2021年08月
2021年08月29日
宮津市・第三十一海軍航空廠 第一工員宿舎遺構探索レポ日記
※2023年9月16日 新資料発見につき加筆修正。
京都府宮津市ある栗田半島一帯にはかつて舞鶴海軍航空隊および第三十一海軍航空廠がありました。
うち、第三十一海軍航空廠は昭和18年に水上機の生産工場として設立した海軍工廠で、現在の関西電力エネルギー研究所の敷地にありました。航空廠の本体はエネ研の敷地にありましたが、その周辺に航空廠で働く職員や工員が生活する官舎街や宿舎街がありました。官舎街や宿舎街は第三十一海軍航空廠の開設に伴い新たに造成された街並みで、古くからその場所にあった漁村と違い、碁盤の目に街並みが造られています。
第三十一海軍航空廠の官舎街・工員宿舎街は4ヵ所作られたようで、うち、中津工員宿舎街、女子工員宿舎・官舎街、小田宿野工員宿舎街は過去に探索し、当時の建物が何件か今でも民家として使用されていることを確認しています。
※宮津市銀丘地区(第三十一海軍航空廠中津工員宿舎街)探索レポ日記
※第三十一海軍航空廠小田宿野工員宿舎街・官舎街・女子工員宿舎探索レポ日記
また、2023年9月16日、歴彩館が所有している京都府行政文書「軍需品引渡目録」内に、第三十一海軍航空廠とそれに付属する官舎・工員宿舎・病院・変電施設・兵器工場など、今まで判明しなかった施設名などが記された図面を見つけました。
今回確認した遺構群は第一工員宿舎となっており、地元の方の証言通り工員宿舎だったことが分かります。また、遺構は残されていませんが、その北側の畑地になっている場所には、第二工員宿舎と兵器工場が存在したことが分かりました。
今回の探索結果。※2023年9月16日修正。
確認した遺構の平面図。※2023年9月16日修正。
結果として想定以上の遺構の残存度で現在主に畑地となってますが、基礎などがそのまま残り、当時の様子を十分うかがい知ることが出来ました。
大型建物跡・第一工員宿舎跡へと続く道路。この道路は大型建物・工員宿舎を造成する際に造られたもので、現在もこの道に合わせる形で各建物のプランが造られています。
大型建物跡。平面図を参照していただければ分かりますが、規模はかなり大きく、工員宿舎の向かいに建つという立地の性格上、第一工員宿舎の集会所か会食場だった可能性があります。
大型建物跡北棟の一角。ここはコンクリートの床張りが残ってます。
大型建物跡入り口。道路に面して開口し、入り口を中心にして左右に棟が伸びています。
こちらは勝手口と思われます。段がついてます。
大型建物跡の一部。
大型建物跡のコンクリートの基礎にはボルトが残されています。
道路を挟んで向かいには工員宿舎跡があります。
工員宿舎跡。ここの大型建物・工員宿舎のエリア内には1軒のみ民家があります。ここで偶然出てこられた地元の方から親切にも遺構を案内していただきました。ありがとうございました。
工員宿舎跡はその地元の方による証言です。
工員宿舎跡のコンクリートりの床張り。終戦後に建物群は取り壊され、畑地にするため多くはコンクリートの床は撤去したそうですが、畑地にされなかった箇所はこのようにそのまま残されています。また、コンクリート床は撤去してもコンクリートの基礎は撤去が困難なこと、作物を栽培するのに特に支障はないことを理由にそのままになっているそうです。
工員宿舎跡の基礎。工員宿舎の基礎は大型建物跡と違い、煉瓦造にモルタルで仕上げています。
工員宿舎東側にある浴槽跡。浴槽は2つあり、角の部分を曲線に仕上げています。
なお、西隣に脱衣場と思われるコンクリート壁の一室があり、北側に開口しています。
浴室入口。入り口を入ると脱衣場だったと思われます。
ボイラーと思われるコンクリートの升。
工員宿舎跡の南隣にある洗濯場。工員たちが使用していたのでしょう。コンクリート製の洗い場が残されています。
