見かけます。恐らく京都は地蔵盆が盛んで、地域のコミュニティの場として地蔵盆の中心的場所の役目を果たす目的があったのかもしれません。

鹿垣児童公園砂場。北門側にあります。

ここの砂場は角隅。しかし縁の蒲鉾型の仕上げや、段を設けていることから、開園当時の可能性があります。

アーチ脚のベンチ。外側にも持ち送りを作っています。これは開園当時のものでしょう。
これと同じものが西町児童公園にも2つ残されています。

アーチ脚以外のベンチはシンプルな作りのベンチです。

別のベンチ。脚の埋まり具合のためか、高さに差があります。

別のベンチ。これら3つのベンチはコンクリート洗い出しの技法がされており、割と手が込んでます。
※コンクリート洗い出しとは、コンクリートを打設したあと乾く前に表面を水で洗い流し、セメントに混ぜている骨材の砂利の表面を露出される技法。通常のコンクリートの表面より見栄えが良く変化に富むので、建物の腰回りの壁などによく使われる。
鹿垣児童公園はトイレや遊具に古さがあるためいずれ改修の手が入ると思われますが、特徴的な門と塀、ベンチは是非残して活用してほしいです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
※今回の鹿垣児童公園ですが、最初に訪問した時は地域の方々が公園の掃除をされており、写りこみなどで一部撮影ができない箇所があったため、後日撮影しなおしたものも含んでます。

鹿垣児童公園南門。

門柱は丸くした造りで、花壇も備えています。

反対側にも花壇が付けられ、左右対称となっています。

鹿垣児童公園南門の銘板。右書きで「児」の字が旧字体なので、開園当初のものでしょう。

鹿垣児童公園北門。鹿垣児童公園は東側と西側が住宅地で塞がれているため、入り口は北側と南側の1つずつ。

北門は南門と違い門柱も塀のような薄さで重厚感はなく、花壇も設置されていない簡素な感じ。

鹿垣児童公園の大きな特徴といえるのがこの透かし塀。北塀も南塀も同じデザインとなっており、京都市内の児童公園ではここだけです。京都市内の戦前の児童公園の門柱や塀・柵は公園ごとにデザインに違いがあり中々興味深いものがあります。

鹿垣児童公園北門の銘板。こちらも開園当初のものと思われます。
北門と南門では、南門の方が意匠的であり、丸太町通に近いことから、南門が鹿垣児童公園の正門的な感じだったのかもしれません。

園内には南門側に地蔵尊があります。京都市内の児童公園ではよく見かけます。恐らく京都は地蔵盆が盛んで、地域のコミュニティの場として地蔵盆の中心的場所の役目を果たす目的があったのかもしれません。

鹿垣児童公園砂場。北門側にあります。

ここの砂場は角隅。しかし縁の蒲鉾型の仕上げや、段を設けていることから、開園当時の可能性があります。

アーチ脚のベンチ。外側にも持ち送りを作っています。これは開園当時のものでしょう。
これと同じものが西町児童公園にも2つ残されています。

アーチ脚以外のベンチはシンプルな作りのベンチです。

別のベンチ。脚の埋まり具合のためか、高さに差があります。

別のベンチ。これら3つのベンチはコンクリート洗い出しの技法がされており、割と手が込んでます。
※コンクリート洗い出しとは、コンクリートを打設したあと乾く前に表面を水で洗い流し、セメントに混ぜている骨材の砂利の表面を露出される技法。通常のコンクリートの表面より見栄えが良く変化に富むので、建物の腰回りの壁などによく使われる。
鹿垣児童公園はトイレや遊具に古さがあるためいずれ改修の手が入ると思われますが、特徴的な門と塀、ベンチは是非残して活用してほしいです。
北町児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市上京区天神通上ノ下立売上る北町にある北町児童公園を探索しました。北町児童公園は昭和15年10月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

北町児童公園西側北門。北町児童公園は北側・東側・南側を住宅地に囲まれているため、西側のみ2か所入口が設けられています。

北町児童公園西側北門銘板。当初のものかは分かりません。

北町児童公園西側南門。北町児童公園の門柱はシンプルな角柱です。

西側の柵。

北町児童公園砂場。北町児童公園の砂場は角丸。京都市内の児童公園の砂場には隅が角型と角丸型があります。確証はないですが、角丸の方が古いのかなと。

ベンチ。よく見る形です。

もう一つのベンチ。古いですが、戦前か戦後かは分かりません。
北町児童公園は当初の遺構は少ないものの、開園当時の面影を残しています。近年、新たなトイレが造られたり、最近よく見る健康器具的なベンチなどが設置され、開園当初の門柱や柵を残しつつ、より使いやすいように改修された良い事例になっています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

北町児童公園西側北門。北町児童公園は北側・東側・南側を住宅地に囲まれているため、西側のみ2か所入口が設けられています。

北町児童公園西側北門銘板。当初のものかは分かりません。

北町児童公園西側南門。北町児童公園の門柱はシンプルな角柱です。

西側の柵。

北町児童公園砂場。北町児童公園の砂場は角丸。京都市内の児童公園の砂場には隅が角型と角丸型があります。確証はないですが、角丸の方が古いのかなと。

ベンチ。よく見る形です。

もう一つのベンチ。古いですが、戦前か戦後かは分かりません。
北町児童公園は当初の遺構は少ないものの、開園当時の面影を残しています。近年、新たなトイレが造られたり、最近よく見る健康器具的なベンチなどが設置され、開園当初の門柱や柵を残しつつ、より使いやすいように改修された良い事例になっています。
2023年11月26日
西町児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市上京区一条通紙屋川下る西町にある西町児童公園を探索しました。西町児童公園は昭和16年6月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

西町児童公園北門。

西町児童公園北門公園内から。

北門の門柱には、半球の装飾があります。入口のカーブが絶妙。

北門の銘板。旧字体が使われており、開園当時のものと思われます。

西町児童公園西門。北門と違い装飾はシンプルです。

西門と塀。

西町児童公園東門。西門と同じデザイン。北門には半円級の装飾と銘板があり、北門が公園の正門だったことが分かります。

西町児童公園北東角の塀。隅切りがされています。土地区画の関係でこうなった可能性はありますが、もしかすると鬼門除けの意識もあったのかもしれません。

公園内には開園当時と思われるベンチが残されています。脚のアーチが古さを感じます。

別のベンチ。同じ形です。

砂場。不定形の形をしており、角は丸く仕上げられています。

公園の東端にあったコンクリート構造物。コの字のコンクリートの縁と真ん中の設置跡から、手洗い場か水飲み場と思われます。
西町児童公園は開園当時の遺構が豊富に残されています。しかし、充分に管理されているとはあまり言えない状況。いずれ改修でこれらの遺構が失われる恐れがあります。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

