旧軍遺構

2024年07月08日

旧舞鶴海軍防備隊(現・海上保安学校)遺構探索レポ日記

36海上保安学校遠景










舞鶴市にある海上保安学校は、かつて舞鶴海軍防備隊の敷地でした。海軍防備隊とは担当警備区の沿岸の防衛を行う機関です。舞鶴海軍防備隊は当初は現在の海上自衛隊造修補給処の場所ににありましたが、昭和16年に現在の海上保安学校の位置に移転しました。
戦後、海上保安学校の敷地となりましたが、舞鶴海軍防備隊の建物などの施設はそのまま引き継がれ、現在もいくつかの建物や遺構が残されています。
舞鶴海軍防備隊図面










※京都府立京都学・歴彩館所蔵「海軍防備隊 返還目録 昭和26年」より、舞鶴海軍防備隊施設位置図。(掲載許可済み)
終戦時の舞鶴海軍防備隊の建物等の施設が書かれています。
返還目録1









返還目録2







※同資料より施設目録(掲載許可済み)
この施設位置図や施設目録の史料により、現存している建物や遺構との裏付けをすることが出来ました。
舞鶴海軍防備隊遺構位置図ブログ用









そして、今回の探索を基に作成した遺構位置図。これに基づき紹介していきます。

1舞鶴海軍防備隊正門










\橘隋真ん中の門柱ではなく、両側の煉瓦風の門が当時の正門と思われます。
当初はコンクリート打ちっぱなしの門柱で、少なくとも昭和30年の写真には写っています。
2舞鶴海軍防備隊庁舎










庁舎。昭和16年築。鉄筋コンクリート造3階建ての近代的な造りで、当時主流になりつつある装飾を廃した機能主義的デザインの建物。
3舞鶴海軍防備隊庁舎正面










しかし、正面の堂々たる車寄せと両脇に伸びる車寄せスロープに戦前までの庁舎建築らしさを感じます。 
4舞鶴海軍防備隊階段室










玄関奥の階段室。階段のデザインも昭和10年代らしくシンプルなデザインです。
3.庁舎2







こちらは、昭和15年築の現在は舞鶴教育隊本館となっている旧舞鶴海兵団庁舎。
5.庁舎内部







舞鶴海兵団庁舎の階段もほぼ同じデザインです。当時、海軍内で一定の建築デザインの統一があったのかもしれません。
5舞鶴海軍防備車寄










旧舞鶴海軍防備隊庁舎の車寄せから外側を望む。奥に見えいる築山も防備隊当時のものです。
庁舎の内部も見たかったんですが、残念ながら内部へは入れませんでした。
5-1庁舎背面










庁舎背面。旧舞鶴海軍防備隊庁舎の両翼の表面・背面は耐震補強で増築されています。
5-2庁舎階段背面










先ほどの階段の裏側はこんな感じでした。
庁舎を離れ、北側に向かいます。

6機雷庫










5豕〕觚法I馗甞し核蛭隊時代の唯一現存する木造建物。現在は機関科の実習棟として使用されています。
7機雷庫










入口は妻側になります。
8機雷庫










内部。トラスの小屋組み等、機雷庫時代の面影が良く残されています。
9機雷庫棚










木製の棚。これも海軍時代のものではないでしょうか?
そして、ここにはとんでもないものが置かれています。

10潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










この古い機械。実は旧海軍の潜水艦のエンジンとのこと。

11潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










発電機が併設されており、発電用のエンジンと思われます。
潜水艦は日中の浮上航行中にディーゼルエンジンで動くため、そのエンジンで発電し蓄電。
夜間の潜航中はディーゼルエンジンが使えないため、バッテリーに蓄電した電気で航行します。
12潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










横から。
13潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










ディーゼルエンジンのプレート。製造は新潟鐵工所。新潟鐵工所は戦前より鉄道車両や船舶などのディーゼルエンジンの製造を行っていた企業で、戦時中は海軍用の製品も納入しており、このプレートにも海軍の錨マークが刻印されています。
14潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










ディーゼルエンジンの注意書きプレート。昭和20年5月製造。
15潜水艦用ディーゼルエンジン・発電機










発電機は昭和電機製造株式会社。昭和19年11月製造。
それぞれの下請け会社で製造されたエンジンと発電機を舞鶴海軍工廠で組み立てたものと思われます。
このディーゼルエンジンと発電機は実際には潜水艦に搭載されることはなく、舞鶴海軍工廠にそのままになっていたのを払い下げを受け、以来実習用として使用されてきたそうです。
現在国内に3基のみ存在し、うち稼働できるのはこの鬼陲里澆箸里海箸如貴重な近代産業遺産となっています。
※稼働している様子。
16裁断機








こちらも戦前の「裁断機」。おそらくこれも舞鶴海軍工廠に置かれていたものと思われます。
17裁断機








製造は大隈鉄工所。戦前より工作機械を製造した会社で、現在のオークマ株式会社です。
旧機雷庫を出て敷地を散策。
18煉瓦造倉庫・油庫か








ち匕法μ庫か。「海上保安学校三十年史」には軽質油塗具庫となっていますが、返還目録の図面では単に倉庫となっています。
19煉瓦造倉庫か








返還目録では煉瓦造となっていますが、近寄れなかったので確認できませんでした。
20油庫か








倉庫の隣に建つ小さな建物。返還目録にはそれらしいものは書かれていませんが、古そうだったし気になったので。形から油庫の可能性があります。
21短艇引揚場








ッ残引揚場。返還目録にはスロープの形状のみ書かれていますが、三十年史では短艇引揚場となってます。
短艇(カッター)を引き上げるスロープですね。
22短艇引揚場








一部修復されていますが、ほぼ防備隊時代のままと思われます。
24短艇吊








γ残吊。当時の物かどうか確認するため細部を観察。
使われている鋼材は山形鋼と平鋼でリベット打ちの接続。戦前では一般的な工法でしたが、昭和30年代頃にはH形鋼が主流となるため、防備隊時代の可能性があります。
25短艇吊








現在も現役で使われています。
次に正門辺りまで向かいます。
26防備隊神社跡








正門の東側に高台があり、階段が伸びてます。
その横に。
27防備隊神社手水鉢・レリーフ








旧海軍時代のレリーフらしきものと、手水鉢があります。
遺構位置図Г硫媾蠅任后手水鉢は煉瓦造モルタル塗で、両側に水を流す溝が切られています。
手水鉢があることから、ここは防備隊の隊内神社の跡と思われます。
階段を上ると広場となっており、現在は殉職者の碑が建てられていますが、かつては社殿があったものと思われます。
28防備隊神社レリーフ








その手水鉢の前に置かれた謎の物体。コンクリート製で表面には錨と桜花が陽刻されています。
防備隊時代の物とは思われますが、奥に手水鉢があるため、元々ここにあったものではなく、どこかから運んできたものと思われます。
29防備隊神社跡石組








階段の東側に神社の石積が残されています。
その東側の当日臨時駐車場となっていた場所へと向かいます。
35引揚場








┛揚場。護岸の一部が開口しており、スロープ状になっています。
海上保安学校の敷地内に現存する短艇引揚場と同じ性格のものと思われます。

30防備隊桟橋跡








防備隊桟橋跡。臨時駐車場となっている場所から海側へ向かうと、コンクリート造の桟橋跡が良好な形で残されていました。
20240707_111856








ここは海上自衛隊の敷地のため普段は立ち入り禁止ですが、臨時駐車場となっていたため見学することが出来ました。
34防備隊桟橋跡荷揚げクレーン台座








荷揚げクレーン台座。桟橋の西端には荷揚げ用のクレーンの台座が残されていました。
1.起重機(5トンクレーン)1






これは現在の海上自衛隊舞鶴造修補給処にある荷揚げ用の5トンクレーン。
昭和16年製のもので、防備隊桟橋跡にもこのようなクレーンが置かれていたものと思われます。
31防備隊桟橋跡引込線








