住宅建築
2023年01月14日
旧三井家下鴨別邸特別公開レポ日記
2022年8月の夏の文化財特別公開で公開された旧三井家下鴨別邸へ行った際の記事です。
旧三井家下鴨別邸は1階と庭園は普段から公開していますが、2階と3階は特別公開の日にしか入ることができません。今回は2階まででしたが、行ってみることにしました。

旧三井家下鴨別邸の正門。

旧三井家下鴨別邸の主屋。旧三井家下鴨別邸は元々明治13年に木屋町に建てられていた三井家の別邸を大正14年に三井家の祖霊社のある現在地の下鴨神社南の敷地に移築。増築を行い竣工しました。三井家の祖霊社は明治42年に完成しましたが、その敷地には元々屋敷があったらしく、旧三井家下鴨別邸の移築建築の際、元々の屋敷にあった茶室は残し旧三井家下鴨別邸の茶室としたようで、修理の際に慶応四年の年号がある棟札が見つかっています。旧三井家下鴨別邸は戦後、財閥解体により三井家から国へと移譲。国有地となった旧三井家下鴨別邸は昭和24年に京都家庭裁判所の官舎となりました。平成19年に官舎は廃止となり、平成24年に重要文化財に指定。修復され現在は文部科学省に移管されています。

旧三井家下鴨別邸は江戸時代末期の茶室、明治時代の主屋、大正時代の玄関棟からなる近代和風建築です。写真は玄関棟。ここから入ります。

玄関入ってすぐの所にある洋室の広間。和風を基調とした旧三井家下鴨別邸の中で、玄関両脇にある応接室と洋室広間は数少ない洋風の部屋です。現在はレストランになっています。

1階座敷。旧三井家下鴨別邸の部屋で一番広い部屋。

1階座敷の床の間。

1階座敷次の間。

1階座敷次の間。奥には坪庭が。

坪庭部分。

1階廊下。

1階廊下。

1階座敷の水屋。茶室だけでなく座敷でも茶を立ててたようです。

1階3畳間。奥の板戸の絵は江戸時代後期の画家、原在正の作。

1階座敷の縁側にある蹲。奥の建物が慶応4年の茶室。

蹲。庭園へは1階の縁側から降りれます。

庭園側から見た旧三井家下鴨別邸。こうして見ると大きな建物です。三井家所有時は祖霊社の休憩所として使用されていたようです。

庭園には百日紅や

桔梗や

蓮の花が咲いていました。再び建物へ。

2階座敷。

庭園側は濡れ縁となっており、庭園を眺めることができます。木屋町時代は高瀬川側になってました。

2階座敷から眺める。庭園。庭園は池泉回遊式。

2階座敷の床の間。

2階4畳半間。

2階6畳半間。2階の上には中3階の部屋と3階望楼がありますが、今回の特別公開はここまで。
3階の特別公開も年に何回かあるようです。

2階東側階段の横には浴室と便所があります。

東側階段の手摺。

手摺のデザインは結構モダンなデザインで、大正14年移築時の物かと思います。

脱衣所の洗面台。

2階浴室。ちなみに1階には2ヵ所浴室があります。

2階便所。当時としては珍しい洋式。これも大正期のものでしょう。1階にも3ヵ所便所があります。

洗面台。水回りは近代的な方が使い勝手がいいのか、洋式で統一されています。
旧三井家下鴨別邸は取り壊しの話もあったようですが、近代和風建築としての価値が認められ、修復され重要文化財に指定されたことで、新たな京都観光の1つとして人気となっています。この日も多くの観光客が訪ねていました。
旧三井家下鴨別邸は1階と庭園は普段から公開していますが、2階と3階は特別公開の日にしか入ることができません。今回は2階まででしたが、行ってみることにしました。

