2020年12月
2020年12月30日
ドローンによる城跡の空撮
2020年9月よりドローンを導入し、撮影等を行ってます。まだ国土交通省のDID地区への飛行許可を得ていないので、飛ばせる範囲は限られてますが、それでも飛行可能区域内にある山城跡を中心に空撮を始めてます。ドローンを導入したことにより、今まで撮影できなかったアングル、見る事の出来なかった光景を得ることが出来ました。以下、2020年12月現在までに撮影した城跡の空撮写真を紹介していきます。今後も撮影していく予定なので随時追加します。
※画像の無断転載・無断使用は一切お断りします。
※2021年5月30日 置塩城跡・上中城跡・上林城跡追加。
兵庫県丹波市山南町・岩尾城跡。2020年10月31日撮影。
丹波国の国人、和田斉頼により築城。明智光秀による攻撃により落城。
落城後は佐野栄有が入城し、現在のような総石垣の城となるものの慶長2年に廃城。
岩尾城跡全景・南から
岩尾城跡全景・東から
岩尾城跡全景北から
岩尾城跡全景・真上から。
岩尾城跡天守台部分。
岩尾城跡西の丸食い違い虎口部分。
※地上から。
兵庫県豊岡市出石町・此隅山城跡&有子山城跡。2020年12月5日撮影。
此隅山城は但馬国守護大名、山名氏の本拠地の居城であり但馬国の守護所。応仁の乱の際は此隅山城より山名宗全が出陣した。山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。
此隅山城を追われた山名祐豊は後に織田方と和睦し新たに有子山城を築く。
しかし、再び羽柴秀吉より攻撃を受け落城する。江戸時代、下館だった場所に小出吉政が出石城を築き、有子山城は廃城となる。両城とも国史跡。
此隅山城跡全景・西から
此隅山城跡全景・南から
此隅山城跡全景・真上から
有子山城跡全景・西から
有子山城跡全景・南から
有子山城跡全景・真上から
兵庫県篠山市・丹波八上城跡。2020年12月12日撮影。
丹波国の国人、波多野氏の居城。波多野秀治の時代に明智光秀の丹波攻略戦により
一度は黒井城の赤井直正との共闘で撃退するも、後に落城。
落城後に前田茂勝が入城に八上藩を立藩するが、茂勝の改易により新たに篠山城が築城されたため廃城。
丹波八上城跡全景・南から
丹波八上城跡全景・南東から
丹波八上城跡全景・東から
丹波八上城跡全景・西から
丹波八上城跡全景・真上から
兵庫県丹波市春日町・黒井城跡。2020年12月26日。
丹波の赤鬼で知られる赤井直正の居城。明智光秀による落城後は、光秀の家臣の斎藤利三が入城し、
現在の石垣造りの姿に改築。麓に居館跡である興禅寺がある。
黒井城跡全景・南西から
黒井城跡全景・北東から
黒井城跡全景・南東から
黒井城跡全景・北西から
黒井城跡本丸石垣部分
黒井城跡全景・真上から
京都府南丹市・埴生城跡。2021年1月2日。
丹波国船井郡の国人、野々口左衛門尉親永により築城。
野々口西蔵坊の時、丹波攻めを行う明智光秀と丹波八上城主・波多野氏との仲を取り持ったと言われる。
埴生城跡全景・南から
埴生城跡全景・西から
埴生城跡全景・西から
埴生城跡全景・東から
埴生城跡全景・北から
埴生城跡全景・北から
埴生城跡全景・真上から
京都府福知山市・猪崎城跡。2021年1月16日
猪崎城は丹波国天田郡の国人、塩見利勝の居城。明智光秀により落城し廃城。
猪崎城跡全景・北から
猪崎城跡全景・南西から
猪崎城跡全景・南から
猪崎城跡全景・真上から
猪崎城跡主郭から福知山城を望む。
兵庫県姫路市・置塩城跡。2021年2月13日
