遺跡

2023年01月29日

富雄丸山古墳・現地見学会レポ日記

富雄丸山古墳現地説明会資料001













造り出し部分の埋葬施設から国宝級の発見があったと大きく報道された、奈良市にある富雄丸山古墳の現地見学会に行ってきました。
富雄丸山古墳は4世紀後半に築造された径109mの国内最大の円墳です。明治時代に墳頂部にある埋葬施設が盗掘され(出土したとされる副葬品は京都国立博物館が所蔵。国指定重要文化財)、昭和47年に埋葬施設が発掘調査されています。今回大発見があった場所は墳丘の裾に近い造り出しの部分から見つかった埋葬施設。ここから国内でも例を見ない盾形銅鏡と巨大な蛇行剣が見つかりました。



国宝級の発見と言われる盾形銅鏡と日本最大の蛇行剣はメディアにも注目され、続々と報道されまし
た。
盾形銅鏡と蛇行剣は保存処理中のため見れませんが、発掘現場の公開が28日と29日に行われ、28日は1400人、29日は3100人余りが見学に来たとか。さすがに注目されています。
私も29日の午前中に富雄丸山古墳の現地見学会に参加してきました。

1.富雄丸山古墳待機列







一般公開の開始時間の1時間前である9時に到着。すでに40人くらい並んでいました。
2.富雄丸山古墳盾型銅鏡







受付の机に置かれていた盾形銅鏡の実物大パネル。
3.富雄丸山古墳盾型銅鏡







実際見ると大きく感じます。
4.富雄丸山古墳蛇行剣







蛇行剣の実物大パネル。237cmの国内最大の蛇行剣は実際見るとめちゃデカい。
5.富雄丸山古墳円筒埴輪







出土した円筒埴輪。こちらは実物。
6.富雄丸山古墳説明板













富雄丸山古墳の説明板。史跡指定はされていませんが、国内最大の円墳という事で周囲は公園化され保存されています。今回の発見で史跡指定される可能性は十分あります。
7.富雄丸山古墳遠景







いよいよ、発掘現場の富雄丸山古墳へ。遠くに見えるのが富雄丸山古墳です。
8.富雄丸山古墳墳丘裾部







墳丘裾部の葺石。
9.富雄丸山古墳埴輪列







墳丘裾部の円筒埴輪列と葺石。かつては巨大な円墳の全体を葺石で覆い、円筒埴輪を巡らせていました。
10.富雄丸山古墳U区







U調査区。ここでも大きな発見がありました。
11.富雄丸山古墳鰭付円筒埴輪







U調査区の鰭付円筒埴輪。そして・・・
12.湧水施設形埴輪







湧水施設形埴輪。井戸のような湧水施設を模した埴輪だそうですが、こんな埴輪見たこと無い。
13.湧水施設形埴輪







盾形銅鏡と巨大蛇行剣ばかりに注目が行ってますが、この湧水施設形埴輪も大発見。
14.墳頂部







墳頂部。かつてはここに富雄丸山古墳の主の埋葬施設がありましたが、明治時代に盗掘されました。一部の出土品は京都国立博物館に所蔵され国指定重要文化財となってますが、もし盗掘されていなければどれだけの発見があったのだろうと思うと残念ですね。

15.造り出し粘土槨







そしてこれが今回、盾形銅鏡と国内最大の蛇行剣が出土した造り出し部分の埋葬施設。
粘土槨(ねんどかく)という木棺を粘土で覆った形の埋葬施設です。
16.造り出し粘土槨













粘土槨には盾形銅鏡と蛇行剣の実物大パネルが置かれていました。
富雄丸山古墳現地説明会資料002













現地見学会資料にある出土状況の写真。こんなの出てきたらビックリしますわ。
ちなみに盾形銅鏡と蛇行剣は粘土槨の外側から出土したもので、粘土槨の内部はまだ発掘されていません。これから調査されるとのことで、どんな発見があるか楽しみです。
20.2号墳







こちらは2号墳。横穴式石室墳なので、6世紀代まで時代が下ります。
21.3号墳







3号墳は盗掘されているようです。
18.遠景







見学を終えた10時ごろには見学者もだいぶ増えてきました。
19.NHK







NHKの取材班も。いずれNスぺで特集して欲しい。

富雄丸山古墳の現地見学会は貴重な発見のあった場所を感じさせるまたとない体験となりました。
今後、粘土槨の調査、そして盾形銅鏡と蛇行剣の一般公開に期待したいですね。


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2018年02月02日

城跡探索記録・攻城レポ日記のリンク集

元々城好きが高じて2013年くらいから中世山城跡を中心に探訪を続けてます。

攻城レポ日記という名の訪城レポートを書きだしたのは2014年頃から。以来訪城した城跡はこまめに日記を書いてます。

ただ、書いている日記はmixiの日記。「みんなの日記」というmixiに登録しなくても誰でも閲覧できる公開にしてますが、ライブドアのこちらでも公開したいと思うようになりました。
ただ、これまで書いた攻城レポ日記は割と量が溜まっており、こちらへの転載も結構手間なのでこのたびmixiにて書いたこれまでの攻城レポ日記のリンクを張ることにしました。