旧三井家下鴨別邸の正門。

旧三井家下鴨別邸の主屋。旧三井家下鴨別邸は元々明治13年に木屋町に建てられていた三井家の別邸を大正14年に三井家の祖霊社のある現在地の下鴨神社南の敷地に移築。増築を行い竣工しました。三井家の祖霊社は明治42年に完成しましたが、その敷地には元々屋敷があったらしく、旧三井家下鴨別邸の移築建築の際、元々の屋敷にあった茶室は残し旧三井家下鴨別邸の茶室としたようで、修理の際に慶応四年の年号がある棟札が見つかっています。旧三井家下鴨別邸は戦後、財閥解体により三井家から国へと移譲。国有地となった旧三井家下鴨別邸は昭和24年に京都家庭裁判所の官舎となりました。平成19年に官舎は廃止となり、平成24年に重要文化財に指定。修復され現在は文部科学省に移管されています。

旧三井家下鴨別邸は江戸時代末期の茶室、明治時代の主屋、大正時代の玄関棟からなる近代和風建築です。写真は玄関棟。ここから入ります。

玄関入ってすぐの所にある洋室の広間。和風を基調とした旧三井家下鴨別邸の中で、玄関両脇にある応接室と洋室広間は数少ない洋風の部屋です。現在はレストランになっています。

1階座敷。旧三井家下鴨別邸の部屋で一番広い部屋。

1階座敷の床の間。

1階座敷次の間。

1階座敷次の間。奥には坪庭が。

坪庭部分。

1階廊下。

1階廊下。

1階座敷の水屋。茶室だけでなく座敷でも茶を立ててたようです。

1階3畳間。奥の板戸の絵は江戸時代後期の画家、原在正の作。

1階座敷の縁側にある蹲。奥の建物が慶応4年の茶室。

蹲。庭園へは1階の縁側から降りれます。

庭園側から見た旧三井家下鴨別邸。こうして見ると大きな建物です。三井家所有時は祖霊社の休憩所として使用されていたようです。

庭園には百日紅や

桔梗や

蓮の花が咲いていました。再び建物へ。

2階座敷。

庭園側は濡れ縁となっており、庭園を眺めることができます。木屋町時代は高瀬川側になってました。

2階座敷から眺める。庭園。庭園は池泉回遊式。

2階座敷の床の間。

2階4畳半間。

2階6畳半間。2階の上には中3階の部屋と3階望楼がありますが、今回の特別公開はここまで。
3階の特別公開も年に何回かあるようです。

2階東側階段の横には浴室と便所があります。

東側階段の手摺。

手摺のデザインは結構モダンなデザインで、大正14年移築時の物かと思います。

脱衣所の洗面台。

2階浴室。ちなみに1階には2ヵ所浴室があります。

2階便所。当時としては珍しい洋式。これも大正期のものでしょう。1階にも3ヵ所便所があります。

洗面台。水回りは近代的な方が使い勝手がいいのか、洋式で統一されています。
旧三井家下鴨別邸は取り壊しの話もあったようですが、近代和風建築としての価値が認められ、修復され重要文化財に指定されたことで、新たな京都観光の1つとして人気となっています。この日も多くの観光客が訪ねていました。
2020年11月23日
西向日住宅地の近代建築探索レポ日記
現在の阪急電車京都線西向日町駅の一帯は、開通した翌年の昭和4年ごろから住宅地としての開発が始められました。開発を行ったのは後の阪急電鉄である新京阪鉄道株式会社。当時、新京阪鉄道株式会社は沿線沿いに住宅地の開発・分譲を行っており、この西向日住宅地もその一つでした。その面影が現在もいくつか残されており、今回探索をしてきました。

西向日住宅地の中心にある噴水公園。西向日住宅地はこの噴水公園の周囲にロータリーを作り、それを中心として碁盤の目の住宅地を造成していきました。
さらには街路樹としてソメイヨシノが植えられ、現在でも春には桜の花が咲き誇る景観を維持し続けています。

