2018年03月
2018年03月10日
亀岡・がんこ楽々荘

亀岡市にある「がんこ楽々荘」へ食事をしに行ってきました。
楽々荘は京都鉄道(現・嵯峨野線)創始者であり京都電燈や京都銀行の前身である亀岡銀行の創始者、そして衆議院議員も務めた名士・田中源太郎の邸宅として明治31年に建てられたもので、京都鉄道の工事の際に余剰となった煉瓦を用いた煉瓦造りの洋館と和館、そして七代目小川治兵衛の作となる庭園のある御屋敷であり、国登録有形文化財になっています。

楽々荘は戦後すぐの昭和23年から保津川観光ホテル楽々荘として長らく営業してきましたが、今年の3月7日よりがんこブースが取得し、「がんこ楽々荘」としてオープンしました。

がんこ楽々荘のオープンに際して改修されましたが、登録有形文化財になっている歴史的建造物はオリジナルのまま生かされる配慮がされています。
がんこは戦前の文化財のお屋敷を積極的に生かし利用しており、和歌山市の六三園(旧松井家別邸)・岸和田市五風荘(旧寺田財閥当主家別邸)・大阪市平野郷屋敷(旧辻元家住宅)・立川市立川屋敷・京都市高瀬川二条苑(旧山縣有朋別邸・第二無鄰菴)など古いお屋敷の保護をしつつ積極的に生かしている姿勢は素晴らしく応援したくなります。
※がんこのお屋敷店舗

まずは洋館の内部を拝見させてもらいました。
お客さんがいると見学は厳しいですが、この時はまだ予約のお客さんが来られる前で運良く見せてもらえることに。

1階の部屋。

天井に明治の面影が。

大理石製の暖炉。

この棚は当時の物だったはず。

階段部分。写真が斜めになってしまった…

階段の手すり。

2階から階段を見下ろす。

2階の部屋。昔見たときと壁紙が変わったような…

2階の別室。

2階の暖炉は1階よりも装飾に富んでました

2階のサンルーム。恐らく当初はベランダだったのを改造したのでしょう。

2階窓ガラスは当時の物。そのことを案内の女性店員さんに伝えると気を付けなきゃ・・・とつぶやいてました。

1階階段下の小部屋。ここは初めて入りました。

天井は小屋組みと煉瓦がむき出しでした。今は待合に使っているようですが、当時はただの物置だったんでしょう。

一旦外に出て洋館のテラスへ。

洋館は奥にある和館と接続しています。

洋館テラスのモザイク。これだけ見ても贅を尽くした建物であることが分かります。

庭園は七代目小川治兵衛の作庭。七代植治は山縣有朋別邸の岡崎の無鄰菴・同じくがんこが所有する高瀬川源流庭園・第二無鄰菴・平安神宮の神苑・野村碧雲荘・対龍山荘など近代日本の庭園を数多く手掛けた名庭師です。
七代植治の庭園は伝統的な池泉回遊式を主体としながら洋館のあったお屋敷にも調和するよう芝張りをしたことが特徴的で、無鄰菴と同じくこの楽々荘も芝を張っています。

お料理はチェーン店ということもあり比較的リーズナブル。1000円ちょい出せば食えます。以前の楽々荘より気軽に入れます。

七代植治の庭を眺めながら食後のコーヒーを頂く。なんと贅沢。
この日のお客の入りはそこそこでしたが、洋館と和館の方は予約がされていて、聞くと結構予約が詰まっていて人気だとか。恐らく5000円くらい出せば洋館の中で懐石料理を食えそうだし亀岡まで出向くという必要はありますが、オフ会などでちょっとし贅沢を堪能できるかも。
さらに夜はライトアップしてますので雰囲気もありますし。
次は夜に立ち寄って、楽々荘の夜景を楽しみたいと思います。
2018年03月04日
京都市東山区界隈の近代建築探索レポ日記
今回は京都市東山区界隈の近代建築のレポート記事です。
ルートは鳥羽街道から四条まで。

