2018年07月
2018年07月22日
舞鶴海軍工廠旧本館見学レポ日記

※画像は私の古写真・古絵葉書ブログより舞鶴海軍工廠の古絵葉書。
舞鶴海軍工廠は明治34年に舞鶴造船廠として設立したのを始めとして、明治36年に舞鶴海軍工廠に改編しました。大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府が舞鶴要港部に格下げされたのに伴い、舞鶴海軍工廠も舞鶴海軍工作部に格下げされましたが、昭和11年に再び舞鶴海軍工廠に昇格。以後戦後まで海軍工廠として存続しました。

現在、舞鶴海軍工廠の敷地や諸施設を引き継いでいるジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所には現在も旧海軍工廠時代の建物がいくつか残されそのまま使用されていますが、この明治35年に建てられた舞鶴館もかつて舞鶴海軍工廠の本館だった建物の玄関と主要部分のみ移築して記念館として保存したものです。
今回、舞鶴サマーフェスタのイベントの一つとして一般公開されたもので、普段めったに入れないだけに絶好のチャンスであり、見学に赴きました。

舞鶴海軍工廠旧本館前に置かれている装甲巡洋艦八雲の主錨。
八雲は明治33年に竣工した装甲巡洋艦で、日露戦争に参加。太平洋戦争も参加し戦争末期には対空砲を搭載。特別輸送艦としても働き終戦時も無事でしたが、昭和21年舞鶴海軍工廠を引き継いだ飯野産業により解体されました。

八雲主錨の横に置かれた発電所やクレーンの銘板や1号ドックの設備。

御紋章の鬼瓦。木造なんですね。

まずは工廠長室へ。

楕円形の大きなテーブルと工廠長の机が置かれています。旧本館で一番当時の面影を残す部屋。

部屋の隅にある小さなテーブル。

工廠長の机とZ旗。

天覧双眼鏡。

一旦戻り舞鶴海軍工廠時代に使用されていた道具等の展示室へ。これはボイラーの銘板。

・・・何かの機械(忘れた)

鋳物用のヘラ。

カナダ製発動機の銘板等。

鋲打ち工具。いわゆるリベット。

鋲打ちやその他の作業に使われたハンマー。

望遠鏡。

カンテラや蝋燭の照明器具とカッターの刃。

精分器。

熱交チューブ拡管器。

鋳物尺などの計測道具。

空気ハンマーとエアードリル。

リベット打ち用の道具。

電気溶接の道具。

気圧計。昭和10年のもの。

蒸気タービンの部品とモンキーレンチ。

論文と薬品。

舞鶴設計のディーゼルエンジンのピストン。

燃料弁とピストン。

鍛造用金敷。明治36年のもの。

鋲止めと電気溶接のフランジ。

グラビティ溶接器

鋲焼きコークス炉。リベットはこういった炉で熱して打っていました。

次の展示室には海軍工廠時代の工員作業服。手前の濃い色の作業服は上級工員。奥は一般工員。

旧海軍艦艇で使われていた時鐘。(何の艦艇かは不明)


引き揚げられた戦艦陸奥の鋼板。昭和18年に原因不明の爆発事故を起こして沈没した陸奥は戦後にいくつかが引き上げられ、記念館に展示されたり鋼材を再利用されたりしました。


舞鶴海軍工廠で建造された駆逐艦の進水記念絵葉書。

廊下に展示されていた明治42年作成の舞鶴海軍工廠と周辺の配置図。建物施設がかなり詳細に記されており、資料的にかなり重要なもの。この配置図で今回判明したものがあり、裏付けを取る成果を得ることが出来ました。
※旧舞鶴海軍特一号官舎・特二号官舎(高級将校用か)
この配置図、複製して販売して欲しいなぁ。

今回の見学では構内の自由行動は不許可で、シャトルバスで一気に旧本館のある高台にまで移動したため、旧舞鶴海軍工廠の建物群を見ることは出来ませんでしたが、(バス移動の途中で幾つか見れたけど、席の位置の関係で撮影できず)それでもわずかに工廠時代のものらしい構造物を見ることは出来ました。これは正門近くにあるコンクリートの貯水槽。

正門から見える工場棟。

これは私の古絵葉書ブログのものですが、絵葉書の右側に写る建物と同一と思われます。

北吸桟橋から旧舞鶴海軍工廠の煉瓦建物を望む。舞鶴海軍工廠旧本館だけでなく、工場棟の建物も見れるかもと期待してましたが、残念ながら無理でしたね。
それでも中々見学出来ないJMU内と一度は見て見たかった舞鶴海軍工廠旧本館。貴重な体験をすることが出来ました。また来年のサマーフェスタでも一般公開して欲しいです。
このあと、護衛艦の一般公開が行われている北吸桟橋へ。
みょうこう・ひゅうが・ましゅうを見学。



