奈良県
2023年05月18日
生駒市の近代建築探索レポ日記(宝山寺獅子閣一般公開見学)。
GW真っただ中の2023年5月3日に奈良県の生駒市の近代建築探索をしてきました。この日から、宝山寺獅子閣の一般公開が行われており、それに合わせて向かう事にしました。
まずは生駒駅の周辺から。

パレス温泉。本町。レトロな銭湯です。

この看板がいい味出しています。

建築は大正後期頃だとか。4月まで営業されていたようですが、私が訪れたときはすでに閉店していました。
生駒駅に戻り、隣の鳥居前駅からケーブルカーに乗り宝山寺駅へ。

生駒鋼索鉄道宝山寺駅。大正7年。鳥居前駅〜宝山寺駅間のケーブルカーは日本初の営業用ケーブルカーだそうで、開業した日の8月29日は「ケーブルカーの日」なんだとか。

駅舎内部。

ステンドグラス。

ホームへの通路。

運転室。日本初の営業用ケーブルカーの駅舎が開業当時のまま残されているのは貴重ですね。
宝山寺駅を出て、宝山寺へと向かいますが、その前に周辺を探索。

シエル 門前町。

大正期頃と思われる洋館。現在は雑貨屋さんのようです。

旧門前駐在所。本町。

昭和初期頃と思われる小さな建物。玄関部分の赤い照明が交番だった名残を伝えています。
現在は休憩所。

廃洋館。門前町。

洋館は昭和初期頃と思われますが、外観に手が加えられているっぽいです。
門柱はオリジナルのまま。スクラッチタイルをアクセントに使ってます。

この廃洋館は長くはないでしょうね。

長い参道を通り宝山寺へ。

宝山寺獅子閣。門前町。明治15年。国指定重要文化財。建てたのは大工の吉村松太郎。

この獅子閣を建てるために横浜で3年間学んだとか。明治初期に流行った典型的な擬洋風建築です。

玄関を通ってすぐ広い洋室のホールがあります。

実は獅子閣の洋室はこのホールだけ。

玄関のステンドグラス。

奥の扉のステンドグラス。明治初期のステンドグラスはただの色板ガラスをはめただけのものが多く、絵画のステンドグラスになるのはもう少し後になります。

洋室のホールの隣の部屋は和室。

しかし、外観は洋風なので、窓も洋風のアーチ窓になります。

2階へ。この螺旋が素晴らしい。

2階ベランダ。

ベランダから外観を望む。

2階の装飾柱のアカンサスの柱頭飾り。

南面は外回廊になっていて、見張らせるようになります。

2階内部の部屋は完全な和室。

天井は格天井という格式高いもの。客殿として建てられたそうですが、やはり寺院で客をもてなすためにはメインの部屋は和室である必要があったのでしょう。

ただし、階段の手摺は洋風の装飾です。

獅子閣の南側は麓側に面しており、1階2階とも外回廊になっていて、見晴らしを考えた造りになっています。また、懸け造りとなっています。

南面の外観。
宝山寺獅子閣を後にし、宝山寺近辺を探索。

洋館住宅。門前町。下見板張りの洋館住宅です。

入り口側。

気になる背後の建物は後程。

近くの洋館住宅。

洋館付き住宅。門前町。上記の2棟の洋館住宅が隣り合って建っています。当時の分譲地だったのでしょうか。

静養院断食療養所。門前町。大正7年。

何か凄い名前の施設。

断食療法というものがあるらしく、どうやらこの静養院断食療養所は日本最初で最古の施設だそう。

静養院断食療養所の門柱。ここからが敷地ですが、建物まで結構長いです。

遠くから。施設は結構大きいです。
再び宝山寺駅へと向かい、今回のもう一つの目当ての場所へ。

生駒山上遊園地飛行塔。菜畑町。昭和4年。日本最古の大型遊具と言われる建物。

鉄骨部分を拡大すると、山型鋼(L字型鋼)をリベットで接合しています。戦前の鉄骨は山型鋼が主流で接続もリベット止めが主流。現在主流となっているH型鋼やハイテンションボルト接合は戦後になってからです。

