2019年01月

2019年01月27日

鈴鹿市・亀山陸軍病院跡〜第一航空軍教育隊跡〜北伊勢陸軍飛行場跡探索レポ日記

去年10月(2018年10月21日)に三重県鈴鹿市にある亀山陸軍病院・第一航空軍教育隊・北伊勢陸軍飛行場の遺構群の探索を行いました。
鈴鹿市には他にも鈴鹿海軍工廠や鈴鹿海軍航空隊等の旧軍遺構が残されており、うち鈴鹿海軍工廠の方は探索を終えレポ日記を書いています。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
探索行程













今回の探索ルート。
加佐登駅を出発し、まずは亀山陸軍病院の跡地へ。
亀山陸軍病院は昭和16年に開設した近隣の北伊勢陸軍飛行場や翌年開設の第一航空軍教育隊によりそれらの患者を収容するために昭和18年に開院した陸軍病院で、全国にあった陸軍病院の中では比較的新しいものでした。戦後、亀山陸軍病院は鈴鹿病院の敷地となり当時の建物は残されていませんが、外周にいくつか遺構が残されています。
1亀山陸軍病院東門外側から










亀山陸軍病院東門。
2亀山陸軍病院東門内側から










コンクリート製のシンプルなものです。
3亀山陸軍病院東土塁内側より










4亀山陸軍病院東土塁外側より










正門から東門にかけて境界の土堤があり、かつては外側の畑地の中に境界石があったようですが、現在その場所は住宅の造成地となり、境界石は見つけられませんでした。
9亀山陸軍病院北土塁外側から










北側敷地にも土堤は残されています。
6亀山陸軍病院境界石柱1













周囲には陸軍境界石がいくつか残されています。まずは正門前の駐車場敷地に埋もれている境界石。
7亀山陸軍病院境界石柱2













正門近くの民家横の花壇の中にある境界石。
8亀山陸軍病院境界石柱3













同じく花壇の中にある境界石。
10亀山陸軍病院境界石柱4













北側土堤側の境界石。
亀山陸軍病院境界杭位置












今回確認した境界石の配置図。このほかにも西側竹林内等にも境界石が残されているようです。

次に向かったのが、第一航空軍教育隊の跡地。
昭和17年に幹部候補生や下士官の教育部隊として開設されたもので、営舎等の施設が建ち並んでいました。
第一航空軍教育隊航空写真











※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の第一航空軍教育隊の航空写真。いくつかの建物が建ち並び、格納庫らしき建物も見えますが、基礎だけのままの場所もあり、いくつかは未完成だったようです。
戦後、跡地は住宅街や畑地となりますが、いくつかの分厚いコンクリートの基礎や建物は撤去されず、そのまま残されています。
11第一航空軍教育隊自動車庫基礎1










自動車車庫の基礎。コンクリートのベタ基礎です。
12第一航空軍教育隊自動車庫基礎2










仕切りがあり、それぞれの車が収まる様になってます。
13第一航空軍教育隊自動車庫柱基礎










生垣になっている箇所にはボルトのある基礎らしきコンクリート柱があります。
14第一航空軍教育隊貯水槽1










自動車車庫跡から北に進むと向かって左手に貯水槽があります。
15第一航空軍教育隊貯水槽2










現在は水は無く、土が溜まった状態で放置されています。
17第一航空軍教育隊特殊講堂基礎2










講堂の基礎。ここで様々な講義とか行われてたのでしょうか。
畑地の中に残されてますが、分厚いベタ基礎なので撤去できずにそのまま残されたようです、
23第一航空軍教育隊特殊講堂基礎5










ベタ基礎の上にさらに基礎があり、束石が並んでいます。
18第一航空軍教育隊特殊講堂基礎3










コンクリートの基礎の上には古い木造の倉庫が建てられています。
20第一航空軍教育隊の建物か2










第一航空軍教育隊の当時のままの建物ではないでしょうが、建物の部材や造り自体は古いです。兵舎等の建物は戦後の復興資材として住宅などに再利用されたようですから、もしかしたら第一航空軍教育隊の建物を再利用したものかもしれません。
24第一航空軍教育隊弾薬庫1










