2019年08月
2019年08月25日
舞鶴憲兵分隊遺構探訪レポ日記
舞鶴市にある現在の中舞鶴交番の場所にはかつて舞鶴憲兵分隊がありました。
当初は紺屋町にありましたが、明治33年に現在の中舞鶴交番の場所に移転しました。
舞鶴憲兵分隊は京都の陸軍第16師団管轄下の京都憲兵隊の指揮下にありました。
画像の絵葉書は大正期頃と思われる舞鶴憲兵分隊の建物。かつては庁舎・官舎の他に憲兵が乗る馬術場と馬小屋、さらには武道場があったそうです。
舞鶴は軍港でありその軍港を守る陸軍の舞鶴重砲兵連隊が管轄する各砲台が舞鶴湾を囲むように配置された要地であり、要塞地帯法の適用地でした。そのため、舞鶴要塞地帯内での間諜(スパイ)行為を取り締まる役目などをこの舞鶴憲兵分隊が担当しました。
舞鶴憲兵分隊の建物は一切残されていませんが、門柱や建物の基礎等が残されています。
舞鶴憲兵分隊の門柱。中舞鶴交番の正面両脇に残されています。
南側の門柱。荒石積で変わった形をしてます。
北側の門柱。当時の絵葉書にはこの門柱は写されていません。デザイン的に昭和期に入ってから作られたもののように思います。
中舞鶴交番の背後、マンションの裏には当時の石積基礎が残ります。
さらに道を挟んだ向かいには現在公園となっている古い基礎が残されています。
反対側から。通風孔が確認できます。
恐らく入り口だったと思われる場所。親柱部分に装飾があります。
「アジア歴史資料センター」公開の資料には、大正8年に官舎を増築したという記述があり、もしかするとその際のものかもしれません。
背後にはコンクリート製の柵柱が残されており、ここまでが敷地だったと思われます。
当時のボルトが残されており、かつてはこの柵柱に固定された板塀が舞鶴憲兵分隊の敷地を囲っていたものと思われます。高さは2m近くあり、当時は敷地内の姿は全く見えなかったことでしょう。
まぁ、覗いたところで捕まるでしょうけど(笑)
舞鶴市・白杉弾丸本庫補助施設遺構探索レポ日記
舞鶴市の西舞鶴にある「とれとれ市場」から海岸沿いに北上し、白杉地区を過ぎた槇山砲台・金岬砲台へと至る槇山公園への登山道入り口の麓の集落に明治期の陸軍が設置した施設の遺構群が残されています。ここには明治34年に完成した白杉弾丸本庫という舞鶴要塞地帯西部の砲台群(槇山・金岬・建部山等)へ弾薬を供給する施設がありました。舞鶴要塞地帯内には白杉弾丸本庫と下安久弾丸本庫の2ヵ所があり、白杉は西舞鶴側の砲台、下安久は東舞鶴側の砲台へと弾薬を提供していました。
※下安久弾丸本庫は今年の5月に再探索を行い、多数の遺構を確認しました。以下のレポ日記の記事をご覧ください。
舞鶴市・下安久弾丸本庫(再探索)+匂崎演習砲台探索レポ日記
また、今回の探索にあたりkanレポート様のブログ記事を参考にさせていただきました。本文中の各遺構の名称は一部を除きkanレポート様の記事に準拠しています。
なお、kanレポート様の記事では「舞鶴要塞 白杉補助建築物」とされていますが、白杉弾丸本庫が白杉地区の北方谷地に建設されたという情報もあり、当ブログの記事では「白杉弾丸本庫補助施設群」としました。
白杉地区を過ぎて最初に見える木造建物。これは糧秣支庫ではないかとのこと。
反対側。基礎は縁石製です。「アジア歴史資料センター」公開資料によれば、明治34年2月に「舞鶴要塞白杉糧秣支庫外3棟敷地買収の件」という資料があります。
横から。
窓部分も当時のままの状態で残されているようです。
糧秣支庫の道を挟んで向かいにある同じ造りの木造建築。砲具庫ではとのこと。
こちらも保存状態は良好です。前述のアジ歴の資料に従うなら、糧秣支庫と同時に用地買収され建てられたものになります。
砲具庫背後を流れる用水路は古い石積みと煉瓦が使われています。
※参考・下安久弾丸本庫弾薬庫。
下安久弾丸本庫の弾薬庫は煉瓦積みの基礎が良好に残されています。白杉弾丸本庫の弾薬庫も同じ造りだとすれば、この用水路にある煉瓦は破壊された遺構の一部かもしれません。
糧秣支庫の近くにある気になった古いコンクリートの土管状のもの。
