2020年05月
2020年05月24日
綾部市・旧奥上林小学校木造校舎&近代建築探訪レポ日記
京都府綾部市の奥地に素晴らしい木造校舎が残されているのを知り、探訪に向かいました。
場所は綾部市奥上林地区。国道27号線の山家の交差点からひたすら走って行きます。
そこにあったのは・・・
立派な木造校舎。旧奥上林小学校校舎。
以前探訪した京丹波町の旧須知小学校の木造校舎群を彷彿とさせる見事な建物。
玄関部分。
旧校舎前には昭和3年銘の記念碑があり、奥上林小学校の文字もあったことから、この建物は戦前の物だと思われます。昭和12年築の旧須知小学校の木造校舎群と同じく昭和10年代の築かと思われます。
裏側も当時の面影が良く残されています。まさに奇跡的。
内部の様子。現在はイベント関連に時々使われているようです。
さて、この戦前の旧奥上林小学校の校舎の隣には体育館があり、そこから見下ろす場所に戦後の旧奥上林小学校の校舎が残されているのですが・・・
その戦後の校舎と体育館をつなぐ木造の渡り廊下が残されています。
まるで跨線橋のような佇まい。
廃校・木造校舎ファン、廃墟ファンには有名な物件らしく、色々なサイトやブログで取り上げられています。誰が名付けたか通称「余部鉄橋」。
下から見上げると、確かに鉄橋に見えなくもない。
渡り廊下部分は開放されていて入れるようなので歩いてみました。
橋脚が木造なので歩くとそれなりに揺れちょっと怖いですw現役の頃、この渡り廊下を走った子供は怒られただろうなぁと。今はまだ大丈夫ですが、今後手入れされず老朽化が進めば危険ですね。
それでもこの渡り廊下は見応えあります。先の旧奥上林小学校の戦前の木造校舎と合わせて訪れる価値は十分あります。
さて、この旧奥上林小学校へ向かう途中、中々良い感じの建物を見かけました。
中上林診療所。綾部市中上林地区。
見るからに戦前の建物。京都府近代化遺産調査報告書には未掲載でしたが、昭和初期の築かと思われます。
外観は当時の面影が良く残されています。
玄関部分。車寄せの柱も戦前の雰囲気があります。現在も中上林診療所と中上林歯科医院として現役の診療所。内部はさすがに改装されていましたが、こんな近代建築が綾部市の山間部に残っていたのが驚き。この建物、全くノーマークだっただけに走っていて見かけたときは興奮して即引き返しましたw
その中上林診療所から交番を挟んだ場所にある木造建築。地域のコミュニティー場所として使用されている建物ですが、かつては戦前の公民館だったのではと思います。
今回訪問した旧奥上林小学校の木造校舎と渡り廊下は行く価値のある見事なものでした。途中、中上林診療所という予期せぬ収穫もあり、充実した探訪となりました。
場所は綾部市奥上林地区。国道27号線の山家の交差点からひたすら走って行きます。
そこにあったのは・・・
立派な木造校舎。旧奥上林小学校校舎。
以前探訪した京丹波町の旧須知小学校の木造校舎群を彷彿とさせる見事な建物。
玄関部分。
旧校舎前には昭和3年銘の記念碑があり、奥上林小学校の文字もあったことから、この建物は戦前の物だと思われます。昭和12年築の旧須知小学校の木造校舎群と同じく昭和10年代の築かと思われます。
裏側も当時の面影が良く残されています。まさに奇跡的。
内部の様子。現在はイベント関連に時々使われているようです。
さて、この戦前の旧奥上林小学校の校舎の隣には体育館があり、そこから見下ろす場所に戦後の旧奥上林小学校の校舎が残されているのですが・・・
その戦後の校舎と体育館をつなぐ木造の渡り廊下が残されています。
まるで跨線橋のような佇まい。
廃校・木造校舎ファン、廃墟ファンには有名な物件らしく、色々なサイトやブログで取り上げられています。誰が名付けたか通称「余部鉄橋」。
下から見上げると、確かに鉄橋に見えなくもない。
渡り廊下部分は開放されていて入れるようなので歩いてみました。
橋脚が木造なので歩くとそれなりに揺れちょっと怖いですw現役の頃、この渡り廊下を走った子供は怒られただろうなぁと。今はまだ大丈夫ですが、今後手入れされず老朽化が進めば危険ですね。
それでもこの渡り廊下は見応えあります。先の旧奥上林小学校の戦前の木造校舎と合わせて訪れる価値は十分あります。
さて、この旧奥上林小学校へ向かう途中、中々良い感じの建物を見かけました。
中上林診療所。綾部市中上林地区。
見るからに戦前の建物。京都府近代化遺産調査報告書には未掲載でしたが、昭和初期の築かと思われます。
外観は当時の面影が良く残されています。
玄関部分。車寄せの柱も戦前の雰囲気があります。現在も中上林診療所と中上林歯科医院として現役の診療所。内部はさすがに改装されていましたが、こんな近代建築が綾部市の山間部に残っていたのが驚き。この建物、全くノーマークだっただけに走っていて見かけたときは興奮して即引き返しましたw
その中上林診療所から交番を挟んだ場所にある木造建築。地域のコミュニティー場所として使用されている建物ですが、かつては戦前の公民館だったのではと思います。
今回訪問した旧奥上林小学校の木造校舎と渡り廊下は行く価値のある見事なものでした。途中、中上林診療所という予期せぬ収穫もあり、充実した探訪となりました。
南丹市・京丹波町の戦前木造校舎&近代建築探訪レポ日記
前回、京丹波町にある旧須知小学校の木造校舎群を探索しレポ日記に書きましたが、京都府南丹市の奥地と京丹波町には他にもいくつか戦前の旧木造校舎があるので探訪してきました。ちなみに戦後の木造校舎もいくつか残されていますが、ここでは戦前築と思われる木造校舎(一部を除く)と、探訪中に見かけた近代建築も合わせて紹介します。
国道9号線から八木に入り大堰川を越えてひたすら山道を走り、まず最初に訪れたのは、
