鉱山施設
2016年05月07日
福知山市・榎原鉱山跡遺構レポ日記
※mixi日記に書いたものの転載です。無断での画像や文章の引用は禁止いたします。
先日レポ日記に書いた中世観瀧寺跡の探索途中に発見した榎原鉱山跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/cat_50101861.html
※中世観瀧寺跡レポ日記。
実は最初ここが目指す中世観瀧寺跡と思い込んでました。
しかし、現地での踏査や改めて調べたりしてみるとどうやら鉱山跡だと確信。
目当ての中世観瀧寺跡ではなくその時は落胆しましたが、こちらもほとんど知られていない鉱山跡で、福知山市における貴重な近代化遺産としても重要と判断したことから、レポ日記を書くことに決めました。
先日レポ日記に書いた中世観瀧寺跡の探索途中に発見した榎原鉱山跡。
http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/cat_50101861.html
※中世観瀧寺跡レポ日記。
実は最初ここが目指す中世観瀧寺跡と思い込んでました。
しかし、現地での踏査や改めて調べたりしてみるとどうやら鉱山跡だと確信。
目当ての中世観瀧寺跡ではなくその時は落胆しましたが、こちらもほとんど知られていない鉱山跡で、福知山市における貴重な近代化遺産としても重要と判断したことから、レポ日記を書くことに決めました。
榎原鉱山に関して、福知山市史第1巻によれば、明治40年を中心に前後10年間稼業し、最盛期は鉱員約200人職員約100人を有し黄銅鉱を産し銀や亜鉛も産したが、大正時代に入ると振るわなくなったとあります。
私自身榎原鉱山のことは知らず、初めて斜面に広がる平坦地や石垣等の遺構を見たときにここが中世観瀧寺跡かと勘違いしたくらいです。まぁ現地に散らばる新しい瓦や茶碗片や鉱滓を見て疑うようになったわけですが。
中世観瀧寺跡のレポ日記でも書いたように、榎原公民館の駐車場の近くの畑で作業をしていた老夫婦に中世観瀧寺跡の場所の手掛かりとなる不動尊の滝の場所を聞き山の中へ。
この写真の左の道をずっと進めば不動尊の滝に到着しますが、榎原鉱山跡の遺構は道に挟まれた正面の斜面一帯に広がります。
斜面に入ると斜面を掘り込んで作られた道が延びています。
鉱山施設を作る際の作業道で、その後も鉱員の行き来や作業道として使用されたと思われます。
このような平坦地が段状に斜面一杯に広がります。
中世寺院跡の僧坊跡も似た良ような形でこういった平坦地を作るため、てっきり中世観瀧寺跡と思い込んでしまいました(笑)
ここはかつての飯場跡かと思われます。
一部崩落しているとはいえしっかりと残る石垣にテンションが上がりましたが、どうにも違和感が。
積み方が比較的新しい谷積みに近い。それに何だか積み方が荒い。
低い石垣もありこれなど一見中世の石垣に見えなくはないですが、その周りに散らばる遺物が明治以降のコバルトの染付だったり新しい瓦だったり近代の遺物ばかりで肝心の中世までの遺物が全く見つからない。それにいわゆる鉱滓という鉱石の精錬後に出る残滓があちこちに。
この辺りからもしかしたら中世観瀧寺跡と違うのでは?鉱山の跡なのではと疑うように。
上に向かってさらに伸びる作業道。これを登っていくと。
なかなか立派な石垣が。
いい感じの石垣なんですが、その背後にそびえる山を見てもう疑いから確信に変わりました。
大量の鉱滓の山。鉱滓はスラグとも言い、つまりは鉱石を精錬し目当ての金属を取り出した後に出る残滓で当然ですが精錬すると大量に出て廃棄されます。
現在では不法投棄になるんでしょうけど戦前まではこんな感じでその場に捨てられていたんですね。
ここで持ってたスマホで検索すると文章だけの表記で実際のレポではなかったですが、榎原鉱山に少し触れたサイトが見つかり、ここがその榎原鉱山だと確定。
落ちていた鉱滓を観察。見た目よりかなり重く叩くと金属音が。
榎原鉱山は銅鉱山だったようです。
ただ、鉱山としては鉱滓の量が少ないような。他にも捨てられた場所があったのかもしれませんが、もしここだけなら鉱滓の量から見て稼働時期はそんなに長くなかったのかも。
この場所から少しそれた場所を探索してみると規模の大きい石垣が。
見た感じは中世山城か中世寺院の石垣遺構。
ただ石垣に近寄るとやはり違和感が。これだけ立派な石垣なのに建物を建てるような意思の無い立地。石垣のわりにスペースが狭すぎるんですよね。
さらに近寄ってみると城でも寺でもない石垣と分かります。このような造りはしませんしね。
おそらく選鉱所の跡なのかなぁとも思います。
ここで採掘した鉱石を選別し別の精錬所で銅を取り出し鉱滓を先ほどの場所に捨てる。
そして作業員は麓に近い飯場で生活。
私自身榎原鉱山のことは知らず、初めて斜面に広がる平坦地や石垣等の遺構を見たときにここが中世観瀧寺跡かと勘違いしたくらいです。まぁ現地に散らばる新しい瓦や茶碗片や鉱滓を見て疑うようになったわけですが。
中世観瀧寺跡のレポ日記でも書いたように、榎原公民館の駐車場の近くの畑で作業をしていた老夫婦に中世観瀧寺跡の場所の手掛かりとなる不動尊の滝の場所を聞き山の中へ。
