2019年02月
2019年02月24日
福知山市の近代建築
京都府福知山市は大きな戦災を受けなかったためか(洪水などの災害は受けてますが)地方の中小都市でありながら戦前の近代建築が多く残されています。しかしながら近年、全国で加速度的に近代建築が失われつつあり、国登録有形文化財の建物も失われている事態に。福知山市に現在も残る近代建築もいずれ次々と消えるのではという危惧から昨日探索した結果(2019年2月23日)と過去に撮影した物件を合わせてここに記録したいと思います。
〇旧松村邸洋館。大正元年。京都府指定文化財。
福知山市を代表する近代建築。中堅ゼネコンの松村組創業者・松村雄吉の邸宅で、自身が工事した由良川の堤防の堅牢さを証明するため、堤防上に自邸を建てました。
〇旧松村邸撞球場。大正期。旧松村邸は主屋・洋館・御殿・撞球場が現存し、京都府指定文化財となっています。
この名建築の旧松村邸も京都府指定文化財でありながら解体の危機にあったことがあります。かつては松村組の福知山営業所として管理され、一般公開をされたこともありましたが、松村組が倒産した際に不動産会社の管理となり、その不動産会社が旧松村邸が京都府指定文化財であることを知りながらこれを偽り、府に書類を提出しようとして発覚し逮捕される事件でした。
担当者が気付かなければ今頃は更地になっていました。
ぎりぎりの所で守られた旧松村邸。現在は洋菓子店・足立音衛門が所有し店舗として利用・洋館も外観のみですが公開されています。
〇旧郡是製糸福知山工場事務所。昭和3年。
隣町の綾部市で操業した郡是製糸の福知山工場の事務所です。おとなしい外観ですが味のある良い建物です。現在郡是福知山工場の敷地はグンゼの関連会社の敷地となってますが、綾部市の郡是本館と同じようにこの事務所も記念館か何かに活用して欲しいです。
〇旧郡是製糸福知山工場の敷地には事務所の他にも当時の建物が多く残されています。
こちらは門衛所。昭和3年。
〇正門の脇に3棟並ぶ社宅。多分昭和初期。奥に寄宿舎の建物もあります。
〇繭蔵。大正14年築と昭和8年築があります。
〇旧郡是製糸福知山工場の近くにある木造建物。何となく町工場の建物のように見えます。基礎のコンクリートの感じから戦前の建物と思われます。
〇クリーニング・サヌキヤ。福知山市中ノ町。看板建築。
〇旧三ツ丸百貨店。昭和8年。福知山で初めての近代大型店舗でエレベーターもあったようです。
屋上には食堂や遊園地があったようです。戦時中に石原にあった福知山海軍航空隊が接収したという話もありますが、詳細不明。戦後は京都銀行からリサイクルショップとなり近年までポッポランドとなってましたが、今は閉鎖されています。
旧三ツ丸百貨店の新町通りを挟んだ向かいには昭和初期に建てられた旧福知山銀行本店の建物がありました。タイル張りのアーチ窓のある名建築でしたが、2005年に取り壊されてしまいました。
取り壊し直後の旧福知山銀行本店。基礎は煉瓦でした。現場でお願いして外壁のタイルを1枚頂きました。これが恐らく唯一残された旧福知山銀行本店の名残かと。
在りし日の旧福知山銀行本店と(奥は旧三ツ丸百貨店)
〇小林歯科医院。福知山市下新町。
新町商店街の南端にある建物。確か昭和初期。実は本体が町屋の看板建築です。
〇櫻湯。福知山市西長町。明治37年(外観は大正期の改装?)
