遺跡
2025年05月06日
福知山市・六十内古墓(六十内廃寺跡)探索レポ日記


京都府福知山市の六十内地区に中世墓が残されています。福知山市遺跡地図および京都府遺跡地図では「六十内古墓」として記載されている既知の遺跡ですが、30年ほど前に叔父の案内で訪れて以来今日まで再訪することが無く、さらに六十内古墓への行き方も完全に忘れていたため、再び叔父の案内で六十内古墓の探索を行うこととしました。



30年前に探索した際の六十内古墓の写真。実は今から5年前に単独で再探索を試みましたが、完全に六十内古墓への行き方を忘れてしまい、断念していました。今回は再度叔父の案内で向かいました。

約30年ぶりに訪れた六十内古墓。そこには当時のまま確かに石塔群が存在してました。

六十内古墓は宝篋印塔1基と五輪塔2基、そして五輪塔の残欠が数点残されています。
宝篋印塔および五輪塔は室町時代前期〜中期頃のものと思われます。

宝篋印塔は基壇の上に立ち、移築されたものではなく、建立された当時のままと思われ、おそらく宝篋印塔の下には今でも被葬者を納めた蔵骨器である壷か甕が埋納されているものと思われます。
宝篋印塔は相輪も外された状態で置かれており、再び笠部に乗せて完全な形に復元することが可能です。


30年前に撮影したアングルとほぼ同じ方向で撮影。
30年前の写真と比較すると、宝篋印塔に乗せられた相輪の残欠が外され(五輪塔の傍らに置かれている)、一番右側の五輪塔の空風輪も外されている一方、真ん中の五輪塔は水輪(丸い石)が乗せられて元の姿に戻されています。散らばっていた五輪塔の空風輪も集められ、30年前は無かった宝篋印塔の相輪が新たに見つけ出されたのか宝篋印塔の傍らに置かれています。叔父の話では年に1回に参拝のために手入れをしている人がいるらしく、その際に整理された可能性があります。他の変化として、右側の杉が30年の時を経て大きくなっていること、また、手入れのためか鹿の捕食によるものか30年前と比べて下草がまったく無くなり見やすくなっています。

六十内古墓の背後は斜面を削り整地した痕が見られます。
また、その傍には円形状に礫が積まれたマウンドが確認できます。集石墓の可能性があります。

福知山市及び京都府の遺跡地図には六十内古墓としか記載されていませせんが、古墓の周囲には明らかに建物を建てるための平坦地が3段ほどあり、礎石と思われる石も見つけました。六十内地区でもここは寺の跡という言い伝えがあり、六十内古墓は室町時代まで存在した六十内廃寺跡(仮称)に伴う墓地だったと思われます。

ところで、六十内地区の背後の山には六十内城跡という中世山城があることが遺跡地図に記載されています。六十内城跡は遺跡地図では六十内古墓の南東の山上に記されていますが、叔父の話や六十内地区では六十内古墓のやや南東の山上に「片山城」という名の城があり、六十内古墓のある廃寺は「片山城」の城主に関わる寺だったと言い伝えられています。
この「片山城」があったとされている位置は、遺跡地図には何も記されていませんが、最近京都府エリアが公開されたCS立体図を確認すると、城跡らしき段状の地形が確認でき、過去に実際に登った叔父の話では、いくつもの平坦面や堀切と思われる切通し状の掘り込みがあったとのこと。以上の点を踏まえると、まだ未確認の中世山城である「片山城」が存在し、それこそが六十内地区を治めていた領主の本城だった可能性が出てきます。いずれにしろ現地にて踏査確認する必要がありそうです。

六十内古墓のある廃寺跡に関しては文献等の記録が一切なく、寺院名を初め寺伝や廃絶時期など一切不明です。唯一残されている六十内古墓の石塔を見ると、室町前期〜中期頃と考えられ、兵火によるものか何かの理由で戦国期までには廃絶した可能性があります。天田郡内での中世寺院の廃絶となると、明智光秀の侵攻によるものが頭に浮かびますが、もしかするとそれ以前の赤井直正による天田郡侵攻による廃絶まで遡るかもしれません。少なくとも江戸時代には完全に寺は失われ、かつての境内だった平坦地の一部は耕作地として利用され、石塔群のある六十内古墓の一帯だけは供養のため残されたものと考えられるのかもしれません。
六十内古墓は特に宝篋印塔が建てられた600年ほど前そのままの姿で現代まで伝えられており、廃寺跡と共に地方の小集落に伝わる、中世の姿を留める貴重な中世墓および中世寺院の遺構と評価できそうです。
京都府与謝野町の中世墓遺跡群レポ日記(福井遺跡)
京都府与謝野町には鎌倉時代〜室町時代にかけて造営された大規模な中世墓の遺跡群が2か所残されています。その中世墓群の2つ、幾地地区の地蔵山遺跡と後野地区の福井遺跡を訪ねてみました。
この記事は後野地区にある福井遺跡の探索レポ日記となります。
※地蔵山遺跡の探索レポ日記はこちら。

