2019年11月

2019年11月27日

京都市・二条〜西院〜壬生・大宮界隈の近代建築探索レポ日記

7月に京都市内の二条から西院・壬生・大宮界隈の近代建築を探索してきました。
探索ルート








今回の探索ルート。サムネでは表示がおかしいですが、クリックして拡大するとちゃんと表示されるはず。地図上の番号は探索した以下の建物の番号と付随。年代の記載のある物件は「京都市近代化遺産調査報告書」掲載の物件です。
探索は二条駅からスタートし、まずは北へ。
1洋風住宅 西ノ京内畑町










\哨竜内畑町の町屋に洋館が付いた感じの住宅。
2西植司法書士事務所 西ノ京内畑町










△垢斡瓩の事務所建物。
ここから西へと向かいます。
3田村製作所 西ノ京東中合町










E賃疾什扈蝓西ノ京東中合町。大通りに近いめっちゃ街中にこんな古い木造の工場事務所建築があるとは…
4田村製作所










門も当時のものが残されていますが、結構古く感じます。戦前くらいはあるでしょうか?
さらに西へ。
5島津製作所E31棟 西ノ京西中合町 昭和12年










づ臘点什扈E31棟。西ノ京西中合町。昭和12年。
島津製作所三条工場は大正8年に開設されましたが、昭和9年の室戸台風で壊滅的な被害を受け、昭和12年に近代的な鉄筋コンクリート造の社屋等が建てられ、以後島津製作所の中心地となりました。その建物もここ最近次々と建て替えられていき、わすが現存しているものはわずかとなりました。このE31棟は数少なくなった昭和12年築の戦前の建物。
6島津製作所E31棟










ただ、現在は空き家状態に見えます。かつては研究棟だったらしい・・・
7島津製作所E31棟










玄関部分。
島津製作所三条工場1










10年ほど前までは本社屋はじめ戦前築の社屋が数多くありましたが、ほとんど建て替えられてしまいました。この写真の社屋も現存していません。
8砂原邸 西ノ京月輪町










ヅ臘点什扈E31棟の西にある黒壁の洋館。
9砂原邸










表札が分からなかったのでどなたが住まわれているかは分かりませんでしたが、大切に住まわれているようで建物の状態は非常に良いです。
ここから西院方面へ向かうため南下していきます。
10永巧舎 壬生西大竹町 昭和初期










Ρ聞舎。壬生西大竹町。昭和初期頃か。洋風の外観の民家が2棟並ぶ箇所。現在は民泊施設になってますが、かつては戦前の分譲住宅だったようです。
11永巧舎










検索すると内部も当時の雰囲気を残した感じでリノベーションされており、どことなく懐かしさを感じる良い雰囲気です。
12永巧舎向かいの洋風住宅










永巧舎の向かいには似たような建物があり、恐らくこの一帯は戦前の建売住宅の分譲地だったように思えます。
12秋山邸 壬生西大竹町 昭和初期










A邸。壬生西大竹町。昭和初期。まるで「うろこの家」のような洋館。
※2023年2月18日取り壊しを確認。
13秋山邸










棟続きですが門柱と玄関がそれぞれ2つあるため、本来は2世帯の長屋みたいな感じだったようですね。今も世帯が違うのかも。
14松浦邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。下見板張りのシンプルな洋館です。
15宮本邸 壬生西大竹町 昭和初期










M邸。壬生西大竹町。昭和初期。┐M邸とは名字が異なります。こちらも下見板張りのシンプルな洋館。
壬生西大竹町の洋館群を見た後、東へと向かいます。

30.理容那須 中京区壬生森町










理容那須。中京区壬生森町。※2023年2月18日訪問。
31.理容那須










シンプルな外観ですが、良い雰囲気の建物。いつまでも現役でいてもらいたいものです。

16芥川医院 壬生森町 大正から昭和初期










芥川医院。壬生森町。大正から昭和初期。今回の探索で一番見たかった建物。
17芥川医院













当時の姿が良好に残されている洋館医院。素敵な外観です。
18芥川医院










国登録有形文化財になってもおかしくない建物だよなぁ。
さらに東へ。
19芋松温泉 壬生森町










芋松温泉。壬生森町。住宅街の中にこんな趣のある銭湯があるとは。
20芋松温泉










確実に戦前はありそうな雰囲気。
21芋松温泉










堂々たる玄関の唐破風屋根。銭湯ファン界隈では有名なようで、検索したらレポートが結構出てきました。ただ、具体的な建築年が載ってないのが残念。
34.翠明荘 中京区壬生森町










翠明荘。中京区壬生森町。※2023年2月18日訪問
35.翠明荘










芋松温泉の向かいにある古いアパートですが、普通のアパートにしては雰囲気がなんか違う。
36.翠明荘










入口に唐破風が。あと玄関脇に意味深な丸窓とのぞき窓っぽいのが。
これ、遊郭関連の建物じゃないかと。普通、アパートの入口にこんな唐破風屋根は設けない。
20230218_101425










近くの通りには遊郭建築っぽい建物が並んでいたり。壬生には確かに壬生寺近辺に遊郭街があったそうですが、ここは少し離れているのが気になります。小規模な遊郭街が゛あったのでしょうか。

22三川邸










M邸。壬生森町。Googleの航空写真を眺めていて気になった建物。ただし、ストビューの見れない箇所だったため実際に行ってようやく判明。
21三川邸 壬生森町










確実に戦前物件かとは思います。目を引くのは2階にある、まるで手水鉢みたいなベランダ(多分)。なんでこんなデザインにしたのか分かりませんが、何というか見た目が重々しいw
奥の丸窓の建物も気になりましたが、庭木で良く見えませんでした。
このM邸のすぐ隣に明治期の洋館の旧本館や煉瓦の工場棟群がある旧京都綿ネル・日本写真印刷がありますが、今回はスルーしそのまま南へ。
23京都リベラルアーツ 壬生森町










京都リベラルアート。壬生土居ノ内町。大正から昭和初期。
擬石洗い出しモルタルの外壁の洋館。
25西大路アパート










西大路アパート。西院平町。昭和13年。今となっては数少ない戦前のアパート建築。
24西大路アパート 西院平町 昭和13年










反対側から。現在はアパートとして使われていないようで、貸倉庫の看板が掲げられていました。
東へ向かいます。
26小谷与染工場 中堂町庄ノ内町 昭和初期













小谷与染工。中堂寺庄ノ内町。
この近くに大型の洋館を見つけたのですが、かなり奥まった場所にあり撮影できる隙間がほどんどないため写真は断念。
南下し五条通に出た後、JR丹波口駅方面へ。
27中央湯 中堂寺北町 昭和2年










庵羆湯。中堂寺北町。昭和2年。現在は廃業していますが、数年前までは営業していたようです。
28中央湯










外観はリニューアルされてますが、側面は当時の面影を残していました。
29中央湯













奥にはコンクリート造の建物が。ボイラー室でしょうか。中央湯は近くの中央卸売市場で働く人たち用の銭湯だったと京都市近代化遺産調査報告書に書かれていました。
北上していきます。

