旧軍遺構

2023年03月08日

京都市役所本庁舎屋上に残る高射機関砲座について。

1.外観全体










武田五一の設計により第1期工事の昭和2年と第2期工事の昭和6年に完成した京都市役所本庁舎。以前は建て替えの話もありましたが、本庁舎の歴史的価値が認められ、免震等の改修により保存が決定しました。その京都市役所本庁舎ですが、あることをきっかけに戦時中に高射機関砲が設置され、その高射機関砲座の遺構が残されていると知りました。

2.資料













所蔵書籍による記載。「語りつぐ京都の戦争と平和」より。これによると、京都市役所本庁舎の屋上にある円形のコンクリート構造物は、高射機関砲の砲座だったと書かれています。また、市内には西大路七条西、深泥池北の京都博愛病院の裏山、将軍塚、伏見区久我に高射砲陣地があり、これ以外にも花山天文台の南にも高射砲陣地があったことが判明しています。
京都市役所は近代建築という観点で何度も公私ともに訪れていましたが、高射機関砲座が残されていることは全く知らなかったため、それについては着目していませんでした。そこで近くですし用事がてら京都市役所へ向かう事にしました。

6.地上から










河原町通り側から見た京都市役所本庁舎。今まで気づかなかったですが、屋上に怪しい円形のものが見えます。

7.地上から










アップにしましたが、1ヵ所が開口しています。今まで新しく作られたタンクかなと思ってスルーしていましたが、これは確かに。近くで観察するために屋上へと向かいます。

16.屋上全体










京都市役所本庁舎の屋上は屋上庭園に整備され、平日であれば誰でも入ることができます。

3.東側砲台










京都市役所本庁舎東側の階段室の塔屋屋上にあるコンクリートの円形構造物。これが京都市役所本庁舎の屋上に残る高射機関砲座のようです。円形のコンクリート構造物は高射機関砲の障壁。
4.東側砲台障壁










拡大。コンクリートの型枠の感じを見ると、最近のものではなくやはり戦前の特徴を感じます。
11.平面図











京都市役所のHPで公開されていた本庁舎実施設計の平面図より引用。高射機関砲座の障壁は円ではなく、螺旋状になっています。これは恐らく開口部の前面を塞いで被害をより少なくするためと思われ、大牟田市の宮浦高射砲陣地の砲座の類例があるようです。
13.西側階段室内部










東側階段室塔屋の内部。屋上の高射機関砲座へと上がる梯子や階段は無いため、外付けの梯子で登ったのでしょう。その梯子が残ってないか探してみましたが、庭園側には痕跡はなく、裏側は入ることができないため、確認はできませんでした。

8.西側砲台










続いては西側階段室塔屋屋上の高射機関砲座。東側にある障壁は西側にはありませんが、円形の砲座は残されています。
9.西側砲台










西側階段室塔屋。
10.西側砲座上空













京都市役所HPの現在の市庁舎整備工事の写真より引用。ちょっと分かりづらいですが、確かに西側階段室塔屋屋上に円形の砲座が残されています。
12.改修前






こちらも京都市役所HPの市庁舎整備基本構想の写真より引用。改修前の京都市役所本庁舎の写真を見ると、本来は西側階段室塔屋の高射機関砲にも障壁があったことが分かります。
市役所古絵葉書001








所蔵の竣工時の京都市役所本庁舎。西側階段室塔屋の上部には何も無く、東側もそれらしい構造物が確認できないことから、本来は無かったものだということが分かります。
13.西側階段室内部










西側塔屋の内部にも屋上に上がる階段や梯子が無いことから、外付けの梯子で登っていたことが分かります。

市役所庁舎の建物を戦時中に防空砲台として利用した例として、大牟田市役所庁舎があります。こちらは高射機関砲座の他に防空監視哨や防空監視員詰所が残されています。恐らく戦時中に後から増築されたものでしょう。京都市役所本庁舎も防空監視哨があったはずだと思いますが、それらしい建物は見当たりません。

14.塔屋













恐らくですが、京都市役所はこの中央に建つ塔屋を防空監視哨及び防空監視員の詰所として利用したのではないでしょうか。高い構造物な上に開口部も小さめで都合が良かったのだと思います。ただし、大牟田市役所の方も中央に塔屋を建てていながら防空監視哨を造っているため、京都市役所にも本来は塔屋とは別の防空監視哨があった可能性もあります。

15.市役所から御所方面










京都市役所本庁舎から京都御所方面を望む。京都市に配置された高射砲陣地は京都市街の防空目的の他に京都御所の防空も重要任務だったのではないかと思われます。
京都市内の高射砲陣地2















最初に紹介した所蔵書籍に記述のある高射砲陣地と花山天文台南の高射砲陣地の場所を配置してみました。※花山天文台南の高射砲陣地に関しては、いつもお世話になっています盡忠報國様のブログ「大日本者神國也」に詳細なレポ記事があります。
右の古写真は国土地理院公開の航空写真より引用。分かったものだけ引用しましたが、はちょっと怪しいかも。
各高射砲陣地の位置を見ますと、市街地もですが、京都御所・梅小路機関区・京都駅など重要施設の防空を考慮した感じに思えますね。

京都市には空襲が無かったと思われがちですが、他の都市みたいな市街地丸ごと焼き尽くす大規模空襲は無かったものの、空襲自体は何度もありました。大きいものでは西陣・馬町・太秦の空襲があります。
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所蔵書籍「語りつぐ京都の戦争と平和」に記載のある体験談では、上京区と中京区の空襲では、高射砲の砲撃音を聞いたとあります。どこの高射砲かは不明ですが、場所的に一番近いのは京都市役所になります。この証言によるなら、防空砲台として機能はしていた可能性はあります。

今回確認した京都市役所本庁舎屋上の高射機関砲座の遺構ですが、京都市役所公開資料を見ますと、障壁がパース図や平面図に描かれており、市側は恐らく理解して保存したように思えます。もしそうだとするなら、是非解説板を設置して欲しいところですが…。
あと、防空監視員や高射機関砲部隊の戦時日誌等の資料による裏付けが欲しいところですので、もし現存しているのならぜひ確認してみたいところです。

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2022年12月25日

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構探索レポ日記

兵庫県福崎町にかつて大阪陸軍航空補給廠姫路出張所という陸軍の施設がありました。
大阪陸軍航空補給廠姫路出張所は大阪陸軍航空支廠の機材や燃料の管理部門として昭和17年に完成しました。
今回、福崎町の近代建築探索のついでに大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の遺構の探索もすることにしました。ただし、遺構の詳細に関してはあまり分からなかったので、いつもお世話になっています「大日本者神國也」の管理人、盡忠報國様よりアドバイスを得て探索しました。
※大日本者神國也 大阪陸軍航空補給廠姫路出張所
しかし、目当てにしていたいくつかの遺構に関しては確認できなかったり、辿り着けなかったりと未探索に終わった遺構もあり、不完全燃焼な結果に。なので、当記事は探索できた遺構のみ紹介いたします。
なので、詳細な情報が知りたいという事でしたら、盡忠報國様のブログの記事を閲覧される方が良いかと思います。