少し北上した箇所にある、現在は民家となっている看守衛舎ではないかとされる建物。基礎は糧秣支庫・砲具庫と同じ石製の縁石。
更に少し北に進んだ先の空き地の隅にあるコンクリート建造物。看守衛舎の弾薬庫ではと言われています。その奥にも何かありそうなんですが、この弾薬庫も含め蔦や雑草が凄まじく確認できず。冬に再チャレンジですな。
その弾薬庫の隣の槇山への登山道と隣接する空き地にはコンクリート基礎の建物跡が残されています。
結構大きいプランになっています。コンクリートの感じから白杉弾丸本庫時代のもので間違いないかと。
先ほどのコンクリート基礎建物跡からしばらく北上すると海岸側に林があり、その道路側に門柱が1本れています。恐らく白杉弾丸本庫の営門ではないかと思われます。ちなみにこの門柱の奥の林の中を覗くと怪しい平坦地が確認できましたが、立ち入り禁止となっており断念しました。
白杉弾丸本庫の主要部は、集落の西の槇山麓の谷辺りにあったのではと思われ、次回以降の探索の課題といたします。
2019年08月18日
敦賀市の近代建築探索レポ日記
2019年7月15日に敦賀港へ「護衛艦かが」の寄港による一般公開に合わせ、敦賀市へ行った際にフォロワーさんと敦賀市内の近代建築探索をしました。
ちなみに同日、祖父が下士官時代を過ごした敦賀連隊跡も訪問してきましたが、そちらは別記事にしております。
※敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
敦賀市は昭和20年7月12日の空襲で壊滅的被害を受けてますが、今回探索しましたら意外と戦前の建物が残されていることが分かりました。
まずは護衛艦かがが停泊していた桟橋の近くにある旧紐育スタンダード石油会社倉庫。明治38年。国登録有形文化財。
現在は敦賀赤煉瓦館という観光施設となっています。内部にある敦賀港のジオラマ展示は必見。
赤煉瓦倉庫の近くにあるコンクリート建造物。路駐の車が邪魔!
正面から。草ぼうぼうでよく見えませんが、先ほどの道路側からの姿を見たら戦前はありそうな古さに見えたので。
近隣の方がいたので聞くと、元々はガソリンの保管庫だったそうです。
敦賀港駅ランプ小屋。明治15年頃。
現在は展示施設になっていました。ちなみにすぐそばの敦賀港駅も明治15年築だそうですが、非公開です。活用してもらいたいですが。
敦賀倉庫。昭和8年。赤煉瓦倉庫と共に商業港としての敦賀港の繁栄を伝える建物。
出窓のデザインが可愛らしい。
敦賀倉庫事務所。昭和8年。リフォームされてますが、当時の面影は良く残されています。
汐谷鉄工所。昭和初期頃?当時の姿をそのまま残す下見板張りの建物。
よく空襲で焼けなかったものです。
気になる建物もいくつかありました。
旧大和田銀行。明治25年。敦賀市立博物館となっている旧大和田銀行本店の前身の建物。
路駐の車が邪魔…。この日は前述のとおり護衛艦かがの一般公開が行われた日であり、市内の各所にこういった路駐の車で溢れていました。
アップ。洋風建築に見えますが、背後は町屋造りです。
旧大和田銀行本店。昭和2年。国指定重要文化財。
規模・質共に敦賀市で一番の近代建築。現在は敦賀市立博物館。
玄関部分。
営業室。当時の姿が復元されています。
階段も豪華な造り。
金庫室。
2階貴賓室。重役会議も開かれていたと思います。流石に格式高い造りです。
3階講堂。旧大和田銀行本店は銀行の店舗としてだけでなく、敦賀市民向けに講堂や地下の食堂を開放しており、講堂は市民の催し物や講演会などのイベントにも利用されたようです。
3階講堂に展示されているエレベーター。大正14年製の国産最初期のエレベーターだとか。
日本聖公会敦賀基督教会。この教会ちょっと変わっていて、2階が明治後期築。1階が昭和8年築というもの。元々平屋だったのが昭和8年に1階部分を持ち上げ2階にすることで1階を増築する形になっています。
敦賀市内にはこういった伝統的な町屋のある街並みも残されています。
擬洋風っぽい住宅。
洋館付き住宅。腰壁部分は石張りになっている割と手の込んだ建物。敦賀市内にはまだこういった戦前の洋館付き住宅が残されていそうです。