この飛行塔、戦時中に奈良海軍航空隊の防空監視塔として接収され使用されたため、金属供出を免れた経緯があり、その結果、貴重な建造物が現代にまで伝えられる結果となりました。
生駒山山上遊園地を後にし、再び生駒駅へ。さらに東へ。

洋館付き住宅。東新町。

歩いていて偶然発見。典型的な洋館付きの文化住宅。

現在は空家のようです。

旧生駒町役場。山崎町 昭和8年。

地方都市の役場らしい和風の庁舎です。

現在は生駒ふるさとミュージアムとして利用されていますが、内部の室内は展示室となり面影が全くないのが残念かな。
生駒市には数年前まで他にも洋館が残されていたようですが、現存していないのは残念でした。
それでも宝山寺獅子閣を始め色んな近代建築に出会えた探索でした。
まずは生駒駅の周辺から。

パレス温泉。本町。レトロな銭湯です。

この看板がいい味出しています。

建築は大正後期頃だとか。4月まで営業されていたようですが、私が訪れたときはすでに閉店していました。
生駒駅に戻り、隣の鳥居前駅からケーブルカーに乗り宝山寺駅へ。

生駒鋼索鉄道宝山寺駅。大正7年。鳥居前駅〜宝山寺駅間のケーブルカーは日本初の営業用ケーブルカーだそうで、開業した日の8月29日は「ケーブルカーの日」なんだとか。

駅舎内部。

ステンドグラス。

ホームへの通路。

運転室。日本初の営業用ケーブルカーの駅舎が開業当時のまま残されているのは貴重ですね。
宝山寺駅を出て、宝山寺へと向かいますが、その前に周辺を探索。

シエル 門前町。

大正期頃と思われる洋館。現在は雑貨屋さんのようです。

旧門前駐在所。本町。

昭和初期頃と思われる小さな建物。玄関部分の赤い照明が交番だった名残を伝えています。
現在は休憩所。

廃洋館。門前町。

洋館は昭和初期頃と思われますが、外観に手が加えられているっぽいです。
門柱はオリジナルのまま。スクラッチタイルをアクセントに使ってます。

この廃洋館は長くはないでしょうね。

長い参道を通り宝山寺へ。

宝山寺獅子閣。門前町。明治15年。国指定重要文化財。建てたのは大工の吉村松太郎。

この獅子閣を建てるために横浜で3年間学んだとか。明治初期に流行った典型的な擬洋風建築です。

玄関を通ってすぐ広い洋室のホールがあります。

実は獅子閣の洋室はこのホールだけ。

玄関のステンドグラス。

奥の扉のステンドグラス。明治初期のステンドグラスはただの色板ガラスをはめただけのものが多く、絵画のステンドグラスになるのはもう少し後になります。

洋室のホールの隣の部屋は和室。

しかし、外観は洋風なので、窓も洋風のアーチ窓になります。

2階へ。この螺旋が素晴らしい。

2階ベランダ。

ベランダから外観を望む。

2階の装飾柱のアカンサスの柱頭飾り。

南面は外回廊になっていて、見張らせるようになります。

2階内部の部屋は完全な和室。

天井は格天井という格式高いもの。客殿として建てられたそうですが、やはり寺院で客をもてなすためにはメインの部屋は和室である必要があったのでしょう。

ただし、階段の手摺は洋風の装飾です。

獅子閣の南側は麓側に面しており、1階2階とも外回廊になっていて、見晴らしを考えた造りになっています。また、懸け造りとなっています。

南面の外観。
宝山寺獅子閣を後にし、宝山寺近辺を探索。

洋館住宅。門前町。下見板張りの洋館住宅です。

入り口側。

気になる背後の建物は後程。

近くの洋館住宅。

洋館付き住宅。門前町。上記の2棟の洋館住宅が隣り合って建っています。当時の分譲地だったのでしょうか。

静養院断食療養所。門前町。大正7年。

何か凄い名前の施設。

断食療法というものがあるらしく、どうやらこの静養院断食療養所は日本最初で最古の施設だそう。

静養院断食療養所の門柱。ここからが敷地ですが、建物まで結構長いです。

遠くから。施設は結構大きいです。
再び宝山寺駅へと向かい、今回のもう一つの目当ての場所へ。

生駒山上遊園地飛行塔。菜畑町。昭和4年。日本最古の大型遊具と言われる建物。

鉄骨部分を拡大すると、山型鋼(L字型鋼)をリベットで接合しています。戦前の鉄骨は山型鋼が主流で接続もリベット止めが主流。現在主流となっているH型鋼やハイテンションボルト接合は戦後になってからです。