大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構配置図










大阪陸軍航空補給廠姫路出張所遺構位置図。
戦後、大阪陸軍航空補給廠姫路出張所の跡地は町の誘致により養鶏場が完成しますが、杜撰な経営により新たに工業団地となることが決定し、現在は福崎工業団地となっており、その際に主要な遺構はほぼ取り壊されたものと思われます。現在は敷地の中心から離れた箇所や山中に残された遺構が点在する形となっています。

1.正門







\橘隋L渦箸力討稜鴫阿力討忙弔気譴討い泙后L膸イ寮廚残っています。
2.正門







裏側。国旗を掲揚していた金輪が残されています。かつては門扉の金属製の蝶番がありましたが、恐らく戦後すぐに取られたものと思われます。

3.裏門







⇔¬隋B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の遺構では一番知られているもので、正門と違い門柱は2つ残さています。写真は敷地外から。
4.裏門







敷地内から。蝶番が全て取られています。
5.裏門説明板







裏門の脇には説明板が設置されています。

6.コンクリート構造物







コンクリート構造物。裏門の敷地内側のすく近くにある遺構。

7.コンクリート構造物







何の遺構かは不明。盡忠報國様は焼却炉ではと書かれています。

8.土堤







づ敖蕁B膾緡Ψ街匐補給廠姫路出張所の敷地を区切る境界の土堤。
9.土堤







断面は三角形です。

この他にも山中に乾燥火薬庫の跡が2ヵ所あり、火薬庫基礎や石垣擁壁や貯水槽が明瞭に残っているようですが、向かったはいいものの、進入路が全く分からず断念。 消化不良の残念な結果となりました。
あと、周辺には地下壕もいくつか残されているようです。

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舞鶴市・博奕岬防空砲台遺構見学レポ日記

舞鶴市の博奕岬にかつて明治時代に陸軍により建設された探照灯と太平洋戦争中に海軍が建設した防空砲台がありました。現在、海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっているため立ち入り禁止となっていますが、今回、フォロワーさんの粘り強い交渉により、海上自衛隊の方々の案内のもと、博奕岬防空砲台の遺構を見学することが出来ました。(2022年6月24日見学)。
交渉をしてくださったフォロワーさん、案内をしてくださった海上自衛隊の広報の方々には貴重な体験をさせて頂き、厚く御礼を申し上げます。

さて、博奕岬防空砲台ですが、上記の通り元々は明治33年に陸軍の探照灯が造られていました。その後、演習砲台として使用され、
昭和16年に海軍が敷地を取得。防空砲台として再利用されます。
博奕岬防空砲台 舞鶴海軍警備隊戦時日誌昭和17年10月20日









アジア歴史資料センター所蔵「舞鶴海軍警備隊戦時日誌(C08030485700)」より昭和17年10月20日撮影の博奕岬防空砲台。

博奕岬防空砲台遺構位置図








博奕岬防空砲台各遺構配置図。(管理人作成)

博奕岬防空砲台は昭和17年11月に完成します。
海軍の防空砲台は舞鶴市内に舞鶴湾を囲むように8ヵ所設置され、槇山・浦入・建部山のように明治期の陸軍の砲台を利用したものもありましたが、倉梯山防空砲台のように新たに設置された砲台もありました。
10年前に探索した倉梯山防空砲台のレポ日記。

博奕岬防空砲台は前述の通り海上自衛隊と海上保安庁の敷地となっており、山頂の博奕岬防空砲台がある場所へと向かう山道の入り口には大きなゲートがあり、立ち入り禁止となっています。今回は海上自衛隊の方々の案内のもと、ゲートを通り向かうことになりました。

1軍道擁壁石垣










舗装路をそのまま登ると明治期の陸軍時代と思われる石積擁壁が出現。灯台へ至る舗装路もかつては軍道だったことが分かります。

2灯台前門柱













舗装路を登りきると灯台が見え、その手前にコンクリート製の門柱が現れます。

20220624_130707







岬の山頂にある博奕岬灯台灯台。最近外壁がリフォームされて綺麗になってますが、大正11年築。

IMG_1766













灯台の近くにある石製の門柱。明治期の物でしょうか。

3指揮所壕










灯台を過ぎさらに進むと、上部に荒廃した戦後の監視所の建物がある箇所に。その下のコンクリートの地下壕がかつての指揮所壕でした。

4指揮所壕










指揮所壕の入り口。

5指揮所壕入り口










指揮所壕の入り口に入ると、奥に木製の引き戸があります。

6指揮所壕内部










内部は物置になってましたが戦時中の当時のままでした。

7指揮所壕脇階段













指揮所壕入口脇の階段。戦時中も壕の上に監視の建物があったそうで、戦後に新たに建て替えたようです。

8指揮所壕脇の柵










指揮所壕の周りを囲むコンクリートの柵柱。

9指揮所壕近くの貯水槽










指揮所壕の近くの貯水槽。

IMG_1813










指揮所壕を過ぎ、しばらく歩くと道が分かれており、下へ下る道の方を進んでいくと、自衛隊の施設だったと思われる半ば廃墟と化した建物が見えてきます。そして、その建物の玄関の前に、

17地下式弾薬庫前高射砲座










高射砲の砲座がありました。8センチ高角砲の砲座と思われます。

10地下式弾薬庫










そしてさらに奥にコンクリートの弾薬庫壕が。

12地下式弾薬庫鉄扉










鉄扉も残されています。開いていたので入ってみました。

13地下式弾薬庫内部










14地下式弾薬庫内部










内部の奥壁は煉瓦になってましたが、どうも元々はもっと奥まであったのを途中で煉瓦で塞いだようにしか・・・。理由は不明ですが。

11地下式弾薬庫前貯水槽










弾薬庫壕前の貯水槽。

16地下式弾薬庫前木造建物










弾薬庫壕前、自衛隊施設に付属している木造建物。これも防空砲台時代の物で、別のフォロワーさんが紹介していた東京湾要塞金谷砲台の看守営舎によく似た造りですしかし、痛みもなく綺麗に残っています。

18埋第五号境界石













再び岬の上の道に戻り、そこから岬の先端に向かって尾根道を進みます。その尾根上に立つ「埋第五號」の境界石。見かけたことの無い珍しいタイプ。

19すり鉢状台座










尾根道を進んでいくとこのようなすり鉢状の台座が現れます。何かを据え付けていたボルトが見えるので、当初は砲座かと思ってましたがどうも違うのではという意見がメンバーから。探照灯は別の箇所にあるので、施設リストから聴音機か高角双眼鏡の台座ではと考えてます。