反対側から。
洗濯場の西側の畑地には消火栓が残されていました。
消火栓には海軍の波マークと錨のマークがあります。舞鶴市の第三海軍火薬廠など工廠の敷地内ではしばしば消火栓が見られますが、宿舎の敷地内では初めて見ました。状態もよく貴重な遺構です。
これも撤去が厳しくそのままにしているのだそう。この下には貯水槽がそのまま残されているはず。
洗濯場の南側の外郭。
洗濯場の東側の外郭。外郭ラインには用水路とその内側に塀の基礎と思われるコンクリート基礎があります。塀がコンクリートだったのか木造だったのかは分かりませんが、大型建物・工員宿舎のエリアをぐるりと囲むように基礎が残存しており、海軍用地だった大型建物・工員宿舎エリアを塀で囲って民地と分けていたようです。
大型建物跡・工員宿舎跡から山方向の東へ向かう当時の道。
道の突き当り、山裾にある貯水槽。かなりの大きさです。
なお、今回は確認しませんでしたが、山側に防空壕か残されている可能性があります。
小田宿野の工員宿舎街には奥の山に防空壕が残されています。
敷地の北端には便所跡が3ヵ所あります。こちらは東側の便所跡。
個室は10個。現在遺構は残されていませんが、京都府行政文書の図面では便所の南側に長方形の建物があり、工員宿舎の建物に接続した便所だと分かりました。
便所跡外側から。手前に見えるのは汲み取り穴。臭突が設置されていたであろう丸い穴も残されています。
真ん中の便所跡。
西側の便所跡。便所跡の規模は全て同じです。
便所跡の南側一帯は、今回発見した図面により、この場所に工員宿舎の建物があったようです。
今回初確認したこれらの遺構群は、水路と塀により区切られ、敷地内は区画整理により作られた道と工員宿舎・大型建物、洗濯場、浴場、便所と生活に必要な施設がこの区画内にすべてそろっており、当時の生活の様を実感できる一括遺構として貴重な旧軍遺構と感じました。図面を基に考察しますと、現存する便所跡の南に付属する建物が工員宿舎、そのさらに南にある建物基礎などの遺構が残る一帯は第一工員宿舎の食堂や娯楽室、事務室などがあった建物だったのではないでしょうか。
※余談。
所有している第三十一海軍航空廠の製品タグ。
第三十一海軍航空廠に関して、官舎・工員宿舎の遺構や建物は現在も多数残されていますが、航空廠自体の遺構は地下壕くらいしかなく、また当時の資料も乏しく、他の航空廠と異なり不明な点が多い航空廠であります。
2021年08月09日
鳥取市の近代建築探索レポ日記
2021年8月7日に鳥取市内の近代建築を探索してきました。車で向かい、午前7時30分に鳥取城近くの駐車場に到着。そこから市街地の近代建築を徒歩で探索。炎天下の中、約5時間の行軍という結果となりましたw
まずは鳥取市を代表する近代建築である仁風閣。実は仁風閣は市街地の探索の後に向かったのですが、こちらでは先に紹介。
仁風閣は池田侯爵の別邸として鳥取城内の旧扇御殿跡地に明治40年完成。後に当時皇太子だった大正天皇の山陰行啓時の御宿所にも利用されました。設計は片山東熊。
大正期には鳥取市の所有となり、迎賓館や公会堂として使用。国指定重要文化財。映画「るろうに剣心」の武田観柳邸のロケ地としても知られています。
仁風閣階段。
謁見の間だったかな。
1階大広間。
大広間窓。
2階。
食堂。
2階のサンルーム。明治大正期の西洋館にはつきものですね。
これより鳥取市街地に残る近代建築探索。
N邸。西町。
昭和初期?気になった建物。
K邸。湯所町。昭和13年。大規模な洋館住宅です。
鎧戸のある気になった洋風住宅。湯所町。
旧鳥取武徳殿。湯所町。昭和6年。設計・置塩章。昭和46年に移築され天徳寺の本堂として使用されています。県民の建物100選。
本堂の隣にある庫裏。これも移築建物?