福井遺跡は後野地区にある西光寺の裏山に位置する大規模中世墓群です。


西光寺の境内には、応永16年の銘がある板碑があります。

その西光寺の背後に鎌倉時代〜室町時代にかけて造られた中世墓群である福井遺跡があります。


山の斜面にずらりと一列に並ぶ五輪塔群や石仏群は圧巻です。

福井遺跡は大小53段の平坦地を造り、そこに墓を造っています。

最上段には3基の五輪塔が残されています。

福井遺跡は過去に発掘調査が行われ、その後整備されています。

福井遺跡は多数の五輪塔や石仏が並ぶ大規模中世墓群ですが、地蔵山遺跡と異なり、石造物の種類は五輪塔と石仏の2種類のみです。また、区画溝を掘り、基壇を設けている地蔵山遺跡の中世墓と違い、墓の造りも簡素に見えます。地蔵山遺跡の埋葬者よりやや庶民に近い人物が埋葬された中世墓群なのでしょうか。その福井遺跡も鎌倉時代〜室町時代中期までは五輪塔を墓塔として建て、室町時代後期からは一般の庶民まで広がったのか、五輪塔より安価な小石仏を墓塔とした中世墓が建てられるようになったと思われます。
この記事は後野地区にある福井遺跡の探索レポ日記となります。
※地蔵山遺跡の探索レポ日記はこちら。

福井遺跡は後野地区にある西光寺の裏山に位置する大規模中世墓群です。


西光寺の境内には、応永16年の銘がある板碑があります。

その西光寺の背後に鎌倉時代〜室町時代にかけて造られた中世墓群である福井遺跡があります。


山の斜面にずらりと一列に並ぶ五輪塔群や石仏群は圧巻です。

福井遺跡は大小53段の平坦地を造り、そこに墓を造っています。

最上段には3基の五輪塔が残されています。

福井遺跡は過去に発掘調査が行われ、その後整備されています。

福井遺跡は多数の五輪塔や石仏が並ぶ大規模中世墓群ですが、地蔵山遺跡と異なり、石造物の種類は五輪塔と石仏の2種類のみです。また、区画溝を掘り、基壇を設けている地蔵山遺跡の中世墓と違い、墓の造りも簡素に見えます。地蔵山遺跡の埋葬者よりやや庶民に近い人物が埋葬された中世墓群なのでしょうか。その福井遺跡も鎌倉時代〜室町時代中期までは五輪塔を墓塔として建て、室町時代後期からは一般の庶民まで広がったのか、五輪塔より安価な小石仏を墓塔とした中世墓が建てられるようになったと思われます。
京都府与謝野町の中世墓遺跡群レポ日記(地蔵山遺跡)
京都府与謝野町には鎌倉時代〜室町時代にかけて造営された大規模な中世墓の遺跡群が2か所残されています。その中世墓群の2つ、幾地地区の地蔵山遺跡と後野地区の福井遺跡を訪ねてみました。
この記事は幾地地区にある地蔵山遺跡の探索レポ日記となります。
※福井遺跡の探索レポ日記はこちら。

地蔵山遺跡は幾地地区の南側の丘陵端、集落を見下ろす場所に位置し、東西約250m、南北約200mの規模を持つ中世墓群です。
平成16年の確認調査では、五輪塔・宝篋印塔・石仏・板碑など計382基の石造物が確認されています。

地蔵山遺跡の説明板。地蔵山遺跡は鎌倉時代初期から江戸時代初期まで造営された墓地ですが、石造物のほとんどは室町時代の物のようです。

最下段の墓域。敷地はかなり広いですが、石造物の数はまばらです。

五輪塔と石仏がセットのような形でいくつかの場所に配置されています。
背後には室町時代末期〜江戸時代初期の一石五輪塔が見えます。

室町時代後期頃の五輪塔。

最下段から登っていくと、そこからは地蔵山遺跡の中心と言える中世墓群が広がります。
墓域はいくつかの小さな段を造り、そこに墓を造り石塔や石仏を建てています。

墓域に建ち並ぶ五輪塔群。

各中世墓は堀状の区画溝を掘り、墓としています。

所狭しと並ぶ五輪塔や石仏は圧巻。

こちらの中世墓は石組で区画を造り、五輪塔や石仏を建てています。今の墓地とそう変わらない造りです。

五輪塔を陽刻した板碑。

文明28年の銘のある宝篋印塔。

もう一つの宝篋印塔。地蔵山遺跡では宝篋印塔は2基のみであり、文明28年の宝篋印塔には「一結十五人」の文字もあることから、墓石というより、供養塔のような目的で建てられたのかもしれません。

地蔵山遺跡の中世墓は、このように区画溝を掘り土を盛り上げ、基壇となる石を積み上げ、その上に石塔を建てる餓鬼草紙に描かれた墓そのままの当時のままの姿が保たれており、中世墓の遺跡として大変貴重です。


地蔵山遺跡には石塔を建ててない(失われた)墓、集石墓や石塚もあります。

また、自然石に円形の孔を穿ったものもありました。建物の礎石にも思えましたが、これ1つのみであり、そもそも建物を建てられるようなスペースも無いことから、

餓鬼草紙にも描かれた木製の卒塔婆を建てるための台石ではないかと思いました。

地蔵山遺跡の最高所には自然石を墓塔とした中世墓がありました。大きめの自然石の墓塔を中心として左右に石仏を配置したこの墓は、三尊像を意識したものでしょうか。

地蔵山遺跡は、幾地地区を見下ろす位置に築かれた大規模中世墓群です。地蔵山遺跡は中世の村の墓地の雰囲気を実感できる貴重な中世墓遺跡群でした。
次は後野地区の福井遺跡を訪ねます。
この記事は幾地地区にある地蔵山遺跡の探索レポ日記となります。
※福井遺跡の探索レポ日記はこちら。

