都道府県別
2024年10月14日
福知山市・河守防空監視哨跡探索レポ日記
京都府福知山市大江町にある河守防空監視哨跡を探索してきました。
防空監視哨とは、戦時中に敵機の来襲を監視するために設けられた民防空による見張り所で、軍の指導の下に在郷軍人や青年団、青年学校生徒などが防空監視隊を編成し交代で任務にあたってました。
大江町の河守地区に防空監視哨が存在し、記念の石碑が建てられているのを知ったのは、上記の2016年4月15日付の両丹日日新聞に載せられた、「中高生らが戦争遺跡を調査 防空監視哨訪ね」の記事を見たことからでした。非常に興味がある記事でしたが、肝心の元ページは文字化けにより判読不可。何とか場所を探そうと試みましたが、どうしても分からず行き詰っていたところ、フォロワーさんよりエンコードした記事を送ってくださり、ようやく場所を知ることが出来ました。
河守防空監視哨跡の場所。集落の道から伸びる山道をひたすら歩いていくと15〜20分で到着。
山道は倒木が多いものの、割と分かりやすい山道でした。
到着した河守防空監視哨跡。記念碑とお堂があります。
記念碑の正面には「大東亜戦争河守監視哨跡」
左側面には「元監視哨員及有志者一同」
右側面には「昭和四十四年四月建之」の文字が刻まれています。
河守防空監視哨跡の石碑のある場所を裏側から。整地された痕跡が見られます。
実はこの場所は麓の清園寺の奥の院に当たる場所で、明治期に整備されたようです。
ただし、記念碑の横に建つお堂は戦後に建てられたもののようで、戦時中は奥の院に至る山道や平坦地を利用して防空監視哨が設置されたものと思われます。
河守防空監視哨は集落から歩いて20分程度の場所にあり、おそらく普段の生活は麓の集落で行い、交代の際に登ったものと思われます。
「昭和十九年度京都府防空計画」に記載されている京都府内の防空監視哨。防空監視哨は各防空監視隊本部の下、任務にあたってました。防空監視省の多くは木造の櫓状のものだったようで、現在、防空監視哨は建物は失われ、山中に埋もれており、場所が分からなくなっているものも多くあります。
その中で、京都市右京区京北町の黒田防空監視哨は地元の方の尽力により、跡地に模擬櫓と説明板が設置されました。
防空監視哨を記した地図を基に作成した京都府内防空監視哨の位置図。
多くが山中に埋もれ、場所も分からなくなっている防空監視哨跡が多い中、記念碑として残されている河守防空監視哨跡は、戦時中の民防空の痕跡を伝える貴重な存在と言えます。
登山口の下にある護国神社の社号標。
その裏には「河守町軍友会」の文字が刻まれています。その他、紀元二千六百年記念の石碑がありました。
小さな集落の中の小さな神社の境内にも、戦前・戦中の姿を伝える遺物が残されています。
2024年10月07日
神戸女学院大学(ヴォーリズ建築校舎群)見学レポ日記
2024年9月28日、兵庫県西宮市にある神戸女学院大学の一般公開に行ってきました。
神戸女学院大学の現校舎は、昭和8年にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた校舎群で、
ヴォーリズ建築作品が一カ所に12棟建ち並び、当時のまま残されていることから、2014年に国の重要文化財に指定されました。
ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式の校舎群が建ち並ぶ姿は、壮観かつ女子大らしい華やかさを感じる空間です。
実は、昭和9年に刊行された神戸女学院の竣工記念帖を所有しています。
中には竣工当時の校舎の写真が乗せられており、それらも併せて紹介したいと思います。
正門前にある案内板。現在の神戸女学院大学のキャンパスの鳥観図が描かれています。
キャンパスは岡田山という小高い山の上にあり、ちょっとした登山。
学生さんは毎日この山を登ってるのか・・・・
昭和8年当時の神戸女学院の空撮写真。重要文化財に指定されている主要部は現在と変わらないように見えます。
正門は修理中で覆いがかかって見えませんでした…
最初に見えてきたのは音楽館。堂々たる大きな建物です。
壁面のタイルやテラコッタの装飾が華やかです。
竣工当時の音楽館。当時のままです。
坂を上がり切った場所にある守衛所。
他の見学者の方はあまり注目してませんでしたが、その可愛らしい姿に何枚か撮影。
最初に訪れたのは講堂。
ここで受付と最初の説明を受けました。
竣工当時の講堂。当時のまま。
正面から。
玄関ホールの階段。大理石の重厚な造り。
玄関ホールのシャンデリア。
講堂内部。入った当初は多くの人がいたので、帰り間際の人がいなくなった時を見計らって撮影。
講堂の大きな特徴は、この壇上にある大きなアーチ。
壇上には装飾に富んだ立派な演壇が。これも当時のもの。
天井には星形の照明があります。中々モダンなデザインです。
いったん外に。講堂の横にある通用門。ここを通ると中庭に出ます。
次は図書館。図書館1階のホールが荘厳でした。
このアーチの空間が素晴らしい。
奥にはミロのヴィーナスの模造が。
天井の照明。
壁面の照明。照明も可愛らしかったです。
アーチの柱頭飾り。中央には松明が。
図書館外観。
竣工当時の図書館。当時のまま。
図書館2階天井には、彩色の装飾がありました。
竣工当時の図書館2階天井。当時から彩色の装飾が施されていたようです。
図書館2階から3階に上がる螺旋階段。
図書館2階の閲覧机には竣工当時からの卓上ライトが今も残されています。
次は文学館へ。
先程の竣工当時の図書館の写真に写る文学館。当時はバルコニーがありました。
文学館の階段。玄関の階段ではないため、シンプルなデザイン。
出入口のドア。半円窓の装飾が美しい。
理科学館。こちらは中には入れませんでしたので、中庭から外観のみを見学。
総務館。講堂と併設している建物。
竣工当時の総務館の玄関。今と変わらない姿。
総務館玄関の階段ホール。
竣工当時の階段ホール。当時のまま。
正面のアーチ窓も当時のまま美しい姿を見せています。
階段の両脇にある、まるで街頭のような照明。
天井にも可愛らしい照明がありました。
総務館と文学館を繋ぐ渡り廊下。
最後に入ったのは礼拝堂。神戸女学院大学はミッション系スクールなので、チャペルがあります。
竣工当時の礼拝堂。こちらも当時のまま。
礼拝堂玄関上部のアーチにある「SEARLE CHAPEL」(ソール・チャペル)の文字。
礼拝堂内部は狭いうえに多くの人がいたので全体の様子は撮影できず。何とか撮影できた堂内のアーチ。
礼拝堂の平面積は狭いですが、天井は高く開放感があります。
正面の祭壇。ステンドグラス等は無くシンプルなデザイン。
礼拝堂の照明。
中庭の噴水。
今回の一般公開エリア外になりますが(というか近寄ることもできなかった)、神戸女学院中高部の校舎葆光館(ほうこうかん)。こちらも国指定重要文化財。
竣工当時の葆光館。こちらも当時のまま。
以上で神戸女学院大学のヴォーリズ建築校舎群の見学は終了。
見学者はかなり多く写真の撮影に苦労しましたが、終了間際になると多くの人が帰って行ったので、残り1時間でじっくり見学できました。
重要文化財の神戸女学院大学校舎群。ヴォーリズ建築を十分堪能できた1日でした。
※余談
文学館の側に神社があります。
岡田神社という神社で、廣田神社の摂社となってますが、延喜式に記載のある由緒ある神社。
ミッション系の女子大のキャンパス内に神社が存在していたのは意外でしたが、ちゃんと管理され新しい説明板もあるので大事にされているのでしょう。
ただ、神戸女学院大学のHPのキャンパスMAPにも大学構内の案内MAPにも記載がなく、その辺はやはり大学がキリスト教系だからという理由でしょうか。
神戸女学院大学の現校舎は、昭和8年にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた校舎群で、