今では貴重となった戦前の銭湯。しかも戦前から改修されておらずしかも現役という歴史遺産というべき貴重な存在。内装も当時のままでステンドグラスやらがあったりモザイクタイルもあるようで、最近口コミで話題になっている銭湯のようです。私はどうも他人と一緒にふろに入るのに抵抗があるんですが、内部だけでも見たいですねぇ。
〇生長の家福知山道場。福知山市西長町。
元銀行だった建物と聞いています。治久銀行だったかな。明治期に次々誕生した小規模銀行。
〇戦前っぽい古い建物。福知山市西長町。元商店だったと思います。
〇装飾のある看板建築。福知山市内記町。
新町方面へ向かっていて見つけました。軒周りの装飾が中々良い感じ。
〇桑原辰印刷。福知山市下新町。新町通りの南端の角にある建物。元は商店だったんでしょうね。
その向かいにレトロ感満載の激渋食堂がありますが、今もやっているかは不明。やっているなら入りたくなる魅力がありますw
〇福喜多内科医院。福知山市内記。明治と言っていいのではと思うくらいのこれまた古い病院。
〇洋館付き住宅。福知山市内記。市役所の真ん前にあります。
福知山市ではあまり見かけない洋館付き住宅。軒の造り等から戦前物件かと。
〇塩見産婦人科医院。福知山市内記。昭和初期頃。福知山市内でも大規模な近代建築。
車寄せのポーチは装飾に富んでいます。
裏側から。現在は廃業されているようで、この建物の今後が気がかりです。
〇某住宅。福知山市内記。1階が意匠的で撮影。軒周りを見ると戦前はありそうです。
〇越山小児科医院。昭和6年。福知山市南栄町。福知山市の近代建築を代表する建物の1つ。
外観はシンプルながら品のある仕上がりになっています。
実は子供の頃、掛かり付けの病院でした。内部も受け付けの窓口や病室も当時のままでした。
病院の洋館に併設している主屋の住宅棟も貴重な近代和風建築です。国登録有形文化財となって末永く保存してもらいたいものですが…
〇植村商店。福知山市内記。越山小児科医院の向かいにある古い建物。こちらも商店だったようです。
〇桐村眼科(旧両丹銀行本町支店)。福知山市天田。昭和10年代(昭和12年以前)。
福知山市に基盤を置いていた両丹銀行の支店の建物で、後の京都銀行の前身の一つです。福知山では珍しい様式建築のビルで、市街地に2つだけ残る戦前の銀行建築の1つで貴重な存在です。内部は改装されていますが、梁の部分に当時の面影が残ります。市内でも好きな建物の1つでいつまでも残っていて欲しいです。
〇仲の湯。福知山市中ノ町。戦前の古い銭湯。現在は廃業。
ただし、時々この建物を利用したイベントが開催されているようです。
〇駅前正面通りの建物。福知山市天田。軒周りや基礎周りを見たら恐らく戦前物件。
かつてファミリーがあったころは駅前通りも賑わってましたが、ファミリーが無くなったいまではすっかり寂れてしまいましたね。
〇丹波鶴屋・音衛門ビルヂング(旧福知山信用金庫本店)。昭和10年代(昭和12年以前)。この時代には珍しい装飾です。福知山市街地に残る戦前の銀行建築の1つ。
現在は足立音衛門が所有し店舗として再利用されています。
内部は当時の意匠が良く残され、特に玄関周りは必見。
旧松村邸もですが、福知山市内の古い建物を積極的に再活用されている足立音衛門には頭が下がる思いです。感謝の意味も込めて宣伝w
仏蘭西焼菓子調達所 足立音衛門
〇惇明小学校本館。福知山市内記。昭和12年。国登録有形文化財。
〇旧福知山医師会館。福知山市岡ノ町。明治期か。
以前紹介した建物。
基礎は煉瓦で古く、通風孔に陸軍の星章があることから、背後の丘にあった福知山衛戍病院に関係する建物と考えられています。
この建物の再活用が検討されており、良い再利用がされることを願ってます。
〇旧中ノ町遊郭の遊郭建築。現在福知山の歓楽街となっている中ノ町歓楽街一帯はかつて遊郭街でした。今は場末の飲み屋か風俗店が建つ寂れた場所ですが、僅かに遊郭の建物が残されています。