20すり鉢状台座正門










先ほどのすり鉢状台座の手前にはコンクリートの門柱と柵柱が。柵柱には未だに有刺鉄線が残されていました。

21貯水槽










一旦指揮所壕の場所まで戻り、今度は弾薬庫壕と高角砲座のあった地点の反対側の尾根下へ。
整地した平坦地となっており、小さな貯水槽などがありました。

22有蓋式退避壕










その脇にコンクリート製の半地下式の壕のようなものが。
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現地形を見ると、どうも当時は入り口前はスロープ状となってて、中に逃げ込めるようになっていたっぽいです。退避壕だったのでしょうか。

23電灯室










灯台まで戻り、灯台南東側の岬の最高所にある箇所へ。戦国期の山城の横堀のような土塁が回る道を歩いていくと、明治の陸軍時代の探照灯のあった電灯所に至ります。

24電灯室発電機台座










明治期の砲台の掩蔽部と同じ形ですが、奥に煉瓦の電灯井があるので、明治期から電灯所として造られていたようです。ただ、発電機は改められたのかコンクリートの台座となってました。

IMG_1839










内部から。入口脇に木製の壊れた古い椅子が放置されていました。当時の物でしょうか?

25電灯室井










電灯井。ここから探照灯を出し入れしていました。

26電灯室井上から










電灯所の上。先ほど下から見上げた電灯井の穴が見えます。かつてはどうやら屋根が掛けられていたようです。

IMG_1844










電灯所上部の周辺には探照灯の物らしきガラス片が大量に散乱していました。厚さは1cmくらいある分厚いもので、やや黄色がかってました。探照灯の撤去の際に割れたか破壊したのでしょう。

27電灯室門柱










電灯所を過ぎてすぐの所に立派な石製の門柱が建っていました。明治期の物の様で、この門柱の先も軍道らしき道が麓に向かって伸びているので、かつての正門だったのかもしれません。

28貯水槽か










門柱を過ぎて軍道跡を進むと水槽らしきものが見えました。他の旧軍遺構では見たことの無い造りです。雨水を貯めた水溜でしょうか。

29沈砂槽










さらに下って行くとコンクリート製の水槽がありました。形から恐らく沈砂式の浄水槽だったと思われます。

30発電室










電灯所から伸びる軍道跡を下って行くと灯台に至る舗装路に出ます。舗装路をそのまま下って行くと舗装路から枝に延びる旧軍道があり進むと煉瓦造の発電機室の建物が見えてきます。

31発電室門柱










発電機室の前にも石製の門柱と柵柱がありました。

33発電室










屋根は失われてますが煉瓦の躯体は 良好に残されており素晴らしいです。

32発電室内部










内部には煉瓦造の発電機の台座が残されています。明治期の探照灯時代から発電機室として作られたものです。

IMG_1868










発電機室の背後の一角。燃料を入れていたスペースでしょうか。

IMG_1859













木製の窓枠も残されていました。アーチ部分は丁寧に削って作られたもので木材もしっかりしたもので明治期の仕事の丁寧さが伺えます。昭和戦中期の細工の粗さとは対照的です。

34発電室脇基礎










発電機室の脇にある煉瓦基礎の建物跡。何の施設だったかは不明。

35発電室貯水槽










コンクリートの貯水槽。これは防空砲台時代のものと思われます。

38兵舎跡への石橋










発電機室を過ぎ、軍道跡を進むと石橋がありました。

36兵舎跡への石橋










37兵舎跡への石橋










小さな谷に架けた石橋ですが、石積の擁壁も相まって、まるで庭園のような優雅さを感じますw

39石橋脇の井戸










石橋の脇にある井戸。井戸枠は煉瓦積みでした。

40兵舎跡










石橋を過ぎると見えてくる兵舎跡の基礎。当時使われていた食器類の破片が散らばってました。

20220624_150903







便所跡。どうやら防空砲台時代の物のようです。

20220624_150845







反対側から。

20220624_150818













内部を見ると、やはり戦前のようですね。

今回の博奕岬防空砲台の見学会は、フォロワーさんの交渉により実現したもので、海上自衛隊の協力のもと正式な探索をすることが出来ました。重ねて御礼申し上げます。
というわけで、博奕岬防空砲台のある博奕岬は無許可での立ち入りは厳禁です。
そのあたりの話も隊員さんに聞いたのですが、海上自衛隊の敷地内なので、無断の侵入者があれば当然警ら隊がやってくること、海上自衛隊には逮捕権が無いので厳重注意で済むが、これが海上保安庁となると、逮捕される恐れがある(博奕岬灯台は海上保安庁の管轄で、立ち入り禁止区域)とのこと。
施設自体は老朽化しており現在は使われていませんが、以上の理由で無断進入は厳禁なのでご理解いただけたらと思います。博奕岬防空砲台の遺構に関しては拙い内容ですが、当記事で感じて頂けたらと思います。


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2022年08月06日

青野原陸軍演習場高岡廠舎(青野原俘虜収容所)遺構探索レポ日記

1.説明板







兵庫県加西市にあった青野原陸軍演習場高岡廠舎の遺構を探索してきました。
青野原陸軍演習場高岡廠舎は明治32年に開設された青野原陸軍演習場の演習廠舎であった大門演習廠舎が手狭になったため、明治45年に新たに設置された演習廠舎でした。

大門廠舎位置図










兵庫県加西市・青野原陸軍演習場高岡演習廠舎遺構探索レポ日記
大正3年、第一次世界大戦の俘虜として日本に来たドイツ軍俘虜をしゅうようするため、高岡演習廠舎の南側に新たに青野原俘虜収容所が建設されました。大正8年、青野原俘虜収容所の閉鎖に伴い、俘虜収容所の施設はそのまま高岡演習廠舎として再利用されました。

高岡廠舎001








昭和初期頃の高岡演習廠舎正門。

高岡廠舎002








昭和初期頃の高岡演習廠舎正門と廠舎建物。

日記016青野原演習場へ出発













※祖父の一等兵時代の日記にある青野原陸軍演習場の記載(昭和14年11月9日)
昭和に入っても青野原陸軍演習場は祖父が在籍した福知山市の歩兵第20連隊はじめ、各地から部隊が演習に来たようで、それらの兵士を収容する廠舎施設が必要だったようです。
青野原陸軍演習場高岡演習廠舎は戦後、大門演習廠舎と同じく住宅地となって現在に至り、大門演習廠舎ほどではないですが、演習廠舎時代の建物や遺構がいくつか残ります。

