2017年10月
2017年10月15日
京丹後市峰山町市街地の戦前鉄筋コンクリート橋
昭和2年に発生した北丹後地震は丹後半島一帯の町を壊滅させる被害を与えました。
震災後、壊滅状態だった峰山町は震災復興に向けて耐震性のある鉄筋コンクリート建築が造られていきました。(峰山町の耐震震災復興建築に関しては次回のレポ日記にて記述。)
峰山町市街地の真ん中には小西川という川が流れていますが、その川にも鉄筋コンクリート造の橋(以下RC橋)がいくつか架けられました。
現在でも昭和初期当時のRC橋がいくつか残され使用されています。それらの橋を東から順に紹介します。



樋田橋。昭和9年3月架設。
欄干のアーチが可愛らしい橋。


橋名不明。親柱の銘は失われており架橋年ともに不明。ただ、昭和10年代までであることは確か。
欄干には金属の欄間があり、何かのマークの意匠があります。



朝日橋。昭和10年9月架設。
全体に白いペンキが塗られているが橋名・架設年ともに判読できます。
欄干はシンプルなデザイン。



大橋。昭和3年8月架設。現存する戦前のRC橋の中で最古。
現在の府道17号線を通る橋で当時のメインストリートの橋。
そのためか橋の幅も広く親柱も立派。



御旅橋。昭和4年架設。
御旅市場の前に架かる橋。昭和4年にしてはモダンなデザイン。

親柱の上にはかつての街灯の基礎と思われるものが残されてました。



千歳橋。昭和10年9月架設。
一番西に架かる戦前のRC橋。親柱には球状の飾り等、意匠的な橋。
昭和3年から10年まで造られたこの橋はどれも一様ではなく様々なデザインに富んでいます。
震災復興として架けられてから80年余り。現在も峰山町民の通行を支える現役の橋として使用されています。
震災後、壊滅状態だった峰山町は震災復興に向けて耐震性のある鉄筋コンクリート建築が造られていきました。(峰山町の耐震震災復興建築に関しては次回のレポ日記にて記述。)
峰山町市街地の真ん中には小西川という川が流れていますが、その川にも鉄筋コンクリート造の橋(以下RC橋)がいくつか架けられました。
現在でも昭和初期当時のRC橋がいくつか残され使用されています。それらの橋を東から順に紹介します。



樋田橋。昭和9年3月架設。
欄干のアーチが可愛らしい橋。


橋名不明。親柱の銘は失われており架橋年ともに不明。ただ、昭和10年代までであることは確か。
欄干には金属の欄間があり、何かのマークの意匠があります。



朝日橋。昭和10年9月架設。
全体に白いペンキが塗られているが橋名・架設年ともに判読できます。
欄干はシンプルなデザイン。



大橋。昭和3年8月架設。現存する戦前のRC橋の中で最古。
現在の府道17号線を通る橋で当時のメインストリートの橋。
そのためか橋の幅も広く親柱も立派。



御旅橋。昭和4年架設。
御旅市場の前に架かる橋。昭和4年にしてはモダンなデザイン。

親柱の上にはかつての街灯の基礎と思われるものが残されてました。



千歳橋。昭和10年9月架設。
一番西に架かる戦前のRC橋。親柱には球状の飾り等、意匠的な橋。
昭和3年から10年まで造られたこの橋はどれも一様ではなく様々なデザインに富んでいます。
震災復興として架けられてから80年余り。現在も峰山町民の通行を支える現役の橋として使用されています。
京丹後市峰山町の古い工場建築群