今後、mixi内で書いたレポ日記はこちらにもリンクを張ることにしますのでよろしくお願いいします。

※mixiの日記ではありますが閲覧だけなら登録していなくても誰でも見ることができます。ただし、コメントは登録していないとつけることはできませんので、何か気になることがありましたらこちらのコメント欄にお願いします。
色の違う城名をクリックしたら、レポ日記が開きます。リンクの無いものは訪城はしたが日記は書いてないものです。
但馬八木城










※2014年
〇6月14日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇9月14日 兵庫県丹波市 黒井城跡
〇11月23日 兵庫県養父市 但馬八木城跡
有子山城雲海










※2015年
〇2月20日 京都府京都市右京区 周山城跡
〇3月26日 京都府南丹市 小山城跡
〇4月21日 滋賀県愛荘町 金剛輪寺
〇4月25日 兵庫県篠山市 丹波八上城跡
〇5月6日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡
〇12月30日 京都府綾部市 位田城跡・京都府福知山市 石原城跡
〇12月31日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡(再訪)

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※2016年
〇1月2日 京都府福知山市三和町 経ヶ端城跡
〇1月9日 奈良県大和郡山市 大和郡山城
〇1月10日 京都府亀岡市宮前町 神尾山城跡 
〇2月13日 京都府南丹市宍人 宍人城跡 
〇2月19日 京都府亀岡市 丹波亀山城惣構遺構
〇2月25日・26日 奈良県宇陀松山市 宇陀松山城跡
〇2月27日 京都府南丹市日吉町 塩貝城跡
〇3月11日 京都府亀岡市宮前町 中世金輪寺跡石垣群
〇3月11日 京都府亀岡市西別院町 笑路城跡
〇3月20日 滋賀県東近江市 観音寺城跡 
〇4月16日 京丹波町須知 須知城跡 
〇5月1日 京都府福知山市 医王寺跡・新庄城跡
〇5月2日 京都府福知山市 鬼ヶ城跡 
〇5月3日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡
〇5月21日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡再踏査
〇6月4日 京都府綾部市 上林城跡
〇京都府綾部市 山家陣屋跡・甲ヶ峯城跡
〇6月11日 京都市一乗寺・渡辺館 
〇6月18日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇6月25日 兵庫県丹波市柏原町 柏原陣屋跡
〇8月20日 京都府京丹波町 上野城跡
〇8月27日 京都府南丹市美山町 島城跡
〇9月16日 滋賀県多賀町 敏満寺城跡
〇9月24日 滋賀県彦根市 佐和山城跡・彦根城
〇10月29日 京都府南丹市美山町 旧歓楽寺跡
〇11月4日 高槻市芥川山城
〇11月5日 京都府南丹市 黒田城跡
〇11月12日 兵庫県丹波市春日町 黒井城の雲海
〇12月3日 兵庫県篠山市 籾井城跡
〇12月16日 滋賀県愛荘町 目賀田城
〇12月24日 滋賀県近江八幡市安土町 安土城跡
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※2017年

〇1月1日 京都府福知山市山崎 山崎城跡
〇1月7日 京都府南丹市園部町 埴生城跡
〇2月4日 京都府京丹波町 中畑城跡
〇2月4日 京都府南丹市日吉町 亀田城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 東胡麻城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 野化館跡
〇3月12日 京都府亀岡市 保津城跡
〇3月18日 京都府亀岡市 千軒寺跡(数掛山城跡下)
〇3月19日 京都府亀岡市 余部城(丸岡城)跡
〇3月20日 京都府亀岡市 穴太城跡
〇4月3日 京都府亀岡市 猪倉城跡
〇4月8日 京都府南丹市 丹波八木城西支城・内藤法雲曲輪
〇5月2日 京都府綾部市 高津八幡山城跡 段山城跡  将監城跡






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2016年05月22日

福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院跡・中世観瀧寺跡(&幻の滝山城跡か)の再踏査


記事の画像および文章の無断転載は一切禁止します。
前回5/3についに発見した福知山市奥榎原の中世観瀧寺跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54643859.html
※前回の踏査レポ日記。
しかし前回天候の急変と初めて到達した場所ということもあり十分な探索もできぬまま撤退する羽目に。そこで、梅雨に入るまでに徹底した再踏査を試みることにしました。
1中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡遠景。山の中腹に広がる不自然な平坦な地形。
昔から実家から見えるこの風景を眺めては言い伝えでしか知らなかった古の寺院跡に思いを馳せていました。
今回の再踏査に当たって目標としたもの。
〇前回未踏査だった箇所の悉皆調査。
〇GPS観測による位置確認。事前に推定していた箇所との照合。
〇石塔類の存在の確認。
〇遺物の確認による時代の裏付け。
これらを念頭に置き再び中世観瀧寺跡へ。
中世観瀧寺跡位置図




現地に到着し、スマホのGPS機能付き登山ナビアプリで位置計測をしたら、最初の踏査前から推定していた位置とドンピシャ。あの実家から見えていた山の平坦地そのものの場所でした。
標高は300m奥榎原集落からの比高差は200m余り。
画像は国土地理院の地形図を引用して中世観瀧寺跡の位置を示しました。
中世観瀧寺跡縄張図