市街地の南へ。東洋紡敦賀工場クラブハウス。昭和10年。
ハーフチンバーの洒落た洋館です。
かつてはこのクラブハウスの周りには沢山の東洋紡敦賀工場の社宅が建ち並んでいました。この洋館はその唯一の名残。
東洋紡敦賀工場の敷地内には戦前当時の建物も残されています。
敷地南端に残る通用門と思われる門柱。
当時の物と思われる塀。
昭和初期頃の東洋紡敦賀工場を撮影した絵葉書。現在残る塀と同じ物が写されています。
今回の敦賀市の近代建築探索で一番の成果だった建物。事前の下調べでも敦賀市の近代建築を扱ったサイトのどこにも取り上げられていなかった知られていない物件。
玄関部分。この玄関の梁の形は昭和初期の建物によくみられるもの。
内部を窓から撮らせてもらいました。建物の平面プランは戦前の事務所建築そのままに思えます。
個室部分。現在リフォーム工事中でした。戦前の近代建築が再再利用されるのは嬉しいこと。どんな建物に生まれ変わるのか楽しみです。
今回の探索は市街地の中心部をメインに探索したので、空襲を受けた市街地でも思った以上に
戦前の建物が残されていたので、比較的空襲被害の少なかったであろう西側の気比の松原あたりの一帯はまだまだ多くの近代建築が残されていそうなため、次回以降の課題にしたいと思います。
2019年08月17日
鹿児島・天狗鼻海軍望楼台
20年ほど前、まだ鹿児島にいた頃に訪問した鹿児島県薩摩川内市にある天狗鼻海軍望楼台です。
天狗鼻海軍望楼台は明治28年の日清戦争後に設置した監視所で、当時海軍が沿岸の要所の監視のために設置した望楼台の1つでした。望楼台の多くは日露戦争の終結とともに廃止され、現在国内で残っているのはこの天狗鼻海軍望楼台と北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台の2ヶ所のみです。
この天狗鼻海軍望楼台も明治38年に廃止されました。
鹿児島にいた当時、この天狗鼻海軍望楼台の存在を知り、一度行ってみたいと思い行った際に撮影した写真が当記事の写真となります。当時はまだ一眼のアナログカメラで(AFではありました)、画像はネガからスキャンしたものです。
天狗鼻海軍望楼台の入り口。実はここに至るまでに兵舎跡と思われる平坦地があったのを覚えてるのですが、当時はこの煉瓦造りの遺構にしか興味がなく写真を取らずに立ち去ってしまいました…
反対側から入り口を撮影。かつては恐らく木造の屋根があったと思われますが、現在は煉瓦の壁のみ残されています。
海側から。監視のための窓が海に向かって開いてます。
側面から。
上部から監視窓を撮影。一部欠損していますが保存状態は良好です。
天狗鼻海軍望楼台から眺めた天狗鼻の岬。まさに天狗の鼻の形をしています。見晴らしは最高で、航行する艦船は良く見えたことでしょう。現在、天狗鼻海軍望楼台は内部の土砂の除去などこの時よりも多少整備されているようです。
2019年08月12日
敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
福井県敦賀市にある敦賀連隊の跡地を訪ねてきました。敦賀市にはかつて陸軍歩兵第19連隊が駐屯し、昭和15年には留守連隊の歩兵第119連隊が、戦争末期の昭和20年には本土防衛部隊の歩兵第441連隊が編成されます。この敦賀連隊は祖父が下士官として終戦まで赴任した縁の連隊であり、仙台陸軍教導学校卒業後の伍長から軍曹までは歩兵第119連隊に、昭和20年の曹長からは本土防衛部隊の歩兵第441連隊の連隊付下士官として渥美半島へ赴任し終戦を迎えました。
この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
歩哨舎正面。
その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
敦賀連隊史蹟碑。
祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録。