防備隊桟橋引込線跡。荷揚げクレーンがあったということは、運搬用貨車を引き込んだ引込線の痕跡が残されています。引込線は、桟橋の端から端まで通っており、痕跡も残されています。
32防備隊桟橋跡暗渠








桟橋の陸側には暗渠の蓋が並んでいます。
20240707_110827








暗渠の一部は開けられていて中を覗くと、石積みの護岸が見えました。
明治・大正期に軍港整備として石積護岸が造られていましたが、昭和16年に舞鶴海軍防備隊が移転した際にこの桟橋が護岸の海側に増築する形で作られたことが良く分かります。しかし、暗渠の蓋は分厚く大きいです。
33防備隊桟橋跡基礎








その他、桟橋跡には何にかの構造物の柱と思われる金属を切断した跡も残されていました。

海上保安学校となっている旧舞鶴海軍防備隊は探索前から庁舎と機雷庫の存在は把握していましたが、その他にも数多くの遺構が良好な状態で残されていることが判明し、旧軍遺構としては久しぶりに多くの成果を得た探索となりました。

37舞鶴灯台








旧軍遺構ではありませんが、海上保安学校にはもう一つ外せないものがあります。
それは実習灯台である舞鶴灯台。舞鶴灯台は昭和43年に完成した灯台ですが、
38第4等フレネルレンズ








その灯台に設置されているレンズが第4等フレネルレンズ。
20240707_101625








昭和10年3月、灯台局工場製の歴史あるもの。
おそらくどこかの灯台で使用されていたものを、こちらに実習用として移設したものと思われます。
もちろんちゃんと稼働します。こちらも貴重な近代産業遺産です。


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2023年12月15日

旧京都府警察本部庁舎(現・文化庁京都庁舎)の塔屋屋上に存在した防空監視哨に関して

京都府警察本部1










現在、文化庁京都庁舎となっている旧京都府警察本部庁舎は、昭和2年に昭和天皇即位の昭和大礼を記念して建てられた歴史的建造物です。
京都府警察本部2










その庁舎に低めの塔屋があるのですが、そこにかつて防空監視哨があったことを知ったのは、「京都空襲 8888フライト」という本の記述でした。
そこには鉄網コンクリートで造られた防空監視哨についての記述があり、民防空の防空隊本部としての中心的役割を担っていたとありました。防空監視哨の具体的な造りの記述に興味を持ち、原資料をあたったところ、京都府の歴史資料を数多く所蔵する北区の歴彩館に所蔵されていることが分かり、閲覧の申し込みをしました。
府庁内防空施設工事綴 (1)










歴彩館所蔵、国指定重要文化財・京都府行政文書「昭和十三年度 府廰内防空施設工事綴」。
この簿冊の中に仕様書や図面が収められていました。
府庁内防空施設工事綴 (24)










昭和13年に造られた防空監視哨。その請負業者は京都市中京区西ノ京にあった中野組。簿冊は45ページに渡り仕様書などが綴られています。
府庁内防空施設工事綴(46)










そしてこれが防空監視哨の設計図面。この図面をトレースして再作図して見ました。
府庁内防空施設工事綴(66)










また、同封されていた手描きの設計図面も参考にしました。
京都府警察本部屋上防空監視哨トレース図









こちらがトレースした図面。国指定重要文化財の資料のため、資料の保護からスキャニングは不可で、写真の直撮りしかできなかった上に、折り目で歪みが大きいため、無理矢理補正しながらトレースしました。なので、縮尺に幾分かの差異があると思います。
ここから外観・断面図・配置図に分けて見ていきます。
外観






外観。平面形は亀甲型をしており、各面にガラス窓の監視窓があり、上部には嵌め殺しの天窓もあり、四方・上空を監視できるようになっていました。入口のドアはペンキ塗りの檜材の防音扉。
断面図










断面図。防空監視哨は鉄網コンクリート造、屋根は防腐剤入りのモルタル塗り、床板は松材で、腰板は檜材。内部の壁と天井はブラスター塗り、内部にはオーク材の座面がレザー仕上げの高さが調節可能な回転椅子が2つと電話。監視員は回転椅子に座り四方を監視し、異常を発見したら階下の防空課直通の電話で即座に知らせることになっていました。
配置図









防空監視哨は庁舎の塔屋の上にあり、そこへは松材で造られたペンキ塗りの木製階段で上がることになっていました。塔屋の上にはサイレンもあり、空襲警報のサイレンを鳴らしていたものと思われます。
3.東側砲台










ちなみに、京都市役所本庁舎の屋上には今も高射機関砲の砲座が残されていますが、上へ上る階段や梯子が見当たらないため、もしかしたら、京都府警察本部庁舎の防空監視哨のように木製の階段が取り付けられていたのかもしれません。

※関連記事 
京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)

この防空監視哨の設計図を見る限り、コンクリートを使った防御性のある堅牢な建物だったというだけでなく、美観や内部の過ごしやすさも考慮した手の込んだ造りとなっています。
塔屋










現在の航空写真を見ると、今でも塔屋のう上には亀甲型の防空監視哨の基礎や、サイレンの台座が残されていますが、防空監視哨の位置が図面と違うため、変更があったのかもしれません。
防空監視隊配置図ブログ用










戦前の防空には、高射砲や基地航空隊の迎撃機による兵器を用いた軍が管轄する「軍防空」と、各防空監視哨や特設見張所にて監視を行い、敵機の来襲や空襲を知らせる警察が主体の「民防空」がありました。警察や軍の指導の下、民間人による防空監視隊が組織され、各地域の防空監視哨で任務にあたりました。上の図はフォロワーさんからの提供の京都府内の防空監視隊配置図で、いくつかのエリアに分けられ、そのエリア内に防空監視哨とそれをまとめる監視隊本部があり、本部は警察署に置かれていました。京都府警察本部庁舎に置かれた京都監視隊本部は京都市内だけでなく、京都府全体の防空監視任務も束ねる中枢だったのではと思います。その京都府警察本部庁舎に造られた防空監視哨はそれに見合った立派なものにする必要があったのかもしれません。(郊外の防空監視哨は山の上に丸太を組んだ粗末な櫓のようなものが多かった)

今でも日本全国に何か所かコンクリート製の防空監視哨が残されていますが、この京都府警察本部庁舎屋上にあった防空監視哨の設計図は、当時の防空監視哨の構造を知ることができる貴重な資料と考えられます。


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2023年10月17日

伊根町・新井崎防備衛所 遺構探索レポ日記

今から5年前の2018年、京都府伊根町の新井崎にかつて陸軍の砲台があったことを知り、探索を行いました。その際に新井集会所の雑木林の中に明らかに旧軍時代のものと思われるコンクリートの遺構を確認し、これが新井崎砲台の遺構だと思っていたのですが、伊根町史に載っている新井崎砲台の見取り図と全然違い悩んでおりました。
2020年、本来の新井崎砲台の遺構が2018年に確認した遺構の北方約500mの位置にあることが判明し、この遺構は新井崎砲台の遺構ではないことが確定されましたが、ではこの遺構は何なのか、特定できる資料も見つからずずっと謎のままでした。

※2020年の新井崎砲台の探索レポ日記はこちら。
伊根町・新井崎砲台跡探索レポ日記

2023年、京都市の歴彩館が所蔵する京都府行政文書の「軍需施設引渡目録」内に新井崎防備衛所の図面があることを発見。
新井崎防備衛所図面










※歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録」より、新井崎防備衛所施設図面。
もしやと思い、2018年に探索した際の記録と照らし合わせると施設図と遺構の位置がほぼ一致。これにより、これまで詳細不明だった新井集会所近くの遺構が新井崎防備衛所の遺構だと判明しました。
そのため、今回改めて新井崎防備衛所の遺構という認識の下、資料の施設図面を参考に再探索をしてきました。

新井崎防備衛所遺構位置図ブログ用










※新井崎防備衛所遺構位置図。
改めて作図。史料の施設図と現地での探索結果を基にトレースしてみましたが、近年新たに道路を作ったりして地形が変わったりしており、位置と縮尺は完全に合わせられていません。あくまで概略図という認識でお願いします。