置塩城は播磨国守護大名、赤松氏が5代治めた居城。羽柴秀吉による攻撃により落城し廃城となる。
国史跡。
置塩城跡・本丸全景東から
置塩城跡・本丸全景北東から
置塩城跡・本丸全景真上から
京都市右京区京北町・上中城跡。2021年5月8日
平安末期の12世紀頃に築城したと言われるが詳細は不明。
上中城跡全景・北西から
上中城跡全景・北から
上中城跡全景・南から
上中城跡全景・真上から
京都府綾部市・上林城跡。2021年5月29日
丹波国何鹿郡の国人、上林氏の居城。織田方の高田治忠の攻撃により城を追われ、
高田治忠が入城。関ヶ原の戦いで西軍についた高田治忠は改易され、後に藤懸永勝が入城し、
麓に藤懸陣屋を構え、幕末まで旗本として存続。
上林氏は後に宇治にて幕府の御用茶師となる。
上林城跡全景・北から
上林城跡全景・南から
上林城跡全景・真上から
兵庫県丹波篠山市・丹波金山城。2021年11月13日
明智光秀が丹波攻略戦において波多野氏の丹波八上城を攻撃した際、
同盟関係にあった赤井直正の居城、黒井城との連絡網を絶つため築いた陣城。
築城後、丹波八上城と黒井城への本格的な攻撃が始まり、両城は落城する。
西の曲輪部分に、奇岩として知られる鬼の架け橋がある。
丹波金山城全景・南から
丹波金山城全景・北から
丹波金山城全景・西から
丹波金山城全景・真上から
丹波金山城・主郭南石垣
丹波金山城・西曲輪内、鬼の架け橋全景
丹波金山城より黒井城を望む。
2020年12月19日
舞鶴市・空山防空砲台遺構探索レポ日記
舞鶴市にあった空山防空砲台は舞鶴要塞地帯内に建設された倉梯山・愛宕山・博奕岬・中山・槇山・五老岳・空山のうちの1つで、昭和16年より建設が開始された海軍の防空砲台でした。空山防空砲台は昭和16年より順次施設が建設されましたが、昭和17年9月21日の大雨で兵舎が倒壊するなどの被害もあったようです。工事自体は終戦の直前まで行われたようで、最終的に12.7cm連装高角砲・13mm単装機銃の武装の他に聴測照射指揮所などがあったようです。
※2021年4月11日に未探索だった第一・第二聴測照射指揮所の探索を行いました。下記に記事のリンクを貼ります。
舞鶴市・空山防空砲台第一・第二聴測照射指揮所跡探索レポ日記
空山防空砲台に関してはサイト「高射砲と防空陣地」に空山防空砲台のページがあり、以前より気になってた場所ですが、現在砲台部分には海上自衛隊の気象観測レーダー施設があり、主要部分は完全に失われ、別尾根の聴測照射指揮所の遺構が残されているくらいでは?との見解でした。しかし、懇意にしているフォロワーさんの実地調査にて、砲座を含めたいくつかの遺構が現存していることを確認され、急遽当方も探索に向かう事にしました。なお、上記のサイトのページには舞鶴警備隊戦時日誌に添付された当時の空山防空砲台の写真が掲載されています。
今回の探索により確認できた遺構の位置図。これを元に報告していきます。
なお各遺構の名称は、フォロワーさんが舞鶴市役所にて確認された空山防空砲台の平面図を元にしています。(ただし図面に記載されていない遺構は暫定的な名称にしています。)
まず向かったのは、射撃指揮所跡。海上自衛隊の気象観測レーダーの正門前に残されています。
煉瓦造の壁に化粧モルタルを塗っています。
近くにある石製の縁石。
一部が残るコンクリート擁壁。この擁壁を過ぎた場所に雑木林へと入れる箇所があり、そこへと入ると…
円形のコンクリートの構造物が。1つ目の砲座跡です。どうやらコンクリートで埋められているようです。さらに雑木林の奥へと進むと。
