2010年03月15日
舞鶴要塞・金岬砲台跡再訪
2009年の9月に舞鶴要塞ツアーとして、各砲台跡を巡った中に
金岬砲台跡がありました。そこは山の奥に位置し、当時の広い旧軍道が残っているので歩きやすいとは言え、中々たどり着きにくい砲台でしたが、そのおかげで、他の砲台跡の中でも極めて保存状態の良い砲台でした。
この金岬砲台へはどうしても再訪したいと願っており、
今回、再び見学に向かう機会が出来ました。
前回は到着したのが夕方4時近くであり、9月とは言え末に近く、
時間も殆どない状態で、十分見学出来なかったのですが、
それでも保存状態の良さと規模の大きさに圧倒された記憶があります。
今回は朝から向かうことが出き、時間もありましたので
前回見ることの出来なかった地点も踏査してみたのですが、
さらに多くの遺構が残されており、舞鶴要塞の中でも1番ではないかと思えるくらいの砲台跡のように思われました。
前回訪問時に見た遺構は前回のレポートを見ていただくとして、
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/51308179.html
今回は前回確認出来なかった遺構を紹介します。
まず、1番砲座に近い半地下式の弾薬庫の
1番奥の地点。前回藪で先に進めなかった地点。
やはり、同じような半地下式の弾薬庫がありました。突き当たりは石積みの擁壁になっており、
横に石の階段があります。
ここから、上の砲座に向かったのでしょう。
壁側から撮影。
この場所にはこれで、同じような作りの半地下式の弾薬庫が4つ並んでいることがわかりました。
その最奥の弾薬庫の上にあがると、このような煉瓦の通路が。
先に進むと円形の煉瓦構造物となっており、
恐らく砲座の指揮所だったのではと思われます。
半地下式の弾薬庫の地点から正門側へと戻り、
正門側から入って2番目に見えてくる弾薬庫群の
上部にこのような石積みの擁壁と階段がありました。
壁に開いている半円の窪みは用途不明です。
上がると砲座があったのですが、ここだけコンクリートで補強されている上、砲座ののような出っ張りが・・・
間違いなく大砲を据えていた台と思われるのですが、艦船を狙う榴弾砲にしては小さすぎる。
これは、高射砲の台座ではないだろうか・・・
だとすると、昭和9年に廃止されたと言われている金岬砲台は、実は他の明治の要塞と同じく
対空砲台として利用されていたと言うことになります。
ちなみに、コンクリートで補強され、台座の置かれた場所は、現時点でここだけでした。
その砲座の近くには、指揮所と思われる煉瓦構造物があります。脇に階段がありますが、これも煉瓦製です。
正門から1番目の弾薬庫群(4つ)と、さきほど書きました2番目に見えてくる弾薬庫群との間の通路は二手に分かれていて、上へ上がる道は2番目の弾薬庫群へと通じるのですが、したへずっと下っていくと、もう一つ半地下式弾薬庫がありました。こちらは煉瓦の擁壁になっています。
さらに進んで行くと、かなり広い平坦地に出ます。その海側には大規模な煉瓦壁と言うべき遺構が残されていました。
広大な平坦地を守るかのように煉瓦壁は作られているため、この煉瓦構造物もかなりの規模です。
推定ですが、この平坦地は兵舎もしくは砲台の司令室のような施設があり、それかを海側から守るために巨大な煉瓦の壁で防御しているのではと
思いました。
今回、砲台の各所に石積みの排水口がいくつも設けられているのが確認出来ました。他の砲台にもあったと思いますが、ここ金岬砲台みたいに立派で目立つものはありませんでした。
今回の再訪で、さらに大規模な砲台跡であることが確認できた
金岬砲台跡。しかし、今回の探索でもまだ全部は確認出来ていないと思われます。(砲台のさらに下にも平坦地や軍道があるのを確認しているので、その先に付属施設や付属の小砲台がある可能性あり。)もう一度探索する必要がありそうです。