というわけで、遺構位置図を基に紹介していきます。

8人力発電所跡










ー力発電所跡。整地された上に造られています。恐らく探照灯への電力供給や衛所・兵舎への電力供給のためでしょうか。施設図では長方形に描かれていますが、実際は張り出しがあったりします。発電機の台座があると思われますが、埋もれている可能性があります。自力発電は外部からの電力供給ではなく、自力で発電すること。隣に油庫があることから、恐らくディーゼルによる発電機で発電していたと思われます。旧陸海軍のこういった施設は大抵自力発電で、今でも発電所の建物跡や発電機を収めていたコンクリート壕などが残されています。
7人力発電所跡










自力発電所跡の北隅部。
10人力発電所跡碍子










自力発電所跡には碍子が残されていました。

5油庫跡










¬庫跡。コンクリートの壁が残されています。
6油庫跡(西から)










壁には南側と西側に開口部があります。
南側が正面の出入口。西側が西隣の自力発電所跡との連絡用通路だったのでしょうか。
9人力発電所跡から油庫を望む










自力発電所跡から油庫方面を望む。自力発電所跡は整地された油庫よりも高い位置に造られています。

4探照灯跡










C犠氾跡。施設図では探照灯と思われる円が描かれていますが、実際は四角い基礎が残り、角から斜めに基礎が伸びてます。この上に探照灯があったのでしょうか。
IMG_0076










ちなみに、新井埼神社の先の岬に経文岩という岩の洞窟があり、そこに古いコンクリートが残されています。地元ではここに探照灯が格納されていたと伝えられれ、説明版にもそう書かれていますが、施設図には探照灯は油庫の隣に描かれており、経文岩自体は書かれてはいるものの、施設としての記載はありません。もしかしたらここにも探照灯を設置しようとして中止したのが伝わったのでしょうか。

1衛所東側基礎










け匳蠕彭貘Υ霑叩新井集会所の南、道路に面した小屋の裏に古いコンクリートの基礎の一部が残されています。位置的に衛所跡と思われ、施設図に描かれた衛所の形と照らし合わせると、東側の張り出した部分の基礎と思われます。

2衛所西側基礎










3衛所西側基礎










ケ匳蠕彑沼Υ霑叩L渦箸領側と軒下にコンクリートの基礎が残されれています。施設図の衛所の形と照らし合わせると、西側の基礎だと思われます。
その他の基礎部分は撤去されたものと思われますが、東西の端の基礎が残されていますので、衛所の規模は復元できます。

11衛所跡付近










新井崎神社へ降りる道から衛所があった場所を望む。現在民家のある場所のやや東側に衛所がありました。民家の位置から新井崎神社へ下る道は施設図に書かれているので、当時からのもののようです。

12兵舎跡付近










κ室棒弯篦蠱蓮施設図と衛所跡の遺構から推測すると、新井集会所とグラウンドの一部に兵舎があったようです。しかし、造成のためか面影は全くありません。
Г寮橘腓魯哀薀Ε鵐匹琉銘屬砲△辰燭隼廚錣譴泙垢、今となっては全く分かりません。

これにて新井崎防備衛所の遺構探索となります。

新井崎砲台遺構配置図






新井崎には海軍の防備衛所と陸軍の新井崎砲台があり、新井崎砲台の方は上の遺構位置図と先に紹介した新井崎砲台遺構探索レポ日記の通り、砲具庫や油庫、便所といった建物の他に観測所跡や境界杭など多くの遺構が残されています。海軍の防備衛所跡と陸軍の新井崎砲台跡を合わせて見学できる旧軍遺構が集中して存在しているお勧めのスポットです。


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2023年09月22日

舞鶴要塞由良高射砲陣地予定地について。

京都市にある歴彩館にて京都府内の旧軍施設の資料を漁っておりましたら、今まで知らなかった興味深い資料が出てきました。

陸軍由良高射砲陣地2










歴彩館所蔵・京都府行政文書「軍需施設引渡目録3−2 昭和21年〜24年度」
旧陸海軍の施設だった敷地や建物は終戦後に進駐軍に接収されましたが、その後、学校や民間へ引き渡されました。その際に進駐軍に現状と今後の使用方法を申請し、許可が下りれば申請した使用方法で払い下げが許可されました。
その軍需施設引渡目録の中に「旧舞鶴要塞由良高射砲予定地」という題の資料を見つけました。
どうやら現在の宮津市由良地区の由良海岸に高射砲陣地を構築する計画があったようですが、未完で終戦を迎えたようです。それで、その高射砲陣地予定地は村の公園地として利用すると書いてあります。

陸軍由良高射砲陣地









その由良高射砲予定地の図面がありました。赤で囲んだ場所が由良高射砲予定地の敷地となります。
真ん中に海岸へ降りる階段があります。接岸できるようにしたのでしょうか。
この場所、見覚えがあり、Google Mapの航空写真で確認してみました。

現在の由良






現在の汐汲浜公園の位置になります。敷地の形が図面と同じですね。

昭和22年








国土地理院HP公開の昭和22年撮影の航空写真。今と同じ形の敷地が写っています。

現在の汐汲浜公園は海岸を造成して造られていることは間違いない公園です。今と同じ形の敷地が引渡目録の地図に描かれており、それが舞鶴要塞の由良高射砲予定地とされていることから、この汐汲浜公園は元々は高射砲陣地として造成はしたものの、結局高射砲は設置されず終戦を迎えた可能性が高いです。高射砲陣地が計画される前から造成されていた可能性も考えられますが、どちららにせよ、陸軍がここを高射砲陣地にしようとした旧軍遺構と言って良いのではと考えますし、今では観光客や海水浴客でにぎわう由良海岸も戦時中は軍事拠点だったということになります。

※2023年10月7日、現地を確認してきました。
20由良海岸高射砲陣地予定地全景










由良高射砲陣地予定地全景。現在は汐汲浜公園となっています。敷地は結構広く陣地構築のスペースとしては十分かと思います。
21由良海岸高射砲陣地予定地擁壁










汐汲浜公園は造成されて作られており、海岸側の岸壁は波返しになっています。
22由良海岸高射砲陣地予定地中央階段










汐汲浜公園の中央には階段が作られ海岸に降りれるようになっています。この階段は図面にも書かれており、当初からあったものです。
23由良海岸高射砲陣地予定地中央階段擁壁










階段の擁壁部分。コンクリートは型板の残るもので、骨材や質を見ると戦前の古いものです。その上に新しく補修のコンクリートが重ね塗りされています。
24由良海岸高射砲陣地予定地中央階段下










階段下は岩場であり、この日は波が荒く降りられませんでしたが、波が穏やかな日は海岸に降りて遊べる感じになっています。恐らくですが、戦前の昭和期に公園整備として大規模な造成が行われ、戦時中、陸軍(舞鶴要塞)が高射砲陣地とするために土地を接収。高射砲陣地予定地としたが実現せず終戦を迎えた感じでしょうか。史料の申請書では今後は公園地としての利用となっているので、本来の用途に戻したのかもしれません。

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2023年09月15日

京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。(資料追加修正)

※今回、京都市役所庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付ける資料を入手しました。記事本文中にて紹介しています。

1.外観全体










武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

2.資料













所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

6.地上から










河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

7.地上から










アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

16.屋上全体










京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

3.東側砲台










京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
4.東側砲台障壁










拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
11.平面図











京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
13.西側階段室内部










東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。
8.西側砲台










続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
9.西側砲台










西側階段室塔屋。
10.西側砲座上空













京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
12.改修前






こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
京都市役所001








所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。東側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
13.西側階段室内部










西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。

※この度、問い合わせていた京都市役所情報公開センターより、京都市役所本庁舎屋上に現存する対空機関砲座のコンクリート障壁を裏付けると思われる公文書資料を送っていただきました。
「市庁舎屋上防空陣地」という工事名の資料です。
10枚ある資料のうち、分かりやすい裏付け資料となる5つを紹介します。
1.内訳書