西町児童公園北門。

西町児童公園北門公園内から。

北門の門柱には、半球の装飾があります。入口のカーブが絶妙。

北門の銘板。旧字体が使われており、開園当時のものと思われます。

西町児童公園西門。北門と違い装飾はシンプルです。

西門と塀。

西町児童公園東門。西門と同じデザイン。北門には半円級の装飾と銘板があり、北門が公園の正門だったことが分かります。

西町児童公園北東角の塀。隅切りがされています。土地区画の関係でこうなった可能性はありますが、もしかすると鬼門除けの意識もあったのかもしれません。

公園内には開園当時と思われるベンチが残されています。脚のアーチが古さを感じます。

別のベンチ。同じ形です。

砂場。不定形の形をしており、角は丸く仕上げられています。

公園の東端にあったコンクリート構造物。コの字のコンクリートの縁と真ん中の設置跡から、手洗い場か水飲み場と思われます。
西町児童公園は開園当時の遺構が豊富に残されています。しかし、充分に管理されているとはあまり言えない状況。いずれ改修でこれらの遺構が失われる恐れがあります。
円町児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市中京区西ノ京北円町にある円町児童公園を探索しました。円町児童公園は昭和15年10月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

円町児童公園西側北門。

西側北門の門柱には円町児童公園の銘板があります。旧字体で書かれているため、開園当時のものと思われます。

円町児童公園西側南門。西側北門と全く同じデザインです。
こちらに銘板はありません。

円町児童公園西側ライン。公園の敷地が佐井通りより高いため、石垣の擁壁の上に塀を設けています。

対して東側は公園との敷地境程度の低い塀があります。

円町児童公園東側北門。塀や門柱は西側の2つの門と同じシンプルなデザインです。
ちなみに南側にも公園入口が設けられており、かつては門があったと思われますが、現在は失われています。

円町児童公園は新しくトイレが作られた際に一緒に改修されたのか、公園内には開園当時のものと思われるものはありませんでした。しかし、西側の2つの門と東側の門と東西の塀、西側北門の銘板は開園当時のものと思われ、戦前の京都市の児童公園の様子を伝える貴重な遺構となっています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

円町児童公園西側北門。

西側北門の門柱には円町児童公園の銘板があります。旧字体で書かれているため、開園当時のものと思われます。

円町児童公園西側南門。西側北門と全く同じデザインです。
こちらに銘板はありません。

円町児童公園西側ライン。公園の敷地が佐井通りより高いため、石垣の擁壁の上に塀を設けています。

対して東側は公園との敷地境程度の低い塀があります。

円町児童公園東側北門。塀や門柱は西側の2つの門と同じシンプルなデザインです。
ちなみに南側にも公園入口が設けられており、かつては門があったと思われますが、現在は失われています。

円町児童公園は新しくトイレが作られた際に一緒に改修されたのか、公園内には開園当時のものと思われるものはありませんでした。しかし、西側の2つの門と東側の門と東西の塀、西側北門の銘板は開園当時のものと思われ、戦前の京都市の児童公園の様子を伝える貴重な遺構となっています。
2023年11月18日
西ノ京児童公園に残る都市公園の近代化遺産
京都市中京区西ノ京笠殿町にある西ノ京児童公園を探索しました。
西ノ京児童公園は昭和14年8月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

西ノ京児童公園西門。

西門を公園側から。京都市内の戦前の児童公園はほぼ門柱と塀はコンクリート製ですが、各公園によって意匠が異なりますし、同じ公園でも門ごとにデザインが異なる場合もあります。
西門は開口部側の角をアールにしただけのシンプルなもの。

北側西門。西門と同じデザイン。

北側西門を公園側から。

北側東門。西ノ京児童公園の3つの門は全て同じデザイン。

北側東門を公園側から。

西ノ京児童公園の北西角の塀。隅が切られています。

北側の塀。四角を基調としたシンプルなデザイン。
西ノ京児童公園内には数は少ないですが、開園当時の遺構がいくつか残されています。

コンクリート製のベンチ。角を丸く仕上げています。古いタイプのもの。

別のベンチ。同じデザイン。

公園の東端にあるコンクリート構造物。

裏側を見ると国旗掲揚台だとわかります。戦前の公園には大抵国旗掲揚台がありました。
紀元二千六百年記念で設置されたものも多く見かけます。

京都市内の児童公園・都市公園ではお地蔵さんの祠をよく見かけます。京都では一般的な地蔵盆。地区の地蔵盆の際のお祭りの場として住民が集う場として最適だったのでしょう。
西ノ京児童公園は比較的開園当初の姿を留めていますが、外周の門や塀など痛みも目立ち、開放的でより地域住民に利用しやすい公園整備を目指す京都市は近いうちに改修を行い、古いコンクリートの塀や門などは撤去される可能性もあります。
西ノ京児童公園は昭和14年8月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産

西ノ京児童公園西門。

西門を公園側から。京都市内の戦前の児童公園はほぼ門柱と塀はコンクリート製ですが、各公園によって意匠が異なりますし、同じ公園でも門ごとにデザインが異なる場合もあります。
西門は開口部側の角をアールにしただけのシンプルなもの。