T邸。昭和4年頃。西向日住宅地に残る唯一の洋風建築。かつて住宅造成時の現地事務所だった建物とのこと。

洋館部分。

敷地の煉瓦塀は意匠を凝らしたデザインになっています。造成後も支店的な役割を果たしていたのかもしれません。

近くには立派な石積のある住宅が。かつては藤井厚二設計の住宅が建っていたそうですが、残念ながら現在は失われています。
西向日住宅地の住宅はほぼ和風建築となっております。

向日庵。英文学者の寿岳文章が昭和8年に自邸として建てたもの。設計は京都帝国大学で建築学を学んだ澤島英太郎。施工は熊倉工務店。


設計者の澤島英太郎は藤井厚二に師事した人物で、この向日庵も藤井厚二の影響を受けたデザインになっています。

向日庵の門。

葵園(旧狩野直喜別邸)。昭和12年築。京都帝国大学の教授で漢学者だった狩野直喜が別邸として建てたもので、農家風のデザインとなってます。施工は安井杢太郎。現在も向日市にある安井杢工務店の創業者の作品としても貴重な建物です。
その他にも造成時当時の建物と思われる住宅がいくつか残されています。

見性庵。

O邸。

当時の門柱の向こうに洋風っぽいデザインの窓が見えます。

K邸。大きな和風建築。

W邸。こちらも大型の和風建築。

当時の門柱が残る住宅。

M邸。少し離れた場所にある洋館付き住宅。

洋館部分。

玄関部分。
昭和初期に造成された西向日住宅地は、多くの住宅が建て替えられた今でも、閑静な住宅街でした。
※参考文献 「鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致〜西向日住宅地」(PDFファイル)

西向日住宅地の中心にある噴水公園。西向日住宅地はこの噴水公園の周囲にロータリーを作り、それを中心として碁盤の目の住宅地を造成していきました。
さらには街路樹としてソメイヨシノが植えられ、現在でも春には桜の花が咲き誇る景観を維持し続けています。

T邸。昭和4年頃。西向日住宅地に残る唯一の洋風建築。かつて住宅造成時の現地事務所だった建物とのこと。

洋館部分。

敷地の煉瓦塀は意匠を凝らしたデザインになっています。造成後も支店的な役割を果たしていたのかもしれません。

近くには立派な石積のある住宅が。かつては藤井厚二設計の住宅が建っていたそうですが、残念ながら現在は失われています。
西向日住宅地の住宅はほぼ和風建築となっております。

向日庵。英文学者の寿岳文章が昭和8年に自邸として建てたもの。設計は京都帝国大学で建築学を学んだ澤島英太郎。施工は熊倉工務店。


設計者の澤島英太郎は藤井厚二に師事した人物で、この向日庵も藤井厚二の影響を受けたデザインになっています。

向日庵の門。

葵園(旧狩野直喜別邸)。昭和12年築。京都帝国大学の教授で漢学者だった狩野直喜が別邸として建てたもので、農家風のデザインとなってます。施工は安井杢太郎。現在も向日市にある安井杢工務店の創業者の作品としても貴重な建物です。
その他にも造成時当時の建物と思われる住宅がいくつか残されています。

見性庵。

O邸。

当時の門柱の向こうに洋風っぽいデザインの窓が見えます。

K邸。大きな和風建築。

W邸。こちらも大型の和風建築。

当時の門柱が残る住宅。

M邸。少し離れた場所にある洋館付き住宅。

洋館部分。

玄関部分。
昭和初期に造成された西向日住宅地は、多くの住宅が建て替えられた今でも、閑静な住宅街でした。
※参考文献 「鉄道と住宅地開発に係る歴史的風致〜西向日住宅地」(PDFファイル)
2019年12月15日
本野精吾邸一般公開レポ日記。(2017年8月6日探訪)

