2018年10月20日
阿部定ゆかりの大正楼がある遊郭跡・篠山市京口新地を訪ねて
篠山市にかつて「京口遊郭」という遊郭街がありました。明治41年、後に「丹波の鬼」と呼ばれた精強の連隊、陸軍歩兵第七十連隊の移駐に際して、その連隊の兵士を目当てにした遊郭が池上地区に設立。これが「京口新地」でした。
京口新地の範囲。昭和23年の航空写真をもとに囲むとこんな感じ。周囲の地区とは違い碁盤の目のような区割り。そして遊郭街特有の周りを囲む堀状の川。京口新地はかなり狭い範囲でした。
京口新地は上記の通り歩兵第七十連隊の兵士を目当てに設立された遊郭街でしたが、客質は良くなかったそうです。
京口新地は全国にあった他の遊郭街と同じく昭和33年の売春防止法により幕を閉じ現在は住宅街となってますが、当時の建物がいくつか残されています。
その一つが「大正楼」というこの妓楼の建物。空き家となり老朽化してますが、れっきとした京口新地時代の遊郭の建物。そしてこの建物はある有名な人物ゆかりの妓楼でした。
その人物は「阿部定」。あの阿部定事件を起こした人物です。
※wikipedia「阿部定事件」
阿部定は飛田新地などで売れっ子の娼妓でしたが、様々なトラブルで店を転々とし次第に転落。昭和6年に最後に娼妓として働いたのがこの大正楼でした。
大正楼は京口新地でも下等の遊郭でした。ここでの仕事は相当きつかったようで、わずか6ヶ月で逃げ出してしまいます。大正楼を去った阿部定は再び各地を転々とし、昭和11年に事件を起こします。
その大正楼は京口新地が無くなり住宅街へと変わっても変わらぬ姿でひっそりと存在し続けました。私が最初に訪ねた2015年より以前からすでに廃墟同然の空き家になってましたが、今年の台風で大きな被害を受けたらしく、年内に取り壊されるとの情報をツイッターで知り、見納めという形で訪問することにしました。
大正楼は正面からは特に被害を受けているようには見えませんでした。しかし、右側の路地にはバリケードが。そちらには行けないので回り込む形で反対側の住宅辺りから確認することに。
屋根が半壊して崩壊しています・・・。
もう少しだけ接近。表側からは分からないけど反対側を見たら被害は甚大なことが分かります。
確かにこれでは・・・。
こちらは2015年に訪問した時の写真。3年前は形を保っていた屋根が今は完全に崩壊。
表の通りから崩壊部分を望遠で撮影。屋根が崩壊し建物内部が丸見えに。
意匠の残る表側は無傷だったことは幸いなのかもしれません。
玄関のガラス窓にある大正楼の屋号紋。
格子窓。
瓢箪型の塗り残し窓。細かい格子の細工はさすがです。
多くの客や娼妓達、そして阿部定が見たであろう風景。
大正楼は年内に姿を消します。それを知り見に来た人が私以外にもいました。それだけ知られた大正楼。地元では保存の声もあったらしいですが、これだけ被害があるといつ倒壊してもおかしくない状態で危険な上に保存・修復するにしても費用の捻出の問題もありますし文化財指定されていないため補助金もない。台風さえなければもう少し長らえたかもしれませんが、遅かれ早かれ消え去る運命だったのでしょう。
今回何とか取り壊し前に会うことが出来ました。ここにかつて阿部定がいた遊郭建築があったという記憶を残すためなるべく写真を収めることにしました。
京口新地の遊郭建築は多くが取り壊されましたが、今でもわずかながら当時の建物が残されています。こちらも空き家ですが大正楼の近くにあるこのカフェー風の建物もその一つ。
洋風のハイカラな店構えは、昭和初期のモダンな姿を伝えています。
控え壁。
郵便受けのある縦窓。
玄関のガラス戸越しに中を撮影すると、凝った内装の玄関内部が見れました。受付や階段親柱と手すりの彫り物は圧巻。
奥にはステンドグラスの窓まで。この建物は京口新地内でも上等の店だったんでしょうね。
店内には蓄音機からの音楽が流れ、着飾った客でにぎわい、受付や玄関には艶やかな女給さんや娼妓が出迎える。奥ではもしかしたらダンスなんかも行われていたかもしれません。
池上季実子や浅野温子が出演した映画「陽暉楼」に出てきたカフェーを思い出します。
カフェー風建物から大正楼を眺める。外観・内装が当時のまま残り、しかも意匠の凝らしたレベルの高い建物。貴重な京口遊郭時代の建物で、京都府八幡市の橋本遊郭の多津美旅館のように何とかリノベーションして再利用されればとも思いますが、大通りに近いとはいえ住宅街の中、ここで店を開いても客は期待できないしリフォーム代や修繕費もかなりかかるでしょうし。大正楼と同じくかつての賑わいを記憶に留めたまま消えていく運命なのかもしれません。
京口新地内には他にも当時の遺構があります。これは遊郭を囲む堀の小川に架かる橋。
名前は「よしだ橋」昭和8年8月架橋。夢と現の境を渡す小さな橋。
京口新地の北西角の石垣。
改装されていますが元遊郭だったのではと思われる建物。
裏側。普通の民家とは違う造りで、窓から見える室内はそれっぽい。
こちらも元は遊郭の建物だったんじゃないかなと。
こちらのレポ記事を読むと6年前までは置屋か揚屋ではないかと思われる大型の妓楼建築や洋館も残されていたようですが、残念ながら取り壊されて現存せず。もう少し早く訪ねていたら…