高岡廠舎配置図













※青野原陸軍演習場高岡演習廠舎遺構位置図。
以下はこの遺構位置図に従い紹介します。

2.廠舎1







‐骸坊物1。民家の一部となっています。
3.廠舎2







裏側。

4.廠舎3







⊂骸坊物2。こちらも民家の1部になってますが、外観は当時の姿を留めています。
5.廠舎前井戸







廠舎建物の前にある煉瓦の井戸枠のある井戸。

6.将校用風呂棟







将校用風呂棟。兵庫県登録文化財として高岡演習廠舎で唯一内部公開されている建物。
7.将校用風呂棟2







将校用風呂棟の内部。
8.将校用風呂棟3







かまど?風呂の焚口にしては位置がおかしい。後世のものかも。
9.将校用風呂棟4







浴槽。現代のユニットバスより狭いです。

10.井戸







ぐ羝唯院将校用風呂棟の向かいにあります。

12.井戸







グ羝唯押L渦箸良瀉脇發砲△蠅泙后

11.コンクリート基礎







Ε灰鵐リート基礎。何かの建物の基礎だったのが残されています。

13.貯水槽







貯水槽。高岡演習廠舎の北側にありますが、戦後のものかもしれません。
ちなみに大門演習廠舎の外周には陸軍の境界杭が何本も残されていますが、高岡演習廠舎では1本も見かけませんでした。

高岡演習廠舎は大門演習廠舎より遺構の数は少ないですが、俘虜収容所だったという歴史的経緯があったためか、大門演習廠舎には全くなかった案内板や説明板が設置されており、見学しやすくなっています。

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2022年07月30日

第三十一海軍航空廠浜地区工場(仮称)遺構探索レポ日記

2022年6月24日、フォロワーさんと舞鶴市の旧軍遺構探索ツアーで、海上自衛隊舞鶴造修補給所に残る旧軍遺構を見学してきました。この場所、昭和20年の終戦の段階で第三十一海軍航空廠の敷地だったそうです。
第三十一海軍航空廠といえば、宮津市栗田半島にある現・関西電力エネルギー研究所と栗田漁港の敷地にあった水上機製造専用の工廠だったことは知られており、私も何度か探索を行いましたが、舞鶴市の東舞鶴軍港内にもあったのは知りませんでした。
※過去に探索した第三十一海軍航空廠関連の記事。
宮津市・第三十一海軍航空廠小田宿野工員宿舎街・官舎街・女子工員宿舎探索レポ日記

宮津市銀丘地区(第三十一海軍航空廠中津工員宿舎街)探索レポ日記

第三十一海軍航空廠官舎・工員宿舎遺構配置図








宮津市・第三十一海軍航空廠官舎、工員宿舎遺構探索レポ日記

第三十一海軍航空廠遺構(栗田漁港内)遺構位置図











宮津市・第三十一海軍航空廠遺構(栗田漁港内)探索レポ日記

海上自衛隊舞鶴造修補給所の敷地がかつて第三十一海軍航空廠だったと知ったのは、舞鶴市の公式HPである「舞鶴鎮守府エリア 1945年 舞鶴鎮守府家屋営造物配置図」を見たのがきっかけでした。
以下、このサイトに表記されている情報を元に記事を書いていきます。各遺構の名称は、第三十一海軍航空廠時代の名称で表記します。

第三十一海軍航空廠浜地区工場遺構配置図









※第三十一海軍航空廠浜地区工場(仮称)遺構配置図。
この舞鶴造修補給所の敷地となっている第三十一海軍航空廠についてですが、現在、確たる資料が見つけられず、この施設が当時どのように呼ばれていたかも不明です。とりあえず現段階では「第三十一海軍航空廠浜地区工場(仮称)」としておきます。

海上自衛隊の隊員さんの案内で敷地内へ。

1.起重機(5トンクレーン)1







ゝ重機。船からの荷物を上げたり降ろしたりする5tクレーンです。白線で旋回範囲を書いてある通り、現役のクレーンです。赤れんがパークからも見えるクレーンです。
P1020696










こちらは現役ではありませんが、呉市のアレイからすこじまにある起重機のクレーンと同じですね。
2.起重機台







起重機台の部分。
3.起重機銘板







操縦室には「製造 昭和16年」の文字が。海軍時代から現役の古参。
ただし、クレーンのアーム部分は見る限り戦後に交換したように見えます。
ちなみに宮津市栗田の第三十一海軍航空廠の開設は昭和18年。この起重機はそれより2年古いため、元々は海軍の別の施設で、昭和18年以後に第三十一海軍航空廠の敷地となったと思われます。

6.啓正式格納庫1







啓正式格納庫。木造の大きな建物です。
7.啓正式格納庫2







啓正式格納庫とは移動式の格納庫のことらしいですが、この建物、移動できるんでしょうか。
8.啓正式格納庫3







内部は当時の鉄骨が残されています。格納庫時代の姿を留める貴重な建物です。
P1330504










対岸の赤れんがパークから見た啓正式格納庫。

4.汽缶場







2消談蟒ね工場(左奥)とさゴ名譟2消談蟒ね工場の写真を撮り忘れていた失態。
5.汽缶場洗面台







汽缶場の洗面台。コンクリート製の長いもの。汽缶場という施設という事で、煤とか色んなものが顔や服に付着したのを洗ったのでしょう。
9洗濯場










こちらは宮津市の栗田半島にある第三十一海軍航空廠工員宿舎街跡に残る洗濯場の洗い場。似たような感じですね。あと、舞鶴市の朝来地区にある第三海軍火薬廠跡にもコンクリート製の洗面台が残されています。

9.事務所か







セ務所としていますが、上記の舞鶴市のHP掲載の配置図では位置が違います。しかし、建物の造り、基礎の煉瓦など明らかに戦前の物。とりあえず事務所の建物と仮定しておきます。
10.事務所か







反対側より。

11.自動車庫







自動車庫。改造されてますが、面影は残されています。

P1050373










舞鶴造修補給所の遺構は赤れんがパークから起重機と啓正式格納庫を見ることができるため、以前からその存在は知ってましたが、他にもいくつか遺構が残されていること、また終戦時には第三十一海軍航空廠の敷地だったことは初めて知る成果となりました。

