2023年12月
2023年12月30日
北岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条東岩本にある北岩本児童公園を探索しました。北岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
北岩本児童公園南側東門。
南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。
西門。
公園から。
西側の塀も同じデザイン。
北門。
門柱は全て同じデザインです。
銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。
東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。
東南隅の塀。
北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。
バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。
バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。
ベンチは当時のもののようです。
このような感じで並んでます。
北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。
半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。
反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
北岩本児童公園南側東門。
南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。
西門。
公園から。
西側の塀も同じデザイン。
北門。
門柱は全て同じデザインです。
銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。
東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。
東南隅の塀。
北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。
バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。
バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。
ベンチは当時のもののようです。
このような感じで並んでます。
北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。
半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。
反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
2023年12月24日
南岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条南岩本にある南岩本児童公園を探索しました。南岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。
塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。
銘板は新しいもの。
南側の門と塀はこんな感じです。
南岩本児童公園北門。
北門の門柱は南門と違い意匠的です。
北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。
南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。
プールの北側には手洗い場跡があります。
水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。
手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。
南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。
塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。
銘板は新しいもの。
南側の門と塀はこんな感じです。
南岩本児童公園北門。
北門の門柱は南門と違い意匠的です。
北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。
南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。
プールの北側には手洗い場跡があります。
水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。
手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。
南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
2023年12月23日
富小路殿児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市中京区富小路通二条上る鍛冶屋町にある富小路殿児童公園を探索しました。富小路殿児童公園は昭和16年6月30日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
富小路殿児童公園西門。
門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…
門柱は開園当初のもの。
西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。
富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。
水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。
水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。
斜めから。
バーゴラの背面。
バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。
バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。
富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。
実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。
これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。
富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
富小路殿児童公園西門。
門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…
門柱は開園当初のもの。
西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。
富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。
水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。
水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。
斜めから。
バーゴラの背面。
バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。
バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。
富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。
実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。
これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。
富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
六條院児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市下京区高倉通五条下る二丁目富屋町にある六條院児童公園を探索しました。六條院児童公園は昭和17年8月15日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
六條院児童公園北門。
門柱は当時のものですがかなり低いですね。
反対側。この塀は戦後かも。
塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。
東門。
こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。
六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。
水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。
背面。
国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。
背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。
コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。
これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。
このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。
そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。
脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。
現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。
噴水部分。
噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。
