2023年09月

2023年09月22日

舞鶴要塞由良高射砲陣地予定地について。

京都市にある歴彩館にて京都府内の旧軍施設の資料を漁っておりましたら、今まで知らなかった興味深い資料が出てきました。

陸軍由良高射砲陣地2










歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録3−2 昭和21年〜24年度」
旧陸海軍の施設だった敷地や建物は終戦後に進駐軍に接収されましたが、その後、学校や民間へ引き渡されました。その際に進駐軍に現状と今後の使用方法を申請し、許可が下りれば申請した使用方法で払い下げが許可されました。
その軍需施設引渡目録の中に「旧舞鶴要塞由良高射砲予定地」という題の資料を見つけました。
どうやら現在の宮津市由良地区の由良海岸に高射砲陣地を構築する計画があったようですが、未完で終戦を迎えたようです。それで、その高射砲陣地予定地は村の公園地として利用すると書いてあります。

陸軍由良高射砲陣地









その由良高射砲予定地の図面がありました。赤で囲んだ場所が由良高射砲予定地の敷地となります。
真ん中に海岸へ降りる階段があります。接岸できるようにしたのでしょうか。
この場所、見覚えがあり、Google Mapの航空写真で確認してみました。

現在の由良






現在の汐汲浜公園の位置になります。敷地の形が図面と同じですね。

昭和22年








国土地理院HP公開の昭和22年撮影の航空写真。今と同じ形の敷地が写っています。

現在の汐汲浜公園は海岸を造成して造られていることは間違いない公園です。今と同じ形の敷地が引渡目録の地図に描かれており、それが舞鶴要塞の由良高射砲予定地とされていることから、この汐汲浜公園は元々は高射砲陣地として造成はしたものの、結局高射砲は設置されず終戦を迎えた可能性が高いです。高射砲陣地が計画される前から造成されていた可能性も考えられますが、どちららにせよ、陸軍がここを高射砲陣地にしようとした旧軍遺構と言って良いのではと考えますし、今では観光客や海水浴客でにぎわう由良海岸も戦時中は軍事拠点だったということになります。

※2023年10月7日、現地を確認してきました。
20由良海岸高射砲陣地予定地全景










由良高射砲陣地予定地全景。現在は汐汲浜公園となっています。敷地は結構広く陣地構築のスペースとしては十分かと思います。
21由良海岸高射砲陣地予定地擁壁










汐汲浜公園は造成されて作られており、海岸側の岸壁は波返しになっています。
22由良海岸高射砲陣地予定地中央階段










汐汲浜公園の中央には階段が作られ海岸に降りれるようになっています。この階段は図面にも書かれており、当初からあったものです。
23由良海岸高射砲陣地予定地中央階段擁壁










階段の擁壁部分。コンクリートは型板の残るもので、骨材や質を見ると戦前の古いものです。その上に新しく補修のコンクリートが重ね塗りされています。
24由良海岸高射砲陣地予定地中央階段下










階段下は岩場であり、この日は波が荒く降りられませんでしたが、波が穏やかな日は海岸に降りて遊べる感じになっています。恐らくですが、戦前の昭和期に公園整備として大規模な造成が行われ、戦時中、陸軍(舞鶴要塞)が高射砲陣地とするために土地を接収。高射砲陣地予定地としたが実現せず終戦を迎えた感じでしょうか。史料の申請書では今後は公園地としての利用となっているので、本来の用途に戻したのかもしれません。

besan2005 at 20:29|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2023年09月15日

京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)

※今回、京都市役所庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付ける資料を入手しました。記事本文中にて紹介しています。

1.外観全体










武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

2.資料













所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

6.地上から










河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

7.地上から










アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

16.屋上全体










京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

3.東側砲台










京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
4.東側砲台障壁










拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
11.平面図











京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
13.西側階段室内部










東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。
8.西側砲台










続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
9.西側砲台










西側階段室塔屋。
10.西側砲座上空













京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
12.改修前






こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
京都市役所001








所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
13.西側階段室内部










西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。

※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。
1.内訳書










工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。
1.工事竣成並清算報告










工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。

2.工事施工伺2










工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。
3.工事設計書1








工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。
2.工事設計書2









工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。

14.塔屋













京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。
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「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。

15.市役所から御所方面










京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
京都市内の高射砲陣地位置図










現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。

京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
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所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。

※2023年5月27日追記
朝日新聞 京都市役所砲台記事ブログ用







朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。
昭和21年航空写真









フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。
昭和28年撮影の京都市役所ブログ用







『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。
砲台




砲座の拡大。現在は失われている西側の砲座のコンクリート障壁が写されています。

今回、京都市の公文書に裏付けとなる資料を入手することができました。
京都市内に現存する貴重な防空砲台、しかも市役所本庁舎に現存ということも踏まえて、市役所側も何が説明版等で周知してもらいたいものですが。



besan2005 at 21:21|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構

2023年09月12日

第十六師団司令部 副官官舎の現存確認について

16師団










※旧陸軍第十六師団司令部庁舎。

京都市伏見区深草にかつて陸軍第十六師団司令部がありました。戦後敷地は聖母女学院となりますが、
現在も明治41年完成の師団司令部庁舎や京都偕行社などの建物が現存しています。
京都偕行社