さらに北に進んだ場所、第一航空軍教育隊の敷地北端に当たる場所にかつては弾薬庫が5棟並んでおり、うち1棟が現在も畑地の中に残されています。
25第一航空軍教育隊弾薬庫2










コンクリート製の建物で、弾薬庫らしく頑丈な造りです。
26第一航空軍教育隊弾薬庫3










裏側から。何故か1棟だけ残されてますが、ともあれ第一航空軍教育隊の遺構で唯一残された確実に当時の建物と言える遺構です。
27第一航空軍教育隊弾薬庫内部1













内部。どうやら2段の棚があったようです。
28第一航空軍教育隊弾薬庫内部2










現在は物置になってます。
30第一航空軍教育隊塀支柱か2










弾薬庫の前に置かれた塀の支柱と思われるコンクリート柱。弾薬庫を囲んでいたのでしょうか。
31第一航空軍教育隊水路橋1










34第一航空軍教育隊水路橋2










35第一航空軍教育隊水路橋3










当時の水路と水路に架かるコンクリートの橋もいくつか残されています。
33第一航空軍教育隊水路水門2










第一航空軍教育隊当時の物かは分かりませんが、水門もあります。
36第一航空軍教育隊基礎1










格納庫の基礎。コンクリートの撤去は困難なので、大規模な造成が無い限りはずっと残り続けるでしょう。

第一航空軍教育隊跡を後にし、次は北伊勢陸軍飛行場跡へ。
北伊勢陸軍飛行場は岐阜陸軍飛行学校の分教所として昭和16年に開設。昭和18年に明野陸軍飛行学校の分教所へと改編されます。昭和19年からは教育部隊ではなく実戦部隊が配備され特攻隊の部隊も配備されていました。
北伊勢陸軍飛行場航空写真









※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の北伊勢陸軍飛行場航空写真。
南側の一角に兵舎や格納庫の建物が写ってます。
戦後、北伊勢陸軍飛行場の跡地は滑走路敷地は畑地や住宅地・古河電気工業の敷地に、兵舎等の敷地は川崎小学校等の敷地となっています。
37北伊勢陸軍飛行場掩体壕1










まずは有名な遺構である北伊勢陸軍飛行場掩体壕へ。
39北伊勢陸軍飛行場掩体壕3










北伊勢陸軍飛行場唯一のコンクリート製掩体壕で、完成直前で終戦を迎えたようです。
40北伊勢陸軍飛行場掩体壕4










北伊勢陸軍飛行場の遺構ではほぼ完全に残されたものであり、国登録有形文化財となっています。
42北伊勢陸軍飛行場掩体壕内部










内部は相当広いです。こちらもやはり物置に。
46北伊勢陸軍飛行場の旧建物か1










掩体壕を後にして格納庫のあった南側へと向かう途中、元滑走路敷地内に見つけた古い木造建物。
47北伊勢陸軍飛行場の旧建物か2










北伊勢陸軍飛行場の建物だったかは分からないが、建物も基礎のコンクリートも戦前の物ではないかと思う相当古いので、もしかしたら再利用したものではないかと思い撮影。
48北伊勢陸軍飛行場の旧建物か3










さらに南に下った先、格納庫跡の近くにあった建物。
49北伊勢陸軍飛行場の旧建物か4










壁部分は新たにコンクリートブロックで造ったものだが、屋根部分は明らかに戦前ではないかと思われる古い造り。こちらも北伊勢陸軍飛行場と関係あるものかは分からないが、再利用している可能性もあるので撮影。
50北伊勢陸軍飛行場駐機場か










駐機場だったと思われる場所。現在は何もありません。
51北伊勢陸軍飛行場格納庫支壁










第一格納庫の支壁。かつてはこのコンクリートの壁の上に木造の格納庫の躯体が乗っていたようです。北伊勢陸軍飛行場の格納庫は9つあり、鉄骨造の1棟を除いてあとは全て木造でした。
52北伊勢陸軍飛行場燃料庫










