2016年05月22日

福知山市・滝山城(中世観瀧寺)跡の再踏査


記事の画像および文章の無断転載は一切禁止します。
前回5/3についに発見した福知山市奥榎原の推定滝山城(中世観瀧寺)跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54643859.html
※前回の踏査レポ日記。
しかし前回天候の急変と初めて到達した場所ということもあり十分な探索もできぬまま撤退する羽目に。そこで、梅雨に入るまでに徹底した再踏査を試みることにしました。
1中世観瀧寺跡遠景








推定滝山城(中世観瀧寺)跡遠景。山の中腹に広がる不自然な平坦な地形。
昔から実家から見えるこの風景を眺めては言い伝えでしか知らなかった古の寺院跡に思いを馳せていました。
今回の再踏査に当たって目標としたもの。
〇前回未踏査だった箇所の悉皆調査。
〇GPS観測による位置確認。事前に推定していた箇所との照合。
〇石塔類の存在の確認。
〇遺物の確認による時代の裏付け。
これらを念頭に置き再び中世観瀧寺跡へ。
中世観瀧寺跡位置図




現地に到着し、スマホのGPS機能付き登山ナビアプリで位置計測をしたら、最初の踏査前から推定していた位置とドンピシャ。あの実家から見えていた山の平坦地そのものの場所でした。
標高は300m奥榎原集落からの比高差は200m余り。
画像は国土地理院の地形図を引用して推定滝山城(中世観瀧寺)跡の位置を示しました。
中世観瀧寺跡縄張図







中世観瀧寺跡縄張図番号入り







その国土地理院が公開する地形図を利用してそれに乗せる形で推定滝山城(中世観瀧寺)跡の縄張図を作成。今回初踏査した箇所と前回踏査した箇所も含め新たに判明した点を書き加えながら順に紹介していきます。
2中世観瀧寺跡石垣1








下の不動尊の滝からわずかに残る古道を登り切った箇所にある石垣。縄張図1の箇所。
中世観瀧寺跡において唯一しっかり残された石垣。この石垣の下には比較的しっかりした古道も残り、石段らしきものが見え、中世観瀧寺跡の正面に当たる箇所かと思われます。
3中世観瀧寺跡石組基壇2








1の石垣のある平坦地に残る方形石組の基礎らしきもの。縄張図2の箇所。
堂宇にしては小さいので祠か何かだったのでしょうか。もしくは古墓。
4中世観瀧寺跡曲輪3








その2の方形石組みのある平坦地。縄張図3の箇所。
4中世観瀧寺跡最上段曲輪石垣








3の平坦地の切岸には石垣らしき跡があります。1の石垣のある切岸と同じ箇所にありかつてはこの切岸を石垣が巡っていた可能性があります。
5中世観瀧寺跡最上段曲輪4








石垣の巡る切岸の上の平坦地。縄張図4の箇所。
この一帯では最高所となり、石垣もあることから、中世観瀧寺跡において何か象徴的な建物があったように思います。石垣を積むことで威厳を見せていたようにも。
この平坦地は途中で東に土塁状の形となって伸びています。
6中世観瀧寺跡石列虎口5








3の平坦地の北側にある虎口。縄張図5の箇所。石列もありしっかりとしています。
7中世観瀧寺跡石列虎口下石段跡6








5の虎口の下にはいくつか石が並び、石段があった可能性があります。縄張図6の箇所。
下の平坦地へと降りる石段だったのでしょう。
8中世観瀧寺跡最上段曲輪下北曲輪7








一旦戻り虎口5の東にある平坦地へ。縄張図7の箇所。平坦地4から伸びる縄張図21の土塁によって守られた形で、平坦地内には石垣の石材らしき石が多数散乱しています。
10中世観瀧寺跡7曲輪西から








西から撮影。
9中世観瀧寺跡7曲輪崩落石垣








平坦地7から土塁方面を撮影。石垣が崩落したように見えます。
しかし、自然崩落にしてはあまりに崩壊が大きく、意図的に崩されたのではないかとも思いました。観瀧寺の寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとありますが、もし寺院側の反乱だとしたら滅んだ後に城として使えないよう石垣を崩す破城されたのかもしれません。
ただ、南側の石垣のみ残されたのが不思議ですが。
11中世観瀧寺跡北曲輪8