ヴォーリズ建築作品が一カ所に12棟建ち並び、当時のまま残されていることから、2014年に国の重要文化財に指定されました。
ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式の校舎群が建ち並ぶ姿は、壮観かつ女子大らしい華やかさを感じる空間です。
実は、昭和9年に刊行された神戸女学院の竣工記念帖を所有しています。
中には竣工当時の校舎の写真が乗せられており、それらも併せて紹介したいと思います。
正門前にある案内板。現在の神戸女学院大学のキャンパスの鳥観図が描かれています。
キャンパスは岡田山という小高い山の上にあり、ちょっとした登山。
学生さんは毎日この山を登ってるのか・・・・
昭和8年当時の神戸女学院の空撮写真。重要文化財に指定されている主要部は現在と変わらないように見えます。
正門は修理中で覆いがかかって見えませんでした…
最初に見えてきたのは音楽館。堂々たる大きな建物です。
壁面のタイルやテラコッタの装飾が華やかです。
竣工当時の音楽館。当時のままです。
坂を上がり切った場所にある守衛所。
他の見学者の方はあまり注目してませんでしたが、その可愛らしい姿に何枚か撮影。
最初に訪れたのは講堂。
ここで受付と最初の説明を受けました。
竣工当時の講堂。当時のまま。
正面から。
玄関ホールの階段。大理石の重厚な造り。
玄関ホールのシャンデリア。
講堂内部。入った当初は多くの人がいたので、帰り間際の人がいなくなった時を見計らって撮影。
講堂の大きな特徴は、この壇上にある大きなアーチ。
壇上には装飾に富んだ立派な演壇が。これも当時のもの。
天井には星形の照明があります。中々モダンなデザインです。
いったん外に。講堂の横にある通用門。ここを通ると中庭に出ます。
次は図書館。図書館1階のホールが荘厳でした。
このアーチの空間が素晴らしい。
奥にはミロのヴィーナスの模造が。
天井の照明。
壁面の照明。照明も可愛らしかったです。
アーチの柱頭飾り。中央には松明が。
図書館外観。
竣工当時の図書館。当時のまま。
図書館2階天井には、彩色の装飾がありました。
竣工当時の図書館2階天井。当時から彩色の装飾が施されていたようです。
図書館2階から3階に上がる螺旋階段。
図書館2階の閲覧机には竣工当時からの卓上ライトが今も残されています。
次は文学館へ。
先程の竣工当時の図書館の写真に写る文学館。当時はバルコニーがありました。
文学館の階段。玄関の階段ではないため、シンプルなデザイン。
出入口のドア。半円窓の装飾が美しい。
理科学館。こちらは中には入れませんでしたので、中庭から外観のみを見学。
総務館。講堂と併設している建物。
竣工当時の総務館の玄関。今と変わらない姿。
総務館玄関の階段ホール。
竣工当時の階段ホール。当時のまま。
正面のアーチ窓も当時のまま美しい姿を見せています。
階段の両脇にある、まるで街頭のような照明。
天井にも可愛らしい照明がありました。
総務館と文学館を繋ぐ渡り廊下。
最後に入ったのは礼拝堂。神戸女学院大学はミッション系スクールなので、チャペルがあります。
竣工当時の礼拝堂。こちらも当時のまま。
礼拝堂玄関上部のアーチにある「SEARLE CHAPEL」(ソール・チャペル)の文字。
礼拝堂内部は狭いうえに多くの人がいたので全体の様子は撮影できず。何とか撮影できた堂内のアーチ。
礼拝堂の平面積は狭いですが、天井は高く開放感があります。
正面の祭壇。ステンドグラス等は無くシンプルなデザイン。
礼拝堂の照明。
中庭の噴水。
今回の一般公開エリア外になりますが(というか近寄ることもできなかった)、神戸女学院中高部の校舎葆光館(ほうこうかん)。こちらも国指定重要文化財。
竣工当時の葆光館。こちらも当時のまま。
以上で神戸女学院大学のヴォーリズ建築校舎群の見学は終了。
見学者はかなり多く写真の撮影に苦労しましたが、終了間際になると多くの人が帰って行ったので、残り1時間でじっくり見学できました。
重要文化財の神戸女学院大学校舎群。ヴォーリズ建築を十分堪能できた1日でした。
※余談
文学館の側に神社があります。
岡田神社という神社で、廣田神社の摂社となってますが、延喜式に記載のある由緒ある神社。
ミッション系の女子大のキャンパス内に神社が存在していたのは意外でしたが、ちゃんと管理され新しい説明板もあるので大事にされているのでしょう。
ただ、神戸女学院大学のHPのキャンパスMAPにも大学構内の案内MAPにも記載がなく、その辺はやはり大学がキリスト教系だからという理由でしょうか。
2024年09月28日
実家で使われている昭和型板ガラス
昭和30年代から50年代を中心に、模様が施された板ガラスを窓や障子や戸棚に使用されるのが流行りました。型板ガラスというロール法で作られた模様入りのガラス板で、各メーカーにより多くの種類の模様の型板ガラスが製造されました。しかし、昭和も後期になると次第に需要が無くなり、現在では国内での製造は終了。昭和中期くらいまでの古い住宅に今でも使われているものくらいしか残されていません。
新たなものが二度と作られないため、今となっては貴重なものになりつつある昭和型板ガラスですが、私の実家は大正4年築の旧家で戦後にガラス戸へと変更したり、両親が生活する離れを昭和40年代に建てたりしているため、今でも多数の昭和型板ガラスが残されています。そんな実家の昭和型板ガラスを記録として販売開始年代順に紹介したいと思います。
昭和型板ガラスの各製品に関しては、こちらのサイトを参考にしました。
「ダイヤ」昭和27年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。
「石目」昭和31年。日本板硝子製。主屋の縁側のガラス戸に使われているもの。
ちなみにガラス戸の鍵は未だにネジ錠です。昔の家はこれでしたね。
「まつば」昭和40年。日本板硝子製。玄関横の表の間のガラス戸に使われているもの。
「こずえ」昭和40年。旭硝子製。両親の離れ屋のガラス戸に使われているもの。
「銀河」昭和42年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。
こちらは台所の戸棚の引き戸に使われている「銀河」の型板ガラスですが、模様も大きいため日本板硝子製ではないかもしれません。
「いちょう」昭和42年。日本板硝子製。主屋の奥の間のガラス戸に使われているもの。
「ちぐさ」昭和46年。日本板硝子製。台所および洗面所・浴室の窓ガラスに使われているもの。
「さくら」昭和46年。セントラル硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。
「みどり」昭和46年。日本板硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。
こちらは台所の戸棚に使われている「みどり」の型板ガラス。
「ばら」昭和48年。セントラル硝子製。応接間の扉に使われているもの。
「きく」昭和45年〜昭和50年頃。日本板硝子製。元祖父母の部屋の扉に使われているもの。
ごく短期間の製造だったそうです。
「いろり」昭和50年。セントラル硝子製。台所のガラス戸に使われているもの。
「よぞら」昭和63年。日本板硝子製。両親の離れ屋の窓ガラスに使われているもの。
「つづれ」昭和63年。日本板硝子製。最後は私の自室のガラス戸に使われている型板ガラスです。
私が小学生の頃に2階の部屋を改装して私と妹の部屋が造られましたが、その時に設置されました。
実家の自室で過ごしていた時は全く気にも留めていませんでしたが。
実家で使われている昭和型板ガラスは、一番古い物が昭和27年、一番新しいものが昭和63年となっており、型板ガラスは昭和末期まで製造されていたことが分かりますが、平成に入ってからは全く製造されなくなったようです。