〇長安寺公園憩いの家本館(旧福知山迎賓館)。福知山市奥野部。大正12年。
元々は御霊公園の敷地内にあった建物で、昭和47年に憩いの家として再活用するため移築されました。
旧福知山迎賓館の玄関部分。
〇長安寺公園憩いの家別館(旧福知山図書館)。福知山市奥野部。大正12年。
旧福知山迎賓館と同じく御霊公園内にあった建物で、同じく現在地に移築されました。
かつて存在した福知山公会堂や御霊会館と言った大型の近代和風建築が失われた今、福知山市内に現存する公共の近代和風建築として貴重な存在です。
以下は過去に撮影した福知山市の近代建築です。
〇陸軍歩兵第二十連隊将校集会所。福知山市天田。明治31年。
〇陸軍工兵第十大隊兵舎。福知山市南岡。明治期。
〇福知山浄水場ポンプ室。福知山市堀。昭和8年。
〇旧立原郵便局。福知山市立原。昭和12年。
昔、内記町あたりで撮影した古そうな住宅。再び撮影しようと探しましたが見当たらず、取り壊されたようです。この住宅のように年々古い建物が姿を消していってます…
〇旧松村邸洋館。大正元年。京都府指定文化財。
福知山市を代表する近代建築。中堅ゼネコンの松村組創業者・松村雄吉の邸宅で、自身が工事した由良川の堤防の堅牢さを証明するため、堤防上に自邸を建てました。
〇旧松村邸撞球場。大正期。旧松村邸は主屋・洋館・御殿・撞球場が現存し、京都府指定文化財となっています。
この名建築の旧松村邸も京都府指定文化財でありながら解体の危機にあったことがあります。かつては松村組の福知山営業所として管理され、一般公開をされたこともありましたが、松村組が倒産した際に不動産会社の管理となり、その不動産会社が旧松村邸が京都府指定文化財であることを知りながらこれを偽り、府に書類を提出しようとして発覚し逮捕される事件でした。
担当者が気付かなければ今頃は更地になっていました。
ぎりぎりの所で守られた旧松村邸。現在は洋菓子店・足立音衛門が所有し店舗として利用・洋館も外観のみですが公開されています。
〇旧郡是製糸福知山工場事務所。昭和3年。
隣町の綾部市で操業した郡是製糸の福知山工場の事務所です。おとなしい外観ですが味のある良い建物です。現在郡是福知山工場の敷地はグンゼの関連会社の敷地となってますが、綾部市の郡是本館と同じようにこの事務所も記念館か何かに活用して欲しいです。
〇旧郡是製糸福知山工場の敷地には事務所の他にも当時の建物が多く残されています。
こちらは門衛所。昭和3年。
〇正門の脇に3棟並ぶ社宅。多分昭和初期。奥に寄宿舎の建物もあります。
〇繭蔵。大正14年築と昭和8年築があります。
〇旧郡是製糸福知山工場の近くにある木造建物。何となく町工場の建物のように見えます。基礎のコンクリートの感じから戦前の建物と思われます。
〇クリーニング・サヌキヤ。福知山市中ノ町。看板建築。
〇旧三ツ丸百貨店。昭和8年。福知山で初めての近代大型店舗でエレベーターもあったようです。
屋上には食堂や遊園地があったようです。戦時中に石原にあった福知山海軍航空隊が接収したという話もありますが、詳細不明。戦後は京都銀行からリサイクルショップとなり近年までポッポランドとなってましたが、今は閉鎖されています。
旧三ツ丸百貨店の新町通りを挟んだ向かいには昭和初期に建てられた旧福知山銀行本店の建物がありました。タイル張りのアーチ窓のある名建築でしたが、2005年に取り壊されてしまいました。
取り壊し直後の旧福知山銀行本店。基礎は煉瓦でした。現場でお願いして外壁のタイルを1枚頂きました。これが恐らく唯一残された旧福知山銀行本店の名残かと。
在りし日の旧福知山銀行本店と(奥は旧三ツ丸百貨店)
〇小林歯科医院。福知山市下新町。
新町商店街の南端にある建物。確か昭和初期。実は本体が町屋の看板建築です。
〇櫻湯。福知山市西長町。明治37年(外観は大正期の改装?)