地蔵山遺跡は幾地地区の南側の丘陵端、集落を見下ろす場所に位置し、東西約250m、南北約200mの規模を持つ中世墓群です。
平成16年の確認調査では、五輪塔・宝篋印塔・石仏・板碑など計382基の石造物が確認されています。

地蔵山遺跡の説明板。地蔵山遺跡は鎌倉時代初期から江戸時代初期まで造営された墓地ですが、石造物のほとんどは室町時代の物のようです。

最下段の墓域。敷地はかなり広いですが、石造物の数はまばらです。

五輪塔と石仏がセットのような形でいくつかの場所に配置されています。
背後には室町時代末期〜江戸時代初期の一石五輪塔が見えます。

室町時代後期頃の五輪塔。

最下段から登っていくと、そこからは地蔵山遺跡の中心と言える中世墓群が広がります。
墓域はいくつかの小さな段を造り、そこに墓を造り石塔や石仏を建てています。

墓域に建ち並ぶ五輪塔群。

各中世墓は堀状の区画溝を掘り、墓としています。

所狭しと並ぶ五輪塔や石仏は圧巻。

こちらの中世墓は石組で区画を造り、五輪塔や石仏を建てています。今の墓地とそう変わらない造りです。

五輪塔を陽刻した板碑。

文明28年の銘のある宝篋印塔。

もう一つの宝篋印塔。地蔵山遺跡では宝篋印塔は2基のみであり、文明28年の宝篋印塔には「一結十五人」の文字もあることから、墓石というより、供養塔のような目的で建てられたのかもしれません。

地蔵山遺跡の中世墓は、このように区画溝を掘り土を盛り上げ、基壇となる石を積み上げ、その上に石塔を建てる餓鬼草紙に描かれた墓そのままの当時のままの姿が保たれており、中世墓の遺跡として大変貴重です。


地蔵山遺跡には石塔を建ててない(失われた)墓、集石墓や石塚もあります。

また、自然石に円形の孔を穿ったものもありました。建物の礎石にも思えましたが、これ1つのみであり、そもそも建物を建てられるようなスペースも無いことから、

餓鬼草紙にも描かれた木製の卒塔婆を建てるための台石ではないかと思いました。

地蔵山遺跡の最高所には自然石を墓塔とした中世墓がありました。大きめの自然石の墓塔を中心として左右に石仏を配置したこの墓は、三尊像を意識したものでしょうか。

地蔵山遺跡は、幾地地区を見下ろす位置に築かれた大規模中世墓群です。地蔵山遺跡は中世の村の墓地の雰囲気を実感できる貴重な中世墓遺跡群でした。
次は後野地区の福井遺跡を訪ねます。
2024年03月24日
富雄丸山古墳・造り出し部埋葬施設出土木棺等現地説明会レポ日記

去年、国宝級の発見と言われた鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡と東アジアでも最大級の蛇行剣が出土した富雄丸山古墳の造り出し部の埋葬施設。その埋葬施設内部の発掘調査が行われ、木棺や銅鏡、竪櫛などが出土し、3/17に現地説明会が行われたので行ってきました。
写真は盾形銅鏡と蛇行剣が出土した状態の去年の写真で、木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨と言います)の上に置かれていました。
※去年参加した富雄丸山古墳の現地説明会レポ日記

今回の富雄丸山古墳の現地説明会は、16日午後と17日に開催されれ、16日には3000人くらい訪れたと聞き、10時からの開始予定でしたが、8時に到着。古墳の近くには新たな案内板が設置されていました。看板が富雄丸山古墳の形で、矢印が蛇行剣w ちなみにもう一つ、鼉龍文盾形銅鏡の形をした案内板も設置されているようです。

8時に到着しましたが、誰もおらず。8時30分くらいから列が出来始め、1時間早めた9時から県が゛区開始となりました。

発掘された埋葬施設。埋葬施設の上には屋根がかけられ、その中を通路を歩きながら見学する感じでした。

しかし、1番乗りだった私はまだそんなに多くの人がいなかったため、じっくりと見学することができました。

埋葬施設全体。出土した木棺は非常に保存状態が良く驚きました。粘土槨の上に乗せられていた盾形銅鏡と蛇行剣から溶け出した金属イオンが作用して、木棺の腐食を防いだそうですが、古墳の木棺は大抵残っていないため、当時の木棺の姿を伝える貴重な発見です。木棺は割竹形木棺。木棺本体はコウヤマキで作られ、小口板はスギで作られています。

木棺の南東側には銅鏡が3枚重ねられて埋葬されていました。

銅鏡をアップで撮影してみました。表面(鏡面)を上にしているので文様はまだ不明ですが、縁の感じを見ると、三角縁というより平縁に見えます。当時日本にも多く伝わった漢式の内行花文鏡かなと思ってます。しかし、アップにすると益々木棺の保存状態の良さに驚きます。