川崎小学校西側の畑地に残る燃料庫。以前は2棟並んであったようですが、南側は宅地として造成されたせいか、もう1棟は失われていました。
53北伊勢陸軍飛行場正門










川崎小学校の正門となっている北伊勢陸軍飛行場正門。この奥の小学校敷地にかつては兵舎が建ち並んでいました。ちなみに兵舎の一部が移築され公民館として使用されていますが、時間(と体力)の都合で今回は断念。

今回の行程は総距離15km。結構疲れましたが有意義な探索となりました。


besan2005 at 10:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年01月19日

京田辺市・三山木海軍火薬製造所跡探索レポ日記

航空写真









本日は京都府京田辺市にある三山木海軍火薬製造所跡の遺構群を探索してきました。
三山木海軍火薬製造所は元々は大正10年に設立した大日本火薬工業という民間企業で、第一次大戦後に倒産しましたが、山城火薬が引き継ぎ操業をしていました。大日本火薬工業も山城火薬も海軍からの払い下げの火薬を使用して製品を製造していたため、民間企業ではありましたが軍との密接な関係にあり、アジア歴史資料センターの資料では頻繁に陸海軍の軍人が視察に訪れています。
満州事変勃発後は軍の火薬の消費が大幅に増え、火薬の払い下げが受けられなくなったため、日曹火薬に吸収されました。そして昭和19年に海軍に移管して海軍直営の火薬工場になった・・・と手持ちの書籍にはありますが、どうやら海軍の直営ではなくフォロワー様によれば昭和18年に関東電気興業という企業に買収され昭和19年に軍需工場に指定されたそうで、舞鶴にあった第三火薬廠の指導の下に製造していたようです。つまりは海軍の指導と委託を受けて火薬製造をしていた民間企業の工場だったという事になりましょうか。ここでは一応「三山木海軍火薬製造所」と呼称しておきます。
昭和23年航空写真







国土地理院公開の昭和23年米軍撮影の三山木海軍火薬製造所の航空写真。三山木海軍火薬製造所は終戦後に閉鎖されたようですが、当時の写真では諸施設がはっきり写されており、現在も山中に当時の施設の遺構が良好な状態で残されています。今回はそれらの遺構群を探索してきました。
三山木工場 地図









※お世話になっているフォロワーさんの盡忠報國様(ブログ・大日本者神國也)より提供を頂いた図面を元に探索した遺構群を紹介していきます。
1三山木海軍火薬廠道










京奈和道の高架をくぐり少し進むと(それまでにある釣池と京奈和道との間に事務所跡の石垣があったようですが見当たりませんでした。)酷い藪が。薮の中を何とか突き進むと開けて広い道に出ます。これが火薬工場へと向かう道でした。
2三山木海軍火薬製造所貯水槽










3三山木海軍火薬製造所貯水槽










薮を抜けてすぐの道の側にある貯水槽(地図に記載は無し)。火薬工場の本体からは結構離れているので三山木海軍火薬製造所のものかは分かりませんが、コンクリートの打設の感じや質感を見ると戦前の物のように見えます。
4三山木海軍火薬製造所火薬庫前広場










さらに進み、途中で東に折れ進んでいくと開けた場所に出ます。この道を挟んだ両側に防爆壁の土塁に囲まれたコンクリートの火薬庫の遺構が残されています。
5三山木海軍火薬製造所北火薬庫










北側の火薬庫(地図 法H床したコンクリート造の火薬庫が残されています。
6三山木海軍火薬製造所北火薬庫










反対側から。どうも意図的に破壊されたようにも見えます。
7三山木海軍火薬製造所北火薬庫窓










火薬庫の窓。窓の木枠が残されています。
8三山木海軍火薬製造所北火薬庫貯水槽










火薬庫の脇には小型の貯水槽があります。防火水槽でしょうか。
9三山木海軍火薬製造所北火薬庫土塁










火薬庫を囲む防爆壁の土塁はコの字の中にTの字の形で仕切りのように配置されており、入り口部分はまるで中世城郭の食い違い虎口のようです。
10三山木海軍火薬製造所南火薬庫土塁