まずは鳥羽街道の東福寺近くの近代建築から。
O邸。東山区本町15丁目。昭和初期。

玄関は大通り側ではなく脇の小道にあります。

門も当時の物っぽいですね。

H邸。東山区本町15丁目。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、建物や門の造りから戦前かと。


近代数寄屋建築といった感じでしょうか。

先ほどのH邸の隣にある洋館付き住宅。こちらも京都市近代化遺産調査報告書には掲載されていませんが、戦前の住宅ではないでしょうか。
本町通りに入り北上。

九条跨線橋。昭和8年。九条通りから東大路通へと至る鴨川とJR線を跨ぐ橋です。
かなり大規模な橋で、戦前のものでこれだけ大規模なのは珍しいかも。

橋の上に至る階段。中々いい味出してます。かつては橋の上を市電が走っており、もしかしたら市電の利用者がこの階段を上り下りしていたのかもしれません。
橋の上には市電の架線柱が今でも残されています。

東大路通りにある洋風の看板建築のお店。
アーケードが邪魔ですが、軒周りの装飾等確認できます。

URAGRO。東山区本瓦町。昭和初期。


京都市近代化遺産調査報告書では無表札となっており、10年ほど前は空きビルだったようですが、現在はアパレル関係の会社が利用しています。

玄関の窓越しに中を撮影。内部もオリジナルの姿を良く残されており、良い所有者に巡り合えたようです。

旧高山製陶所。東山区上梅屋町。明治39年。数少ない明治期の近代建築。

さすが明治期の建物だけあり、他の昭和期の建物と違い意匠的です。
1階のアーチ窓の装飾など凝ってます。

この煉瓦の装飾的な積み方が目を引きました。

旧熊倉工務店本社屋。東山区下新シ町。昭和初期。
戦前の京都にて多くの住宅建築を手掛けた会社の本社屋だった建物です。
町屋建築の正面を洋風のデザインに仕上げたどちらかというと看板建築の建物。
熊倉工務店設計の戦前住宅は北山の住宅街を中心に多く作られ現在も多数現存しており、中には国登録有形文化財になっている建物もあります。

京都の近代建築を語る上で重要な存在の一つの熊倉工務店。その記念碑的な旧本社屋ですが、宿泊施設になるという旨の看板がありました。しかしこの旧本社屋は国登録有形文化財に申請中らしく、とりあえず建物は維持されるようです。

続いて京都女子大学方面へ。錦華殿。大谷光瑞夫妻の新居として明治32年に建てられた洋館を平成12年に復元した建物です。忠実に復元されており、新しいですが良い建物。オリジナルが残されていたら間違いなく文化財指定されていたことでしょう。

M邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。錦華殿から奥に入った所にある洋館。

何となくあめりか屋っぽいデザインの住宅。

玄関にはアールデコ調のステンドグラスがありました。

H邸。東山区今熊野北日吉町。京都市近代化遺産調査報告書には該当の所有者の名前は載ってませんが、恐らく持ち主が変わったのでしょう。大正から昭和初期と思われる洋館付きの住宅です。

洋館の窓には装飾がありました。ステンドグラスではなさそうですが。

H・O邸。東山区今熊野北日吉町。先ほどのM邸の向かいの洋館。こちらも該当の所有者名がリストには無かったですが、持ち主が変わったと思います。2世帯の方が住まわれているようです。

結構モダンな建物です。

O邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。
中々素敵な洋館ですが、門から奥の方に位置しているため近くに行けないのが残念。

京都女子大学生活デザイン研究所。東山区今熊野北日吉町。

現在は京都女子大学の施設ですが、元は住宅だったのでしょう。

門は昔の雰囲気を残しています。

窓には装飾がありました。オリジナルかは分かりませんが。
建物は戦前のもののような気がします。

H邸。東山区上馬町。大正から昭和初期。大学の学生寮の向かいにある洋館。1階は和風のデザインになってます。庭木のせいで良く見えない…
京都女子大学界隈を離れ四条方面へ。

