2024年01月

2024年01月16日

福知山市筈巻・天神神社の鰐口「丹州天田郡筈巻村中・天満宮御宝前」の銘文

鰐口1










先日、ネットオークションにて鰐口を入手しました。
鰐口とは仏堂の前に吊り下げて音を鳴らす仏具で、神仏分離令までは神社の社殿の前にも下げられていました。(今でも社殿前に下げられている神社もあります)
鰐口3










写真の関係でうまく写せてませんが、「目」という左右の出っ張りの幅は約20cm。
鰐口4










「口」という下部の開口部の幅は約1cm。
鰐口7






上部には湯口(鋳造の際に銅を流し込んだ部分)の痕が残っています。

実はこの鰐口には村の歴史を物語る銘文が残されています。
鰐口5










向かって右側にある銘文。
「丹州天田郡筈巻村中」
これは、現在の京都府福知山市筈巻に該当します。
鰐口6










向かって左側にある銘文。
「天満宮御宝前」
調べたところ、筈巻地区に天神神社という菅原道真を祭神とした神社があることが分かりました。
天神神社1










筈巻地区の天神神社の位置。
天神神社2









ストリートビューの天神神社。(後日、取材に行きます)。
案内板によれば、室町時代末期の文禄年間(1592〜1595)の頃、福知山市の六人部にいた高橋氏がこの地を開墾した際、北野天満宮を勧請し祀ったのが最初とされています。
実際に筈巻に天満宮である天神神社が存在することから、鰐口に刻まれている銘文は偽銘ではなく、本来、天神神社に存在したものであることが分かります。

鰐口2










鰐口の裏面には何も刻まれていません。
鰐口にはよく年号が刻まれていて、それが鰐口の年代を記すものになるのですが、残念ながらこの鰐口には年号がありません。となると、刻まれている銘文と形状からの判断になるわけなのですが。
まず、銘文で気にになったのが「天満宮」という表記。現在は天神神社という社名になっていますが、北野天満宮からの勧請だったこともあり、当初は「天満宮」と呼ばれていた可能性があります。
この天神神社がいつから天満宮から天神神社へと社名が変わったのか今のところ不明ですが、近代は天神神社と称していたようです。
次に鰐口の形状。私は仏具に関して専門ではないので詳しい鑑定はできないため、ネットで各時代の鰐口の特徴を調べてみましたが、基本的に室町時代までは「目」の出っ張りが低く、「唇」という開口している部分の高さと変わらないこと。「口」の部分の幅が狭いこと。江戸時代以降は「目」の出っ張りが顕著になるようです。

以上の事から、この鰐口は室町時代の特徴を備えた古風な形状を成し、当初の呼称と思われる「天満宮」の名称が刻まれていることから、もしかしたら天神神社の創建当時のものの可能性がありますが、あくまで私個人の考察なため確証はありませんので、今後さらに調査したいと思います。

どちらにせよ、ほとんど資料が残されていないであろう天神神社の歴史を物語る資料であり、仮に創建当初の文禄年間の作だとすれば、さらに貴重な資料になると思われるのですが。

※追記
この記事を執筆した後、筈巻地区内にある無量寺さんに問い合わせてみました。
筈巻は江戸時代初期に村として成立し、慶安2年(1649)までは福知山藩領。以後は天領だったのこと。天神神社の創建は文禄年間の言い伝えですが、今のような形の神社となったのは、筈巻村として成立した江戸時代以降ではとのこと。
また社名は天神神社だがそれは通称で、現在でも地区では天満宮と言ってたりする。
とのお話をいただきました。
鰐口1










さらにSNSにてこの鰐口に関しての情報を求めたところ、古美術に詳しい方からの見解が。
]霧の銅は金味が比較的新しく、江戸時代の雰囲気。
形状は室町時代後期〜安土桃山時代の古風な作風。
以上から江戸時代初期頃ではと判断。