中世観瀧寺跡縄張図番号入り







その国土地理院が公開する地形図を利用してそれに乗せる形で中世観瀧寺跡の縄張図を作成。
今回初踏査した箇所と前回踏査した箇所も含め新たに判明した点を書き加えながら順に紹介していきます。
2中世観瀧寺跡石垣1








下の不動尊の滝からわずかに残る古道を登り切った箇所にある石垣。縄張図1の箇所。
中世観瀧寺跡において唯一しっかり残された石垣。この石垣の下には比較的しっかりした古道も残り、石段らしきものが見え、中世観瀧寺跡の正面に当たる箇所かと思われます。
3中世観瀧寺跡石組基壇2








1の石垣のある平坦地に残る方形石組の基礎らしきもの。縄張図2の箇所。
堂宇にしては小さいので祠か何かだったのでしょうか。もしくは古墓。
4中世観瀧寺跡曲輪3








その2の方形石組みのある平坦地。縄張図3の箇所。
4中世観瀧寺跡最上段曲輪石垣








3の平坦地の切岸には石垣らしき跡があります。1の石垣のある切岸と同じ箇所にありかつてはこの切岸を石垣が巡っていた可能性があります。
5中世観瀧寺跡最上段曲輪4








石垣の巡る切岸の上の平坦地。縄張図4の箇所。
この一帯では最高所となり、石垣もあることから、中世観瀧寺跡において何か象徴的な建物があったように思います。石垣を積むことで威厳を見せていたようにも。
この平坦地は途中で東に土塁状の形となって伸びています。
6中世観瀧寺跡石列虎口5








3の平坦地の北側にある虎口。縄張図5の箇所。石列もありしっかりとしています。
7中世観瀧寺跡石列虎口下石段跡6








5の虎口の下にはいくつか石が並び、石段があった可能性があります。縄張図6の箇所。
下の平坦地へと降りる石段だったのでしょう。
8中世観瀧寺跡最上段曲輪下北曲輪7








一旦戻り虎口5の東にある平坦地へ。縄張図7の箇所。平坦地4から伸びる縄張図21の土塁によって守られた形で、平坦地内には石垣の石材らしき石が多数散乱しています。
10中世観瀧寺跡7曲輪西から








西から撮影。
9中世観瀧寺跡7曲輪崩落石垣








平坦地7から土塁方面を撮影。石垣が崩落したように見えます。
しかし、自然崩落にしてはあまりに崩壊が大きく、意図的に崩されたのではないかとも思いました。観瀧寺の寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとありますが、もし寺院側の反乱だとしたら滅んだ後に城として使えないよう石垣を崩す破城されたのかもしれません。
ただ、南側の石垣のみ残されたのが不思議ですが。
11中世観瀧寺跡北曲輪8








虎口5を降りたところにある平坦地。縄張図8の箇所。
ここも石材が散乱し、石垣があったのかもしれません。
中世観瀧寺跡採集遺物1








この平坦地では初の遺物を確認。これは珠洲焼の壺の破片。
珠洲焼は平安時代より生産され戦国期にに突如姿を消した幻の焼き物。
それを見つけたのは大きな成果でした。つまり、この珠洲焼が落ちているということは確かにこの遺跡が室町期まで寺院として機能していた証となるものです。
中世観瀧寺跡採集遺物2








この珠洲焼の発見で改めて付近を探索したら、室町期と思われる備前焼や信楽焼きの甕の破片を多数発見。またここだけでなく、寺院跡一帯でもいくつか同時期の遺物を確認。時代の裏付けをとることが出来ました。しかし、瓦片は一切見つけられませんでした。
石垣があり広い平坦地を持ち礎石らしきものもあるので瓦葺きの建物があってもよさそうに思いましたが、瓦片が一切見つからなかったので中世観瀧寺跡の諸堂は杮葺きだったのでしょうか。
12中世観瀧寺跡曲輪9








平坦地8から西に向かうとさらに広い平坦地へ。縄張図9の箇所。
13中世観瀧寺跡西土塁10








そして平坦地9から西に延びる土塁。縄張図10の箇所。
この土塁は防御というより区画を分けるためのものだったようにも見えます。
14中世観瀧寺跡曲輪11








土塁10の北側の2段の曲輪。縄張図11の箇所。
15中世観瀧寺跡曲輪12








土塁10の南側の平坦地。縄張図12の箇所。
16中世観瀧寺跡西土塁端13








土塁10の西端の部分。縄張図13の箇所。
13の箇所から北側の平坦地へ向かえるようになってます。
17中世観瀧寺跡西曲輪14








縄張図14の平坦地。
18中世観瀧寺跡西櫓台跡15








平坦地14の西端には櫓台のような高まりがあります。縄張図15の箇所。
西側は麓に方向に当たります。麓側を監視する施設だったのでしょうか。
19中世観瀧寺跡西端曲輪16