次に向かいの南側の火薬庫へ。
11三山木海軍火薬製造所南火薬庫










南側の火薬庫(地図)。こちらは屋根が失われてますが、躯体のコンクリートの壁は完全に残されています。
12三山木海軍火薬製造所南火薬庫










反対側から。火薬庫という性質上、屋根は薄めに作って爆発事故が起きた際に爆発エネルギーが上に抜けるようにしたのでしょう。窓が多いのも壁に圧力をかけず窓から抜けるようにしたのかも。
13三山木海軍火薬製造所南火薬庫土塁










隣の区画の火薬庫へ。
14三山木海軍火薬製造所南火薬庫










15三山木海軍火薬製造所南火薬庫










こちらの火薬庫(地図ぁ砲盒軋里牢袷瓦忙弔気譴討い泙后K迷Δ硫侈庫だけ何故破壊されたのでしょうか。こちらも北側の火薬庫と同じく脇に防火水槽と思われる貯水槽がありました。
16三山木海軍火薬製造所道路土塁










 銑い硫侈庫を過ぎ、真っ直ぐに伸びる道路を進んでいきます。道の両側には区画を分けるためと思われる土塁が延びています(地図に記載なし)。地形的に平坦地が続き何かしらの整地の後が見られたため、土塁の向こう側に工場施設が並んでいたのではと思いましたが、昭和23年の航空写真には何も写されていません。
17三山木海軍火薬製造所火薬庫への道










しばらく進むと分かれ道に到達。そこから北に延びる道を進みます。最近伐採された後があり、道は切り開かれていて容易に進めました。地元で見学会等が行われていたのかその際の伐採と思われ、何はともあれ有難いことです。
18三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口










道を進んで最初に現れる煉瓦造の入り口(地図ァ櫂◆法
20三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口










反対側の土塁区画内部から。
19三山木海軍火薬製造所煉瓦造入り口退避所










煉瓦の躯体は一部が凸型にへこんでいます。これは後述する退避所と思われます。爆発事故の際にエネルギーがトンネルに抜ける際に脇へ退避する場所のようです。しかしここはトンネル型ではない煉瓦造の出入り口。もしかしたら古い時期の遺構なのかもしれません。
22三山木海軍火薬製造所火薬庫道










先述の煉瓦造の遺構から道の両脇に防爆壁の土塁が延び、それぞれコンクリートのトンネルが8ヵ所開けられ、地図Α銑の火薬庫があった区画へとそれぞれ進入できるようになっています。
23三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道










火薬庫へのコンクリート造のトンネル(地図-イ)。トンネルの前には袖壁が出ています。
24三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道内部










トンネル内部。
25三山木海軍火薬製造所火薬庫隧道退避所










トンネル内部は凸型にへこんでおり、ここは爆発事故の際に退避する退避所のスペースだったようで、手前に溝が掘られており、ここに退避所に入る木製の扉があったと思われます。しかし、爆発事故の際、ここに逃げ込む余裕があるのでしょうか・・・
26三山木海軍火薬製造所火薬庫道










北東側から道路と防爆壁のトンネルを望む。手前のトンネルは地図-ケ。トンネルは8ヵ所あり、全て同じ構造になっています。両脇に並ぶ防爆壁とトンネルは圧巻で見ごたえがあります。
27三山木海軍火薬製造所貯水槽










北側に折れる道を進んでいくと田の字型のコンクリートの貯水槽があります(地図㉔)。
28三山木海軍火薬製造所貯水槽










薮に覆われ見づらいですが、田の字型の大きな貯水槽が2つ並んでいます。
この近くに土塁に囲まれた一画があるようですが、藪で確認できず。また、さらに進んだ所にも遺構があるようですが、めぼしい感じではなさそうなのでスルー。
29三山木海軍火薬製造所南火薬庫










来た道を戻り、南側にある田の字型の火薬庫群(地図〜院砲悄ここも前述のようなトンネルを持つ防爆壁に囲まれた場所のようですが、進入路すら確認出来ない有様。諦めてその東にある遺構(地図押砲惴かいましたが、進入路は確認できたものの、ひどい藪で進めず…
31三山木海軍火薬製造所南火薬庫航空写真