最近は昭和レトロブームで昭和型板ガラスが見直され、かつて使われていたり在庫として残されていた昭和型板ガラスを皿として再生したものが人気を博したり、SNSでも昭和型板ガラスを見て回ったり、書籍になったりしています。実家のこれらの型板ガラスが今後どうなるか分かりませんが、できる限り残していけたらと考えています。
新たなものが二度と作られないため、今となっては貴重なものになりつつある昭和型板ガラスですが、私の実家は大正4年築の旧家で戦後にガラス戸へと変更したり、両親が生活する離れを昭和40年代に建てたりしているため、今でも多数の昭和型板ガラスが残されています。そんな実家の昭和型板ガラスを記録として販売開始年代順に紹介したいと思います。
昭和型板ガラスの各製品に関しては、こちらのサイトを参考にしました。
「ダイヤ」昭和27年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。
「石目」昭和31年。日本板硝子製。主屋の縁側のガラス戸に使われているもの。
ちなみにガラス戸の鍵は未だにネジ錠です。昔の家はこれでしたね。
「まつば」昭和40年。日本板硝子製。玄関横の表の間のガラス戸に使われているもの。
「こずえ」昭和40年。旭硝子製。両親の離れ屋のガラス戸に使われているもの。
「銀河」昭和42年。日本板硝子製。納屋の窓ガラスに使われているもの。
こちらは台所の戸棚の引き戸に使われている「銀河」の型板ガラスですが、模様も大きいため日本板硝子製ではないかもしれません。
「いちょう」昭和42年。日本板硝子製。主屋の奥の間のガラス戸に使われているもの。
「ちぐさ」昭和46年。日本板硝子製。台所および洗面所・浴室の窓ガラスに使われているもの。
「さくら」昭和46年。セントラル硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。
「みどり」昭和46年。日本板硝子製。今は使用していない外の便所の窓ガラスに使われているもの。
こちらは台所の戸棚に使われている「みどり」の型板ガラス。
「ばら」昭和48年。セントラル硝子製。応接間の扉に使われているもの。
「きく」昭和45年〜昭和50年頃。日本板硝子製。元祖父母の部屋の扉に使われているもの。
ごく短期間の製造だったそうです。
「いろり」昭和50年。セントラル硝子製。台所のガラス戸に使われているもの。
「よぞら」昭和63年。日本板硝子製。両親の離れ屋の窓ガラスに使われているもの。
「つづれ」昭和63年。日本板硝子製。最後は私の自室のガラス戸に使われている型板ガラスです。
私が小学生の頃に2階の部屋を改装して私と妹の部屋が造られましたが、その時に設置されました。
実家の自室で過ごしていた時は全く気にも留めていませんでしたが。
実家で使われている昭和型板ガラスは、一番古い物が昭和27年、一番新しいものが昭和63年となっており、型板ガラスは昭和末期まで製造されていたことが分かりますが、平成に入ってからは全く製造されなくなったようです。
最近は昭和レトロブームで昭和型板ガラスが見直され、かつて使われていたり在庫として残されていた昭和型板ガラスを皿として再生したものが人気を博したり、SNSでも昭和型板ガラスを見て回ったり、書籍になったりしています。実家のこれらの型板ガラスが今後どうなるか分かりませんが、できる限り残していけたらと考えています。
2024年09月01日
舞鶴市・池内公民館(旧池内郵便局)探訪レポ日記
舞鶴市の郊外に中々良い感じの近代建築があることを知りました。
布敷地区にある池内公民館です。
一部増築や改築が見られるものの、おおむね昭和戦前期と思われる外観が保たれています。
特に特徴が表れているのが玄関の車寄せ部分。
派手さは無いですが、柱と梁を強調したデザインと上部のアーチ窓が目を引きます。
車寄せの天井は格天井となっており、和風のスタイルも取り入れられています。
3面に設置されたアーチ窓は明り取り用と思われますが、シンプルながらも良いデザインです。
玄関車寄せには当初の物と思われる古い看板がそのまま掲げられています。
写真では判読できませんが、現地でなんとか「池内郵便局」と読むことが出来ました。
現在は池内公民館として使用され、内部に布敷簡易郵便局が併設されていますが、かつては池内郵便局だったことが分かりました。
ただし、検索しても近代建築を扱うサイトでは全く見かけないなど、資料や情報が全く得られず、近代建築界隈でも知られていない物件のようで、建築年などの情報は得られませんでした。
ただし、外観は典型的な戦前の地方の役場建築・郵便局建築、国土地理院公開の昭和22年の航空写真に写っていることから、ここでは昭和戦前期の建築としておきます。
2024年08月31日
大津市の近代建築探索レポ日記(JR大津駅〜浜大津)
※2018年8月13日に探索した時のレポ日記です。2024年8月31日現在、記事の物件のうち、2件の取り壊しを確認しました。
2018年8月13日に滋賀県大津市のJR大津駅から浜大津にかけての近代建築探索を行いました。
まずはJR大津駅界隈から。
M邸。大津市音羽台。昭和5年。
設計はヴォーリズ建築事務所。ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式。
2階窓にはステンドグラスがありました。
滋賀県庁舎。大津市京町。昭和14年。
設計は佐藤功一。早稲田大学大隈記念講堂や日比谷公会堂の設計も行った建築家。
以下に竣工記念絵葉書の記事があります。
※古絵葉書・滋賀県庁舎改築記念
玄関ホール。
内部も当時のまま。
階段手摺の装飾。装飾が控えめな滋賀県庁舎でこの装飾は目立ちますね。
階段踊り場のステンドグラス。
この日は平日で庁舎内に入れました。
以前は滋賀県庁舎の近くに武徳殿があったのですが、探索日のほんの4ヶ月ほど前に取り壊されました。3月には見学会もあったようで、早く知っていればと後悔するばかり。
森寺眼科医院。大津市中央町。
看板建築っぽい感じ。
壁のポストの文字が右書きなので、戦前の物件でしょう。
U邸。大津市京町。滋賀県庁の近くの一等地にあるお屋敷。洋館もあり、結構な名士の御屋敷だったと思われます。
通用口もこの立派さ。
大津教会。大津市末広町。昭和5年。
設計はヴォーリズ建築事務所。滋賀県内の戦前の教会建築の多くはヴォーリズ建築事務所が手掛けてますね。
島林書店。大津市中央町。かなり意匠的な本屋さん。
現在は廃業し空き家状態なので、今後が気になります。
洋風商店。大津市中央町。探索中に見つけた物件。
軒周りの蛇腹装飾に面影が残されています。
尾松歯科医院。大津市中央町。昭和9年。
現役の歯科医院なので一部の窓回りとかに改修が入ってますが、大切に使われているようです。
古今書店。大津市中央町。レリーフが目を引きますね。。
大津聖マリア教会。大津市京町。
中々可愛らしい教会です。
1931の文字がある定礎。
松本理髪店。探索中に見かけた物件。右書きの店名が戦前らしさを感じます。
外観と腰回りのスクラッチタイルから昭和初期頃でしょうか。
現在は廃業。
大津百町館の離れの洋館。
大津百町館は元呉服商の町屋建築。この離れの洋館は昭和初期の建築。
石田歯科医院。大津市中央町。昭和12年。
意匠に富んだ中々洒落た洋館です。
2階には帆船のステンドグラスがある素敵な楕円形の丸窓が。
次に浜大津エリアに。
旧久保井医院。大津市浜大津。昭和3年
いかにも戦前の町の個人病院といった姿です。
旧豆信(取り壊し)。大津市長等町。大正頃。看板建築ですが、外観は意匠に富んでます。
窓上部のレリーフ。
窓回りと軒周りのレリーフ。優れた洋風商店建築でしたが、2022年頃に取り壊され現存していません。
柴屋町遊郭(取り壊し)。大津市長等町。
大津市長等町にはかつて柴屋町遊郭がありました。今も遊郭時代の建物がいくつか残されていますが、この建物はその中でも優れた意匠の建物。丸窓には竹の装飾があります。