Y邸。東山区池殿町。大正から昭和初期。

元商店だったのでしょうか。アーチ窓と軒周りの装飾が素敵です。

旧新道小学校。東山区小松町。昭和12年。

京都市内のいわゆる番組小学校は次々と廃校になって行ってますね…
この旧新道小学校は現在はコミュニティーセンターとして再利用されているようです。

手越医院。東山区小松町。大正から昭和初期。ドイツスタイルの洒落た洋館医院。

戦前の個人医院ってオシャレな洋館が多いですよね。

N邸。東山区博多町。大正から昭和初期。背後のタイル張りの建物はどうやら倉庫だったようですが結構大きな建物です。元々は何のお店だったんだろう。

旧ぎおん梅村。東山区博多町。大正から昭和初期。

洋館部分はタイル張りとテラコッタの装飾が施され、3階バルコニーの手すりも装飾的で凝ってます。
元は旅館だったようで、和館部分は確かにその雰囲気を伺わせる造りです。

元は旅館だったものを元力士の方が買い取りちゃんこ料理を出す料理旅館として経営していたようです。京都市近代化遺産調査報告書には「ぎおん梅村」として掲載されており、昔の京都の旅館を紹介した本にぎおん梅村の経緯が書かれていました。10年前までは営業していたようですがいつの頃から廃業され、現在は売り物件になってます。
またレストランや宿泊施設などに再利用されればよいのですが。

T邸。東山区博多町。大正から昭和初期。

和館よりも大きめの洋館が付属しています。この辺りから人も車も増えてきました…

弥栄会館。昭和12年。国登録有形文化財。

有名な建物ですね。とにかく大きい。姫路城の意匠を取り入れたという建物は日本趣味建築といったところでしょうか。帝冠様式とも言えなくもないけどあまりそういう形では紹介されていませんね。

門も当時の物。弥栄会館が完成したころは自動車が普及し始めた頃で自動車が通れるくらいの幅と高さがあります。なので現在からみても大きな門です。

旅館東山ホテル。東山区祇園町南側。昭和初期。
背後は洋館の造りになってます。

場所は八坂神社のすぐ近くという好立地。しかも素泊まりですが1泊5500円からという安さ。
観光地からも近く、料金もお手頃でしかも近代建築のホテル。ただ、予約は多いでしょうね。

以上で東山区界隈の近代建築探索レポートを終わります。
実は見逃した建物があることが後から分かりまた機会を見て訪問しようかと思います。
それにしても祇園辺りはさすがに観光客でいっぱいだったなぁ。
次回はいよいよ熊倉工務店設計の住宅が多く残る北山か北大路あたりの探索結果をレポート予定にしております。
ルートは鳥羽街道から四条まで。

まずは鳥羽街道の東福寺近くの近代建築から。
O邸。東山区本町15丁目。昭和初期。

玄関は大通り側ではなく脇の小道にあります。

門も当時の物っぽいですね。

H邸。東山区本町15丁目。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、建物や門の造りから戦前かと。


近代数寄屋建築といった感じでしょうか。

先ほどのH邸の隣にある洋館付き住宅。こちらも京都市近代化遺産調査報告書には掲載されていませんが、戦前の住宅ではないでしょうか。
本町通りに入り北上。

九条跨線橋。昭和8年。九条通りから東大路通へと至る鴨川とJR線を跨ぐ橋です。
かなり大規模な橋で、戦前のものでこれだけ大規模なのは珍しいかも。

橋の上に至る階段。中々いい味出してます。かつては橋の上を市電が走っており、もしかしたら市電の利用者がこの階段を上り下りしていたのかもしれません。
橋の上には市電の架線柱が今でも残されています。

