2023年09月15日
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)
※今回、京都市役所庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付ける資料を入手しました。記事本文中にて紹介しています。
武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。
所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。
河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。
アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。
京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。
京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。
続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
西側階段室塔屋。
京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。
※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。
工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。
工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。
工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。
工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。
工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。
京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。
「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。
京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。
京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。
※2023年5月27日追記
朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。
フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。
『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。
武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。
所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。
河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。
アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。
京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。
京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。
続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
西側階段室塔屋。
京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。
※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。
工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。
工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。
工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。
工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。
工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。
京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。
「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。
京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。
京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。
※2023年5月27日追記
朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。
フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。