35末松邸 壬生椰ノ宮町 大正から昭和初期










S邸。壬生椰ノ宮町。新選組で有名な八木邸の近くにある洋館付き住宅。
36末松邸










付属の洋館は2階建ての大型のもの。どことなく和風っぽい雰囲気も感じます。
37末松邸













昭和初期頃でしょうか。戦前であるのは間違いないかと。
30末松工務店 壬生椰ノ宮町 大正期










暇松工務店。壬生椰ノ宮町。洋風事務所建築。軒周りの雷文とデンテルの装飾がオシャレ。
31末松工務店










玄関部分。玄関の庇にも装飾があり中々凝っています。
32 末松工務店邸宅 壬生椰ノ宮町 大正期か










海修遼松工務店の背後に、末松工務店の住宅棟と思われる豪奢な洋館が建っています。
33 末松工務店邸宅か










今回の探索で一番豪華な洋館かもしれません。
34 末松工務店邸宅ステンドグラス













丸窓にはステンドグラスがありました。他の窓にもステンドグラスらしきものが。スクラッチタイルの外壁・建物外観の意匠から昭和初期頃でしょうか。外観だけでこの雰囲気ですから内部はさらに立派でしょう。
壬生を離れ東に向かいます。
38梅鉢医院 風早町 大正から昭和初期










看瀏医院。風早町。大正から昭和初期。まさに戦前の町病院といったたたずまい。
40梅鉢医院










奥行きはそこそこありますね。
39梅鉢医院










開発の相次ぐ京都の市街中心部に未だこういう戦前の洋風医院が残されているのは嬉しいですね。
42美髪館










21.美髪館。石井筒町。昭和2年。近代建築界隈では有名な建物。
41美髪館 石井筒町 昭和2年










実は20年前の学生だった頃に見かけて写真を撮った記憶がありますが、当時はほとんど知られていない無名の建物でした。当時はそれ以上に名建築と呼ばれる戦前の近代建築が京都市内にはたくさんありましたからねぇ。
43美髪館










あれから20年あまり。京都市内の各所にあった多数の大型の近代名建築は次々と姿を消し、美髪館のような小さな近代建築も貴重な存在となっていきました。
44美髪館










この美髪館は今でも理容室として営業されています。ずっと残ってほしいものです。
ここから二条駅方面へ向け北西に進んでいきます。
45星華通商 畳屋町 昭和初期










22.innk。畳屋町。昭和初期。元々は商店だった建物。軒周りなどに装飾があります。現在は宿泊施設になっているようで、内部はだいぶ改装されています。
46太田医院 壬生朱雀町 昭和初期










23.太田医院。壬生朱雀町。昭和初期。洋館の個人医院。今回探索した戦前の医院、芥川医院・梅鉢医院・そして太田医院とも洋風の外観ですね。やはり洋館の病院というのは一種のステータスみたいなものだったんでしょうか。
47太田医院










現在は廃業されていますが、個人宅として使われているのか荒れた感じには見えませんでした。

今回の探索はここまで。今回も多くの良質な近代建築に出会えました。今回出会った建物がこの先もずっと残っていれば良いのですが、最近は気が付いたら取り壊されていて消滅(訪問して2か月後には消滅ということも)することがしばしばあるので油断できない状況ですね。



besan2005 at 11:41|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 近代化遺産

2019年11月19日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構探索レポ日記(地下工場編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












先日探索した鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場編です。
関分工場は空襲の激しくなりつつあった昭和20年1月に鈴鹿海軍工廠の工場機能のいくつかを5か所に疎開させることに決定。そのうちの1つが三重県亀山市関の関分工場です。
関分工場は観音山に掘られた地下壕に工場機能を移した地下工場で、地下壕を構築した鈴鹿海軍工廠の疎開工場は関分工場と高山分工場でした。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記
前回は関分工場の遺構のうち、地上部分に残る遺構群の探索レポ日記を紹介しましたが、
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)
今回は有名な地下工場の地下壕群のレポ日記です。
なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
関分工場地下壕配置図











鈴鹿海軍工廠関分工場地下壕配置図。今回私が確認した地下壕です。藎忠報國様の資料やほかの方のレポを見ると確認できてない地下壕もあり、特に西側の谷へと抜けている反対側の入り口はほぼ確認できず。草ボーボーでしたからねぇ。あと、各地下壕は横穴で繋がっているようですが、入って確認したわけじゃないので(入口から確認できたものもあり)今回は明記していません。
40地下壕群遠景










地下壕群は観音山テニスコートの北の道路から東へ進んだ交差点の北へ延びる道の両側にあります。
41地下壕1










地下壕 J頂燭気譴晋園の裏にある地下壕。入口はコンクリートで固められています。公園自体がフェンスで囲まれてしまっているため入口にすら近寄れず。
42地下壕2入口










地下壕入口。
43地下壕2内部










地下壕内部。地下壕自体は厳重に封鎖されているので中には入れませんが、入り口から内部の様子は伺えます。この時のために用意した3500ルーメンのライトが役に立つww
地下壕△呂靴辰りしたコンクリート造で崩落もなし。恐らく地下壕,汎韻犬最初期に造られた壕だと思います。
44地下壕3入口










地下壕F口。ここから入口部分が素掘りに・・・
45地下壕3内部










内部は手前側の腰部のみコンクリートが残されています。奥は素掘りです。コンクリートの瓦礫が見当たらないので奥は最初から素掘りだったのかもしれません。支保工無しとは危険すぎる…
46地下壕4入口










地下壕て口。地下壕0聞漾入り口は全て素掘りです。
47地下壕4内部










地下壕て睇堯こちらは奥の方は天井までコンクリートが残されていますが、手前側は腰部しかありません。崩落してしまったようです。
48地下壕5入口










地下壕テ口。
49地下壕5内部1










地下壕テ睇堯手前の鉄柵扉のせいで光が奥まで届かない…。コンクリートは巻いてたようですが崩落しています。それにしてもコンクリートが薄い。物資不足の戦争末期とはいえこんなお粗末なコンクリート巻きではアーチにしても持たないでしょう。コンクリートの質も悪かっただろうしそりゃ崩落しますわ。内部に入ってのレポをされているサイトを見たことありますが、危険極まりない行為かと。
51地下壕6入口










地下壕ζ口。やや斜めになっている入口です。
52地下壕6内部










地下壕ζ睇堯こちらも同様にコンクリート巻きの崩落が激しい。
53地下壕7入口










地下壕入口。
54地下壕7コンクリート










地下壕Г瞭り口手前には大きなコンクリートの残骸がありました。
55地下壕7内部










地下壕内部。手前側の崩落がひどいですが、奥の方は比較的保たれています。
56地下壕8










地下壕入口。かなり上の方にあり足場的に危険と判断したため道路からの遠景のみ。
57地下壕9入口










地下壕入口。
58地下壕9内部










地下壕内部。ここはコンクリートは巻かれておらず素掘りのままでした。しかしコンクリート巻きの他の壕より崩落が少ないのは皮肉。
59地下壕10入口










地下壕入口。
60地下壕10内部










地下壕内部。こちらも素掘りですが崩落はほとんどなく、両側の排水溝も確認できるくらい状態が良いです。岩盤の質にもよるでしょうけど質の悪いコンクリートをく薄くり巻くより丈夫なのかも。それでも支保工無しは怖い…
61地下壕11










