2020年11月15日
舞鶴市・第三海軍火薬廠第一製造部遺構探索レポ日記

舞鶴市朝来地区一帯は戦時中の昭和17年、第三海軍火薬廠という広大な火薬製造工廠が造られました。
第三海軍火薬廠は現在、日本板硝子工場と朝来集落となっている一帯は第一製造部、青葉山ろく公園と舞鶴高専の奥の谷地一帯は第二製造部となっていました。第二製造部は主に砲弾の製造や充填を行う工場だったため、爆発事故の影響を最小限に抑える山中の谷地にあったため、現在も多くの遺構が残されていることで知られていますが、※過去の探索1 ※過去の探索2 第一製造部は主に庁舎や事務所、官舎・宿舎が主で戦後に利用しやすかったせいか、日本板硝子工場や集落となり、遺構はほぼ残されていないと思われてました。しかし、今回の探索(※2019年3月3日)により想定よりも多くの遺構が状態良く残されていることが分かりました。以下、探索結果を報告します。なお、各遺構は「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」に収録されている施設図を元に記しました。
青葉山ろく公園に駐車し、遺構が集中して残る日本板硝子工場の方向へと向かいます。
各遺構の位置は上記の配置図を参照してください。

まず向かったのは、朝来小学校近くに残る乙号官舎。

かつて庁舎や会議所があった近くにあり、工廠でも上位の正職員の官舎だったと思われます。
オリジナルの状態で良く保たれており、第三海軍火薬廠の数少ない木造建物であり官舎という貴重な建物ですが、現在は空き家で今後どうなるか心配です。

近くにももう1棟官舎が残されていますが、現在は民家となっており、はっきりと確認できません。

官舎の一部だったと思われる古い木造建築。
旧官舎街エリアを後にし、川沿いに進みます。

川の中に残された土管。第三海軍火薬廠時代の物ですが、用途は不明。こういった土管はいくつか残されています。
この奥の山中に整地されたエリアがあり、恐らく木造の建物があったと思われます。

現在の日本板硝子工場の敷地は爆薬製造所だった場所ですが、敷地脇の水路には当時の石積の護岸が残されています。

そして、日本板硝子工場の南側に溶融回収所の廃墟が残されています。
溶融回収所は恐らく火薬製造過程で出た廃棄物を回収し処理する施設だったものと思われます。

別角度。

正面。遠目に見ると少々不気味…

回り込んで内部に入ることが出来ました。


鉄骨造りで壁はモルタルの薄い造り。

コンクリートの水槽らしきもの。

こちらもコンクリートの円筒形の構造物。

2階へと至る階段。

大分朽ちており、さすがに登りませんでした。

階段から2階を見上げる。

建屋の外には、何かの機械を設置していたと思われる台座と覆屋根の鉄骨が残されてました。

台座はコンクリートではなく、煉瓦造の表面に化粧モルタルが塗られていました。

電灯の笠。

溶融回収所の敷地の石積擁壁。

石積擁壁には階段があり、西側のエリアと行き来が出来るようになってます。

階段を上ると煉瓦の構造物があります。配置図では原料置場となっています。

恐らく上に木造の建屋があったものと思われます。

その西隣にある覆土式余作品置場。入り口はコンクリートブロックで塞がれています。

反対側。かつてはトンネルのように貫通していたようです。

そこから西へ向かうと見えてくるコンクリート造の建物。配置図では第三爆薬仮置場となっています。
現在も壁面に迷彩が残されています。

入り口。鉄扉もそのままです。

通気口。

内部。戦後に倉庫として使われていたようですが、現在は使用されていないようです。
さらに西へ。

石橋と石組水路。この場所から薮の奥へと向かうと…

煉瓦造の建物が見えます。配置図では第二爆薬仮置場となっています。

背面。迷彩の痕が全面に残されています。

入り口部分。

内部。

奥壁。内部は狭いですが、結構しっかりした造りです。

内部から入り口方向。
今回の第一製造部の探索では予想より多くの建造物としての遺構が残されていることが分かりました。
第二製造部の方に注目されがちですが、第一製造部にも当時の建物や遺構が残されていることを周知されたらと思います。