北側西門。西門と同じデザイン。

北側西門を公園側から。

北側東門。西ノ京児童公園の3つの門は全て同じデザイン。

北側東門を公園側から。

西ノ京児童公園の北西角の塀。隅が切られています。

北側の塀。四角を基調としたシンプルなデザイン。
西ノ京児童公園内には数は少ないですが、開園当時の遺構がいくつか残されています。

コンクリート製のベンチ。角を丸く仕上げています。古いタイプのもの。

別のベンチ。同じデザイン。

公園の東端にあるコンクリート構造物。

裏側を見ると国旗掲揚台だとわかります。戦前の公園には大抵国旗掲揚台がありました。
紀元二千六百年記念で設置されたものも多く見かけます。

京都市内の児童公園・都市公園ではお地蔵さんの祠をよく見かけます。京都では一般的な地蔵盆。地区の地蔵盆の際のお祭りの場として住民が集う場として最適だったのでしょう。
西ノ京児童公園は比較的開園当初の姿を留めていますが、外周の門や塀など痛みも目立ち、開放的でより地域住民に利用しやすい公園整備を目指す京都市は近いうちに改修を行い、古いコンクリートの塀や門などは撤去される可能性もあります。
2023年11月17日
紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産。
昭和10年代、京都市では分譲地開発としての土地区画整理事業や住宅地の環境改良等で市内各地に児童公園が造られました。それらはこれまでの景勝地としての風致公園ではなく、都会の中の都市公園として作られました。児童公園の特徴として、仝園の区画をコンクリートの塀で囲み、門を設ける。⇒袈颪篋従譴覆匹了匐,遊べる施設を設ける。ベンチやラジオ塔などを設置して、地域住民向けの憩いの場所とする。などの特徴があります。それらの施設は当時の流行の建築デザインを取り入れたものが多く、近代化遺産として貴重なものとなっており、12ヶ所は選奨土木遺産にも認定されています。
昭和10年11月1日に都市公園として再整備され開園した船岡山公園は2018年に探索をしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
調べていくと京都市内の各地に戦前に開設された児童公園が現役の公園として60ヶ所も残り、うち、42ヶ所が何らかの開設当時の施設が残されていることが分かりました。しかし、現在も地区の現役の公園であるため改修が進んでおり、数年前まで多くの開設当初の遺構が残されていた公園も最近改修で全て撤去された公園もいくつかありました。そこで、今からでも開設当初の遺構が残されている京都市内の児童公園を探索し、その記録を残していこうと考えました。
最初に紹介するのは、上京区紫野上柳町にある紫野柳公園。

紫野柳公園南側西門。紫野柳公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、京都市内の児童公園でも初期の開設になります。紫野柳公園のある紫野地区の土地区画整理事業に合わせて造られた公園で、現在も開園当初の遺構が多く残されています。

南側東門。

南側東門を公園側から。門柱は意匠的なデザインです。

西門。こちらは南側の2つの門柱とは違うデザインの門柱です。

南塀。
さて、紫野柳公園には有名な遺構があります。

それが公園東端にあるラジオ塔です。


京都市内には現存するラジオ塔が7か所ありますが、この紫野柳公園のラジオ塔が他と違うのは、付属のステージ・塀・ベンチもそのまま残されていることです。

ベンチの背もたれと兼ねている塀には円形の意匠が。角の柱には横線が入り、いわゆるドイツ表現主義的な意匠が見られるとのこと。

ラジオ塔のアップ。ラジオ塔は様々なデザインのものが造られ、京都では燈籠型が多めですが、紫野柳公園のラジオ塔は近代的な形です。

スピーカーのあった場所には装飾的な金具が。その上の丸い穴には時計がはまっていたそうです。

裏側には受信機を収めていた穴が。

内部の様子。なんか赤い文字が書かれていますが、当時の物でしょうか・・・?

紫野柳公園には他にも当時の設備が残されています。

バーゴラのテーブル。戦前の児童公園には藤棚のバーゴラがよく設置されていました。

コンクリート製の長いベンチ。背後の半円と同じく当初の物かと。

コンクリート製の遊具。

他の戦前の児童公園にも同じものが残されているようです。それは今後の探索にて。

土地区画整理事業で造られた紫野柳公園には、それを記念した石碑があります。「区画整理之碑」の下には区画整理事業についての碑文が刻まれています。

その隣にある記念碑。読みにくいですが、これも土地区画整理事業に関する記念碑。
紫野柳公園は選奨土木遺産に認定された戦前に開園した12か所の児童公園のうち、最も開園当初の姿を留めている都市公園として近代化遺産として貴重な公園となっています。
※土木学会認定選奨土木遺産の京都市内児童公園(年代順)
〇紫野宮西児童公園(北区 昭和10年5月14日 ベンチ・地蔵尊)
〇紫野柳児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・ラジオ塔・土地区画整理記念碑など)
昭和10年11月1日に都市公園として再整備され開園した船岡山公園は2018年に探索をしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
調べていくと京都市内の各地に戦前に開設された児童公園が現役の公園として60ヶ所も残り、うち、42ヶ所が何らかの開設当時の施設が残されていることが分かりました。しかし、現在も地区の現役の公園であるため改修が進んでおり、数年前まで多くの開設当初の遺構が残されていた公園も最近改修で全て撤去された公園もいくつかありました。そこで、今からでも開設当初の遺構が残されている京都市内の児童公園を探索し、その記録を残していこうと考えました。
最初に紹介するのは、上京区紫野上柳町にある紫野柳公園。

紫野柳公園南側西門。紫野柳公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、京都市内の児童公園でも初期の開設になります。紫野柳公園のある紫野地区の土地区画整理事業に合わせて造られた公園で、現在も開園当初の遺構が多く残されています。

南側東門。

南側東門を公園側から。門柱は意匠的なデザインです。

西門。こちらは南側の2つの門柱とは違うデザインの門柱です。

南塀。
さて、紫野柳公園には有名な遺構があります。

それが公園東端にあるラジオ塔です。


京都市内には現存するラジオ塔が7か所ありますが、この紫野柳公園のラジオ塔が他と違うのは、付属のステージ・塀・ベンチもそのまま残されていることです。

ベンチの背もたれと兼ねている塀には円形の意匠が。角の柱には横線が入り、いわゆるドイツ表現主義的な意匠が見られるとのこと。

ラジオ塔のアップ。ラジオ塔は様々なデザインのものが造られ、京都では燈籠型が多めですが、紫野柳公園のラジオ塔は近代的な形です。

スピーカーのあった場所には装飾的な金具が。その上の丸い穴には時計がはまっていたそうです。

裏側には受信機を収めていた穴が。

内部の様子。なんか赤い文字が書かれていますが、当時の物でしょうか・・・?