地下壕入口。ここも結構上にあり登るのは危険と判断し道路からの遠景撮影。恐らく地下壕・と同じく素掘りと思われます。
62地下壕A










次に西側の谷の道路へ。地下壕A入口。恐らく地下壕の西口かと。このほかにも東側に入口を開けている地下壕の西口がいくつもあるようですが、前述の通り草で覆われ確認できず。
63未成地下壕1










地下壕Aのある道路の崖下には作りかけの地下壕が3つあります。これは未成地下壕 
64未成地下壕2










未成地下壕
65未成地下壕3入口










未成地下壕F口
66未成地下壕3内部










未成地下壕F睇堯A之,蠅覇口から4~5mまで掘られていました。

鈴鹿海軍工廠関分工場の地下工場は掘られた15本の地下壕のうち2本の地下壕で機銃を生産し2本に旋盤が置かれたとのことで、ほとんどが未完成もしくは使われなかったようです。高山分工場の地下壕もですが、工事が開始されたときはもう遅かったんでしょうね・・・。



besan2005 at 19:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 三重県 | 旧軍遺構

2019年11月17日

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地上遺構編)

鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












戦争末期の昭和20年になると空襲も激しくなり、同年1月に鈴鹿市にあった鈴鹿海軍工廠は工場機能のいくつかを疎開させることが決定。疎開先の5か所が選定されそれぞれ工事が開始されました。うち岐阜県高山市の高山分工場と三重県亀山市関町の関分工場は山の麓に横穴を掘って作られた地下工場でした。
しかし、関分工場は一部のみ稼働。高山分工場は地上の仮工場のみ稼働し地下工場は未完成で終わりました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
※鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記

今回は三重県亀山市にある関分工場の遺構群を探索してきました。
地下工場編のレポ日記はこちら。
※鈴鹿海軍工廠関分工場遺構群探索レポ日記(地下工場編)
44地下壕3入口










関分工場と言えば観音山麓の地下壕が有名ですが、実は地上にもいくつか遺構が残されています。まぁ、ずっとモグラみたいに過ごすわけもいかないわけですしね。なのでレポ日記は地上遺構編と地下壕編の2つに分け、今回は地上遺構編としていきます。

なお、今回の探索にあたっていつもお世話になっている藎忠報國様(ブログ・大日本者神國也)からの情報と提供された資料を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
鈴鹿海軍工廠関分工場遺構配置図2












なお文中の各遺構の番号は作成した位置図に従っております。

1第四寄宿舎遠景










´第四寄宿舎。寄宿舎ということは動員学徒が生活していた建物でしょうか。横長の長屋のような建物が2棟残されています。
2第四寄宿舎










奥の建物(番号)は昭和21年の航空写真を見る限り、規模・位置とも当時のままと思われます。
3第四寄宿舎










別角度から。
4第四寄宿舎










右奥側は当時の外観を良く残しているようです。しかし言っちゃ悪いですが粗末なつくりですね。戦争末期だから仕方ないとはいえ。
5第四寄宿舎










手前側の短い棟(番号)ですが、昭和21年の航空写真にはその場所には建物が存在していませんが、建物の造りが酷似しているので、恐らくどこかの工員宿舎を切り詰めて移築したものと思われます。 
6第四寄宿舎井戸か










寄宿舎の建物の前には井戸がありました。コンクリートの感じから当時のものと思われます。

12第八工員宿舎遠景










ぢ菷工員宿舎。こちらも現存している建物でしたが・・・訪れた時はフェンスが。なんと取り壊し中。
13第八工員宿舎










手前の工員宿舎(番号)は昭和21年の航空写真を見ると位置は当時のままのようですが切り詰められ短くなっています。
奥の建物(番号)は航空写真にはその位置に建物はなく、第四寄宿舎の手前の建物()と同様別の宿舎の建物を移築してきたものと思われます。
15第八工員宿舎










移築されたと思われる宿舎建物()。
14第八工員宿舎近景










アップ。
16第八工員宿舎










別角度から。どうも火事を起こし一部が焼失したようで梁や柱が焼け焦げていました。老朽化もあり取り壊されることになったのでしょう。
IMG_4820










積み上げられた廃材…。
17第八工員宿舎井戸










工員宿舎のそばには井戸がありました。
18第八工員宿舎井戸










ポンプは当時のもののようです。
19第八工員宿舎ベタ基礎










これは当時の宿舎のベタ基礎でしょうか。

7移築官舎か










先ほどの第八工員宿舎から西へ進むと見える古い木造建物(番号)。
昭和21年の航空写真にはこの場所に建物は存在していませんが、一般の住宅とは違うように見えるどうも気になる作り。いわば「カタギの建物じゃない」建物といった感じでしょうか。
8移築官舎か










右側から。
9移築官舎か










左側から。
10移築官舎か










側面。これまで鈴鹿海軍工廠や舞鶴市の朝来第三火薬廠・宮津市の第三十一海軍航空廠など色々な官舎・宿舎を見てきましたが、それによく似た感じなんですよねぇ。切妻屋根の玄関・寄棟屋根・庭側に作られた庇など。ちなみにここから真っ直ぐ上った突き当りに関分工場の診療所があったようです。
決定的な裏付け資料がないので断定できませんが、移築されてきた建物ではという可能性も考えて紹介。
11移築宿舎か










先ほどの建物Гら登った先に移築されてきた可能性のある建物┃があります。規模的に工員宿舎の長屋にも見えるんですよね。あくまで可能性として紹介。
20移築事務所か










さらに西へ進み、関神社御旅所の隣に古い木造建物(番号)があります。
21移築事務所か










番号の建物東面は当時と思われる外観が良く残されていますが
22移築事務所か










西面は大破しており廃屋となってます。
23移築建物か










奥にある番号の建物。
この辺りには事務所建物があったようで位置的にはこの建物とだいたい同じ個所にあったようですが、建物の向きと規模が異なります。全くの推測ですが、事務所建物を再利用し民家として使用していたのでは。
27事務所基礎か










建物の西側の空き地には当時の事務所の基礎の一部と思われるコンクリートがあります。
25浴場跡










番号の建物の北側には浴場跡(番号)があります。
24浴場跡










別角度から。
26浴場跡小便器










傍らには小便器も残されていました。そういえばトイレっぽい間仕切りのある一画もありました。
この周辺には炊事場や浄水場もあったようですが、雑草に覆われまくり確認不可でした。この浴場跡だけ雑草が無く、遺構という認識で手入れされているのかも。だとするとありがたいですが。