Googleの航空写真では2ヵ所ともはっきり写っているので、確認できると思ったのですが…
30三山木海軍火薬製造所残骸










近くにはかつての火薬庫か施設らしきコンクリートの残骸が放置されていました。
さらに西側の遺構(地図)の遺構を目指すも結局わからず断念。
いつくかの遺構を確認することが出来ず残念な結果もありましたが、良好に残る貴重な火薬製造所の遺構を見ることができ満足しました。
しかし、伐採された箇所も笹竹なので1年もすればまた元通りになることは明白。南側の遺構も含めて伐採作業が継続されれば有り難いのですが中々難しいでしょうね・・・。
何とかこれらの遺構を活用する手があればよいのですが。


besan2005 at 22:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月06日

福知山・旧工兵第十大隊境界石レポ日記

2018年の年末から年明けの旧軍遺構探索レポ日記の最後は、福知山工兵第十大隊の背後の山中にある陸軍境界石のレポ日記といたします。
陸軍省所轄地境界石位置







境界石の位置関係。かつて工兵第十大隊の敷地だった場所にある福知山成美高校の背後の山中に残されていました。ここの山中を探索した理由ですが…・
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










以前ツイッターで「工兵の演習陣地」が残されているという情報を知り、この遺構を全く知らなかった私は興味を引かれ、是非探索してみたいと思い工兵の演習陣地なら背後の山中にあるのだろうと想定をして向かったのでした。
・・・結局この工兵の演習陣地はここには無く、全く別の場所にあったわけですか。
改めて情報の発信元の方に凡その場所を教えてもらい、年明け1月2日に無事探索することが出来ました。その時の探索レポ日記を書いてますのでリンクを貼っておきます。

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

演習陣地は要塞に見立てた煉瓦の壁だけでなく演習用陣地としての土塁や空堀を備えた見事な遺構で貴重なものと思われました。

さて、その演習陣地を求めて福知山成美高校の山中に入ったわけですが、目当ての物は全く別の場所だったので当然見つけられなかったものの、副産物的に陸軍境界石を3つほど確認することが出来ました。
15工兵第十大隊境界石













1つめ。「陸軍省所轄地」の文字が刻まれた境界石。「地」の部分が埋もれています。
16工兵第十大隊境界石













2つめ。こちらも「陸軍省所轄地」の文字。同じタイプ。
17工兵第十大隊境界石










3つめ。こちらも同じタイプ。倒れ掛かってます。
これら3つの境界石はだいたい数十メートル間隔で並んでおり、現位置を保った貴重なものだと思われます。
旧工兵第十大隊の境界石はいつも参考にさせてもらっているサイトによると、この「陸軍省所轄地」の境界石の他に「陸境」の文字のもあるようです。その辺はまたいずれ。

工兵第十大隊は大正14年に宇垣軍縮で岡山に移駐し、工兵大隊跡の建物は長田野に演習に来た部隊の演習廠舎となり大阪の第四師団の管轄下となります。
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祖父の軍人日記(昭和14年9月21日)にも「工兵営から(演習に来ていた)歩兵七十連隊(篠山連隊)が行軍してきた」とあります。
14工兵第十大隊兵舎










戦後、現在の福知山成美高校に払い下げられますが、現在も兵舎の一部や将校集会所と思われる建物が残されています。
工兵第十大隊営門001








かつては福知山成美高校のグラウンドの北側、JR官舎の側に北門と思われる煉瓦の営門の門柱がありました。今回10数年ぶりに確認しましたが、一帯が再整備されたせいか、門柱も失われていました。
実は私が中学生の頃、まだ福知山商業高校時代に受験で入ったことあるのですが、その当時はまだ大隊本部が残されており、内部も階段の手すりや室内がほぼ旧軍時代のままだったのを覚えています。今にして思うと少しでも写真を撮っておけばよかったなと悔やむばかりですね。


besan2005 at 07:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月05日

福知山海軍航空基地(石原飛行場)遺構探訪レポ日記

石原飛行場配置図








※画像は日吉コミセンの説明板より。福知山海軍航空基地の配置図。
去年(2018年)の大晦日に福知山市にかつて存在した海軍福知山航空基地の遺構を探索してきました。
福知山海軍飛行場は戦争末期の昭和19年10月に用地買収が始まり、昭和20年6月にようやく滑走路が完成しました。滑走路は金網で覆った上にコンクリートで舗装をした大規模なもので、戦後に返還され農地へと戻そうとした際、かなり苦労したようです。飛行場の敷地は石原地区と土地区にまたがる広大なものでした。
福知山航空基地米軍写真