背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。
六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。
実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。
階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
六條院児童公園北門。
門柱は当時のものですがかなり低いですね。
反対側。この塀は戦後かも。
塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。
東門。
こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。
六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。
水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。
背面。
国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。
背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。
コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。
これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。
このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。
そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。
脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。
現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。
噴水部分。
噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。
背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。
六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。
実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。
階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
2023年12月21日
船岡山公園に現存する昭和10年頃のすべり台。(京都市内で現存最古か)
京都市北区にある船岡山は、中世には応仁の乱での西軍の本陣が置かれ船岡山城が築城、明治2年には織田信長を祭神とする建勲神社が創建されるなど、歴史的な丘ですが、昭和10年11月1日に都市公園として整備されて以来、京都市の近代化遺産としての都市公園の遺構を多く残す公園でもあります。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。
こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。
現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。
古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。
船岡山公園の広場にあるすべり台。
右横から。
左横から
正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。
背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。
すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。
戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。
絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。
逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。
先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。
いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。
最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。
こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。
現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。
古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。
船岡山公園の広場にあるすべり台。
右横から。
左横から
正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。
背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。
すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。
戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。
絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。
逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。
先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。
いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。
最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
2023年12月16日
高原児童公園に残る都市公園としての近代化遺産とその活用例
京都市左京区田中西高原町にある高原児童公園を探索しました。高原児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。
高原児童公園南側東門。
門柱は特に意匠的ではないですね。
公園側から。誰かの忘れ物が…
銘板。これは開園当時のもの。
高原児童公園南側西門
こちらも南側西門と同じデザイン。
公園側から
銘板も当時のもの。
高原児童公園西門。
高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。
全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。
西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。
竣工記念碑の噴水。
昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。
裏側。
裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。
噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。
日時計。これも記念碑を兼ねています。
日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。
日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。
公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。
京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。
竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。
高原児童公園南側東門。
門柱は特に意匠的ではないですね。
公園側から。誰かの忘れ物が…
銘板。これは開園当時のもの。
高原児童公園南側西門
こちらも南側西門と同じデザイン。
公園側から
銘板も当時のもの。
高原児童公園西門。
高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。
全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。
西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。
竣工記念碑の噴水。
昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。
裏側。
裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。
噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。
日時計。これも記念碑を兼ねています。
日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。
日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。
公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。
京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。
竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
2023年12月15日
旧京都府警察本部庁舎(現・文化庁京都庁舎)の塔屋屋上に存在した防空監視哨に関して
現在、文化庁京都庁舎となっている旧京都府警察本部庁舎は、昭和2年に昭和天皇即位の昭和大礼を記念して建てられた歴史的建造物です。
その庁舎に低めの塔屋があるのですが、そこにかつて防空監視哨があったことを知ったのは、「京都空襲 8888フライト」という本の記述でした。