28取水塔遠景










国道25号線を渡り、焼肉びっくりや(結構有名な店らしい)の裏手の川の中に円筒形のコンクリート構造物があります。これは関分工場時代の取水口(番号)とのこと。
29取水塔










望遠でアップ写真を撮影。この背後にポンプ場があったようです。

30鍛錬工場跡










観音山公園へ向かい、テニスコートへ。その背後に整地した平坦地があります。ここは鍛錬工場(番号)があった場所。
31鍛錬工場コンクリート基礎










わずかに基礎と思われるコンクリートの構造物が残されています。
32汽缶場跡煙突











その隣には汽缶場(番号)があり、煙突(番号)が残されています。
33汽缶場跡煙突










正面から
34汽缶場跡コンクリート基礎










汽缶場の基礎と思われるコンクリート構造物。
IMG_4910













煙突の手前には長方形の大きな穴があります。これも汽缶場の遺構と思われますが、何せ周りが草に覆われていて分かりづらく足を踏み外す可能性があるので注意!
35汽缶場跡煙突










汽缶場の番号の煙突の上にも煙突の遺構(番号)があります。
36汽缶場跡煙突










正面より。耐火煉瓦らしき煉瓦で作られています。
37汽缶場跡煙突土管










付近には陶製の土管の破片が散乱しています。恐らく常滑焼。
39貯水槽跡










汽缶場跡から東に道を進んだ先の崖の上の公園に貯水槽跡(番号)があります。頑丈なコンクリート製たものと思われますが破壊され一部のみ残されています。恐らく公園整備の際に危険なので破壊したのでしょう。
40地下壕群遠景










汽缶場と貯水槽との間に交差点がありますが、その交差点の北に向かう道の両側の崖面に地下工場として掘られた地下壕が複数(管理人は11本確認。どうやら14本あるらしい)存在しています。
41地下壕1










交差点角の公園に一番近い側にある地下壕 残念ながらこの地下壕は道側まで厳重に柵がされており、入り口にすら近寄れませんでした。
42地下壕2入口










43地下壕2内部










しかしそれ以外の地下壕は(一部を除き)入口まで近寄ることができ、柵がされていたので入口からのみでしたが内部を観察することができました。次回は地下壕編として鈴鹿海軍工廠関分工場地下工場の地下壕を紹介していこうと思います。



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2019年11月13日

JR嵯峨野線・八木駅舎&千代川駅探訪レポ日記。

3八木駅舎正面











京都府南丹市にあるJR嵯峨野線・八木駅は昭和9年に建てられた戦前の木造駅舎です。
嵯峨駅舎









10年ほど前までは明治30年築の嵯峨嵐山駅(当時JR西日本管内で最古の現役駅舎だった )や
旧亀岡駅2








旧亀岡駅1









昭和11年築の亀岡駅がありましたが、いずれも姿を消し(明治37年築の二条駅舎は梅小路に移築され現存。)JR嵯峨野線管内で現役の戦前駅舎は昭和10年築の千代川駅と昭和9年築の八木駅のみとなりました。
その八木駅も建て替えが決まり、2019年の9月には姿を消すと聞き、同年7月に訪問してきました。
合わせて同じく戦前の昭和10年築である千代川駅にも訪問してきました。
1八木駅舎外観










八木駅外観。
2八木駅舎外観










八木駅外観その2。昔懐かしいレトロな木造駅舎です。
4八木駅舎玄関










八木駅の正面入り口。丸窓が特徴的です。
5八木駅舎待合室










待合室内。
6八木駅舎待合室










改装されてはいますが昔懐かしい雰囲気が残されていますね。
7八木駅舎ホーム










駅舎側ホーム。
9八木駅舎ホーム










反対方向。
10八木駅舎ホーム古レール










ホームの骨組みには昔の駅らしく古レールが再利用されています。
IMG_3668













古レールを観察すると銘があるのが分かり、「1910」や「1881」の西暦があるのを確認しましたが、厚く塗られた塗装で判読しきれませんでした。
11八木駅舎跨線橋










跨線橋も駅舎と同じころの物と思われる古いもの。
12八木駅舎跨線橋看板













跨線橋の壁に付けられた古い看板。国鉄時代の物でしょうかね。
14八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段。
13八木駅舎跨線橋内部










跨線橋の連絡通路。トラスの鉄骨もリベット打ちの古いものですね。
15八木駅舎跨線橋内部階段










跨線橋の階段2。
16八木駅舎反対ホームより










反対側ホームから駅舎を望む。
17八木駅舎反対側ホームより










別角度から。
18八木駅舎ホーム待合










反対側のホームにある待合室。
19八木駅舎ホーム待合










ホーム上屋側から。結構モダンな造りで戦後の物かなと思いましたが、
20八木駅舎ホーム待合管理表










貼られていた建物財産標には昭和18年9月の文字がありました。意外と戦前の建物でした。
IMG_3684










撮影中、ちょうど電車が入ってきました。もうこの姿を見ることは出来ませんね。

IMG_3688










八木駅から1駅京都方面に向かった側の亀岡市にある千代川駅にも行ってきました。
千代川駅は昭和10年に建てられた小さな無人駅です。
IMG_3687










駅舎の入り口側。
IMG_3689










駅舎内の待合室。
IMG_3691










ホーム側。
IMG_3690










一部増築部分はありますが、駅舎に付属している屋根は当時のもの。
規模は小さいですが八木駅が建て替えとなる中、JR嵯峨野線管内では唯一の貴重な戦前の駅舎となります。この千代川駅の駅舎もいつまであるか分かりませんし。



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飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記

IMG_4557










9月17日より1ヶ月半余り出張で岐阜県の高山市に滞在して休日に高山市内の近代建築を探索していましたが、
※高山市の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪
滞在中に隣町の飛騨市の飛騨古川町でちょうど新そば祭りが行われたため、そば祭りと合わせて飛騨古川の近代建築探索をしてきました。飛騨古川町も範囲は狭いですが古い街並みの残る観光地で、街中にはいくつもの近代建築が存在していました。

1旧河合療院 古川町弐之町 昭和3年










〇旧河合療院。古川町弐之町。昭和3年。
2旧河合療院










飛騨古川町を代表する洋館ですね。いかにも戦前の町の医院と言った佇まい。
3旧河合療院













外観も良く保たれてますが、現在は向かいの場所に河合療院の新たな建物が建てられこちらは使用されていないようです。内部を見てみたいものです。国登録有形文化財。

4渡邉家住宅土蔵別館 古川町壱之町 昭和9年













〇渡邉家住宅土蔵別館。古川町壱之町。昭和9年。
造り酒屋の大きな商家の裏手に建つ洋館。何故かこの建物だけ洋風。
5渡邉家住宅土蔵別館










裏手の様子。いい雰囲気ですね。
渡邉家










表側の主屋も含めて国登録有形文化財。

6加藤邸 古川町壱之町 昭和初期か










K邸。古川町壱之町。昭和初期か。
街中を歩いていて見かけた住宅。何となく洋風の雰囲気を漂わせる感じだったので開いてたガレージになっている部分を拝見すると…
7加藤邸内部洋室