櫓台15の下にも平坦地がありました。縄張図16の箇所。今回初確認の遺構です。
この下は自然地形の緩斜面が続きしばらく下りましたが、遺構らしきものは確認できませんでした。
20中世観瀧寺跡曲輪17








縄張図17の平坦地。中世観瀧寺跡の遺構はほぼ尾根上とその一段下の範囲で広がり、尾根から大きく外れて遺構は広がってはいないようです。
21中世観瀧寺跡南曲輪18








東へと戻り最初に上ってきた箇所へ。その東側に帯曲輪状に広がる平坦地。縄張図18の箇所。
写真左の切岸は21の土塁です。
22中世観瀧寺跡東土塁東端19








さらに東へ進むと大きな堀切に当たりました。縄張図19の箇所。今回初確認の遺構で、正面に見えるのは土塁に思えましたが、登ってみるとどちらかというと櫓台にも見える遺構でした。
23中世観瀧寺跡東土塁櫓台20








登ってみると、堀切に沿って低い櫓台のような高まりがあり、その西側に小さい平坦地がありました。縄張図20の箇所。ここから堀切を上って来る敵を迎え撃ったのでしょうか。
24中世観瀧寺跡東土塁21








平坦地4から西に伸びる土塁の西端から撮影。縄張図21の箇所。
25中世観瀧寺跡堀切22








その東側に堀切があります。縄張図22の箇所。
22中世観瀧寺跡東土塁堀切








東側の平坦地20から撮影。正面の高まりは土塁21の東端部分。
26中世観瀧寺跡土塁堀切23








東に進むとさらに土塁と堀切が。縄張図23の箇所。
19の堀切と土塁を挟んで2連となっています。
27中世観瀧寺跡東曲輪24








堀切の東側から斜面が上がっていきますが、まるで中世城郭のように段状の平坦地が連なります。縄張図24の箇所。
28中世観瀧寺跡東曲輪25








平坦地24の上には縄張図25の平坦地があります。これらの平坦地は上の本堂跡かと思われる大規模な平坦地への接続する平坦地と思われますが、それぞれの規模は大きく十分建物も建てられそうです。各平坦地の虎口も良く残されスロープ状の上り坂もあります。切岸も高い。
29中世観瀧寺跡東曲輪石段26








平坦地25と上の平坦地の間に石段があるのを発見。縄張図26の箇所。
明瞭に残された石段はその上の平坦地が寺院の中心となる重要な個所だったことをうかがわせます。
30中世観瀧寺跡東曲輪本堂跡推定27








石段26を登った先に広がる平坦地。縄張図27の箇所。
P1040779








かなりの広さで中世観瀧寺跡でも最大規模を誇る平坦地。
31中世観瀧寺跡東曲輪虎口28








平坦地27の北側に明瞭に残る虎口。縄張図28の箇所。
虎口28からは古道が延び、下っていくと平坦地25につながります。
32中世観瀧寺跡東曲輪礎石29










平坦地27で等間隔に並ぶ石を発見。縄張図29の箇所。礎石に見えるこの石列は規模からして相当な大きさの建物があったように思えます。
麓から一番離れた山側の寺院跡でも最高所であり最大規模を誇るこの平坦地は中世観瀧寺跡でも最重要な施設、本堂とかがあったのではないでしょうか。
礎石らしき石列や西側の石段などを見てもそんな雰囲気がしますし、本堂跡と思われる平坦地27に至るまでの3つの堀切や2つの曲輪みたいな平坦地など防御を意識した施設を配置していますし。
33中世観瀧寺跡東曲輪切岸








山側の東側の切岸。かなりの高さです。
34中世観瀧寺跡東端曲輪30








本堂跡と推定される平坦地27の上にもう一つ平坦地がありました。縄張図30の箇所。
きぼはさほどではありませんが、平坦地27を見下ろすこの平坦地は、かつて建っていた本堂などの重要施設を防御する役目だったのでしょうか。
今回の探索で新たに確認できた東側の遺構も相当な規模を持ち、本堂跡と推定される大規模平坦地、残された石段の跡そして土塁や堀切などを確認でき大きな成果となりました。
また、前回は確認できなかった堀切を新たに確認でき、城としての性格も持つ防御性のある寺院だったこともわかりました。目標の一つだった石塔類は見つかりませんでしたが、室町期に遡る遺物を多数発見し、間違いなく中世観瀧寺跡が少なくとも室町期までは存在し戦国末期に兵火で焼亡したという言い伝えの裏付けとなりました。
寺伝では天正13年に兵火で焼亡したとのことですが、その年はすでに豊臣秀吉が天下を統一した時代。丹波天田郡地域での兵火と言えば真っ先に明智光秀や丹波国人の赤井直正が思い浮かびますが、天正3年ならともかく天正13年でも戦はあったのでしょうか。
天正3年の間違いだった可能性も考えられるのですが、寺伝を信じれば残された国人たちが観瀧寺と呼応して籠城したかもしくは対立して結果焼亡したとも考えられますが、詳しい記録や古文書は一切ないため今となっては不明です。
ただ、遺構を確認したら明らかに城としての機能を持たせた防御施設があり、中世の多くの寺院でもあったように城も兼ねた寺院だったことは間違いなさそうです。
今回の探索でほぼ中世観瀧寺跡の寺域は確認できたかと思います。あとは尾根続きのの下って行った西側の麓に近い箇所の尾根が地形的に怪しい形をしており、中世観瀧寺跡の子院のあった可能性も捨てきれないので機会を見て踏査したいと思っています。
それにしても福知山市内でも最大規模とも思える有数の中世寺院跡、いや中世城郭と考えても市内有数の規模と思われる中世観瀧寺跡。この遺構が市教委や府教委に周知されておらず遺跡地図にも記載されていないのが。詳細な調査をして遺跡として認知されることを願っています。