南丹市八木町神吉地区にある旧神吉小学校及時館。
現在は廃校となっている旧神吉小学校の戦前の校舎を記念館として保存したものと思われます。
恐らく昭和初期頃。
戦前らしい下見板張りのシンプルな外観です。
正面玄関の上部にはサイレンが残されていました。覆いがまるで燈籠のようなデザイン。
内部も昔の姿を留めています。神吉小学校が廃校したあとは神吉診療所として利用されているそうですが、私が見た感じでは使われていないようにも見えました。
次に訪れたのは、かやぶきの里に近い南丹市美山町内久保地区にある旧内久保小学校。
京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築とのこと。
正面玄関には城郭風の屋根を設け、屋根の棟上には小さい望楼を設けるなど、まるで五稜郭の箱館奉行所を彷彿とさせる佇まい。
講堂内部。ほぼ当時のまま残されている感じ。
玄関が開いてて入っても良い感じだったので、廊下の部分だけお邪魔。
旧内久保小学校は山村の小さな学校だったのでしょうが、明治39年築の木造校舎が今でもほぼオリジナルの状態で残されているのは貴重かと。現在は内久保公民館として使用されています。
お次は南丹市日吉町にある旧五ヶ庄小学校体育館。
戦後の築に見えますが、気になったので撮影。
ただ、戦前でもこういうデザインの体育館があったりするから外観だけでは判断は難しい。
体育館の隣には戦後築の古い校舎が。そういえば自分が小学生の頃はこんな感じの校舎だったなぁと懐かしい気分に。
ここから国道9号線へと戻り京都縦貫道みずほIC近くにある京丹波町桧山地区へ。
旧桧山郵便局。京丹波町桧山。
京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和9年築とのこと。改造は大きいけれど2階部分に面影が残ります。
旧桧山郵便局の近くにある橋爪橋。欄干のデザインが珍しい。
昭和11年3月架橋。
桧山地区には旧桧山小学校と旧須知高校桧山分校の木造校舎がありますが、いずれも戦後なのでここではスルー。次回、綾部市の山奥にある戦前築の木造校舎を訪ねます。その校舎、別の物でも有名なんですよね。
2020年05月17日
亀岡市内の近代化遺産探索レポ日記
亀岡市の近代建築と言えば旧田中源太郎邸だった明治31年築のがんこ楽々荘が有名ですが、
※がんこ楽々荘訪問日記
その他にも市内にはいくつかの近代化遺産が残されています。今回それらを紹介していきたいと思います。まずは郊外から。
旧佐伯郵便局。稗田野町。京都府近代化遺産調査報告書によれば昭和初期とのこと。
どこか懐かしさを感じる木造建築。
旧保津郵便局。保津町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治期となっています。
北から。
南から。主屋は和風建築で手前の営業所部分が洋風になっています。
正面アップ。屋根瓦には今も郵便マークのある鬼瓦があります。入り口には「旧郵便局」の解説板があり、地域の歴史遺産として認識されているようです。是非活用して欲しいところ。
玄関上部のガラス窓には「保津郵便局」の文字が今でもあります。
旧旭小学校。旭町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治39年築。
建物自体の外観は大きく改装されていますが、玄関部分は当時のまま残されています。玄関はまるで武家屋敷のような佇まい。
屋根には桜に同の紋章のある鬼瓦が。
玄関脇には「學」の字入りの鬼瓦が置かれています。
玄関の天井は立派な格天井。
入口には当時の正門も残されています。旧旭小学校は現在は旭町自治会館として使用されています。
昔記事にした東別院町の煉瓦蔵。大正期頃。亀岡市の奥の奥に存在する立派な高石垣のお屋敷跡。
以前、この記事にお祖父さんが住んでいたとコメントがありました。かつては銀行業務もやっていたとか。現在は住んではおられず当時の建物も煉瓦蔵しかありませんが、かつては相当大きなお屋敷があったと思われます。
大谷鉱山鉱山長官舎。稗田野町鹿谷。大谷鉱山は大正3年にタングステン鉱山として操業開始。軍需材料としての需要もあり終戦まで操業され大いに賑わっていたようです。戦後一時休鉱しましたが昭和26年再開。昭和58年に廃鉱になるまで操業しました。この建物はその大谷鉱山の鉱山長の官舎だった建物。デザイン的に戦前の物と思われもしかすると創業時の大正期の建築かもしれません。
玄関脇の出窓は当初からのもの。中々オシャレ。空き家だった当時に見に来たことがありますが、この出窓から部屋を覗くと戦前らしき鉱山関連の本がたくさん置かれていました。現在は個人の方が買い取り面影を残した感じでリフォームされ住宅にされています。貴重な建物が大切に使用されているのは嬉しいです。
旧吉川小学校奉安殿。吉川町。吉川自治会館の側に移築されています。戦後多くが壊された奉安殿がこうして残されているのは貴重。
ここからは市街地へ。
旧旅籠郵便局。旅籠町。京都府近代化遺産調査報告書によれば明治22年築とのこと。大きく改装されていますが、2階窓の鎧戸に面影を残します。ちなみに隣に付属する平屋の建物はかつての丹波亀山城の城門でした。
天理教亀岡大教会。横町。大きな和風建築で大正から昭和初期くらいはありそうです。天理教の各支部の建物は結構立派な近代和風建築として現存している例が多いです。
横町文化住宅群。横町。昭和初期。
和風の主屋に洋館が付属する典型的な文化住宅です。この住宅は2棟続きとなっています。現在も個人宅。
すぐ隣にある文化住宅。
こちらは1階が洋風。2階が和風になっています。現在は学習塾。