木棺内に残された水銀朱。当時、朱の赤色は魔除けの意味合いがあり、古墳に埋葬された木棺や石棺の内部に塗られていました。水銀朱は金属なので、1700年以上経った現在でも鮮やかにその朱の色が残されています。ちなみに、竪櫛も9個ほど埋葬されていたそうですが、保存のために取り上げられていました。
さて、この造り出し部に埋葬された人物はどのような人だったのか。棺内に剣や刀、鏃などの武具が埋葬されていないこと、竪櫛が埋葬されていることから、被葬者は女性ではとの見方がされています。富雄丸山古墳の主である墳頂部に埋葬された人物の姉か妹ではとの説もあるようですが、それにしては副葬品が質素に見えます。それこそ首飾りである玉類とかあってもおかしくはないと思いますが、一切ないのが。私は富雄丸山古墳の主に仕えていた側近的な人物で、巫女的な存在だったのではと考えてます。棺外に置かれた盾形銅鏡と蛇行剣は主を守る魔除けの意味があったのではと。あくまで私の推測ですが。

1巡したあともう1度見たくなって2巡。その際にスマホにある3Dモデルが作成できるアプリを試してみることに。流れに沿って連続写真を撮るだけで簡単に3Dモデルが出来ました。便利な時代になりましたね。

2巡目を終えて富雄丸山古墳を後にした直後に見学者が一気に増えたようで40分待ちとかになったようです。やはり早めに来てよかった。
富雄丸山古墳の調査はまだ続くようなので、今後どんな発見があるのか楽しみですね。
※今回の富雄丸山古墳の現地説明会資料のPDFはこちらからDLできます。
2023年01月29日
富雄丸山古墳・現地見学会レポ日記

造り出し部分の埋葬施設から国宝級の発見があったと大きく報道された、奈良市にある富雄丸山古墳の現地見学会に行ってきました。
富雄丸山古墳は4世紀後半に築造された径109mの国内最大の円墳です。明治時代に墳頂部にある埋葬施設が盗掘され(出土したとされる副葬品は京都国立博物館が所蔵。国指定重要文化財)、昭和47年に埋葬施設が発掘調査されています。今回大発見があった場所は墳丘の裾に近い造り出しの部分から見つかった埋葬施設。ここから国内でも例を見ない盾形銅鏡と巨大な蛇行剣が見つかりました。
国宝級の発見と言われる盾形銅鏡と日本最大の蛇行剣はメディアにも注目され、続々と報道されまし
た。
盾形銅鏡と蛇行剣は保存処理中のため見れませんが、発掘現場の公開が28日と29日に行われ、28日は1400人、29日は3100人余りが見学に来たとか。さすがに注目されています。
私も29日の午前中に富雄丸山古墳の現地見学会に参加してきました。

一般公開の開始時間の1時間前である9時に到着。すでに40人くらい並んでいました。

受付の机に置かれていた盾形銅鏡の実物大パネル。

実際見ると大きく感じます。

蛇行剣の実物大パネル。237cmの国内最大の蛇行剣は実際見るとめちゃデカい。

出土した円筒埴輪。こちらは実物。

富雄丸山古墳の説明板。史跡指定はされていませんが、国内最大の円墳という事で周囲は公園化され保存されています。今回の発見で史跡指定される可能性は十分あります。

いよいよ、発掘現場の富雄丸山古墳へ。遠くに見えるのが富雄丸山古墳です。

墳丘裾部の葺石。

墳丘裾部の円筒埴輪列と葺石。かつては巨大な円墳の全体を葺石で覆い、円筒埴輪を巡らせていました。

U調査区。ここでも大きな発見がありました。

U調査区の鰭付円筒埴輪。そして・・・

湧水施設形埴輪。井戸のような湧水施設を模した埴輪だそうですが、こんな埴輪見たこと無い。

盾形銅鏡と巨大蛇行剣ばかりに注目が行ってますが、この湧水施設形埴輪も大発見。

墳頂部。かつてはここに富雄丸山古墳の主の埋葬施設がありましたが、明治時代に盗掘されました。一部の出土品は京都国立博物館に所蔵され国指定重要文化財となってますが、もし盗掘されていなければどれだけの発見があったのだろうと思うと残念ですね。

そしてこれが今回、盾形銅鏡と国内最大の蛇行剣が出土した造り出し部分の埋葬施設。
粘土槨(ねんどかく)という木棺を粘土で覆った形の埋葬施設です。

粘土槨には盾形銅鏡と蛇行剣の実物大パネルが置かれていました。

現地見学会資料にある出土状況の写真。こんなの出てきたらビックリしますわ。
ちなみに盾形銅鏡と蛇行剣は粘土槨の外側から出土したもので、粘土槨の内部はまだ発掘されていません。これから調査されるとのことで、どんな発見があるか楽しみです。