※11/1追記
中世観瀧寺跡踏査後、丹波・丹後の中世山城や郷土史を踏査・研究している方々にレポートを報告し見ていただいた結果、もしかすると丹波志に記載のある未だ所在不明の「滝山城」でもあるのではないかとの一致した意見を頂きました。
寛政6(1794)年に編纂された「丹波志」の中に観瀧寺について以下の記載があります。
「瀧山 観瀧寺 真言宗 榎原村
高野山谷ノ上宝城院末寺 開山法道仙人 中興成遍法印 境内三十間ニ六十間除地 山林東西二丁半南北二丁半 千手観音堂三間ニ三間半 方丈五間七間 庫裡四間七間半 門二宇 郡巡礼十一番札所 薬師堂 地蔵堂 鎮守 土蔵 
古へ奥榎原ノ上ヘ滝山城ノ脇ノ地ニ在 後口榎原地移スト云」
丹波志にはかつての観瀧寺の脇には滝山城があったと記載されています。
滝山城については丹波志による記載はあるものの、どこにあったか具体的な場所は分かっていません。
ただ、今回探索し確認した中世観瀧寺跡の縄張を見ていると、堀切を境にして西側一帯は確かに城郭としての性格を持ち、東側一帯は礎石の残る広い平坦地と石段が残されています。
つまり、堀切を境にして東西の縄張にやや性格の違いがみられ、もしかすると東側一帯の区域が寺院、西側の一帯が城郭ではと考えることができます。
縄張図で説明いたしますと、
56816d14







こう推定できるのではないでしょうか。
ただ、滝山城推定地とした西側の一帯の縄張がもし本当に所在不明の滝山城だとすると、中世観瀧寺を防御するための砦、もしくは本来ここも中世観瀧寺の敷地ではあったが戦乱の時代に対応するため一部を城砦化したようにも感じられます。いずれにせよ、中世観瀧寺と無縁ではなかったはずです。
そのことは、この一帯の遺跡について地元では古寺跡との言い伝えはあるものの城跡との言い伝えは残されておりません。
中世観瀧寺は時代の流れとは言え、寺院の一角を城砦化もしくは寺院を防衛するための城砦を築き武装したがために攻められ滅ぼされたのではないでしょうか。
もし、この遺跡が中世観瀧寺跡並びに滝山城跡と確定、特に滝山城跡が確定されれば丹波志の記載以来200年あまり所在不明だった場所の発見という大きな成果と成りうるのですが。

※2017年5月2日に再踏査をし、新たな遺構を確認しましたので報告いたします。

中世観瀧寺跡縄張図2001









※今回初確認の遺構の位置。(前回踏査時に作成した縄張図に加筆。)
1年ぶりの訪問ではすでに確認済みの遺構の再確認とともに、新たな遺構が無いかを探索。
去年よりどことなく見通しが良くなったような感じの受ける中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)内にて、いくつかの大きな発見がありました。

曲輪7土塁側残存石垣1










まずは,鵬媾蠅砲導稜Г靴神仞僂漾わずかですが石積みであることが分かります。
この場所は去年確認した大土塁の北側の曲輪の土塁側の箇所。この箇所は南側の推定大手口に残る石積みやその周囲に散乱してる多数の石材を見るからに、かつては中央櫓台と思われる箇所とその周囲の曲輪は総石垣とまでは言えずともかなりの範囲に石積みが施されていた可能性が高いと思われます。

曲輪8残存石垣2










中央櫓台北の下への曲輪へと続く虎口の下にて確認した石積み。縄張図△硫媾蝓
こちらもわずかですが、明確な石積みです。
かつての中世観瀧寺跡(奥榎原滝山城跡)は中世から戦国期の福知山市内でも類を見ないくらいの範囲で石積みがされた城跡だったようです。しかし、この崩れ方を見るに自然崩落というより人為的に崩されたように見え、残念ながらかつての迫力ある姿は南側推定大手口の石積みにしか見られません。
当時は中世観瀧寺も含めた相当な勢力を誇っていたのでしょうが、この地に侵攻した明智光秀やその後を継いだ豊臣秀吉の配下により落城し大規模な破城が行われたのでしょう。

曲輪8北側曲輪(新確認)