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)
この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
歩哨舎正面。
その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
敦賀連隊史蹟碑。
祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録。
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)
2019年08月11日
姫路海軍航空基地跡遺構探索レポ日記
兵庫県加西市に姫路海軍航空隊が駐屯していた姫路海軍航空基地がありました。
昭和18年より工事が開始され昭和19年に完成。川西航空機姫路製作所の専用飛行場でしたが、姫路海軍航空隊や筑波海軍航空隊文献体も駐屯し訓練基地や特攻基地として使用。アジ歴所有の引渡目録には
九三式中間練習機や九七式艦上攻撃機、艦上爆撃機「彗星」、陸上攻撃機「銀河」そして局地戦闘機の紫電改が配備されていました。姫路海軍航空基地は戦後に陸上自衛隊が滑走路跡を中心に訓練施設として使用していましたが、2016年に加西市へと払い下げられました。現在も一帯には姫路海軍航空基地の遺構が点在し、隣接の神戸大学農学部構内の敷地内にも多数遺構が残されています。
姫路海軍航空基地は地元では地名を取って「鶉野飛行場跡」と呼ばれており、滑走路跡北端に復元された格納庫と原寸大に復元された紫電改が展示され、観光地としての再整備がされはじめています。
今回(6月)、復元された紫電改を見に行くのと合わせて、姫路海軍航空基地の遺構群も探索してきました。
今回探索した遺構群の配置図。今回の探索に当たっていつもお世話になっている盡忠報國様のブログ「大日本者神國也」内の記事を大いに参考にさせていただきました。ちなみに盡忠報國様のレポのほうが詳細な上に今回の私の探索では見られなかった内部や遺構、すでに失われた遺構などの写真もあり、そちらの方がずっと参考になりますので、当記事は紀行文的な感じで初心者の方でも分かりやすく平滑に書きたいと思います。
紫電改が展示されている復元格納庫から直線距離で1.5kmの位置に姫路海軍航空隊の門柱と衛兵詰所があり、現在門柱や衛兵詰所・付属建物が復元され駐車場を伴った小公園として整備されています。
復元された衛兵詰所。
姫路海軍航空隊の看板が掲げられた復元門柱。
整備の際に発掘された門柱の基礎。
復元された衛兵詰所の南隣にはコの字型のコンクリート製の覆土式地下壕があります。
北側入り口。
南側入り口。残念ながら扉が設置され入ることが出来ません。
扉の隙間から内部を撮影。恐らく隣接する衛兵詰所等の退避壕ではと言われています。
衛兵詰所の向かいの竹林にはコンクリート構造物がありました。何かの施設があったようです。
コの字型のコンクリート退避壕の南に素掘りの地下壕がありました。
柵はされてますが隙間から入れますので入り口を撮影。個人的にこういう洞窟は一人で入る勇気はないのでここまでw
先ほどの素掘りの地下壕からさらに南、協和ロジスティクスの敷地北側にコンクリート製の覆土式弾薬庫壕があります。
弾薬庫壕だけあってコンクリートはかなりの分厚さがあります。
ここも柵があり中に入れませんが、入り口に近づくと照明がともりました。中々の親切さですw
内部に入れないのは残念ですが、落書きとかされることを考えたらこの方が良いのかも。
一旦衛兵詰所まで戻り、そこから北上した畑の中にコンクリートの構造物があります。何かの建物の基礎のようですが何だったかは不明です。
コンクリート基礎の遺構の北側に貯水槽が残されています。結構大きなもので今でも貯水しています。
貯水槽の側に放置されているドラム缶の残骸。姫路海軍航空隊時代のものかは分かりませんが古そうだし一応撮影。
コンクリート基礎遺構の南の竹林には覆土式のコンクリート地下壕があります。この辺りにあった医務室の地下壕ということらしいです。