工事内訳書。「市庁舎屋上防空陣地工事」となっています。建築請負人は鈴木覚次郎氏。
調べたら、1957年の京都府建築士会に名前がありました。また屋号なのか、現在でも鈴木覚次郎の名前で建設業をされているようです。つまりはちゃんとした専門の建築業者。
1.工事竣成並清算報告










工事竣成並精算報告。これによれば工事着手は昭和19年3月28日。竣成は3月30日。その横はちょっと字がつぶれて読めませんが、〇営とも読めます。設営でしょうか。分かりませんが引渡しみたいな感じにも思えます。
気になったのが工期の短さ。たった2日で終わってます。無筋コンクリートの壁だけとはいえ、果たして2日で可能なのか。調べたらコンクリートは24時間でだいたい硬化し、夏場なら1.5日、冬場なら3日でほぼ固まるようです。建築に詳しいフォロワーさんによると、1日目の朝一に型枠を設置して午後にコンクリートを流し込み、翌日の午後から型枠を外して補修して完了でできなくはないと。戦時下ですし急造のものでしたでしょうから、かなり工期を急いで作ったのかもしれません。
※SNSで「着手3月28日、竣工3月30日はあくまで書類上の工期で、年度末だから、昭和18年度予算の消化でそういう工期にしたのではないか。実際は1ヶ月くらいの工期にしているのかもしれない。」というご意見をいただきました。確かに私も経験ありますが、予算の関係で、契約上は3月30日だけど
、実際は年度を超えて作業したりすることもありました。もしそうなら、工期的にも十分時間はあったと思いますし、無理なく作業できたはずですね。

2.工事施工伺2










工事施工伺い。備考欄に施工の仕様が書かれていますが、残念ながら文字が不鮮明で読み取ることは難しいですが、赤枠の部分、「水練混凝土」と何とか読めるような。もし当たっていたらあの障壁に間違いないのですが。
3.工事設計書1








工事設計書1。設計は工事開始の18日前になる昭和19年3月10日に行われています。
2.工事設計書2









工事設計書2。仕様を見ると、市庁舎屋上東南隅と北西隅に防空陣地を増築とあります。位置がちょっと違う感じなのが気になりますが。増築というのは既存のものに新たに付け足す形なので、階段室塔屋の上に増築ということなのでしょう。
ちなみに工事予算は200円。昭和19年の1円は現在の1200円くらいらしく、今でいうと24万円になりますが、工事費としては安すぎる予算に疑問を感じてましたが、仕様に「材ハ総テ支給スルモノトス」とあるため、単純に人件費他の予算なんでしょう(資材は市役所もしくは軍が提供した?)。何人で工事をしたか分かりませんが、運搬費と雑費を引いた168円。つまり現在だと201600円。仮に2か所を5人ずつで工事するとして、2日で20人日。つまり1人あたりの日給は10080円。妥当なところではないでしょうか。当時はもっと日給は安かったでしょうし。十分請け負える額だと思います。
今回入手した資料、残念ながら図面が無かったり、判読不可能な箇所があったりと完全に決め手となる記述が無かったのですが、ちゃんとした仕様書と請負契約書を作成していること、竣工届を出していること、請負業者はちゃんとした専門の建築業者であること、それなりの防空陣地工事を行った場所が現存している屋上階段室の上に残るコンクリート障壁しか昭和21年の航空写真でも見当たらないことなどから、この公文書資料は現存するコンクリート障壁工事の書類であり、あの障壁が防空陣地によるもの、つまり言い伝えられている対空機関砲座のコンクリート障壁であるという裏付けができる資料と考えていいのではと思います。

14.塔屋













京都市役所の塔屋の上には空襲を知らせるサイレンがあったようです。
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「京都空襲ーフライト8888」より。当時はこんな感じでサイレンがあり、
現在の文化庁となっている京都府警察部にあった防空監視本部より連絡を受け、
サイレンを鳴らしていたようです。

15.市役所から御所方面










京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
京都市内の高射砲陣地位置図










現時点で判明している京都市内の高射砲陣地・防空陣地の位置を記してみました。
これはもう少し修正をしていく予定。
あと、市内の防空監視哨に関して、現在文化庁となっている京都府警察部の屋上にあった防空監視哨の図面や将軍塚に新築された防空監視哨の図面など重要な発見もありました。それは別の記事にて報告します。

京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
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所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。

※2023年5月27日追記
朝日新聞 京都市役所砲台記事ブログ用







朝日新聞平成20年10月5日版「習慣まちブラ小路上ル下ル」に京都市役所屋上の高射機関砲座についての記事がありました(朝日新聞京都総局提供)。記事によれば、京都市の記録には無いが、「太平洋戦争中、大砲を置いて空襲に備えた。」や「師団街道を通って、深草の部隊が防衛に来ていた」という複数の証言が紹介されています。この証言が正しいなら、陸軍の部隊が高射機関砲座を担当していたことになるため、市や府の記録に無いのもうなづけます。
昭和21年航空写真









フォロワー様から頂いた、昭和21年撮影の航空写真です。
京都市役所庁舎の両側に対空機関砲座の障壁が確認できます。
昭和28年撮影の京都市役所ブログ用







『「京」なかぎょう : 中京区制60周年記念誌』に掲載されている、昭和28年に撮影された京都市役所庁舎。屋上の東西の塔屋の上には砲座のコンクリート障壁が見えます。
砲台




砲座の拡大。現在は失われている西側の砲座のコンクリート障壁が写されています。

今回、京都市の公文書に裏付けとなる資料を入手することができました。
京都市内に現存する貴重な防空砲台、しかも市役所本庁舎に現存ということも踏まえて、市役所側も何が説明版等で周知してもらいたいものですが。



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2023年09月12日

第十六師団司令部 副官官舎の現存確認について

16師団










※旧陸軍第十六師団司令部庁舎。

京都市伏見区深草にかつて陸軍第十六師団司令部がありました。戦後敷地は聖母女学院となりますが、
現在も明治41年完成の師団司令部庁舎や京都偕行社などの建物が現存しています。
京都偕行社










※旧京都偕行社。現在は愛徳修道会。

旧第十六師団司令部関連の現存遺構は良く知られており、様々な文献やサイトで見ることができます
(というわけで、第十六師団の詳細な解説は省略します)。
ですので、まだ知られていない遺構はもう存在しないと思われていたのですが…
今月、とある依頼を受け深草地域の旧軍遺構と戦争遺跡に関して改めて調べていたのですが、何気に第十六師団司令部のあった聖母女学院の一帯の航空写真を見ていると、あることに気づきました。
聖母女学院








※GoogleMapより引用。

赤枠で囲った建物。一見何の変哲もない民家に見えますがどうも引っかかる。
実はこの建物の北側にかつて第十六師団長官舎の建物があったのですが、
師団長官舎1









師団長官舎2









※在りし日の第十六師団長官舎(1995年頃。管理人撮影 )

保存運動が起きたものの、約20年くらい前に取り壊され、跡地は住宅地となりました。
しかし、この建物は新たに建てられた住宅とは規模も形も違い、また敷地の広さや傾きも違う。
戦後に建てられたものかもしれないが、どうも引っかかる。それにもし戦前からの建物であるなら、軍用地の中の建物となるため、第十六師団関連の建物の可能性があるのでは。
というわけで、近代京都オーバーレイマップの戦前の都市計画図および、国土地理院公開の昭和21年の航空写真と現在の航空写真を見比べてみることに。
16師団副官官舎位置図









建物の規模、位置、傾き等を考慮すると、これは当時の第十六師団司令部関連の建物の可能性が高いのではという結果に。特に昭和21年の航空写真を見ると現在と同じ寄棟の屋根であることが分かります。
都市計画図に描かれている太いラインは軍用地の境界である土堤を記したもので、件の建物がかつては軍用地内にあったものだということが分かります。
師団司令部航空写真