こちらは2号墳。横穴式石室墳なので、6世紀代まで時代が下ります。

3号墳は盗掘されているようです。

見学を終えた10時ごろには見学者もだいぶ増えてきました。

NHKの取材班も。いずれNスぺで特集して欲しい。
富雄丸山古墳の現地見学会は貴重な発見のあった場所を感じさせるまたとない体験となりました。
今後、粘土槨の調査、そして盾形銅鏡と蛇行剣の一般公開に期待したいですね。
2018年02月02日
城跡探索記録・攻城レポ日記のリンク集
元々城好きが高じて2013年くらいから中世山城跡を中心に探訪を続けてます。
攻城レポ日記という名の訪城レポートを書きだしたのは2014年頃から。以来訪城した城跡はこまめに日記を書いてます。
ただ、書いている日記はmixiの日記。「みんなの日記」というmixiに登録しなくても誰でも閲覧できる公開にしてますが、ライブドアのこちらでも公開したいと思うようになりました。
ただ、これまで書いた攻城レポ日記は割と量が溜まっており、こちらへの転載も結構手間なのでこのたびmixiにて書いたこれまでの攻城レポ日記のリンクを張ることにしました。
今後、mixi内で書いたレポ日記はこちらにもリンクを張ることにしますのでよろしくお願いいします。
※mixiの日記ではありますが閲覧だけなら登録していなくても誰でも見ることができます。ただし、コメントは登録していないとつけることはできませんので、何か気になることがありましたらこちらのコメント欄にお願いします。
色の違う城名をクリックしたら、レポ日記が開きます。リンクの無いものは訪城はしたが日記は書いてないものです。
攻城レポ日記という名の訪城レポートを書きだしたのは2014年頃から。以来訪城した城跡はこまめに日記を書いてます。
ただ、書いている日記はmixiの日記。「みんなの日記」というmixiに登録しなくても誰でも閲覧できる公開にしてますが、ライブドアのこちらでも公開したいと思うようになりました。
ただ、これまで書いた攻城レポ日記は割と量が溜まっており、こちらへの転載も結構手間なのでこのたびmixiにて書いたこれまでの攻城レポ日記のリンクを張ることにしました。
今後、mixi内で書いたレポ日記はこちらにもリンクを張ることにしますのでよろしくお願いいします。
※mixiの日記ではありますが閲覧だけなら登録していなくても誰でも見ることができます。ただし、コメントは登録していないとつけることはできませんので、何か気になることがありましたらこちらのコメント欄にお願いします。
色の違う城名をクリックしたら、レポ日記が開きます。リンクの無いものは訪城はしたが日記は書いてないものです。
〇6月14日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇9月14日 兵庫県丹波市 黒井城跡
〇10月18日 丹波八木城跡(再訪)・京都府京丹波町 須知城跡(再訪)
〇11月23日 兵庫県養父市 但馬八木城跡
〇2月20日 京都府京都市右京区 周山城跡
〇3月26日 京都府南丹市 小山城跡
〇4月21日 滋賀県愛荘町 金剛輪寺
〇4月25日 兵庫県篠山市 丹波八上城跡
〇5月6日 兵庫県豊岡市出石 有子山城跡
〇12月30日 京都府綾部市 位田城跡・京都府福知山市 石原城跡
〇1月9日 奈良県大和郡山市 大和郡山城
〇1月10日 京都府亀岡市宮前町 神尾山城跡
〇2月13日 京都府南丹市宍人 宍人城跡
〇2月19日 京都府亀岡市 丹波亀山城惣構遺構
〇2月25日・26日 奈良県宇陀松山市 宇陀松山城跡
〇2月27日 京都府南丹市日吉町 塩貝城跡
〇3月20日 滋賀県東近江市 観音寺城跡
〇3月26日 滋賀県近江八幡市 八幡山城・北之庄城・秀次居館跡・西出城転用石石垣
〇4月16日 京丹波町須知 須知城跡
〇5月1日 京都府福知山市 医王寺跡・新庄城跡
〇5月2日 京都府福知山市 鬼ヶ城跡
〇5月3日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡
〇5月21日 京都府福知山市奥榎原 中世観瀧寺跡再踏査
〇6月11日 京都市一乗寺・渡辺館
〇6月18日 京都府南丹市 丹波八木城跡
〇6月25日 兵庫県丹波市柏原町 柏原陣屋跡
〇8月20日 京都府京丹波町 上野城跡
〇8月27日 京都府南丹市美山町 島城跡
〇9月16日 滋賀県多賀町 敏満寺城跡
〇9月24日 滋賀県彦根市 佐和山城跡・彦根城
〇10月29日 京都府南丹市美山町 旧歓楽寺跡
〇11月4日 高槻市芥川山城
〇11月5日 京都府南丹市 黒田城跡
〇11月12日 兵庫県丹波市春日町 黒井城の雲海
〇12月3日 兵庫県篠山市 籾井城跡
〇12月16日 滋賀県愛荘町 目賀田城
〇12月24日 滋賀県近江八幡市安土町 安土城跡

※2017年
〇1月1日 京都府福知山市山崎 山崎城跡
〇1月7日 京都府南丹市園部町 埴生城跡
〇2月4日 京都府京丹波町 中畑城跡
〇2月4日 京都府南丹市日吉町 亀田城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 東胡麻城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 野化館跡
〇3月12日 京都府亀岡市 保津城跡
〇3月18日 京都府亀岡市 千軒寺跡(数掛山城跡下)
〇3月19日 京都府亀岡市 余部城(丸岡城)跡
〇3月20日 京都府亀岡市 穴太城跡
〇4月3日 京都府亀岡市 猪倉城跡
〇4月8日 京都府南丹市 丹波八木城西支城・内藤法雲曲輪
〇5月2日 京都府綾部市 高津八幡山城跡 段山城跡 将監城跡