IMG_4768










ちなみに背後の東山には木造2階建ての司令部建物を丸ごと収めた、巨大な地下壕が残されています。
舞鶴市・旧海軍東山防空指揮所地下壕見学会レポ日記

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2022年07月03日

舞鶴平海兵団(現・舞鶴教育隊)遺構見学レポ日記

1.舞鶴教育隊







2022年6月24日に舞鶴市にある舞鶴教育隊を見学してきました。
0.平海兵団001








舞鶴教育隊は元々、旧海軍の平海兵団の敷地でした。舞鶴海兵団は舞鶴鎮守府開庁とともに設立。しかし、大正12年のワシントン海軍軍縮会議により舞鶴鎮守府は要港部へと格下げ。舞鶴海兵団は廃止され、旧舞鶴海兵団の敷地は海軍機関学校の敷地として使用されました。
昭和14年の鎮守府再昇格により海兵団も復活。しかし敷地は海軍機関学校となっていたため、東舞鶴の平地区に昭和15年に新たに設置されました。
舞鶴教育隊戦後001








戦後、平海兵団の敷地はそのまま海上自衛隊舞鶴教育隊の敷地となり、現在に至ります。
舞鶴教育隊の敷地内には庁舎を始め平海兵団時代の建物が数多く残っていたのは知っていたのですが、施設の性質上、中々見学できる機会がありませんでした。今回、フォロワーさんのご尽力と海上自衛隊の隊員さんの協力により見学する機会を得ることが出来ました。ありがとうございました。
平海兵団歩哨舎跡







2枚目の古絵葉書の端に写ってますが、かつて正門の前には歩哨舎がありました。今でも基礎が残ります。正門も当時の物がそのまま使われています。

舞鶴教育隊(旧平海兵団)遺構配置図









平海兵団遺構配置図。この位置図に沿って紹介していきます。
2.庁舎1







(審な蔀痛槁庁舎。昭和10年代らしいモダニズムデザインの建物。筑波海軍航空基地の本部庁舎に似た感じですね。
3.庁舎2







正面に車寄せを設けた威厳ある造り。
4.庁舎国旗掲揚台













正面上部には国旗掲揚台が残されています。軍艦の艦橋を模した感じに見えます。
5.庁舎内部







玄関内部。階段も当時のまま。

6.自動車庫







⊆動車庫。鉄骨造りの建物です。
7.自動車庫2







現在も車庫として使用されていますが、平海兵団当時の車両より大型化しているため、収まり切れません。
8.自動車庫







内部の様子。
自動車庫背面







背面。

9.水上機格納庫







水上機格納庫。2棟残されています。
水上機格納庫







旧軍の航空機の格納庫自体、多くが失われている中、ここはちゃんと残されているのが貴重。

10.桟橋







せ袈供コンクリートの部分とかに当時の意匠が見えます。

11.覆土式弾薬庫1







ナづ攫芦侈庫。
12.覆土式弾薬庫迷彩







戦後にコンクリート壁が塗り直されましたが、塗装の剥がれた部分に当時の迷彩を確認することが出来ました。

13.弾薬庫1







γ凸庫。やや小高い場所にあります。
14.弾薬庫2







入り口部分。現在は使われていないようです。

15.ボイラー実習室1







平屋のコンクリート建物。開口部を大きく取った特異な建物。
16.ボイラー実習室2







かつて背面部には煙突があったようです。そのため、軍艦の機関のボイラーの実習等を行う施設だったのではと推測。現在はダメコン用の木材を保管する建物として使用。

17.機関講堂1







木造建物。教育隊では機関講堂と呼んでるようですが、当初の用途は不明。しかし規模の大きさからやはり講堂か実習棟だったのでしょうか。
18.機関講堂2







側面から。
19.機関講堂3







反対側から。現在は使用されておらず、内部もかなり痛みが激しく、今年中に取り壊される予定とのこと。

20.烹炊場







木造建物。教育隊では烹炊場と呼ばれ、炊事の演習場だったようです。当初の用途は不明。この建物も今年中に取り壊しとのこと。

21.便所1







便所。
22.便所2







平海兵団当時から便所だった建物で、建物の前半分は現代用に改修されてますが、後半分は当時のままとのこと。
23.便所3







手前の防火水槽も当時の物。
24.便所4







背面から。この建物も今年中に取り壊されるようです。
ちなみに便所の奥に写る白い建物も当時の木造建物で、こちらは今後も使用されるとか。

25.木造建物







木造建物。長大な建物。
26.木造建物2







こちらは今でも使われています。

28.風呂場2







風呂場。正面に屋根付き廊下が付属します。支えの柱は旧陸軍の建物でも時々見る形ですね。
27.風呂場1







背面から。

29.演武場1







演武場。鉄骨造の大きな建物。現在も演武場として使用されています。
30.演武場2







内部を見せてもらいました。鉄骨の小屋組みが凄い。

舞鶴海兵団兵舎










兵舎。現在は建て替えられて現存していませんが、かつては現隊舎の場所に平海兵団時代の兵舎があり、近年まで隊舎として使用されていました。写真は10年ほど前に軍港クルーズ船から撮影したかつての兵舎。

31.戦艦長門主砲弾













舞鶴教育隊の敷地には旧海軍時代のゆかりのものがいくつか置かれています。これは戦艦長門の主砲弾。
32.川内主錨







庁舎の脇には軽巡洋艦・川内の主錨が置かれています。
33.川内主錨







解説板。昭和17年に舞鶴海軍工廠で改装時に外されたもので、昭和52年にここに置かれたようです。
それまではどこにあったんだろう。

今回はフォロワーさん・海上自衛隊の隊員さんのご尽力により、普段は見れない舞鶴教育隊の敷地に残る平海兵団時代の遺構を見ることが出来ました。ありがとうございました。



besan2005 at 11:06|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2022年05月06日

舞鶴市・愛宕山防空砲台探索レポ日記

1愛宕山防空砲台遠景










※2021年4月11日再探索分追加。加筆修正。
東舞鶴の海上自衛隊舞鶴教育隊の東に標高282m比高差270mの愛宕山があります。中世(室町期)に山頂に泉源寺城が築かれましたが、戦時中に海軍の防空砲台が築かれました。山城関連のブログに泉源寺城跡を取り上げたサイトがあり、そちらのレポを拝見すると山頂の砲台施設は中世の泉源寺城の曲輪を再利用したような感じで、砲台跡やコンクリートの構造物が見られ、どうやら愛宕山防空砲台の遺構が残されていることが分かりました。しかし、あくまで中世山城である泉源寺城跡をメインに取り上げているため、防空砲台の遺構に関してはちょろっと写真に写っている程度。そこで実際に探索し愛宕山防空砲台としてのレポを計画しました。

愛宕山防空砲台配置図修正版











今回の探索で確認した愛宕山防空砲台の遺構群。同じ防空砲台である倉梯山防空砲台に比べると規模が小さく見劣りする感じではありましたが、それでも各遺構群が多数現存し、また倉梯山防空砲台と比べて防空砲台として探索した人がおらず、知られていない遺構という点でも探索する価値はあったかと思います。
愛宕山防空砲台発電施設群











