2018年08月05日

某所に残る忠魂碑と乃木大将石像について。

※今回はやや批判的要素も含まれていますので、今回紹介する遺構の具体的な場所は伏せておきます。
旧保津小学校忠魂碑1













京都府某市の某地区の自治会館の脇に忠魂碑が残されています。
忠魂碑本体や台座、周りの玉垣など、ほぼオリジナルを保っています。
旧保津小学校忠魂碑2













建立は大正十五年十二月。
旧保津小学校忠魂碑3













請負人の銘。
さて、この忠魂碑、正面に新たに「平和塔」というプレートが付けられています。
戦後に軍国主義的という理由で本来刻まれていた「忠魂碑」の文字を覆い隠したのだと思われます。
戦後、陸海軍や国粋主義・軍国主義を連想させる記念碑や像は悉く撤去され、地名なども名称変更されました。例えば師団通と呼ばれていた道が平和通となり、陸軍墓地が平和墓地となり、かつての軍の敷地が平和公園となる。戦後、平和を願う気持ちから名称を変えた気持ちは分からなくはないですが、果たしてそれは本当に正しいのでしょうか。名称や地名というのは必ずそのものを表す意味があるものです。そしてそれはその街のその地区の歴史を伝えるものでもあります。安易に「平和」という名前に変更すれば、それがかつてはどういうものだったのか、どういう理由で名付けられたものかが分からなくなってしまい断絶してしまいます。実際、私の地元にある「平和墓地」は小学校の頃の遠足の場所になってましたが、子供心に「墓地なのに平和ってどういうこと?」と疑問を持ってました。これが旧称の「陸軍墓地」なら、連隊があったことは知ってたので「ああ、軍隊のお墓だったのね」とすぐ理解できたはずです。同様に「平和通」ではなく「師団通」、「平和公園」ではなく「旧〇〇工廠跡公園」とかだったら、かつてここがどういう場所でこの街に師団や連隊があったんだなと誰しも理解できるはずです。安易な「平和」という名称の変更は、その土地の歴史の繋がりを断絶する結果を招いていると私は思います。
この「平和塔」とされた忠魂碑も都合の悪いものに蓋をし覆い隠すことで、結果としてその地区の歴史の一つを抹消してしまう形になったように思えます。
旧保津小学校乃木大将像1













そしてもう一つ、この「平和塔」の背後の木にひっそりと打ち捨てられたように立てかけられている石像があります。
旧保津小学校乃木大将像2













石像は乃木希典大将。昭和14年に忠魂碑の向かいにある小学校の敷地に建てれたもので、かつては立派な台座に据えられていたそうです。
旧保津小学校乃木大将像3













しかし終戦後、軍国主義的として恐らく自主的に撤去してここに放置されたのでしょう。以来70年余り去られたかのように放置されています。
旧保津小学校乃木大将像5













かつては小学校の敷地に立派な台座に据えられ、児童たちや教職員、地区の人達の崇敬を受けていたはずであろう乃木大将の石像。それが戦後の価値観の変化で今まで崇敬し大切に扱ってきた人たちが、手のひらを返したかのように台座から引きずりおろし「平和塔」と名を変えた忠魂碑の裏にまるで隠すかのように人目の付かない場所に放置。人々の急激な態度の豹変にこの乃木大将の石像は何を思うのでしょうか。終戦当時ならまだしも、戦後70年経った今はせめて忠魂碑の脇に再び安置して由来を記した説明板を置いてもいいのではないでしょうか。この乃木大将の石像を見ていたら、人々の無慈悲な扱いに石像の顔が悲しげな表情に見えてきました。


besan2005 at 12:25│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 京都府 | 戦前・戦中の記念碑

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