2019年01月27日
鈴鹿市・亀山陸軍病院跡〜第一航空軍教育隊跡〜北伊勢陸軍飛行場跡探索レポ日記
去年10月(2018年10月21日)に三重県鈴鹿市にある亀山陸軍病院・第一航空軍教育隊・北伊勢陸軍飛行場の遺構群の探索を行いました。
鈴鹿市には他にも鈴鹿海軍工廠や鈴鹿海軍航空隊等の旧軍遺構が残されており、うち鈴鹿海軍工廠の方は探索を終えレポ日記を書いています。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
今回の探索ルート。
加佐登駅を出発し、まずは亀山陸軍病院の跡地へ。
亀山陸軍病院は昭和16年に開設した近隣の北伊勢陸軍飛行場や翌年開設の第一航空軍教育隊によりそれらの患者を収容するために昭和18年に開院した陸軍病院で、全国にあった陸軍病院の中では比較的新しいものでした。戦後、亀山陸軍病院は鈴鹿病院の敷地となり当時の建物は残されていませんが、外周にいくつか遺構が残されています。
亀山陸軍病院東門。
コンクリート製のシンプルなものです。
正門から東門にかけて境界の土堤があり、かつては外側の畑地の中に境界石があったようですが、現在その場所は住宅の造成地となり、境界石は見つけられませんでした。
北側敷地にも土堤は残されています。
周囲には陸軍境界石がいくつか残されています。まずは正門前の駐車場敷地に埋もれている境界石。
正門近くの民家横の花壇の中にある境界石。
同じく花壇の中にある境界石。
北側土堤側の境界石。
今回確認した境界石の配置図。このほかにも西側竹林内等にも境界石が残されているようです。
次に向かったのが、第一航空軍教育隊の跡地。
昭和17年に幹部候補生や下士官の教育部隊として開設されたもので、営舎等の施設が建ち並んでいました。
※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の第一航空軍教育隊の航空写真。いくつかの建物が建ち並び、格納庫らしき建物も見えますが、基礎だけのままの場所もあり、いくつかは未完成だったようです。
戦後、跡地は住宅街や畑地となりますが、いくつかの分厚いコンクリートの基礎や建物は撤去されず、そのまま残されています。
自動車車庫の基礎。コンクリートのベタ基礎です。
仕切りがあり、それぞれの車が収まる様になってます。
生垣になっている箇所にはボルトのある基礎らしきコンクリート柱があります。
自動車車庫跡から北に進むと向かって左手に貯水槽があります。
現在は水は無く、土が溜まった状態で放置されています。
講堂の基礎。ここで様々な講義とか行われてたのでしょうか。
畑地の中に残されてますが、分厚いベタ基礎なので撤去できずにそのまま残されたようです、
ベタ基礎の上にさらに基礎があり、束石が並んでいます。
コンクリートの基礎の上には古い木造の倉庫が建てられています。
第一航空軍教育隊の当時のままの建物ではないでしょうが、建物の部材や造り自体は古いです。兵舎等の建物は戦後の復興資材として住宅などに再利用されたようですから、もしかしたら第一航空軍教育隊の建物を再利用したものかもしれません。
さらに北に進んだ場所、第一航空軍教育隊の敷地北端に当たる場所にかつては弾薬庫が5棟並んでおり、うち1棟が現在も畑地の中に残されています。
コンクリート製の建物で、弾薬庫らしく頑丈な造りです。
裏側から。何故か1棟だけ残されてますが、ともあれ第一航空軍教育隊の遺構で唯一残された確実に当時の建物と言える遺構です。
内部。どうやら2段の棚があったようです。
現在は物置になってます。
弾薬庫の前に置かれた塀の支柱と思われるコンクリート柱。弾薬庫を囲んでいたのでしょうか。
当時の水路と水路に架かるコンクリートの橋もいくつか残されています。
第一航空軍教育隊当時の物かは分かりませんが、水門もあります。
格納庫の基礎。コンクリートの撤去は困難なので、大規模な造成が無い限りはずっと残り続けるでしょう。
第一航空軍教育隊跡を後にし、次は北伊勢陸軍飛行場跡へ。