東大路通りにある洋風の看板建築のお店。
アーケードが邪魔ですが、軒周りの装飾等確認できます。

URAGRO。東山区本瓦町。昭和初期。


京都市近代化遺産調査報告書では無表札となっており、10年ほど前は空きビルだったようですが、現在はアパレル関係の会社が利用しています。

玄関の窓越しに中を撮影。内部もオリジナルの姿を良く残されており、良い所有者に巡り合えたようです。

旧高山製陶所。東山区上梅屋町。明治39年。数少ない明治期の近代建築。

さすが明治期の建物だけあり、他の昭和期の建物と違い意匠的です。
1階のアーチ窓の装飾など凝ってます。

この煉瓦の装飾的な積み方が目を引きました。

旧熊倉工務店本社屋。東山区下新シ町。昭和初期。
戦前の京都にて多くの住宅建築を手掛けた会社の本社屋だった建物です。
町屋建築の正面を洋風のデザインに仕上げたどちらかというと看板建築の建物。
熊倉工務店設計の戦前住宅は北山の住宅街を中心に多く作られ現在も多数現存しており、中には国登録有形文化財になっている建物もあります。

京都の近代建築を語る上で重要な存在の一つの熊倉工務店。その記念碑的な旧本社屋ですが、宿泊施設になるという旨の看板がありました。しかしこの旧本社屋は国登録有形文化財に申請中らしく、とりあえず建物は維持されるようです。

続いて京都女子大学方面へ。錦華殿。大谷光瑞夫妻の新居として明治32年に建てられた洋館を平成12年に復元した建物です。忠実に復元されており、新しいですが良い建物。オリジナルが残されていたら間違いなく文化財指定されていたことでしょう。

M邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。錦華殿から奥に入った所にある洋館。

何となくあめりか屋っぽいデザインの住宅。

玄関にはアールデコ調のステンドグラスがありました。

H邸。東山区今熊野北日吉町。京都市近代化遺産調査報告書には該当の所有者の名前は載ってませんが、恐らく持ち主が変わったのでしょう。大正から昭和初期と思われる洋館付きの住宅です。

洋館の窓には装飾がありました。ステンドグラスではなさそうですが。

H・O邸。東山区今熊野北日吉町。先ほどのM邸の向かいの洋館。こちらも該当の所有者名がリストには無かったですが、持ち主が変わったと思います。2世帯の方が住まわれているようです。

結構モダンな建物です。

O邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。
中々素敵な洋館ですが、門から奥の方に位置しているため近くに行けないのが残念。

京都女子大学生活デザイン研究所。東山区今熊野北日吉町。

現在は京都女子大学の施設ですが、元は住宅だったのでしょう。

門は昔の雰囲気を残しています。

窓には装飾がありました。オリジナルかは分かりませんが。
建物は戦前のもののような気がします。

H邸。東山区上馬町。大正から昭和初期。大学の学生寮の向かいにある洋館。1階は和風のデザインになってます。庭木のせいで良く見えない…
京都女子大学界隈を離れ四条方面へ。

Y邸。東山区池殿町。大正から昭和初期。

元商店だったのでしょうか。アーチ窓と軒周りの装飾が素敵です。

旧新道小学校。東山区小松町。昭和12年。

京都市内のいわゆる番組小学校は次々と廃校になって行ってますね…
この旧新道小学校は現在はコミュニティーセンターとして再利用されているようです。

手越医院。東山区小松町。大正から昭和初期。ドイツスタイルの洒落た洋館医院。

戦前の個人医院ってオシャレな洋館が多いですよね。

N邸。東山区博多町。大正から昭和初期。背後のタイル張りの建物はどうやら倉庫だったようですが結構大きな建物です。元々は何のお店だったんだろう。

旧ぎおん梅村。東山区博多町。大正から昭和初期。

洋館部分はタイル張りとテラコッタの装飾が施され、3階バルコニーの手すりも装飾的で凝ってます。
元は旅館だったようで、和館部分は確かにその雰囲気を伺わせる造りです。

元は旅館だったものを元力士の方が買い取りちゃんこ料理を出す料理旅館として経営していたようです。京都市近代化遺産調査報告書には「ぎおん梅村」として掲載されており、昔の京都の旅館を紹介した本にぎおん梅村の経緯が書かれていました。10年前までは営業していたようですがいつの頃から廃業され、現在は売り物件になってます。
またレストランや宿泊施設などに再利用されればよいのですが。