余談ですが、金岬砲台の敷地内を探索していると、当時のビール瓶やサイダー瓶などのガラス瓶が多数見つかりました。当時の兵士たちが飲んで捨ててたものでしょうが、砲台の規模、敷地全体に敷かれている玉砂利、そして散乱する陶磁器やガラス瓶。さらには葺かれていた瓦の大きさ(落ちていた瓦は本瓦でした。本瓦葺きは、通常の桟瓦と違い重量があるので、城や寺院と言った大規模な建物にしか使われません。)など、他の砲台跡とは一線を画す、ただの砲台には見えません。それこそ司令部があったかのような。
こんな別格に近い金岬砲台がなぜ昭和9年に廃止になったのか。
今のところ理由は不明です。
金岬砲台跡がありました。そこは山の奥に位置し、当時の広い旧軍道が残っているので歩きやすいとは言え、中々たどり着きにくい砲台でしたが、そのおかげで、他の砲台跡の中でも極めて保存状態の良い砲台でした。
この金岬砲台へはどうしても再訪したいと願っており、
今回、再び見学に向かう機会が出来ました。
前回は到着したのが夕方4時近くであり、9月とは言え末に近く、
時間も殆どない状態で、十分見学出来なかったのですが、
それでも保存状態の良さと規模の大きさに圧倒された記憶があります。
今回は朝から向かうことが出き、時間もありましたので
前回見ることの出来なかった地点も踏査してみたのですが、
さらに多くの遺構が残されており、舞鶴要塞の中でも1番ではないかと思えるくらいの砲台跡のように思われました。
前回訪問時に見た遺構は前回のレポートを見ていただくとして、
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/51308179.html
今回は前回確認出来なかった遺構を紹介します。
1番奥の地点。前回藪で先に進めなかった地点。
やはり、同じような半地下式の弾薬庫がありました。突き当たりは石積みの擁壁になっており、
横に石の階段があります。
ここから、上の砲座に向かったのでしょう。
この場所にはこれで、同じような作りの半地下式の弾薬庫が4つ並んでいることがわかりました。
恐らく砲座の指揮所だったのではと思われます。
正門側から入って2番目に見えてくる弾薬庫群の
上部にこのような石積みの擁壁と階段がありました。
壁に開いている半円の窪みは用途不明です。
これは、高射砲の台座ではないだろうか・・・
だとすると、昭和9年に廃止されたと言われている金岬砲台は、実は他の明治の要塞と同じく
対空砲台として利用されていたと言うことになります。
ちなみに、コンクリートで補強され、台座の置かれた場所は、現時点でここだけでした。
推定ですが、この平坦地は兵舎もしくは砲台の司令室のような施設があり、それかを海側から守るために巨大な煉瓦の壁で防御しているのではと
思いました。
今回の再訪で、さらに大規模な砲台跡であることが確認できた
金岬砲台跡。しかし、今回の探索でもまだ全部は確認出来ていないと思われます。(砲台のさらに下にも平坦地や軍道があるのを確認しているので、その先に付属施設や付属の小砲台がある可能性あり。)もう一度探索する必要がありそうです。
こんな別格に近い金岬砲台がなぜ昭和9年に廃止になったのか。
今のところ理由は不明です。
この記事へのコメント
1. Posted by kan 2010年06月04日 18:11
こんにちは、はじめまして。
検索で来ました。
上から6、7枚目の写真、高射砲の台座では?とおっしゃっているのは、観測所跡で台座に測遠機(照準器)を置きました。
検索で来ました。
上から6、7枚目の写真、高射砲の台座では?とおっしゃっているのは、観測所跡で台座に測遠機(照準器)を置きました。
2. Posted by べーさん 2010年06月06日 19:11
kan様
ご教授ありがとうございます。
この件に関しては、他の方にも指摘されました。
後ほど訂正しておきますね。
ご教授ありがとうございます。
この件に関しては、他の方にも指摘されました。
後ほど訂正しておきますね。