その他近代化遺産
2020年06月14日
経ヶ岬灯台訪問レポ日記

経ヶ岬にある経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所の探索と合わせ、経ヶ岬灯台を訪問しました。
※経ヶ岬海軍望楼・経ヶ岬海軍特設見張所遺構 探索レポ日記
経ヶ岬灯台は明治31年に初点灯をした灯台で、日本に5つしかない第1等フレネルレンズを使用する保存灯台であり、日本んの灯台50選にも選ばれている灯台です。

経ヶ岬灯台の看板と遠くに見える経ヶ岬灯台。ちなみにここは正門ではありません。

最初に見える付属建物。

石造の建物で、倉庫なのですが、貼られているプレートを撮り忘れた・・・

敷地内にあるレーダーの鉄塔。

経ヶ岬灯台の正門。現在もこの正門から下って麓に行けます。

そして、主役の経ヶ岬灯台。

石造の堂々たる白亜の灯台。

海側の右から

左から。

正面から。経ヶ岬灯台に使われている石材は灯台下の海岸から切り出されたものです。

前回紹介した明治30年代の経ヶ岬海軍望楼の石材も同じ場所から切り出した石材かと思われます。

灯台の入り口にある銘板。

石造倉庫や官舎のあった場所から灯台へと降りる階段。

経ヶ岬灯台は建物も塀も擁壁も全て石造です。恐らく煉瓦などを輸送する困難さより、海岸の石を切り出す方が効率的だったからだと思います。

経ヶ岬灯台から望む日本海。

まるで中世ヨーロッパの城塞か沿岸砲台の要塞のように見えるそんな雰囲気。120年余り日本海の安全を見守り続けてきました。

経ヶ岬のある海岸は険しい崖がそそり立つリアス式海岸。今でこそ立派な道路がありますが、当時は灯台までの道は大変だったと思います。

完成当時の経ヶ岬灯台。現存する灯台と倉庫の他に官舎がありました。この官舎も残されていたらより素晴らしい情景だったと思います。

経ヶ岬灯台からの帰り、ニホンザルの群れに出くわしました。

ニホンザルの親子。車内から撮影。野生のサルは凶暴なので要注意。餌などをあげてはいけません。
経ヶ岬灯台は毎年11月頃に内部の一般公開があるそうです。経ヶ岬海軍特設見張所の遺構で見逃したものもあるし、そのタイミングで再訪したいと思っています。
2018年07月15日
船岡山公園に残る近代化遺産

京都市北区にある船岡山は古くは室町時代に応仁の乱の際の西軍の本陣が置かれたり、船岡山合戦が行われた歴史的な場所であり、織田信長を祀る建勲神社も存在します。
その船岡山ですが、昭和10年に船岡山公園として整備され開園しました。現在も船岡山公園には当時の構造物が多く残されています。
各構造物の場所は上記の地図を参照してください。

最初に訪れたのは船岡山公園北門。

右側の門柱。

左側の門柱。かつては電灯が設置されていたと思われます。

北門の奥にある噴水跡。

あまり装飾はないですが、かつては水を噴き上げていた噴水。目を引いたことと思います。

北門から西のエリアに登った箇所にある街灯。大徳寺に近く建勲神社もあることから、燈籠型の和風のデザインとなってます。これと同じデザインの街灯は船岡山公園一帯にいくつも存在します。

上記の街灯の近くにある構造物。はっきりとはわかりませんが、構造的に噴水か水飲み場・手洗い場、もしくは池だった気がします。

船岡山公園西門。北門と同じデザインですが、電灯部分にスクリーンが残されています。北門にもかつてはあったのでしょう。

西門からグラウンドに入った所の突き当りにある構造物。京都市近代化遺産調査報告書では「旧電灯台座」となっていますが、形状からこれは壁から水が出てくる造園施設「壁泉」ではないでしょうか。

真ん中に水が出ると思われる穴があります。その手前には水を溜める池と思われる低い区画が造られています。

※参考写真・イギリスの庭園の壁泉。KOMERI.COMより。

壁泉の両脇には階段があります。これも当時の物。

階段を上がった場所、ちょうど壁泉の真上にはラジオ塔が残されています。
ラジオ塔とはまだまだラジオが高価だった昭和初期頃にラジオの普及を目的として公園などに設置されたもので、格子になっている場所にラジオが設置され、人々が集まると鳴らされました。
京都市内には船岡山公園のラジオ塔を含め7か所現存しています。