この飛行塔、戦時中に奈良海軍航空隊の防空監視塔として接収され使用されたため、金属供出を免れた経緯があり、その結果、貴重な建造物が現代にまで伝えられる結果となりました。
生駒山山上遊園地を後にし、再び生駒駅へ。さらに東へ。

洋館付き住宅。東新町。

歩いていて偶然発見。典型的な洋館付きの文化住宅。

現在は空家のようです。

旧生駒町役場。山崎町 昭和8年。

地方都市の役場らしい和風の庁舎です。

現在は生駒ふるさとミュージアムとして利用されていますが、内部の室内は展示室となり面影が全くないのが残念かな。
生駒市には数年前まで他にも洋館が残されていたようですが、現存していないのは残念でした。
それでも宝山寺獅子閣を始め色んな近代建築に出会えた探索でした。
2023年02月12日
奈良市内の近代建築補足探索レポ日記(2023年2月11日)
4年前の2019年1月12日に探索した奈良市内の近代建築ですが、その後記事にするにあたりチェックしたところ、4年前の探索範囲で結構見逃している物件が多くあり、今回改めて補完するため補足探索をしてきました。4年前の探索分の記事と合わせてご覧いただけたらと思います。
※奈良市内の近代建築探索レポ日記(2019年1月12日)
また、有名物件なので何度も見ているけど、いつもスルーしていた建物もこの際なので紹介したいと思います。
今回は近鉄新大宮駅からスタートし、前回探索範囲をなぞる形で回っていきます。

M邸。芝辻町。童話に出てくるような可愛らしい洋館が付属しています。

G邸。法蓮町。住人の方のお名前はとても珍しい名字。庭木の手入れをしている人がいたのであまり近づけませんでしたが、中々レベルの高い洋館です。

背面。窓の先端が尖る尖頭アーチっぽいデザイン。昭和初期頃でしょうか。

洋室付き住宅。法蓮町。

見づらいですが、玄関脇に小さな洋室が付属しています。現在は空家のようでいずれ姿を消しそうです。

D邸。法蓮町。2019年に探索した際に訪問したI邸のすぐ隣の住宅。何故見落としたんだろうか。小さな洋館ですが、前面にドンとあるので存在感があります。

佐保会館。北魚屋西町。昭和3年。奈良女子大学の同窓会館の建物。実は4年前の探索時にこれを見ているのですが、その時は何故か写真を撮らなかった。

H邸。西笹鉾町。奥に大き目の洋館が見えますが取りづらい・・・。

旧南都銀行手貝支店。手貝町。昭和15年。国宝・転害門の隣にある銀行。昭和15年の銀行建築と言えば、RC造のモダニズム建築かもしくは古典建築が主流だったと思いますが、奥に見えている転害門との調和を考えてか、和風の木造建築となっています。近年リフォームされ、転害門観光案内所として使用されています。


旧南都銀行手貝支店と同じ通りに並ぶ洋風の看板建築。

鼓阪小学校講堂。雑司町。昭和11年。転害門の裏、東大寺の敷地に隣接する小学校。そのためか、建物自体はRC造ですが、外観は日本建築。当時から歴史的な景観に関しての配慮があったんですね。

2019年の探索でも訪問した奈良ホテル。辰野金吾設計の名建築は言うまでもないです。

今回訪問したのはこれを見るため。実はこれは防空壕。

宿泊者を空襲から守るために造られた防空壕は、銅鑼で知らせたそうです。

活活亭。紀寺笠屋町。昭和初期頃の洋館住宅を再利用した鰻料理店。

割とリーズナブルな値段で食べられるお店だったようですが、ネットの情報では2020年から休業をしているらしく、私は訪問した際はちょっと荒れ気味で、もう廃業かもしれません。食べログの写真を見ると、1階は和室。2階へ上がる階段はセセッション風の手摺で、是非見たかったですが…。