愛善みずほ会。北古世町。大規模な木造建築。戦後かもしれませんが気になってた建物なので取り上げました。
背面は割と戦前の雰囲気あります。 側面の円窓も。
玄関部分。
扉が開いてたのでちょっと失礼しました。玄関ホールも雰囲気あります。現在は大本教関連の施設として使用されているようです。
亀岡市にはかつてはこれ以上に多くの近代建築が存在しましたが、失われていった建物も数多くあります。ここからは過去に撮影したそれらを紹介します。
亀岡駅。昭和11年。今となっては懐かしい駅舎です。
亀岡市森林組合。横町。昭和3年。市内でも珍しい洋館の事務所ビルでした。
取り壊し直前に一度中を見たことがあります。
1階事務室。当時の面影がそのまま残されていました。
階段も当時のままでした。失われた今、2階も見ておけば良かったと後悔しています。
旧亀岡郵便局。北町。どことなく和風の雰囲気のある木造建築でした。
現在は脇の袖壁だけ残されています。
大道金物店。横町。近年まであった看板建築でした。
山金楼。新町。大正期。カフェーの面影を残す元料理屋の建物で、かつては池のある中庭があったそうです。取り壊され駐車場になって久しくなりました。
旧菱田邸(理想郷社)。横町。大正11年。
取り壊し中の旧菱田邸。亀岡市を代表する戦前の洋風住宅も姿を消して随分経ちました。
歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院遺構探索レポ日記。
三重県津市久居にあった陸軍歩兵第三十三連隊・第三十旅団司令部・津陸軍病院の現存建物群を陸上自衛隊久居駐屯地の一般公開に合わせて見学してきました。
久居の新兵営にはまず明治41年に歩兵第五十一連隊が駐屯し、大正14年に歩兵第三十三連隊が移駐してきました。この辺りに関してはいつもお世話になっている盡忠報國様のブログが詳しいので、そちらを参照してください。
陸上自衛隊久居駐屯地はかつての歩兵第三十三連隊・歩兵第三十旅団司令部・津陸軍病院の敷地をそのまま使用し、現在も多くの当時の建物が残されています。
旧連隊本部庁舎。
西側の妻部には陸軍の星章が今もあります。
反対側。こちらはシンプルですね。
入口部分。こちらは改装されている気がします。
玄関から内部。
妻側から内部。当時の姿がほぼ残されています。
大隊本部と言われている建物。連隊本部庁舎と同じようなデザイン。
反対側。
連隊本部と大隊本部と言われる建物の間にある厠。
現在も便所として使用されているようです。この日は表側に行けませんでした。
将校集会所。大正10年築。さすがに将校集会所の建物は他の兵舎と違い華やかさがあります。
将校集会所の正面。都城市の歩兵第六十四連隊の将校集会所とよく似ています。
将校集会所背面。
反対側から。背面はシンプルです。
将校集会所入口。この日は音楽隊が練習をしており、居なくなった頃合いを見計らって撮影しました。
将校集会所の付属屋。
移設された歩哨舎。コンクリート造です。
用途不明の木造建物。当時の物であることは間違いなく、陸軍の星章入りの鬼瓦が今も乗っています。
遠くに見える防爆壁の土塁に囲まれた弾薬庫。これも旧軍時代の弾薬庫をそのまま使用しています。
気になった自転車置き場の小屋。
小屋組みに使用されている木材に不自然なホゾとかあったり、材も古そうに見えました。
もしかしたら旧軍時代の解体された建物の部材を再利用しているのではと思い撮影しました。
歩兵第三十旅団司令部庁舎。明治41年に開設されました。
解説板。
歩兵第三十旅団司令部玄関。旅団司令部の庁舎は多くが画一化されており、正面にペディメント(三角破風)を掲げ、左右とも三間の翼部を延ばすデザインです。多くが連隊本部より小規模です。
歩兵第三十三連隊の東側には津陸軍病院がありました。現在もいくつかの建物が残されています。この建物は娯楽室だった「愛国寮」。昭和10年に建てられたもので、名前から恐らく愛国婦人会の寄付で建てられたものと思われます。
※参考・古絵葉書・名古屋陸軍病院 豊橋陸軍病院愛国寮竣工記念絵葉書
左奥に見えるのは隔離病棟。結核患者を収容していたそうです。左奥には付属屋があるようです。
食堂(右側)と浴室(左側)。
背面。浴室はともかく食堂が倉庫みたいな煉瓦造なのが不思議です。
歩兵第三十三連隊の西側、久居駅に面した場所にかつて歩兵砲・通信隊の兵舎がありました。現存していた兵舎の中でも2階建ての最大規模の物でしたが、惜しくも訪問時の1年前に取り壊し…。跡地は駐車場となっていました。しかし、当時の物らしき井戸が残されていました。
井戸の上にあるポンプ。当時の物かは分かりませんが古そうなのは確かです。
砲兵隊・通信班の兵舎を見ることができなかったのは残念ですが、かつての姿は盡忠報國様のブログにて見ることができます。
この日は演習場で訓練展示が行われました。これを見るのも目的の一つ。まぁコンデジではこれが精一杯でしたが・・・
あと、新装備である16式機動戦闘車を見たかったというのもありますw
2020年05月08日
舞鶴市北吸地区にある防空監視哨
舞鶴市・東舞鶴の北吸地区、国道27号線を挟んだ赤煉瓦倉庫群の向かいの斜面にコンクリート造の防空監視哨が1つ残されています。
防空監視哨は、来襲する敵機の監視、報告を任務とする施設で、民間人で構成された防空監視隊が任務に付き、将校や下士官が指揮などを取ってました。
反対側の角度から。実寸はしてませんが、そんなに大きくはなかった(幅1.5mくらいかな?改めて実寸してきます。)です。コンクリートの質はあまり良くなく、戦争末期頃の構築に思えます。ちなみにアジア歴史センターで検索しましたが、該当する資料は見当たりませんでした。
監視窓のスリットの上に穴が開いてますが、もしかして機銃掃射の際の弾痕でしょうか・・・?