※参考1・京都市北区、小松原児童公園内のラジオ塔。

※参考2・京都市左京区萩児童公園内のラジオ塔。

※参考3・京都市北区紫野柳公園内のラジオ塔。
その他、円山公園・八瀬公園・橘公園に現存しています。

ラジオ塔と野外音楽堂(昭和34年建設)から船岡山山頂へ登るとひときわ目立つ建造物があります。
これはサイレン塔と呼ばれるもので、公園完成時のものかはわかりませんが、戦前のものであるのは確かで、戦時中は空襲警報を鳴らし(船岡山公園近くの西陣地区で空襲があった)戦後は正午のサイレンを鳴らしていたそうです。

サイレン塔のアップ。

サイレン塔の内部。現在は使われておらず何もありませんが、サイレンの機材類があったと思われる箇所が左側に残されています。

サイレン塔の側にある街灯。最初に見たものと同じデザインです。

街灯の横にある戦前のものと思われる方位盤ですが、すり減っていて判読不可能です。

サイレン塔から建勲神社方面に向かうとある構造物。これは国旗掲揚台だったものです。
正面部分がつぶされてますが、かつては国威宣揚的な文字が刻まれていて、戦後に潰したのだろうと思われます。

国旗掲揚台の背面。くぼみが付けられ、かつてはここに国旗を掲揚するためのポールがあったと思われます。船岡山は心霊スポットとしても知られ、正体の知らない人はこの国旗掲揚台を得体のしれない不気味な曰くつきのものとして紹介してますが、正体を知ればなんてことはないものです。

国旗掲揚台近くの街灯。これまでのものと同じデザインのものですが、ここで面白いものを見つけました。

地面に露出した配線。

その配線が街灯に向かって伸びています。かつてはこの街灯は電灯だったことが伺えます。
船岡山公園内は戦前の公園施設が良好に多数残る箇所で、戦前の公園施設を実際に見学できる恰好の場所であります。可能なら残る噴水や壁泉や街灯等を復活させてほしい気もありますが、中々厳しいでしょうね。せめてこれらの構造物を船岡山公園の歴史として末永く保存して欲しいです。
2018年06月23日
亀岡市・大井神社境内の昭和大礼式典建物
亀岡市大井町にある大井神社には隣の大井小学校から移築された忠魂碑があり、それを目的に見に行きました。

大井神社の鳥居をくぐった脇にある忠魂碑。

揮毫は陸軍元帥の上原勇作。陸軍大臣・教育総監・参謀総長を歴任した偉い方。

台座には何か文字が刻まれていたようですが、削られています。忠魂碑は大正15年に日清・日露戦争の戦没者の供養のために大井小学校のグラウンドに建てられましたが、平成25年に現在の大井神社境内に移築されました。

その大井神社の境内内に一つの記念碑があります。記念碑には「昭和大礼用材御下賜 昭和四年九月」と刻まれています。

裏面には「昭和大礼紀念 絵馬舎建築費」と刻まれています。
つまりは昭和大礼記念の式典で建てられた建物の用材の下賜を受けて、その用材を用いて絵馬舎を建築したということのようです。

大井神社絵馬舎。当時のものとすれば、この建物の部材は昭和大礼の際の建物だったものとなります。

私が所有する京都府における昭和大礼記念式典を詳細に記録した「昭和大礼京都府記録」上巻に下賜建物の下賜先が記録されたページがあり、そこに春興殿の用材を休憩所兼絵馬舎として大井神社に下賜した記述があります。住宅地の一角に昭和史を物語る貴重な建物が現存しているわけで、この絵馬舎に関して何らかの説明板があっても良いのではと感じました。

大井神社の鳥居をくぐった脇にある忠魂碑。

揮毫は陸軍元帥の上原勇作。陸軍大臣・教育総監・参謀総長を歴任した偉い方。

台座には何か文字が刻まれていたようですが、削られています。忠魂碑は大正15年に日清・日露戦争の戦没者の供養のために大井小学校のグラウンドに建てられましたが、平成25年に現在の大井神社境内に移築されました。

その大井神社の境内内に一つの記念碑があります。記念碑には「昭和大礼用材御下賜 昭和四年九月」と刻まれています。

裏面には「昭和大礼紀念 絵馬舎建築費」と刻まれています。
つまりは昭和大礼記念の式典で建てられた建物の用材の下賜を受けて、その用材を用いて絵馬舎を建築したということのようです。

大井神社絵馬舎。当時のものとすれば、この建物の部材は昭和大礼の際の建物だったものとなります。

私が所有する京都府における昭和大礼記念式典を詳細に記録した「昭和大礼京都府記録」上巻に下賜建物の下賜先が記録されたページがあり、そこに春興殿の用材を休憩所兼絵馬舎として大井神社に下賜した記述があります。住宅地の一角に昭和史を物語る貴重な建物が現存しているわけで、この絵馬舎に関して何らかの説明板があっても良いのではと感じました。