H邸。高畑町。2019年にも訪問し、記事にも書いてますが、4年前には存在した手前の民家が更地になっており、全体が見渡せる状態になっていました。

スクラッチタイルの門柱・塀柱。高畑町。奥の住宅は建て直されているようですが、門と塀の柱が昭和初期頃の感じに見えるので掲載。

M邸。紀寺町。これと同じような小型の丘屋根の洋館が付属する住宅は、2019年探索時の高畑町のK邸にもありました。

洋館付き住宅群。紀寺町。3軒ほどあります。

M邸。紀寺町。奈良市内の洋館が付属する住宅の洋館は、切妻屋根で妻側を向けているのが多いですね。

イケダ醤油煉瓦倉庫。北京終町。大正10年頃。京終駅へと向かう途中の住宅街にある大きな煉瓦建築。

妻側。

JR京終駅。京終町。明治31年。JR桜井線の駅。

レトロな木造駅舎ですが、近年リフォームされ、駅員室は喫茶店となっています。

ホーム側から。大切に使われているのはいいですね。

京終は「きょうばて」と読みます。由来はかつての平城京の外れという意味。日本でも有数の難読駅名・難読地名ですね。この京終駅から電車に乗りJR奈良駅へ。京終駅から奈良駅は1駅。

旧奈良駅舎。三条本町。昭和9年。RC造の駅舎ですが、外観は寺院の仏塔をイメージした和風の要素のある建物。2001年の立体交差化で取り壊しが検討されましたが、地元住民や観光客から保存を望む声が湧きあがり、2004年に北東へ18m曳家して保存することが決定。2009年に奈良市総合観光案内所としてオープンしました。

内部も和の要素を取り入れたデザインで、天井は折上格天井となっています。現役の頃に行ったことありますが、現在は観光案内所という性格か寺院建築の柱や梁を模したオブジェとかが置かれてちょっと邪魔かな・・・。ちなみに建物内にはスタバもありますので、一息つくにはいい感じの建物です。

H邸。杉ヶ町。

もしかしたら、事務所建築だったのかもしれません。表札は一応ありましたが、上から消されているような感じにも見え、空き家かもしれません。

三条会館ビル。角振町。大正12年。元は帝国実業貯蓄銀行。奈良市の繁華街である三条通りに面するレトロビル。昔から知られている建物で、幾度もテナントが変わり改修もされてきました。現在はうどん屋さんが入っています。

南都銀行本店。橋本町。大正15年。設計・長野宇平治。旧六十八銀行奈良支店だった建物で、三条通りのランドマークと言える建物であり、奈良市を代表する近代建築。

京都市内もですが、20年ほど前はまだ戦前の古典様式の銀行が多く残されていましたが、銀行の合併や再編で10年ほど前から次々と姿を消し、今では貴重な存在となっています。この南都銀行本店は大切に保存されているようです。

日本聖公会奈良基督教会。昭和5年。登大路町。まるで寺院のような教会。奈良という土地に合わせて寺院風の建築で建てられているのが面白いですね。

旧大阪電気軌道富雄変電所。富雄北。大正3年。2023年1月29日の富雄丸山古墳現地見学会に行った際に訪問。保存運動があり、以前はレストランとして再利用されていたみたいですが、現在は再び空き家となっているようで、今後どうなるかが気になります…。
これで奈良市内の近代建築の補足探索は終了。一応把握している建物は廻れたかなと思います(奈良国立博物館は有名すぎるのでスルー)。しかし、まだ場所を把握していない物件が少しあり、また新たな物件が見つかる可能性もあるので、それからまた溜ったら再度補足探索をして追加記事を書きたいと思います。奈良市と洋風建築って中々結びつかないように見えますが、結構残されていたりしますので。
※奈良市内の近代建築探索レポ日記(2019年1月12日)
また、有名物件なので何度も見ているけど、いつもスルーしていた建物もこの際なので紹介したいと思います。
今回は近鉄新大宮駅からスタートし、前回探索範囲をなぞる形で回っていきます。