との情報を得ました。
江戸時代初期の作と考えると、筈巻村が江戸時代初期に成立しその際に小祠だった天神神社が今の形に整備された際に奉納された可能性があります。まだ調査は進めますが、筈巻地区の歴史を物語る重要資料になる可能性がありそうです。 

besan2005 at 11:34|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 郷土史

2024年01月14日

神戸海軍操練所跡・神戸港第一波止場防波堤跡発掘調査現地説明会レポ日記

2神戸海軍操練所現場入口










神戸市で開催された、神戸海軍操練所跡と神戸港第一波止場防波堤跡の発掘調査の現地説明会に参加してきました。神戸港のウォーターフロント再開発事情に伴う工事の事前発掘調査で見つかった遺構群であり、幕末〜明治期にかけての神戸港の成り立ちを物語る貴重な発見となりました。
今回の調査で重要な点は3つ。
)詼期の江戸幕府により築造された神戸海軍操練所の石積み遺構。
⊃生由港時に築造された明治初期の第一波止場の石積み防波堤。
L声C羇までに行われた第一波止場防波堤を修築・増築した遺構と信号灯・信号所の基礎遺構。
となります。
3調査区全体図









※現地説明会で配布された資料に掲載されている発掘現場の全体図。赤枠で囲んでいる部分の遺構が、第鬼の幕末期の神戸海軍操練所時代の石積み遺構(赤枠はブログ管理者による加筆)。

まずは幕末期の神戸海軍操練所跡の遺構。
1神戸海軍操練所記念碑










神戸海軍操練所は元治元年、幕府の軍艦奉行であった勝海舟の進言で設立した海軍士官の養成機関と海軍工廠を合わせた日本海軍発祥の地ともいえる施設でした。
塾頭は坂本龍馬。神戸海軍操練所は幕府の機関でありながら、幕府の終焉を予想していた勝海舟により、討幕派の志士も多く集っていました。
勝海舟は禁門の変で軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所は慶応元年に閉鎖。明治に入り、神戸海軍操練所の跡地を利用して第一波止場の防波堤が築造されました。

3現場全体










発掘現場全体。幕末期の神戸海軍操練所跡と神戸開港時の明治初期の第一波止場の防波堤遺構、明治中期までの防波堤増築部分からなる近世近代の複合遺構です。
4神戸海軍操練所石積










北から撮影した幕末期の神戸海軍操練所跡の石積み遺構。遺構は手前の石積みで、表面は見学路の反対になるので、鏡で映しています。
5神戸海軍操練所石積










一番北側で確認された神戸海軍操練所跡の石積みの表目面。
いわゆる城郭にも使われた切込み接ぎともいえる布積み。
6神戸海軍操練所石積










その南側で確認された石積み遺構。
7神戸海軍操練所石積










一番南側で確認された石積み遺構。神戸海軍操練所跡の石積みは第一波止場防波堤の下に埋もれる形で、約26mほど現存しているようです。
これらの石積みを勝海舟や坂本龍馬が見ていたかもしれないかと思うと、感慨深いものがあります。

そして、明治初期の神戸開港時に築造された第一波止場防波堤、それ以後の明治中期までに行われた防波堤の修築・増築の跡と信号灯・信号所の基礎遺構。
8第一波止場防波堤石積










明治初期〜明治中期までの第一波止場防波堤遺構。西から撮影。
9第一波止場防波堤石積










第一波止場防波堤の石積み表面。第鬼の幕末の神戸海軍操練所時代の石積みを土台として利用し、その上に第挟の神戸開港時の第一波止場防波堤が築造され、明治中期までにさらにその上にほ防波堤が増築されました。
10第一波止場防波堤石積










北から。防波堤の構造がよく分かります。
11信号灯基礎










明治中期までに建設された信号灯の基礎。新旧の2時期あります。
12信号所基礎










同時期の信号所の基礎。
13明治時代中期第一波止場の様子








※現地説明会資料より引用・加筆。
この第一波止場の防波堤と信号灯・信号所は、明治中期に撮影された古写真に写されています。
奥に見える白亜の洋館は初代神戸税関。そこから左側は外国人居留地で、現在の海岸通りになります。
14古写真アングル