京丹後市峰山町の府道17号線沿いにある古い木造洋館。
峰山の市街地へと向かう途中で見かけ、帰りに寄ることに。

下見板張りの2階建ての洋館は、典型的な村役場建築に見えました。

窓越しから1階内部を撮影。奥の階段の親柱含め当時の姿が保たれている感じ。

屋根瓦は昔懐かしいセメント瓦。その正面には「福」の字が。
役場建築でこの文字は?と疑問に思ってましたが…

上記の洋館の隣に別の入り口を発見。正門らしき奥にこれまた古い建物が。

下見板張りの建物が。基礎は煉瓦積み。

正面玄関もほぼ当時のままかと。

窓枠も正面以外は当時のままっぽい。

先ほどの建物の背後には鋸屋根のまんま工場の建物が。
屋根に日本瓦が葺かれているのは珍しい気がするけど、
当時からなのか後からなのか。

工場棟に付属する木造建物も同じ時期に建てられたように見えます。

帰宅して一連の工場群について調べたところ、現在でも吉村機業という織物会社が所有していて使用されていたことが分かりました。
吉村機業は峰山町の老舗会社吉村商店から昭和29年に独立した会社で、吉村商店は江戸時代の天保元年創業、大正9年に株式会社化した企業で、これら一連の工場群は戦前に工場として建てられたものかと思われます。訪ねたときは誰もおらず話を聞くことはできませんでしたが、最初の2階建ての洋館は事務所棟、奥の建物は本館棟ではないかと推測します。GoogleMAPの航空写真には南側に大型の建物が写されており、現在は取り壊されて跡形もありませんが、こちらも現存する施設と同時期の昭和初期頃の建物だったのではないかと思います。
2017年10月08日
峯山海軍航空隊遺構 探訪レポート

京都府京丹後市の大宮町と峰山町にまたがる一帯に戦時中、峯山海軍航空隊(峰山ではない)が存在していました。元々は昭和16年辺りに造られた河辺海軍飛行場でしたが、戦争後半の昭和19年に予科練の訓練隊が移駐し峯山分遣隊が発足。以後、峯山海軍航空隊は予科練の訓練基地として日夜特訓を繰り返しました。
戦後は再び農地となり、近年は郊外の商業地区として再開発が行われていますが、それでも峯山海軍航空隊時代の貴重な遺構が残されており、当時の姿を今に伝えています。
今回、その残された峯山海軍航空隊の遺構を訪ねてきました。
訪ねた各遺構の位置は上記の地図を参照してください。

最初に訪ねたのは、ジュンテンドーのすぐそばにある旧弾薬庫の廃墟。
畑の側の荒れ地にぽつんと残されています。

建物の構造は煉瓦造。基本的に煉瓦造は昭和初期には一度廃れていますが、戦時中の軍の施設で復活していたりします。(出水海軍航空隊観測所とか舞鶴朝来第三火薬廠とか)これは物資不足によりコンクリートの供給が不足していたという理由もあったと聞いたことがあります。
あとは、後に紹介する旧油脂倉庫も煉瓦造ですが、もしかしたら湿気を防ぐ理由もあったのかもしれません。

この旧弾薬庫は昭和20年7月30日の空襲で米軍艦載機の機銃掃射及びロケット弾の攻撃を受け大破し今のような姿になりました。弾薬庫正面左の壁に機銃掃射の跡が残ります。
周辺は大型の商業施設が建ち、この旧弾薬庫もジュンテンドーのすぐそばにあるため、この場所が買収され開発の手が入れば取り壊される危機があります。今に伝える(※私が思う正しい意味での)戦争遺跡として開発の手が入ってもこの建物は遺構として保存してもらいたいものです。
※私が思う「戦争遺跡」は実際に空襲被害を受けた遺構(軍施設・民間施設問わず)を指し、ただ単に軍の施設だった遺構は「旧軍遺構」と呼称しています。全ての旧軍の施設・遺構を「戦争遺跡」と総称し、実際の戦闘が行われていない施設・建物でも旧日本軍に関わるものという理由で全て加害者的に扱おうとする「自虐史観的呼称」に異議を唱えるためであります。

旧弾薬庫から南東に向かうと民家の中に古い煉瓦造の建物。
旧油脂倉庫と言われている建物です。
この倉庫にも機銃掃射の跡があるそうなのですが、個人宅の敷地内なので、脇の農道からの見学に留めました。

さらに南東に向かうと巨大な建築物が。これがかつての格納庫でした。

外観は練習機の出し入れをした開口部を塞ぐなど改変されてますが、木造の骨組み等は当時のまま。
70年以上前の木造の巨大建築が良く残されていたものだ。
現・所有者の会社はこの建物が貴重な旧軍時代の遺構であるとの認識をお持ちで、大切に管理されているようだが、やはり維持費の問題があるようで・・・。