※2017年
〇1月1日 京都府福知山市山崎 山崎城跡
〇1月7日 京都府南丹市園部町 埴生城跡
〇2月4日 京都府京丹波町 中畑城跡
〇2月4日 京都府南丹市日吉町 亀田城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 東胡麻城跡
〇3月5日 京都府南丹市日吉町 野化館跡
〇3月12日 京都府亀岡市 保津城跡
〇3月18日 京都府亀岡市 千軒寺跡(数掛山城跡下)
〇3月19日 京都府亀岡市 余部城(丸岡城)跡
〇3月20日 京都府亀岡市 穴太城跡
〇4月3日 京都府亀岡市 猪倉城跡
〇4月8日 京都府南丹市 丹波八木城西支城・内藤法雲曲輪
〇5月2日 京都府綾部市 高津八幡山城跡 段山城跡 将監城跡
2016年05月03日
福知山市・滝山城(中世観瀧寺)跡 言い伝えの寺院跡の遺跡を初確認。
※mixiにて書いた日記をこちらに転載したものです。
レポートに書かれている内容や画像の転載は一切禁止します。
※5/21に再踏査をし、さらなる成果を得ました。詳細なレポはこちらをご覧ください。
福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院・中世観瀧寺跡の再踏査
レポートに書かれている内容や画像の転載は一切禁止します。
※5/21に再踏査をし、さらなる成果を得ました。詳細なレポはこちらをご覧ください。
福知山市にある言い伝えの大規模中世寺院・中世観瀧寺跡の再踏査
福知山市奥榎原地区に観瀧寺という寺院があります。
福知山でも有数の古刹で福知山城の旧城門を移築していることでも知られていますが、
元々は瀧山という山の山中にあり戦国時代の兵火により全山焼失したため麓に下ったのが現在の観瀧寺と伝えられています。
私が中学生くらいの頃、今は亡き祖父が老人会で貰ってきた福知山市内の古老が書いた言い伝えなんかをまとめた一冊の本の中に中世観瀧寺跡の記載がありました。
地元の古老の話では奥榎原の山奥に不動尊を祀る滝があり、そこから登ったところにかつての寺の跡があり、今でも広い敷地が残っているという。
その記述を読んで別の集落ではありましたが実家からでもよく見える瀧山の高い山を眺め、その山中に眠るであろう言い伝えの寺院跡の遺跡に思いを馳せていました。
あれから20数年、中世山城跡巡りをするようになり、その中世観瀧寺跡への思いも強くなっていきました。
そして今回のGWを利用して確認の踏査にチャレンジしてみようと思い立ったわけです。

中世観瀧寺跡の遠景。といっても大体の方向。
というのも、中世観瀧寺跡は地元の古老の言い伝えでしか情報がなく、市教委も府教委も遺跡を把握していません。

京都府が公開している遺跡分布図。赤丸の範囲が中世観瀧寺跡の大体の位置ですが、(多分切れている尾根上の辺りが寺院跡の箇所。)そこには遺跡の記載がありません。
当然ネットで調べても具体的な情報なんて出てきません。

所有している昭和11年版の天田郡誌資料に観瀧寺の記載があります。
それによれば、開基は奈良時代の養老年間。奈良時代の宝亀元年(770)に勅願所となり以降は多くの僧坊や尼寺が建ち並び栄えたが、天正13年に兵火により全山焼失し現在の場所に下ったとあります。
中世観瀧寺跡へは前出の本と観瀧寺の寺伝のみ。あとは地元の古老への聞きこみくらいしか手掛かりは無し。
とりあえず目安となる不動尊の滝の場所を特定すべく奥榎原へ。公民館の駐車場をお借りして畑仕事をしていた老夫婦に声をかける。
「不動尊の滝ってどこですか?」「ああ、それなら・・・」「その近くに観瀧寺の跡があると聞いたのですが。」「あるよ。」「滝から50mくらい登ったところかな。」
これで、今まで伝聞でしか分からず実在が半信半疑だった中世観瀧寺跡が実在していることが確定しました。ありがとうございました。

教えられた道を進み山に入ると二差路にぶつかります。不動尊の滝と中世観瀧寺跡へは矢印の左方面へ進みます。ちなみに正面の斜面にはかつて存在した榎原鉱山の遺構や精錬後の鋼滓の山が残されていますがそれはまた別の機会に。

先ほどの分かれ道を進むと「不動尊の滝」と書かれた古い看板があり、その先の道をさらに進みますが、どんどん山の奥へと進んでいくので動物除けのベルやラジオは必須です。実際、向かっている最中に熊には会いませんでしたが鹿の群れには出会いました。また、途中写真のような沢を超えたりしますのでそれなりの装備は必要となります。

先ほどの沢を超えて細くなった道を進むと鎖の手すりがあります。ここまで来れば不動尊の滝まではもうすぐです。

ようやく不動尊の滝に到着。思った以上に山の奥にあり、徒歩30分近くかかった気がします。
最初の案内板からここまで一切の看板も無くしかも途中道が荒れていたりして不安になりますが。

置かれた古びた説明版。
話ではこの滝からずっと登ると寺院跡があると聞いたのですが、周りは切り立った急斜面で道のようなものは見当たらない。左の斜面を見るとうっすらと道らしき跡が。
・・・これを登るのか。