この写真の左の道をずっと進めば不動尊の滝に到着しますが、榎原鉱山跡の遺構は道に挟まれた正面の斜面一帯に広がります。
斜面に入ると斜面を掘り込んで作られた道が延びています。
鉱山施設を作る際の作業道で、その後も鉱員の行き来や作業道として使用されたと思われます。
このような平坦地が段状に斜面一杯に広がります。
中世寺院跡の僧坊跡も似た良ような形でこういった平坦地を作るため、てっきり中世観瀧寺跡と思い込んでしまいました(笑)
ここはかつての飯場跡かと思われます。
一部崩落しているとはいえしっかりと残る石垣にテンションが上がりましたが、どうにも違和感が。
積み方が比較的新しい谷積みに近い。それに何だか積み方が荒い。
低い石垣もありこれなど一見中世の石垣に見えなくはないですが、その周りに散らばる遺物が明治以降のコバルトの染付だったり新しい瓦だったり近代の遺物ばかりで肝心の中世までの遺物が全く見つからない。それにいわゆる鉱滓という鉱石の精錬後に出る残滓があちこちに。
この辺りからもしかしたら中世観瀧寺跡と違うのでは?鉱山の跡なのではと疑うように。
上に向かってさらに伸びる作業道。これを登っていくと。
なかなか立派な石垣が。
いい感じの石垣なんですが、その背後にそびえる山を見てもう疑いから確信に変わりました。
大量の鉱滓の山。鉱滓はスラグとも言い、つまりは鉱石を精錬し目当ての金属を取り出した後に出る残滓で当然ですが精錬すると大量に出て廃棄されます。
現在では不法投棄になるんでしょうけど戦前まではこんな感じでその場に捨てられていたんですね。
ここで持ってたスマホで検索すると文章だけの表記で実際のレポではなかったですが、榎原鉱山に少し触れたサイトが見つかり、ここがその榎原鉱山だと確定。
落ちていた鉱滓を観察。見た目よりかなり重く叩くと金属音が。
榎原鉱山は銅鉱山だったようです。
ただ、鉱山としては鉱滓の量が少ないような。他にも捨てられた場所があったのかもしれませんが、もしここだけなら鉱滓の量から見て稼働時期はそんなに長くなかったのかも。
この場所から少しそれた場所を探索してみると規模の大きい石垣が。
見た感じは中世山城か中世寺院の石垣遺構。
ただ石垣に近寄るとやはり違和感が。これだけ立派な石垣なのに建物を建てるような意思の無い立地。石垣のわりにスペースが狭すぎるんですよね。
さらに近寄ってみると城でも寺でもない石垣と分かります。このような造りはしませんしね。
おそらく選鉱所の跡なのかなぁとも思います。
ここで採掘した鉱石を選別し別の精錬所で銅を取り出し鉱滓を先ほどの場所に捨てる。
そして作業員は麓に近い飯場で生活。
榎原鉱山がいつから操業を開始しいつ頃閉山になったのか操業者は誰なのか資料も何もないため全く分かりません。分かることはここにかつて鉱山があったこと、実際に操業していたこと。散らばる食器の破片や瓦などから割としっかりした造りの飯場があったことくらいでしょうか。
環境に対する配慮の無かった時代、戦前までの鉱山では付き物の鉱毒問題や煙害問題もあった気がするのですが、地元民でもそういった話を全く聞かないということは公害問題が起きる以前に採算が合わないと判断して早々に操業停止したからでしょうか。
環境に対する配慮の無かった時代、戦前までの鉱山では付き物の鉱毒問題や煙害問題もあった気がするのですが、地元民でもそういった話を全く聞かないということは公害問題が起きる以前に採算が合わないと判断して早々に操業停止したからでしょうか。
ともあれ、これら榎原鉱山の遺構群は福知山市における鉱山業の歴史を物語る貴重な近代化遺産の一つだと私は思います。
2014年05月04日
亀岡市 旧大谷鉱山鉱長社宅
京都府亀岡市稗田野町鹿谷地区はかつて大谷鉱山があった場所で、
鉱山の街として栄えていました。
鉱山の採掘はタングステン。大正3年から採掘がおこなわれました。
しかし、昭和58年閉山。現在は静かな集落ですが、
今でも鉱山町時代の遺構が残されています。
鉱長の社宅もその一つで良好な状態で現存しています。
鉱長社宅。平屋建ての和風建築。
一部出窓を設けています。中は洋室のようです。
しばらく空き家でしたが現在はリニューアルされ個人宅となってます。
出窓は元からあったもののようです。
建築年代は戦前であることは間違いないと思われます。
昭和初期ごろでしょうか。
鹿谷地区内には他にも鉱山時代の建物がいくつか残されてますが、
ほとんどが廃墟と化しています。
鉱山の街として栄えていました。
鉱山の採掘はタングステン。大正3年から採掘がおこなわれました。
しかし、昭和58年閉山。現在は静かな集落ですが、
今でも鉱山町時代の遺構が残されています。
鉱長の社宅もその一つで良好な状態で現存しています。
鉱長社宅。平屋建ての和風建築。
一部出窓を設けています。中は洋室のようです。
しばらく空き家でしたが現在はリニューアルされ個人宅となってます。
出窓は元からあったもののようです。
建築年代は戦前であることは間違いないと思われます。
昭和初期ごろでしょうか。
鹿谷地区内には他にも鉱山時代の建物がいくつか残されてますが、
ほとんどが廃墟と化しています。