入口から内部を撮影。L字状に折れています。この時も勇気が出ずここまでしか入れませんでしたが、ここは入ればよかったと後から後悔。後に紹介する地下壕は入りましたし、この手の壕は舞鶴でも結構入ってたし…。次回行く機会があれば入りたいと思います。
盡忠報國様のレポではこの近くにもう一つコンクリート製の覆土式地下壕があるはずなのですが、見つけることは出来ず…
近くにあった不自然な盛土がそうだったかもしれませんが、入り口が見つからなかったんですよね。
竹林内は当時の物と思われる小道が残ります。
小道の先のやや開けた場所に残るコンクリート構造物。
散策路まで戻り、再び北上して2つある池の北側にある東笠原機銃座へ。
こちらは整備されていました。
地下弾薬庫への階段。扉か設置されており内部へは入れませんでした。整備された遺構は悉く内部進入不可になってますね・・・。問い合わせたら入れるようですが、日時指定があったりと中々難しいようです。
機銃座。ここに25mm連装機銃が据え付けられ、対空防備を行ってました。
東笠原機銃座から西へと延びる小道へ入ると建設会社の側にコンクリート製の耐弾壕があります。
内部。蒲鉾型の屋根になっています。内部は資材が置かれ進入不可。
先ほどの耐弾壕から西へと池沿いに延びる道沿いには3か所のコンクリート製の覆土式地下壕が残ります。これらは整備地区から外れており現在も中に入れます。最初に現れる覆土式地下壕。
入口部分。入り口は2重になっています。
内部。長さはかなりあり、まっすぐ伸びています。
2つ目のコンクリート製覆土式地下壕。残念ながら入り口手前から浸水が酷く近寄れませんでしたが、最初に見た覆土式地下壕と同じ構造かと思います。
3つ目のコンクリート製覆土式地下壕。
こちらも入り口部分は2重構造になっています。
内部。状態はかなり良いです。
内部はL字状になっており、折れた先は長く伸びています。
ちなみにこの壕の周辺は開発が行われており、整備地区から外れていることもあり今後が心配です。
覆土式地下壕群の近くにあった気になるもの。コンクリート製の柱。柵柱かなぁと思い一応撮影。
コンクリート製の構造物。神戸大学農学部の構内なので近寄れないため遠望から。
航空写真を見ると貯水槽のようです。当時のものかは分からないため保留ですが、コンクリート自体は古そうです。あと、奥にコンクリート製の耐弾壕らしきものが見えます。
再び散策路へと戻り北上。東側に大きなコンクリートの構造物が見えます。
姫路海軍航空基地の遺構で最大と言われるコンクリート製の地下壕。
かつてはコンクリート部分は土で覆われていたようです。入り口は閉じられてますが、地下へと降りる階段となっており、地下はかなりの広い空間のようです。用途不明らしいですが、重要施設であったことには変わらないと思います。
先ほどの大型地下壕から北に向かった先にあるコンクリート製の地下壕。
こちらも地下へと階段が続いてますが、扉が設置されており内部へは入れず。散策路沿いの地下壕遺構は悉く整備され、進入不可となっています。
キョーリン物流センター前から散策路は西へと向かいその先には以前から有名だった戦闘指揮所の耐弾壕が残されています。個人所有で地下壕内は展示施設となってますが、見学には事前予約が必要であるため、この日は見られず…。かつてはこの近くにも耐弾壕があったようですが、隣接する民家もろとも更地にされていました。
再びキョーリン物流センターの位置まで戻り、今度は鶉野飛行場方面へと向かう道を進むとコンクリートの遺構が残る箇所へ。ここは発動機調整所という施設があった場所とのこと。
何かの台座だったように見えるコンクリートの遺構。
そのまま進むと、鶉野飛行場のメインの遺構である滑走路跡があります。全長1.2kmにも及ぶ長大なものです。かつては南側は陸上自衛隊の敷地で立ち入り禁止でした。
滑走路は姫路海軍航空隊のものではなく、川西航空機の滑走路だったとのこと。まぁでも航空隊も使用していたはずでしょうけど。以前はコンクリート舗装されてましたが、何故かはがされてしまいました。そのまま残して遊歩道にすればよかったのに。