タイル張りの床に洋風の窓。そして壁に作り付けの机(元は暖炉?)と中々良い雰囲気のスペースが。元は応接室だったんでしょうかね。

7洋風商店 古川町壱之町 昭和初期か










古川町壱之町の元洋風商店。昭和初期頃でしょうか。1階は完全にガレージとなってますが、2階はオリジナルの姿が残されていました。

8馬場のかどや 古川町殿町 昭和初期か










〇馬場のかどや。古川町殿町。昭和初期か。
9馬場のかどや










2階は伝統的な商家ですが、1階はまるでカフェーのような洋風のデザイン。現在は居酒屋ですがふさわしい用途かも。

10由布衣工房 古川町壱之町 昭和初期か










〇由布衣工房離れ。古川町壱之町。昭和初期。
元は河合家別邸だった建物。大きなお屋敷です。離れのこの建物は2階部分に洋風の意匠がありますね。表門の写真を撮るのを忘れました。国登録有形文化財。

11飛騨古川駅 古川町金森町 昭和9年










〇飛騨古川駅。古川町金森町。昭和9年。
12飛騨古川駅










JR高山本線開業時からの駅舎です。10数年前までは地方都市のあちこちにこういった洋風の平屋建てのレトロな木造駅舎がありましたが、ずいぶん数が減りました。
八木駅舎










もうすぐ建て替えになるため、建て替え前に訪問した京都府南丹市の八木駅舎を思わせる昔懐かしい駅舎です。※八木駅舎の記事は後日作成予定。
13飛騨古川駅










車寄せ部分。天井部分に若干の装飾が。
14飛騨古川駅










15飛騨古川駅










待合室内部。そうそう。昔の駅舎はこんな感じでした。懐かしいですね。
16飛騨古川駅










駅のホームの上屋。できればこのまま使われ続けて欲しいです。

IMG_4579










この日、飛騨古川駅の裏の駐車場では飛騨そば祭りが開催されていました。10時の開場直後の様子なのでまだお客さんは少ないですが、11時になるとお客さんで一杯になり列が出来ました。
DSC_0048







会場では地元の蕎麦屋さんの手打ちの実演も。
IMG_4582













私も新蕎麦を頂きました。
DSC_0049







地元産の天然キノコを使ったきのこ蕎麦。山で採れた天然のキノコは味が濃く旨みや歯ごたえもあり絶品。蕎麦は新蕎麦の十割蕎麦で香り良くコシがあり旨かったです。
DSC_0050







1杯じゃ足りず、盛り蕎麦も注文w
IMG_4585










地元産のイワナの炭火焼も美味しかったです。
IMG_4546










飛騨古川町はさすが観光地だけあって、高山市と同じく古い町並みが良く残されてました。蕎麦も旨かったし、こちらに旅行するなら高山市と飛騨古川はセットで巡りたいところですね。
ちなみに飛騨市内には他にも飛騨神岡町にいくつか良い感じの近代建築があるようですが、距離と時間の都合で行けませんでした。ママチャリじゃなぁ・・・

君のそば













※おまけ。お蕎麦屋さんの店先にあった「君のそば」www
飛騨古川は映画「君の名は」の舞台になった町で、ヒロインの三葉ちゃんの住む糸守町のモデルですね。で、この「君のそば」・・・

君→温泉卵黄身
三葉ちゃん→三つ葉。
瀧くん→しらたき
結び→結び揚げ湯葉
赤い組み紐→飛騨の漬物

よく考えてますねw


besan2005 at 08:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 岐阜県 | 近代化遺産

2019年11月11日

高山市の近代建築探索レポ日記

IMG_4346










先月まで岐阜県の高山市に出張に行ってました。1ヶ月半に及ぶ長い出張で忙しさもあり大変でしたが、おかげで観光名所や市内の近代建築をくまなく探索することが出来ました。
また、出張中に隣町の飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索も行いました。
飛騨市・飛騨古川町の近代建築探索レポ日記 - BESANの歴史探訪

以下、私が探索した高山市の近代建築を紹介していきます。
1かみなか旅館 花岡町 明治21年 元遊郭










〇かみなか旅館。花岡町。明治21年。
2かみなか旅館










国登録有形文化財の元遊郭の建物。

3かみなか旅館










今はちょっとお高めの旅館となっています。中が気になるなぁ。


4柚原邸 花岡町 大正〜昭和初期










〇柚原邸。花岡町。大正〜昭和初期。
5柚原邸










下見板張りのシンプルな建物。1階部分の窓がオシャレ。
6柚原邸










反対側の窓は改装されてますね。

7遊廓の検番所か 花岡町










8遊廓の検番所か










花岡町にあった何となく気になった建物。遊郭関連だった建物?

10旧村田医院










〇村田医院。本町4丁目。昭和27年。
9旧村田医院 本町4丁目 昭和27年










戦前かと思いましたが、戦後らしいです。(高山市の近代建築リストの本より)
11旧村田医院










戦後の建物ですが建物自体は良い雰囲気です。新たな用途になるのか改装中でした。
12上野家具店 花川町 昭和初期か










〇上野家具店。花川町。昭和初期。
軒周りの飾りが素敵な看板建築。

13高山信用金庫川西支店 朝日町 昭和戦前か










〇高山信用金庫川西支店。朝日町。
昭和戦前期か。何となく古そうです。
14うつほ人形店 朝日町 昭和戦前か










高山信用金庫の向かいにある戦前っぽい看板建築。

15飛騨高山中華そば鍛冶橋 本町3丁目 昭和初期か










〇飛騨高山中華そば鍛冶橋。本町3丁目。昭和初期。
16飛騨高山中華そば鍛冶橋










軒周りの装飾が凝ってます。今はラーメン店ですが、かつては何の建物だったんでしょうね。

18三之町倶楽部 上一之町 昭和23年










〇三之町倶楽部。上一之町。昭和23年。
19三之町倶楽部










戦前の建物に見えましたが、資料では昭和23年らしいです。
20三之町倶楽部










かつては商店だったようですが、現在はイベント関連の建物になってるようです。

17たま井や 下一之町 昭和初期か










〇たま井や。下一之町。昭和初期の看板建築。

21旧山桜神社火の見櫓 本町2丁目 明治14年 昭和11年移築










〇旧山桜神社火の見櫓。本町2丁目。明治14年築。昭和11年移築。
割とランドマーク的な存在の火の見櫓です。

22天狗総本店 本町1丁目 昭和11年










〇天狗総本店。本町1丁目。昭和11年。
高山市の近代建築で一番有名な建物ではないでしょうか。
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西から。
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北から。
23天狗総本店