今では貴重となった戦前の銭湯。しかも戦前から改修されておらずしかも現役という歴史遺産というべき貴重な存在。内装も当時のままでステンドグラスやらがあったりモザイクタイルもあるようで、最近口コミで話題になっている銭湯のようです。私はどうも他人と一緒にふろに入るのに抵抗があるんですが、内部だけでも見たいですねぇ。
〇生長の家福知山道場。福知山市西長町。
元銀行だった建物と聞いています。治久銀行だったかな。明治期に次々誕生した小規模銀行。
〇戦前っぽい古い建物。福知山市西長町。元商店だったと思います。
〇装飾のある看板建築。福知山市内記町。
新町方面へ向かっていて見つけました。軒周りの装飾が中々良い感じ。
〇桑原辰印刷。福知山市下新町。新町通りの南端の角にある建物。元は商店だったんでしょうね。
その向かいにレトロ感満載の激渋食堂がありますが、今もやっているかは不明。やっているなら入りたくなる魅力がありますw
〇福喜多内科医院。福知山市内記。明治と言っていいのではと思うくらいのこれまた古い病院。
〇洋館付き住宅。福知山市内記。市役所の真ん前にあります。
福知山市ではあまり見かけない洋館付き住宅。軒の造り等から戦前物件かと。
〇塩見産婦人科医院。福知山市内記。昭和初期頃。福知山市内でも大規模な近代建築。
車寄せのポーチは装飾に富んでいます。
裏側から。現在は廃業されているようで、この建物の今後が気がかりです。
〇某住宅。福知山市内記。1階が意匠的で撮影。軒周りを見ると戦前はありそうです。
〇越山小児科医院。昭和6年。福知山市南栄町。福知山市の近代建築を代表する建物の1つ。
外観はシンプルながら品のある仕上がりになっています。
実は子供の頃、掛かり付けの病院でした。内部も受け付けの窓口や病室も当時のままでした。
病院の洋館に併設している主屋の住宅棟も貴重な近代和風建築です。国登録有形文化財となって末永く保存してもらいたいものですが…
〇植村商店。福知山市内記。越山小児科医院の向かいにある古い建物。こちらも商店だったようです。
〇桐村眼科(旧両丹銀行本町支店)。福知山市天田。昭和10年代(昭和12年以前)。
福知山市に基盤を置いていた両丹銀行の支店の建物で、後の京都銀行の前身の一つです。福知山では珍しい様式建築のビルで、市街地に2つだけ残る戦前の銀行建築の1つで貴重な存在です。内部は改装されていますが、梁の部分に当時の面影が残ります。市内でも好きな建物の1つでいつまでも残っていて欲しいです。
〇仲の湯。福知山市中ノ町。戦前の古い銭湯。現在は廃業。
ただし、時々この建物を利用したイベントが開催されているようです。
〇駅前正面通りの建物。福知山市天田。軒周りや基礎周りを見たら恐らく戦前物件。
かつてファミリーがあったころは駅前通りも賑わってましたが、ファミリーが無くなったいまではすっかり寂れてしまいましたね。
〇丹波鶴屋・音衛門ビルヂング(旧福知山信用金庫本店)。昭和10年代(昭和12年以前)。この時代には珍しい装飾です。福知山市街地に残る戦前の銀行建築の1つ。
現在は足立音衛門が所有し店舗として再利用されています。
内部は当時の意匠が良く残され、特に玄関周りは必見。
旧松村邸もですが、福知山市内の古い建物を積極的に再活用されている足立音衛門には頭が下がる思いです。感謝の意味も込めて宣伝w
仏蘭西焼菓子調達所 足立音衛門
〇惇明小学校本館。福知山市内記。昭和12年。国登録有形文化財。
〇旧福知山医師会館。福知山市岡ノ町。明治期か。
以前紹介した建物。
基礎は煉瓦で古く、通風孔に陸軍の星章があることから、背後の丘にあった福知山衛戍病院に関係する建物と考えられています。
この建物の再活用が検討されており、良い再利用がされることを願ってます。
〇旧中ノ町遊郭の遊郭建築。現在福知山の歓楽街となっている中ノ町歓楽街一帯はかつて遊郭街でした。今は場末の飲み屋か風俗店が建つ寂れた場所ですが、僅かに遊郭の建物が残されています。
〇長安寺公園憩いの家本館(旧福知山迎賓館)。福知山市奥野部。大正12年。
元々は御霊公園の敷地内にあった建物で、昭和47年に憩いの家として再活用するため移築されました。
旧福知山迎賓館の玄関部分。
〇長安寺公園憩いの家別館(旧福知山図書館)。福知山市奥野部。大正12年。
旧福知山迎賓館と同じく御霊公園内にあった建物で、同じく現在地に移築されました。