※旧京都偕行社。現在は愛徳修道会。

旧第十六師団司令部関連の現存遺構は良く知られており、様々な文献やサイトで見ることができます
(というわけで、第十六師団の詳細な解説は省略します)。
ですので、まだ知られていない遺構はもう存在しないと思われていたのですが…
今月、とある依頼を受け深草地域の旧軍遺構と戦争遺跡に関して改めて調べていたのですが、何気に第十六師団司令部のあった聖母女学院の一帯の航空写真を見ていると、あることに気づきました。
聖母女学院








※GoogleMapより引用。

赤枠で囲った建物。一見何の変哲もない民家に見えますがどうも引っかかる。
実はこの建物の北側にかつて第十六師団長官舎の建物があったのですが、
師団長官舎1









師団長官舎2









※在りし日の第十六師団長官舎(1995年頃。管理人撮影 )

保存運動が起きたものの、約20年くらい前に取り壊され、跡地は住宅地となりました。
しかし、この建物は新たに建てられた住宅とは規模も形も違い、また敷地の広さや傾きも違う。
戦後に建てられたものかもしれないが、どうも引っかかる。それにもし戦前からの建物であるなら、軍用地の中の建物となるため、第十六師団関連の建物の可能性があるのでは。
というわけで、近代京都オーバーレイマップの戦前の都市計画図および、国土地理院公開の昭和21年の航空写真と現在の航空写真を見比べてみることに。
16師団副官官舎位置図









建物の規模、位置、傾き等を考慮すると、これは当時の第十六師団司令部関連の建物の可能性が高いのではという結果に。特に昭和21年の航空写真を見ると現在と同じ寄棟の屋根であることが分かります。
都市計画図に描かれている太いラインは軍用地の境界である土堤を記したもので、件の建物がかつては軍用地内にあったものだということが分かります。
師団司令部航空写真








こちらは「未来へ紡ぐ深草の記憶から」というサイトにある第十六師団司令部の航空写真(昭和10年頃。所蔵・聖母女学院)。赤枠が問題の建物。この写真でも寄棟屋根であることが分かり、戦前から屋根の形状は変わらないということが判明しました。

これらの結果をいつもお世話になっっています盡忠報國様にお伝えし、意見交換を行いました結果、師団司令部の佐官クラスの副官官舎の可能性が極めて高いという見解を頂きました。
そこで、実際に9/9の土曜日に確認をしてまいりました。
副官官舎1










副官官舎と思われる建物の外観。現在は個人宅となっており(※表札を修正)、外観は大きく変更され屋根瓦も吹き替えられています。また、かつて土堤があったと思われる場所は生垣とブロック塀になっており、面影はありません。
副官官舎2










しかし、聖母女学院の敷地側となる奥側は当時のままの下見板張りの外観が保たれていました。奥には出窓らしきものも見えます。次に副官官舎の入り口、玄関の位置についてですが、現在は建物の東側に門がありますが、昭和10年代の航空写真や、昭和21年の航空写真を見ると、今より北側に門があり、副官官舎の北側の面に向かって道が伸びてます。
副官官舎1










敷地の入り口となる門は現在は東になっていますが、門から建物への導線は北側を通ってます。
玄関か










また、よく見ると今でも玄関入り口と思われる三角の小屋根が確認できます。
第二師団副官官舎










こちらは第二師団の副官官舎の平面図。
「旧陸軍省における官舎建築の供給制度と平面構成について」より引用。
この第二師団の副官官舎も方角は違いますが、建物の長辺側に玄関を設け、玄関を入って左側に浴室や台所、向かって右側に居間と客間があります。居間には出窓があり、先ほど上げた外観の写真と一致します。官舎はほぼ画一化された設計をしており、この第十六師団の副官官舎も第二師団副官官舎とほぼ同じ平面プランと間取りをしていたものと思われます。
平屋の官舎ですが、客間は床の間を備えた書院造となっており、格式を持っています。

盡忠報國様の見解だと、佐官級の丙号官舎の可能性が高いとのことでした。
奥に残る当時の外壁や建物の平面プラン、屋根の形状から躯体も含めて当時の状態で残されているものと思われます。
※本当は奥側へ回り込んで確認したかったんですが、聖母女学院の敷地となっているため不可能でした。ただ、写真は撮ってませんが、北側に立ち並ぶ住宅の隙間から少し確認することはできました。
第16師団副官官舎新築工事の件1









※「第16師団副官々舎新築工事の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031382800、永存書類乙輯第2類 第3冊 明治44年(防衛省防衛研究所)

アジア歴史資料センターに第十六師団の副官官舎新築に関する資料がありました。書かれている仕様書や図面が公開されていないのは残念ですが、新築工事の文書を作成した時期から見て、副官官舎が完成したのは明治45年頃でしょうか。
また、「建築敷地は買収必要なし」と書かれているため、すでに軍用地となっている師団の敷地内に新築したことが分かります。

師団長官舎は戦後大蔵省に移管され、結局取り壊されましたが、副官官舎の方は戦後すぐかどこかの時期で民家となり一部改装はされつつも現在まで残り続けたのでしょう。

第十六師団司令部関連の遺構は有名で、多くの人に知られているため、もうこれ以上の新たな遺構の発見は無いだろうと思われていただけに、今回の副官官舎の現存の確認は大きな成果ではないかと自負しております。

※詳細な考察と見解は、盡忠報國様のブログ記事に委ねることにしますw

besan2005 at 13:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 旧軍遺構
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