2019年02月11日
宮津市・第三十一海軍航空廠小田宿野工員宿舎街・官舎街・女子工員宿舎探索レポ日記
※探索した東側工員宿舎街は小田宿野工員宿舎街、女子工員宿舎、官舎街と判明しました。
京都府宮津市にある第三十一海軍航空廠工員宿舎街を探索してきました。
第三十一海軍航空廠は昭和18年に開設した海軍工廠で、主に水上機の製造を行っていました。
第三十一海軍航空廠の工場は現在の関西電力宮津エネルギー研究所(丹後魚っ知館のある場所)一帯にあり、当時の建物は残されていませんが、山裾に地下壕らしきものがあるようです。
その第三十一海軍航空廠の工員宿舎街が航空廠の北西に造られ、現在も区画がそのまま残り、一部は住宅としてそのまま使用されていることを知り、2年前に訪問。そして新たに現存建物を確認したことから再度探索をいたしました。
まずは小田宿野工員宿舎街。こちらはほとんどの宿舎がリフォームされながらも現存している感じでした。その中でも比較的元の姿を保っていると思われる元工員宿舎の住宅を2つ紹介します。
まずは小田宿野工員宿舎街の遠景。南から。
北から。区画は碁盤の目のようになってます。
工員宿舎1。だいぶ傷んでますが、オリジナルの状態を保ってます。
工員宿舎2。こちらは比較的状態が良いようです。
続いて小田宿野工員宿舎街の西側にある官舎街・女子工員宿舎へと向かいます。
女子工員宿舎と隣接する官舎は規模が大きめで門があり、特に官舎3と4は他の官舎の倍近くの規模があり、中庭まで設けているため、航空廠の高等官の住宅だったのではと思います。また、官舎街の東側には女子工員宿舎の長屋の建物が2棟残されています。
官舎街の風景(東から)。
官舎1。リフォームされてますが、建物自体は元官舎と思われます。門柱は当時の物と思われます。
当時の物らしいドアが残されてました。
隣の家にも官舎時代の門柱が残されています。建物ももしかしたら元官舎かも。
官舎2。門柱は失われてますが、官舎自体はほぼオリジナルを保っていそうです。
官舎3。かなり大型の官舎で、官舎1・2の倍近くあります。官舎の状態もほぼオリジナルを保っており、門柱も残されています。門柱は官舎1・2より大型です。
官舎4。官舎3とほぼ同じ規模の大型官舎です。さらには改修などもなく、ほぼ当時のオリジナルのまま残されており、更には門柱や石積みの垣も残されているなど貴重な存在と思われます。
反対側から。
官舎4の西側部分。
正門。門柱は先の官舎1・2より大型です。
官舎3と4は航空写真を見ると凹型になっており、へこんだ部分に中庭が設けられ、官舎4には燈籠が残されていました。
第三十一海軍航空廠の官舎は改修されながらも多く残されており、資料が乏しく調査している人が少ない第31海軍航空廠において貴重な遺構群と思われます。特に官舎4は大規模な上にほとんど改修されておらず建物・門柱や石垣の垣根を含め官舎時代のオリジナルの姿を留めているだけでなく、状態も良好で、第三十一海軍航空廠の高等官向けの官舎として重要かつ貴重な遺構です。
北吸の海軍乙号官舎のように国登録有形文化財となり保存されれば有り難いですが。
官舎3・4は海軍乙号官舎よりやや大きいようです。官舎3・4は甲号官舎だったのでしょうか。
官舎街の東側には女子工員宿舎の長屋状の建物が2棟残されています。写真は女子工員宿舎1。もう1棟は庭木の奥になっており見ることが出来ませんでした。
現在は畑となってますが、赤線で囲った箇所もどうやら第三十一海軍航空廠の工員宿舎街か施設を建てるために造成は行われていたようで、昭和22年の航空写真を見ると一部建物が建てられています。
第三十一海軍航空廠の工場建物自体は残されていないように思いますが、唯一航空廠時代の建物ではないかと思われる木造建築がエネルギー研究所の入り口近くの民家に残されています。
第三十一海軍航空廠の南、京都府立海洋高校とその周囲の敷地には舞鶴海軍航空隊の施設がありました。
昭和10年に開設した舞鶴海軍航空隊は水上機専用の航空隊でした。
※参照。古絵葉書・舞鶴海軍航空隊(栗田水上機基地)
現在は正門と滑走路の舗装などが舞鶴海軍航空隊の遺構として残されています。
また、舞鶴海軍航空隊のすぐ北にある銀丘地区は、第三十一海軍航空廠の中津工員宿舎街であり、昭和22年の航空写真には整然と並ぶ建物が写されています。