2018年03月04日
京都市東山区界隈の近代建築探索レポ日記
今回は京都市東山区界隈の近代建築のレポート記事です。
ルートは鳥羽街道から四条まで。
まずは鳥羽街道の東福寺近くの近代建築から。
O邸。東山区本町15丁目。昭和初期。
玄関は大通り側ではなく脇の小道にあります。
門も当時の物っぽいですね。
H邸。東山区本町15丁目。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、建物や門の造りから戦前かと。
近代数寄屋建築といった感じでしょうか。
先ほどのH邸の隣にある洋館付き住宅。こちらも京都市近代化遺産調査報告書には掲載されていませんが、戦前の住宅ではないでしょうか。
本町通りに入り北上。
九条跨線橋。昭和8年。九条通りから東大路通へと至る鴨川とJR線を跨ぐ橋です。
かなり大規模な橋で、戦前のものでこれだけ大規模なのは珍しいかも。
橋の上に至る階段。中々いい味出してます。かつては橋の上を市電が走っており、もしかしたら市電の利用者がこの階段を上り下りしていたのかもしれません。
橋の上には市電の架線柱が今でも残されています。
東大路通りにある洋風の看板建築のお店。
アーケードが邪魔ですが、軒周りの装飾等確認できます。
URAGRO。東山区本瓦町。昭和初期。
京都市近代化遺産調査報告書では無表札となっており、10年ほど前は空きビルだったようですが、現在はアパレル関係の会社が利用しています。
玄関の窓越しに中を撮影。内部もオリジナルの姿を良く残されており、良い所有者に巡り合えたようです。
旧高山製陶所。東山区上梅屋町。明治39年。数少ない明治期の近代建築。
さすが明治期の建物だけあり、他の昭和期の建物と違い意匠的です。
1階のアーチ窓の装飾など凝ってます。
この煉瓦の装飾的な積み方が目を引きました。
旧熊倉工務店本社屋。東山区下新シ町。昭和初期。
戦前の京都にて多くの住宅建築を手掛けた会社の本社屋だった建物です。
町屋建築の正面を洋風のデザインに仕上げたどちらかというと看板建築の建物。
熊倉工務店設計の戦前住宅は北山の住宅街を中心に多く作られ現在も多数現存しており、中には国登録有形文化財になっている建物もあります。
京都の近代建築を語る上で重要な存在の一つの熊倉工務店。その記念碑的な旧本社屋ですが、宿泊施設になるという旨の看板がありました。しかしこの旧本社屋は国登録有形文化財に申請中らしく、とりあえず建物は維持されるようです。
続いて京都女子大学方面へ。錦華殿。大谷光瑞夫妻の新居として明治32年に建てられた洋館を平成12年に復元した建物です。忠実に復元されており、新しいですが良い建物。オリジナルが残されていたら間違いなく文化財指定されていたことでしょう。
M邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。錦華殿から奥に入った所にある洋館。
何となくあめりか屋っぽいデザインの住宅。
玄関にはアールデコ調のステンドグラスがありました。
H邸。東山区今熊野北日吉町。京都市近代化遺産調査報告書には該当の所有者の名前は載ってませんが、恐らく持ち主が変わったのでしょう。大正から昭和初期と思われる洋館付きの住宅です。
洋館の窓には装飾がありました。ステンドグラスではなさそうですが。
H・O邸。東山区今熊野北日吉町。先ほどのM邸の向かいの洋館。こちらも該当の所有者名がリストには無かったですが、持ち主が変わったと思います。2世帯の方が住まわれているようです。
結構モダンな建物です。
O邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。
中々素敵な洋館ですが、門から奥の方に位置しているため近くに行けないのが残念。
京都女子大学生活デザイン研究所。東山区今熊野北日吉町。
現在は京都女子大学の施設ですが、元は住宅だったのでしょう。
門は昔の雰囲気を残しています。
窓には装飾がありました。オリジナルかは分かりませんが。
建物は戦前のもののような気がします。
H邸。東山区上馬町。大正から昭和初期。大学の学生寮の向かいにある洋館。1階は和風のデザインになってます。庭木のせいで良く見えない…
京都女子大学界隈を離れ四条方面へ。
Y邸。東山区池殿町。大正から昭和初期。
元商店だったのでしょうか。アーチ窓と軒周りの装飾が素敵です。
旧新道小学校。東山区小松町。昭和12年。