お肉屋さんなので「精肉」の看板があります。
24天狗総本店










屋号でもある天狗の装飾。本格的な洋風建築とバラエティーに富んだ装飾は見ていて飽きません。
国登録有形文化財です。


25駿河屋(旧北陸銀行) 本町2丁目 昭和18年










〇駿河屋本店(旧北陸銀行)。本町2丁目。昭和18年。
戦時中の建物ですが、ちゃんと列柱を施した古典様式となっています。

28旧スミ時計店










〇旧スミ時計店。本町2丁目。昭和9年。
26旧スミ時計店 本町2丁目 昭和9年










天狗総本店の向かいにある建物。
27旧スミ時計店










こちらも高山市を代表する近代建築です。

29ル・ミディ 本町2丁目 昭和初期










〇ル・ミディ。本町2丁目。昭和初期。
現在は飛騨牛レストラン。天狗総本店の斜め向かいにあり、
天狗総本店・旧スミ時計店と並んでこの一角は近代建築が集中しています。

30バグパイプ 片原町 昭和初期










〇バグ・パイプ。片原町。昭和初期。
31バグパイプ










こちらも高山市を代表する近代建築の一つ。
32バグパイプ










内部は喫茶店です。レトロな良い雰囲気。
33バグパイプ










京アニ作品の「氷菓」にも登場し、ファンの聖地となっています。
34バグパイプ













階段の親柱。店主の方に聞くと建物は昭和初期とのこと。

35旧瀬古写真館 馬場町2丁目 昭和初期










〇旧瀬古写真館。馬場町2丁目。昭和初期。
36旧瀬古写真館










高山市図書館「煥章館」の近くにある建物。割とシンプルな外観。現在は廃業。


37山岸写真館 馬場町1丁目 大正7年










〇山岸写真館。馬場町1丁目。大正7年。
38山岸写真館










飛騨護国神社の近くにある華やかな外観の写真館。
39山岸写真館










玄関の「山岸写真館」の額も当時の物かな?国登録有形文化財です。

40旧日下部味噌醤油煉瓦蔵 上一之町 大正10年










〇旧日下部味噌醤油煉瓦蔵。上一之町。大正10年。
41旧日下部味噌醤油煉瓦蔵










近代建築が豊富な高山市ですが、煉瓦建築は非常に少ないです
(もう1か所あった煉瓦建築は取り壊された)。国登録有形文化財。

42旧高山町役場 神明町 明治28年










〇旧高山町役場。神明町。明治28年。
43旧高山町役場










堂々たる近代和風建築です。
44旧高山町役場










現在は資料館となっています。なんと無料。
45旧高山町役場










こちらの和室に置かれている高山市の近代建築の資料が大変参考になりました。
今回紹介している近代建築の年代はここで判明しました。
46旧高山町役場講堂










2階の講堂。大空間に広がる格天井は迫力あります。

47洋館付き住宅 堀端町 昭和初期か










〇堀端町の洋館付き住宅。昭和初期か。
城山に向かう途中で見つけた住宅。

48旧押上森蔵陸軍中将邸主屋 堀端町 大正2年










〇旧押上森蔵陸軍中将邸主屋。堀端町。大正2年。
50旧押上森蔵陸軍中将邸主屋










現在は移築され照蓮寺の庫裏となっていますが、かつては街中の西之一色町にあり、書斎や豪奢な洋館が付属していました。
49旧押上森蔵陸軍中将邸主屋  移築され照蓮寺の庫裏として使用










表玄関には式台がある格式高いもの。主屋は照蓮寺に書斎は飛騨国分寺の境内に移築されました。
51照蓮寺煉瓦蔵 押上邸の関連か










奥には煉瓦造の倉もありました。これも移築されたものでしょうか。
押上森蔵陸軍中将は陸軍兵器本廠を勤めた方で、退役後は火藥製造株式会社の社長を務め、また高山市の郷土史研究もされていた地元の名士。
65旧押上森蔵陸軍中将邸書斎 総和町 大正2年

 








で、こちらが飛騨国分寺境内に移築された旧押上森蔵陸軍中将邸の書斎。大正2年。
書斎と言っても一軒家です。
唯一残された洋館は取り壊しの危機に遭いましたが、地元の左官業の方の尽力で自邸に移築されたようです。詳しくはこちら
この方、なんと大河ドラマ「真田丸」の題字を書いた人だそうで、有名人だったんですね。
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飛騨国分寺三重塔。江戸時代後期・文政年間の築造。

53旧三星製糸事務所 神明町 明治21年










〇旧三星製糸事務所。神明町。明治21年。
54旧三星製糸事務所










明治前期の貴重な擬洋風建築。大切に使われています。

55サロン花里 花里町 昭和初期か










〇サロン花里。花里町。昭和初期か。
56サロン花里










小さな洋館付き住宅です。洋館もですが横の庭園も素敵。現在はカフェっぽいですね。

57旧須田医院 桜町 大正末期










〇旧須田医院。桜町。大正末期。
当時の外観が良く保たれており大切に使われています。
58旧須田医院










ただ、庭木がちょっと邪魔・・・

59旧高山測候所 西之一色町 明治36年










〇山岳資料館(旧高山測候所)。西之一色町。明治36年。
60旧高山測候所










高山市街地からやや離れた「飛騨の里」内に移築された建物。
国登録有形文化財ですが、やや傷みが目立ちます。 
61旧高山測候所










内部は登山や山岳関係の資料館になっています。
62旧高山測候所










入館料は無料。
63旧高山測候所










それにしても誰もいない。管理の人すらいない・・・

64旧藤井医院










旧藤井医院。上三之町。大正期か。
63旧藤井医院 上三之町 大正期か










かつて診療所だったと思われる洋館の方に目が行きますが、
横のかつて邸宅だった美術館の方が有名ですね。

66旧広瀬医院 上二之町 昭和22年










〇旧広瀬医院。上二之町。昭和22年。
67旧広瀬医院










小さい洋館付きの住宅。戦前かと思ったら戦後の建物でした。

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〇JR上枝駅。下切町。昭和9年。
上枝と書いて「ほずえ」と読みます。難読駅名ですね。
高山本線開業時からのレトロな木造駅舎。これを撮影した時、一応撮影した感じだったので、内部までは撮影せず、後から開業時の駅舎と知ってもっと撮影しておけばとガッカリ。

67戦前の発電所か 国府町村山










飛騨古川町へ向かう途中に見つけた古い水門。国府町村山。
68戦前の発電所か










吐き口は石積みで、
69戦前の発電所か










呑み口は古いコンクリート。何の施設かは分かりませんが戦前はありそうな古さです。
大正から昭和初期?