この防空監視哨は海軍桟橋(現・海上自衛隊北吸桟橋)と舞鶴海軍工廠の方面を向いており、主に舞鶴海軍工廠へ来襲する敵機の監視を目的としていた物と思われます。ちなみに、奥に見える2つの建物も旧海軍時代の建物。向かって右側に赤煉瓦倉庫があります。
内部。かなり狭いです。1人か無理して2人が精一杯かと思います。監視窓のスリットは3方に開いていますがやはり監視のメインは正面側の舞鶴海軍工廠だったのでしょう。
参考として呉市にある防空監視哨。舞鶴市のと比べて大型です。舞鶴市にもかつては複数の防空監視哨があったと思われますが、現在は今回記事にした北吸の物しか知られていません。(もしかしたら舞鶴海軍工廠の裏山か敷地内に残されているかもしれませんが、JMUの敷地内なので確認は不可能。)舞鶴市の広報や赤れんがパークにある案内板には触れられてませんが、現在見ることのできる舞鶴市内の防空監視哨としては唯一の物で貴重な遺構と思われます。
2020年05月06日
歩兵第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地探索レポ日記
兵庫県篠山市には「丹波の山鬼」と称された陸軍歩兵第七十連隊が駐屯していました。現在、篠山市内には第七十連隊の他に多数の旧陸軍の遺構が残されています。今回は第七十連隊・篠山陸軍病院・篠山陸軍墓地の遺構を探索してきました。
歩兵第七十連隊及び篠山陸軍病院の遺構配置図。今回もツイッターでいつもお世話になっています盡忠報國様の記事を参考にさせて頂きました。篠山の旧軍遺構については盡忠報國様のブログ記事がかなり詳しいので、より詳細に知りたい方はそちらを参考にされるといいと思います。
まずは陸軍歩兵第七十連隊。
歩兵第七十連隊は明治40年に編成。当初は第4師団隷下の連隊でした。
当時の絵葉書の正門。歩兵第七十連隊は連隊の裏山を利用した苛烈な山岳戦の演習を行い、その勇猛ぶりは「丹波の山鬼」と呼ばれました。昭和12年から満州へと派遣され昭和15年に第25師団の隷下へと変更。昭和20年4月に九州で本土防衛の任に就くまで、大陸の各所で戦い抜きました。
歩兵第七十連隊は篠山城を利用した演習も行い、攻城戦の演習や
外堀を利用した渡河演習を行っている絵葉書が残されています。
※参考・昭和4年、篠山歩兵第七十連隊軍旗祭の様子。
戦後、歩兵第七十連隊の敷地は篠山産業高校と工場の敷地となっています。
戦後は兵舎等ほとんどの建物が取り壊されましたが、外周を中心にいくつかの遺構と建物が残されています。
歩兵第七十連隊正門。手前の石敷きも当時の物。
当時の姿を撮影した絵葉書。
門柱のアップ。
正門の西側にある土塁の土留め。
敷地東側にある将校集会所の通用門。奥には中庭に置かれていた円卓と椅子が残されているそうですが、工場敷地内のため見れません。工場内に入るには許可が必要。
東門。コンクリート造なので昭和期のものかもしれません。
現在の工場の北側敷地には当時の煉瓦造の建物が2棟残されています。こちらは炊事場とのこと。
奥に見える煉瓦建物。当時の物ではありますが詳細不明とのこと。
この写真は高校側のグラウンドの隅から望遠で撮影。実は敷地外から何とか撮影できないかとウロウロしていたら、ちょうどグラウンドで野球の練習をしていた生徒とコーチらしき人が見ていて、思い切って事情を説明したら、グラウンドの端のこの位置からならいいですよと言われ有難く入らせてもらいました。ありがとうございました。
歩兵第七十連隊の北端の一角は篠山陸軍病院でした。歩兵第七十連隊と同時期に開設された病院でしたが、戦後敷地は工場となり現在は正門他の僅かな遺構しか残されていません。こちらは篠山陸軍病院の正門。
正門の側に気になる建物がありました。新しくも見えますがプラン的にもしかしたらと撮影。
改装されている可能性もありますので。戦後すぐ撮影の航空写真で確認しましたが、あるような無いような…
篠山陸軍病院跡の敷地の端に気になるコンクリート建築がありました。
雰囲気的には当時の建物のように見えます。弾薬庫とは思えないので燃料庫だったかもしれません。
続いて歩兵第七十連隊から離れた篠山城の東にある篠山陸軍墓地へ。
駐車場に建てられている忠魂碑。
元々は篠山城天守に大正4年に建てられたものですが、戦後にGHQによる破壊を恐れ天守台下に埋没。昭和26年に再び掘り出され現在地に再建されました。揮毫は河村景明大将。
篠山陸軍墓地正門。当初の参道の正門で木製の扉が一部残されています。
周囲にはいくつもの「陸軍用地」の境界杭が点在しています。
そのうちの1本。
先ほどの正門を潜り参道を上がっていくと下士官兵の墓地に到達します。陸軍墓地の中では状態はいい方だと思いますが、倒れた竹がそのままになっていたりと手厚い管理は余りされていないのかも。もしくは年1回か2回の管理程度とか。
別角度。ここより高い位置に将校の墓があるようですが、今回失念してしまいました。
昭和18年、忠霊殿である遺芳殿が建てられました。その際に周辺も整備され、この石段もその時に造られたものです。この時に正式な参道が当初の正門からこのまっすぐ伸びる石段に改められられたと思われます。