姫路海軍航空隊の記念碑。この辺りから観光客の数が増えてきました。
そばに置かれた転圧ローラー。
整備台。かつては小学校の朝礼台に転用されていたとのこと。
復元紫電改は後回しにして遺構を巡ります。滑走路の側にある駐機場跡。コンクリート舗装が残ります。
駐機場の側にあるコンクリートの水路。
その側にあるコンクリートの建築物。
用途不明ですが、コンクリートの感じやアンカーボルトを見ると結構古そうに見えるのですが。かつてはこの上に木造の屋根が乗っかっていたと思われます。
先ほどのコンクリート建造物の前には当時のものらしい小道が延びています。
その小道にはコンクリート製の暗渠の蓋が残されていました。この暗渠の蓋、京丹後市の峯山海軍航空基地跡でも見たのと同じ感じで姫路海軍航空基地当時の物と思われます。
さらに北に進むと土盛りの無蓋掩体壕がありました。伐採されて見やすくなっており有難いです。
その無蓋掩体壕の近くに鶉野機銃座があります。
地下弾薬庫への階段。当然扉がされており進入できませんでしたが、それ以前に浸水が酷い。
機銃座部分には25mm三連装機銃のレプリカが置かれていました。
姫路海軍航空基地の遺構探索はここまで。次に話題の紫電改を見に向かいます。
復元された格納庫と紫電改。流石に観光客が多い。
格納庫内。このトラスの骨組みは当時のままの復元?ボルトはまぁ仕方ない。
復元された紫電改。なかなかよくできています。
正面から。年配の男性や子供たちははしゃいでましたね。姫路海軍航空基地が鶉野飛行場として観光地化していることに軍跡界隈では賛否あるようですが、とかくマイナーでちょっと前までは負の遺産として忌み嫌われていた旧軍遺構にこうした形でも理解が進んでいることは私は良い方向だと思います。旧軍遺構が負の遺産としての戦争遺跡という認識から近代化遺産という文化財としての認識へと変わりつつあるのも。今では舞鶴を代表する観光地になり重要文化財にも指定されている旧海軍の赤煉瓦倉庫群も市民団体が再評価し整備される前は負の遺産的な扱いで邪魔者扱いされてましたしね。
マスコットの「ウズラノ少尉」。可愛いw
20年くらい前、いやほんの10年位前まではこんなマスコットや復元紫電改なんかを置いてたら、共産党系団体から「戦争賛美だ!」とか言われて叩かれまくってたはずなので、とてもこんな展示なんてできなかったと思いますよ。
昭和18年より工事が開始され昭和19年に完成。川西航空機姫路製作所の専用飛行場でしたが、姫路海軍航空隊や筑波海軍航空隊文献体も駐屯し訓練基地や特攻基地として使用。アジ歴所有の引渡目録には
九三式中間練習機や九七式艦上攻撃機、艦上爆撃機「彗星」、陸上攻撃機「銀河」そして局地戦闘機の紫電改が配備されていました。姫路海軍航空基地は戦後に陸上自衛隊が滑走路跡を中心に訓練施設として使用していましたが、2016年に加西市へと払い下げられました。現在も一帯には姫路海軍航空基地の遺構が点在し、隣接の神戸大学農学部構内の敷地内にも多数遺構が残されています。
姫路海軍航空基地は地元では地名を取って「鶉野飛行場跡」と呼ばれており、滑走路跡北端に復元された格納庫と原寸大に復元された紫電改が展示され、観光地としての再整備がされはじめています。
今回(6月)、復元された紫電改を見に行くのと合わせて、姫路海軍航空基地の遺構群も探索してきました。
今回探索した遺構群の配置図。今回の探索に当たっていつもお世話になっている盡忠報國様のブログ「大日本者神國也」内の記事を大いに参考にさせていただきました。ちなみに盡忠報國様のレポのほうが詳細な上に今回の私の探索では見られなかった内部や遺構、すでに失われた遺構などの写真もあり、そちらの方がずっと参考になりますので、当記事は紀行文的な感じで初心者の方でも分かりやすく平滑に書きたいと思います。
紫電改が展示されている復元格納庫から直線距離で1.5kmの位置に姫路海軍航空隊の門柱と衛兵詰所があり、現在門柱や衛兵詰所・付属建物が復元され駐車場を伴った小公園として整備されています。