M邸。芝辻町。童話に出てくるような可愛らしい洋館が付属しています。

G邸。法蓮町。住人の方のお名前はとても珍しい名字。庭木の手入れをしている人がいたのであまり近づけませんでしたが、中々レベルの高い洋館です。

背面。窓の先端が尖る尖頭アーチっぽいデザイン。昭和初期頃でしょうか。

洋室付き住宅。法蓮町。

見づらいですが、玄関脇に小さな洋室が付属しています。現在は空家のようでいずれ姿を消しそうです。

D邸。法蓮町。2019年に探索した際に訪問したI邸のすぐ隣の住宅。何故見落としたんだろうか。小さな洋館ですが、前面にドンとあるので存在感があります。

佐保会館。北魚屋西町。昭和3年。奈良女子大学の同窓会館の建物。実は4年前の探索時にこれを見ているのですが、その時は何故か写真を撮らなかった。

H邸。西笹鉾町。奥に大き目の洋館が見えますが取りづらい・・・。

旧南都銀行手貝支店。手貝町。昭和15年。国宝・転害門の隣にある銀行。昭和15年の銀行建築と言えば、RC造のモダニズム建築かもしくは古典建築が主流だったと思いますが、奥に見えている転害門との調和を考えてか、和風の木造建築となっています。近年リフォームされ、転害門観光案内所として使用されています。


旧南都銀行手貝支店と同じ通りに並ぶ洋風の看板建築。

鼓阪小学校講堂。雑司町。昭和11年。転害門の裏、東大寺の敷地に隣接する小学校。そのためか、建物自体はRC造ですが、外観は日本建築。当時から歴史的な景観に関しての配慮があったんですね。

2019年の探索でも訪問した奈良ホテル。辰野金吾設計の名建築は言うまでもないです。

今回訪問したのはこれを見るため。実はこれは防空壕。

宿泊者を空襲から守るために造られた防空壕は、銅鑼で知らせたそうです。

活活亭。紀寺笠屋町。昭和初期頃の洋館住宅を再利用した鰻料理店。

割とリーズナブルな値段で食べられるお店だったようですが、ネットの情報では2020年から休業をしているらしく、私は訪問した際はちょっと荒れ気味で、もう廃業かもしれません。食べログの写真を見ると、1階は和室。2階へ上がる階段はセセッション風の手摺で、是非見たかったですが…。

H邸。高畑町。2019年にも訪問し、記事にも書いてますが、4年前には存在した手前の民家が更地になっており、全体が見渡せる状態になっていました。

スクラッチタイルの門柱・塀柱。高畑町。奥の住宅は建て直されているようですが、門と塀の柱が昭和初期頃の感じに見えるので掲載。

M邸。紀寺町。これと同じような小型の丘屋根の洋館が付属する住宅は、2019年探索時の高畑町のK邸にもありました。

洋館付き住宅群。紀寺町。3軒ほどあります。

M邸。紀寺町。奈良市内の洋館が付属する住宅の洋館は、切妻屋根で妻側を向けているのが多いですね。

イケダ醤油煉瓦倉庫。北京終町。大正10年頃。京終駅へと向かう途中の住宅街にある大きな煉瓦建築。

妻側。

JR京終駅。京終町。明治31年。JR桜井線の駅。

レトロな木造駅舎ですが、近年リフォームされ、駅員室は喫茶店となっています。

ホーム側から。大切に使われているのはいいですね。

京終は「きょうばて」と読みます。由来はかつての平城京の外れという意味。日本でも有数の難読駅名・難読地名ですね。この京終駅から電車に乗りJR奈良駅へ。京終駅から奈良駅は1駅。

旧奈良駅舎。三条本町。昭和9年。RC造の駅舎ですが、外観は寺院の仏塔をイメージした和風の要素のある建物。2001年の立体交差化で取り壊しが検討されましたが、地元住民や観光客から保存を望む声が湧きあがり、2004年に北東へ18m曳家して保存することが決定。2009年に奈良市総合観光案内所としてオープンしました。

内部も和の要素を取り入れたデザインで、天井は折上格天井となっています。現役の頃に行ったことありますが、現在は観光案内所という性格か寺院建築の柱や梁を模したオブジェとかが置かれてちょっと邪魔かな・・・。ちなみに建物内にはスタバもありますので、一息つくにはいい感じの建物です。