遺芳殿。戦後に忠霊殿から遺芳殿と改称し、現在も遺骨が納められています。
遺芳殿から見下ろした様子。段状に整地されています。もしかしたらこの場所にもかつては将兵の墓があったようにも思えます。
忠魂碑のある駐車場の下にある篠山遺族会館。和風の建物で古い建物をリニューアルしたものかと思いましたが、昭和61年に建てられたものです。館内には歩兵第七十連隊の軍旗の一部と軍旗日誌が収められています。
歩兵第七十連隊及び篠山陸軍病院の遺構配置図。今回もツイッターでいつもお世話になっています盡忠報國様の記事を参考にさせて頂きました。篠山の旧軍遺構については盡忠報國様のブログ記事がかなり詳しいので、より詳細に知りたい方はそちらを参考にされるといいと思います。
まずは陸軍歩兵第七十連隊。
歩兵第七十連隊は明治40年に編成。当初は第4師団隷下の連隊でした。
当時の絵葉書の正門。歩兵第七十連隊は連隊の裏山を利用した苛烈な山岳戦の演習を行い、その勇猛ぶりは「丹波の山鬼」と呼ばれました。昭和12年から満州へと派遣され昭和15年に第25師団の隷下へと変更。昭和20年4月に九州で本土防衛の任に就くまで、大陸の各所で戦い抜きました。
歩兵第七十連隊は篠山城を利用した演習も行い、攻城戦の演習や
外堀を利用した渡河演習を行っている絵葉書が残されています。
※参考・昭和4年、篠山歩兵第七十連隊軍旗祭の様子。
戦後、歩兵第七十連隊の敷地は篠山産業高校と工場の敷地となっています。
戦後は兵舎等ほとんどの建物が取り壊されましたが、外周を中心にいくつかの遺構と建物が残されています。
歩兵第七十連隊正門。手前の石敷きも当時の物。
当時の姿を撮影した絵葉書。
門柱のアップ。
正門の西側にある土塁の土留め。
敷地東側にある将校集会所の通用門。奥には中庭に置かれていた円卓と椅子が残されているそうですが、工場敷地内のため見れません。工場内に入るには許可が必要。
東門。コンクリート造なので昭和期のものかもしれません。
現在の工場の北側敷地には当時の煉瓦造の建物が2棟残されています。こちらは炊事場とのこと。
奥に見える煉瓦建物。当時の物ではありますが詳細不明とのこと。
この写真は高校側のグラウンドの隅から望遠で撮影。実は敷地外から何とか撮影できないかとウロウロしていたら、ちょうどグラウンドで野球の練習をしていた生徒とコーチらしき人が見ていて、思い切って事情を説明したら、グラウンドの端のこの位置からならいいですよと言われ有難く入らせてもらいました。ありがとうございました。
歩兵第七十連隊の北端の一角は篠山陸軍病院でした。歩兵第七十連隊と同時期に開設された病院でしたが、戦後敷地は工場となり現在は正門他の僅かな遺構しか残されていません。こちらは篠山陸軍病院の正門。
正門の側に気になる建物がありました。新しくも見えますがプラン的にもしかしたらと撮影。
改装されている可能性もありますので。戦後すぐ撮影の航空写真で確認しましたが、あるような無いような…
篠山陸軍病院跡の敷地の端に気になるコンクリート建築がありました。
雰囲気的には当時の建物のように見えます。弾薬庫とは思えないので燃料庫だったかもしれません。
続いて歩兵第七十連隊から離れた篠山城の東にある篠山陸軍墓地へ。
駐車場に建てられている忠魂碑。
元々は篠山城天守に大正4年に建てられたものですが、戦後にGHQによる破壊を恐れ天守台下に埋没。昭和26年に再び掘り出され現在地に再建されました。揮毫は河村景明大将。
篠山陸軍墓地正門。当初の参道の正門で木製の扉が一部残されています。
周囲にはいくつもの「陸軍用地」の境界杭が点在しています。
そのうちの1本。
先ほどの正門を潜り参道を上がっていくと下士官兵の墓地に到達します。陸軍墓地の中では状態はいい方だと思いますが、倒れた竹がそのままになっていたりと手厚い管理は余りされていないのかも。もしくは年1回か2回の管理程度とか。
別角度。ここより高い位置に将校の墓があるようですが、今回失念してしまいました。
昭和18年、忠霊殿である遺芳殿が建てられました。その際に周辺も整備され、この石段もその時に造られたものです。この時に正式な参道が当初の正門からこのまっすぐ伸びる石段に改められられたと思われます。
遺芳殿。戦後に忠霊殿から遺芳殿と改称し、現在も遺骨が納められています。
遺芳殿から見下ろした様子。段状に整地されています。もしかしたらこの場所にもかつては将兵の墓があったようにも思えます。
忠魂碑のある駐車場の下にある篠山遺族会館。和風の建物で古い建物をリニューアルしたものかと思いましたが、昭和61年に建てられたものです。館内には歩兵第七十連隊の軍旗の一部と軍旗日誌が収められています。
舞鶴海軍刑務所遺構探索レポ日記
舞鶴市・東舞鶴市街から国道27号線を東へ少し進んだ交差点を右折し志楽川を渡って少し進むと行き止まりになり目の前に特別養護老人ホームが現れます。この特別養護老人ホームの敷地はかつて舞鶴海軍刑務所でした。
アジア歴史資料センター公開の資料によると、昭和16年11月1日付の舞鶴海軍刑務所設置のための海軍監獄官制中を改正する資料があり、舞鶴海軍刑務所はそれ以降に設置されたものと思われます。