紫野柳公園には他にも当時の設備が残されています。

バーゴラのテーブル。戦前の児童公園には藤棚のバーゴラがよく設置されていました。

コンクリート製の長いベンチ。背後の半円と同じく当初の物かと。

コンクリート製の遊具。

他の戦前の児童公園にも同じものが残されているようです。それは今後の探索にて。

土地区画整理事業で造られた紫野柳公園には、それを記念した石碑があります。「区画整理之碑」の下には区画整理事業についての碑文が刻まれています。

その隣にある記念碑。読みにくいですが、これも土地区画整理事業に関する記念碑。
紫野柳公園は選奨土木遺産に認定された戦前に開園した12か所の児童公園のうち、最も開園当初の姿を留めている都市公園として近代化遺産として貴重な公園となっています。
※土木学会認定選奨土木遺産の京都市内児童公園(年代順)
〇紫野宮西児童公園(北区 昭和10年5月14日 ベンチ・地蔵尊)
〇紫野柳児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・ラジオ塔・土地区画整理記念碑など)
〇下鴨森ガ前児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・花壇・国旗掲揚台など)
〇あおい(下鴨膳部)児童公園(北区 昭和10年5月14日 門柱・国旗掲揚台・土地区画整理記念碑など)
〇高原児童公園(北区 昭和13年5月24日 門柱・竣工記念水飲み場・日時計など)
〇地蔵本児童公園(北区 昭和13年5月24日 門柱・国旗掲揚台座など)
〇比永城児童公園(南区 昭和13年5月24日 門柱・水飲み場・バーゴラ・地蔵尊など)
〇橘児童公園(上京区 昭和14年7月1日 ラジオ塔・地蔵尊)
〇小松原児童公園(北区 昭和14年7月20日 ラジオ塔・国旗掲揚台・プール跡など)
〇西ノ京児童公園(中京区 昭和14年8月1日 門柱・ベンチ・国旗掲揚台など)
〇萩児童公園(左京区 昭和15年12月1日 門柱・ラジオ塔・国旗掲揚台・土地区画整理記念碑など)
〇六條院児童公園(下京区 昭和17年8月15日 門柱・国旗掲揚台・水飲み場・噴水跡・プール跡など)
2023年10月17日
伊根町・新井崎防備衛所 遺構探索レポ日記
今から5年前の2018年、京都府伊根町の新井崎にかつて陸軍の砲台があったことを知り、探索を行いました。その際に新井集会所の雑木林の中に明らかに旧軍時代のものと思われるコンクリートの遺構を確認し、これが新井崎砲台の遺構だと思っていたのですが、伊根町史に載っている新井崎砲台の見取り図と全然違い悩んでおりました。
2020年、本来の新井崎砲台の遺構が2018年に確認した遺構の北方約500mの位置にあることが判明し、この遺構は新井崎砲台の遺構ではないことが確定されましたが、ではこの遺構は何なのか、特定できる資料も見つからずずっと謎のままでした。
※2020年の新井崎砲台の探索レポ日記はこちら。
伊根町・新井崎砲台跡探索レポ日記
2023年、京都市の歴彩館が所蔵する京都府行政文書の「軍需施設引渡目録」内に新井崎防備衛所の図面があることを発見。

※歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録」より、新井崎防備衛所施設図面。
もしやと思い、2018年に探索した際の記録と照らし合わせると施設図と遺構の位置がほぼ一致。これにより、これまで詳細不明だった新井集会所近くの遺構が新井崎防備衛所の遺構だと判明しました。
そのため、今回改めて新井崎防備衛所の遺構という認識の下、資料の施設図面を参考に再探索をしてきました。

※新井崎防備衛所遺構位置図。
改めて作図。史料の施設図と現地での探索結果を基にトレースしてみましたが、近年新たに道路を作ったりして地形が変わったりしており、位置と縮尺は完全に合わせられていません。あくまで概略図という認識でお願いします。
というわけで、遺構位置図を基に紹介していきます。

ー力発電所跡。整地された上に造られています。恐らく探照灯への電力供給や衛所・兵舎への電力供給のためでしょうか。施設図では長方形に描かれていますが、実際は張り出しがあったりします。発電機の台座があると思われますが、埋もれている可能性があります。自力発電は外部からの電力供給ではなく、自力で発電すること。隣に油庫があることから、恐らくディーゼルによる発電機で発電していたと思われます。旧陸海軍のこういった施設は大抵自力発電で、今でも発電所の建物跡や発電機を収めていたコンクリート壕などが残されています。

自力発電所跡の北隅部。

自力発電所跡には碍子が残されていました。

¬庫跡。コンクリートの壁が残されています。

壁には南側と西側に開口部があります。
南側が正面の出入口。西側が西隣の自力発電所跡との連絡用通路だったのでしょうか。

自力発電所跡から油庫方面を望む。自力発電所跡は整地された油庫よりも高い位置に造られています。

C犠氾跡。施設図では探照灯と思われる円が描かれていますが、実際は四角い基礎が残り、角から斜めに基礎が伸びてます。この上に探照灯があったのでしょうか。

ちなみに、新井埼神社の先の岬に経文岩という岩の洞窟があり、そこに古いコンクリートが残されています。地元ではここに探照灯が格納されていたと伝えられれ、説明版にもそう書かれていますが、施設図には探照灯は油庫の隣に描かれており、経文岩自体は書かれてはいるものの、施設としての記載はありません。もしかしたらここにも探照灯を設置しようとして中止したのが伝わったのでしょうか。

け匳蠕彭貘Υ霑叩新井集会所の南、道路に面した小屋の裏に古いコンクリートの基礎の一部が残されています。位置的に衛所跡と思われ、施設図に描かれた衛所の形と照らし合わせると、東側の張り出した部分の基礎と思われます。


ケ匳蠕彑沼Υ霑叩L渦箸領側と軒下にコンクリートの基礎が残されれています。施設図の衛所の形と照らし合わせると、西側の基礎だと思われます。
その他の基礎部分は撤去されたものと思われますが、東西の端の基礎が残されていますので、衛所の規模は復元できます。

新井崎神社へ降りる道から衛所があった場所を望む。現在民家のある場所のやや東側に衛所がありました。民家の位置から新井崎神社へ下る道は施設図に書かれているので、当時からのもののようです。