京都市内のいわゆる番組小学校は次々と廃校になって行ってますね…
この旧新道小学校は現在はコミュニティーセンターとして再利用されているようです。
手越医院。東山区小松町。大正から昭和初期。ドイツスタイルの洒落た洋館医院。
戦前の個人医院ってオシャレな洋館が多いですよね。
N邸。東山区博多町。大正から昭和初期。背後のタイル張りの建物はどうやら倉庫だったようですが結構大きな建物です。元々は何のお店だったんだろう。
旧ぎおん梅村。東山区博多町。大正から昭和初期。
洋館部分はタイル張りとテラコッタの装飾が施され、3階バルコニーの手すりも装飾的で凝ってます。
元は旅館だったようで、和館部分は確かにその雰囲気を伺わせる造りです。
元は旅館だったものを元力士の方が買い取りちゃんこ料理を出す料理旅館として経営していたようです。京都市近代化遺産調査報告書には「ぎおん梅村」として掲載されており、昔の京都の旅館を紹介した本にぎおん梅村の経緯が書かれていました。10年前までは営業していたようですがいつの頃から廃業され、現在は売り物件になってます。
またレストランや宿泊施設などに再利用されればよいのですが。
T邸。東山区博多町。大正から昭和初期。
和館よりも大きめの洋館が付属しています。この辺りから人も車も増えてきました…
弥栄会館。昭和12年。国登録有形文化財。
有名な建物ですね。とにかく大きい。姫路城の意匠を取り入れたという建物は日本趣味建築といったところでしょうか。帝冠様式とも言えなくもないけどあまりそういう形では紹介されていませんね。
門も当時の物。弥栄会館が完成したころは自動車が普及し始めた頃で自動車が通れるくらいの幅と高さがあります。なので現在からみても大きな門です。
旅館東山ホテル。東山区祇園町南側。昭和初期。
背後は洋館の造りになってます。
場所は八坂神社のすぐ近くという好立地。しかも素泊まりですが1泊5500円からという安さ。
観光地からも近く、料金もお手頃でしかも近代建築のホテル。ただ、予約は多いでしょうね。
以上で東山区界隈の近代建築探索レポートを終わります。
実は見逃した建物があることが後から分かりまた機会を見て訪問しようかと思います。
それにしても祇園辺りはさすがに観光客でいっぱいだったなぁ。
次回はいよいよ熊倉工務店設計の住宅が多く残る北山か北大路あたりの探索結果をレポート予定にしております。
ルートは鳥羽街道から四条まで。
まずは鳥羽街道の東福寺近くの近代建築から。
O邸。東山区本町15丁目。昭和初期。
玄関は大通り側ではなく脇の小道にあります。
門も当時の物っぽいですね。
H邸。東山区本町15丁目。
京都市近代化遺産調査報告書には未掲載ですが、建物や門の造りから戦前かと。
近代数寄屋建築といった感じでしょうか。
先ほどのH邸の隣にある洋館付き住宅。こちらも京都市近代化遺産調査報告書には掲載されていませんが、戦前の住宅ではないでしょうか。
本町通りに入り北上。
九条跨線橋。昭和8年。九条通りから東大路通へと至る鴨川とJR線を跨ぐ橋です。
かなり大規模な橋で、戦前のものでこれだけ大規模なのは珍しいかも。
橋の上に至る階段。中々いい味出してます。かつては橋の上を市電が走っており、もしかしたら市電の利用者がこの階段を上り下りしていたのかもしれません。
橋の上には市電の架線柱が今でも残されています。
東大路通りにある洋風の看板建築のお店。
アーケードが邪魔ですが、軒周りの装飾等確認できます。
URAGRO。東山区本瓦町。昭和初期。
京都市近代化遺産調査報告書では無表札となっており、10年ほど前は空きビルだったようですが、現在はアパレル関係の会社が利用しています。
玄関の窓越しに中を撮影。内部もオリジナルの姿を良く残されており、良い所有者に巡り合えたようです。
旧高山製陶所。東山区上梅屋町。明治39年。数少ない明治期の近代建築。
さすが明治期の建物だけあり、他の昭和期の建物と違い意匠的です。
1階のアーチ窓の装飾など凝ってます。
この煉瓦の装飾的な積み方が目を引きました。
旧熊倉工務店本社屋。東山区下新シ町。昭和初期。
戦前の京都にて多くの住宅建築を手掛けた会社の本社屋だった建物です。
町屋建築の正面を洋風のデザインに仕上げたどちらかというと看板建築の建物。
熊倉工務店設計の戦前住宅は北山の住宅街を中心に多く作られ現在も多数現存しており、中には国登録有形文化財になっている建物もあります。