慎重に道を選びながら必死の思いで這うように斜面を登る。一歩間違えば10数mはありそうな斜面を転落することに。

死にそうな思いで何とか登っていくと途中から多少道と呼べる跡が。それを辿って登り切ると、そこには思いもよらぬ広大な平坦地が。

念願の中世観瀧寺跡に到達したと確信しました。今まで伝聞という存在でしかなかった寺院跡の遺跡を実際に目の当たりにした時の感動。マジで鳥肌が立ちました。まさにパズーの「すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!」状態。
ここからは私の拙い見取り図をもとにレポをしていきます。なんせ周知の遺跡ではないし遺跡として認識できる人はほぼ訪れてないので縄張図なんてありませんし。

※5/21の再踏査により縄張図を描き直しました。
写真は縄張図1の箇所。やや広めの曲輪のようになっていて、東側から細くなり土塁状となります。

縄張図2の箇所から東方面を撮影。途中から細くなり土塁となっているのが分かります。

方形に作られた石組を発見。縄張図3の箇所。大きさ的に祠でしょうか。もしくは古墓。

方形石組みのある平坦地を西の端から撮影。縄張図4の箇所。かなり広いです。

4の地点から西方面の平坦地を望む。段状に平坦地が続きます。

縄張図5の箇所の平坦地。こちらもかなりの規模があります。奥にこれから向かう土塁がうっすら見えています。

縄張図6の箇所の切岸。高低差は結構あり今でも鋭く切り立っています。

6の切岸を下の平坦地から望む。

その平坦地内にある大土塁。縄張図7の箇所。かなりの大きさを誇ります。幅と言い高さと言い福知山市内の周知の中世城郭でも見かけないくらいの規模です。

大土塁の下には平坦地が続きます。縄張図8の箇所。土塁に沿って延びる平坦地は長く広い。

大土塁の別カット。長く続く土塁がお判りでしょうか。

平坦地には礎石らしき石もありました。他の平坦地でもいくつか見つけたのでまだ埋もれていることでしょう。

同じ大土塁を逆の東方面を望む形で撮影。

縄張図9の箇所の土壇状の平坦地。

9の平坦地の上から撮影。周りより高くなっており、お堂か何かがあったのでしょうか。

9の平坦地から東方面を撮影。

寺院跡の西端の平坦地。縄張図10の箇所。奥には土塁状の高まりがあります。

西端の土塁状の高まりは岩盤が露出していました。縄張図11の箇所。

戻って9の平坦地の北側の腰曲輪のような平坦地を観察。縄張図12の箇所。
北側にはいくつかの小さい平坦地を確認しました。

方形石組みのある3の平坦地の北側に虎口のようなくぼみがありました。縄張図13の箇所。
寺院跡側には石列もあり、出入り口だったのは間違いありません。

写真がブレていて申し訳ないですが、13の虎口の下に広い平坦地がありました。縄張図14の箇所。というのもこの辺りから天候が怪しくなり風も強くなってきてろくに道もない場所への初到達ということもあり不安になってきたのもあって焦ってました。
本当はこの下の平坦地も踏査したかったのですが、そういった事情で見送ることに。
どうやら北側一帯には他にも遺構がある可能性があります。

中世観瀧寺跡は石垣が多用されていたようで、所々崩落した跡があります。縄張図15の箇所。

崩落石垣のアップ。裏込めらしき礫も見えます。

石垣らしき石材が散乱している平坦地。縄張図16の箇所。右に見える切岸は2の大土塁。
この土塁は先までは踏査してませんがずっと東まで伸びてました。

石材が散乱している平坦地。縄張図17の箇所。こちらもかなりの規模があります。

中世観瀧寺跡が石垣を持つ寺院だったことを証明する遺構。戻るときに見つけたものですが、立派な石垣が残されていて驚きました。縄張図18の箇所。中世以前の福知山市内の遺跡でここまでの規模の石垣を持つ遺跡は見たことがありません。
「不動尊の滝ってどこですか?」「ああ、それなら・・・」「その近くに観瀧寺の跡があると聞いたのですが。」「あるよ。」「滝から50mくらい登ったところかな。」
これで、今まで伝聞でしか分からず実在が半信半疑だった中世観瀧寺跡が実在していることが確定しました。ありがとうございました。

教えられた道を進み山に入ると二差路にぶつかります。不動尊の滝と中世観瀧寺跡へは矢印の左方面へ進みます。ちなみに正面の斜面にはかつて存在した榎原鉱山の遺構や精錬後の鋼滓の山が残されていますがそれはまた別の機会に。

先ほどの分かれ道を進むと「不動尊の滝」と書かれた古い看板があり、その先の道をさらに進みますが、どんどん山の奥へと進んでいくので動物除けのベルやラジオは必須です。実際、向かっている最中に熊には会いませんでしたが鹿の群れには出会いました。また、途中写真のような沢を超えたりしますのでそれなりの装備は必要となります。

先ほどの沢を超えて細くなった道を進むと鎖の手すりがあります。ここまで来れば不動尊の滝まではもうすぐです。

ようやく不動尊の滝に到着。思った以上に山の奥にあり、徒歩30分近くかかった気がします。
最初の案内板からここまで一切の看板も無くしかも途中道が荒れていたりして不安になりますが。

