2009年01月17日
幻の寺院
馬場南遺跡は昨年から調査されていた遺跡ですが、
川をせき止めて作られた広大な池跡とともに
山側にこれまで例を見ない仏堂を発見。
出土遺物の特徴から貴族や皇族クラスが関わっていた
相当な寺院施設であったことが判明しました。
しかし、これだけの寺院跡でありながら、記録に一切
名前のない幻の寺。そのことがさらにいろんな憶測を呼んでますね。
木津川市では、国指定史跡を目指すくらい重要遺跡の発見のようです。
仏堂跡のふもとにある池跡。
川をせき止めて作られたもので、相当な規模の池。
ここから灯明皿や万葉仮名の歌が書かれた木簡など
多量の遺物が出土しています。
出土した須恵器。8世紀の特徴をもつものです。
また、奈良三彩も出土しており、明らかに有力貴族か
皇族が関係している寺であることがわかります。
質・量ともに例を見ないそうです。
足のついているのは香炉。
法要に使用されたのでしょうか。
また、この池からこの寺院の名前を明らかにした
「神雄寺」「神尾」の墨書土器や「大殿」といった墨書土器も
出土しています。大殿は天皇や大臣クラスの人物を指す名称です。
この墨書のおかげで寺の名前がわかりましたが、
神雄寺は記録に一切ない寺院名です。
三彩や大殿の墨書といった物が出ている
当時としても重要な寺院であったはずなのに、
なぜ記録も伝承もないのか…
池跡出土の廃棄灯明皿出土状況。
現場では一部だけ出土状況が残されてますが、
本来はかなりの広さで灯明皿が埋め尽くされており、
その数8000枚!
かなり大規模な祭祀や法要が行われていたことがわかります。
この池の山側のほとりに掘立柱建物の遺構が見つかっており、
池での祭祀を行うための礼堂のようなものではないかと思われます。
これが灯明皿。といっても特別に作られたものではなく、
食器などにも普通に使用されていた土師器の皿です。
灯明皿の中には皿というより碗もありますが。
口縁にはいずれも煤の痕があります。
しかし、8000枚はすごい。
新しく見つかった仏堂跡。調査前までは
古墳と思われていたらしいですが、
それ以上に重要遺構でしたね。
この仏堂、通常のお堂とはまるで違うつくりで、
奈良三彩で作られた須弥山が中央に据えられ、
このお堂は建築様式も中国風というもので、きわめて特殊な
お堂らしいです。中央には須弥山がありました。
四天王が守る須弥山ということなら、須弥山には
帝釈天がいたはずですが・・・
で、須弥山の周りに安置されていた四天王像は、塑像造の
等身大のもので、相当なものです。
三彩の須弥山と等身大の四天王像。
仏堂自体は小規模ですが、当時はかなり偉容を誇っていたでしょう。
小規模なのにこれだけの豪華さ。
そのことから儀式用・法要専用の寺院ではないかと考えられてます。
これが四天王像の破片。
また、去年麓の池跡にて万葉仮名で書かれた万葉歌の木簡が
出土しています。
実物展示されていたけど、撮影禁止でしたので
レプリカのほうを。
万葉仮名の歌の木簡が出土しているということは、
文字が書けるだけでなく歌も読める教養のある人が
この寺に来ていた、もしくは在住していたことになります。
また、大殿という文字の書かれた土器。
只者ではない寺院で、朝廷としても重要な存在だったはずですが、
何故か記録にない。
遺跡のある近辺には橘諸兄の別邸や寺院があり、
息子の奈良麻呂は藤原仲麻呂に政争で破れていることから、
橘諸兄・橘奈良麻呂の寺院だったのではという説がでてますね。
聖武天皇の時代、強い権勢を誇った橘諸兄の寺なら
これだけの豪華な遺物や木簡、大殿も理解できます。
恐らく聖武天皇も迎えていたでしょうから。
で、藤原仲麻呂への反乱に失敗し衰退した橘氏が関わった寺が
歴史から抹殺されてもおかしくない。
まだまだ説は推測の域ですが、木津川市が重要視した
遺跡であることから、今後遺跡の拡張調査も行われるでしょう。
そうなるとさらに新たな発見があるかも。
本当に橘父子の寺なのか。楽しみですね。