こちらは「未来へ紡ぐ深草の記憶から」というサイトにある第十六師団司令部の航空写真(昭和10年頃。所蔵・聖母女学院)。赤枠が問題の建物。この写真でも寄棟屋根であることが分かり、戦前から屋根の形状は変わらないということが判明しました。

これらの結果をいつもお世話になっっています盡忠報國様にお伝えし、意見交換を行いました結果、師団司令部の佐官クラスの副官官舎の可能性が極めて高いという見解を頂きました。
そこで、実際に9/9の土曜日に確認をしてまいりました。
副官官舎1










副官官舎と思われる建物の外観。現在は個人宅となっており(※表札を修正)、外観は大きく変更され屋根瓦も吹き替えられています。また、かつて土堤があったと思われる場所は生垣とブロック塀になっており、面影はありません。
副官官舎2










しかし、聖母女学院の敷地側となる奥側は当時のままの下見板張りの外観が保たれていました。奥には出窓らしきものも見えます。次に副官官舎の入り口、玄関の位置についてですが、現在は建物の東側に門がありますが、昭和10年代の航空写真や、昭和21年の航空写真を見ると、今より北側に門があり、副官官舎の北側の面に向かって道が伸びてます。
副官官舎1










敷地の入り口となる門は現在は東になっていますが、門から建物への導線は北側を通ってます。
玄関か










また、よく見ると今でも玄関入り口と思われる三角の小屋根が確認できます。
第二師団副官官舎










こちらは第二師団の副官官舎の平面図。
「旧陸軍省における官舎建築の供給制度と平面構成について」より引用。
この第二師団の副官官舎も方角は違いますが、建物の長辺側に玄関を設け、玄関を入って左側に浴室や台所、向かって右側に居間と客間があります。居間には出窓があり、先ほど上げた外観の写真と一致します。官舎はほぼ画一化された設計をしており、この第十六師団の副官官舎も第二師団副官官舎とほぼ同じ平面プランと間取りをしていたものと思われます。
平屋の官舎ですが、客間は床の間を備えた書院造となっており、格式を持っています。

盡忠報國様の見解だと、佐官級の丙号官舎の可能性が高いとのことでした。
奥に残る当時の外壁や建物の平面プラン、屋根の形状から躯体も含めて当時の状態で残されているものと思われます。
※本当は奥側へ回り込んで確認したかったんですが、聖母女学院の敷地となっているため不可能でした。ただ、写真は撮ってませんが、北側に立ち並ぶ住宅の隙間から少し確認することはできました。
第16師団副官官舎新築工事の件1









※「第16師団副官々舎新築工事の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031382800、永存書類乙輯第2類 第3冊 明治44年(防衛省防衛研究所)

アジア歴史資料センターに第十六師団の副官官舎新築に関する資料がありました。書かれている仕様書や図面が公開されていないのは残念ですが、新築工事の文書を作成した時期から見て、副官官舎が完成したのは明治45年頃でしょうか。
また、「建築敷地は買収必要なし」と書かれているため、すでに軍用地となっている師団の敷地内に新築したことが分かります。

師団長官舎は戦後大蔵省に移管され、結局取り壊されましたが、副官官舎の方は戦後すぐかどこかの時期で民家となり一部改装はされつつも現在まで残り続けたのでしょう。

第十六師団司令部関連の遺構は有名で、多くの人に知られているため、もうこれ以上の新たな遺構の発見は無いだろうと思われていただけに、今回の副官官舎の現存の確認は大きな成果ではないかと自負しております。

※詳細な考察と見解は、盡忠報國様のブログ記事に委ねることにしますw

besan2005 at 13:07|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2023年06月25日

陸軍伊良湖試験場・福江観測所遺構探索日記

愛知県田原市にある伊良湖試験場と福江観測所の遺構を探索してきました。
伊良湖試験場は明治34年、陸軍が大砲の実射試験場として開設した施設で、渥美半島の北西の部分に各施設が造られました。現在、有名な六階建の気象塔兼展望塔を始め昭和初期頃に建てられたと思われる鉄筋コンクリート造の建物がいくつか残されています。

伊良湖試験場遺構位置









今回探索した遺構の位置図。

1歩哨舎










(眈ゼ法8園の入り口に移築されています。
3境界石










歩哨舎の横に移設されている「陸軍省所轄地」の境界杭。

2解説版










説明版。
公園内には脱油庫の建物もあったようですが、取り壊されたようです。
次は公園の向かいにある田戸神社へ。

4正門










∪橘隋E銚与声劼了夏餐阿砲△詭臙譟1本だけ残されています。

5信管検査施設兼展望台










信管検査施設兼展望台。
田戸神社の境内に残る遺構。六階建が完成する前は木造の櫓を建て、信管の検査や気象観測をしていたそうです。これは櫓の柱の基礎。
6信管検査施設兼展望台










もう1つ残されています。
7信管検査施設兼展望台










その先にあるコンクリート構造物。
8信管検査施設兼展望台










境内側から。
9信管検査施設兼展望台










内部は空洞になっています。当時の写真を見ると、この上に木造の櫓が建っており、どうやら上から信管を落として作動を確認していたようです。
次に公園の外周を探索。

10コンクリート建物










じ園に隣接した民家の側に残るコンクリートの建物。検査室とも呼ばれています。
11配電室










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公園を後にしていよいよ有名な六階建のあるエリアへ。

12六階建










Φぞ歸齋鹽庫湘磧0卜標仍邯馨谿箙修任發辰箸睛名でシンボル的な建物。
昭和5年の完成で、大砲の弾道・風速・風向きなど観測していました。
13六階建










有名な遺構なので写真では何度も見てましたが、実際に見ると迫力あります。
14六階建










反対から。
17説明版










説明版。個人所有なので無断での立ち入りは禁止。
18内部










なので、入り口から1階内部のみを撮影。階段はしっかりしてそうです。
19機銃掃射痕か










壁面に機銃掃射の痕らしきものがありますが、分かりません。

15電信室










無線電信室。気象塔兼展望塔のすぐ近くにあります。
20230624_111936










渥美半島各所にある観測所や監的所との連絡を行っていました。
16遠景










気象塔兼展望塔と無線電信室の遠景。よく残されたと思います。
しかし、やはりコンクリートの剥離やそれによる鉄筋の露出など老朽化の問題は大きいかと。
ぜひ保存し伝えていってもらいたいものです。
有名なこの建物以外にも周辺に遺構が残されているのでそちらに向かいます。

20検圧所










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21検圧所










向かって左が避害所で右が検査官室。避害所は着弾等での爆風から守るためか、監視窓はスリットになってます。

24弾薬庫










弾薬置場。
23弾薬庫










弾薬庫とは違うものでしょうか。

25器具庫










器具庫。弾薬置場の裏、民家の側にあります。物置でしょうか。

26観測所か










煉瓦構造物。次の目的地、福江観測所へ向かう途中で見かけた怪しい煉瓦構造物。
27観測所か










草に覆われて全体がはっきり分かりませんが、どうも福江観測所や右禅坊観測所と同じ観測所だった可能性があります。
次に福江観測所に向かいますが、その前にどうしても寄りたかった場所が。

28福江小学校










歩兵第441連隊本部跡。現在、福江小学校となっている場所はかつて福江国民学校であり、戦争末期はその福江国民学校に陸軍歩兵第441連隊の連隊本部が置かれていました。 急造の部隊のため、兵舎とかは無く、福江国民学校だけでなく、近隣の学校や民家や寺などを兵舎に充てていたようです。

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歩兵第441連隊は本土決戦に備えて急造された54個師団の1つ、第153師団(護京部隊 編成地・京都)の所属部隊で、昭和20年4月10日に敦賀にて編成された連隊です。5月ごろには渥美半島に進駐して米軍の上陸に備えた沿岸守備隊でした。
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実は私の祖父が最後に配属されたのが歩兵第441連隊で、当時曹長だった祖父は連隊本部付の下士官としてこの地に赴任しました。写真の連隊旗と祖父母の写真(昭和20年)は祖父のアルバムにあったもの。
かつてこの場所で祖父が任務にあたり終戦を迎えたかと思うと感慨深いものがあります。
古写真・歩兵第441連隊 連隊旗・軍旗拝受式(祖父のアルバムより 昭和20年4月頃)
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祖父の遺品の一つの軍用行李。行李に書かれている「護京22653」は歩兵第441連隊のこと。
祖父の遺品の軍装品一覧の記事はこちら

