2024年08月30日
養父市大屋町の近代建築と明延鉱山関連建物探索レポ日記
2024年8月10日、兵庫県養父市大屋町にある近代建築と明延鉱山を探索してきました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。
但馬銀行大屋支店。昭和6年
小さな町の中にある立派な洋館。
やはり目立ちますね。
壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。
門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。
おそらく昭和戦前期の建築と思われます。
当時の外観の姿を良く残しています。
正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。
妻側から。
玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。
講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。
※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。
明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。
説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。
北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。
かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。
こちらは10号社宅。
11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。
社宅内部。
家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。
北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。
プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。
北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。
北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。
工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。
手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。
玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。
隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。
最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。
北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。
旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。
旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。
旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。
かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。
南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。
南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。
郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。
明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。
現在は取り壊され何も残されていません。
明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。
展示されている、No18電気機関車。
昭和17年、三菱電機製。
こちらは電動客車白金号。昭和27年製。
桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。
こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。
明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。
元商店と思われる建物。
正垣百貨店。雑貨店のような感じ。
看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。
社宅と思われるる建物。
レトロなたばこ屋さんがありました。
味のある「たばこ」の看板。
龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。
川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。
川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。
消防団詰所。洋風の外観。
内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。
明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。
中々洒落た建物です。
妻側から。
玄関には第一浴場の文字もあります。
明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。
現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。
第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。
坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。
桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。
1部屋だけ住人がいるようです。
同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。
3棟が残されれています。
こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。
但馬銀行大屋支店。昭和6年
小さな町の中にある立派な洋館。
やはり目立ちますね。
壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。
門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。
おそらく昭和戦前期の建築と思われます。
当時の外観の姿を良く残しています。
正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。
妻側から。
玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。
講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。
※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。
明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。
説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。
北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。
かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。
こちらは10号社宅。
11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。
社宅内部。
家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。
北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。
プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。
北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。
北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。
工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。
手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。
玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。
隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。
最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。
北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。
旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。
旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。
旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。
かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。
南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。
南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。
郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。
明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。
現在は取り壊され何も残されていません。
明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。
展示されている、No18電気機関車。
昭和17年、三菱電機製。
こちらは電動客車白金号。昭和27年製。
桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。
こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。
明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。
元商店と思われる建物。
正垣百貨店。雑貨店のような感じ。
看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。
社宅と思われるる建物。
レトロなたばこ屋さんがありました。
味のある「たばこ」の看板。
龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。
川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。
川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。
消防団詰所。洋風の外観。
内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。
明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。
中々洒落た建物です。
妻側から。
玄関には第一浴場の文字もあります。
明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。
現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。
第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。
坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。
桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。
1部屋だけ住人がいるようです。
同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。
3棟が残されれています。
こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。