建物は早いうちに失われたようですが、老人ホームが建つ前まではこの場所にはかつての舞鶴海軍刑務所の巨大なコンクリート造の正門と高い塀が存在し、敷地を取り囲んでいました。写真は25年ほど前に出版された資料に載せられたかつての舞鶴海軍刑務所の正門です。(出典・つむぎ出版『京都の「戦争遺跡」をめぐる』1995年)。
老人ホームの建設の際に正門と塀は撤去され現在は失われていますが、敷地の周囲には区画の用水路と境界杭、また正門跡に当時のスロープが残されています。
舞鶴海軍刑務所の正門跡前に残るスロープ。
かつての舞鶴海軍刑務所の敷地を取り囲むコンクリート製の当時の区画溝。
その区画溝の外側には「海境」の文字がある海軍の境界杭が今でも立っています。
今回確認したのは4本のみでしたが、他にも現存している可能性はあります。
アジア歴史資料センター公開の資料によると、昭和16年11月1日付の舞鶴海軍刑務所設置のための海軍監獄官制中を改正する資料があり、舞鶴海軍刑務所はそれ以降に設置されたものと思われます。
建物は早いうちに失われたようですが、老人ホームが建つ前まではこの場所にはかつての舞鶴海軍刑務所の巨大なコンクリート造の正門と高い塀が存在し、敷地を取り囲んでいました。写真は25年ほど前に出版された資料に載せられたかつての舞鶴海軍刑務所の正門です。(出典・つむぎ出版『京都の「戦争遺跡」をめぐる』1995年)。
老人ホームの建設の際に正門と塀は撤去され現在は失われていますが、敷地の周囲には区画の用水路と境界杭、また正門跡に当時のスロープが残されています。
舞鶴海軍刑務所の正門跡前に残るスロープ。
かつての舞鶴海軍刑務所の敷地を取り囲むコンクリート製の当時の区画溝。
その区画溝の外側には「海境」の文字がある海軍の境界杭が今でも立っています。
今回確認したのは4本のみでしたが、他にも現存している可能性はあります。
舞鶴陸軍墓地探索レポ日記
舞鶴市の西舞鶴に位置する福来地区の小高い山にかつて陸軍墓地がありました。主に舞鶴市上安久の現・日星高校の敷地にあった舞鶴重砲兵大隊(後に連隊に昇格)の将兵の墓地であり、舞鶴重砲兵大隊設立からしばらく後に作られたものと思われます。舞鶴の軍人墓地としては共楽公園にある海軍墓地が良く知られ、管理も行き届き毎年慰霊祭が行われていますが、この舞鶴陸軍墓地はほとんど知られることもなく荒れ果てた状態になっています。
舞鶴陸軍墓地への入口。ぱっと見ではただの山道にしか見えません。
舞鶴陸軍墓地への入口の脇にある境界杭。「十三ノ三陸界」という感じに見えます。
舞鶴陸軍墓地への参道。
やや下がった場所にある兵卒の墓。
以前は墓石が倒れていたようですが、近年元に戻されたようです。
兵卒の墓の近くにある陸軍の境界石。当初から村の墓地と隣接していたようで、境界となる部分には境界石が建てられています。
尾根上へと上がると墓石が現れます。陸軍砲兵軍曹の方の墓です。
舞鶴陸軍墓地内の参道。
参道脇にある境界杭。「十三ノ五(?)陸界」の文字があります。ここから先は村の墓地になります。
境界杭と思われる石柱。
陸軍砲兵中尉の方の墓。将校らしく立派な墓石ですが、もはや参拝する人や管理する人もなく笹や雑木に埋もれかけています。
参道らしき道を上がると広い平坦面がありました。25年ほど前に出版されたとある資料には舞鶴陸軍墓地の頂部には「光來寺」の扁額のある廃墟化したお堂があり、舞鶴陸軍墓地の管理をしていた廃寺として紹介されていますが、恐らくこの写真の上の平坦地にあったものと思われます。しかし現在は跡形もありません。(その後出版された増補改訂版には舞鶴陸軍墓地の記載自体が削除されている)
共楽公園の舞鶴海軍墓地が整備され、現在も慰霊祭が行われるなど手厚く保護されているのに対して、この舞鶴陸軍墓地の荒廃ぶりを見ると落差に何とも言えない気分になります。舞鶴陸軍墓地自体ほとんど知られていないという事もありますが、せめて現存の墓だけでも整備し祀られればと願うのですが。
このままの状態ですと、さらに山の木々に埋もれ人々の記憶から存在が完全に消え去ることと思います。
舞鶴陸軍墓地への入口。ぱっと見ではただの山道にしか見えません。
舞鶴陸軍墓地への入口の脇にある境界杭。「十三ノ三陸界」という感じに見えます。
舞鶴陸軍墓地への参道。
やや下がった場所にある兵卒の墓。
以前は墓石が倒れていたようですが、近年元に戻されたようです。
兵卒の墓の近くにある陸軍の境界石。当初から村の墓地と隣接していたようで、境界となる部分には境界石が建てられています。
尾根上へと上がると墓石が現れます。陸軍砲兵軍曹の方の墓です。
舞鶴陸軍墓地内の参道。
参道脇にある境界杭。「十三ノ五(?)陸界」の文字があります。ここから先は村の墓地になります。
境界杭と思われる石柱。
陸軍砲兵中尉の方の墓。将校らしく立派な墓石ですが、もはや参拝する人や管理する人もなく笹や雑木に埋もれかけています。
参道らしき道を上がると広い平坦面がありました。25年ほど前に出版されたとある資料には舞鶴陸軍墓地の頂部には「光來寺」の扁額のある廃墟化したお堂があり、舞鶴陸軍墓地の管理をしていた廃寺として紹介されていますが、恐らくこの写真の上の平坦地にあったものと思われます。しかし現在は跡形もありません。(その後出版された増補改訂版には舞鶴陸軍墓地の記載自体が削除されている)