会場には師匠を始めとしたイラストや看板がw配布されていた団扇にも師匠がw
まぁ、そうなるな。
2018年07月16日
豊岡市・旧中江種造別邸(現・豊岡カトリック教会)レポ日記

5月の連休の際に兵庫県豊岡市の近代建築巡りをしたのですが、数多く残る近代建築の中でも特に素晴らしかったのが、現在豊岡カトリック教会となっている旧中江種造別邸でした。
中江種造は古河財閥の礎となった人物であり、古河財閥の創立者・古河市兵衛の顧問技師として足尾銅山などの経営に関わり、「鉱山王」の異名を持ちました。
この旧中江種造別邸は大正11年に生まれ故郷の豊岡市に建てたもので、昭和25年に豊岡市に譲渡。翌昭和26年に豊岡カトリック教会が購入し今に至ります。

ちなみに京都の邸宅も現存しており、寿山荘と呼ばれています。(非公開)

旧中江種造別邸の側面。

玄関部分。

玄関内部。扉が開いていたので覗いてみましたが人の気配はなし。横の呼び鈴を押すと奥から神父さんが出てきました。建物を見せて欲しいというと快くOK。増築部分の居住区域はお断りでしたが、増築部分は戦後のものでオリジナルではないので入る理由もありませんし、有難く洋館内を見学させていただきました。

玄関を入って左手にある会議室の洋間。シックな落ち着いた感じです。シャンデリアも当時の物かもしれません。

階段部分。

階段親柱の装飾。

2階階段室。

1階と2階の間の踊り場には。ステンドグラスがはめられています。

2階の洋間。天井部分がアールデコっぽいです。

2階の大広間は和室になっており、床の間・付書院・違い棚・天袋のある書院造となっています。
18畳敷きの広間で、襖を外すと隣の部屋と合わせて広い空間となり、恐らく来客たちと宴会などを行っていた部屋なのかもしれません。

広間の横は内縁となり、そこにも畳が敷かれています。

再び1階へ。かつてのサンルームらしき部屋がありました。

サンルームと思われる部屋にあるモザイクタイル。

サンルームから応接室へ。

応接室の天井。

旧中江種造別邸は戦後の礼拝堂と居住棟の増築のため壁が2ヵ所開けられている以外はオリジナルを良く保っていると思います。この日は私以外の来客は0。神父さんも洋館部分のみなら自由に見て回って良いとおっしゃり、居住棟へ戻られたので、貸し切り状態で1人静かな洋館内を堪能しまくりました。兵庫県の北端、地方都市の豊岡市にこれほどの西洋館が残されているのは貴重。帰り際に神父さんと文化財指定の予定は無いのかと尋ねたら、増築で穴を開けているから無理じゃないかと。私は洋館自体はオリジナルが良く保たれているからそんなことは無いと思いましたが。是非、文化財指定されて末永く保存されてもらいたいものです。
あと、突然の訪問にもかかわらず、親切に対応していただいた神父さんには厚くお礼を申し上げます。
私1人ということもあり、素晴らしい洋館をおよそ1時間余り十分堪能できました。
2018年07月15日
船岡山公園に残る近代化遺産

京都市北区にある船岡山は古くは室町時代に応仁の乱の際の西軍の本陣が置かれたり、船岡山合戦が行われた歴史的な場所であり、織田信長を祀る建勲神社も存在します。
その船岡山ですが、昭和10年に船岡山公園として整備され開園しました。現在も船岡山公園には当時の構造物が多く残されています。
各構造物の場所は上記の地図を参照してください。

最初に訪れたのは船岡山公園北門。

右側の門柱。

左側の門柱。かつては電灯が設置されていたと思われます。

北門の奥にある噴水跡。

あまり装飾はないですが、かつては水を噴き上げていた噴水。目を引いたことと思います。

北門から西のエリアに登った箇所にある街灯。大徳寺に近く建勲神社もあることから、燈籠型の和風のデザインとなってます。これと同じデザインの街灯は船岡山公園一帯にいくつも存在します。

上記の街灯の近くにある構造物。はっきりとはわかりませんが、構造的に噴水か水飲み場・手洗い場、もしくは池だった気がします。

船岡山公園西門。北門と同じデザインですが、電灯部分にスクリーンが残されています。北門にもかつてはあったのでしょう。

西門からグラウンドに入った所の突き当りにある構造物。京都市近代化遺産調査報告書では「旧電灯台座」となっていますが、形状からこれは壁から水が出てくる造園施設「壁泉」ではないでしょうか。

真ん中に水が出ると思われる穴があります。その手前には水を溜める池と思われる低い区画が造られています。

※参考写真・イギリスの庭園の壁泉。KOMERI.COMより。

壁泉の両脇には階段があります。これも当時の物。

階段を上がった場所、ちょうど壁泉の真上にはラジオ塔が残されています。
ラジオ塔とはまだまだラジオが高価だった昭和初期頃にラジオの普及を目的として公園などに設置されたもので、格子になっている場所にラジオが設置され、人々が集まると鳴らされました。
京都市内には船岡山公園のラジオ塔を含め7か所現存しています。