H邸。杉ヶ町。

もしかしたら、事務所建築だったのかもしれません。表札は一応ありましたが、上から消されているような感じにも見え、空き家かもしれません。

三条会館ビル。角振町。大正12年。元は帝国実業貯蓄銀行。奈良市の繁華街である三条通りに面するレトロビル。昔から知られている建物で、幾度もテナントが変わり改修もされてきました。現在はうどん屋さんが入っています。

南都銀行本店。橋本町。大正15年。設計・長野宇平治。旧六十八銀行奈良支店だった建物で、三条通りのランドマークと言える建物であり、奈良市を代表する近代建築。

京都市内もですが、20年ほど前はまだ戦前の古典様式の銀行が多く残されていましたが、銀行の合併や再編で10年ほど前から次々と姿を消し、今では貴重な存在となっています。この南都銀行本店は大切に保存されているようです。

日本聖公会奈良基督教会。昭和5年。登大路町。まるで寺院のような教会。奈良という土地に合わせて寺院風の建築で建てられているのが面白いですね。

旧大阪電気軌道富雄変電所。富雄北。大正3年。2023年1月29日の富雄丸山古墳現地見学会に行った際に訪問。保存運動があり、以前はレストランとして再利用されていたみたいですが、現在は再び空き家となっているようで、今後どうなるかが気になります…。
これで奈良市内の近代建築の補足探索は終了。一応把握している建物は廻れたかなと思います(奈良国立博物館は有名すぎるのでスルー)。しかし、まだ場所を把握していない物件が少しあり、また新たな物件が見つかる可能性もあるので、それからまた溜ったら再度補足探索をして追加記事を書きたいと思います。奈良市と洋風建築って中々結びつかないように見えますが、結構残されていたりしますので。
奈良市内の近代建築探索レポ日記(2019年1月12日)
奈良市内の近代建築探索のレポ日記です。今から4年前の2019年に1度探索を行いましたが、その後改めてチェックすると、結構スルーしている物件が多く、2023年2月11日に補完するための補足探索を行いました。そこで2019年1月12日の探索分と補足探索である2023年2月11日の探索分の2つに記事を分けることに。今回は2019年1月12日の探索レポ日記です。
※2023年2月11日の補足探索レポ日記の記事はこちら。
近鉄奈良駅から移動し、まずは奈良市内の西側からスタート。

M邸。芝辻町。

スクラッチタイル張りの背の高い洋館。軒周りの装飾が良い感じです。

M邸。北市町。これはまた雰囲気のある洋館。

一部改装されていますが、ドイツ風っぽい良い感じの洋館。昭和初期頃。

入り口部分も凝ってますね。ここから北上。

洋館付きの住宅。法蓮町。

洋館付き住宅は割と見ますが、この住宅の洋館は結構大型。腰回りは板張りでデザインも凝ってます。表札が取り外されていてもしかしたら空家かも。

H邸。法蓮町。先ほどの洋館付きの住宅から同じ通りを少し北上した所にある住宅。
洋館のデザインに少しだけ差があるのみで、洋館の外観や規模、奥の主屋も含めてほぼ同じ。一体は分譲住宅地だったんでしょうか。