かつて存在した福知山公会堂や御霊会館と言った大型の近代和風建築が失われた今、福知山市内に現存する公共の近代和風建築として貴重な存在です。
以下は過去に撮影した福知山市の近代建築です。
〇陸軍歩兵第二十連隊将校集会所。福知山市天田。明治31年。
〇陸軍工兵第十大隊兵舎。福知山市南岡。明治期。
〇福知山浄水場ポンプ室。福知山市堀。昭和8年。
〇旧立原郵便局。福知山市立原。昭和12年。
昔、内記町あたりで撮影した古そうな住宅。再び撮影しようと探しましたが見当たらず、取り壊されたようです。この住宅のように年々古い建物が姿を消していってます…
2019年02月17日
今も残る米軍の機銃掃射の痕。
先日の芦屋市の近代建築探索で見かけた古い塀のある住宅。
戦前のものと思われるこの塀に貼られたタイルは一部が大きく破損しています。
これは戦争中に米軍艦載機による機銃掃射によってついた傷跡です。
※米軍艦載機による日本本土への機銃掃射。
戦争末期、日本本土の制空権を失った日本に対し、アメリカ軍は爆撃機だけでなく空母艦載機の戦闘機による機銃掃射も行いました。それは軍事施設・軍需工場だけでなく民間施設や学校・病院・住宅にも及び、たとえ民間人であろうと女子供であろうと容赦なく狙われたまさに無差別攻撃でした。
※沖縄の現場で見つけ頂いた米軍艦載機が放った12.7mm機銃弾の薬莢。
本来は敵の戦闘機と空中戦の際や敵の車両・建物施設等に使用する強力な機関銃を生身の人間にも向けて撃ったわけです。ドラマ等では普通に撃たれて倒れるシーンが多いですが、本来は撃たれるとバラバラになるくらい威力があります。
存命中に祖父から聞いた体験談で、渥美半島にて小舟に乗って物を運んでいた同僚の兵士が機銃掃射を食らい、敵機が去ったあとその兵士の元に向かうとほぼ肉片になっていて、麻袋で回収したと話してました。
機銃掃射は大都市はもちろん地方の中小都市も含め全国各地で行われました。
その時の傷跡は今でも各地に残されています。
有名なのでは旧日立航空機立川工場変電所などがあり、首都圏や近畿圏の大都市ならば戦前の鉄道の橋脚や橋等今でも多く残されています。
以下、私が撮影した一例。
京丹後市・峯山海軍航空基地旧弾薬庫の機銃掃射の痕。
津市。藩主藤堂家墓地の墓塔に残る機銃掃射の痕。
和歌山市のビルの壁に残る機銃掃射の痕らしき傷跡。
硬い石やコンクリート、そして鉄骨ですら貫通する威力。人体がまともに食らったらどうなるかは容易に想像できます。
非戦闘員に対して無差別に放った強力な機銃弾による機銃掃射。非人道的と言えるこの行為を後世に伝えるためにもこれら本当の意味での「戦争遺跡」は保存していく必要があると思います。
※新たに撮影しましたら画像を追加します。
2019年02月11日
宮津市・第三十一海軍航空廠小田宿野工員宿舎街・官舎街・女子工員宿舎探索レポ日記
※探索した東側工員宿舎街は小田宿野工員宿舎街、女子工員宿舎、官舎街と判明しました。
京都府宮津市にある第三十一海軍航空廠工員宿舎街を探索してきました。
第三十一海軍航空廠は昭和18年に開設した海軍工廠で、主に水上機の製造を行っていました。
第三十一海軍航空廠の工場は現在の関西電力宮津エネルギー研究所(丹後魚っ知館のある場所)一帯にあり、当時の建物は残されていませんが、山裾に地下壕らしきものがあるようです。
その第三十一海軍航空廠の工員宿舎街が航空廠の北西に造られ、現在も区画がそのまま残り、一部は住宅としてそのまま使用されていることを知り、2年前に訪問。そして新たに現存建物を確認したことから再度探索をいたしました。
まずは小田宿野工員宿舎街。こちらはほとんどの宿舎がリフォームされながらも現存している感じでした。その中でも比較的元の姿を保っていると思われる元工員宿舎の住宅を2つ紹介します。
まずは小田宿野工員宿舎街の遠景。南から。
北から。区画は碁盤の目のようになってます。
工員宿舎1。だいぶ傷んでますが、オリジナルの状態を保ってます。
工員宿舎2。こちらは比較的状態が良いようです。
続いて小田宿野工員宿舎街の西側にある官舎街・女子工員宿舎へと向かいます。
女子工員宿舎と隣接する官舎は規模が大きめで門があり、特に官舎3と4は他の官舎の倍近くの規模があり、中庭まで設けているため、航空廠の高等官の住宅だったのではと思います。また、官舎街の東側には女子工員宿舎の長屋の建物が2棟残されています。