虎口5を降りたところにある平坦地。縄張図8の箇所。
ここも石材が散乱し、石垣があったのかもしれません。
中世観瀧寺跡採集遺物1








この平坦地では初の遺物を確認。これは珠洲焼の壺の破片。
珠洲焼は平安時代より生産され戦国期にに突如姿を消した幻の焼き物。
それを見つけたのは大きな成果でした。つまり、この珠洲焼が落ちているということは確かにこの遺跡が室町期まで寺院として機能していた証となるものです。
中世観瀧寺跡採集遺物2








この珠洲焼の発見で改めて付近を探索したら、室町期と思われる備前焼や信楽焼きの甕の破片を多数発見。またここだけでなく、寺院跡一帯でもいくつか同時期の遺物を確認。時代の裏付けをとることが出来ました。しかし、瓦片は一切見つけられませんでした。
石垣があり広い平坦地を持ち礎石らしきものもあるので瓦葺きの建物があってもよさそうに思いましたが、瓦片が一切見つからなかったので中世観瀧寺跡の諸堂は杮葺きだったのでしょうか。
12中世観瀧寺跡曲輪9








平坦地8から西に向かうとさらに広い平坦地へ。縄張図9の箇所。
13中世観瀧寺跡西土塁10








そして平坦地9から西に延びる土塁。縄張図10の箇所。
この土塁は防御というより区画を分けるためのものだったようにも見えます。
14中世観瀧寺跡曲輪11








土塁10の北側の2段の曲輪。縄張図11の箇所。
15中世観瀧寺跡曲輪12








土塁10の南側の平坦地。縄張図12の箇所。
16中世観瀧寺跡西土塁端13








土塁10の西端の部分。縄張図13の箇所。
13の箇所から北側の平坦地へ向かえるようになってます。
17中世観瀧寺跡西曲輪14








縄張図14の平坦地。
18中世観瀧寺跡西櫓台跡15








平坦地14の西端には櫓台のような高まりがあります。縄張図15の箇所。
西側は麓に方向に当たります。麓側を監視する施設だったのでしょうか。
19中世観瀧寺跡西端曲輪16








櫓台15の下にも平坦地がありました。縄張図16の箇所。今回初確認の遺構です。
この下は自然地形の緩斜面が続きしばらく下りましたが、遺構らしきものは確認できませんでした。
20中世観瀧寺跡曲輪17








縄張図17の平坦地。中世観瀧寺跡の遺構はほぼ尾根上とその一段下の範囲で広がり、尾根から大きく外れて遺構は広がってはいないようです。
21中世観瀧寺跡南曲輪18








東へと戻り最初に上ってきた箇所へ。その東側に帯曲輪状に広がる平坦地。縄張図18の箇所。
写真左の切岸は21の土塁です。
22中世観瀧寺跡東土塁東端19








さらに東へ進むと大きな堀切に当たりました。縄張図19の箇所。今回初確認の遺構で、正面に見えるのは土塁に思えましたが、登ってみるとどちらかというと櫓台にも見える遺構でした。
23中世観瀧寺跡東土塁櫓台20








登ってみると、堀切に沿って低い櫓台のような高まりがあり、その西側に小さい平坦地がありました。縄張図20の箇所。ここから堀切を上って来る敵を迎え撃ったのでしょうか。
24中世観瀧寺跡東土塁21








平坦地4から西に伸びる土塁の西端から撮影。縄張図21の箇所。
25中世観瀧寺跡堀切22








その東側に堀切があります。縄張図22の箇所。
22中世観瀧寺跡東土塁堀切








東側の平坦地20から撮影。正面の高まりは土塁21の東端部分。
26中世観瀧寺跡土塁堀切23








東に進むとさらに土塁と堀切が。縄張図23の箇所。
19の堀切と土塁を挟んで2連となっています。
27中世観瀧寺跡東曲輪24








堀切の東側から斜面が上がっていきますが、まるで中世城郭のように段状の平坦地が連なります。縄張図24の箇所。
28中世観瀧寺跡東曲輪25








平坦地24の上には縄張図25の平坦地があります。これらの平坦地は上の本堂跡かと思われる大規模な平坦地への接続する平坦地と思われますが、それぞれの規模は大きく十分建物も建てられそうです。各平坦地の虎口も良く残されスロープ状の上り坂もあります。切岸も高い。
29中世観瀧寺跡東曲輪石段26