I邸。法蓮町。1階が洋館で2階が和風建築の和洋折衷住宅。

洋館住宅。多門町。大きく取られた窓が特徴的です。

F邸。多門町。

先ほどのI邸とよく似た造りの和洋折衷住宅です。

T邸。東包永町。洋館自体はそこまで大きくないですが、主屋が小さめで路地が狭いため、大きく見えます。

廃屋の洋館。西笹鉾町。すでに廃墟化しており荒れていますが、結構立派な洋館です。

元は医院だったのかもしれません。昭和初期頃でしょうか。
※2023年2月11日、消失を確認しました。

旧奈良警察学校。西笹鉾町。昭和16年。

元は警察学校という建物ですが、外観は昭和初期の小学校建築っぽいです。

玄関部分の車寄せとかいかにも昭和戦前期といったデザイン。現在は天理教関連の施設として使用。

Y邸。半田西町。

どことなく土蔵っぽい雰囲気を持つスクラッチタイルの洋館。

旧北魚屋町交番。半田横町。昭和3年。現在は案内所として使用されています。

奈良女子大学本館。宿院町。明治42年。

※奈良女子大学の写真は2019年4月30日の一般公開の際に撮影したものです。
女子大の建物らしく、瀟洒で可憐な美しい洋館。国指定重要文化財。

奈良女子大学守衛所。明治42年。

敷地内には昭和9年に建てられた奉安殿が現存しています。

本館1階廊下。

1階部屋。

2階講堂。2019年4月30日の奈良女子大学一般公開の際のレポ日記は改めて別記事にて書きたいと思ってます。

N邸。登大路町。昭和初期頃のかなり大型の洋館。

どことなくスパニッシュの雰囲気を持ちつつも控えめな装飾の洋館は、京都の分譲住宅で多く建てられた熊倉工務店やあめりか屋っぽさを感じますがどうでしょうか。

側面。

アーチ窓にはステンドグラスがありました。

洋館付きの住宅。今在家町。擬石洗い出しの荒壁仕上の小さな洋館が付属しています。

江戸川ならまち店。下御門町。かなり大きなお屋敷を飲食店に再利用した建物。洋館部分は応接室だったのでしょうか。

旧奈良県物産陳列所。登大路町。明治35年。奈良公園内にある和洋折衷の名建築。国指定重要文化財。

K邸。芝辻町。大正14年。

食用細菌の研究を行っていた会社のオーナーの住宅だった洋館。


工場の建物も残されていて、現在はカフェとして使用されています。

旧奈良市水道計量器室。 東之阪町。大正11年。現在は使われておらず、史跡といった形で残されています。


旧奈良監獄。般若寺町。明治42年。貴重な明治の監獄建築。設計は山下啓次郎。奈良少年刑務所の閉鎖により、ホテルとして再活用されることになり改修前の一般公開が2018年11月24日に行われました。

地下や中庭は中世ヨーロッパの古城のような雰囲気でした。旧奈良監獄の一般公開のレポ日記は別記事にしていますので、そちらをご覧ください。
※旧奈良監獄・一般公開見学レポ日記

奈良ホテル 高畑町。明治42年。辰野金吾設計の名建築。

ラウンジ。

階段室の天井。

奈良ホテルといえば、この赤膚焼の擬宝珠が有名ですね。奈良ホテルに関しては
また別記事にしたいかなと。

※2023年2月11日撮影。
奈良ホテルの敷地内には防空壕も残されています。これは補足編で触れます。

ゲストハウスたむら。高辻町。洋館付きの住宅を宿泊施設に再利用したもの。割と手ごろな値段で宿泊でき、この洋館内で手作り朝食を頂けるようで、いつか泊まってみたいかなと。
ここから、高畑町の住宅街へ。

M邸。高畑町。ログハウス風の洋館。

H邸。高畑町。

昭和初期頃の洋館でしょうか。

2023年2月11日の補足探索時に再度訪問したら、前の住宅が更地となり、洋館の全体が確認できるようになってました。

旧足立邸。高畑町。大正8年。洋画家・足立源一郎の自邸として建てられた洋館。昭和3年に洋画家・中村義夫が譲り受け自邸としました。

現在は「たかばたけ茶論」という喫茶店になってますが、開店が14;00からと待っていられないので、敷地外から撮影して終了。

K邸。高畑町。

A邸。高畑町。鎧戸のある洋館。

T邸正門・塀。高畑町。かなり立派な門と塀のある住宅。奥の住宅は最近のものですが、この門の立派さを見ると、かつては相当な洋館が建っていたのかもしれません。

煉瓦塀のある長屋。高畑町。

表札不明の洋館。高畑町。

洋館住宅。高畑町。昭和初期頃と思われる大きな洋館住宅。

表札が外されており、現在は空家のようです。

側面。マントルピースの煙突があることから、内部も手が込んでいそうです。

ステンドグラスもありました。このまま空き家状態で失われていくのは勿体ないなぁ。

洋館住宅。高畑町。もしかしたら戦後かもしれませんが、一応掲載。

洋館住宅。高畑町。2階窓が鎧戸です。

平屋の洋館住宅。高畑町。旧足立邸の向かいにありました。
高畑町を後にし、近鉄奈良駅方面へ。

寛永堂。東向中町。元銀行だそうで、内部に装飾を施した柱が残されています。

これにて2019年の奈良市内の近代建築探索レポは終了。今回探索した範囲で見逃した物件と有名すぎていつも撮影せずスルーしていた建物を含めて4年後の2023年に補足探索を行いましたので、次回はそちらのレポ日記を書きたいと思います。