そして最後に向かったのが。

29福江観測所










福江観測所。渥美護国神社の近くにある煉瓦造りの観測所。大正8年完成。
30福江観測所










2階建てで、2階部分は露天の展望台となってます。ここでは監的所の役割や遠距離射撃で砲撃された砲弾の観測を行ってました。
31福江観測所










階段を上がったところの2階部分。
32福江観測所










1階部分は屋根付きで、横長の窓があります。
33福江観測所










内部より。
34福江観測所










2階側の窓。
35福江観測所










観測をしていた横長の窓。
39福江観測所










外側から。
36福江観測所










階段部分の煉瓦壁はわざわざ段々にしています。
煉瓦建築ということもあるのと、入り口のアーチや石造の階段、2階の展望台も併せて中々洒落たデザインをしており、場所が護国神社に近ければ、整備して休憩所とか東屋とかにしてもいいくらいの良い雰囲気の建物に思えます。ちなみに渥美半島の南部の右禅坊にも観測所があり、福江観測所とほぼ同じ形の煉瓦建物ですが、右禅坊観測所の方は屋根が崩壊しており、今回は時間の関係もありパスしました。その他、外浜観測所もありましたが、現在は行けないようです。
37陸軍境界










福江観測所の側にある「陸」の境界杭。コンクリート製。
38陸軍境界










もう一つ、「陸軍」の境界杭。こちらは石製。石製が大正期、コンクリート製が昭和期でしょうか。

これにて伊良湖試験場と福江観測所、そして祖父が最後に赴任した歩兵第441連隊の連隊本部跡の福江小学校の探索は終了。以前から行きたかった伊良湖試験場の六階建だけでなく、祖父の軍隊時代の足跡も辿れる探索となりました。

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2023年06月18日

豊橋市・第十五師団(豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校)・周辺陸軍施設探索日記

愛知県豊橋市にある旧陸軍第十五師団とその周辺にある陸軍施設を探索してきました。
陸軍第十五師団は日露戦争時に大陸で編成された師団を豊橋に置くことが決定し、現在の愛知大学の敷地に師団司令部を設置。その周辺に歩兵連隊・騎兵連隊・野砲兵連隊・輜重兵大隊等が置かれました。しかし、第十五師団は大正14年の宇垣軍縮により廃止(後、名古屋にて再編成)。第十五師団および師団と同時に廃止された歩兵第60連隊の敷地は下士官養成学校である豊橋陸軍教導学校となりました。昭和14年には豊橋陸軍教導学校の敷地内に陸軍予備士官学校が設置されました。
戦後、第15師団師団司令部と歩兵第60連隊の敷地は愛知大学となってますが、師団司令部庁舎他、いくつかの建物が残り、周辺の陸軍施設を含め数多くの遺構が残されています。
第15師団司令部遺構配置図









※第十五師団・周辺陸軍施設遺構位置図。
まずは師団司令部のあった愛知大学へ。連絡をしたら見学を許可していただきました。

14第15師団正門










\橘隋石張りの立派な門です。
20230617_082109










敷地を取り囲むコンクリートの塀は豊橋陸軍教導学校時代に造られたもの。
15第15師団庁舎










第十五師団司令部庁舎。明治41年に竣工。木造の庁舎で貴重な近代建築です。宇垣軍縮後は騎兵旅団司令部や陸軍予備士官学校の庁舎として使用され、現在は愛知大学記念館となっています。
18第15師団庁舎










背面。コの字型のシンメトリーないかにも庁舎といった建物。
16第15師団庁舎










玄関。訪れた土曜は休館で入れず…
17第15師団庁舎










窓越しに内部を撮影。階段等当時の姿が良く残されています。

19第15師団機銃廠










B莉集淹嫦諜―鴇魁L声41年築。機銃の整備等を行うための建物で、陸軍教導学校時代も同じ用途で使用されました。
20第15師団機銃廠










外観も当時のまま。棟瓦には陸軍の星章があります。

21養生舎










ね楡擬法昭和2年。豊橋陸軍教導学校時代の建築。屋根には陸軍の星章があります。
かつては第十五師団の偕行社の建物もありましたが、残念ながら10年ほど前に取り壊し。
次は同じ敷地内にある歩兵第六十連隊関連の遺構。

22第60連隊将校集会所










κ睚実茖僑囲隊将校集会所。明治41年築。第十五師団司令部庁舎の裏側にある建物。
23第60連隊将校集会所










明治後期〜末期の将校集会所によく見られる外廊下。
25第60連隊将校集会所










外廊下を歩くと内廊下へと至ります。
26第60連隊将校集会所










内部の感じ。天井に照明の座繰りが残されています。
24第60連隊将校集会所










外の扉の三角破風には陸軍の星章が。屋根瓦にも星章がそのままで、戦後取り外されることが多い中、これだけ残されているのは貴重です。
27第60連隊将校集会所便所










将校集会所には付属屋の便所も残されています。
28第60連隊将校集会所便所










内部も小便器以外は扉など当時の物っぽい。

29第60連隊将校集会所門










将校集会所の前にある門柱。
30第60連隊将校集会所燈籠










将校集会所の前には庭の跡が残されていますが、その一角にある燈籠。
31第60連隊将校集会所通路










将校集会所の敷地に入るコンクリートの通路。敷地を区切る土塁を切った形になってます。

34第60連隊弾薬庫跡










歩兵第六十連隊弾薬庫正門。弾薬庫自体は現在プールになってますが、正門と土塁の防爆壁が残されています。
35第60連隊弾薬庫跡土塁










歩兵第六十連隊弾薬庫防爆壁。

33第60連隊厩舎










歩兵第六十連隊厩舎跡。現在の建物は新しそうですが、もしかしたら基礎周りのみを改修してかつての厩舎の建物を利用している可能性もあります。現在も馬術部の厩舎。

32第60連隊正門










歩兵第六十連隊正門。第十五師団の正門とデザインがよく似ています。

36豊橋陸軍教導学校大講堂










豊橋陸軍教導学校大講堂。昭和2年築。
37豊橋陸軍教導学校大講堂










連隊廃止後の豊橋陸軍教導学校時代に建てられた大きな建物です。現在は愛知大学の体育館。
38豊橋陸軍教導学校大講堂










正面玄関。
39豊橋陸軍教導学校大講堂










持ち送りの金具。建物が大きいので持ち送りも大きいです。
愛知大学構内の旧軍遺構はここまで。次は周辺の旧軍施設を探索。
60第三師団陸軍兵器支廠正門・歩哨舎










第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所正門・歩哨舎。陸軍兵器廠は兵器や弾薬の管理や補給をしていた施設。各師団に支廠が置かれ、師団への兵器・弾薬等の補給任務にあたってました。第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所は第十五師団が設置された明治41年に開設。
61第三師団陸軍兵器支廠正門