麓から旧軍道と思われる道を登っていくと4合目あたりで削平地に到達します。そこは愛宕山防空砲台の発電施設エリアと思われ、冷却用の水槽・発電機室跡・燃料庫と思われるコンクリート壕が残されています。
2愛宕山防空砲台水槽










冷却水用の水槽。
3愛宕山防空砲台発電機室










発電機室の建屋跡。恐らく木造の建屋だったのでしょう。
7愛宕山防空砲台発電機室発電機土台2










7愛宕山防空砲台発電機室発電機土台










建屋の中には発電機の台座と思われるコンクリートの台座があり、脇には冷却水を流していたと思われる排水溝があります。
愛宕山防空砲台発電機室平面図













簡易的ですが、発電機室の平面図。
4愛宕山防空砲台燃料庫壕










一番山側にある燃料庫壕。愛宕山防空砲台で唯一現存していると思われるコンクリート壕です。
5愛宕山防空砲台燃料庫壕内部1










燃料庫壕の内部。ほぼ同じ時期に造られた倉梯山防空砲台と同じ感じの造り。
6愛宕山防空砲台燃料庫壕内部2










内部から。
8愛宕山防空砲台燃料庫壕上部遺構










燃料庫壕の上にはコンクリートの構造物があります。
9愛宕山防空砲台燃料庫壕煙突










燃料庫壕の上部にある通気口らしきもの。
10愛宕山防空砲台コンクリート残骸










発電施設エリアを過ぎ、少し上がった場所にあるコンクリートの残骸。
11愛宕山防空砲台軍道










上記のコンクリート残骸辺りから軍道と思われる道が九十九折れで山頂まで続いています。
愛宕山防空砲台山頂遺構群修正







山頂部の各遺構配置図。
12愛宕山防空砲台軍道分かれ道










山頂付近の軍道分かれ道。恐らく中世の泉源寺城跡の帯曲輪や城道遺構を再利用していると思われる軍道で、真っ直ぐ向かうとコンクリート壕の残骸と便所跡。右の登り道を進むと山頂に出ます。右の登り道は主郭へと至る虎口への道を再利用したものではと考えられます。
まずはまっすぐの道を進みます。
13愛宕山防空砲台コンクリート壕残骸










大量のコンクリートの残骸。明らかに破壊された跡です。
14愛宕山防空砲台コンクリート壕残骸2










コンクリートの残骸の上にはアーチ状に残るコンクリートの構造物が。
これはコンクリートの壕の残骸ではないでしょうか。別のサイトでは「砲側庫の残骸と思われる」としています。
15愛宕山防空砲台便所跡1










先ほどのコンクリート壕の残骸の側にあるコンクリート構造物。
16愛宕山防空砲台便所跡2













便所跡で、未だに便壺が残されてました。
19愛宕山防空砲台浄化槽1










コンクリート壕の残骸の上部にあるコンクリートの構造物。
20愛宕山防空砲台浄化槽2










3つ連なる水槽状の造りのコンクリートの構造物には水を通せる穴があけられていることから、貯水槽ではと思います。下の便所や兵舎等に配水していたのでしょうか。
21愛宕山防空砲台煉瓦構造物










浄化槽の横にある煉瓦の壁。用途は不明ですが、浄化施設に付随する施設だったのでしょうか。この構造物のものと思われる煉瓦が下のコンクリート壕の残骸と一緒に散らばっていました。愛宕山防空砲台で煉瓦構造物を確認したのはここだけです。
17愛宕山防空砲台機銃砲座跡










便所跡から西側へ回り込むと穴が2ヵ所開けられた場所に出ます。用途は不明。
18愛宕山防空砲台コンクリート残骸










先ほどの機銃砲座跡を上がった山頂にあるコンクリートの残骸。ただの残骸ではなく、形が割と保たれており、この場所に何か施設があったことをうかがわせます。
23愛宕山防空砲台高角砲座










山頂部分にある砲座1。引渡リストにある12cm高角砲座かと。
22愛宕山防空砲台円形台座










高角砲座跡の南側にあるコンクリートの円形台座。下部の土が流失して半分浮いた危険な状態となっています。何の台座だったかは分かりません。
26砲座2










砲座2。
27コンクリート構造物










砲座2に隣接するコンクリート構造物(2021年4月11日確認遺構)
観測所の遺構ではと思われます。
26砲座3










砲座3。
25愛宕山防空砲台山頂砲座4










砲座4。
26機銃座










機銃座。引渡リストの13mm機銃の銃座と思われます。
28コンクリート基礎建物










山頂部から東に進み下がった場所にある遺構(2021年4月11日確認遺構)。中世の泉源寺城跡の曲輪に造られた建物のコンクリート基礎。
29コンクリート基礎建物










泉源寺城跡の曲輪をほぼ生かして建てられた建物跡で、旧軍遺構としてだけでなく、中世の山城跡でもこれくらいのスペースの曲輪なら駐屯できる建物が建てられるという一つの目安になる面白い箇所です。
30境界柵










さらに東に進んだ尾根上にコンクリートの柵柱が並んでいます(2021年4月11日確認遺構)。
31境界杭













柵柱の側に「海界2」の境界杭がありました。これで愛宕山防空砲台の東側の境界を確認できました。西側の境界ですが、谷を越えた西側の尾根上に松ヶ崎防空機銃砲座があったようで、その西端辺りになるのでしょうか。

愛宕山防空砲台の山頂部分はは中世の泉源寺城跡の縄張を完全に破壊して造られた防空砲台ではなく、泉源寺城跡の縄張を最大限利用して造られた防空砲台という所に特色があります。かつて丹後一色氏の居城だった建部山城の遺構を完全に破壊して造られた建部山堡塁とは違い、中世の泉源寺城跡と昭和の戦時中の防空砲台の2つの遺構を観察できる面白い遺構となっています。


besan2005 at 20:50|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2022年02月13日

兵庫県加西市・青野原陸軍演習場大門廠舎遺構探索レポ日記

3年前に探索した兵庫県加西市にある青野原陸軍演習場大門演習廠舎遺構のレポ日記です。
大門演習廠舎絵葉書ブログ用









※昭和10年代頃の大門演習廠舎正門。
青野原陸軍演習場大門演習廠舎は明治32年に開設した青野原陸軍演習場の宿舎等の施設として完成しました。姫路にあった陸軍第10師団所属部隊の演習場として使用され、戦後、青野原陸軍演習場は陸上自衛隊青野ヶ原演習場として引き継がれますが、大門演習廠舎は引揚者や戦災者の住居として使用され、現在は住宅地となっていますが、大門演習廠舎時代の建物等が今でも残されています。
※参照サイト・大日本者神國也 青野原陸軍演習場大門陸軍演習廠舎
大門廠舎位置図