※この記事は2017年8月6日に訪問した本野精吾邸一般公開のmixiでの記事を転載&再編集したものです。
今年(2017年当時)の京の夏の旅、文化財特別公開に立命館大学の側にある本野精吾邸が一般公開されると知り、見学に向かいました。
本野精吾は大正から昭和初期にかけて活躍した建築家で、モダニズム建築の先駆者として知られています。
本野精吾の家族は父親が読売新聞創業者、兄が外務大臣、4代目読売新聞社長、京都帝国大学教授というエリート一家でした。
本野精吾は東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、関西の戦前の建築界のボスともいえる武田五一の招きで京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授となりました。
そのため、西陣織物館(現・京都市考古資料館)を除いてほとんどが京都高等工芸学校に関わる建物を設計しており、京都工芸繊維大学3号館・旧鶴巻邸(元京都高等工芸学校学長邸)(※いずれも現存)などが代表作として知られています。


本野精吾邸外観。
この本野精吾邸は自身の邸宅として大正13年に建てられたもので、当時としては先駆的だった中村鎮式コンクリートブロックにて建てられています。
本野精吾邸は20年前、見に行ったことがあります。当時はほとんど知られておらず迷いに迷ってたどり着いた本野邸は前庭が草木で覆われ門からちらっと建物が見える程度。しかも当時はご子孫が住まわれていたためあまりジロジロ見ることできず写真を何枚か撮影して立ち去りました。
あれから20年ぶりに訪れた本野邸は住まわれなくなった代わりに文化財指定を受けて隣に住むご子孫が大切に保管され、前庭に蔓延っていた草木も取り払われて門からよく見えるようになりました。
今回初の一般公開ですが、20年前はまず見学できるとは思いもよらなかったこの機会に感慨深いものを感じました。

門の表札。煉瓦の門柱にタイルで「本野」の表札が作られた洒落たもの。当時の物です。

本野邸の玄関。一部煉瓦が使われていますが、建物本体は中村鎮式コンクリートブロックを用いたもの。中村鎮式コンクリートブロック、通称・鎮ブロックはL字型をしたコンクリートブロックで、建築家・中村鎮が考案しました。中村鎮は本野精吾と交流があり、京都事務所を本野邸の隣に建ててます。これに関しては後述します。

本野精吾邸1階内部。大正時代の建物とは思えないモダンさ。

1階窓。本野邸の特徴は天井が低いこと。これは2階へ通じる階段を緩やかにするため天井を低く抑えたことによるものですが、逆に部屋に圧迫感を与える弊害も。そこで本野精吾は窓の開口部を広く取り、腰板部分も低くして開放感を与える設計をしました。

1階の暖炉。暖炉の金属の板には葡萄のデザインがされています。
これも本野精吾のデザイン。本野精吾は客船の内装のデザインもしていたそうで、他にドアノブやネジ式鍵のつまみにも洒落たデザインが施されています。
この暖炉、良く見たら奥に焦げた後や煤がついていて、実際に暖炉として使用されていたようです。

階段部分も全く装飾の無いデザイン。


2階内部。こちらは1階以上に窓の開口部を多く取り、2階からの眺望を考慮されているようです。

一旦外に出て本野邸の裏へ。こちらは南面。勝手口玄関の上にベランダがあります。

その傍らにある睡蓮池。聞くところによるとこれも当時の物らしいとか。この池も本野精吾の設計でしょうか。

本野精吾邸の裏面。20年前ではます見ることが叶わなかった場所。
壁面に植物の痕がついてます。近年の整備で取り払われた跡なのでしょう。

その裏手に小さな小屋があります。最初は燃料とか入れてる小屋だったのかなとも思いましたが(昔の小学校とかにはこういう感じのコンクリートブロックの灯油倉庫があった)

なんとトイレでした。機能性を重視した本野精吾が、どう考えても不便な外に離れのトイレを作ったのは意外でしたが、トイレの建物も一貫してコンクリートブロックというこだわりを感じます。

今回初めて本野精吾邸を見学するという機会に恵まれ、まだまだ装飾的なデザインが多かった大正期において先駆的なモダニズム建築として建てられたこの本野邸は90年以上経っているとは思えないモダンさでした。