平坦地25と上の平坦地の間に石段があるのを発見。縄張図26の箇所。
明瞭に残された石段はその上の平坦地が寺院の中心となる重要な個所だったことをうかがわせます。
30中世観瀧寺跡東曲輪本堂跡推定27








石段26を登った先に広がる平坦地。縄張図27の箇所。
P1040779








かなりの広さで中世観瀧寺跡でも最大規模を誇る平坦地。
31中世観瀧寺跡東曲輪虎口28








平坦地27の北側に明瞭に残る虎口。縄張図28の箇所。
虎口28からは古道が延び、下っていくと平坦地25につながります。
32中世観瀧寺跡東曲輪礎石29










平坦地27で等間隔に並ぶ石を発見。縄張図29の箇所。礎石に見えるこの石列は規模からして相当な大きさの建物があったように思えます。
麓から一番離れた山側の寺院跡でも最高所であり最大規模を誇るこの平坦地は中世観瀧寺跡でも最重要な施設、本堂とかがあったのではないでしょうか。
礎石らしき石列や西側の石段などを見てもそんな雰囲気がしますし、本堂跡と思われる平坦地27に至るまでの3つの堀切や2つの曲輪みたいな平坦地など防御を意識した施設を配置していますし。
33中世観瀧寺跡東曲輪切岸








山側の東側の切岸。かなりの高さです。
34中世観瀧寺跡東端曲輪30








本堂跡と推定される平坦地27の上にもう一つ平坦地がありました。縄張図30の箇所。
きぼはさほどではありませんが、平坦地27を見下ろすこの平坦地は、かつて建っていた本堂などの重要施設を防御する役目だったのでしょうか。
今回の探索で新たに確認できた東側の遺構も相当な規模を持ち、本堂跡と推定される大規模平坦地、残された石段の跡そして土塁や堀切などを確認でき大きな成果となりました。
また、前回は確認できなかった堀切を新たに確認でき、城としての性格も持つ防御性のある寺院だったこともわかりました。目標の一つだった石塔類は見つかりませんでしたが、室町期に遡る遺物を多数発見し、間違いなく中世観瀧寺跡が少なくとも室町期までは存在し戦国末期に兵火で焼亡したという言い伝えの裏付けとなりました。
寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとのことですが、その年はすでに豊臣秀吉が天下を統一した時代。丹波天田郡地域での兵火と言えば真っ先に明智光秀や丹波国人の赤井直正が思い浮かびますが、天正3年ならともかく天正13年でも戦はあったのでしょうか。
天正3年の間違いだった可能性も考えられるのですが、寺伝を信じれば残された国人たちが観瀧寺と呼応して籠城したかもしくは対立して結果焼亡したとも考えられますが、詳しい記録や古文書は一切ないため今となっては不明です。
ただ、遺構を確認したら明らかに城としての機能を持たせた防御施設があり、中世の多くの寺院でもあったように城も兼ねた寺院だったことは間違いなさそうです。
今回の探索でほぼ中世観瀧寺跡の寺域は確認できたかと思います。あとは尾根続きのの下って行った西側の麓に近い箇所の尾根が地形的に怪しい形をしており、中世観瀧寺跡の子院のあった可能性も捨てきれないので機会を見て踏査したいと思っています。
それにしても福知山市内でも最大規模とも思える有数の中世寺院跡、いや中世城郭と考えても市内有数の規模と思われる中世観瀧寺跡。この遺構が市教委や府教委に周知されておらず遺跡地図にも記載されていないのが。詳細な調査をして遺跡として認知されることを願っています。


※11/1追記
中世観瀧寺跡踏査後、丹波・丹後の中世山城や郷土史を踏査・研究している方々にレポートを報告し見ていただいた結果、もしかすると丹波志に記載のある未だ所在不明の「滝山城」でもあるのではないかとの一致した意見を頂きました。
寛政6(1794)年に編纂された「丹波志」の中に観瀧寺について以下の記載があります。
「瀧山 観瀧寺 真言宗 榎原村
高野山谷ノ上宝城院末寺 開山法道仙人 中興成遍法印 境内三十間ニ六十間除地 山林東西二丁半南北二丁半 千手観音堂三間ニ三間半 方丈五間七間 庫裡四間七間半 門二宇 郡巡礼十一番札所 薬師堂 地蔵堂 鎮守 土蔵 
古へ奥榎原ノ上ヘ滝山城ノ脇ノ地ニ在 後口榎原地移スト云」
丹波志にはかつての観瀧寺の脇には滝山城があったと記載されています。
滝山城については丹波志による記載はあるものの、どこにあったか具体的な場所は分かっていません。
ただ、今回探索し確認した中世観瀧寺跡の縄張を見ていると、堀切を境にして西側一帯は確かに城郭としての性格を持ち、東側一帯は礎石の残る広い平坦地と石段が残されています。
つまり、堀切を境にして東西の縄張にやや性格の違いがみられ、もしかすると東側一帯の区域が寺院、西側の一帯が城郭ではと考えることができます。
縄張図で説明いたしますと、
56816d14