北伊勢陸軍飛行場は岐阜陸軍飛行学校の分教所として昭和16年に開設。昭和18年に明野陸軍飛行学校の分教所へと改編されます。昭和19年からは教育部隊ではなく実戦部隊が配備され特攻隊の部隊も配備されていました。
※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の北伊勢陸軍飛行場航空写真。
南側の一角に兵舎や格納庫の建物が写ってます。
戦後、北伊勢陸軍飛行場の跡地は滑走路敷地は畑地や住宅地・古河電気工業の敷地に、兵舎等の敷地は川崎小学校等の敷地となっています。
まずは有名な遺構である北伊勢陸軍飛行場掩体壕へ。
北伊勢陸軍飛行場唯一のコンクリート製掩体壕で、完成直前で終戦を迎えたようです。
北伊勢陸軍飛行場の遺構ではほぼ完全に残されたものであり、国登録有形文化財となっています。
内部は相当広いです。こちらもやはり物置に。
掩体壕を後にして格納庫のあった南側へと向かう途中、元滑走路敷地内に見つけた古い木造建物。
北伊勢陸軍飛行場の建物だったかは分からないが、建物も基礎のコンクリートも戦前の物ではないかと思う相当古いので、もしかしたら再利用したものではないかと思い撮影。
さらに南に下った先、格納庫跡の近くにあった建物。
壁部分は新たにコンクリートブロックで造ったものだが、屋根部分は明らかに戦前ではないかと思われる古い造り。こちらも北伊勢陸軍飛行場と関係あるものかは分からないが、再利用している可能性もあるので撮影。
駐機場だったと思われる場所。現在は何もありません。
第一格納庫の支壁。かつてはこのコンクリートの壁の上に木造の格納庫の躯体が乗っていたようです。北伊勢陸軍飛行場の格納庫は9つあり、鉄骨造の1棟を除いてあとは全て木造でした。
川崎小学校西側の畑地に残る燃料庫。以前は2棟並んであったようですが、南側は宅地として造成されたせいか、もう1棟は失われていました。
川崎小学校の正門となっている北伊勢陸軍飛行場正門。この奥の小学校敷地にかつては兵舎が建ち並んでいました。ちなみに兵舎の一部が移築され公民館として使用されていますが、時間(と体力)の都合で今回は断念。
今回の行程は総距離15km。結構疲れましたが有意義な探索となりました。
鈴鹿市には他にも鈴鹿海軍工廠や鈴鹿海軍航空隊等の旧軍遺構が残されており、うち鈴鹿海軍工廠の方は探索を終えレポ日記を書いています。
※鈴鹿海軍工廠遺構群探索レポ日記
今回の探索ルート。
加佐登駅を出発し、まずは亀山陸軍病院の跡地へ。
亀山陸軍病院は昭和16年に開設した近隣の北伊勢陸軍飛行場や翌年開設の第一航空軍教育隊によりそれらの患者を収容するために昭和18年に開院した陸軍病院で、全国にあった陸軍病院の中では比較的新しいものでした。戦後、亀山陸軍病院は鈴鹿病院の敷地となり当時の建物は残されていませんが、外周にいくつか遺構が残されています。
亀山陸軍病院東門。
コンクリート製のシンプルなものです。
正門から東門にかけて境界の土堤があり、かつては外側の畑地の中に境界石があったようですが、現在その場所は住宅の造成地となり、境界石は見つけられませんでした。
北側敷地にも土堤は残されています。
周囲には陸軍境界石がいくつか残されています。まずは正門前の駐車場敷地に埋もれている境界石。
正門近くの民家横の花壇の中にある境界石。
同じく花壇の中にある境界石。
北側土堤側の境界石。
今回確認した境界石の配置図。このほかにも西側竹林内等にも境界石が残されているようです。
次に向かったのが、第一航空軍教育隊の跡地。
昭和17年に幹部候補生や下士官の教育部隊として開設されたもので、営舎等の施設が建ち並んでいました。
※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の第一航空軍教育隊の航空写真。いくつかの建物が建ち並び、格納庫らしき建物も見えますが、基礎だけのままの場所もあり、いくつかは未完成だったようです。