古写真とだいたい同じアングルで撮影。今から130年以上前に撮影された古写真に写る防波堤や施設と同じものを実際にこの目で見ている感動。
IMG_7127










見学路の足元には明治期の石積み防波堤の天端が露出していました。
第一波止場防波堤は時代とともに埋められていき、阪神高速道路建設の際に完全に埋め立てられました。そのおかげか良好な状態で遺構が発見され、神戸港の成り立ちを知る重要な近代の遺跡と判明しました。今回発見された遺構はまだ検討中ですが、敷地が神戸市所有であるため、保存整備の方向が検討されているようです。整備された後の姿を楽しみにしたいものです。
15出土遺物










その他、出土品など。中世の室町時代の五輪塔や宝篋印塔の部材なども使用されていたようです。
16出土遺物










石製の建物の部材も見つかっています。居留地時代の洋館の部材を修築や増築時に利用したのでしょうか。

今回の現地説明会は事前予約制で、土曜日と日曜日に確か4回、100名ずつくらい枠があったと思いますが、12日の締め切りを待たずに定員が埋まってましたね。やはり幕末。それも坂本龍馬ゆかりの遺構発見となると人気を呼びますね。

besan2005 at 11:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 兵庫県 | 近代化遺産

2024年01月08日

五條市の近代建築探索レポ日記

20240107_100926










奈良県の五條市にある近代建築を探索してきました。五條市には古い町並みなどがよく残されています。まずはJR五条駅から出発。
51五条駅手洗い場










この五条駅のホームに人造石研ぎ出しの手洗い場が残されていました。国鉄時代、まだ蒸気機関車が現役だったころ、駅に着いた蒸気機関車の機関士たちが煤で汚れた手や顔を洗うために使われていました。時には乗客も使用したこの手洗い場はかつてどこの駅のホームにもありましたが、昨今の高架化などの改築で姿を消しつつあります。
駅から1周する感じで探索していきます。

1純喫茶飛騨 須恵町










純喫茶・飛騨。五條市須恵。駅前にある喫茶店。玄関のアーチが特徴的。

2五条酒造事務所 今井町 大正13年










五条酒造事務所棟。五條市今井町。
3五条酒造事務所










和洋折衷の建物。この事務所の建築年は分かりませんが、創業年の大正13年としておきます。
4五条酒造工場棟










五条酒造の工場棟。こちらも大正13年としておきます。
5五条酒造煙突










五条酒造株式会社の文字がある煉瓦造の煙突も現役で使われています。

6元タバコ屋 五條










旧たばこ店。五條市五條。中々いい雰囲気の建物。レトロな看板もいいですね。
7元タバコ屋










今は店舗としては使われていないようです。

8鍵谷邸 五條










K邸。五條市五條。
9鍵谷邸










軒周りのデンティル装飾が特徴的ですね。
10鍵谷邸










どうやら元は印刷会社の事務所だったようです。

11栗山家住宅 五條 慶長12年 国重文










栗山家住宅。五條市五條。近代建築ではないですが、五條市で一番有名な古民家と思われるので紹介。
建築年はなんと慶長12年(1607)。400年以上前の住宅で、年代の分かっている住宅としては日本最古だそう。
12栗山家住宅










屋根の破風とかまるでお城の御殿のような立派さ。国指定重要文化財ですが、現在も個人宅なのが凄い。

13フォトスタジオサクライ(旧吉野銀行五條支店・旧五条信用組合) 五條 昭和10年 大林組 










フォトスタジオサクライ。五條市五條。昭和10年。
14フォトスタジオサクライ










元は吉野銀行五條支店だった建物。その後、五條信用組合となり、現在は写真館として使われています。
15フォトスタジオサクライ










装飾は少なめですが、元銀行らしい堂々たる外観です。

20旧五新鉄道新町高架橋 新町 昭和14年頃










旧五新鉄道新町高架橋。五條市新町。昭和13年〜14年頃。
五新鉄道は、奈良県五條市と和歌山県新宮市を結ぶ鉄道路線として明治末期に構想が起こりました。
実際に工事が着工されたのは昭和12年。高架橋と生子トンネルの開通までは完成しましたが、戦争により工事中断。昭和35年に工事が再開するも結局工事は中止され未完成のまま終了しました。
21旧五新鉄道新町高架橋










