2020年11月
2020年11月23日
西向日住宅地の近代建築探索レポ日記
現在の阪急電車京都線西向日町駅の一帯は、開通した翌年の昭和4年ごろから住宅地としての開発が始められました。開発を行ったのは後の阪急電鉄である新京阪鉄道株式会社。当時、新京阪鉄道株式会社は沿線沿いに住宅地の開発・分譲を行っており、この西向日住宅地もその一つでした。その面影が現在もいくつか残されており、今回探索をしてきました。

西向日住宅地の中心にある噴水公園。西向日住宅地はこの噴水公園の周囲にロータリーを作り、それを中心として碁盤の目の住宅地を造成していきました。
さらには街路樹としてソメイヨシノが植えられ、現在でも春には桜の花が咲き誇る景観を維持し続けています。

T邸。昭和4年頃。西向日住宅地に残る唯一の洋風建築。かつて住宅造成時の現地事務所だった建物とのこと。

洋館部分。

敷地の煉瓦塀は意匠を凝らしたデザインになっています。造成後も支店的な役割を果たしていたのかもしれません。

近くには立派な石積のある住宅が。かつては藤井厚二設計の住宅が建っていたそうですが、残念ながら現在は失われています。
西向日住宅地の住宅はほぼ和風建築となっております。

向日庵。英文学者の寿岳文章が昭和8年に自邸として建てたもの。設計は京都帝国大学で建築学を学んだ澤島英太郎。施工は熊倉工務店。


設計者の澤島英太郎は藤井厚二に師事した人物で、この向日庵も藤井厚二の影響を受けたデザインになっています。

向日庵の門。

葵園(旧狩野直喜別邸)。昭和12年築。京都帝国大学の教授で漢学者だった狩野直喜が別邸として建てたもので、農家風のデザインとなってます。施工は安井杢太郎。現在も向日市にある安井杢工務店の創業者の作品としても貴重な建物です。
その他にも造成時当時の建物と思われる住宅がいくつか残されています。

見性庵。

O邸。

当時の門柱の向こうに洋風っぽいデザインの窓が見えます。

K邸。大きな和風建築。

W邸。こちらも大型の和風建築。

当時の門柱が残る住宅。

M邸。少し離れた場所にある洋館付き住宅。

洋館部分。

玄関部分。
昭和初期に造成された西向日住宅地は、多くの住宅が建て替えられた今でも、閑静な住宅街でした。
※参考文献 「鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致〜西向日住宅地」(PDFファイル)

西向日住宅地の中心にある噴水公園。西向日住宅地はこの噴水公園の周囲にロータリーを作り、それを中心として碁盤の目の住宅地を造成していきました。
さらには街路樹としてソメイヨシノが植えられ、現在でも春には桜の花が咲き誇る景観を維持し続けています。

T邸。昭和4年頃。西向日住宅地に残る唯一の洋風建築。かつて住宅造成時の現地事務所だった建物とのこと。

洋館部分。

敷地の煉瓦塀は意匠を凝らしたデザインになっています。造成後も支店的な役割を果たしていたのかもしれません。

近くには立派な石積のある住宅が。かつては藤井厚二設計の住宅が建っていたそうですが、残念ながら現在は失われています。
西向日住宅地の住宅はほぼ和風建築となっております。

向日庵。英文学者の寿岳文章が昭和8年に自邸として建てたもの。設計は京都帝国大学で建築学を学んだ澤島英太郎。施工は熊倉工務店。


設計者の澤島英太郎は藤井厚二に師事した人物で、この向日庵も藤井厚二の影響を受けたデザインになっています。

向日庵の門。

葵園(旧狩野直喜別邸)。昭和12年築。京都帝国大学の教授で漢学者だった狩野直喜が別邸として建てたもので、農家風のデザインとなってます。施工は安井杢太郎。現在も向日市にある安井杢工務店の創業者の作品としても貴重な建物です。
その他にも造成時当時の建物と思われる住宅がいくつか残されています。

見性庵。

O邸。

当時の門柱の向こうに洋風っぽいデザインの窓が見えます。

K邸。大きな和風建築。

W邸。こちらも大型の和風建築。

当時の門柱が残る住宅。

M邸。少し離れた場所にある洋館付き住宅。

洋館部分。

玄関部分。
昭和初期に造成された西向日住宅地は、多くの住宅が建て替えられた今でも、閑静な住宅街でした。
※参考文献 「鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致〜西向日住宅地」(PDFファイル)
2020年11月15日
舞鶴市・第三海軍火薬廠第一製造部遺構探索レポ日記