官舎街の風景(東から)。
官舎1。リフォームされてますが、建物自体は元官舎と思われます。門柱は当時の物と思われます。
当時の物らしいドアが残されてました。
隣の家にも官舎時代の門柱が残されています。建物ももしかしたら元官舎かも。
官舎2。門柱は失われてますが、官舎自体はほぼオリジナルを保っていそうです。
官舎3。かなり大型の官舎で、官舎1・2の倍近くあります。官舎の状態もほぼオリジナルを保っており、門柱も残されています。門柱は官舎1・2より大型です。
官舎4。官舎3とほぼ同じ規模の大型官舎です。さらには改修などもなく、ほぼ当時のオリジナルのまま残されており、更には門柱や石積みの垣も残されているなど貴重な存在と思われます。
反対側から。
官舎4の西側部分。
正門。門柱は先の官舎1・2より大型です。
官舎3と4は航空写真を見ると凹型になっており、へこんだ部分に中庭が設けられ、官舎4には燈籠が残されていました。
第三十一海軍航空廠の官舎は改修されながらも多く残されており、資料が乏しく調査している人が少ない第31海軍航空廠において貴重な遺構群と思われます。特に官舎4は大規模な上にほとんど改修されておらず建物・門柱や石垣の垣根を含め官舎時代のオリジナルの姿を留めているだけでなく、状態も良好で、第三十一海軍航空廠の高等官向けの官舎として重要かつ貴重な遺構です。
北吸の海軍乙号官舎のように国登録有形文化財となり保存されれば有り難いですが。
官舎3・4は海軍乙号官舎よりやや大きいようです。官舎3・4は甲号官舎だったのでしょうか。
官舎街の東側には女子工員宿舎の長屋状の建物が2棟残されています。写真は女子工員宿舎1。もう1棟は庭木の奥になっており見ることが出来ませんでした。
現在は畑となってますが、赤線で囲った箇所もどうやら第三十一海軍航空廠の工員宿舎街か施設を建てるために造成は行われていたようで、昭和22年の航空写真を見ると一部建物が建てられています。
第三十一海軍航空廠の工場建物自体は残されていないように思いますが、唯一航空廠時代の建物ではないかと思われる木造建築がエネルギー研究所の入り口近くの民家に残されています。
第三十一海軍航空廠の南、京都府立海洋高校とその周囲の敷地には舞鶴海軍航空隊の施設がありました。
昭和10年に開設した舞鶴海軍航空隊は水上機専用の航空隊でした。
※参照。古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)
現在は正門と滑走路の舗装などが舞鶴海軍航空隊の遺構として残されています。
また、舞鶴海軍航空隊のすぐ北にある銀丘地区は、第三十一海軍航空廠の中津工員宿舎街であり、昭和22年の航空写真には整然と並ぶ建物が写されています。
宮津市銀丘地区(第三十一海軍航空廠中津工員宿舎街)探索レポ日記
2019年02月09日
奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記
その廃洋館を知ったきっかけは奈良市内の近代建築を探索するため、事前にGoogleMapで調べていて見つけたことからでした。航空写真からも分かる大規模かつレベルの高いその洋館に興味を持ち、近代建築関連のサイトを色々検索しましたが全くヒットせず。とりあえず先月、奈良市内の近代建築探索の際に訪問。洋館は廃墟となってましたが、その際はさっと見て撤退。しかし1ヶ月後、やはりどうしても気になり今回再訪することにしました。
その間、この謎の廃洋館について調べましたが近代建築・廃墟サイトとも中々ヒットせず、かつて飲食店だった時の店名で調べたら僅かですがヒットしました。
そのブログの記事は13年前のもの。まだ飲食店として使用されていた時に入られた方の記事で、店主のお婆さんの話では建物は明治時代のもので、戦後は進駐軍に接収されたこともあったとか。ブログには店内のかつての姿の写真もあり、確かに天井の照明の座繰りや暖炉を見ると戦前の物らしく見えました。
国土地理院公開の昭和21年米軍撮影の航空写真を確認して見ると、確かに件の洋館は写っています。
明治期の建物かは分かりませんが、戦前の物であることは間違いないかと思います。
(※別サイトにて奈良市近代化遺産調査報告書に記載があり、明治〜大正期の築とのこと)