共楽公園の舞鶴海軍墓地が整備され、現在も慰霊祭が行われるなど手厚く保護されているのに対して、この舞鶴陸軍墓地の荒廃ぶりを見ると落差に何とも言えない気分になります。舞鶴陸軍墓地自体ほとんど知られていないという事もありますが、せめて現存の墓だけでも整備し祀られればと願うのですが。
このままの状態ですと、さらに山の木々に埋もれ人々の記憶から存在が完全に消え去ることと思います。
2020年05月05日
旧須知小学校探訪レポ日記
京都府京丹波町にある旧須知小学校を訪問してきました。
実は2014年に訪問していますが、今回さらに詳細に探索をしましたので、改めて記事を書き直すことにしました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に建てられた校舎で85年経った現在でも当時の姿をそのまま残す貴重な建築物となっています。映画「銀河鉄道の夜」のロケ地にとしても使われました。
旧須知小学校本館。堂々たる正面玄関。玄関には校章の額が掲げられています。
昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
85年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
当時と同じアングルで撮ってみました。建物は竣工時の絵葉書のまま。
周りの木だけ大きく育ち、85年の歳月を感じます。
建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。内部も当時の姿がよく残されています。
北校舎。
南校舎。本館から広がるように左右に配置されています。
二宮尊徳像。
台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
台座の上に建つ二宮尊徳像も竣工記念の絵葉書に写るものと同じにも見えますが、だとすると、戦時中の金属供出に合わなかった貴重なものになりますが、どうでしょうか。
南側にある半地下式の通路。
南校舎と本館をつなぐ渡り廊下を潜る形になっていますが、水の張られた場所を通過する変わった作りになっています。現在は通過できませんが、中庭へは校舎を回り込む形で行くことができます。
本館裏側の渡り廊下。こちらも当時のまま。
渡り廊下にある下駄箱。当時の木製の下駄箱が残っているのは珍しい。
渡り廊下にある消火栓。
消火栓の裏側。かつては渡り廊下側に「消火栓」と書かれた木製の扉があったと思われます。
南中庭。中庭は真ん中の講堂を挟んで南北にあります。
南校舎側方向。
南中庭の滑り台。
南中庭のブランコ。南中庭には遊具が置かれているため、児童の遊び場だったようです。
かつての子供たちの喧騒が聞こえて来るようですが、今は誰もいない静かな場所。
中庭から見た南校舎。
講堂。体育館としても使用されていた建物。校舎の真ん中の位置にあります。
講堂を西側から。体育館としての採光の機能を持たせるため、窓が他の校舎よりかなり多いです。
ここで朝礼や体育、そして入学式や卒業式が行われたんでしょうねぇ。児童たちの思いがたくさん詰まっている場所。
本館南側の裏側。正面側とはまた違った姿を見せてくれます。
先ほど見た南半地下通路の中庭側。こういうトンネル状の通路って子供たちは好きそう。
講堂裏側。大きな破風が立派です。
北中庭。
北中庭は遊具の置かれた南中庭と違い、花壇や飼育小屋が置かれています。
本館北側の裏側。本館南側の裏側とまんま鏡写しの形。旧須知小学校の校舎群は本館玄関とその裏側の講堂を中心として左右に同じ形で広がるシンメトリーのデザインとなっています。
北校舎と本館の間にある北半地下通路。こちらも南側と全く同じ。
校舎の軒のあちこちにある鉄製の持ち送り。アールデコ調のデザインでしょうか。
旧須知小学校の工事請負人は和久田喜一という人物らしいです。恐らく地元の人だと思いますが、旧須知小学校の建物のデザインを見るに、センスのある方だったと思います。
旧須知小学校は現在はひっそりと静まり返ってますが、かつて中庭に植えられていた白椿は今も変わらず花を咲かせていました。
旧須知小学校を散策していて目に付くのは校内の敷地のあちこちに咲くこの白い花。
これは2014年5月31日に訪問した際に撮影した時のもの。敷地のいたるところで咲いてました。最初はマーガレットかなと思いましたが、調べるとフランスギクという花で、耐寒性があり強い繁殖力で日本中に広まっているとか。かつては花壇で色とりどりの草花が育てられていたのでしょうが、廃校となり人の姿が消えた今はこのフランスギクと先ほどの白椿や桜が今の旧須知小学校に彩りを与えています。
旧須知小学校は本館・講堂・南北校舎が昭和10年当時のまま残り地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。一応地域のコミュニティ施設として再利用はされていますが、やはり老朽化の進行は否めません。地域の貴重な近代化遺産である旧須知小学校。修復や維持管理は大変ですが、何とか有効な利用をされて末永く残ってほしいと願うばかりですが。