△寮仞僂澆魍稜Г靴晋弩のある曲輪から何気なく下を覗いていると、規模の大きい曲輪を新たに発見。斜面がかなり急で下って行くことは困難な上に単独行動での無理な探索は危険を伴うと判断し上からの確認にとどめましたが、上からでも明らかに分かる平坦な地形と散乱する多くの石材。写真では写ってませんが、さらに奥にはもう1段曲輪らしき平坦地も確認できました。
さらに、写真は撮れませんでしたが、城域の西端の北面にも平坦地を確認。以上のことから、中世観瀧寺跡の範囲は当初確認したよりもさらに北方に城域が広がる可能性が高まってきました。まだまだ未確認の遺構が眠っていることに期待が高まってきました。
いずれ、複数人の専門の方とともに悉皆踏査を行いたいと思ってたり。

尾根上石積み










帰路は不動の滝側からではなく、西端の土塁から尾根を下る感じで帰還。
途中、尾根上に低い石積みが数か所あることを確認。中世観瀧寺跡との関連は不明ですが、一応報告しておきます。



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2016年05月03日

福知山市・中世観瀧寺跡 言い伝えの寺院跡の遺跡を初確認。

※mixiにて書いた日記をこちらに転載したものです。
レポートに書かれている内容や画像の転載は一切禁止します。

※5/21に再踏査をし、さらなる成果を得ました。詳細なレポはこちらをご覧ください。
福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院・中世観瀧寺跡の再踏査

福知山市奥榎原地区に観瀧寺という寺院があります。
福知山でも有数の古刹で福知山城の旧城門を移築していることでも知られていますが、
元々は瀧山という山の山中にあり戦国時代の兵火により全山焼失したため麓に下ったのが現在の観瀧寺と伝えられています。
私が中学生くらいの頃、今は亡き祖父が老人会で貰ってきた福知山市内の古老が書いた言い伝えなんかをまとめた一冊の本の中に中世観瀧寺跡の記載がありました。
地元の古老の話では奥榎原の山奥に不動尊を祀る滝があり、そこから登ったところにかつての寺の跡があり、今でも広い敷地が残っているという。
その記述を読んで別の集落ではありましたが実家からでもよく見える瀧山の高い山を眺め、その山中に眠るであろう言い伝えの寺院跡の遺跡に思いを馳せていました。
あれから20数年、中世山城跡巡りをするようになり、その中世観瀧寺跡への思いも強くなっていきました。
そして今回のGWを利用して確認の踏査にチャレンジしてみようと思い立ったわけです。

3中世観瀧寺跡遠景








中世観瀧寺跡の遠景。といっても大体の方向。
というのも、中世観瀧寺跡は地元の古老の言い伝えでしか情報がなく、市教委も府教委も遺跡を把握していません。
1中世観瀧寺跡観周辺図





京都府が公開している遺跡分布図。赤丸の範囲が中世観瀧寺跡の大体の位置ですが、(多分切れている尾根上の辺りが寺院跡の箇所。)そこには遺跡の記載がありません。
当然ネットで調べても具体的な情報なんて出てきません。
2中世観瀧寺跡天田郡誌資料










所有している昭和11年版の天田郡誌資料に観瀧寺の記載があります。
それによれば、開基は奈良時代の養老年間。奈良時代の宝亀元年(770)に勅願所となり以降は多くの僧坊や尼寺が建ち並び栄えたが、天正13年に兵火により全山焼失し現在の場所に下ったとあります。
中世観瀧寺跡へは前出の本と観瀧寺の寺伝のみ。あとは地元の古老への聞きこみくらいしか手掛かりは無し。
とりあえず目安となる不動尊の滝の場所を特定すべく奥榎原へ。公民館の駐車場をお借りして畑仕事をしていた老夫婦に声をかける。
「不動尊の滝ってどこですか?」「ああ、それなら・・・」「その近くに観瀧寺の跡があると聞いたのですが。」「あるよ。」「滝から50mくらい登ったところかな。」
これで、今まで伝聞でしか分からず実在が半信半疑だった中世観瀧寺跡が実在していることが確定しました。ありがとうございました。
4中世観瀧寺跡への道








教えられた道を進み山に入ると二差路にぶつかります。不動尊の滝と中世観瀧寺跡へは矢印の左方面へ進みます。ちなみに正面の斜面にはかつて存在した榎原鉱山の遺構や精錬後の鋼滓の山が残されていますがそれはまた別の機会に。
5中世観瀧寺跡への道








先ほどの分かれ道を進むと「不動尊の滝」と書かれた古い看板があり、その先の道をさらに進みますが、どんどん山の奥へと進んでいくので動物除けのベルやラジオは必須です。実際、向かっている最中に熊には会いませんでしたが鹿の群れには出会いました。また、途中写真のような沢を超えたりしますのでそれなりの装備は必要となります。
6中世観瀧寺跡への道








先ほどの沢を超えて細くなった道を進むと鎖の手すりがあります。ここまで来れば不動尊の滝まではもうすぐです。
7中世観瀧寺跡不動尊瀧








ようやく不動尊の滝に到着。思った以上に山の奥にあり、徒歩30分近くかかった気がします。
最初の案内板からここまで一切の看板も無くしかも途中道が荒れていたりして不安になりますが。
8中世観瀧寺跡説明版