κ室棒弯篦蠱蓮施設図と衛所跡の遺構から推測すると、新井集会所とグラウンドの一部に兵舎があったようです。しかし、造成のためか面影は全くありません。
Г寮橘腓魯哀薀Ε鵐匹琉銘屬砲△辰燭隼廚錣譴泙垢、今となっては全く分かりません。
これにて新井崎防備衛所の遺構探索となります。

新井崎には海軍の防備衛所と陸軍の新井崎砲台があり、新井崎砲台の方は上の遺構位置図と先に紹介した新井崎砲台遺構探索レポ日記の通り、砲具庫や油庫、便所といった建物の他に観測所跡や境界杭など多くの遺構が残されています。海軍の防備衛所跡と陸軍の新井崎砲台跡を合わせて見学できる旧軍遺構が集中して存在しているお勧めのスポットです。
2020年、本来の新井崎砲台の遺構が2018年に確認した遺構の北方約500mの位置にあることが判明し、この遺構は新井崎砲台の遺構ではないことが確定されましたが、ではこの遺構は何なのか、特定できる資料も見つからずずっと謎のままでした。
※2020年の新井崎砲台の探索レポ日記はこちら。
伊根町・新井崎砲台跡探索レポ日記
2023年、京都市の歴彩館が所蔵する京都府行政文書の「軍需施設引渡目録」内に新井崎防備衛所の図面があることを発見。

※歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録」より、新井崎防備衛所施設図面。
もしやと思い、2018年に探索した際の記録と照らし合わせると施設図と遺構の位置がほぼ一致。これにより、これまで詳細不明だった新井集会所近くの遺構が新井崎防備衛所の遺構だと判明しました。
そのため、今回改めて新井崎防備衛所の遺構という認識の下、資料の施設図面を参考に再探索をしてきました。

※新井崎防備衛所遺構位置図。
改めて作図。史料の施設図と現地での探索結果を基にトレースしてみましたが、近年新たに道路を作ったりして地形が変わったりしており、位置と縮尺は完全に合わせられていません。あくまで概略図という認識でお願いします。
というわけで、遺構位置図を基に紹介していきます。

ー力発電所跡。整地された上に造られています。恐らく探照灯への電力供給や衛所・兵舎への電力供給のためでしょうか。施設図では長方形に描かれていますが、実際は張り出しがあったりします。発電機の台座があると思われますが、埋もれている可能性があります。自力発電は外部からの電力供給ではなく、自力で発電すること。隣に油庫があることから、恐らくディーゼルによる発電機で発電していたと思われます。旧陸海軍のこういった施設は大抵自力発電で、今でも発電所の建物跡や発電機を収めていたコンクリート壕などが残されています。

自力発電所跡の北隅部。

自力発電所跡には碍子が残されていました。

¬庫跡。コンクリートの壁が残されています。

壁には南側と西側に開口部があります。
南側が正面の出入口。西側が西隣の自力発電所跡との連絡用通路だったのでしょうか。

自力発電所跡から油庫方面を望む。自力発電所跡は整地された油庫よりも高い位置に造られています。

C犠氾跡。施設図では探照灯と思われる円が描かれていますが、実際は四角い基礎が残り、角から斜めに基礎が伸びてます。この上に探照灯があったのでしょうか。

ちなみに、新井埼神社の先の岬に経文岩という岩の洞窟があり、そこに古いコンクリートが残されています。地元ではここに探照灯が格納されていたと伝えられれ、説明版にもそう書かれていますが、施設図には探照灯は油庫の隣に描かれており、経文岩自体は書かれてはいるものの、施設としての記載はありません。もしかしたらここにも探照灯を設置しようとして中止したのが伝わったのでしょうか。

け匳蠕彭貘Υ霑叩新井集会所の南、道路に面した小屋の裏に古いコンクリートの基礎の一部が残されています。位置的に衛所跡と思われ、施設図に描かれた衛所の形と照らし合わせると、東側の張り出した部分の基礎と思われます。


ケ匳蠕彑沼Υ霑叩L渦箸領側と軒下にコンクリートの基礎が残されれています。施設図の衛所の形と照らし合わせると、西側の基礎だと思われます。
その他の基礎部分は撤去されたものと思われますが、東西の端の基礎が残されていますので、衛所の規模は復元できます。

新井崎神社へ降りる道から衛所があった場所を望む。現在民家のある場所のやや東側に衛所がありました。民家の位置から新井崎神社へ下る道は施設図に書かれているので、当時からのもののようです。

κ室棒弯篦蠱蓮施設図と衛所跡の遺構から推測すると、新井集会所とグラウンドの一部に兵舎があったようです。しかし、造成のためか面影は全くありません。
Г寮橘腓魯哀薀Ε鵐匹琉銘屬砲△辰燭隼廚錣譴泙垢、今となっては全く分かりません。
これにて新井崎防備衛所の遺構探索となります。

新井崎には海軍の防備衛所と陸軍の新井崎砲台があり、新井崎砲台の方は上の遺構位置図と先に紹介した新井崎砲台遺構探索レポ日記の通り、砲具庫や油庫、便所といった建物の他に観測所跡や境界杭など多くの遺構が残されています。海軍の防備衛所跡と陸軍の新井崎砲台跡を合わせて見学できる旧軍遺構が集中して存在しているお勧めのスポットです。
2023年09月22日
舞鶴要塞由良高射砲陣地予定地について。
京都市にある歴彩館にて京都府内の旧軍施設の資料を漁っておりましたら、今まで知らなかった興味深い資料が出てきました。

歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録3−2 昭和21年〜24年度」
旧陸海軍の施設だった敷地や建物は終戦後に進駐軍に接収されましたが、その後、学校や民間へ引き渡されました。その際に進駐軍に現状と今後の使用方法を申請し、許可が下りれば申請した使用方法で払い下げが許可されました。
その軍需施設引渡目録の中に「旧舞鶴要塞由良高射砲予定地」という題の資料を見つけました。
どうやら現在の宮津市由良地区の由良海岸に高射砲陣地を構築する計画があったようですが、未完で終戦を迎えたようです。それで、その高射砲陣地予定地は村の公園地として利用すると書いてあります。

その由良高射砲予定地の図面がありました。赤で囲んだ場所が由良高射砲予定地の敷地となります。
真ん中に海岸へ降りる階段があります。接岸できるようにしたのでしょうか。
この場所、見覚えがあり、Google Mapの航空写真で確認してみました。

