歴史資料

2025年03月21日

古文書・野寺村 棚橋甚左衛門屋敷絵図(室町時代末期の地方在地領主の館の絵図か)

天正17年棚橋甚左衛門屋敷絵図文字入りブログ用










最近入手した天正17年11月の年号のある古文書です。古文書には館を描いた平面図と、「野寺村」「棚橋甚左衛門屋敷絵図」の文字があり、野寺村にあった棚橋甚左衛門という人物の屋敷を描いた「差図(指図とも。建物等の平面図や配置図)」と思われます。
図面には建物や堀などが描かれ、それぞれに建物名や寸法などが書かれています。

天正17年棚橋甚左衛門屋敷絵図(復元)









 古文書の指図をトレースし色分けしてみました。これによると、主屋と思われる庇付きの縦長の建物、「ざしき」と書かれた客間と思われる離れの建物、「水屋」と書かれた炊事関係の建物、「土蔵」と書かれた建物が2棟、堀に隔てられた南側の敷地にある離れの建物、表門と押立門、各所に配置された雪隠(便所)、井戸が確認できます。また、指図には描かれていませんが、敷地を囲むように塀があったと思われ、北側と南側の敷地を隔てる堀には恐らく木橋が架かっていたのではないかと思われます。敷地の北側・西側・南側には幅約3.6mの堀が巡り、東側には幅約5.4mの道路が通っています。通りに面して門を構え、門の無い三方には掘りを巡らすなど防御性のある敷地を持つことから、野寺村にあった棚橋甚左衛門という在地の武士の居館を描いた古文書だと思われます。
 中世の武士の館は城でもありますので、敷地の周囲を堀で取り囲むように作っているのが一般的ですが、この棚橋甚左衛門屋敷は東側の道路に面した部分には堀を構えていません。推測にはなりますが、敷地的に道路側は堀を作れるスペースが無かったこと、門のある道路側は元々警備を固くするため、堀を作る予定が無かったことなどでしょうか。
 この棚橋甚左衛門屋敷の差図で一つ疑問点があります。敷地を南北に分割し、その間には堀を設け、さらに別々の門を設けていることです。
  備中国新見庄地頭方百姓谷内家差図復元








 ここで別の資料の指図を見てみます。東寺百合文書にある「備中国新見庄地頭方百姓谷内家差図」を管理人がトレースし色分けしたもの。堀に囲まれた客殿の敷地の北側に主殿のある敷地があり、同じ谷内家の屋敷でありながら別区画にされています。この古文書では主殿は建築中だったようですが、客殿の堀を延長して主殿の敷地を巡らさずに塀のみで囲っています。谷内家の屋敷は政所としても使用していた客殿の敷地と居住区域である主殿の敷地を完全に分けていたようです。
 
犬飼遺跡







この同じ屋敷の敷地を堀で隔てた事例として京都府亀岡市で発掘された犬飼遺跡があります。
(図面引用・京都府遺跡調査報告集第185冊 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター)
この犬飼遺跡は13世紀〜14世紀の在地領主の居館跡であり、この居館も間に堀を設けて敷地を分けています。東側と西側の敷地は谷内家と同じく、同じ屋敷でありながら性格の異なる敷地は堀で隔てており、こうした屋敷の区画は中世の居館として良く見られたようで、一遍上人絵伝にも同じ屋敷内で堀に隔てられた屋敷がみられます。報告書では谷内家の例に当てはめると、西側は客殿の敷地、東側は家人の生活の場である主殿の敷地ではと推測しています。

天正17年棚橋甚左衛門屋敷絵図(復元)









 谷内家や犬飼遺跡と同じく敷地内を堀で隔てて区画を分けている棚橋甚左衛門屋敷ですが、北側の主屋があったと思われる敷地の門は大型の表門(長屋門か)で、南側の敷地の門は押立門(冠木門と同じ屋根のない簡素な門)といった差があります。差図には庇のある建物と南側の敷地の建物は建物名が書かれておらず用途が分からないため推測で書いてますが、谷内家や犬飼遺跡の例を参考にすると、北側は客殿もしくは政所、南側は生活の場である主殿の敷地と考えることも出来ます。
※後日、それに合わせた復元図を掲載予定。
 いずれにしろ、中世末期の地方領主の居館を記した興味深い資料であることは間違いないと思われます。

besan2005 at 11:36|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2016年11月27日

丹波国天田郡福知山藩領十二村(現・福知山市十二)古文書群一括(暫定版)

丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群1








現在の福知山市十二地区である丹波国天田郡福知山藩領十二村の近世文書群、いわゆる村方文書群です。
あまりに大量の古文書群のため全く整理しきれていませんが、総重量は7kgあり恐らく300通以上はあるものと思われます。
十二村は近隣の村落とともに山陰街道に面し宿場町に設定されさらに山役や夫米が徴収されており、その代わり他の夫役は一切免除されていたそうで、その免状が多く残されています。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群2








大量のため半分も確認できてませんが、古文書の中で一番古い年号は元禄4年(1691)の物のようです。
ただし、これから調べていくうちにさらに古い年号の古文書が出てくる可能性があります。
十二村の古文書群は元禄期の古文書10数点から明治初期にかけて江戸時代全般に渡っています。
ほとんどが借用証文や免状や譲り渡し状等の証文類ですが、古記録類も含まれていました。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群5








「福知山米〇〇記録」元禄9年(1696)
年貢米等の記録でしょうか。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群4










「新開名寄帳」享保12年(1727)
新たに造られた田んぼの所有者を記した不動産記録。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群6










「五人組御改帳」寛政4年(1792)
江戸時代の村落の隣保制度。どの家がどの組に属していたかを記録したもの。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群3










「重仁(十二)邑今高名寄 丹波国天田郡川口庄」文政9年(1826)
十二村にある全ての田畑の不動産記録。かなり厚さのある写本です。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群7










「郷諸日記帳」文政13年(1830)
十二村のことを記した日記。証文類や名寄帳がほとんどの十二村古文書群において、当時の十二村の様子を知ることのできる貴重な記録かと思います。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群8










「牧村御神様御社建替奉加帳」天保13年(1842)
牧村(現・福知山市牧)にある神社の社殿の建て替えによる奉納品の帳面。
牧地区には現在も存在する一宮神社があり、当社は十二村を含めた立原・野花・上天津・下天津・夷・上大内・下大内の総社で、一宮神社の社殿建て替えに際しての奉納についての記録でしょう。
丹波国天田郡福知山藩領十二村古文書群9




これは福知山藩領十二村ではなく京都府の船井郡にある大谷村の文書ですが、慶安4年(1651)の年号があり一番古い年号があります。ただし、後年に写された可能性もあります。
船井郡大谷村の者が行うべき神社への儀式について記録したもののようです。

丹波国天田郡福知山藩領十二村の古文書群について、十二村だけでなく近隣の牧村や立原村についても触れている文書も見受けられます。
大量のため確認も整理も中々進まずまた長年折りたたまれて保管されていたため虫害により固着し広げるのもままならない文書も多いですが、近世文書群とは言え福知山市内において数少ない古文書として十二地区の歴史を物語る歴史資料として貴重であることは変わりなく、いずれしかるべき機関にて調査を依頼することも検討しています。
こちらとしても今後確認・整理作業を行い、新たな情報が得られましたらこの記事を随時更新していく予定です。


besan2005 at 11:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新のお客様のご意見