戦後、跡地は住宅街や畑地となりますが、いくつかの分厚いコンクリートの基礎や建物は撤去されず、そのまま残されています。
自動車車庫の基礎。コンクリートのベタ基礎です。
仕切りがあり、それぞれの車が収まる様になってます。
生垣になっている箇所にはボルトのある基礎らしきコンクリート柱があります。
自動車車庫跡から北に進むと向かって左手に貯水槽があります。
現在は水は無く、土が溜まった状態で放置されています。
講堂の基礎。ここで様々な講義とか行われてたのでしょうか。
畑地の中に残されてますが、分厚いベタ基礎なので撤去できずにそのまま残されたようです、
ベタ基礎の上にさらに基礎があり、束石が並んでいます。
コンクリートの基礎の上には古い木造の倉庫が建てられています。
第一航空軍教育隊の当時のままの建物ではないでしょうが、建物の部材や造り自体は古いです。兵舎等の建物は戦後の復興資材として住宅などに再利用されたようですから、もしかしたら第一航空軍教育隊の建物を再利用したものかもしれません。
さらに北に進んだ場所、第一航空軍教育隊の敷地北端に当たる場所にかつては弾薬庫が5棟並んでおり、うち1棟が現在も畑地の中に残されています。
コンクリート製の建物で、弾薬庫らしく頑丈な造りです。
裏側から。何故か1棟だけ残されてますが、ともあれ第一航空軍教育隊の遺構で唯一残された確実に当時の建物と言える遺構です。
内部。どうやら2段の棚があったようです。
現在は物置になってます。
弾薬庫の前に置かれた塀の支柱と思われるコンクリート柱。弾薬庫を囲んでいたのでしょうか。
当時の水路と水路に架かるコンクリートの橋もいくつか残されています。
第一航空軍教育隊当時の物かは分かりませんが、水門もあります。
格納庫の基礎。コンクリートの撤去は困難なので、大規模な造成が無い限りはずっと残り続けるでしょう。
第一航空軍教育隊跡を後にし、次は北伊勢陸軍飛行場跡へ。
北伊勢陸軍飛行場は岐阜陸軍飛行学校の分教所として昭和16年に開設。昭和18年に明野陸軍飛行学校の分教所へと改編されます。昭和19年からは教育部隊ではなく実戦部隊が配備され特攻隊の部隊も配備されていました。
※国土地理院公開の昭和22年米軍撮影の北伊勢陸軍飛行場航空写真。
南側の一角に兵舎や格納庫の建物が写ってます。
戦後、北伊勢陸軍飛行場の跡地は滑走路敷地は畑地や住宅地・古河電気工業の敷地に、兵舎等の敷地は川崎小学校等の敷地となっています。
まずは有名な遺構である北伊勢陸軍飛行場掩体壕へ。
北伊勢陸軍飛行場唯一のコンクリート製掩体壕で、完成直前で終戦を迎えたようです。
北伊勢陸軍飛行場の遺構ではほぼ完全に残されたものであり、国登録有形文化財となっています。
内部は相当広いです。こちらもやはり物置に。
掩体壕を後にして格納庫のあった南側へと向かう途中、元滑走路敷地内に見つけた古い木造建物。
北伊勢陸軍飛行場の建物だったかは分からないが、建物も基礎のコンクリートも戦前の物ではないかと思う相当古いので、もしかしたら再利用したものではないかと思い撮影。
さらに南に下った先、格納庫跡の近くにあった建物。
壁部分は新たにコンクリートブロックで造ったものだが、屋根部分は明らかに戦前ではないかと思われる古い造り。こちらも北伊勢陸軍飛行場と関係あるものかは分からないが、再利用している可能性もあるので撮影。
駐機場だったと思われる場所。現在は何もありません。
第一格納庫の支壁。かつてはこのコンクリートの壁の上に木造の格納庫の躯体が乗っていたようです。北伊勢陸軍飛行場の格納庫は9つあり、鉄骨造の1棟を除いてあとは全て木造でした。
川崎小学校西側の畑地に残る燃料庫。以前は2棟並んであったようですが、南側は宅地として造成されたせいか、もう1棟は失われていました。
川崎小学校の正門となっている北伊勢陸軍飛行場正門。この奥の小学校敷地にかつては兵舎が建ち並んでいました。ちなみに兵舎の一部が移築され公民館として使用されていますが、時間(と体力)の都合で今回は断念。
今回の行程は総距離15km。結構疲れましたが有意義な探索となりました。