現在の汐汲浜公園の位置になります。敷地の形が図面と同じですね。

国土地理院HP公開の昭和22年撮影の航空写真。今と同じ形の敷地が写っています。
現在の汐汲浜公園は海岸を造成して造られていることは間違いない公園です。今と同じ形の敷地が引渡目録の地図に描かれており、それが舞鶴要塞の由良高射砲予定地とされていることから、この汐汲浜公園は元々は高射砲陣地として造成はしたものの、結局高射砲は設置されず終戦を迎えた可能性が高いです。高射砲陣地が計画される前から造成されていた可能性も考えられますが、どちららにせよ、陸軍がここを高射砲陣地にしようとした旧軍遺構と言って良いのではと考えますし、今では観光客や海水浴客でにぎわう由良海岸も戦時中は軍事拠点だったということになります。
※2023年10月7日、現地を確認してきました。

由良高射砲陣地予定地全景。現在は汐汲浜公園となっています。敷地は結構広く陣地構築のスペースとしては十分かと思います。

汐汲浜公園は造成されて作られており、海岸側の岸壁は波返しになっています。

汐汲浜公園の中央には階段が作られ海岸に降りれるようになっています。この階段は図面にも書かれており、当初からあったものです。

階段の擁壁部分。コンクリートは型板の残るもので、骨材や質を見ると戦前の古いものです。その上に新しく補修のコンクリートが重ね塗りされています。

階段下は岩場であり、この日は波が荒く降りられませんでしたが、波が穏やかな日は海岸に降りて遊べる感じになっています。恐らくですが、戦前の昭和期に公園整備として大規模な造成が行われ、戦時中、陸軍(舞鶴要塞)が高射砲陣地とするために土地を接収。高射砲陣地予定地としたが実現せず終戦を迎えた感じでしょうか。史料の申請書では今後は公園地としての利用となっているので、本来の用途に戻したのかもしれません。

歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録3−2 昭和21年〜24年度」
旧陸海軍の施設だった敷地や建物は終戦後に進駐軍に接収されましたが、その後、学校や民間へ引き渡されました。その際に進駐軍に現状と今後の使用方法を申請し、許可が下りれば申請した使用方法で払い下げが許可されました。
その軍需施設引渡目録の中に「旧舞鶴要塞由良高射砲予定地」という題の資料を見つけました。
どうやら現在の宮津市由良地区の由良海岸に高射砲陣地を構築する計画があったようですが、未完で終戦を迎えたようです。それで、その高射砲陣地予定地は村の公園地として利用すると書いてあります。

その由良高射砲予定地の図面がありました。赤で囲んだ場所が由良高射砲予定地の敷地となります。
真ん中に海岸へ降りる階段があります。接岸できるようにしたのでしょうか。
この場所、見覚えがあり、Google Mapの航空写真で確認してみました。

現在の汐汲浜公園の位置になります。敷地の形が図面と同じですね。

国土地理院HP公開の昭和22年撮影の航空写真。今と同じ形の敷地が写っています。
現在の汐汲浜公園は海岸を造成して造られていることは間違いない公園です。今と同じ形の敷地が引渡目録の地図に描かれており、それが舞鶴要塞の由良高射砲予定地とされていることから、この汐汲浜公園は元々は高射砲陣地として造成はしたものの、結局高射砲は設置されず終戦を迎えた可能性が高いです。高射砲陣地が計画される前から造成されていた可能性も考えられますが、どちららにせよ、陸軍がここを高射砲陣地にしようとした旧軍遺構と言って良いのではと考えますし、今では観光客や海水浴客でにぎわう由良海岸も戦時中は軍事拠点だったということになります。
※2023年10月7日、現地を確認してきました。

由良高射砲陣地予定地全景。現在は汐汲浜公園となっています。敷地は結構広く陣地構築のスペースとしては十分かと思います。

汐汲浜公園は造成されて作られており、海岸側の岸壁は波返しになっています。

汐汲浜公園の中央には階段が作られ海岸に降りれるようになっています。この階段は図面にも書かれており、当初からあったものです。

階段の擁壁部分。コンクリートは型板の残るもので、骨材や質を見ると戦前の古いものです。その上に新しく補修のコンクリートが重ね塗りされています。

階段下は岩場であり、この日は波が荒く降りられませんでしたが、波が穏やかな日は海岸に降りて遊べる感じになっています。恐らくですが、戦前の昭和期に公園整備として大規模な造成が行われ、戦時中、陸軍(舞鶴要塞)が高射砲陣地とするために土地を接収。高射砲陣地予定地としたが実現せず終戦を迎えた感じでしょうか。史料の申請書では今後は公園地としての利用となっているので、本来の用途に戻したのかもしれません。
2023年09月15日
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)
※今回、京都市役所庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付ける資料を入手しました。記事本文中にて紹介しています。

武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。

拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。

京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。

東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。

続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。

西側階段室塔屋。

京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。

こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。

所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。

西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。
※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。

工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。

工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。

工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。

工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。

工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。

京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。

「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。

京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。

現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。
京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。

所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。
※2023年5月27日追記

朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。

フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。

『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。

武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。

拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。

京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。

東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。

続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。

西側階段室塔屋。

京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。

こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。

所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。

西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。
※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。

工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。

工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。

工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。

工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。

工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。

京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。

「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。

京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。

現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。
京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。

所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。
※2023年5月27日追記

朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。

フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。

『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。

砲座の拡大。現在は失われている西側の砲座のコンクリート障壁が写されています。
今回、京都市の公文書に裏付けとなる資料を入手することができました。
京都市内に現存する貴重な防空砲台、しかも市役所本庁舎に現存ということも踏まえて、市役所側も何が説明版等で周知してもらいたいものですが。
2023年09月12日
第十六師団司令部 副官官舎の現存確認について

※旧陸軍第十六師団司令部庁舎。
京都市伏見区深草にかつて陸軍第十六師団司令部がありました。戦後敷地は聖母女学院となりますが、
現在も明治41年完成の師団司令部庁舎や京都偕行社などの建物が現存しています。