※参考1・京都市北区、小松原児童公園内のラジオ塔。

※参考2・京都市左京区萩児童公園内のラジオ塔。

※参考3・京都市北区紫野柳公園内のラジオ塔。
その他、円山公園・八瀬公園・橘公園に現存しています。

ラジオ塔と野外音楽堂(昭和34年建設)から船岡山山頂へ登るとひときわ目立つ建造物があります。
これはサイレン塔と呼ばれるもので、公園完成時のものかはわかりませんが、戦前のものであるのは確かで、戦時中は空襲警報を鳴らし(船岡山公園近くの西陣地区で空襲があった)戦後は正午のサイレンを鳴らしていたそうです。

サイレン塔のアップ。

サイレン塔の内部。現在は使われておらず何もありませんが、サイレンの機材類があったと思われる箇所が左側に残されています。

サイレン塔の側にある街灯。最初に見たものと同じデザインです。

街灯の横にある戦前のものと思われる方位盤ですが、すり減っていて判読不可能です。

サイレン塔から建勲神社方面に向かうとある構造物。これは国旗掲揚台だったものです。
正面部分がつぶされてますが、かつては国威宣揚的な文字が刻まれていて、戦後に潰したのだろうと思われます。

国旗掲揚台の背面。くぼみが付けられ、かつてはここに国旗を掲揚するためのポールがあったと思われます。船岡山は心霊スポットとしても知られ、正体の知らない人はこの国旗掲揚台を得体のしれない不気味な曰くつきのものとして紹介してますが、正体を知ればなんてことはないものです。

国旗掲揚台近くの街灯。これまでのものと同じデザインのものですが、ここで面白いものを見つけました。

地面に露出した配線。

その配線が街灯に向かって伸びています。かつてはこの街灯は電灯だったことが伺えます。
船岡山公園内は戦前の公園施設が良好に多数残る箇所で、戦前の公園施設を実際に見学できる恰好の場所であります。可能なら残る噴水や壁泉や街灯等を復活させてほしい気もありますが、中々厳しいでしょうね。せめてこれらの構造物を船岡山公園の歴史として末永く保存して欲しいです。
2018年07月14日
舞鶴市・下安久弾薬本庫跡探索レポ日記

舞鶴市下安久地区には、かつて陸軍所轄の舞鶴要塞の各砲台へ弾薬を供給するための弾薬本庫がありました。弾薬本庫は匂崎公園(ここもかつて演習用の砲台だった)を過ぎた府道565号線沿いの向かって右手にある山一帯にあり、今でもいくつか遺構が残されています。

弾薬本庫のあった山の手前の海岸に先端が崩れかけた古い石積みの桟橋があります。これはかつて弾薬庫から弾薬を積みだすための桟橋でした。

先の方には、係留ロープを結ぶための石製ボラードが2つ残されています。

旧桟橋は下安久弾薬本庫遺構の中で現在、一番分かりやすく良く残されている遺構かと思われます。
よくこの桟橋で釣りをしている人を見かけますね。

旧桟橋の向かい側、府道を挟んだ場所に民家がありますが、ここが下安久弾薬本庫の正門でした。
山側と田んぼ側の石の擁壁、スロープ、そして正門の門柱は当時の物。

正門から奥に向かって道が延び、現在国際埠頭へと延びる道の切通しの近くの山裾に当時の兵舎等の建物跡の基礎や煉瓦の土台等が残されています(2019年4月27日探索 。後日記事作成予定)。また正門の側にある民家の主屋は当時の営舎と言われています。

コンクリート製のかつての正門の門柱。現在はテレビアンテナが付けられていました。

弾薬本庫のあった山の道路沿いの裾には弾薬本庫時代の石垣の擁壁が残されています。

石垣の隅部分。

石垣には切れ目があり、そこから弾薬本庫のある山に入れたようですが、今では荒れ果て近寄れない。

石が柱状に加工され、側面に穴の開けられた石製のもの。資料では立ち入り禁止のための鉄柵の石柱とあります。

別の石垣の擁壁の切れ目を覗くと奥に建物が見えました。

当時の物と思われる石垣上には古い廃屋がありました。

近づいて撮影。古い建物ではありましたが、下安久弾薬本庫に関する建物かどうかは不明です。



弾薬庫のあった山中には、軍の境界石柱や門柱等の遺構が残されていると資料にはあり、昭和22年の米軍写真にも山裾に大型の建物が写ってたことから、再探索(2019年4月27日 )したところ、山裾の山中にコンクリート基礎の建物や石積擁壁の土塁、煉瓦積みの土台等多数の遺構を確認しました。後日探索レポ日記を作成し報告します。