さて、先ほどの本野精吾邸の南隣に白い洋館があります。最近の建物のようにも見えますが、壁面を良く見ると本野邸と同じサイズのコンクリートブロックとおぼしき目地が。
INAXREPORTの本野精吾の特集には、本野精吾邸の隣にあった中村鎮建築研究所京都出張所の古写真があります。
http://
※INAXREPORT本野精吾特集(pdf)
この写真を見ると、屋根や南側の増築や窓の改修等の改変はありますが、窓の配置や庇などはまさに古写真と同じで、中村鎮式コンクリートブロックで建てられたこの事務所は、本野精吾が設計した可能性があり、大正13年築の中村建築研究所が現存していることになります。

また、20年前に本野邸を見るためこの場所を訪れた際に偶然見つけた古い洋館。
本野邸・中村事務所の1件飛んだ南の十字路の角にあったものですが、当時は京都の建築に詳しい人から中村鎮建築事務所と聞かされていました。
しかし、ツイッターでの指摘や本野邸でのスタッフさんの話やINAXREPORTでこの建物の正体が判明。古城鴻一という京都高等工芸学校の教授の邸宅だった建物で、やはり中村鎮式コンクリートブロックによる本野精吾が設計した可能性があるという建築。大正13年12月完成という本野邸・中村事務所とともに同時に建てられた形となります。
この旧古城邸は恐らく2000年前後に取り壊されて現存してませんが、かつてはこの狭い通り沿いに3つの中村鎮式コンクリートブロックのモダニズム建築が並んでいたことになります。建築時期も同年に3件一度に建てられたことから、本野精吾は自邸を含め自身が進めていた中村鎮式コンクリートブロックでのモダニズム建築住宅による新たな街並みをも実験的に造ろうとしていたような気がしました。


余談ですが、本野精吾邸のすぐ近くに藤井厚二設計と言われる住宅が残されています。
藤井厚二は日本の風土に適した住宅を目指した建築家で、重要文化財に指定されている大山崎町の聴竹居をはじめいくつかの作品が残されており、京都市内にも何件か現存しています。
2019年02月09日
奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記

その廃洋館を知ったきっかけは奈良市内の近代建築を探索するため、事前にGoogleMapで調べていて見つけたことからでした。航空写真からも分かる大規模かつレベルの高いその洋館に興味を持ち、近代建築関連のサイトを色々検索しましたが全くヒットせず。とりあえず先月、奈良市内の近代建築探索の際に訪問。洋館は廃墟となってましたが、その際はさっと見て撤退。しかし1ヶ月後、やはりどうしても気になり今回再訪することにしました。
その間、この謎の廃洋館について調べましたが近代建築・廃墟サイトとも中々ヒットせず、かつて飲食店だった時の店名で調べたら僅かですがヒットしました。
そのブログの記事は13年前のもの。まだ飲食店として使用されていた時に入られた方の記事で、店主のお婆さんの話では建物は明治時代のもので、戦後は進駐軍に接収されたこともあったとか。ブログには店内のかつての姿の写真もあり、確かに天井の照明の座繰りや暖炉を見ると戦前の物らしく見えました。

国土地理院公開の昭和21年米軍撮影の航空写真を確認して見ると、確かに件の洋館は写っています。
明治期の建物かは分かりませんが、戦前の物であることは間違いないかと思います。
(※別サイトにて奈良市近代化遺産調査報告書に記載があり、明治〜大正期の築とのこと)
調べるとどうも10年位前に廃業したようです。私が訪問した時はすでに廃墟と化し荒れていました。
※知っている人は知っている物件の様で、現役の頃に何度か行った人の証言もありましたが、不埒者に荒らされることを防ぐため詳細な場所やかつての店名が分かる部分は伏せます。
具体的な場所に関する質問にもお答えかねます。

廃洋館に至る門。こちらは和風。戦前の屋敷には洋館でも門が和風だったりするのは普通でした。
飲食店だった頃はここが入り口で、今でも店名の扁額が掲げられています。

洋館東面。前回行けず今回確認したかった東面は付属屋等で塞がれ確認出来ませんでしたが、たまたま隣の敷地の門(ここもかつてはお屋敷があったようです。)が開いていたためそこから撮影。出窓らしき張り出しが見えます。