復元された衛兵詰所。
姫路海軍航空隊の看板が掲げられた復元門柱。
整備の際に発掘された門柱の基礎。
復元された衛兵詰所の南隣にはコの字型のコンクリート製の覆土式地下壕があります。
北側入り口。
南側入り口。残念ながら扉が設置され入ることが出来ません。
扉の隙間から内部を撮影。恐らく隣接する衛兵詰所等の退避壕ではと言われています。
衛兵詰所の向かいの竹林にはコンクリート構造物がありました。何かの施設があったようです。
コの字型のコンクリート退避壕の南に素掘りの地下壕がありました。
柵はされてますが隙間から入れますので入り口を撮影。個人的にこういう洞窟は一人で入る勇気はないのでここまでw
先ほどの素掘りの地下壕からさらに南、協和ロジスティクスの敷地北側にコンクリート製の覆土式弾薬庫壕があります。
弾薬庫壕だけあってコンクリートはかなりの分厚さがあります。
ここも柵があり中に入れませんが、入り口に近づくと照明がともりました。中々の親切さですw
内部に入れないのは残念ですが、落書きとかされることを考えたらこの方が良いのかも。
一旦衛兵詰所まで戻り、そこから北上した畑の中にコンクリートの構造物があります。何かの建物の基礎のようですが何だったかは不明です。
コンクリート基礎の遺構の北側に貯水槽が残されています。結構大きなもので今でも貯水しています。
貯水槽の側に放置されているドラム缶の残骸。姫路海軍航空隊時代のものかは分かりませんが古そうだし一応撮影。
コンクリート基礎遺構の南の竹林には覆土式のコンクリート地下壕があります。この辺りにあった医務室の地下壕ということらしいです。
入口から内部を撮影。L字状に折れています。この時も勇気が出ずここまでしか入れませんでしたが、ここは入ればよかったと後から後悔。後に紹介する地下壕は入りましたし、この手の壕は舞鶴でも結構入ってたし…。次回行く機会があれば入りたいと思います。
盡忠報國様のレポではこの近くにもう一つコンクリート製の覆土式地下壕があるはずなのですが、見つけることは出来ず…
近くにあった不自然な盛土がそうだったかもしれませんが、入り口が見つからなかったんですよね。
竹林内は当時の物と思われる小道が残ります。
小道の先のやや開けた場所に残るコンクリート構造物。
散策路まで戻り、再び北上して2つある池の北側にある東笠原機銃座へ。
こちらは整備されていました。
地下弾薬庫への階段。扉か設置されており内部へは入れませんでした。整備された遺構は悉く内部進入不可になってますね・・・。問い合わせたら入れるようですが、日時指定があったりと中々難しいようです。
機銃座。ここに25mm連装機銃が据え付けられ、対空防備を行ってました。
東笠原機銃座から西へと延びる小道へ入ると建設会社の側にコンクリート製の耐弾壕があります。
内部。蒲鉾型の屋根になっています。内部は資材が置かれ進入不可。
先ほどの耐弾壕から西へと池沿いに延びる道沿いには3か所のコンクリート製の覆土式地下壕が残ります。これらは整備地区から外れており現在も中に入れます。最初に現れる覆土式地下壕。
入口部分。入り口は2重になっています。
内部。長さはかなりあり、まっすぐ伸びています。
2つ目のコンクリート製覆土式地下壕。残念ながら入り口手前から浸水が酷く近寄れませんでしたが、最初に見た覆土式地下壕と同じ構造かと思います。
3つ目のコンクリート製覆土式地下壕。
こちらも入り口部分は2重構造になっています。
内部。状態はかなり良いです。
内部はL字状になっており、折れた先は長く伸びています。
ちなみにこの壕の周辺は開発が行われており、整備地区から外れていることもあり今後が心配です。
覆土式地下壕群の近くにあった気になるもの。コンクリート製の柱。柵柱かなぁと思い一応撮影。
コンクリート製の構造物。神戸大学農学部の構内なので近寄れないため遠望から。
航空写真を見ると貯水槽のようです。当時のものかは分からないため保留ですが、コンクリート自体は古そうです。あと、奥にコンクリート製の耐弾壕らしきものが見えます。