こう推定できるのではないでしょうか。
ただ、滝山城推定地とした西側の一帯の縄張がもし本当に所在不明の滝山城だとすると、中世観瀧寺を防御するための砦、もしくは本来ここも中世観瀧寺の敷地ではあったが戦乱の時代に対応するため一部を城砦化したようにも感じられます。いずれにせよ、中世観瀧寺と無縁ではなかったはずです。
そのことは、この一帯の遺跡について地元では古寺跡との言い伝えはあるものの城跡との言い伝えは残されておりません。
中世観瀧寺は時代の流れとは言え、寺院の一角を城砦化もしくは寺院を防衛するための城砦を築き武装したがために攻められ滅ぼされたのではないでしょうか。
もし、この遺跡が中世観瀧寺跡並びに滝山城跡と確定、特に滝山城跡が確定されれば丹波志の記載以来200年あまり所在不明だった場所の発見という大きな成果と成りうるのですが。

※2017年5月2日に再踏査をし、新たな遺構を確認しましたので報告いたします。

中世観瀧寺跡縄張図2001









※今回初確認の遺構の位置。(前回踏査時に作成した縄張図に加筆。)
1年ぶりの訪問ではすでに確認済みの遺構の再確認とともに、新たな遺構が無いかを探索。
去年よりどことなく見通しが良くなったような感じの受ける中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)内にて、いくつかの大きな発見がありました。

曲輪7土塁側残存石垣1










まずは,鵬媾蠅砲導稜Г靴神仞僂漾わずかですが石積みであることが分かります。
この場所は去年確認した大土塁の北側の曲輪の土塁側の箇所。この箇所は南側の推定大手口に残る石積みやその周囲に散乱してる多数の石材を見るからに、かつては中央櫓台と思われる箇所とその周囲の曲輪は総石垣とまでは言えずともかなりの範囲に石積みが施されていた可能性が高いと思われます。

曲輪8残存石垣2










中央櫓台北の下への曲輪へと続く虎口の下にて確認した石積み。縄張図△硫媾蝓
こちらもわずかですが、明確な石積みです。
かつての中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)は中世から戦国期の福知山市内でも類を見ないくらいの範囲で石積みがされた城跡だったようです。しかし、この崩れ方を見るに自然崩落というより人為的に崩されたように見え、残念ながらかつての迫力ある姿は南側推定大手口の石積みにしか見られません。
当時は中世観瀧寺も含めた相当な勢力を誇っていたのでしょうが、この地に侵攻した明智光秀やその後を継いだ豊臣秀吉の配下により落城し大規模な破城が行われたのでしょう。

曲輪8北側曲輪(新確認)










△寮仞僂澆魍稜Г靴晋弩のある曲輪から何気なく下を覗いていると、規模の大きい曲輪を新たに発見。斜面がかなり急で下って行くことは困難な上に単独行動での無理な探索は危険を伴うと判断し上からの確認にとどめましたが、上からでも明らかに分かる平坦な地形と散乱する多くの石材。写真では写ってませんが、さらに奥にはもう1段曲輪らしき平坦地も確認できました。
さらに、写真は撮れませんでしたが、城域の西端の北面にも平坦地を確認。以上のことから、中世観瀧寺跡の範囲は当初確認したよりもさらに北方に城域が広がる可能性が高まってきました。まだまだ未確認の遺構が眠っていることに期待が高まってきました。
いずれ、複数人の専門の方とともに悉皆踏査を行いたいと思ってたり。

尾根上石積み










帰路は不動の滝側からではなく、西端の土塁から尾根を下る感じで帰還。
途中、尾根上に低い石積みが数か所あることを確認。中世観瀧寺跡との関連は不明ですが、一応報告しておきます。



besan2005 at 09:39│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 遺跡

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