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〇高山市図書館「煥章館」。
2004年に開館した図書館ですが、外観は明治9年に完成した煥章学校(現・高山市立東小学校)を再現しています。
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映画「君の名は」にも登場した図書館としても知られていますね。

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高山市と言えば、和風の古い街並みが有名で、この界隈はいつも観光客でにぎわってましたが、少し足を延ばすと様々な洋風建築に出会えた素敵な街でした。

※余談
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高山市到着初日にホムセで買った安いママチャリ。
1ヶ月半の間、仕事場も買い物も街中の探索も山の上の松倉城跡へも隣町の飛騨市へもこのママチャリを漕いで走り回ってました。
最後の方は後輪のブレーキが不具合を起こしはじめ悲鳴を上げてましたが、よく頑張ってくれました。
チャリは地元の一緒に仕事をした方に贈呈。
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1ヶ月半過ごしたアパートの部屋。1ヶ月半とはいえずっと過ごしているとそれなりの愛着も湧くもので。何せ自宅に帰ったのは1度だけでしたからね。1ヶ月半お世話になった部屋。2度とこの部屋に住むことは無いだろうけど思い出には残りました。


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2019年11月04日

舞鶴市・旧海軍水交社社営住宅群と海光会建物(推定)探索レポ日記

水交社社営住宅位置図









舞鶴市・東舞鶴の浜地区航空写真を眺めていて同じ規格の建物が同じ向きに整然と並んでいるのを発見。官舎ではと思い調べてみました。
無題2







国土地理院HPより米軍撮影の航空写真。同場所に整然と並ぶ建物群。
水交社住宅配置図










昭和11年の「新舞鶴市街図」を見てみると、「水交社社営住宅」となっています。
水交社は旧海軍の将校向けの親睦団体で、福利厚生なども行っていましたが、住宅の供給もしていたのは知りませんでした。
アジア歴史資料センターの昭和3年の資料によれば
「機関学校常設と共に益々住宅難となり、水交社を経営主体として京都府より資金を借り入れ尉官向けの住宅を建設する」とあります。
舞鶴の海軍将校向けの官舎は所謂「官舎山」の麓に明治32年から35年にかけて造られました。
舞鶴市浜地区・旧海軍官舎群
しかしそれだけでは足りなくなったようです。
現在5棟の住宅が残されているのを確認しました。
11住宅群










現在の旧水交社社営住宅群。昭和11年の市街図によれば手前左が住宅九。手前右が住宅一二。左奥が住宅八。右奥が住宅一一。その他に住宅九の西側に住宅三があります。
7住宅九










住宅九。当時の塀が残されており一番オリジナルを保っています。
IMG_4689










正門部分。現在は空き家になっています。
10住宅一二










住宅一二。塀はブロック塀となってますが、主屋は当時のものです。
9住宅一一










住宅一一。こちらも塀と門は建て替えられてますが、主屋は当時のもの。
8住宅九










主屋部分。
住宅八






住宅八。(迂闊にも写真を取り忘れていたので、Googleのストリートビューより拝借。後日差し替えます。)
6住宅三










住宅三。手前に新たに建物が建っており主屋が見難いですが、航空写真で確認することができます。
これら水交社社営住宅群はアジア歴史資料センターの資料と昭和11年の市街図より、昭和4年頃から昭和10年頃にかけて建てられたものと思われます。

この水交社社営住宅群から南西の位置に舞鶴東遺族会館という建物があります。
1海光会正面










舞鶴東遺族会館の正面。
2海光会妻部













妻部には鎧窓と装飾のある破風があり、古さを感じます。
3海光会側面










舞鶴東遺族会館全景。
4海光会背部










舞鶴東遺族会館背面。モルタル塗されてない壁面は板張りの古風な感じ。
内部は和室となっています。
5海光会基礎部










基礎のコンクリートは川砂利の古いもの。
5海光会塀










正面のブロック塀には舞鶴市の市章があります。これは昭和19年に制定されたものです。
ただしこのブロック塀は戦後の可能性があります。
昭和11年の市街図には「海光会」という建物となっています。アジア歴史資料センターの資料「海光会設立の件」によれば、海軍判任文官の親睦団体だったようです。
この建物が海光会の建物であったかどうかは断定できませんが、建物や基礎のコンクリートの感じから戦前の建物の可能性があります。引き続き調査を続行していきます。




besan2005 at 20:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年11月03日

舞鶴市・旧海軍東山防空指揮所地下壕見学会レポ日記

旧海軍特設防空指揮所壕位置図












舞鶴市の旧海軍東山防空指揮所は昭和16年頃に東山山頂に鉄筋コンクリート造2階建ての見張所を備えた防空指揮所が建てられたのが始まりですが、昭和18年末から昭和19年にかけて東山の地下に巨大な地下壕が建設されました。これは空襲の危険性を回避するために計画されたもので、内部は指揮室・作戦室・電信室・電話交換室やさらには鎮守府長官室・参謀室なども設けられ、寝室や食堂も備えられていました。コンクリートの壕は爆弾の直撃にも耐え、更には毒ガス攻撃に備えて空調も完備しており、鎮守府機能を丸ごとこの東山の防空指揮所壕に移転する予定だったようです。

戦後、占領軍が爆破作業を行いましたが、余りに頑丈なため断念。そのため現在も多くが残される形となりました。
現在は落盤の恐れがあるため普段は立ち入り禁止ですが、今回、日本遺産WEEKの一環として見学会が企画。またとない機会なので応募して本日参加してきました。
1旧海軍東山特設防空指揮所壕遠景










東山遠景。この山の地下に巨大な地下壕の遺構が残されています。
1東山特設防空指揮所壕スタート










まずは東山山頂まで登っていきます。
2麓の地下壕入り口










ゲートのすぐそばにほとんど埋もれたコンクリート造の地下壕入り口を発見。
3麓の地下壕入り口近景










僅かな隙間を照らしてみました。どうやら土砂は入り込んでいますが地下壕の躯体自体は無事のようです。
4東山山頂










東山山頂。かつては2階建ての防空指揮所の建物がありましたが、戦後の前島ふ頭建設のための埋め立て工事による土砂採取で山頂が削られてしまい消失しました。
5地下壕入り口遠景










今回の地下壕への入り口は山頂からしばらく下った先にあります。
6地下壕入り口










地下壕入り口。意外なことに開口部は岩盤の素掘りでした。
7地下壕素掘り部分










入口からしばらく素掘りの状態が続きます。支保工も無い本当に素掘りの状態。落盤が怖い。
8地下壕コンクリート造部分










しばらく進むとコンクリートで巻いた状態に。
9地下壕コンクリート造部分










入口付近が素掘りなのは工期と予算の関係でしょうか。
10地下ドーム










通路を抜けるとドーム型の巨大な空間に出ます。
11地下ドーム奥壁から










反対側からの撮影。参加者との対比で大きさが分かりますでしょうか。
旧海軍東山特設防空指揮所壕内部配置図








案内の方が見せてくれた当時の内部の各部屋の配置図。この巨大なドームの内部には2階建ての木造建築が建てられており、1階に送信機室・電話交換室・砲台指揮室・情報室・先任伍長室があり、2階は長官室・参謀室・作戦室・暗号室・電信室があり、さらには生活空間としての食堂や寝室があったようです。2階の作戦室には大きな日本地図が壁に掛けられ、電球の点滅で敵機の来襲を知らしていたとのこと。
東山防空指揮所壕には軍人77人と軍属135人が働いていましたが、それだけでなく女子挺身隊の女学生も働いていました。その女学生は京都などから呼ばれた良家の子女だったらしく、やはり親のコネで安全で快適な部署に配置させてもらったのでしょうね。まるでジャブロー・・・
12コンクリート配管