置かれた古びた説明版。
話ではこの滝からずっと登ると寺院跡があると聞いたのですが、周りは切り立った急斜面で道のようなものは見当たらない。左の斜面を見るとうっすらと道らしき跡が。
・・・これを登るのか。

慎重に道を選びながら必死の思いで這うように斜面を登る。一歩間違えば10数mはありそうな斜面を転落することに。

死にそうな思いで何とか登っていくと途中から多少道と呼べる跡が。それを辿って登り切ると、そこには思いもよらぬ広大な平坦地が。

念願の中世観瀧寺跡に到達したと確信しました。今まで伝聞という存在でしかなかった寺院跡の遺跡を実際に目の当たりにした時の感動。マジで鳥肌が立ちました。まさにパズーの「すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!」状態。
ここからは私の拙い見取り図をもとにレポをしていきます。なんせ周知の遺跡ではないし遺跡として認識できる人はほぼ訪れてないので縄張図なんてありませんし。

※5/21の再踏査により縄張図を描き直しました。
写真は縄張図1の箇所。やや広めの曲輪のようになっていて、東側から細くなり土塁状となります。

縄張図2の箇所から東方面を撮影。途中から細くなり土塁となっているのが分かります。

方形に作られた石組を発見。縄張図3の箇所。大きさ的に祠でしょうか。もしくは古墓。

方形石組みのある平坦地を西の端から撮影。縄張図4の箇所。かなり広いです。

4の地点から西方面の平坦地を望む。段状に平坦地が続きます。

縄張図5の箇所の平坦地。こちらもかなりの規模があります。奥にこれから向かう土塁がうっすら見えています。

縄張図6の箇所の切岸。高低差は結構あり今でも鋭く切り立っています。

6の切岸を下の平坦地から望む。

その平坦地内にある大土塁。縄張図7の箇所。かなりの大きさを誇ります。幅と言い高さと言い福知山市内の周知の中世城郭でも見かけないくらいの規模です。

大土塁の下には平坦地が続きます。縄張図8の箇所。土塁に沿って延びる平坦地は長く広い。

大土塁の別カット。長く続く土塁がお判りでしょうか。

平坦地には礎石らしき石もありました。他の平坦地でもいくつか見つけたのでまだ埋もれていることでしょう。

同じ大土塁を逆の東方面を望む形で撮影。

縄張図9の箇所の土壇状の平坦地。

9の平坦地の上から撮影。周りより高くなっており、お堂か何かがあったのでしょうか。

9の平坦地から東方面を撮影。

寺院跡の西端の平坦地。縄張図10の箇所。奥には土塁状の高まりがあります。

西端の土塁状の高まりは岩盤が露出していました。縄張図11の箇所。

戻って9の平坦地の北側の腰曲輪のような平坦地を観察。縄張図12の箇所。
北側にはいくつかの小さい平坦地を確認しました。

方形石組みのある3の平坦地の北側に虎口のようなくぼみがありました。縄張図13の箇所。
寺院跡側には石列もあり、出入り口だったのは間違いありません。

写真がブレていて申し訳ないですが、13の虎口の下に広い平坦地がありました。縄張図14の箇所。というのもこの辺りから天候が怪しくなり風も強くなってきてろくに道もない場所への初到達ということもあり不安になってきたのもあって焦ってました。
本当はこの下の平坦地も踏査したかったのですが、そういった事情で見送ることに。
どうやら北側一帯には他にも遺構がある可能性があります。

中世観瀧寺跡は石垣が多用されていたようで、所々崩落した跡があります。縄張図15の箇所。

崩落石垣のアップ。裏込めらしき礫も見えます。

石垣らしき石材が散乱している平坦地。縄張図16の箇所。右に見える切岸は2の大土塁。
この土塁は先までは踏査してませんがずっと東まで伸びてました。

石材が散乱している平坦地。縄張図17の箇所。こちらもかなりの規模があります。

中世観瀧寺跡が石垣を持つ寺院だったことを証明する遺構。戻るときに見つけたものですが、立派な石垣が残されていて驚きました。縄張図18の箇所。中世以前の福知山市内の遺跡でここまでの規模の石垣を持つ遺跡は見たことがありません。
今回初到達ということと、天候の悪化で確認できなかった箇所や写真もしっかり撮れなかった十分な踏査とは言えない結果になりましたが、今まで地元の人からの伝聞でしか存在を知らず、市教委も府教委も周知していない自分の中では伝説の存在だったある意味幻と言ってもいい寺院跡の大規模な遺跡を発見することができ、感動いたしました。しかし、福知山市内でも有数ともいえる中世寺院の遺跡、これほどの遺跡が公的機関が周知していないのは驚きです。いずれしかるべき機関に報告はしようかと思います。そして、改めて悉皆踏査を試みたいと思っております。
次は他の石垣や石塔類の残欠や古墓が見つかれば大きな成果となるでしょう。
次は他の石垣や石塔類の残欠や古墓が見つかれば大きな成果となるでしょう。
2007年11月23日
春日大社の石燈籠が何気にすごい。
3連休の初日、ちょっと気晴らしに奈良に行きました。
京都からなら近鉄で1時間。結構近いです。
興福寺や東大寺など定番の場所は巡りますが、
必ず立ち寄るのが春日大社。それも石燈籠のある参道です。
それには理由があるんです。
その理由とは、建ち並ぶ石燈籠に刻まれた年号のこと。
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