置かれた古びた説明版。
話ではこの滝からずっと登ると寺院跡があると聞いたのですが、周りは切り立った急斜面で道のようなものは見当たらない。左の斜面を見るとうっすらと道らしき跡が。
・・・これを登るのか。
9中世観瀧寺跡下の急斜面








慎重に道を選びながら必死の思いで這うように斜面を登る。一歩間違えば10数mはありそうな斜面を転落することに。
10中世観瀧寺跡1








死にそうな思いで何とか登っていくと途中から多少道と呼べる跡が。それを辿って登り切ると、そこには思いもよらぬ広大な平坦地が。
2中世観瀧寺跡縄張図番号入り










念願の中世観瀧寺跡に到達したと確信しました。今まで伝聞という存在でしかなかった寺院跡の遺跡を実際に目の当たりにした時の感動。マジで鳥肌が立ちました。まさにパズーの「すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!」状態。
ここからは私の拙い見取り図をもとにレポをしていきます。なんせ周知の遺跡ではないし遺跡として認識できる人はほぼ訪れてないので縄張図なんてありませんし。
中世観瀧寺跡縄張図







※5/21の再踏査により縄張図を描き直しました。
写真は縄張図1の箇所。やや広めの曲輪のようになっていて、東側から細くなり土塁状となります。
11中世観瀧寺跡土塁前曲輪2








縄張図2の箇所から東方面を撮影。途中から細くなり土塁となっているのが分かります。
12中世観瀧寺跡基壇3








方形に作られた石組を発見。縄張図3の箇所。大きさ的に祠でしょうか。もしくは古墓。
13中世観瀧寺跡曲輪4








方形石組みのある平坦地を西の端から撮影。縄張図4の箇所。かなり広いです。
14中世観瀧寺跡西方面の曲輪を望む








4の地点から西方面の平坦地を望む。段状に平坦地が続きます。
15中世観瀧寺跡曲輪5








縄張図5の箇所の平坦地。こちらもかなりの規模があります。奥にこれから向かう土塁がうっすら見えています。
16中世観瀧寺跡曲輪切岸6








縄張図6の箇所の切岸。高低差は結構あり今でも鋭く切り立っています。
17中世観瀧寺跡曲輪東方面








6の切岸を下の平坦地から望む。
18中世観瀧寺跡大土塁7








その平坦地内にある大土塁。縄張図7の箇所。かなりの大きさを誇ります。幅と言い高さと言い福知山市内の周知の中世城郭でも見かけないくらいの規模です。
19中世観瀧寺跡大土塁下曲輪8








大土塁の下には平坦地が続きます。縄張図8の箇所。土塁に沿って延びる平坦地は長く広い。
20中世観瀧寺跡大土塁








大土塁の別カット。長く続く土塁がお判りでしょうか。
21中世観瀧寺跡礎石か








平坦地には礎石らしき石もありました。他の平坦地でもいくつか見つけたのでまだ埋もれていることでしょう。
22中世観瀧寺跡大土塁東方面








同じ大土塁を逆の東方面を望む形で撮影。
23中世観瀧寺跡土壇曲輪








縄張図9の箇所の土壇状の平坦地。
24中世観瀧寺跡土壇曲輪9








9の平坦地の上から撮影。周りより高くなっており、お堂か何かがあったのでしょうか。
25中世観瀧寺跡土壇曲輪東方面








9の平坦地から東方面を撮影。
26中世観瀧寺跡西端曲輪








寺院跡の西端の平坦地。縄張図10の箇所。奥には土塁状の高まりがあります。
27中世観瀧寺跡西端土塁か








西端の土塁状の高まりは岩盤が露出していました。縄張図11の箇所。
28中世観瀧寺跡腰曲輪12








戻って9の平坦地の北側の腰曲輪のような平坦地を観察。縄張図12の箇所。
北側にはいくつかの小さい平坦地を確認しました。
29中世観瀧寺跡虎口石列13








方形石組みのある3の平坦地の北側に虎口のようなくぼみがありました。縄張図13の箇所。
寺院跡側には石列もあり、出入り口だったのは間違いありません。
30中世観瀧寺跡北側下段腰曲輪14








写真がブレていて申し訳ないですが、13の虎口の下に広い平坦地がありました。縄張図14の箇所。というのもこの辺りから天候が怪しくなり風も強くなってきてろくに道もない場所への初到達ということもあり不安になってきたのもあって焦ってました。
本当はこの下の平坦地も踏査したかったのですが、そういった事情で見送ることに。
どうやら北側一帯には他にも遺構がある可能性があります。
31中世観瀧寺跡崩落石垣15








中世観瀧寺跡は石垣が多用されていたようで、所々崩落した跡があります。縄張図15の箇所。
32中世観瀧寺跡崩落石垣








崩落石垣のアップ。裏込めらしき礫も見えます。
33中世観瀧寺跡土塁北側曲輪散乱石材16








石垣らしき石材が散乱している平坦地。縄張図16の箇所。右に見える切岸は2の大土塁。
この土塁は先までは踏査してませんがずっと東まで伸びてました。
34中世観瀧寺跡土塁北側曲輪17