京口新地跡は完全に住宅街となり大正楼やカフェー風建築を始めとしてわずかに遊郭時代の遺構が残るのみです。その大正楼もあと少しで姿を消します。この元遊郭街も次第に人々からの記憶から消えていくことでしょうね。
京口新地の範囲。昭和23年の航空写真をもとに囲むとこんな感じ。周囲の地区とは違い碁盤の目のような区割り。そして遊郭街特有の周りを囲む堀状の川。京口新地はかなり狭い範囲でした。
京口新地は上記の通り歩兵第七十連隊の兵士を目当てに設立された遊郭街でしたが、客質は良くなかったそうです。
京口新地は全国にあった他の遊郭街と同じく昭和33年の売春防止法により幕を閉じ現在は住宅街となってますが、当時の建物がいくつか残されています。
その一つが「大正楼」というこの妓楼の建物。空き家となり老朽化してますが、れっきとした京口新地時代の遊郭の建物。そしてこの建物はある有名な人物ゆかりの妓楼でした。
その人物は「阿部定」。あの阿部定事件を起こした人物です。
※wikipedia「阿部定事件」
阿部定は飛田新地などで売れっ子の娼妓でしたが、様々なトラブルで店を転々とし次第に転落。昭和6年に最後に娼妓として働いたのがこの大正楼でした。
大正楼は京口新地でも下等の遊郭でした。ここでの仕事は相当きつかったようで、わずか6ヶ月で逃げ出してしまいます。大正楼を去った阿部定は再び各地を転々とし、昭和11年に事件を起こします。
その大正楼は京口新地が無くなり住宅街へと変わっても変わらぬ姿でひっそりと存在し続けました。私が最初に訪ねた2015年より以前からすでに廃墟同然の空き家になってましたが、今年の台風で大きな被害を受けたらしく、年内に取り壊されるとの情報をツイッターで知り、見納めという形で訪問することにしました。
大正楼は正面からは特に被害を受けているようには見えませんでした。しかし、右側の路地にはバリケードが。そちらには行けないので回り込む形で反対側の住宅辺りから確認することに。
屋根が半壊して崩壊しています・・・。
もう少しだけ接近。表側からは分からないけど反対側を見たら被害は甚大なことが分かります。
確かにこれでは・・・。
こちらは2015年に訪問した時の写真。3年前は形を保っていた屋根が今は完全に崩壊。
表の通りから崩壊部分を望遠で撮影。屋根が崩壊し建物内部が丸見えに。
意匠の残る表側は無傷だったことは幸いなのかもしれません。
玄関のガラス窓にある大正楼の屋号紋。
格子窓。
瓢箪型の塗り残し窓。細かい格子の細工はさすがです。
多くの客や娼妓達、そして阿部定が見たであろう風景。
大正楼は年内に姿を消します。それを知り見に来た人が私以外にもいました。それだけ知られた大正楼。地元では保存の声もあったらしいですが、これだけ被害があるといつ倒壊してもおかしくない状態で危険な上に保存・修復するにしても費用の捻出の問題もありますし文化財指定されていないため補助金もない。台風さえなければもう少し長らえたかもしれませんが、遅かれ早かれ消え去る運命だったのでしょう。
今回何とか取り壊し前に会うことが出来ました。ここにかつて阿部定がいた遊郭建築があったという記憶を残すためなるべく写真を収めることにしました。
京口新地の遊郭建築は多くが取り壊されましたが、今でもわずかながら当時の建物が残されています。こちらも空き家ですが大正楼の近くにあるこのカフェー風の建物もその一つ。
洋風のハイカラな店構えは、昭和初期のモダンな姿を伝えています。
控え壁。
郵便受けのある縦窓。
玄関のガラス戸越しに中を撮影すると、凝った内装の玄関内部が見れました。受付や階段親柱と手すりの彫り物は圧巻。
奥にはステンドグラスの窓まで。この建物は京口新地内でも上等の店だったんでしょうね。
店内には蓄音機からの音楽が流れ、着飾った客でにぎわい、受付や玄関には艶やかな女給さんや娼妓が出迎える。奥ではもしかしたらダンスなんかも行われていたかもしれません。
池上季実子や浅野温子が出演した映画「陽暉楼」に出てきたカフェーを思い出します。
カフェー風建物から大正楼を眺める。外観・内装が当時のまま残り、しかも意匠の凝らしたレベルの高い建物。貴重な京口遊郭時代の建物で、京都府八幡市の橋本遊郭の多津美旅館のように何とかリノベーションして再利用されればとも思いますが、大通りに近いとはいえ住宅街の中、ここで店を開いても客は期待できないしリフォーム代や修繕費もかなりかかるでしょうし。大正楼と同じくかつての賑わいを記憶に留めたまま消えていく運命なのかもしれません。
京口新地内には他にも当時の遺構があります。これは遊郭を囲む堀の小川に架かる橋。
名前は「よしだ橋」昭和8年8月架橋。夢と現の境を渡す小さな橋。
京口新地の北西角の石垣。
改装されていますが元遊郭だったのではと思われる建物。
裏側。普通の民家とは違う造りで、窓から見える室内はそれっぽい。
こちらも元は遊郭の建物だったんじゃないかなと。
こちらのレポ記事を読むと6年前までは置屋か揚屋ではないかと思われる大型の妓楼建築や洋館も残されていたようですが、残念ながら取り壊されて現存せず。もう少し早く訪ねていたら…
京口新地跡は完全に住宅街となり大正楼やカフェー風建築を始めとしてわずかに遊郭時代の遺構が残るのみです。その大正楼もあと少しで姿を消します。この元遊郭街も次第に人々からの記憶から消えていくことでしょうね。