T邸。東山区博多町。大正から昭和初期。

和館よりも大きめの洋館が付属しています。この辺りから人も車も増えてきました…

弥栄会館。昭和12年。国登録有形文化財。

有名な建物ですね。とにかく大きい。姫路城の意匠を取り入れたという建物は日本趣味建築といったところでしょうか。帝冠様式とも言えなくもないけどあまりそういう形では紹介されていませんね。

門も当時の物。弥栄会館が完成したころは自動車が普及し始めた頃で自動車が通れるくらいの幅と高さがあります。なので現在からみても大きな門です。

旅館東山ホテル。東山区祇園町南側。昭和初期。
背後は洋館の造りになってます。

場所は八坂神社のすぐ近くという好立地。しかも素泊まりですが1泊5500円からという安さ。
観光地からも近く、料金もお手頃でしかも近代建築のホテル。ただ、予約は多いでしょうね。

以上で東山区界隈の近代建築探索レポートを終わります。
実は見逃した建物があることが後から分かりまた機会を見て訪問しようかと思います。
それにしても祇園辺りはさすがに観光客でいっぱいだったなぁ。
次回はいよいよ熊倉工務店設計の住宅が多く残る北山か北大路あたりの探索結果をレポート予定にしております。
京都市右京区衣笠界隈の近代建築探索レポ日記
今回は京都市北区の衣笠界隈の近代建築を探索した時のレポートです。
ルートは花園駅から立命館大学方面を経由し金閣寺近辺まで。

まずは櫻谷文庫洋館。大正2年に建てられたもので、元々は日本画家・木島桜谷の住宅でした。

側面から。構造は木骨煉瓦造りで外壁はモルタル塗りです。

洋館の玄関部分は凝った装飾が。
櫻谷文庫は和館・洋館・画室が国登録有形文化財になっています。

櫻谷文庫から北上した所にある記念塔。

「紀元二千六百年記念 心身錬成」の文字が刻まれた大理石の銘板があります。
昭和15年の紀元二千六百年の記念碑等は全国で建てられ現存数も割とあるので
調べるのも面白いかもしれません。