正門。
62第三師団陸軍兵器支廠歩哨舎










歩哨舎。目の前を豊橋鉄道の線路が通り、愛知大学側からも門扉が閉まっているため、近づくことができないのが残念。

63第三師団陸軍兵器支廠南門










第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所南門。煉瓦造の門柱。南部中学校の敷地内にあります。

45豊橋憲兵分隊正門










豊橋憲兵分隊正門。
46豊橋憲兵分隊正門










昭和初期頃のものと思われます。ちなみに敷地は現在も交番。

47騎兵第19連隊東門










騎兵第十九連隊東門。門柱は当時のものでは無いかな?外周の土塁の石積擁壁は当時のもの。
48騎兵第19連隊東門擁壁










石積擁壁。外周土塁の前に新たにブロック塀が造られている様子が分かります。

49騎兵第19連隊正門跡か










圧格実莉酋縅隊正門跡か。門柱は新しいですが、
50騎兵第19連隊正門擁壁










51騎兵第19連隊正門擁壁










外周土塁の石積擁壁は当時のまま。外周土塁も当時のまま残されています。
52騎兵第19連隊4築山か










現在は福岡小学校の敷地となってますが、門の奥に築山のようなものが。門の広さと合わせてかつての正門ではと思いました。

53野砲兵第二十一連隊石積み擁壁










洩酲な実萋鷭衆賚隊石積擁壁。敷地は現在時習館高校となってますが、外周に石積擁壁が残されています。

59輜重兵第15大隊正門










雅禄妬実莉集淆臑眄橘隋K橋工科高校の敷地に残されています。

58輜重兵第十五大隊擁壁










轄禄妬実莉集淆臑眄仞冤癖鼻D麺冖腓世辰燭隼廚錣譴泙后3読隊の跡地は学校等になってますが、かつての敷地の出入り口がそのまま使われているため、当時の石積擁壁が多く残されています。

54騎兵第二十六連隊北門










患格実萋鷭熟始隊北門。団地の一角にひっそりと残されています。この団地、ほとんど住人がいないのか、一部の棟は閉鎖。仮に取り壊しとなればこの門柱も撤去される恐れもあります。

55騎兵第二十六連隊正門










㉑騎兵第二十六連隊正門・歩哨舎。騎兵第二十六連隊の敷地だった場所の一部が公園となり、そこに正門と歩哨舎が移築されています。
56騎兵第二十六連隊正門










門柱には木製の看板が掲げられ、その風化具合から当時の物ではと思いましたが、どうやら移設時に復元したもののようです。
57騎兵第二十六連隊歩哨舎










歩哨舎。同じ豊橋市にあった歩兵第十八連隊の歩哨舎や第三師団陸軍兵器支廠豊橋出張所の歩哨舎とよく似た造りです。
愛知大学周辺の旧軍遺構はここまで。ここから北上し、第十五師団の優れた建築を見に行きます。

40第15師団長官舎










サ貘莉集淹嫦陳拘閏法L声45年。洋館と和館が併設する建物。住居建築ということもあってか、華やかな外観です。
41第15師団長官舎










正面玄関。
旧第十五師団長官舎内部4










旧第十五師団長官舎内部3










窓越しに内部を撮影。暖炉等当時の状態で良く残されています。
42第15師団長官舎正門










煉瓦造の正門も残されています。旧第十五師団長官舎は愛知大学の公館として使用されていましたが、現在は使用されておらず空き家状態。豊橋市の指定文化財となってますから取り壊しは無いと思いますが、優れた明治期の近代建築であると同時に数少ない師団長官舎ですので、ぜひ整備して公開してもらいたいものです。
旧第十五師団長官舎を後にし小池駅へと向かう途中。
64陸軍境界杭










㉒「陸軍省所轄地」の境界杭を発見。
64陸軍省境界杭










もう1本見つけましたが、草ぼうぼうな上に私有地っぽかったので遠くから撮影。
ここから離れた場所にある向山町の工兵第十五大隊の跡地へ。

43工兵第15大隊炊事場










㉓工兵第十五大隊炊事場。明治41年。工兵第十五大隊で唯一残されている建物。
44工兵第15大隊炊事場










長い煉瓦造りの建物ですが、半分が個人宅として使用されていました。

以上で第十五師団関連の旧軍遺構の探索は終了。第十五師団司令部・歩兵第六十連隊の跡地にある愛知大学構内だけでなく、周辺の陸軍部隊の跡地にも本来ならば失われてそうな遺構が数多く残されているのが素晴らしいです。次回は同じ豊橋市にある旧陸軍歩兵第十八連隊の跡地にある遺構群の記事を書く予定です。

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2022年12月25日

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構探索レポ日記

兵庫県福崎町にかつて大阪陸軍航空補給廠姫路出張所という陸軍の施設がありました。
大阪陸軍航空補給廠姫路出張所は大阪陸軍航空支廠の機材や燃料の管理部門として昭和17年に完成しました。
今回、福崎町の近代建築探索のついでに大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の遺構の探索もすることにしました。ただし、遺構の詳細に関してはあまり分からなかったので、いつもお世話になっています「大日本者神國也」の管理人、盡忠報國様よりアドバイスを得て探索しました。
※大日本者神國也 大阪陸軍航空補給廠姫路出張所
しかし、目当てにしていたいくつかの遺構に関しては確認できなかったり、辿り着けなかったりと未探索に終わった遺構もあり、不完全燃焼な結果に。なので、当記事は探索できた遺構のみ紹介いたします。
なので、詳細な情報が知りたいという事でしたら、盡忠報國様のブログの記事を閲覧される方が良いかと思います。

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構配置図










大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構位置図。
戦後、大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の跡地は町の誘致により養鶏場が完成しますが、杜撰な経営により新たに工業団地となることが決定し、現在は福崎工業団地となっており、その際に主要な遺構はほぼ取り壊されたものと思われます。現在は敷地の中心から離れた箇所や山中に残された遺構が点在する形となっています。

1.正門







\橘隋L渦箸力討稜鴫阿力討忙弔気譴討い泙后L膸イ寮廚残っています。
2.正門







裏側。国旗を掲揚していた金輪が残されています。かつては門扉の金属製の蝶番がありましたが、恐らく戦後すぐに取られたものと思われます。

3.裏門







⇔¬隋B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の遺構では一番知られているもので、正門と違い門柱は2つ残さています。写真は敷地外から。
4.裏門







敷地内から。蝶番が全て取られています。
5.裏門説明板







裏門の脇には説明板が設置されています。

6.コンクリート構造物







コンクリート構造物。裏門の敷地内側のすく近くにある遺構。

7.コンクリート構造物







何の遺構かは不明。盡忠報國様は焼却炉ではと書かれています。

8.土堤







づ敖蕁B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の敷地を区切る境界の土堤。
9.土堤







断面は三角形です。

この他にも山中に乾燥火薬庫の跡が2ヵ所あり、火薬庫基礎や石垣擁壁や貯水槽が明瞭に残っているようですが、向かったはいいものの、進入路が全く分からず断念。 消化不良の残念な結果となりました。
あと、周辺には地下壕もいくつか残されているようです。

besan2005 at 12:15|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

舞鶴市・博奕岬防空砲台遺構見学レポ日記

舞鶴市の博奕岬にかつて明治時代に陸軍により建設された探照灯と太平洋戦争中に海軍が建設した防空砲台がありました。現在、海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっているため立ち入り禁止となっていますが、今回、フォロワーさんの粘り強い交渉により、海上自衛隊の方々の案内のもと、博奕岬防空砲台の遺構を見学することが出来ました。(2022年6月24日見学)。
交渉をしてくださったフォロワーさん、案内をしてくださった海上自衛隊の広報の方々には貴重な体験をさせて頂き、厚く御礼を申し上げます。

さて、博奕岬防空砲台ですが、上記の通り元々は明治33年に陸軍の探照灯が造られていました。その後、演習砲台として使用され、
昭和16年に海軍が敷地を取得。防空砲台として再利用されます。
博奕岬防空砲台 舞鶴海軍警備隊戦時日誌昭和17年10月20日









アジア歴史資料センター所蔵「舞鶴海軍警備隊戦時日誌(C08030485700)」より昭和17年10月20日撮影の博奕岬防空砲台。

博奕岬防空砲台遺構位置図








博奕岬防空砲台各遺構配置図。(管理人作成)

博奕岬防空砲台は昭和17年11月に完成します。
海軍の防空砲台は舞鶴市内に舞鶴湾を囲むように8ヵ所設置され、槇山・浦入・建部山のように明治期の陸軍の砲台を利用したものもありましたが、倉梯山防空砲台のように新たに設置された砲台もありました。
10年前に探索した倉梯山防空砲台のレポ日記。