今回探索した遺構の位置図。この位置図に沿って紹介していきます。

1.廠舎建物か










‐骸坊物。正門に一番近い場所にある平屋の建物。
2.廠舎建物か










背面。
IMG_5237










当時の正門部分から。
大門演習廠舎絵葉書ブログ用









昭和10年代頃の大門演習廠舎正門。左端に,隼廚錣譴觀物が写ってます。
2.廠舎建物付属屋










付属屋と思われる建物。
,鉢△2022年2月現在、取り壊され建っていた場所は更地となっています。

3.主官舎(演習場管理人宿舎)










主官舎。青野原陸軍演習場の管理人が住んでいた建物。退役将校が任務にあたったようです。
4.主官舎










横から。玄関部分は洋館で、他の廠舎とは一線を画します。演習場へ来た高級将校を招く応接的な面もあったのかもしれません。

5.廠舎建物か










ぞ骸坊物。下士官兵が寝起きする廠舎は長屋型で真ん中に通路があり間仕切りの無い建物ですが(イメージ的には座禅を組む禅堂みたいな感じ)、この建物は一軒家の造りなので将校用だったのでしょうか。
6.廠舎建物か










背面。

7.廠舎建物か










ゾ骸坊物。
8.廠舎建物内部










廃墟状態で入口から内部が確認できました。こちらは下士官兵用でしょうか。

10.廠舎建物か (2)










廠舎建物。現在は作業場。大きさ的に倉庫とかだったのでしょうか。

9.廠舎建物か










Ь骸坊物。現在は民家として使用されています。

11.廠舎建物










12.廠舎建物










┥骸坊物。当時の雰囲気を良く残す建物。現在は焼肉屋さんとなってますが、内部には当時の銃架が残されているそうです。

13.井戸跡










井戸跡。かつては覆屋があったものと思われます。

14.貯水槽跡










貯水槽。コンクリート製の大きなもの。現在は薮に覆われていて見づらいです。ちなみにこの先は演習場の敷地となるため入れません。

15.馬用水桶










馬水桶1。ここには軍馬を管理する厩舎があり、当時のコンクリート製の馬水桶が残されています。これは南側の馬水桶。

16.馬用水桶










馬水桶2。北側の馬水桶。と違いこちらはゴミが置かれておらず観察しやすいです。
18.馬用水桶










真横から。
17.馬用水桶













アップ。とは形状が違います。

19.コンクリート基礎










コンクリート基礎の建物跡。何の建物があったかは不明。
このすぐ近くに便所跡があったのですが、失われてしまいました。

20.演習用塹壕か










演習陣地跡? 廠舎から少し離れた山裾に、土塁と塹壕みたいな長方形の穴が掘られている場所があります。

20.境界杭













陸軍境界杭。大門演習廠舎の周囲にはいくつか境界杭が残されています。これは南側にあるもの。

21.境界杭










偉Ψ涯界杭。川の側の畑の中、写真ではポリバケツの脇にあります。

22.陸軍境界杭













盈Ψ涯界杭。池の北側にあります。

23.陸軍境界杭













歌Ψ涯界杭。池の北側、流入路の側にあります。
その他、南西側にある神社の敷地内にもいくつかあるようですが、立ち入れなかったので確認できませんでした。

戦車第6連隊正門1










青野ヶ原演習場近くには、昭和15年に移駐した戦車第6連隊の正門が残されています。
戦車第6連隊正門2










向かって左側の門柱。
戦車第6連隊正門3










向かって右側の門柱。

青野ヶ原演習場の周囲には他にも姫路陸軍病院青野原分院の正門とか残されてましたが、私が訪問した時にはすでに撤去されていました。 

besan2005 at 10:33|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2021年11月28日

加西市・川西航空機姫路製作所鶉野工場工員宿舎街探索レポ日記

無題











兵庫県加西市の鶉野の地にあった姫路海軍航空基地の北西側に昭和19年、川西航空機姫路製作所の組み立て工場が完成しました。これが鶉野工場で、姫路製作所にて生産された局地戦闘機の紫電及び紫電改の部品を組み立て、テスト飛行するために飛行場の側に造られた工場でした。
姫路海軍航空基地や川西航空機姫路製作所鶉野工場に関しては多くの情報がネットで上げられているため周知のものでしたが、昭和22年の航空写真を見ると、姫路海軍航空基地及び川西航空機姫路製作所鶉野工場の西側、現在の新生町の場所が明らかに工員宿舎街と思われる区画整理され長屋型の横長の建物が建ち並ぶ一画があるのに気づきました。
昭和22年新生町











※国土地理院HP公開、昭和22年航空写真に写る工員宿舎街。
川西航空機姫路製作所鶉野工場に関してはネットで検索すると結構出てきますが、この新生町のエリアに関しては情報が無く確証は得られなかったものの、ストリートビューで確認した建物の造りは、過去に海軍工廠等で見かけた長屋型の工員宿舎の造りと酷似したものでした。

2第四寄宿舎










※参考・三重県亀山市、鈴鹿海軍工廠関分工場第四寄宿舎。

鈴鹿海軍工廠平田町官舎B-3










※参考・三重県鈴鹿市、鈴鹿海軍工廠平田工員宿舎。
20鹿原地区工員宿舎1










※参考・京都府舞鶴市、朝来第三海軍火薬廠鹿原工員宿舎。

8朝来中工員宿舎9










※参考・京都府舞鶴市、朝来第三海軍火薬廠朝来中工員宿舎。

2年前から目を付けていたエリアでしたが、今回、姫路海軍航空基地の見学会に参加するため加西市に赴く予定が出来たことと、紫電改展示館のボランティアスタッフのおじさんの証言から、このエリアは間違いなく川西航空機姫路製作所鶉野工場の工員宿舎街と確定できたため、探索レポ日記を作成することにしました。
姫路海軍航空基地跡遺構探索レポ日記(2021年6月16日探索)

川西航空機姫路製作所鶉野工場工員宿舎遺構位置図











※今回探索した川西航空機姫路製作所鶉野工場工員宿舎街の遺構位置図。
工員宿舎街のうち、南側エリアの遺構はは全く残されていませんでした。
しかし、北側エリアはほとんどの建物が残されている上に、何件かは当時の面影が残され、かつての工員宿舎街の雰囲気を感じることが出来ました。
以下、遺構位置図に沿って紹介していきます。写真に写る各建物は位置図で確認してください。