北区衣笠総門町にある洋館。N邸。昭和8年に増岡建築事務所設計・熊倉工務店の施工により建てられたもので、国登録有形文化財の住宅です。

丸窓を多用した住宅で、京都の戦前洋館住宅で良く見られるスタイル。ベランダの燈籠のような照明が目を引きます。

正面2階の丸窓とアーチ窓にはステンドグラスがあります。

丸窓には三日月とフクロウをデザインした可愛いステンドグラスが。
こういうオシャレさいいですよね。

N邸。北区小山花ノ木町。昭和12年。大きなお屋敷です。

敷地内には洋館があります。

モルタル塗りで荒く仕上げた感じの外壁。塀で見えませんが玄関部分は装飾が施されてました。

北山文庫。北区衣笠馬場町。金閣寺の南隣にある元は加藤伍兵衛という方のお屋敷で、あめりか屋の設計・施工。広い敷地でこの正門から洋館までの長さは結構あります。


庭木越しに何とか見えるスパニッシュの洋館。大きな洋館でステンドグラスも確認できます。


20年くらい前に撮影した北山文庫の洋館。この頃は建物が見える場所まで行けました・・・。

金閣寺を過ぎ東方面へ。K邸。北区衣笠東尊上院町。昭和初期。あめりか屋設計の住宅です。

丸窓にはモザイク模様のステンドグラスがあります。

I邸。北区衣笠天神森町。昭和初期。わら天神の北隣にある洋館で、あめりか屋の設計・施工です。

煉瓦塀が敷地を囲んでいます。

アールデコ調の丸窓。

名前が出てしまいますが、当時の物と思われる表札が良いデザインだったので。
この界隈は、あめりか屋設計の住宅に何件も出会いました。

先ほどのK邸の近くにあるかなりの大きなお屋敷。

広い敷地には和風の建物が何件か建っています。

表札を見たら「島津一郎」の文字が。
もしかしたらというか、間違いなく島津製作所の創業者のお屋敷ですよねぇ。

W邸。北区衣笠北天神森町。昭和初期。

典型的な洋館付き住宅です。

K邸。北区衣笠高橋町。大正から昭和初期。

洋館付き住宅ですが、洋館部分が大きめです。

洋館の3階部分は戦後の増築っぽく見えますね。

南へ下った妙心寺道にある洋館付き住宅。しかしおまけ程度についているような洋館ではなく、立派なものです。

タイル張りの外壁にベランダ付きの2階建ての洋館はかつては応接用だったのでしょうか。
衣笠界隈の近代建築探索はこれで終了。
次回も京都市内の近代建築探索レポートの記事を書く予定です。
ルートは花園駅から立命館大学方面を経由し金閣寺近辺まで。

まずは櫻谷文庫洋館。大正2年に建てられたもので、元々は日本画家・木島桜谷の住宅でした。

側面から。構造は木骨煉瓦造りで外壁はモルタル塗りです。

洋館の玄関部分は凝った装飾が。
櫻谷文庫は和館・洋館・画室が国登録有形文化財になっています。

櫻谷文庫から北上した所にある記念塔。

「紀元二千六百年記念 心身錬成」の文字が刻まれた大理石の銘板があります。
昭和15年の紀元二千六百年の記念碑等は全国で建てられ現存数も割とあるので
調べるのも面白いかもしれません。

北区衣笠総門町にある洋館。N邸。昭和8年に増岡建築事務所設計・熊倉工務店の施工により建てられたもので、国登録有形文化財の住宅です。

丸窓を多用した住宅で、京都の戦前洋館住宅で良く見られるスタイル。ベランダの燈籠のような照明が目を引きます。

正面2階の丸窓とアーチ窓にはステンドグラスがあります。

丸窓には三日月とフクロウをデザインした可愛いステンドグラスが。
こういうオシャレさいいですよね。

N邸。北区小山花ノ木町。昭和12年。大きなお屋敷です。

敷地内には洋館があります。

モルタル塗りで荒く仕上げた感じの外壁。塀で見えませんが玄関部分は装飾が施されてました。

北山文庫。北区衣笠馬場町。金閣寺の南隣にある元は加藤伍兵衛という方のお屋敷で、あめりか屋の設計・施工。広い敷地でこの正門から洋館までの長さは結構あります。


庭木越しに何とか見えるスパニッシュの洋館。大きな洋館でステンドグラスも確認できます。


20年くらい前に撮影した北山文庫の洋館。この頃は建物が見える場所まで行けました・・・。

金閣寺を過ぎ東方面へ。K邸。北区衣笠東尊上院町。昭和初期。あめりか屋設計の住宅です。

丸窓にはモザイク模様のステンドグラスがあります。

I邸。北区衣笠天神森町。昭和初期。わら天神の北隣にある洋館で、あめりか屋の設計・施工です。

煉瓦塀が敷地を囲んでいます。

アールデコ調の丸窓。

名前が出てしまいますが、当時の物と思われる表札が良いデザインだったので。
この界隈は、あめりか屋設計の住宅に何件も出会いました。

先ほどのK邸の近くにあるかなりの大きなお屋敷。

広い敷地には和風の建物が何件か建っています。

表札を見たら「島津一郎」の文字が。
もしかしたらというか、間違いなく島津製作所の創業者のお屋敷ですよねぇ。

W邸。北区衣笠北天神森町。昭和初期。

典型的な洋館付き住宅です。

K邸。北区衣笠高橋町。大正から昭和初期。

洋館付き住宅ですが、洋館部分が大きめです。

洋館の3階部分は戦後の増築っぽく見えますね。

南へ下った妙心寺道にある洋館付き住宅。しかしおまけ程度についているような洋館ではなく、立派なものです。

タイル張りの外壁にベランダ付きの2階建ての洋館はかつては応接用だったのでしょうか。
衣笠界隈の近代建築探索はこれで終了。
次回も京都市内の近代建築探索レポートの記事を書く予定です。