調べるとどうも10年位前に廃業したようです。私が訪問した時はすでに廃墟と化し荒れていました。
※知っている人は知っている物件の様で、現役の頃に何度か行った人の証言もありましたが、不埒者に荒らされることを防ぐため詳細な場所やかつての店名が分かる部分は伏せます。
具体的な場所に関する質問にもお答えかねます。
廃洋館に至る門。こちらは和風。戦前の屋敷には洋館でも門が和風だったりするのは普通でした。
飲食店だった頃はここが入り口で、今でも店名の扁額が掲げられています。
洋館東面。前回行けず今回確認したかった東面は付属屋等で塞がれ確認出来ませんでしたが、たまたま隣の敷地の門(ここもかつてはお屋敷があったようです。)が開いていたためそこから撮影。出窓らしき張り出しが見えます。
洋館西面。西側は改装されているようですが屋根や軒周りは当時の面影が残されています。屋根は日本瓦葺き。最近建てられた洋館ならスレート葺きになるので、この洋館が古いものであることが分かります。
敷地への入り口は扉の無いコンクリートらしき門柱のみの門。「立ち入り禁止」等の看板も何もないため、外観だけでもと前回同様お邪魔することに。
西側の入り口。洋館自体の規模が大きいため、建物を分けてこちらも別の飲食店として使用されていたようです。西面は外観が大きく改修されており、あまり面影がありません。
西側を過ぎ、南側へ。GoogleMapで確認した塔屋っぽい張り出しが2つ並ぶいかにも戦前の洋館と言った雰囲気。最初にGoogleMapで見たときは震えました。
反対側から。一部窓が改修されていますが、当時の上げ下げ窓も残されています。
庭木であった梅が花を咲かせていました。
正面から。
南側は中庭だったようで燈籠などもありましたが、管理者がいなくなり放置された今では庭木も伸び放題で、引きが取れませんでした。
南面の東側には接続している付属屋へ入る入り口が。ここを入ると気になる東側に行けるはずですが、さすがに行けませんでしたね私は。
西側から南側へとつながる階段。再び元の場所に戻ります。
北側へとつながる小さな門。ここを通ると最初に紹介した和風の門の裏側、かつて飲食店だった時の玄関へと至ります。
洋館北側。煉瓦造の大きな煙突が目立ちます。
かつての玄関口。こちらが本来の洋館の玄関だったと思われます。
玄関の屋根が落ちて傷んでいます。廃業して管理されなくなってからかなりの時間が経ったことが分かります。
洋館角の2階部分には柱頭飾りがあります。最近建てられた洋館だとここまでこった装飾はまずしません。
2階窓部分。2重扉になっています。窓は当時の物のようです。
玄関を東方面を向いて撮影。玄関車寄せの柱や手摺も凝ったものです。
玄関床のタイル。黒島模様のものです。
窓から内部を撮影してみました。長年放置された窓はホコリだらけで、カメラを窓に当ててもうまくピントが合わない。何回か撮影して何とか内部が撮影できました。内部は現役だった頃の写真のままで、竣工当時のままと思われる暖炉や天井のシャンデリアの座繰りがそのままでした。
スマホで撮影した写真の方が幾分マシのようだったので掲載。雑多にはなってますが、飲食店だった頃の雰囲気は残されてました。戦前の住宅だった時代の名残も良く残されています。
この廃墟の洋館はブログの情報では明治期とのことですが、見た感じでは大正期のように思えました。それでも戦前の大規模洋館であることは変わりはなく、廃墟と化して痛み始めてはいるもののまだ状態は良く、奈良市内でも屈指の戦前の洋館であり貴重な近代建築であることには変わりません。進駐軍も接収した経緯のある洋館だけにレベルの高さが伺えます。しかし、元々誰の屋敷だったのか、具体的な竣工年はいつなのか、設計者は?など洋館そのものの詳細な経歴が一切不明です。(ただし、奈良県近代化遺産調査報告書には掲載されているかもしれません。ただ、そうなるとすでにチェックして報告している人がいるはずですが…)
そしてこれだけの洋館が見向きもせずに放置されている現状は、やはり古都奈良という土地柄だからでしょうか。国登録有形文化財はもちろん、指定文化財になってもおかしくはないこの洋館。最近内で奈良市内では近代建築をカフェや案内所等に再利用している例もあるわけですし何とか修復して再びレストラン等に再利用できないものでしょうかね。場所的にも好立地ですし、このまま朽ち果てて失われるのは惜しすぎると思うのですが。