洋館西面。西側は改装されているようですが屋根や軒周りは当時の面影が残されています。屋根は日本瓦葺き。最近建てられた洋館ならスレート葺きになるので、この洋館が古いものであることが分かります。
敷地への入り口は扉の無いコンクリートらしき門柱のみの門。「立ち入り禁止」等の看板も何もないため、外観だけでもと前回同様お邪魔することに。

西側の入り口。洋館自体の規模が大きいため、建物を分けてこちらも別の飲食店として使用されていたようです。西面は外観が大きく改修されており、あまり面影がありません。

西側を過ぎ、南側へ。GoogleMapで確認した塔屋っぽい張り出しが2つ並ぶいかにも戦前の洋館と言った雰囲気。最初にGoogleMapで見たときは震えました。

反対側から。一部窓が改修されていますが、当時の上げ下げ窓も残されています。
庭木であった梅が花を咲かせていました。

正面から。

南側は中庭だったようで燈籠などもありましたが、管理者がいなくなり放置された今では庭木も伸び放題で、引きが取れませんでした。

南面の東側には接続している付属屋へ入る入り口が。ここを入ると気になる東側に行けるはずですが、さすがに行けませんでしたね私は。

西側から南側へとつながる階段。再び元の場所に戻ります。

北側へとつながる小さな門。ここを通ると最初に紹介した和風の門の裏側、かつて飲食店だった時の玄関へと至ります。

洋館北側。煉瓦造の大きな煙突が目立ちます。

かつての玄関口。こちらが本来の洋館の玄関だったと思われます。
玄関の屋根が落ちて傷んでいます。廃業して管理されなくなってからかなりの時間が経ったことが分かります。

洋館角の2階部分には柱頭飾りがあります。最近建てられた洋館だとここまでこった装飾はまずしません。

2階窓部分。2重扉になっています。窓は当時の物のようです。

玄関を東方面を向いて撮影。玄関車寄せの柱や手摺も凝ったものです。

玄関床のタイル。黒島模様のものです。

窓から内部を撮影してみました。長年放置された窓はホコリだらけで、カメラを窓に当ててもうまくピントが合わない。何回か撮影して何とか内部が撮影できました。内部は現役だった頃の写真のままで、竣工当時のままと思われる暖炉や天井のシャンデリアの座繰りがそのままでした。



スマホで撮影した写真の方が幾分マシのようだったので掲載。雑多にはなってますが、飲食店だった頃の雰囲気は残されてました。戦前の住宅だった時代の名残も良く残されています。
この廃墟の洋館はブログの情報では明治期とのことですが、見た感じでは大正期のように思えました。それでも戦前の大規模洋館であることは変わりはなく、廃墟と化して痛み始めてはいるもののまだ状態は良く、奈良市内でも屈指の戦前の洋館であり貴重な近代建築であることには変わりません。進駐軍も接収した経緯のある洋館だけにレベルの高さが伺えます。しかし、元々誰の屋敷だったのか、具体的な竣工年はいつなのか、設計者は?など洋館そのものの詳細な経歴が一切不明です。(ただし、奈良県近代化遺産調査報告書には掲載されているかもしれません。ただ、そうなるとすでにチェックして報告している人がいるはずですが…)
そしてこれだけの洋館が見向きもせずに放置されている現状は、やはり古都奈良という土地柄だからでしょうか。国登録有形文化財はもちろん、指定文化財になってもおかしくはないこの洋館。最近内で奈良市内では近代建築をカフェや案内所等に再利用している例もあるわけですし何とか修復して再びレストラン等に再利用できないものでしょうかね。場所的にも好立地ですし、このまま朽ち果てて失われるのは惜しすぎると思うのですが。
2018年07月16日
豊岡市・旧中江種造別邸(現・豊岡カトリック教会)レポ日記