※国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。
昭和22年米軍撮影による空撮。長大な滑走路と周りに無蓋掩体壕が見られます。
現在遺構はほとんど残っておらず、一部が移築された搭乗員退避壕と完全な形て残されている飛行場指揮所壕、格納庫と言われている工場の建物が残る程度です。(一部山中に壕があるようですが。)
今回は石原地区の飛行隊指揮所壕と格納庫と言われている建物を訪問してきました。
1福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕










石原地区の竹林の中に大きなコンクリート構造物が見えます。これが福知山航空基地の飛行隊指揮所壕です。
2福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕迷彩跡










コンクリート壁には黒色の迷彩塗料が残されています。
3福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口










西側入り口。壕の入り口の前には防禦用の壁があります。
6福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕東入り口










東側入り口。西側と同じ造りでシンメトリーとなっています。
4福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕西入り口通路










西側入り口から通路。当然中は真っ暗で、こういうのが苦手な私は最初の一歩を踏み出すのが中々・・・
5福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内西から










飛行隊指揮所壕内部。西側からの撮影。内部は中々の広さです。かつては福知山航空基地の海軍航空隊の司令施設があったのでしょうが、今ではコウモリの巣になってます(個人的にコウモリも苦手・・・)
それよりも目立つのが壁の落書き・・・。地元の若者というかDQNが肝試しの際に書いたのでしょうが、他の旧軍遺構でも「心霊スポット」という馬鹿げた噂でやって来た価値の分からない輩にこういった貴重な遺構が荒らされるのは許しがたいものがあります。そういえば舞鶴第三火薬廠の成形工場の壁にも落書きがあるらしいし…。
7福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕内東から










東側からの撮影。左上の壁に換気口の穴があります。こういう場所が個人的に1人ではどうも苦手なので奥には入らず。
福知山海軍航空基地飛行場指揮所平面図







飛行隊指揮所壕の平面図。だいたいこんな感じでした。
8福知山海軍航空基地飛行場指揮所壕土塁










飛行隊指揮所壕の周りには土塁が築かれています。
現在、福知山海軍航空基地の遺構で完全に残されているのはこの飛行隊指揮所壕のみですが、かつては土地区の畑の中にコンクリート造の搭乗員退避壕がありました。
13石原飛行場跡待避所










※2005年頃の撮影。
畑の中にこのような蒲鉾型のコンクリートの壕がぽつんと残されていました。中を覗いたり上に登ったりした遺構でしたが撮影したのは1枚だけ。この後解体されることを知ったらもっと撮影していたのですが・・・。現在入り口の部分だけが日吉コミュニティーセンターの敷地に保存されています。

次にスーパーなどの商業施設が並ぶ一角の背後にある福知山海軍航空基地の格納庫と言われている建物を訪問。
9福知山海軍航空基地格納庫










10福知山海軍航空基地格納庫










11福知山海軍航空基地格納庫










こちらが格納庫と言われている建物ですが詳しくは分かりません。可能性があるという程度。
確かに建物の形はそんな雰囲気に見えますが。
昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地2













※アジア歴史資料センター所蔵「昭和20年9月 引渡目録並要図 福知山航空基地」より引用。
アジア歴史資料センターの資料の引き渡し目録によると、福知山海軍航空基地には海軍の局地戦闘機の紫電一一型と紫電二一型。「白菊」など海軍の練習機。そして陸軍の練習機も配備されていたようです。


besan2005 at 10:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府

2019年01月02日

福知山市・陸軍演習陣地跡探索レポ日記

福知山陸軍演習陣地見取り図001









ツイッターでのフォロワーさんより教えていただいた福知山市にある陸軍での演習に使われていたと思われる陣地の遺構群。そこには煉瓦造の城壁に見立てた壁が残されていると聞き、具体的な場所を教えてもらい探索してきました。この遺構に関しては、まず知られていない旧軍遺構であり、私自身初めて知った遺構でありました。上図は帰宅後に記憶を頼りに作図した福知山・陸軍演習陣地跡見取図。思い出しながらの作図なので正確だとは言えませんが、だいたいこんな感じだったと感じていただければと思います。
工兵作業場地図001