京都の近代建築を語る上で重要な存在の一つの熊倉工務店。その記念碑的な旧本社屋ですが、宿泊施設になるという旨の看板がありました。しかしこの旧本社屋は国登録有形文化財に申請中らしく、とりあえず建物は維持されるようです。
続いて京都女子大学方面へ。錦華殿。大谷光瑞夫妻の新居として明治32年に建てられた洋館を平成12年に復元した建物です。忠実に復元されており、新しいですが良い建物。オリジナルが残されていたら間違いなく文化財指定されていたことでしょう。
M邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。錦華殿から奥に入った所にある洋館。
何となくあめりか屋っぽいデザインの住宅。
玄関にはアールデコ調のステンドグラスがありました。
H邸。東山区今熊野北日吉町。京都市近代化遺産調査報告書には該当の所有者の名前は載ってませんが、恐らく持ち主が変わったのでしょう。大正から昭和初期と思われる洋館付きの住宅です。
洋館の窓には装飾がありました。ステンドグラスではなさそうですが。
H・O邸。東山区今熊野北日吉町。先ほどのM邸の向かいの洋館。こちらも該当の所有者名がリストには無かったですが、持ち主が変わったと思います。2世帯の方が住まわれているようです。
結構モダンな建物です。
O邸。東山区今熊野北日吉町。昭和初期。
中々素敵な洋館ですが、門から奥の方に位置しているため近くに行けないのが残念。
京都女子大学生活デザイン研究所。東山区今熊野北日吉町。
現在は京都女子大学の施設ですが、元は住宅だったのでしょう。
門は昔の雰囲気を残しています。
窓には装飾がありました。オリジナルかは分かりませんが。
建物は戦前のもののような気がします。
H邸。東山区上馬町。大正から昭和初期。大学の学生寮の向かいにある洋館。1階は和風のデザインになってます。庭木のせいで良く見えない…
京都女子大学界隈を離れ四条方面へ。
Y邸。東山区池殿町。大正から昭和初期。
元商店だったのでしょうか。アーチ窓と軒周りの装飾が素敵です。
旧新道小学校。東山区小松町。昭和12年。
京都市内のいわゆる番組小学校は次々と廃校になって行ってますね…
この旧新道小学校は現在はコミュニティーセンターとして再利用されているようです。
手越医院。東山区小松町。大正から昭和初期。ドイツスタイルの洒落た洋館医院。
戦前の個人医院ってオシャレな洋館が多いですよね。
N邸。東山区博多町。大正から昭和初期。背後のタイル張りの建物はどうやら倉庫だったようですが結構大きな建物です。元々は何のお店だったんだろう。
旧ぎおん梅村。東山区博多町。大正から昭和初期。
洋館部分はタイル張りとテラコッタの装飾が施され、3階バルコニーの手すりも装飾的で凝ってます。
元は旅館だったようで、和館部分は確かにその雰囲気を伺わせる造りです。
元は旅館だったものを元力士の方が買い取りちゃんこ料理を出す料理旅館として経営していたようです。京都市近代化遺産調査報告書には「ぎおん梅村」として掲載されており、昔の京都の旅館を紹介した本にぎおん梅村の経緯が書かれていました。10年前までは営業していたようですがいつの頃から廃業され、現在は売り物件になってます。
またレストランや宿泊施設などに再利用されればよいのですが。
T邸。東山区博多町。大正から昭和初期。
和館よりも大きめの洋館が付属しています。この辺りから人も車も増えてきました…
弥栄会館。昭和12年。国登録有形文化財。
有名な建物ですね。とにかく大きい。姫路城の意匠を取り入れたという建物は日本趣味建築といったところでしょうか。帝冠様式とも言えなくもないけどあまりそういう形では紹介されていませんね。
門も当時の物。弥栄会館が完成したころは自動車が普及し始めた頃で自動車が通れるくらいの幅と高さがあります。なので現在からみても大きな門です。
旅館東山ホテル。東山区祇園町南側。昭和初期。
背後は洋館の造りになってます。
場所は八坂神社のすぐ近くという好立地。しかも素泊まりですが1泊5500円からという安さ。
観光地からも近く、料金もお手頃でしかも近代建築のホテル。ただ、予約は多いでしょうね。
以上で東山区界隈の近代建築探索レポートを終わります。
実は見逃した建物があることが後から分かりまた機会を見て訪問しようかと思います。
それにしても祇園辺りはさすがに観光客でいっぱいだったなぁ。
次回はいよいよ熊倉工務店設計の住宅が多く残る北山か北大路あたりの探索結果をレポート予定にしております。