壊れた窓から見える障子の組子は複雑で、ふんだんに手が掛けられた建物と分かります。
しかし、老朽化が進んでいたこともあり、現在は取り壊されています。
大門通の洋館群。大津市大門通。昭和初期頃。
大津市の大門通には戦前の分譲地と思われる一角があり、洋館付き住宅が数件残されています。
分譲地の入口には門柱まで備えられています。
大津市大門通の洋館付き住宅
大津市大門通の洋館付き住宅
大津市大門通の洋館付き住宅
こちらはメダリオンの装飾つき。
大津市大門通の洋館付き住宅
この大門通の分譲地に関しての史料は見つからなかったですが、かつて近くに江若鉄道の三井寺下駅があり、それに関わる分譲地だった可能性があります。
旧大津公会堂。大津市浜大津。昭和9年。
大津市でも代表格の近代建築の一つ。現在は貸しスペースなどに利用されています。
玄関ホールや階段は当時のまま。
いい雰囲気ですね。
3階部分はちょっとしたスペースがあり、ここで少し休憩し、歩き疲れた足を回復させました。
今回の探索では、大規模なものからひっそりと残る小さな物件まで、様々な近代建築に触れることができ、戦前の滋賀県庁舎近辺から浜大津界隈の雰囲気を感じることが出来ました。
2018年8月13日に滋賀県大津市のJR大津駅から浜大津にかけての近代建築探索を行いました。
まずはJR大津駅界隈から。
M邸。大津市音羽台。昭和5年。
設計はヴォーリズ建築事務所。ヴォーリズ建築らしいスパニッシュ様式。
2階窓にはステンドグラスがありました。
滋賀県庁舎。大津市京町。昭和14年。
設計は佐藤功一。早稲田大学大隈記念講堂や日比谷公会堂の設計も行った建築家。
以下に竣工記念絵葉書の記事があります。
※古絵葉書・滋賀県庁舎改築記念
玄関ホール。
内部も当時のまま。
階段手摺の装飾。装飾が控えめな滋賀県庁舎でこの装飾は目立ちますね。
階段踊り場のステンドグラス。
この日は平日で庁舎内に入れました。
以前は滋賀県庁舎の近くに武徳殿があったのですが、探索日のほんの4ヶ月ほど前に取り壊されました。3月には見学会もあったようで、早く知っていればと後悔するばかり。
森寺眼科医院。大津市中央町。
看板建築っぽい感じ。
壁のポストの文字が右書きなので、戦前の物件でしょう。
U邸。大津市京町。滋賀県庁の近くの一等地にあるお屋敷。洋館もあり、結構な名士の御屋敷だったと思われます。
通用口もこの立派さ。
大津教会。大津市末広町。昭和5年。
設計はヴォーリズ建築事務所。滋賀県内の戦前の教会建築の多くはヴォーリズ建築事務所が手掛けてますね。
島林書店。大津市中央町。かなり意匠的な本屋さん。
現在は廃業し空き家状態なので、今後が気になります。
洋風商店。大津市中央町。探索中に見つけた物件。
軒周りの蛇腹装飾に面影が残されています。
尾松歯科医院。大津市中央町。昭和9年。
現役の歯科医院なので一部の窓回りとかに改修が入ってますが、大切に使われているようです。
古今書店。大津市中央町。レリーフが目を引きますね。。
大津聖マリア教会。大津市京町。
中々可愛らしい教会です。
1931の文字がある定礎。
松本理髪店。探索中に見かけた物件。右書きの店名が戦前らしさを感じます。
外観と腰回りのスクラッチタイルから昭和初期頃でしょうか。
現在は廃業。
大津百町館の離れの洋館。
大津百町館は元呉服商の町屋建築。この離れの洋館は昭和初期の建築。
石田歯科医院。大津市中央町。昭和12年。
意匠に富んだ中々洒落た洋館です。
2階には帆船のステンドグラスがある素敵な楕円形の丸窓が。
次に浜大津エリアに。
旧久保井医院。大津市浜大津。昭和3年
いかにも戦前の町の個人病院といった姿です。
旧豆信(取り壊し)。大津市長等町。大正頃。看板建築ですが、外観は意匠に富んでます。
窓上部のレリーフ。
窓回りと軒周りのレリーフ。優れた洋風商店建築でしたが、2022年頃に取り壊され現存していません。
柴屋町遊郭(取り壊し)。大津市長等町。
大津市長等町にはかつて柴屋町遊郭がありました。今も遊郭時代の建物がいくつか残されていますが、この建物はその中でも優れた意匠の建物。丸窓には竹の装飾があります。
壊れた窓から見える障子の組子は複雑で、ふんだんに手が掛けられた建物と分かります。
しかし、老朽化が進んでいたこともあり、現在は取り壊されています。
大門通の洋館群。大津市大門通。昭和初期頃。
大津市の大門通には戦前の分譲地と思われる一角があり、洋館付き住宅が数件残されています。
分譲地の入口には門柱まで備えられています。
大津市大門通の洋館付き住宅
大津市大門通の洋館付き住宅
大津市大門通の洋館付き住宅
こちらはメダリオンの装飾つき。
大津市大門通の洋館付き住宅
この大門通の分譲地に関しての史料は見つからなかったですが、かつて近くに江若鉄道の三井寺下駅があり、それに関わる分譲地だった可能性があります。
旧大津公会堂。大津市浜大津。昭和9年。
大津市でも代表格の近代建築の一つ。現在は貸しスペースなどに利用されています。
玄関ホールや階段は当時のまま。
いい雰囲気ですね。
3階部分はちょっとしたスペースがあり、ここで少し休憩し、歩き疲れた足を回復させました。
今回の探索では、大規模なものからひっそりと残る小さな物件まで、様々な近代建築に触れることができ、戦前の滋賀県庁舎近辺から浜大津界隈の雰囲気を感じることが出来ました。
2024年08月30日
養父市大屋町の近代建築と明延鉱山関連建物探索レポ日記
2024年8月10日、兵庫県養父市大屋町にある近代建築と明延鉱山を探索してきました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。
但馬銀行大屋支店。昭和6年
小さな町の中にある立派な洋館。
やはり目立ちますね。
壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。
門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。
おそらく昭和戦前期の建築と思われます。
当時の外観の姿を良く残しています。
正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。
妻側から。
玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。
講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。
※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。
明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。
説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。
北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。
かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。
こちらは10号社宅。
11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。
社宅内部。
家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。
北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。
プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。
北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。