石材が散乱している平坦地。縄張図17の箇所。こちらもかなりの規模があります。
35中世観瀧寺跡南側石垣








中世観瀧寺跡が石垣を持つ寺院だったことを証明する遺構。戻るときに見つけたものですが、立派な石垣が残されていて驚きました。縄張図18の箇所。中世以前の福知山市内の遺跡でここまでの規模の石垣を持つ遺跡は見たことがありません。
今回初到達ということと、天候の悪化で確認できなかった箇所や写真もしっかり撮れなかった十分な踏査とは言えない結果になりましたが、今まで地元の人からの伝聞でしか存在を知らず、市教委も府教委も周知していない自分の中では伝説の存在だったある意味幻と言ってもいい寺院跡の大規模な遺跡を発見することができ、感動いたしました。しかし、福知山市内でも有数ともいえる中世寺院の遺跡、これほどの遺跡が公的機関が周知していないのは驚きです。いずれしかるべき機関に報告はしようかと思います。そして、改めて悉皆踏査を試みたいと思っております。
次は他の石垣や石塔類の残欠や古墓が見つかれば大きな成果となるでしょう。


besan2005 at 22:21|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2009年01月17日

幻の寺院

案内板

 

 

 

 

 

 

このあいだ休止宣言したばかりですが、
書きたいことができたので、今回だけ再開。
京都府木津川市で発見された幻の寺「神雄寺」の
馬場南遺跡の現地説明会へ行ってきました。

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besan2005 at 22:54|PermalinkComments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2008年08月31日

永遠に(?)議論の続く古代ロマン

黒塚古墳の月光仮面

 

 

 

今回は歴史の話。
というのも、ちょっと気になる記事が。

「卑弥呼の墓」に60〜70メートル幅の濠 箸墓古墳

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besan2005 at 20:38|PermalinkComments(3) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2007年11月23日

春日大社の石燈籠が何気にすごい。

春日大社参道

 

 

 


3連休の初日、ちょっと気晴らしに奈良に行きました。
京都からなら近鉄で1時間。結構近いです。
興福寺や東大寺など定番の場所は巡りますが、
必ず立ち寄るのが春日大社。それも石燈籠のある参道です。
それには理由があるんです。
その理由とは、建ち並ぶ石燈籠に刻まれた年号のこと。

 

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besan2005 at 19:22|PermalinkComments(8) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2007年09月04日

やぁ、これはカワイイ須恵器ですね。

昨日のニュースでとても気になるニュースがありました。

猫の足跡が付いた須恵器発見

なんと、猫の足跡つきとは!?続きを読む

besan2005 at 21:16|PermalinkComments(5) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2007年09月02日

太古の石器

石器1

 

 

 


懐畦泥鰌さんのところに、以前カザのお礼にと
縄文石斧を一つ進呈したのですが、
物凄い丁重な扱いを受けてまして、恐縮しまくりです。
そこで、私の持つ石器も紹介してみます。

上の写真は磨製石斧2点。左が縄文時代で
右が弥生時代のもの。砂岩製。
どちらも頂き物です。
どちらも磨製石斧ですが、違いが分かるでしょうか。
石器2

 

 



弥生時代の磨製石斧は、「蛤刃石斧」と呼ばれることがあります。
この写真はそれぞれの石斧をサイドから見たものですが、
左の縄文石斧が先端に向かうにつれ
全体的に少しずつ細くなるのに対し、
右の弥生時代の石斧は先端直前で上面と下面のみ角度をつけて
刃先を作ってます。
この刃先の形が蛤が口を閉じた形に
似ているので蛤刃石斧と呼ばれているのです。
縄文でも弥生でも石斧の先端はツルツルになっています。
「使用痕」と呼ばれるもので、実際に使用していた証しです。
石斧といえば、マンガみたいに木の棒に括りつけて木を切る
イメージがありますが、それだけでなく、手に持って土を掘ったりも
していたようです。
石器3






左から縄文の磨製石鏃・弥生の石包丁・縄文の打製石鏃。
学生の時に骨董市で買ったものです。
磨製石鏃と石包丁は粘板岩製。打製石鏃はサヌカイト製。
打製は整形痕が残っています。
石包丁は稲の穂を収穫するためと学校で習いますよね。
ヒモを通す穴が開いています。
しかし、稲作自体は縄文後期〜末期には始まっているというのが
定説になってますので、縄文にはすでにこういった道具が
存在した可能性があります。
(さらには、縄文前期の遺跡からイネの
プラントオパールが見つかっているそうで、
イネ自体はかなり早くから存在していた可能性もあります)



besan2005 at 21:07|PermalinkComments(4) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2007年07月29日

大正時代の遺跡発掘記事

大正時代の遺跡発掘記事

 


*古写真・古絵葉書展示室ブログからの相互記事です。

考古学ブームの続く昨今、連日のように遺跡発掘の記事が新聞に載りますが、
大正時代にも遺跡発掘の記事が載ることがありました。
私が所有する大正2年2月の神戸新聞から紹介してみます。
*画像をクリックすると大きくなります。

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besan2005 at 22:05|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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