再び散策路へと戻り北上。東側に大きなコンクリートの構造物が見えます。
姫路海軍航空基地の遺構で最大と言われるコンクリート製の地下壕。
かつてはコンクリート部分は土で覆われていたようです。入り口は閉じられてますが、地下へと降りる階段となっており、地下はかなりの広い空間のようです。用途不明らしいですが、重要施設であったことには変わらないと思います。
先ほどの大型地下壕から北に向かった先にあるコンクリート製の地下壕。
こちらも地下へと階段が続いてますが、扉が設置されており内部へは入れず。散策路沿いの地下壕遺構は悉く整備され、進入不可となっています。
キョーリン物流センター前から散策路は西へと向かいその先には以前から有名だった戦闘指揮所の耐弾壕が残されています。個人所有で地下壕内は展示施設となってますが、見学には事前予約が必要であるため、この日は見られず…。かつてはこの近くにも耐弾壕があったようですが、隣接する民家もろとも更地にされていました。
再びキョーリン物流センターの位置まで戻り、今度は鶉野飛行場方面へと向かう道を進むとコンクリートの遺構が残る箇所へ。ここは発動機調整所という施設があった場所とのこと。
何かの台座だったように見えるコンクリートの遺構。
そのまま進むと、鶉野飛行場のメインの遺構である滑走路跡があります。全長1.2kmにも及ぶ長大なものです。かつては南側は陸上自衛隊の敷地で立ち入り禁止でした。
滑走路は姫路海軍航空隊のものではなく、川西航空機の滑走路だったとのこと。まぁでも航空隊も使用していたはずでしょうけど。以前はコンクリート舗装されてましたが、何故かはがされてしまいました。そのまま残して遊歩道にすればよかったのに。
姫路海軍航空隊の記念碑。この辺りから観光客の数が増えてきました。
そばに置かれた転圧ローラー。
整備台。かつては小学校の朝礼台に転用されていたとのこと。
復元紫電改は後回しにして遺構を巡ります。滑走路の側にある駐機場跡。コンクリート舗装が残ります。
駐機場の側にあるコンクリートの水路。
その側にあるコンクリートの建築物。
用途不明ですが、コンクリートの感じやアンカーボルトを見ると結構古そうに見えるのですが。かつてはこの上に木造の屋根が乗っかっていたと思われます。
先ほどのコンクリート建造物の前には当時のものらしい小道が延びています。
その小道にはコンクリート製の暗渠の蓋が残されていました。この暗渠の蓋、京丹後市の峯山海軍航空基地跡でも見たのと同じ感じで姫路海軍航空基地当時の物と思われます。
さらに北に進むと土盛りの無蓋掩体壕がありました。伐採されて見やすくなっており有難いです。
その無蓋掩体壕の近くに鶉野機銃座があります。
地下弾薬庫への階段。当然扉がされており進入できませんでしたが、それ以前に浸水が酷い。
機銃座部分には25mm三連装機銃のレプリカが置かれていました。
姫路海軍航空基地の遺構探索はここまで。次に話題の紫電改を見に向かいます。
復元された格納庫と紫電改。流石に観光客が多い。
格納庫内。このトラスの骨組みは当時のままの復元?ボルトはまぁ仕方ない。
復元された紫電改。なかなかよくできています。
正面から。年配の男性や子供たちははしゃいでましたね。姫路海軍航空基地が鶉野飛行場として観光地化していることに軍跡界隈では賛否あるようですが、とかくマイナーでちょっと前までは負の遺産として忌み嫌われていた旧軍遺構にこうした形でも理解が進んでいることは私は良い方向だと思います。旧軍遺構が負の遺産としての戦争遺跡という認識から近代化遺産という文化財としての認識へと変わりつつあるのも。今では舞鶴を代表する観光地になり重要文化財にも指定されている旧海軍の赤煉瓦倉庫群も市民団体が再評価し整備される前は負の遺産的な扱いで邪魔者扱いされてましたしね。
マスコットの「ウズラノ少尉」。可愛いw
20年くらい前、いやほんの10年位前まではこんなマスコットや復元紫電改なんかを置いてたら、共産党系団体から「戦争賛美だ!」とか言われて叩かれまくってたはずなので、とてもこんな展示なんてできなかったと思いますよ。