2017年01月

2017年01月04日

福知山市・山崎城跡

あけましておめでとうございます。本年も城好きの方もそうでない方もよろしくお願いします。
さて、2017年最初の攻城レポ日記は京都府福知山市山崎にある山崎城跡。
実は私の故郷の村にある城跡で、まだ実家に住んでた頃に1度探索したことあるのですが、それ以来行ったことなくていい機会だししっかり探索しようと試みまして。
1山崎城遠景








山崎城跡遠景。
山崎城跡は山崎地区にある山の麓の丘陵にある小さな中世城郭。
地元では古くから城跡と言い伝えられており、城跡の下の民家の辺りに殿さまの屋敷があったと伝えられてます。(真偽は別として)
中世の城跡はほぼ現在の村落単位に存在し、室町期の頃に村落の土豪が住まう城と治める村落といった1単位のグループが形成しそれが現在も続く村落の原型になったと思われます。
この山崎城跡も山崎地区の村落とそれを治める土豪の城のセットと考えていいかもしれません。
福知山市山崎城縄張図001










山崎城跡は周知の城跡で福知山遺跡地図にも山崎城跡として記載されています。しかし、近年発行された京都府中世城館跡調査報告書には城郭類似遺構とされ城跡と認知されていません。
今回、城内を散策し拙い図ですが縄張図を描いていきましたが、誰の目に見ても明らかに城跡の遺構が存在するのですが。地元での伝承、現地に残されている城郭遺構などから中世城郭として認知されるべきだとは思うのですが…
というわけで、縄張図が作成されていない現状であるため、私が現地で書いた図を基に紹介していきます。
2山崎城帯曲輪か1








山崎城跡帯曲輪(推定)。縄張図,硫媾蝓山崎城跡の南端は府道109号線に面しており、また道路の工事により一部削り取られています。この削られた崖面の箇所に帯曲輪のような段が見受けられますが、もしかしたら後世の改変による可能性も考えられます。
3山崎城南曲輪2








山崎城跡南曲輪。縄張図△硫媾蝓B啅蔑悄平篦蝓砲両紊寮擺澆鯏个辰討いと広めの平坦地が。ここは明らかに曲輪と思われます。ただ、東西部分がどうも削られて失われているようにも見えます。本来はもう少し広かったのかも。
4山崎城南曲輪切岸3








山崎城跡南曲輪とその上の曲輪の切岸。縄張図の箇所。
高さは低いですが、しっかりとした切岸が残されています。
5山崎城南曲輪切岸








反対側から撮影。
6山崎城南曲輪北から








南曲輪の上の曲輪から南曲輪方面を撮影。縄張図い硫媾蝓
8山崎城堀切・主郭切岸








同じ曲輪から堀切・主郭(推定)の切岸を望む。
9山崎城堀切








主郭(推定)の南にしっかりとした堀切が残されています。縄張図イ硫媾蝓
9山崎城堀切5








反対側から。堀切の南、曲輪い遼銘爾膨磴瓩療變櫃残されており、主郭(推定)への進入を土塁と堀切、3mくらいの高さの切岸で防御しています。山崎城跡で最大の防御であり一番の見所かと思われます。
10山崎城主郭6








堀切の北、山崎城跡主要部で一番高めの箇所に当たるところに広い平坦地があります。
縄張図Δ硫媾蝓0銘崚に山崎城跡の中心に位置し周りの曲輪より高所にあることや南に大き目の堀切を設けていることから、山崎城跡の主郭ではと推測されます。
面積は結構広く、建物なら余裕で建てられます。
11山崎城主郭北曲輪7








その主郭推定曲輪の北側に一段低い平坦地があり、主郭推定曲輪に次ぐ広さがあります。
縄張図Г硫媾蝓4兇古に主郭推定曲輪のΔ龍蔑悗良郭と思われます。しかし、近年まで畑地としての利用がされていたようで、後世の改変が大きいようです。
12山崎城北曲輪8








副郭と推測されるГ硫媾蠅ら山の稜線が一気に急傾斜となっていきます。それを登っていくとちょうど主郭群を見下ろす形で小曲輪が2つ存在します。写真は下段のやや広めの曲輪で縄張図┐硫媾蝓
恐らく上から主郭群を防御する曲輪だったのでしょう。
13山崎城北曲輪堀切9








┐龍蔑悗療貘Δ砲話擦瓩遼拈擇氾變櫃残されています。縄張図の箇所。
この曲輪のすぐ上に小さい曲輪が存在します。
故郷の山崎地区は今でも全員が同じ姓で、村の共有文書である江戸初期作成の家系図や共同墓地の江戸期の墓石や先祖供養塔にも同じ姓を名乗ってます。
村共有文書の家系図には永正5年(1508年)から江戸時代初期の寛文まで事細かに書かれた先祖の系図があり(次男三男の養子先や娘の嫁ぎ先まで記載)全て鵜呑みにはできませんが、戦国期には山崎地区に先祖が存在しこの小さな村に小さな城を構えて治めていたようにも思います。
(江戸初期に先祖が大先祖を供養するために建てた供養塔には延徳3年・明応4年という永正より10年古い年号が刻まれている)
先祖は江戸中期に3系統に分岐し現在の血縁関係としての株講として存続しています。
この山崎城跡が私の先祖の城とするには短絡的なのかもしれませんが、先祖の存在した時期や今と同じ姓を名乗っていたことなどそう考えてもいいのではないでしょうか。
なんせ、戦国時代は半農半士が普通で江戸時代でいう庄屋クラスの身分が戦国時代当時の小土豪だったのでしょうし。
そんな先祖も弱小がゆえに時代の流れには乗れず、江戸時代には帰農しています。ただし、先祖から受け継いだ姓はそのまま村内に限り名乗り続け現在に至ってます。
ちなみに山崎城跡は山の麓の小高い箇所に造られており、同じ尾根続きの本体の山の山頂には曲輪と思われる削平地は認められるものの、しっかりとした防御施設はあまり確認できず、今回探索した山崎城跡はいわゆる麓の居館跡で有事には山頂の簡素な城にこもったいわゆる詰めの城があったのではと考えられます。


besan2005 at 12:04|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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