5月の連休の際に兵庫県豊岡市の近代建築巡りをしたのですが、数多く残る近代建築の中でも特に素晴らしかったのが、現在豊岡カトリック教会となっている旧中江種造別邸でした。
中江種造は古河財閥の礎となった人物であり、古河財閥の創立者・古河市兵衛の顧問技師として足尾銅山などの経営に関わり、「鉱山王」の異名を持ちました。
この旧中江種造別邸は大正11年に生まれ故郷の豊岡市に建てたもので、昭和25年に豊岡市に譲渡。翌昭和26年に豊岡カトリック教会が購入し今に至ります。

ちなみに京都の邸宅も現存しており、寿山荘と呼ばれています。(非公開)

旧中江種造別邸の側面。

玄関部分。

玄関内部。扉が開いていたので覗いてみましたが人の気配はなし。横の呼び鈴を押すと奥から神父さんが出てきました。建物を見せて欲しいというと快くOK。増築部分の居住区域はお断りでしたが、増築部分は戦後のものでオリジナルではないので入る理由もありませんし、有難く洋館内を見学させていただきました。

玄関を入って左手にある会議室の洋間。シックな落ち着いた感じです。シャンデリアも当時の物かもしれません。

階段部分。

階段親柱の装飾。

2階階段室。

1階と2階の間の踊り場には。ステンドグラスがはめられています。

2階の洋間。天井部分がアールデコっぽいです。

2階の大広間は和室になっており、床の間・付書院・違い棚・天袋のある書院造となっています。
18畳敷きの広間で、襖を外すと隣の部屋と合わせて広い空間となり、恐らく来客たちと宴会などを行っていた部屋なのかもしれません。

広間の横は内縁となり、そこにも畳が敷かれています。

再び1階へ。かつてのサンルームらしき部屋がありました。

サンルームと思われる部屋にあるモザイクタイル。

サンルームから応接室へ。

応接室の天井。

旧中江種造別邸は戦後の礼拝堂と居住棟の増築のため壁が2ヵ所開けられている以外はオリジナルを良く保っていると思います。この日は私以外の来客は0。神父さんも洋館部分のみなら自由に見て回って良いとおっしゃり、居住棟へ戻られたので、貸し切り状態で1人静かな洋館内を堪能しまくりました。兵庫県の北端、地方都市の豊岡市にこれほどの西洋館が残されているのは貴重。帰り際に神父さんと文化財指定の予定は無いのかと尋ねたら、増築で穴を開けているから無理じゃないかと。私は洋館自体はオリジナルが良く保たれているからそんなことは無いと思いましたが。是非、文化財指定されて末永く保存されてもらいたいものです。
あと、突然の訪問にもかかわらず、親切に対応していただいた神父さんには厚くお礼を申し上げます。
私1人ということもあり、素晴らしい洋館をおよそ1時間余り十分堪能できました。
2006年02月02日
洋館は死なず。ただ消え行くのみ・・・
出張先の某所で見つけた廃洋館。おそらく昭和初期頃の建築で、もと医院だったという建物。まだ西洋館など物珍しかった時代、多くの人々の羨望と憧れを一身に受け
村のシンボルとして誇らしげに建っていたこの洋館も、時の流れとともに主を失い
屋根も壁も徐々に朽ち、蔦が壁を覆い始ることにより、少しずつ自然へと回帰して行くのでしょう。長い長い時の間、この洋館に蓄積された数多の人々の思い出とともに・・・続きを読む
2005年10月03日
高瀬川源流庭苑(第二無鄰菴)
10/1に紹介しました「廣誠院」の庭園から北に少し歩いたところに
一件の和食のお店があります。広い敷地で、ひと目でただの料理屋さんではない
と直感します。お店の前には説明版が一枚。
そこには、「高瀬川源流庭苑」の文字が。そして門をくぐったところにある
石碑には「第二無鄰菴」の文字があります。
実はこの料理店、もとは明治の元勲「山縣有朋」の別邸だった
「第二無鄰菴」(だいにむりんあん)であり、さらには
江戸初期の豪商、角倉了以の屋敷があったところなのです。
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