※注意。
旧須知小学校の敷地内は自由に散策出来ますが、建物内への無断進入は厳禁です。校内に建物内への無断進入の発覚の際は警察に通報するという看板が立てられています。当然既存建物や施設への破壊行為や落書きも厳禁。また、危険個所には立ち入り禁止の札があるためその部分には立ち入らないようにしましょう。貴重な近代化遺産である旧須知小学校。節度ある見学をお願いします。
実は2014年に訪問していますが、今回さらに詳細に探索をしましたので、改めて記事を書き直すことにしました。
須知小学校は明治6年創立の小学校で、明治20年に須知小学校と改称しました。
現在残っている校舎は昭和10年に建てられた校舎で85年経った現在でも当時の姿をそのまま残す貴重な建築物となっています。映画「銀河鉄道の夜」のロケ地にとしても使われました。
旧須知小学校本館。堂々たる正面玄関。玄関には校章の額が掲げられています。
昭和10年の改築記念で作られた須知小学校本館の絵葉書。
85年前の姿そのままです。
関連サイト・古絵葉書 須知小学校
当時と同じアングルで撮ってみました。建物は竣工時の絵葉書のまま。
周りの木だけ大きく育ち、85年の歳月を感じます。
建物の中には入れませんが、窓から中を伺うことはできます。
これは本館玄関から中を撮影したもの。内部も当時の姿がよく残されています。
北校舎。
南校舎。本館から広がるように左右に配置されています。
二宮尊徳像。
台座には昭和9年に校舎改築記念として建立されたとあります。
台座の上に建つ二宮尊徳像も竣工記念の絵葉書に写るものと同じにも見えますが、だとすると、戦時中の金属供出に合わなかった貴重なものになりますが、どうでしょうか。
南側にある半地下式の通路。
南校舎と本館をつなぐ渡り廊下を潜る形になっていますが、水の張られた場所を通過する変わった作りになっています。現在は通過できませんが、中庭へは校舎を回り込む形で行くことができます。
本館裏側の渡り廊下。こちらも当時のまま。
渡り廊下にある下駄箱。当時の木製の下駄箱が残っているのは珍しい。
渡り廊下にある消火栓。
消火栓の裏側。かつては渡り廊下側に「消火栓」と書かれた木製の扉があったと思われます。
南中庭。中庭は真ん中の講堂を挟んで南北にあります。
南校舎側方向。
南中庭の滑り台。
南中庭のブランコ。南中庭には遊具が置かれているため、児童の遊び場だったようです。
かつての子供たちの喧騒が聞こえて来るようですが、今は誰もいない静かな場所。
中庭から見た南校舎。
講堂。体育館としても使用されていた建物。校舎の真ん中の位置にあります。
講堂を西側から。体育館としての採光の機能を持たせるため、窓が他の校舎よりかなり多いです。
ここで朝礼や体育、そして入学式や卒業式が行われたんでしょうねぇ。児童たちの思いがたくさん詰まっている場所。
本館南側の裏側。正面側とはまた違った姿を見せてくれます。
先ほど見た南半地下通路の中庭側。こういうトンネル状の通路って子供たちは好きそう。
講堂裏側。大きな破風が立派です。
北中庭。
北中庭は遊具の置かれた南中庭と違い、花壇や飼育小屋が置かれています。
本館北側の裏側。本館南側の裏側とまんま鏡写しの形。旧須知小学校の校舎群は本館玄関とその裏側の講堂を中心として左右に同じ形で広がるシンメトリーのデザインとなっています。
北校舎と本館の間にある北半地下通路。こちらも南側と全く同じ。
校舎の軒のあちこちにある鉄製の持ち送り。アールデコ調のデザインでしょうか。
旧須知小学校の工事請負人は和久田喜一という人物らしいです。恐らく地元の人だと思いますが、旧須知小学校の建物のデザインを見るに、センスのある方だったと思います。
旧須知小学校は現在はひっそりと静まり返ってますが、かつて中庭に植えられていた白椿は今も変わらず花を咲かせていました。
旧須知小学校を散策していて目に付くのは校内の敷地のあちこちに咲くこの白い花。
これは2014年5月31日に訪問した際に撮影した時のもの。敷地のいたるところで咲いてました。最初はマーガレットかなと思いましたが、調べるとフランスギクという花で、耐寒性があり強い繁殖力で日本中に広まっているとか。かつては花壇で色とりどりの草花が育てられていたのでしょうが、廃校となり人の姿が消えた今はこのフランスギクと先ほどの白椿や桜が今の旧須知小学校に彩りを与えています。
旧須知小学校は本館・講堂・南北校舎が昭和10年当時のまま残り地方の戦前木造校舎として貴重な存在となっています。一応地域のコミュニティ施設として再利用はされていますが、やはり老朽化の進行は否めません。地域の貴重な近代化遺産である旧須知小学校。修復や維持管理は大変ですが、何とか有効な利用をされて末永く残ってほしいと願うばかりですが。
※注意。
旧須知小学校の敷地内は自由に散策出来ますが、建物内への無断進入は厳禁です。校内に建物内への無断進入の発覚の際は警察に通報するという看板が立てられています。当然既存建物や施設への破壊行為や落書きも厳禁。また、危険個所には立ち入り禁止の札があるためその部分には立ち入らないようにしましょう。貴重な近代化遺産である旧須知小学校。節度ある見学をお願いします。