旧格納庫の南側にあるコンクリートの擁壁。
航空隊の敷地と民間の敷地を区分けした境界とのこと。

旧格納庫の脇には川が流れ、コンクリートの擁壁で護岸されていますが、これも当時からあったもので、格納庫の手前辺りから暗渠化されています。

コンクリートで蓋をされ暗渠化された道は峯山海軍航空隊当時のまま。南西に向かって竹野川の合流まで500mもの長さで現存しています(国道部分は除く)。峯山海軍航空隊は戦後に農地に復旧するため滑走路等の舗装は剥がされましたが、この暗渠道はそのままの方が便利だったのでしょう、撤去されずに残されています。
暗渠道のコンクリートの上にはアスファルトが所々残されており、かつてはアスファルト舗装されていたのが分かります。

そしてその暗渠の上には今でも峯山海軍航空隊時代のマンホールが残されています。

マンホールには海軍の錨マークがあります。
戦後、こういった金属の物は真っ先に盗まれていっただけに、軍のマンホールが現存している例は極めて珍しいです。
峯山海軍航空隊の跡地には今でも当時のマンホールが4つ現地に残されています。

国道312号線を挟んだ西側、ワークマンの角を入った住宅地の中の暗渠上にあります。
暗渠は先ほどの旧格納庫前から伸びる暗渠と同じ路線。

当然同じデザインですが、こちらは取っ手が無くなってます。今でも開けられることがあるんだろうか。現役で使用されているマンホールは、旧格納庫近くのとこれの2つ。

こちらはショッピングモール・マインの北にある新町公民館に展示されているマンホール。
厚みを見たら4cmくらいありました。

残る1つは峯空園にありますが、それは後程。

住宅街にあるマンホールから暗渠を辿って進んだ先の廃屋の裏にあった貯水槽。航空隊当時の物かは不明だが気になったので撮影。

次は峯山海軍航空隊の元隊員が記念に開園した「峯空園」へ。
これまでの遺構は峰山町側にありましたが、この峯空園は大宮町側にあります。
峯空園の入り口には当時のRC橋が現存。

橋自体は今でもしっかりしてますが、欄干はクラックが入ったり欠けていたりと痛みが目立ちます。
親柱には銘板がありませんでした。元々取りつける場所もなく、海軍の施設内の橋という理由で最初から橋名を付ける必要は無かったのかもしれません。

橋を渡った先にマンホールを使用した記念碑がありました。先に紹介した暗渠には残された2つのマンホール以外に穴は無かったため、別の暗渠から持ってきたのでしょうか。

その他、暗渠横の畑の中を通るコンクリートの水路や格納庫前からジュンテンドー背後まで伸びている水路も当時の物。
※峯山海軍航空隊との関連は不明だが気になったもの。

峯空園そばの日本通運の入り口にあるコンクリートの門柱か塀の一部らしきもの。コンクリートが古く見えて一応撮影したが、航空隊のものではないだろうなぁ。

新町公民館の南、マイン駐車場の北側にある公園にあったコンクリートの整地ローラー(コンダラ)。
コンクリートが古いもので戦後のものや最近のは全部鉄製では?という判断からもしかしたら滑走路整地や飛行場の整備の際に使われたものでは?と思い撮影。ただしあくまで私個人の判断なので違うかも。

峯山海軍航空隊とは無関係だが、すぐ近くに煉瓦の煙突があったので撮影。
もちろん戦前のものでしょう。
峯山海軍航空隊の跡地はショッピングモールやホームセンター、ビジネスホテルも建ち道も拡幅等郊外の商業地区として再開発が進んでいます。その中で峯山海軍航空隊時代の遺構がこれだけ残されているのは奇跡であり、同時に現代の施設と戦時中の遺構が同居するこの場所は不思議な感覚を覚えました。
再開発で常にこれらの遺構は消滅の危機にさらされていますが、峯山海軍航空隊を伝えるものとして、空襲の後を伝える「戦争遺跡」として貴重な存在だけに何とか官民挙げて保存・再整備に取り組んでもらいたいと願うばかりです。