2つ目の砲座跡へと至ります。こちらはコンクリート造の円形の砲座がそのまま残されています。
舞鶴市内の砲台の砲座はほとんど撤去されている中、この遺構は貴重なものです。砲台は空山の最高所に造られています。
砲台跡を後にし、兵舎跡へと向かいます。
兵舎跡の平坦地。図面によると、ここには兵舎と付属屋、烹炊所があったようですが、
遺構とはしてはコンクリートの基礎と、僅かな煉瓦の基礎らしきものを確認したのみでした。道路の整備工事の際に撤去されたのかもしれません。烹炊所があったのなら、水槽や炊事施設があったはずですし。
兵舎跡の東側の斜面には、木製の廃材が散乱していました。あと甕の底や土管や瓦の破片も。兵舎の廃材かもしれません。ただし、食器やガラス瓶は見つかりませんでした。
再び山頂方面へと道路沿いに向かうと遺構がありました。
土塁状の高まりを切り込む形で煉瓦壁が造られています。崩壊が激しく一部しか残されてませんが、規模的に何かの保管庫だったのでしょうか。この煉瓦構造物の遺構の反対側の高地には平坦地がありました。
さらに進むと土塁状の部分に切れ目があります。ここが旧軍道の入り口になります。
旧軍道入口を入った箇所。この辺りに弾薬庫があったようなのですが、明確な遺構は確認できませんでした。
旧軍道は荒れることもなく良好に残されています。
軍道脇にある平坦地。結構な広さがあります。
詳細不明ですが、明らかに人工的に整地された痕跡があり、平坦地内には煉瓦やコンクリート片が散乱していました。
旧軍道脇に残る油庫跡。
煉瓦の躯体に化粧モルタルが塗られています。
内部。煉瓦の質はあまり良くはないです。戦時中でも軍の施設には煉瓦建築が造られました。舞鶴市内でも朝来第三海軍火薬廠に例がありますが、コンクリート不足や建物の用途(コンクリートだと結露や湿気の問題がある)という理由があったと思われます。
内部から入り口方向。意図的に破壊された感じがします。
油庫から進んだ尾根上に図面では発電施設がありました。現在、それらしい平坦地が残されていますが、倉梯山防空砲台や愛宕山防空砲台、博奕岬防空砲台の発電施設に見られるような貯水槽や地下式の燃料庫などの遺構を確認することが出来ませんでした。
※参照・倉梯山防空砲台地下式燃料庫
※参照・倉梯山防空砲台発電施設貯水槽。
※参照・倉梯山防空砲台覆土式発電機室。
※参照・愛宕山防空砲台発電機室跡。
※参照・愛宕山防空砲台地下式燃料庫。
※参照・愛宕山防空砲台貯水槽。
舞鶴市・愛宕山防空砲台探索レポ日記
再び現在の舗装道へと戻ります。
道路脇に残された平坦地。詳細不明ですが何かしらの施設があったかと思われます。
空山展望台公園から西方向(空山展望台公園へと向かう麓の登り口方向)へと向かった谷地に貯水槽を見つけました。コンクリートの質や構造から戦前の物と推測。
谷地を流れる水を取り入れて溜めていたようです。
貯水槽内部。恐らく空山防空砲台への給水目的と思われ、ポンプにて汲み上げていたのではと思われます。
遺構はほとんど残されていないと思われていた空山防空砲台において、予想以上に数多くの遺構が残されていたのは驚きでした。特に砲台の砲座に関しては、倉梯山防空砲台も愛宕山防空砲台も砲座跡の大穴しか残されていないだけに、構造物が残されているのは貴重だと思います。今回、初の踏査であり単独行動であったことと、途中で天候が急変したこともあり大規模な遺構が残されている可能性が高い別尾根上の第一・第二聴測照射指揮所跡への探索は見送りましたが、そちらも大規模かつ良好な遺構が期待できるため、機会を見て探索を行い、その際には当記事にて追記したいと思っています。