旧鳥取県立図書館。西町。昭和5年。設計・置塩章。
外観保存され、現在は「わらべ館」という展示施設となっています。
玄関部分。
偶然見かけた建物。コンクリートブロックの建物です。西町。
どう見ても戦前の造りにしか見えなくて。
反対側。
玄関にある郵便受け。戦前の建物で良く見られる壁に直接作り付けられたもの。現在は空き家ですが、もし戦前の建築なら、戦前のコンクリートブロック建築として貴重なのでは。コンクリートブロック建築と言えば思い浮かぶのは本野精吾。まさかね・・・。
五臓圓ビル。二階町。昭和6年。国登録有形文化財。
玄関部分の表札。現在も1階は店舗として使用されています。
旧鳥取刑務所所長官舎。行徳。明治24年。県民の建物100選。
和風の割と質素な建物です。現在は行徳苑という憩いの家として使用。
浅井商店。寿町。昭和初期頃でしょうか。2階部分のベランダが特徴的。
I邸。寺町。大き目の洋館付き住宅。
洋館付き住宅。馬場町。割と複雑なデザイン。現在はNPO団体が使用しているようです。
気になった建物。玄関部分の屋根がシャレてます。
旧尾崎家住宅洋館。栗谷町。大正12年。県民の建物100選。
奥まった住宅地の中にハイレベルの洋館がありました。
2階部分のアップ。いかにも大正期の洋館住宅と言ったところ。
背面。
I邸。上町。大正期。
比較的大きい洋館ですが、大正期にしては装飾が乏しい。外壁を改修したっぽい。
旧佐々木家住宅。上町。昭和6年。昭和21年増築。鳥取市指定文化財。県民の建物100選。
元は医院として建てられたものの、医院としては使用されずそのまま個人宅に。戦後GHQの接収時に増築され現在に至っています。
現在は樗谿グランドアパートとなっています。
テラス部分は装飾に富み華やか。
内部も当時の面影が残されています。
旧佐々木家住宅の隣の住宅も戦前っぽい。
旧佐々木家住宅の隣の洋館。結構背の高い建物です。
玄関部分。現在は空き家。
旧医院の建物か。立川町。旧医院としたのは別の所でよく似た旧医院の建物を見たから。なので、詳細に関しては不明です。
門脇構造研究所。立川町。
昭和初期頃と思われる洋館住宅で、六角形の屋根の小さな塔屋を持つ中々優れた建物なのですが、庭木が邪魔で全体を確認できません。
かろうじて玄関側は建物の様子を見ることができます。
卯垣公民館。卯垣。
偶然見かけた建物。昭和初期頃でしょうか。
旧陸軍歩兵第40連隊兵舎。立川町。明治31年。県民の建物100選。
かつての兵舎が三洋電機の敷地内に2棟残されています。
現在、旧陸軍の兵舎が並んで残されている場所はかなり貴重です。
旧陸軍歩兵第40連隊将校集会所。正面の写真は敷地内に入らないと撮影できません。
将校集会所の背面にあるコンクリート造の剣術道場。昭和9年。
近年まで他にも連隊本部・大隊本部などの建物が数多く残されていましたが、再開発により現在は失われています。
旧鳥取高等農業学校本館。南吉方。昭和6年。県民の建物100選。
近年外壁を改修し、現在は企業の事務所として使用されています。
ここまでで徒歩による鳥取市内の近代建築探索は終了。仁風閣へ戻った時点で12時30分。7時30分に出発して実に5時間の行軍。しかも炎天下での徒歩による探索でかなり堪えました。
最初に紹介した仁風閣と鳥取城跡を見学した後、車で郊外の近代建築探索へ。
円通寺簡易郵便局。円通寺。大正期。昭和8年移築。
元々は倉田郵便局だったのを昭和8年に移築したようです。
玄関部分。郵便マークがあります。
旧岸医院。河原町。大正初期。
現在は個人宅ですが、岸医院の表札はそのまま残されています。岸医院は少し離れた場所で今も営業しています。
旧山陰合同銀行河原支店。河原町。大正4年。
いかにも大正期の銀行建築といった感じで素敵な洋館。現在は個人宅。ちょっと羨ましいw
この近くに洋風住宅があり、それの撮影で〆たかったのですが、家の前に人が乗った車がずっと停まっていて、残念ながら撮影できず・・・
以上で鳥取市の近代建築の探索終了です。この後はホテルに戻り朝までゴロゴロ過ごしました。
鳥取城にももちろん行きました。これは復元された大手門。鳥取城は失われた櫓などの建物を復元整備する計画があるようです。
鳥取城天球丸の巻石垣。全国でも珍しい球体の石垣です。