※旧京都偕行社。現在は愛徳修道会。
旧第十六師団司令部関連の現存遺構は良く知られており、様々な文献やサイトで見ることができます
(というわけで、第十六師団の詳細な解説は省略します)。
ですので、まだ知られていない遺構はもう存在しないと思われていたのですが…
今月、とある依頼を受け深草地域の旧軍遺構と戦争遺跡に関して改めて調べていたのですが、何気に第十六師団司令部のあった聖母女学院の一帯の航空写真を見ていると、あることに気づきました。

※GoogleMapより引用。
赤枠で囲った建物。一見何の変哲もない民家に見えますがどうも引っかかる。
実はこの建物の北側にかつて第十六師団長官舎の建物があったのですが、


※在りし日の第十六師団長官舎(1995年頃。管理人撮影 )
保存運動が起きたものの、約20年くらい前に取り壊され、跡地は住宅地となりました。
しかし、この建物は新たに建てられた住宅とは規模も形も違い、また敷地の広さや傾きも違う。
戦後に建てられたものかもしれないが、どうも引っかかる。それにもし戦前からの建物であるなら、軍用地の中の建物となるため、第十六師団関連の建物の可能性があるのでは。
というわけで、近代京都オーバーレイマップの戦前の都市計画図および、国土地理院公開の昭和21年の航空写真と現在の航空写真を見比べてみることに。

建物の規模、位置、傾き等を考慮すると、これは当時の第十六師団司令部関連の建物の可能性が高いのではという結果に。特に昭和21年の航空写真を見ると現在と同じ寄棟の屋根であることが分かります。
都市計画図に描かれている太いラインは軍用地の境界である土堤を記したもので、件の建物がかつては軍用地内にあったものだということが分かります。

こちらは「未来へ紡ぐ深草の記憶から」というサイトにある第十六師団司令部の航空写真(昭和10年頃。所蔵・聖母女学院)。赤枠が問題の建物。この写真でも寄棟屋根であることが分かり、戦前から屋根の形状は変わらないということが判明しました。
これらの結果をいつもお世話になっっています盡忠報國様にお伝えし、意見交換を行いました結果、師団司令部の佐官クラスの副官官舎の可能性が極めて高いという見解を頂きました。
そこで、実際に9/9の土曜日に確認をしてまいりました。

副官官舎と思われる建物の外観。現在は個人宅となっており(※表札を修正)、外観は大きく変更され屋根瓦も吹き替えられています。また、かつて土堤があったと思われる場所は生垣とブロック塀になっており、面影はありません。

しかし、聖母女学院の敷地側となる奥側は当時のままの下見板張りの外観が保たれていました。奥には出窓らしきものも見えます。次に副官官舎の入り口、玄関の位置についてですが、現在は建物の東側に門がありますが、昭和10年代の航空写真や、昭和21年の航空写真を見ると、今より北側に門があり、副官官舎の北側の面に向かって道が伸びてます。

敷地の入り口となる門は現在は東になっていますが、門から建物への導線は北側を通ってます。

また、よく見ると今でも玄関入り口と思われる三角の小屋根が確認できます。

こちらは第二師団の副官官舎の平面図。
※「旧陸軍省における官舎建築の供給制度と平面構成について」より引用。
この第二師団の副官官舎も方角は違いますが、建物の長辺側に玄関を設け、玄関を入って左側に浴室や台所、向かって右側に居間と客間があります。居間には出窓があり、先ほど上げた外観の写真と一致します。官舎はほぼ画一化された設計をしており、この第十六師団の副官官舎も第二師団副官官舎とほぼ同じ平面プランと間取りをしていたものと思われます。
平屋の官舎ですが、客間は床の間を備えた書院造となっており、格式を持っています。
盡忠報國様の見解だと、佐官級の丙号官舎の可能性が高いとのことでした。
奥に残る当時の外壁や建物の平面プラン、屋根の形状から躯体も含めて当時の状態で残されているものと思われます。
※本当は奥側へ回り込んで確認したかったんですが、聖母女学院の敷地となっているため不可能でした。ただ、写真は撮ってませんが、北側に立ち並ぶ住宅の隙間から少し確認することはできました。

※「第16師団副官々舎新築工事の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031382800、永存書類乙輯第2類 第3冊 明治44年(防衛省防衛研究所)
アジア歴史資料センターに第十六師団の副官官舎新築に関する資料がありました。書かれている仕様書や図面が公開されていないのは残念ですが、新築工事の文書を作成した時期から見て、副官官舎が完成したのは明治45年頃でしょうか。
また、「建築敷地は買収必要なし」と書かれているため、すでに軍用地となっている師団の敷地内に新築したことが分かります。
師団長官舎は戦後大蔵省に移管され、結局取り壊されましたが、副官官舎の方は戦後すぐかどこかの時期で民家となり一部改装はされつつも現在まで残り続けたのでしょう。
第十六師団司令部関連の遺構は有名で、多くの人に知られているため、もうこれ以上の新たな遺構の発見は無いだろうと思われていただけに、今回の副官官舎の現存の確認は大きな成果ではないかと自負しております。
※詳細な考察と見解は、盡忠報國様のブログ記事に委ねることにしますw
2023年08月27日
西脇小学校校舎見学会レポ日記。

2023年8月26日に行われた西脇小学校の校舎の見学会に参加してきました。
西脇小学校は昭和12年に完成した木造校舎で国指定重要文化財となっています。
設計者は内藤克雄。内藤克雄は昭和戦前期に北播磨地域を中心に活躍した建築家で、生涯800件以上の作品を手掛けましした。しかし、老朽化等の建て替えにより現存している作品はごくわずかです。
※関連記事
内藤克雄の作品を訪ねて
今回訪問した西脇小学校も建て替えの話がありました。特に高度経済成長期は利便性を優先する傾向があり、また新築の補助金は鉄筋コンクリート造に限られていたそうで、全国の古い木造校舎は次々と建て替えられていきました。(私の母校の小学校も在校中は木造校舎でしたが、建て替えられています。)
しかし、西脇小学校は保存の道を選びました。しかもただ保存するだけでなく現役の小学校校舎として使用し続けることを目的とし、児童の学校生活にも支障がきたさないよう現代的な改修がされています。西脇小学校は2021年に国の重要文化財に指定。それがきっかけとなり、今まで無名だった内藤克雄が注目され始め再評価へとつながっています。
2年ほど前に西脇市の近代建築を探索した際に内藤克雄の事を知り、以来、兵庫県下の探索の際は内藤克雄の作品を意識するようになりました。
※関連記事
西脇市の近代建築探索レポ日記
2年前の西脇市の探索では西脇小学校にはどうせ見れないだろうと行かなかったのですが、
今回、見学会の機会を得られましたので参加することにしました。