北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。
工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。
手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。
玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。
隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。
最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。
北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。
旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。
旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。
旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。
かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。
南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。
南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。
郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。
明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。
現在は取り壊され何も残されていません。
明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。
展示されている、No18電気機関車。
昭和17年、三菱電機製。
こちらは電動客車白金号。昭和27年製。
桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。
こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。
明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。
元商店と思われる建物。
正垣百貨店。雑貨店のような感じ。
看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。
社宅と思われるる建物。
レトロなたばこ屋さんがありました。
味のある「たばこ」の看板。
龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。
川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。
川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。
消防団詰所。洋風の外観。
内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。
明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。
中々洒落た建物です。
妻側から。
玄関には第一浴場の文字もあります。
明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。
現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。
第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。
坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。
桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。
1部屋だけ住人がいるようです。
同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。
3棟が残されれています。
こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。
まずは養父市大屋町にある近代建築。
但馬銀行大屋支店。昭和6年
小さな町の中にある立派な洋館。
やはり目立ちますね。
壁面の装飾。当初は養父合同銀行大屋支店として建てられ、昭和16年に但馬銀行大屋支店となります。
現在は別の企業が使用しています。
門野公民館。養父市大屋町門野地区にある公民館建築。
おそらく昭和戦前期の建築と思われます。
当時の外観の姿を良く残しています。
正面玄関の車寄せには、欄間のような装飾があり、中々凝ってます。
妻側から。
玄関部分を覗いてみました。扉や梁も当時の物のようです。
講堂と思われる大広間は天井が格天井、演壇があり、柱には装飾もあって、まるで学校の講堂のようです。かつての門野地区の人たちが誇りになるような公民館を建てたことが分かりますが、現代の門野地区の住民の方々も大切にしていることが、門野公民館の状態の良さから分かります。
さて、ここから明延鉱山へと向かいます。
明延鉱山は昭和62年まで採掘がおこなわれた鉱山で、明治5年に官営鉱山となり、明治29年に三菱合資会社の経営へと移りました。それまでは銅を採掘していましたが、明治42年に大規模な錫鉱脈が発見されたことにより、明延鉱山は隆盛を迎えました。最盛期の昭和30〜40年代には鉱山関係者が4123人となり、山間部でありながら多くの人で賑い、鉱山関係者向けの娯楽施設には映画の最新作が上映され、多くの有名芸能人が公演を開くほどでした。
※出展 明延の町並み
閉山後は人口が一気に減り、今は静かな集落となっていますが、現在もかつての繁栄を物語る多くの建物が残されています。
明延鉱山北星長屋社宅。昭和8年〜13年。
説明板。鉱山従業員用の木造の社宅として建てられました。
北星長屋社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
木造平屋建ての社宅で、建築当初は1棟につき5戸が入りましたが、後に2戸及び3戸を繋げ、
当初は無かった風呂場を片方の台所の部分に設置するなど、住環境の改善が図られました。
かつては14棟あった社宅も、現在は4棟のみ残されています。
こちらは10号社宅。
11号社宅の背面。まだ汲み取り式便所の臭突が残されています。
社宅内部。
家具などの残置物は一切なく、綺麗に管理されています。写真が展示されているので、イベントの時や見学者が希望した時に開けるのかと思います。
北星長屋社宅の奥の山側にコンクリートの建物が残されています。
これは北星プレコン社宅。昭和29年に日本で初めてプレキャストコンクリート工法で建てられた当時最新式の住宅建築でした。
プレキャストコンクリート工法とは、あらかじめ工場で鉄筋コンクリートの柱や壁となるコンクリートパネルを製造し、それらを現地に持ち込み建てる工法で、いわゆるプレハブ工法です。
北星プレコン社宅平立面図。 ※出展 明延鉱山の北星社宅
北星プレコン社宅は2階建てで、1階と2階にそれぞれ1戸ずつ入っていました。
北星プレコン社宅は8棟建設され、現在もすべての棟が残されていますが、廃墟化が進み敷地も藪化が進んでいるため、手前の3棟しか近寄れませんでした。
