2023年12月16日
高原児童公園に残る都市公園としての近代化遺産とその活用例
京都市左京区田中西高原町にある高原児童公園を探索しました。高原児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。

高原児童公園南側東門。


門柱は特に意匠的ではないですね。

公園側から。誰かの忘れ物が…

銘板。これは開園当時のもの。

高原児童公園南側西門


こちらも南側西門と同じデザイン。

公園側から

銘板も当時のもの。

高原児童公園西門。


高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。

全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。

西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。

竣工記念碑の噴水。

昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。

裏側。

裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。

噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。

日時計。これも記念碑を兼ねています。

日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。

日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。

公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。

京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。

竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。

高原児童公園南側東門。


門柱は特に意匠的ではないですね。

公園側から。誰かの忘れ物が…

銘板。これは開園当時のもの。

高原児童公園南側西門


こちらも南側西門と同じデザイン。

公園側から

銘板も当時のもの。

高原児童公園西門。


高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。

全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。

西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。

竣工記念碑の噴水。

昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。

裏側。

裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。

噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。

日時計。これも記念碑を兼ねています。

日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。

日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。

公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。

京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。

竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。