西脇小学校の校舎は一番手前の第一校舎が昭和9年、第二・第三校舎が昭和12年に完成しました。
3年の時間差がありますが、基本設計は同じです。しかし、とある出来事のために、第二・第三校舎の
一部に設計変更がされました。それは後程。

運動場側から。この日も暑い日でした。

第一校舎のファサード。切妻屋根と縦ラインを強調したセセッション風のスタイル。
これは内藤克雄が設計した他の学校でも見られるデザインです(現存せず)。

玄関切妻部分の装飾。

第一校舎全景。ファサード以外は装飾を控えたデザインです。

玄関車寄の天井に残る座繰り。

第一校舎内部から玄関を望む。

玄関から第二・第三校舎方面。西脇小学校は第一校舎の玄関から第三校舎まで渡り廊下で繋がれた一直線に突き抜ける導線となっており、その中心の通路の左右に各教室などが配置されています。
ちなみにかつては校舎と渡り廊下の間には階段がありましたが、現代に合わせてバリアフリーとなっています。

第一校舎の廊下。私の世代には懐かしさを感じます。
ちなみに手前にトイレがありますが、元々ここにトイレは無くかつては校舎の東端の外にありました。

この第一校舎の横に付属する建物がトイレでした。
まだ水洗ではなく汲み取りだった昔は、臭いの関係で外にトイレが作られていました。
しかし水洗トイレが普及した現在、従来のトイレの配置だと逆に不便となり、各棟の各階の教室の一部を改修してトイレにしています。
ちなみに元々トイレだったこの付属屋も綺麗に改修されて、今もトイレとして使用されています。

反対側から。

第一校舎の教室。一見昔ながらの教室に見えますが、天井部分に空調設備を隠すなど当時の姿を残しつつ、児童が快適に過ごせるよう工夫されています。
昔の教室には先生が立つ教壇がありましたが、現在は児童との距離が出来てしまうこと、先生が足を踏み外す危険もあることから、最近の学校では教壇は廃止されているところが多いそうです。この西脇小学校も同様で、当時の姿を伝えるために2か所の教室のみ教壇を残している以外は教壇を無くしているそうです。

教室の窓から外を眺める。内藤克雄の作品は窓を大きく取っているものが多かったりします。
よく外を眺めていて怒られたっけなぁ。
ちなみに各教室の窓にはカーテンがつけられていますが、これは播州織で再現されたもの。
播州織は播磨地域での主力地場産業ですが、最近は衰退しており、その産業を再興する目的で織られたようです。

次に2階へと向かいます。階段は手すりのみ作り替えてますが、どうも仮っぽい気がします。いずれ当初の姿に復元するかもしれません。

階段の踊り場。結構広いです。ちなみに2階部分の手すりの前にさらに金属の柵が作られていますが、これは児童が手すりを超えて飛び降りて遊ぶのを防ぐためとか。子供ってそういう無茶をしがちですしね。

踊り場の窓が見上げる夏の空。

第一校舎の2階廊下。

窓から第二校舎を望む。

まずは集会所となっている部屋。

元は教室だったのを改修しています。かつての講堂の役割でしょうか。

西端には記念室があります。

記念室の内部。

現在は畳敷きの展示室となってますが、かつては家庭科室だったようです。

西脇小学校の改修後の模型。

記念室前の階段。この上部の梁ですが、第二・第三校舎とは違いがあります。

これが第二校舎の開口部の梁部分。両側に持ち送りがつけられています。これは第一校舎完成した年の昭和9年、室戸台風が発生し近畿地方を中心に大きな被害が出ました。そして第二校舎建設の際、学校や保護者からの要望で開口部の梁を補強する形で持ち送りが追加される設計変更がなされたとのことでした。なので、第二・第三校舎の開口部の梁には持ち送りが追加されています。

で、続いて第二校舎へ。

中庭に百葉箱がありました。これも懐かしい。今の学校って他にもまだあるのかなぁ。

第二校舎2階廊下。第二校舎は1階は職員室や保健室、校長室、2階は教室と図書室があり、部屋の見学はできなかったので、そのまま第三校舎へ。

第三校舎は1階の家庭科室を見学。

かつては理科室でした。確かに机の配置とか見たらそんな雰囲気が。第一校舎2階にあった家庭科室をこちらに移したんですね。現在の理科室は鉄筋コンクリート造の校舎にあると思います。

理科室と言えば隣に実験の器材なんかが置かれている理科準備室がありましたが、西脇小学校にも残されています。

かつては実験器具とか標本とかが収められていた棚は、家庭科の実習で使う調理道具や食器類が収められています。

最後にかつて存在した昭和3年完成の講堂の名残を見に行きます。講堂はかつて第一校舎の南側にありました。各校舎を繋ぐ渡り廊下も当時のもの。

第二校舎の西側の渡り廊下には車寄せがあります。これは校長室や応接室のある第二校舎へ来客を通すためでしょうか。

現在の体育館に講堂の車寄せ玄関部分が移築され保存されています。講堂は現在の木造校舎に先駆けて、昭和3年に内藤克雄の設計で完成しました。

天井裏部分。講堂自体は洋風の外観でしたが、車寄せ玄関は和風の唐破風でした。

講堂に掲げられていた扁額。
西脇小学校の見学会はこれで終了。建て替えの危機がありましたが、多くの方の保存運動や努力で保存が決定し、重要文化財にまで指定されました。しかも西脇小学校の素晴らしいところは、ただ保存しただけでなく、現役の小学校として使用され続けることを前提とした「生きた文化財」であることです。文化庁が指定文化財建築をただ残すだけでなく積極的に活用する方針を取り始めた今、一つの好例としてあり続けることでしょうね。ここで学んで卒業した児童は自慢の母校になると思います。
※西脇市のHPに西脇小学校校舎改修工事竣工式の時のパンフのPDFが公開されていますので、リンクを張っておきます。
西脇小学校校舎改修工事竣工式用パンフレット(表紙・裏表紙)
西脇小学校校舎改修工事竣工式用パンフレット(中面)