すでに完成していた五條市の高架橋は撤去費用の面からかそのまま残され現在に至りますが、今となっては幻に終わった五新鉄道の姿を伝える貴重な近代化遺産となっています。
22旧五新鉄道新町高架橋










高架橋のアーチの下部分。木の型枠痕が残ります。
23旧五新鉄道新町高架橋










高架橋の橋脚部分。ここにも型枠痕が。戦前のコンクリート建築にはこういった型枠痕がよく残されています。
24旧五新鉄道新町高架橋










国道24号線側にも高架橋が残されています。
25旧五新鉄道新町高架橋










かつては高架橋が国道24号線を跨いでいましたが、さすがに危険性があるので、現在は国道を跨ぐ部分は撤去されています。
26旧五新鉄道新町高架橋










旧五新鉄道の説明板。

27神田橋 新町 昭和5年8月










神田橋。五條市新町。昭和5年8月。
28神田橋










先ほどの旧五新鉄道高架橋のそばにあるRC橋。竣工当時の姿をよく留めており、欄干の尖頭アーチの装飾など戦前のRC橋らしい意匠的なものです。
29神田橋










竣工年の昭和五年八月の文字がある銘板。
30神田橋










神田橋の工事関係者の名前が刻まれた銘板。工事関係者の銘板が設置された戦前の橋は珍しいです。

31旧五條代官所長屋門 新町










旧五條代官所長屋門。幕府の天領であった五條市には代官所がありました。元々は五條市役所の位置にありましたが、天誅組の変により焼き討ちにあい焼失。元治元年(1864)に現在の地に新たに移されました。
32旧五條代官所長屋門










この長屋門はその時のもので、現在は歴史民俗資料館となっています。
33旧五條代官所










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五條代官所の敷地の南側には石垣が残されています。
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五條代官所は明治維新後は五條県庁となり、その後は裁判所の敷地となって現在に至ります。

35割烹明月 本町










さて、再び近代建築探索へ。割烹明月。五條市本町。
37割烹明月










3階建ての大きな洋館が特徴的な建物です。
36割烹明月










隣接する和館も立派です。
38割烹明月










玄関には立派な唐破風が。元は料理旅館だったのでしょうか。

39煉瓦倉庫 本町










煉瓦倉庫。五條市本町。街を歩いていて見かけました。
40煉瓦倉庫










壁は煉瓦ですが屋根の形から蔵だったのでしょうが、隣の民家とは別の敷地みたいなので、この煉瓦蔵だけ残されているっぽいです。
41煉瓦倉庫










ちょっと入り口側に回らせてもらいました。そこには・・・
42煉瓦倉庫










見事な木製の彫り物の装飾が。ただの蔵にこれだけの装飾を施しているくらいなので、主屋はどれだけ立派だったんでしょうか。

43谷食料品店 須恵










谷食料品店。五條市須恵。
44谷食料品店










今はもう閉店しているようです。ちょっと気になった建物。

45赤壁薬局 須恵










赤壁薬局。五條市須恵。
47赤壁薬局










現在は国道24号線に面した赤壁薬局の一部になっていますが、かつては荒谷薬局という店だったようで、タイル壁に店名が残されています。

48洋風住宅 須恵










下見板張りの住宅。五條市須恵。
49洋風住宅










ちょっと気になった建物でした。もとは店舗でしょうか。

16新町通










五條市は近代建築だけでなく、伝建地区の歴史的な街並みなど見どころの多い町でした。

おまけ。
52ケアーズ アーニャのシャッター










商店街にあった、SPY×FAMILYのアーニャが描かれた店舗w
この店舗の店主のブログによれば、アーニャが大好きで描いてもらったようです。


besan2005 at 10:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 奈良県 | 近代化遺産
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