工場で建築資材を製造し現地で建てるため、デザインは全て同じ。違いと言えば、玄関位置が逆になっているくらいです。
手前の棟の玄関の扉がすでに開放状態だったので、中を覗いてみることにしました。
玄関を入って手前の6畳間。奥の押し入れ部分に本来は無い階段が造られています。1階と2階は本来別世帯になるんですが、2階と内部の階段でつなげて1戸にしたと思われます。
しかしここはかつての住人の残置物がそのまま残されていて、ちょっと生々しく自分は苦手でした。
壁に貼られている竹田城跡のカレンダーは2002年のもので、12年前までは住人がいたことになります。
隣の8畳間には仏壇が・・・・。8畳間の隣には台所があるのですが、そこまで行く度胸は無く・・・
気のせいだろうけど、なんか気配を感じたような。昼でこれだから、夜は絶対行きたくないですね。
最後に住んでいた人は一体どんな人だったんだろう・・・
色々考えていたら何か背筋が寒く感じてきたので早々に退散。
北星社宅の前にあるガソリンスタンドの跡。
旧協和会館。昭和32年。明延鉱山関係者向けに建てられたイベントホールだった建物。
旧協和会館もプレコン工法で建てられています。
旧協和会館では映画の最新作が上映され、島倉千代子などの有名芸能人が公演を開くなど、
かつての明延鉱山の繁栄ぶりを物語る娯楽施設でした。現在は企業の施設となっています。
旧明延購買会。昭和38年。明延鉱山関係者向けの商業施設だった建物。
当時は珍しかったプレハブパイプ工法で建てられています。
かつては食料品、日用品、雑貨、衣類だけでなく、電化製品まで取り扱っていました。
現在は企業の工場施設となってます。
南谷郵便局。昭和30年代。明延鉱山が操業していた頃から存在した郵便局で、
現在も郵便局として稼働しています。
南谷郵便局の前には「局前橋」という名前の橋が架かっています。
郵便局の裏には、郵政省の境界杭が残されていました。
明延病院跡。昭和30年完成当時、兵庫県内でも有数の総合病院と言われた病院で、
鉱山関係者以外の患者も訪れていたそうです。
現在は取り壊され何も残されていません。
明延鉱山一円鉄道。一円電車は鉱山従業員の通勤用として昭和20年に運行した電車でした。
展示されている、No18電気機関車。
昭和17年、三菱電機製。
こちらは電動客車白金号。昭和27年製。
桜ヶ丘プレコン社宅。昭和29年ごろ。あけのべ憩いの家の前にある社宅です。
こちらは集合住宅タイプ。壁面にプレコン工法の特徴のコンクリートパネルの
形が良く見えます。現在も住宅として使用されています。
次に、明延の町並みを歩いていきます。
明延の町は明延川に沿った南北の道路の両側に民家や商店が建ち並んでいました。
元商店と思われる建物。
正垣百貨店。雑貨店のような感じ。
看板には鮎が描かれています。川魚も扱っていたのでしょうか。
社宅と思われるる建物。
レトロなたばこ屋さんがありました。
味のある「たばこ」の看板。
龍の口から「cigarette」の炎が。
小林の文字があるので、小林たばこ店だったのでしょうか。
川沿いにある古い建物。養父市のサイトでは商店となってますが、2階部分の高欄などの特徴から、元々は料理旅館だったのではと思います。
川沿いに建つ建物。2階部分の窓にも高欄があり、川を眺めるようになってます。
消防団詰所。洋風の外観。
内部は改装されて面影はあません。現在は使われていないようです。
明延鉱山第一浴場。昭和9年。明延鉱山で唯一残る戦前の洋館建築。
中々洒落た建物です。
妻側から。
玄関には第一浴場の文字もあります。
明延鉱山の社宅や寮には風呂場が無く、各エリアに計7か所の共同浴場が設置されました。
入浴料は無料。当時の明延鉱山がいかに豊かで福利厚生が手厚かったかが分かります。
この第一浴場は最初に設置された浴場でした。
現在は明延鉱山の歴史を紹介する展示スペースとなっています。
第一浴場の向かいには明和寮という独身寮がありました。
独身寮に住む人たちも第一浴場を大いに利用したのでしょう。
坂ノ谷プレコン社宅。昭和29年頃。
桜ヶ丘プレコン社宅と同じ集合住宅タイプですね。
1部屋だけ住人がいるようです。
同じ坂ノ谷プレコン社宅の2戸建てタイプ。
北星プレコン社宅と同じタイプ。
3棟が残されれています。
こちらは全て空き家でしたが、北星プレコン社宅ほど荒れてはいませんでした。
明延鉱山一帯はかつては多くの社宅や鉱山関連施設がひしめくように建ち並んでいましたが、閉山後は次々と人が去り空き家が増えて、ほとんどが取り壊されていきました。
それでも空き家となっても未だ残り続ける社宅、現在も民家として使用されている社宅、再利用されている施設など、隆盛を極めた明延鉱山の面影が未だ残されており、かつての栄えていた明延鉱山の雰囲気を感じ取ることが出来ました。
今回探索した箇所以外にも戦前と思われる社宅が民家として利用されている箇所がいくつかありましたが、民家の敷地の奥だったりしていたため、立ち入りは控えることにしました。
2024年08月04日
兵庫県丹波市氷上町・春日町他の近代建築探索レポ日記
2024年8月3日、兵庫県丹波市氷上町・春日町他の近代建築を探索してきました。
兵庫県丹波市は過去に柏原町・氷上町・青垣町・山南町の近代建築の探索をしています。
※関連記事
兵庫県丹波市柏原町の近代建築探索レポ日記
丹波市氷上町・青垣町、朝来市和田山町、養父市八鹿町、豊岡市日高町の近代建築探索レポ日記
丹波市山南町の近代建築探索レポ日記
兵庫県丹波市は過去に柏原町・氷上町・青垣町・山南町の近代建築の探索をしています。
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丹波市氷上町・青垣町、朝来市和田山町、養父市八鹿町、豊岡市日高町の近代建築探索レポ日記
丹波市山南町の近代建築探索レポ日記
今回は未訪問だった物件を補完する感じでの探索です。
※今回、諸事情により詳細な所在場所を伏せている物件があります。ご了承ください。
まずは柏原町で未訪問だった物件へ。
東鴨野公民館 丹波市柏原町鴨野。
昭和戦前期の建築でしょうか。外観はだいぶ古くなってますが、今も現役のようです。
次は氷上町へ。
石生駅東口駅舎。丹波市氷上町石生。昭和17年。
今となっては数少ない木造駅舎。
中々良い感じ。
待合室は窓が大きく開放感があります。
現在の石生駅は西口駅舎がメインとなっているため、かつての窓口は塞がれています。
丸窓が戦前の駅舎の雰囲気を感じさせます。
跨線橋も昔ながらの木造です。
犬岡区公会堂。丹波市氷上町犬岡。
やや和風の雰囲気を持つ公会堂です。
公会堂の前には記念碑があります。これは昭和15年11月10日に紀元二千六百年の記念式典に関わった地区の人を顕彰した記念碑。
こちらは公会堂の建設資金を寄付した人たちを記す記念碑。この記念碑に「昭和十四年十月竣工」の文字があり、この犬岡区公会堂の竣工年が判明しました。
丹波市氷上町成松にある古いビル。外観や基礎、門柱から戦前の築とは思います。
壁面に隣に建っていた建物の痕跡(いわゆるトマソン物件)があります。
このビル、鉄筋コンクリート造だとは思うのですが、木造にも見える。ただ、木造でこんな細長い3階建てのビルが建てられるとは思わないので。
旧下新庄公民館。丹波市氷上町下新庄。
西丹波地域に残る公民館建築ではハイレベルな洋館建築。
外観はオリジナルの状態で良く保たれています。
背面。
正面玄関。なんとなく、内藤克雄の作品の雰囲気を感じます。
※関連記事 内藤克雄の作品を訪ねて
外観はオリジナルで良く保たれていますが、内部は農機具倉庫に使われているためか、間仕切り壁がほぼ撤去され、天井部分しか面影が残されていないのが残念です。
旧清住公民館。丹波市氷上町清住。先ほどの旧下新庄公民館とよく似た外観。
背面。
側面。
こちらも内部は物置とされ、かなり荒れてました。
次に春日町へと向かいます。
多利公民館。丹波市春日町多利。