2.全景










川西航空機姫路製作所鶉野工場工員宿舎街の全景。東側から。
1.全景










正面入り口と思われる箇所。北から。
3.工員宿舎1










撮影方向 0貳嵋迷Δ砲△訶貔召猟未蝓
4.工員宿舎2










撮影方向◆この通りの工員宿舎はオリジナルの外観が比較的良く残されています。
IMG_3249










窓に小さなベランダを設けるのも当時の工員宿舎の特徴でもあります。
6.工員宿舎4










撮影方向。南側の部分はいくつか取り壊されています。
5.工員宿舎3










撮影方向ぁ
7.工員宿舎3










窓部分にオリジナルの雰囲気を残しています。
7.工員宿舎5










撮影方向ァ撮影方向△猟未蠅鯣紳仟Δ寮沼Δら撮影。

8.工員宿舎6










撮影方向Α9員宿舎の半分だけ残されてリフォームされています。
13.工員宿舎







撮影方向А撮影方向,猟未蠅糧紳仟Δ寮沼Δら撮影。こちら側は工員宿舎が両側とも良く残されています。
9.工員宿舎7










工員宿舎┳梓僂呂なり改修されていますが、プランは当時のままのようです。
9.工員宿舎8











工員宿舎押6瓩で確認するのを忘れていた建物。ただ、外観は大きく改修されているようです。
今回、韻鉢欧旅員宿舎の確認を逃してしまいました。
10.集会所か










建物魁昭和22年の航空写真にも同じ場所に建物が写ってますが、他の工員宿舎とは規模や造りが異なっています。
11.集会所か










建物海稜慳漫

IMG_3268










建物海慮軸愽分。建物の造り、基礎ともに戦前であることは間違いないと思います。
ここでは集会所と仮定しておきます。

その他、周辺で気になったもの。

IMG_3250











工員宿舎街の北側民家にあるコンクリート塀。戦前の造りの可能性があり、参考として撮影。
IMG_3251










その隣に建つ空き家。戦前の古民家ですが、庇部分の柱の造りが通常の民家にはあまり見られず、どちらかというと軍関係とか軍事工場関連の建物とかに見られるような感じなので、参考として撮影。
IMG_3259










新生町公民館の前にある花壇に転用されたコンクリート製排水溝。戦前の可能性があるため撮影。
素掘り池







工員宿舎街の北側の畑地にある方形の大きな素掘りの池。戦時中のものか分かりませんし、工員宿舎街との関連も不明ですが、気になったので。

新生町に残る川西航空機姫路製作所鶉野工場の工員宿舎群は空き家も目立ち、痛みも目立ってきている建物も多くあります。リフォームされている建物以外はいずれ無くなる可能性があると思われます。

besan2005 at 12:38|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2021年11月23日

舞鶴市・五老岳防空砲台西尾根遺構探索レポ日記

IMG_2970










舞鶴の観光スポットとして有名な五老岳。舞鶴湾を一望にできるスポットとして現在公園化され、山頂には五老岳スカイタワー等が建てられています。かつてここには海軍の五老岳防空砲台がありました。
※写真は五老岳公園から望んだ建部山。建部山の山頂には明治期の建部山堡塁砲台の遺構があります。
五老岳防空砲台は昭和16年より工事が行われ、終戦時には12.7cm連装高角砲2門、8cm高角砲4門、探照灯や指揮所・待避所・兵舎・弾薬庫・発電所・油庫・各種倉庫などがあり、五老山全体を防空砲台施設とした大規模なものでした。
この五老岳防空砲台は戦後に米軍が撮影したカラーフィルムの映像が残されています。
※米国国立公文書館 情報管理局公開資料


YouTubeにUPされた映像。

8センチ高角砲










米軍が撮影した五老岳防空砲台の12.7cm連装高角砲。
南側砲座と照射指揮所










米軍が撮影した五老岳防空砲台。北側から南側を望む。手前の建物は照射指揮所。奥にあるのが南側の砲座。現在は五老岳公園および電波の中継局となり遺構は滅失しています。

五老岳防空砲台は前述の通り公園化され、五老岳スカイタワー等の観光施設が建てられたため、ほとんどの防空砲台時代の遺構が消滅しています。
昭和22年写真








国土地理院HP公開、昭和22年撮影の五老岳防空砲台
※赤丸が探索範囲。

10.滅失地下壕










20年ほど前までは現在の第1駐車場の遊歩道階段付近に、コンクリート製の地下壕施設が残されていましたが、駐車場の整備により現在は滅失しています。
※『京都の戦争遺跡をめぐる』(つむぎ出版 1996年)より引用。
現在は五老岳防空砲台の遺構は完全に消滅している物と思われましたが、ツイッターのフォロワーさんが探索。西尾根上にいくつか遺構が残されていることが判明。今回私も探索してみることにしました。

五老岳防空砲台西尾根遺構位置図










※探索により確認した五老岳防空砲台西尾根遺構の位置図。
1.平坦地










五老岳公園第1駐車場へ入る手前のカーブ、日本郵政所有のガードフェンスのある敷地の脇に共楽公園へと至る山道があります。そこを進んでいくと西尾根の各遺構が存在します。
まずは西尾根へと向かう階段を下ると現れる平坦地。昭和22年の航空写真にも写っているため、何かしらの施設があったと思われます。コンクリート等の構造物は見当たりませんでした。
2.陶製ケーブル覆い










尾根道の脇に転がっていた陶製のケーブル覆い。
3.陶製ケーブル覆い













恐らく常滑製。土管を半分にしたような形で、地下ケーブルを覆っていたものです。
近くに発電施設があったものと思われます。同じ物を舞鶴市の空山防空砲台の探索時に確認しています。
舞鶴市・空山防空砲台探索レポ日記
舞鶴市・空山防空砲台第一・第二聴測照射指揮所跡探索レポ日記

4.溝状遺構










尾根上を掘り込んだ形の溝状遺構。フォロワーさんによると、さらに西側にあった探照灯を引き出すための溝ではないかのこと。

5.機銃座










溝状遺構の北側にある窪地。

6.機銃座か










同じくもう一つの窪地。フォロワーさんによれば探照灯を防護するための機銃座ではとのこと。

7.発電機室壕










溝状遺構の先にあるコンクリート構造物。
8.発電機室壕










上から。
9.発電機室壕内部










入口は土砂が蓄積し、内部には入れませんが、開口部から撮影すると、奥までは土砂が溜まらず、
良好な状態で残されていることが分かりました。恐らく発電機室と思われます。となると、近くに冷却用の貯水槽や燃料庫が残されている可能性があります。
現在、五老岳防空砲台で唯一現存が確認されたコンクリート構造物です。

フォロワーさんの成果の後追いとなる探索ですが、完全に消滅したと思われる五老岳防空砲台の遺構がまだ現存しているという確認が出来たのは大きな成果だと思います。
※位置図に記している8cm高角砲座跡の確認を今回見落としてました。次回、貯水槽等の確認も含めて追加探索したいと思います。

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