舞鶴市朝来地区一帯は戦時中の昭和17年、第三海軍火薬廠という広大な火薬製造工廠が造られました。
第三海軍火薬廠は現在、日本板硝子工場と朝来集落となっている一帯は第一製造部、青葉山ろく公園と舞鶴高専の奥の谷地一帯は第二製造部となっていました。第二製造部は主に砲弾の製造や充填を行う工場だったため、爆発事故の影響を最小限に抑える山中の谷地にあったため、現在も多くの遺構が残されていることで知られていますが、※過去の探索1 ※過去の探索2 第一製造部は主に庁舎や事務所、官舎・宿舎が主で戦後に利用しやすかったせいか、日本板硝子工場や集落となり、遺構はほぼ残されていないと思われてました。しかし、今回の探索(※2019年3月3日)により想定よりも多くの遺構が状態良く残されていることが分かりました。以下、探索結果を報告します。なお、各遺構は「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」に収録されている施設図を元に記しました。
青葉山ろく公園に駐車し、遺構が集中して残る日本板硝子工場の方向へと向かいます。
各遺構の位置は上記の配置図を参照してください。

まず向かったのは、朝来小学校近くに残る乙号官舎。

かつて庁舎や会議所があった近くにあり、工廠でも上位の正職員の官舎だったと思われます。
オリジナルの状態で良く保たれており、第三海軍火薬廠の数少ない木造建物であり官舎という貴重な建物ですが、現在は空き家で今後どうなるか心配です。

近くにももう1棟官舎が残されていますが、現在は民家となっており、はっきりと確認できません。

官舎の一部だったと思われる古い木造建築。
旧官舎街エリアを後にし、川沿いに進みます。

川の中に残された土管。第三海軍火薬廠時代の物ですが、用途は不明。こういった土管はいくつか残されています。
この奥の山中に整地されたエリアがあり、恐らく木造の建物があったと思われます。

現在の日本板硝子工場の敷地は爆薬製造所だった場所ですが、敷地脇の水路には当時の石積の護岸が残されています。

そして、日本板硝子工場の南側に溶融回収所の廃墟が残されています。
溶融回収所は恐らく火薬製造過程で出た廃棄物を回収し処理する施設だったものと思われます。

別角度。

正面。遠目に見ると少々不気味…

回り込んで内部に入ることが出来ました。


鉄骨造りで壁はモルタルの薄い造り。

コンクリートの水槽らしきもの。

こちらもコンクリートの円筒形の構造物。

2階へと至る階段。

大分朽ちており、さすがに登りませんでした。

階段から2階を見上げる。

建屋の外には、何かの機械を設置していたと思われる台座と覆屋根の鉄骨が残されてました。

台座はコンクリートではなく、煉瓦造の表面に化粧モルタルが塗られていました。

電灯の笠。

溶融回収所の敷地の石積擁壁。

石積擁壁には階段があり、西側のエリアと行き来が出来るようになってます。

階段を上ると煉瓦の構造物があります。配置図では原料置場となっています。

恐らく上に木造の建屋があったものと思われます。

その西隣にある覆土式余作品置場。入り口はコンクリートブロックで塞がれています。

反対側。かつてはトンネルのように貫通していたようです。

そこから西へ向かうと見えてくるコンクリート造の建物。配置図では第三爆薬仮置場となっています。
現在も壁面に迷彩が残されています。

入り口。鉄扉もそのままです。

通気口。

内部。戦後に倉庫として使われていたようですが、現在は使用されていないようです。
さらに西へ。

石橋と石組水路。この場所から薮の奥へと向かうと…

煉瓦造の建物が見えます。配置図では第二爆薬仮置場となっています。

背面。迷彩の痕が全面に残されています。

入り口部分。

内部。

奥壁。内部は狭いですが、結構しっかりした造りです。

内部から入り口方向。
今回の第一製造部の探索では予想より多くの建造物としての遺構が残されていることが分かりました。
第二製造部の方に注目されがちですが、第一製造部にも当時の建物や遺構が残されていることを周知されたらと思います。