昭和3年の地図を見るとこの場所は「旧工兵作業場」と書かれています。
(画像は所有する福知山五万分の一地形図より。)
福知山にはかつて現在の福知山成美高校の場所に工兵第十大隊がありましたが、大正14年に移駐しました。工兵第十大隊が駐屯していた頃は陣地攻略の演習場として利用されていたと思われますが、移駐後の昭和4年の地図には「旧工兵作業場」の表記となっており、昭和戦前期も利用されていたかはわかりません。
1福知山市陸軍演習陣地大穴










当初煉瓦遺構があると想定した場所へ進入すると陣地構築であろういくつかの地形の改変があり、その東側に大きく掘りくぼめた箇所がありました。
2福知山陸軍演習陣地大穴










何の用途で掘られたのかは不明ですが塹壕のようなものだったのでしょうか。
3福知山陸軍演習陣地空堀










先ほどの大穴から東に進むと長細く掘りくぼめた箇所が。いわゆる空堀状になっており、空堀の両脇は土塁となっています。
7福知山陸軍演習陣地空堀










反対側からの撮影。左側が南になります。
4福知山陸軍演習陣地北土塁










北側の土塁。所々切れ込みが入っています。
5福知山陸軍演習陣地南土塁










南側の土塁。道路に面した部分で土塁上から空堀を眺めるとそこそこの高低差があります。
ここの空堀と土塁は日露戦争で悩まされた旅順要塞に見られた要塞や陣地の空堀を想定としたもののような気がします。日露戦争時、突撃により空堀の底に進入して身動きが取れなくなった日本軍に対し、ロシア軍は機関銃を浴びせ次々と倒されていきました。この演習陣地が何時作られたのかは不明ですが、この空堀の底から南側の土塁上に向かって這い上がっていく訓練がされていたのではないでしょうか。
6福知山陸軍演習陣地北通路










空堀の突き当りの端には細い道のような部分がありました。
8福知山陸軍演習陣地通路か










一旦戻り、最初の大穴の西側へ行くと、陣地遺構のある丘陵へ進入できる道がありました。当時の物かは不明ですが、右側の斜面の整地の丁寧さを見るともしかしたら陣地時代に作られたものかもしれません。
9福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










先ほどの空堀のある丘陵一帯に目指す煉瓦の構造物があるのではと探索しましたが見つからず、一旦道路に出て北東に向かって丘陵を眺めながら歩いていると丘陵上に何か構造物が。山中に進入して見ると遠くに煉瓦の壁が。目的の煉瓦の構造物に辿り着くことが出来ました。
11福知山陸軍演習陣地煉瓦壁下土塁










煉瓦の構造物は丘陵の最高所に構築され、煉瓦構造物の正面に当たる位置の麓にはコの字に作られた土塁の陣地がありました。
10福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










高所にある煉瓦壁。
12福知山陸軍演習陣地煉瓦壁










反対側から。煉瓦壁は南北に2つ並ぶようにに建っています。
14福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁










北側の煉瓦壁。
16福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁銃眼










壁には銃眼と思われる穴が1つあけられていますが、煉瓦の積み方が丁寧な割に銃眼は雑に開けられています。
17福知山陸軍演習陣地北煉瓦壁穴










何かを取り付けていたらしき4つの穴。
15福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁










南側の煉瓦壁。
18福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁銃眼










こちらは縦長の銃眼が3つ開けられています。
北側の煉瓦壁の銃眼と同じく雑に開けられています。
あと、何かを取り付けていたような貫通しない穴がいくつか開けられています。
13福知山陸軍演習陣地南煉瓦壁上部