博奕岬防空砲台は前述の通り海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっており、山頂の博奕岬防空砲台がある場所へと向かう山道の入り口には大きなゲートがあり、立ち入り禁止となっています。今回は海上自衛隊の方々の案内のもと、ゲートを通り向かうことになりました。

1軍道擁壁石垣










舗装路をそのまま登ると明治期の陸軍時代と思われる石積擁壁が出現。灯台へ至る舗装路もかつては軍道だったことが分かります。

2灯台前門柱













舗装路を登りきると灯台が見え、その手前にコンクリート製の門柱が現れます。

20220624_130707







岬の山頂にある博奕岬灯台灯台。最近外壁がリフォームされて綺麗になってますが、大正11年築。

IMG_1766













灯台の近くにある石製の門柱。明治期の物でしょうか。

3指揮所壕










灯台を過ぎさらに進むと、上部に荒廃した戦後の監視所の建物がある箇所に。その下のコンクリートの地下壕がかつての指揮所壕でした。

4指揮所壕










指揮所壕の入り口。

5指揮所壕入り口










指揮所壕の入り口に入ると、奥に木製の引き戸があります。

6指揮所壕内部










内部は物置になってましたが戦時中の当時のままでした。

7指揮所壕脇階段













指揮所壕入口脇の階段。戦時中も壕の上に監視の建物があったそうで、戦後に新たに建て替えたようです。

8指揮所壕脇の柵










指揮所壕の周りを囲むコンクリートの柵柱。

9指揮所壕近くの貯水槽










指揮所壕の近くの貯水槽。

IMG_1813










指揮所壕を過ぎ、しばらく歩くと道が分かれており、下へ下る道の方を進んでいくと、自衛隊の施設だったと思われる半ば廃墟と化した建物が見えてきます。そして、その建物の玄関の前に、

17地下式弾薬庫前高射砲座










高射砲の砲座がありました。8センチ高角砲の砲座と思われます。

10地下式弾薬庫










そしてさらに奥にコンクリートの弾薬庫壕が。

12地下式弾薬庫鉄扉










鉄扉も残されています。開いていたので入ってみました。

13地下式弾薬庫内部










14地下式弾薬庫内部










内部の奥壁は煉瓦になってましたが、どうも元々はもっと奥まであったのを途中で煉瓦で塞いだようにしか・・・。理由は不明ですが。

11地下式弾薬庫前貯水槽










弾薬庫壕前の貯水槽。

16地下式弾薬庫前木造建物










弾薬庫壕前、自衛隊施設に付属している木造建物。これも防空砲台時代の物で、別のフォロワーさんが紹介していた東京湾要塞金谷砲台の看守営舎によく似た造りですしかし、痛みもなく綺麗に残っています。

18埋第五号境界石













再び岬の上の道に戻り、そこから岬の先端に向かって尾根道を進みます。その尾根上に立つ「埋第五號」の境界石。見かけたことの無い珍しいタイプ。

19すり鉢状台座










尾根道を進んでいくとこのようなすり鉢状の台座が現れます。何かを据え付けていたボルトが見えるので、当初は砲座かと思ってましたがどうも違うのではという意見がメンバーから。探照灯は別の箇所にあるので、施設リストから聴音機か高角双眼鏡の台座ではと考えてます。

20すり鉢状台座正門










先ほどのすり鉢状台座の手前にはコンクリートの門柱と柵柱が。柵柱には未だに有刺鉄線が残されていました。

21貯水槽










一旦指揮所壕の場所まで戻り、今度は弾薬庫壕と高角砲座のあった地点の反対側の尾根下へ。
整地した平坦地となっており、小さな貯水槽などがありました。

22有蓋式退避壕










その脇にコンクリート製の半地下式の壕のようなものが。
20220624_135725







現地形を見ると、どうも当時は入り口前はスロープ状となってて、中に逃げ込めるようになっていたっぽいです。退避壕だったのでしょうか。

23電灯室










灯台まで戻り、灯台南東側の岬の最高所にある箇所へ。戦国期の山城の横堀のような土塁が回る道を歩いていくと、明治の陸軍時代の探照灯のあった電灯所に至ります。

24電灯室発電機台座










明治期の砲台の掩蔽部と同じ形ですが、奥に煉瓦の電灯井があるので、明治期から電灯所として造られていたようです。ただ、発電機は改められたのかコンクリートの台座となってました。

IMG_1839










内部から。入口脇に木製の壊れた古い椅子が放置されていました。当時の物でしょうか?

25電灯室井










電灯井。ここから探照灯を出し入れしていました。

26電灯室井上から










電灯所の上。先ほど下から見上げた電灯井の穴が見えます。かつてはどうやら屋根が掛けられていたようです。

IMG_1844










電灯所上部の周辺には探照灯の物らしきガラス片が大量に散乱していました。厚さは1cmくらいある分厚いもので、やや黄色がかってました。探照灯の撤去の際に割れたか破壊したのでしょう。

27電灯室門柱










電灯所を過ぎてすぐの所に立派な石製の門柱が建っていました。明治期の物の様で、この門柱の先も軍道らしき道が麓に向かって伸びているので、かつての正門だったのかもしれません。

28貯水槽か










門柱を過ぎて軍道跡を進むと水槽らしきものが見えました。他の旧軍遺構では見たことの無い造りです。雨水を貯めた水溜でしょうか。

29沈砂槽










さらに下って行くとコンクリート製の水槽がありました。形から恐らく沈砂式の浄水槽だったと思われます。

30発電室










電灯所から伸びる軍道跡を下って行くと灯台に至る舗装路に出ます。舗装路をそのまま下って行くと舗装路から枝に延びる旧軍道があり進むと煉瓦造の発電機室の建物が見えてきます。

31発電室門柱










発電機室の前にも石製の門柱と柵柱がありました。

33発電室










屋根は失われてますが煉瓦の躯体は 良好に残されており素晴らしいです。

32発電室内部










内部には煉瓦造の発電機の台座が残されています。明治期の探照灯時代から発電機室として作られたものです。

IMG_1868










発電機室の背後の一角。燃料を入れていたスペースでしょうか。

IMG_1859













木製の窓枠も残されていました。アーチ部分は丁寧に削って作られたもので木材もしっかりしたもので明治期の仕事の丁寧さが伺えます。昭和戦中期の細工の粗さとは対照的です。

34発電室脇基礎










発電機室の脇にある煉瓦基礎の建物跡。何の施設だったかは不明。

35発電室貯水槽










コンクリートの貯水槽。これは防空砲台時代のものと思われます。

38兵舎跡への石橋










発電機室を過ぎ、軍道跡を進むと石橋がありました。

36兵舎跡への石橋










37兵舎跡への石橋










小さな谷に架けた石橋ですが、石積の擁壁も相まって、まるで庭園のような優雅さを感じますw

39石橋脇の井戸










石橋の脇にある井戸。井戸枠は煉瓦積みでした。

40兵舎跡










石橋を過ぎると見えてくる兵舎跡の基礎。当時使われていた食器類の破片が散らばってました。

20220624_150903







便所跡。どうやら防空砲台時代の物のようです。

20220624_150845







反対側から。

20220624_150818













内部を見ると、やはり戦前のようですね。

今回の博奕岬防空砲台の見学会は、フォロワーさんの交渉により実現したもので、海上自衛隊の協力のもと正式な探索をすることが出来ました。重ねて御礼申し上げます。
というわけで、博奕岬防空砲台のある博奕岬は無許可での立ち入りは厳禁です。
そのあたりの話も隊員さんに聞いたのですが、海上自衛隊の敷地内なので、無断の侵入者があれば当然警ら隊がやってくること、海上自衛隊には逮捕権が無いので厳重注意で済むが、これが海上保安庁となると、逮捕される恐れがある(博奕岬灯台は海上保安庁の管轄で、立ち入り禁止区域)とのこと。
施設自体は老朽化しており現在は使われていませんが、以上の理由で無断進入は厳禁なのでご理解いただけたらと思います。博奕岬防空砲台の遺構に関しては拙い内容ですが、当記事で感じて頂けたらと思います。


besan2005 at 11:25|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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