コンクリート製の配管が残されていました。
12コンクリート配管2













用途の方は不明です。

戦後に占領軍が木造建物を解体し焼却したため、堅牢なコンクリートのドームだけ残された形となりました。現在も焼け焦げた木材があちこちに点在していました。
このドーム内からはいくつか開口部があります。上記の配置図に番号を追記しました。
13非常口










“鷯鏝。今回進入した箇所とこの開口部は当時は非常口であり、正規の入り口の通路は反対の壁側にありました。こちらは奥が崩落し進めません。
14碍子










非常口上部の碍子。
13扉部分の金属と鉄筋













扉部分。扉の基部の鉄やコンクリートの鉄筋はずっと地下の湿った環境に74年間も晒されていたにもかかわらずほとんど劣化していません。
15発電機室への入り口










発電機室への開口部。本来ならこの奥に発電機室の広い空間があるはずですが、残念ながら崩落により塞がれています。
16開口部










G枌嵜泙砲鷲舛れていない開口部。どこに通じているかは不明。こちらは入り口まで塞がれています。
17二階との通路か










2階部分から通じていたと思われる開口部。本来はこの下に正規の入り口へと通じる開口部があったはずですが、2階部分まで大量の土砂で埋もれてしまい開口部すら確認不可能です。
18ガラス片










残された遺物は大変少なく、このガラス瓶の破片を見つけた程度です。終戦後にあらかた片づけたのでしょうか。
IMG_4762










74年もの間地下に放置されたコンクリートの地下壕は染み出した地下水がコンクリートを溶かし鍾乳石のように床面に柱状のコンクリートが出来てました。舞鶴市内の戦時中のコンクリート地下壕ではこのような状態の物は見たことありません。他の地下壕は割と風通しがあったり地下水の染み込みが少なかったからでしょうか。

旧海軍東山防空指揮所壕の見学会は今回でまだ3回目。実際に見学した人はまだ100人にも満たないのではと思います。普段見学できない旧軍遺構を実際に見ることができたのは貴重な体験となり得ました。来年機会があったら是非もう一度参加したいです。





besan2005 at 20:19|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2019年11月02日

鈴鹿海軍工廠高山地下工場・地下壕探索レポ日記


観光地として著名な岐阜県高山市の市街地の北側にある北山に戦争末期、鈴鹿海軍工廠の疎開工場としての地下工場の建設が行われました。それが鈴鹿海軍工廠高山地下工場です。

鈴鹿海軍工廠は三重県鈴鹿市に昭和18年に建設された海軍工廠で、主に機銃弾や爆弾・砲弾の信管を製造していました。工廠本体の敷地は現在のイオンモール鈴鹿から本田技研鈴鹿工場の南端に至る広大なもので、最盛期は1万人あまりが働いていました。さらには周囲に工廠職員の官舎や職員用の海軍共済病院、工員養成所などが建ち並んでいました。

※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記


鈴鹿海軍工廠の疎開工場としては三重県亀山市の関地下工場が有名ですが、高山市の疎開工場はあまり知られていません。
実は高山市には1ヶ月余りの出張で滞在していたのですが、滞在中にツイッターでいつもお世話になっている祐実総軍三等兵様からの情報でその存在を知り、探索をすることとしました
しかし具体的な場所が分からず、地元の郷土資料室で聞いても分からず、資料室の高山市史の記述と
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飛騨護国神社で教えていただいた情報を元に遺構の場所を特定できました。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図








※鈴鹿海軍工廠高山地下工場位置図。
北山公園の東側麓に3ヵ所(うち1つは推定)のコンクリート造の地下壕入り口を確認しました。
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地下壕群遠景。住宅街の背後の擁壁の裏に2ヵ所存在します。
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地下壕 ブルーシートの下にあります。ブルーシートは劣化してビリビリになっており、破れた部分から 撮影。地下壕入り口は最近作られた鉄製の頑丈な扉が付けられています。
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地下壕◆C浪執茘,留にあります。同じ造りのコンクリート造の地下壕で、こちらも頑丈な扉が付けられています。
実はこの一帯の擁壁は平成27年に作られたというプレートがあり、最近整備されたものですが、コンクリート地下壕部分は崖面を擁壁で塞がず手前に擁壁を作り新たに鉄製の扉を付けられています。詳しく聞いたわけではありませんが、これらの地下壕の保存を意図したものではないかと思われます。
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2つの地下壕入り口の南側の元旅館の敷地内に地下壕ではと思われるコンクリート造の横穴が残されています。
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形は違いますが大きさ的に先ほどの2ヵ所の地下壕と同じくらいです。
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コンクリートは川砂利を使用し、背後のコンクリート擁壁と比べ古さを感じます。また、躯体のコンクリートにモルタルを化粧塗りしている造りは戦前戦中の海軍のコンクリート造構造物に多く見られます。
ここは推測ですが、かつては崖面がもう少し手前にあり、その崖面が崩落したか削られ、地下壕の躯体の一部が露出したのではとも考えられます。
祐実総軍三等兵様が以前探索された際には、素掘りの壕や崩落したコンクリート造の壕もあったようですが、それらは確認できなかったので、擁壁工事の際に塞がれ保存状態の良い地下壕だけ残されたようです。
また、これは時間が無く確認できませんでしたが、後日地元の方から「勝久寺の背後の畑の中に防空壕がある」という話を聞き、北山の西側部分の地下壕の可能性もあります。
高山市の郷土資料室で閲覧した高山市史の記述によれば、鈴鹿海軍工廠高山地下工場は昭和20年2月に航空機用機銃生産の疎開工場としてこの北山で地下工場の工事が始められましたが、完成するまでの間は同市内の江名子町と下岡本町の山林に仮工場が作られたとあります。(仮工場の遺構は現存しているか未確認)
造られた仮工場は、
〇間口三間・奥行十七間。平屋建ての片屋根で波トタン葺き。外壁は緑色に塗装し周囲の雑木林と同じように見せるため偽装。
〇建築は地元の高山木工組合員が担当。用材は統制会社の地方木材株式会社が軍需品として供出。
〇仮工場開設に際し、全国から600人の若手の徴用工が集められ近隣の寺院などに宿泊。
〇1日の食事は白米2合・味噌汁1杯・煮付1皿。食事の不味さと少なさに工員が近隣の畑から作物を盗む事態が相次いだ。
〇高山分工場長は奥田益造海軍大佐。江名子工場主任は貞良三海軍中尉。
とのことです。
鈴鹿海軍工廠高山地下工場は結局未完成のまま終戦を迎え放棄されました。高山地下工場に関しては資料が乏しく調査もされていませんのでどれくらい工事が進んでいたのか、内部がどうなっているのか不明です。しかし、新たに鉄製扉が造られ、擁壁で塞がれることなく保存されているため、いずれ詳細な調査が行われるのかもしれません。その際の調査結果に期待したいところです。


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