小規模ですが、こまめなメンテナンスがされており、大切に使われています。
外観が加東市にいくつか残る戦前の洋風公民館建築とよく似ています。
※関連記事 加東市・小野市の近代建築探索レポ日記(内藤克雄作品を訪ねて)
隣接して別館があります。こちらも古そう。
最期に一か所、探索前に調べていて偶然見つけた物件があります。
昭和初期と思われる個人宅ですが、地方の小さな田舎町としては中々のレベルの洋館です。
ただし今のところ、他サイト等では一切紹介されていないため、未だほぼ近代建築としては知られていない物件であること、現在もお住まいになっている個人宅であることから、丹波市内にある洋館とだけ紹介し、詳細は伏せることにします。なので、具体的な所在地はお答えいたしません。
こちらがK邸。派手さは無いですが、窓の下の欄干や丸窓等、戦前の洋風住宅建築の雰囲気が良く出ています。
玄関部分の正面。
反対の角部分。壁面は黒の下見板張りで落ち着いた外観です。
側面から。屋根は赤瓦を葺き、黒壁と対照的な華やかさが目を引きます。
背面には主屋と同じデザインの離れ棟が存在します。
基礎の通風孔には、凝ったデザインのガラリがはめられており、手をかけて建てられた洋館と分かります。これだけの洋館ですから、それなりに名のある設計者によるものと思われますが、情報が全くなく詳細不明です。家主の方に聞くのが一番だとは思いますが、中々難しいですね。
今回は氷上町を中心として未訪問の物件を補完する探索でしたが、この洋館の発見と言い、まだまだレベルの高い近代建築が知られず存在しているんだなと思わされた探索でした。
2024年07月08日
旧舞鶴海軍防備隊(現・海上保安学校)遺構探索レポ日記
舞鶴市にある海上保安学校は、かつて舞鶴海軍防備隊の敷地でした。海軍防備隊とは担当警備区の沿岸の防衛を行う機関です。舞鶴海軍防備隊は当初は現在の海上自衛隊造修補給処の場所ににありましたが、昭和16年に現在の海上保安学校の位置に移転しました。
戦後、海上保安学校の敷地となりましたが、舞鶴海軍防備隊の建物などの施設はそのまま引き継がれ、現在もいくつかの建物や遺構が残されています。
※京都府立京都学・歴彩館所蔵「海軍防備隊 返還目録 昭和26年」より、舞鶴海軍防備隊施設位置図。(掲載許可済み)
終戦時の舞鶴海軍防備隊の建物等の施設が書かれています。
※同資料より施設目録(掲載許可済み)
この施設位置図や施設目録の史料により、現存している建物や遺構との裏付けをすることが出来ました。
そして、今回の探索を基に作成した遺構位置図。これに基づき紹介していきます。
\橘隋真ん中の門柱ではなく、両側の煉瓦風の門が当時の正門と思われます。
当初はコンクリート打ちっぱなしの門柱で、少なくとも昭和30年の写真には写っています。
庁舎。昭和16年築。鉄筋コンクリート造3階建ての近代的な造りで、当時主流になりつつある装飾を廃した機能主義的デザインの建物。
しかし、正面の堂々たる車寄せと両脇に伸びる車寄せスロープに戦前までの庁舎建築らしさを感じます。
玄関奥の階段室。階段のデザインも昭和10年代らしくシンプルなデザインです。
こちらは、昭和15年築の現在は舞鶴教育隊本館となっている旧舞鶴海兵団庁舎。
舞鶴海兵団庁舎の階段もほぼ同じデザインです。当時、海軍内で一定の建築デザインの統一があったのかもしれません。
旧舞鶴海軍防備隊庁舎の車寄せから外側を望む。奥に見えいる築山も防備隊当時のものです。
庁舎の内部も見たかったんですが、残念ながら内部へは入れませんでした。
庁舎背面。旧舞鶴海軍防備隊庁舎の両翼の表面・背面は耐震補強で増築されています。
先ほどの階段の裏側はこんな感じでした。
庁舎を離れ、北側に向かいます。
5豕〕觚法I馗甞し核蛭隊時代の唯一現存する木造建物。現在は機関科の実習棟として使用されています。
入口は妻側になります。
内部。トラスの小屋組み等、機雷庫時代の面影が良く残されています。
木製の棚。これも海軍時代のものではないでしょうか?
そして、ここにはとんでもないものが置かれています。
この古い機械。実は旧海軍の潜水艦のエンジンとのこと。
発電機が併設されており、発電用のエンジンと思われます。
潜水艦は日中の浮上航行中にディーゼルエンジンで動くため、そのエンジンで発電し蓄電。
夜間の潜航中はディーゼルエンジンが使えないため、バッテリーに蓄電した電気で航行します。
横から。
ディーゼルエンジンのプレート。製造は新潟鐵工所。新潟鐵工所は戦前より鉄道車両や船舶などのディーゼルエンジンの製造を行っていた企業で、戦時中は海軍用の製品も納入しており、このプレートにも海軍の錨マークが刻印されています。
ディーゼルエンジンの注意書きプレート。昭和20年5月製造。
発電機は昭和電機製造株式会社。昭和19年11月製造。
それぞれの下請け会社で製造されたエンジンと発電機を舞鶴海軍工廠で組み立てたものと思われます。
このディーゼルエンジンと発電機は実際には潜水艦に搭載されることはなく、舞鶴海軍工廠にそのままになっていたのを払い下げを受け、以来実習用として使用されてきたそうです。
現在国内に3基のみ存在し、うち稼働できるのはこの鬼陲里澆箸里海箸如貴重な近代産業遺産となっています。
※稼働している様子。
こちらも戦前の「裁断機」。おそらくこれも舞鶴海軍工廠に置かれていたものと思われます。
製造は大隈鉄工所。戦前より工作機械を製造した会社で、現在のオークマ株式会社です。
旧機雷庫を出て敷地を散策。
ち匕法μ庫か。「海上保安学校三十年史」には軽質油塗具庫となっていますが、返還目録の図面では単に倉庫となっています。
返還目録では煉瓦造となっていますが、近寄れなかったので確認できませんでした。
倉庫の隣に建つ小さな建物。返還目録にはそれらしいものは書かれていませんが、古そうだったし気になったので。形から油庫の可能性があります。
ッ残引揚場。返還目録にはスロープの形状のみ書かれていますが、三十年史では短艇引揚場となってます。
短艇(カッター)を引き上げるスロープですね。
一部修復されていますが、ほぼ防備隊時代のままと思われます。
γ残吊。当時の物かどうか確認するため細部を観察。
使われている鋼材は山形鋼と平鋼でリベット打ちの接続。戦前では一般的な工法でしたが、昭和30年代頃にはH形鋼が主流となるため、防備隊時代の可能性があります。
現在も現役で使われています。
次に正門辺りまで向かいます。
正門の東側に高台があり、階段が伸びてます。
その横に。
旧海軍時代のレリーフらしきものと、手水鉢があります。
遺構位置図Г硫媾蠅任后手水鉢は煉瓦造モルタル塗で、両側に水を流す溝が切られています。
手水鉢があることから、ここは防備隊の隊内神社の跡と思われます。
階段を上ると広場となっており、現在は殉職者の碑が建てられていますが、かつては社殿があったものと思われます。
その手水鉢の前に置かれた謎の物体。コンクリート製で表面には錨と桜花が陽刻されています。
防備隊時代の物とは思われますが、奥に手水鉢があるため、元々ここにあったものではなく、どこかから運んできたものと思われます。
階段の東側に神社の石積が残されています。
その東側の当日臨時駐車場となっていた場所へと向かいます。
┛揚場。護岸の一部が開口しており、スロープ状になっています。
海上保安学校の敷地内に現存する短艇引揚場と同じ性格のものと思われます。
防備隊桟橋跡。臨時駐車場となっている場所から海側へ向かうと、コンクリート造の桟橋跡が良好な形で残されていました。
ここは海上自衛隊の敷地のため普段は立ち入り禁止ですが、臨時駐車場となっていたため見学することが出来ました。
荷揚げクレーン台座。桟橋の西端には荷揚げ用のクレーンの台座が残されていました。
これは現在の海上自衛隊舞鶴造修補給処にある荷揚げ用の5トンクレーン。
昭和16年製のもので、防備隊桟橋跡にもこのようなクレーンが置かれていたものと思われます。