そこには鉄網コンクリートで造られた防空監視哨についての記述があり、民防空の防空隊本部としての中心的役割を担っていたとありました。防空監視哨の具体的な造りの記述に興味を持ち、原資料をあたったところ、京都府の歴史資料を数多く所蔵する北区の歴彩館に所蔵されていることが分かり、閲覧の申し込みをしました。
歴彩館所蔵、国指定重要文化財・京都府行政文書「昭和十三年度 府廰内防空施設工事綴」。
この簿冊の中に仕様書や図面が収められていました。
昭和13年に造られた防空監視哨。その請負業者は京都市中京区西ノ京にあった中野組。簿冊は45ページに渡り仕様書などが綴られています。
そしてこれが防空監視哨の設計図面。この図面をトレースして再作図して見ました。
また、同封されていた手描きの設計図面も参考にしました。
こちらがトレースした図面。国指定重要文化財の資料のため、資料の保護からスキャニングは不可で、写真の直撮りしかできなかった上に、折り目で歪みが大きいため、無理矢理補正しながらトレースしました。なので、縮尺に幾分かの差異があると思います。
ここから外観・断面図・配置図に分けて見ていきます。
外観。平面形は亀甲型をしており、各面にガラス窓の監視窓があり、上部には嵌め殺しの天窓もあり、四方・上空を監視できるようになっていました。入口のドアはペンキ塗りの檜材の防音扉。
断面図。防空監視哨は鉄網コンクリート造、屋根は防腐剤入りのモルタル塗り、床板は松材で、腰板は檜材。内部の壁と天井はブラスター塗り、内部にはオーク材の座面がレザー仕上げの高さが調節可能な回転椅子が2つと電話。監視員は回転椅子に座り四方を監視し、異常を発見したら階下の防空課直通の電話で即座に知らせることになっていました。
防空監視哨は庁舎の塔屋の上にあり、そこへは松材で造られたペンキ塗りの木製階段で上がることになっていました。塔屋の上にはサイレンもあり、空襲警報のサイレンを鳴らしていたものと思われます。
ちなみに、京都市役所本庁舎の屋上には今も高射機関砲の砲座が残されていますが、上へ上る階段や梯子が見当たらないため、もしかしたら、京都府警察本部庁舎の防空監視哨のように木製の階段が取り付けられていたのかもしれません。
※関連記事
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)
この防空監視哨の設計図を見る限り、コンクリートを使った防御性のある堅牢な建物だったというだけでなく、美観や内部の過ごしやすさも考慮した手の込んだ造りとなっています。
現在の航空写真を見ると、今でも塔屋のう上には亀甲型の防空監視哨の基礎や、サイレンの台座が残されていますが、防空監視哨の位置が図面と違うため、変更があったのかもしれません。
戦前の防空には、高射砲や基地航空隊の迎撃機による兵器を用いた軍が管轄する「軍防空」と、各防空監視哨や特設見張所にて監視を行い、敵機の来襲や空襲を知らせる警察が主体の「民防空」がありました。警察や軍の指導の下、民間人による防空監視隊が組織され、各地域の防空監視哨で任務にあたりました。上の図はフォロワーさんからの提供の京都府内の防空監視隊配置図で、いくつかのエリアに分けられ、そのエリア内に防空監視哨とそれをまとめる監視隊本部があり、本部は警察署に置かれていました。京都府警察本部庁舎に置かれた京都監視隊本部は京都市内だけでなく、京都府全体の防空監視任務も束ねる中枢だったのではと思います。その京都府警察本部庁舎に造られた防空監視哨はそれに見合った立派なものにする必要があったのかもしれません。(郊外の防空監視哨は山の上に丸太を組んだ粗末な櫓のようなものが多かった)
今でも日本全国に何か所かコンクリート製の防空監視哨が残されていますが、この京都府警察本部庁舎屋上にあった防空監視哨の設計図は、当時の防空監視哨の構造を知ることができる貴重な資料と考えられます。
2023年12月10日
比永城児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区西九条比永城町ある比永城児童公園を探索しました。比永城児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産
比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。
公園側から。
比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。
公園側から。
比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。
公園側から。塀は失われています。
バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。
別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。
砂場。隅丸タイプ。
比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。
反対側から。
水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。
公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産
比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。
公園側から。
比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。
公園側から。
比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。
公園側から。塀は失われています。
バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。
別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。
砂場。隅丸タイプ。
比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。
反対側から。
水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。
公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。
2023年12月03日
橘児童公園に残る都市公園の近代化遺産(ラジオ塔)
京都市上京区智恵光院通笹屋町下る橘町にある橘児童公園を探索しました。橘児童公園は昭和14年7月10日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
橘児童公園にはかつて門・塀だけでなく、特徴的な水飲み場やプール跡など数多くの開園当初の遺構が残されていましたが、近年の大改修によりほとんどが撤去され、現在は地蔵尊とこのラジオ塔しか残されていません。橘児童公園のラジオ塔は燈籠型をしており、公園の西端にあります。
ラジオ塔の下部には大きな開口部があり、ここに機器が収められ燈籠の火袋にあたる部分にスピーカーがあったのでしょう。
ラジオ塔には「橘公園愛護会」の大理石の銘板があります。ラジオ塔は多くが寄付によって建てられています。
内部はこんな感じ。橘児童公園の大改修の際、このラジオ塔だけが残されたのは、徐々にラジオ塔の認知度が進み、京都市も近代化遺産としての価値を認め、補修まで行っているのは素晴らしいですが、それなら、高原児童公園のように開園当初の門・塀・水飲み場・プール跡も生かした改修をしてほしかったです。プール跡は保存の要望もあったらしいですし・・・
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
橘児童公園にはかつて門・塀だけでなく、特徴的な水飲み場やプール跡など数多くの開園当初の遺構が残されていましたが、近年の大改修によりほとんどが撤去され、現在は地蔵尊とこのラジオ塔しか残されていません。橘児童公園のラジオ塔は燈籠型をしており、公園の西端にあります。
ラジオ塔の下部には大きな開口部があり、ここに機器が収められ燈籠の火袋にあたる部分にスピーカーがあったのでしょう。
ラジオ塔には「橘公園愛護会」の大理石の銘板があります。ラジオ塔は多くが寄付によって建てられています。
内部はこんな感じ。橘児童公園の大改修の際、このラジオ塔だけが残されたのは、徐々にラジオ塔の認知度が進み、京都市も近代化遺産としての価値を認め、補修まで行っているのは素晴らしいですが、それなら、高原児童公園のように開園当初の門・塀・水飲み場・プール跡も生かした改修をしてほしかったです。プール跡は保存の要望もあったらしいですし・・・
紫野宮西児童公園に残る近代化遺産
京都市北区紫野宮西町ある紫野宮西児童公園を探索しました。紫野宮西児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。紫野宮西児童公園は、昭和期に開園した京都市の児童公園でも初期の開園に位置し、紫野柳公園・下鴨ガ前公園・あおい公園と同じ開園日です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
紫野宮西児童公園は改修により当初の門や塀は失われ、他の施設もほとんどが当初の物ではありませんが、その中で2つのみ当初のものが残されています。
紫野宮西児童公園のベンチ。
アーチ型をしたこのベンチは中々目を引く存在で、開園当時も公園のシンボル的な存在だったと思われます。
背面。別サイトでは国旗掲揚台と書いてましたが、支柱を支える場所などが無いため、ベンチでいいでしょう。これだけ残された理由は不明ですが、補修して今後も大切にしてもらいたいものです。
そして2つ目はおなじみ地蔵尊。地蔵盆が盛んな京都市で、公園内に地蔵尊を設置することで、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
紫野宮西児童公園は改修により開園当初の遺構がほとんど失われましたが、唯一残されたベンチと地蔵尊が当時の雰囲気を今に伝えています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
紫野宮西児童公園は改修により当初の門や塀は失われ、他の施設もほとんどが当初の物ではありませんが、その中で2つのみ当初のものが残されています。
紫野宮西児童公園のベンチ。
アーチ型をしたこのベンチは中々目を引く存在で、開園当時も公園のシンボル的な存在だったと思われます。
背面。別サイトでは国旗掲揚台と書いてましたが、支柱を支える場所などが無いため、ベンチでいいでしょう。これだけ残された理由は不明ですが、補修して今後も大切にしてもらいたいものです。
そして2つ目はおなじみ地蔵尊。地蔵盆が盛んな京都市で、公園内に地蔵尊を設置することで、地域のコミュニティの場としての中心的役割を持たせようとしたのかもしれません。
紫野宮西児童公園は改修により開園当初の遺構がほとんど失われましたが、唯一残されたベンチと地蔵尊が当時の雰囲気を今に伝えています。