南側の煉瓦壁の上部は屋根のように三角の山型になっており、モルタル塗りになっています。
IMG_0678










煉瓦壁の背後は兵が駐屯できるように周りを削り込み平地に加工した地形になっています。
19福知山陸軍演習陣地個人塹壕か










煉瓦壁のある陣地の前方を守るコの字型の土塁の南には小規模の穴が並ぶ箇所がありました。個人用の塹壕でしょうか?
煉瓦陣地













これらの遺構群をまとめてみると、この演習陣地での攻め手と守り手の位置関係はこんな感じではないでしょうか。青色の攻め手は個人塹壕から飛び出し最初のコの字型の土塁を突破し切岸の斜面を登り切り要塞に見立てた煉瓦壁のある高地を制圧する。オレンジ色の守り手は土塁と高地の煉瓦塀の箇所に兵を配置して攻め手を防ぐ。そんな感じの攻城戦の演習が行われていたのではないでしょうか。
実際に私も麓から最初のコの字型土塁陣地を越え切岸の斜面を登り高地の煉瓦壁の要塞まで攻めてみましたが、二百三高地のミニミニ版みたいに感じました(笑)。ただ、ここが昭和4年の地図では「旧工兵作業場」となっているため、工兵による陣地破壊の演習がされていたのかもしれません。IMG_0689











今回探索した福知山市の煉瓦壁のある演習陣地、ほとんど知られていない遺構で煉瓦の感じから恐らく大正時代までに作られたものと思われますが、昭和4年の地図にこの辺りは「旧工兵作業場」の文字が書かれている以外、使われていた時の記録や実際いつまで使用されていたのかなど具体的な事は分かりません。工兵による陣地破壊の演習はもちろん、長田野演習場にも近いことから、20連隊を初めとした歩兵による攻城戦の演習にも使用されていたのかもしれませんが、記録等は不明でこの遺構に関しての具体的な事は分かりませんし「旧工兵作業場」と書かれているため、昭和に入っても利用されていたかはわかりません。ただ煉瓦壁を始めとした演習陣地の遺構群を見る限り、日露戦争時の旅順要塞の攻略戦を意識したように感じ、当時の要塞への攻城戦に対する軍の考え方を知る貴重な旧軍遺構に思えました。現在は山中に放置された状態とはいえ立地的にも見学しやすい場所ですし、可能なら貴重な旧軍遺構として公園化して保存し説明板等の設置などの整備をして欲しいところですが・・・。

※追記。
国立公文書館アジア歴史資料センターにこの工兵作業場についての資料がありました。
まずは用地買収の件。
福知山工兵隊作業場用地買収の件1













福知山工兵隊作業場用地買収の件2













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵隊作業場用地買収の件」より引用。
この資料によれば、明治32年に現在の福知山市長田の民有地を買収したとあります。
となると、この遺構はだいたい明治後期から末期(恐らく日露戦争直後くらい)に作られたと思われますが、この遺構のある場所が買収用地とは少し違うのが気になります。ただ、この資料の買収の土地は次に紹介する「甲地」だった可能性があります。
工兵作業場は大正4年頃に一部が民地と交換となっています。
福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件1













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件2













福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件3













※アジア歴史資料センター所蔵「福知山工兵第10大隊作業場と民有地と交換の件」より引用。
この資料によれば工兵作業場は甲乙とに分かれており、甲地は兵営から遠く往復に時間を要し、乙地は敷地が広大で作業場内に民有地が介在し、演習上障害となる上に民間人の出入りがあるので、民有地の買収が必要となるが、比較的重要ではない甲地と乙地内の民有地とを交換する条件を出すことにより、乙地内の民有地を取得したいと書いてあります。このことにより乙地の作業場の価値が増大する期待が持てるとも書いてますので、乙地は陸軍にとってそれなりに利用価値を認めていた場所のようです。
今回探索した演習陣地は昭和4年の地図の「旧工兵作業場」の表記から大正4年の民有地交換後も残された乙地の中にあったものと思われます。大正14年に工兵第十大隊は岡山に移駐し福知山には工兵部隊がいなくなりましたので、工兵作業場は「旧工兵作業場」としてそのまま陸軍の管轄地だったのではないかと思われます。


besan2005 at 13:37|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧軍遺構 | 京都府
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