防備隊桟橋引込線跡。荷揚げクレーンがあったということは、運搬用貨車を引き込んだ引込線の痕跡が残されています。引込線は、桟橋の端から端まで通っており、痕跡も残されています。
桟橋の陸側には暗渠の蓋が並んでいます。
暗渠の一部は開けられていて中を覗くと、石積みの護岸が見えました。
明治・大正期に軍港整備として石積護岸が造られていましたが、昭和16年に舞鶴海軍防備隊が移転した際にこの桟橋が護岸の海側に増築する形で作られたことが良く分かります。しかし、暗渠の蓋は分厚く大きいです。
その他、桟橋跡には何にかの構造物の柱と思われる金属を切断した跡も残されていました。
海上保安学校となっている旧舞鶴海軍防備隊は探索前から庁舎と機雷庫の存在は把握していましたが、その他にも数多くの遺構が良好な状態で残されていることが判明し、旧軍遺構としては久しぶりに多くの成果を得た探索となりました。
旧軍遺構ではありませんが、海上保安学校にはもう一つ外せないものがあります。
それは実習灯台である舞鶴灯台。舞鶴灯台は昭和43年に完成した灯台ですが、
その灯台に設置されているレンズが第4等フレネルレンズ。
昭和10年3月、灯台局工場製の歴史あるもの。
おそらくどこかの灯台で使用されていたものを、こちらに実習用として移設したものと思われます。
もちろんちゃんと稼働します。こちらも貴重な近代産業遺産です。
2024年03月24日
富雄丸山古墳・造り出し部埋葬施設出土木棺等現地説明会レポ日記
去年、国宝級の発見と言われた鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡と東アジアでも最大級の蛇行剣が出土した富雄丸山古墳の造り出し部の埋葬施設。その埋葬施設内部の発掘調査が行われ、木棺や銅鏡、竪櫛などが出土し、3/17に現地説明会が行われたので行ってきました。
写真は盾形銅鏡と蛇行剣が出土した状態の去年の写真で、木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨と言います)の上に置かれていました。
※去年参加した富雄丸山古墳の現地説明会レポ日記
今回の富雄丸山古墳の現地説明会は、16日午後と17日に開催されれ、16日には3000人くらい訪れたと聞き、10時からの開始予定でしたが、8時に到着。古墳の近くには新たな案内板が設置されていました。看板が富雄丸山古墳の形で、矢印が蛇行剣w ちなみにもう一つ、鼉龍文盾形銅鏡の形をした案内板も設置されているようです。
8時に到着しましたが、誰もおらず。8時30分くらいから列が出来始め、1時間早めた9時から県が゛区開始となりました。
発掘された埋葬施設。埋葬施設の上には屋根がかけられ、その中を通路を歩きながら見学する感じでした。
しかし、1番乗りだった私はまだそんなに多くの人がいなかったため、じっくりと見学することができました。
埋葬施設全体。出土した木棺は非常に保存状態が良く驚きました。粘土槨の上に乗せられていた盾形銅鏡と蛇行剣から溶け出した金属イオンが作用して、木棺の腐食を防いだそうですが、古墳の木棺は大抵残っていないため、当時の木棺の姿を伝える貴重な発見です。木棺は割竹形木棺。木棺本体はコウヤマキで作られ、小口板はスギで作られています。
木棺の南東側には銅鏡が3枚重ねられて埋葬されていました。
銅鏡をアップで撮影してみました。表面(鏡面)を上にしているので文様はまだ不明ですが、縁の感じを見ると、三角縁というより平縁に見えます。当時日本にも多く伝わった漢式の内行花文鏡かなと思ってます。しかし、アップにすると益々木棺の保存状態の良さに驚きます。
木棺内に残された水銀朱。当時、朱の赤色は魔除けの意味合いがあり、古墳に埋葬された木棺や石棺の内部に塗られていました。水銀朱は金属なので、1700年以上経った現在でも鮮やかにその朱の色が残されています。ちなみに、竪櫛も9個ほど埋葬されていたそうですが、保存のために取り上げられていました。
さて、この造り出し部に埋葬された人物はどのような人だったのか。棺内に剣や刀、鏃などの武具が埋葬されていないこと、竪櫛が埋葬されていることから、被葬者は女性ではとの見方がされています。富雄丸山古墳の主である墳頂部に埋葬された人物の姉か妹ではとの説もあるようですが、それにしては副葬品が質素に見えます。それこそ首飾りである玉類とかあってもおかしくはないと思いますが、一切ないのが。私は富雄丸山古墳の主に仕えていた側近的な人物で、巫女的な存在だったのではと考えてます。棺外に置かれた盾形銅鏡と蛇行剣は主を守る魔除けの意味があったのではと。あくまで私の推測ですが。
1巡したあともう1度見たくなって2巡。その際にスマホにある3Dモデルが作成できるアプリを試してみることに。流れに沿って連続写真を撮るだけで簡単に3Dモデルが出来ました。便利な時代になりましたね。
2巡目を終えて富雄丸山古墳を後にした直後に見学者が一気に増えたようで40分待ちとかになったようです。やはり早めに来てよかった。
富雄丸山古墳の調査はまだ続くようなので、今後どんな発見があるのか楽しみですね。
※今回の富雄丸山古墳の現地説明会資料のPDFはこちらからDLできます。
2024年02月25日
下鴨森ガ前児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨西高木町にある下鴨森ガ前児童公園を探索しました。下鴨森ガ前児童公園は昭和14年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
下鴨森ガ前児童公園北門。
門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。
反対側も同じデザインで、シンメトリー。
公園内から。
下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。
北西隅の塀。
下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。
下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。
下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。
四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。
何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。
下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
下鴨森ガ前児童公園北門。
門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。
反対側も同じデザインで、シンメトリー。
公園内から。
下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。
北西隅の塀。
下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。
下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。
下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。
四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。
何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。
下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。