※建物の性格上、具体的な場所は明かせませんが、奈良市内に明治〜大正期築の大型の洋館の廃墟が存在します。

廃墟化してかなり荒れてますが、外観を見てもかなりハイレベルな洋館と分かります。

室内にはマントルピースやシャンデリアの座繰りが残されており、その豪華さが伺えます。奈良市内の戦前の洋館住宅としては、古さ・規模・デザイン性ともに随一かと思われます。
以前訪問した際のレポ日記を別記事にして書いております。
※奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記
※具体的な場所はお答えできません。以前、荒らしに近い無礼なコメントがあり、リンク先の記事のコメント欄は閉じています。当記事でも同様のコメントに関しては即削除します。
※2023年2月11日の補足探索レポ日記の記事はこちら。
近鉄奈良駅から移動し、まずは奈良市内の西側からスタート。

M邸。芝辻町。

スクラッチタイル張りの背の高い洋館。軒周りの装飾が良い感じです。

M邸。北市町。これはまた雰囲気のある洋館。

一部改装されていますが、ドイツ風っぽい良い感じの洋館。昭和初期頃。

入り口部分も凝ってますね。ここから北上。

洋館付きの住宅。法蓮町。

洋館付き住宅は割と見ますが、この住宅の洋館は結構大型。腰回りは板張りでデザインも凝ってます。表札が取り外されていてもしかしたら空家かも。

H邸。法蓮町。先ほどの洋館付きの住宅から同じ通りを少し北上した所にある住宅。
洋館のデザインに少しだけ差があるのみで、洋館の外観や規模、奥の主屋も含めてほぼ同じ。一体は分譲住宅地だったんでしょうか。

I邸。法蓮町。1階が洋館で2階が和風建築の和洋折衷住宅。

洋館住宅。多門町。大きく取られた窓が特徴的です。

F邸。多門町。

先ほどのI邸とよく似た造りの和洋折衷住宅です。

T邸。東包永町。洋館自体はそこまで大きくないですが、主屋が小さめで路地が狭いため、大きく見えます。

廃屋の洋館。西笹鉾町。すでに廃墟化しており荒れていますが、結構立派な洋館です。

元は医院だったのかもしれません。昭和初期頃でしょうか。
※2023年2月11日、消失を確認しました。

旧奈良警察学校。西笹鉾町。昭和16年。

元は警察学校という建物ですが、外観は昭和初期の小学校建築っぽいです。

玄関部分の車寄せとかいかにも昭和戦前期といったデザイン。現在は天理教関連の施設として使用。

Y邸。半田西町。

どことなく土蔵っぽい雰囲気を持つスクラッチタイルの洋館。

旧北魚屋町交番。半田横町。昭和3年。現在は案内所として使用されています。

奈良女子大学本館。宿院町。明治42年。

※奈良女子大学の写真は2019年4月30日の一般公開の際に撮影したものです。
女子大の建物らしく、瀟洒で可憐な美しい洋館。国指定重要文化財。

奈良女子大学守衛所。明治42年。

敷地内には昭和9年に建てられた奉安殿が現存しています。

本館1階廊下。

1階部屋。

2階講堂。2019年4月30日の奈良女子大学一般公開の際のレポ日記は改めて別記事にて書きたいと思ってます。

N邸。登大路町。昭和初期頃のかなり大型の洋館。

どことなくスパニッシュの雰囲気を持ちつつも控えめな装飾の洋館は、京都の分譲住宅で多く建てられた熊倉工務店やあめりか屋っぽさを感じますがどうでしょうか。

側面。

アーチ窓にはステンドグラスがありました。

洋館付きの住宅。今在家町。擬石洗い出しの荒壁仕上の小さな洋館が付属しています。

江戸川ならまち店。下御門町。かなり大きなお屋敷を飲食店に再利用した建物。洋館部分は応接室だったのでしょうか。

旧奈良県物産陳列所。登大路町。明治35年。奈良公園内にある和洋折衷の名建築。国指定重要文化財。

K邸。芝辻町。大正14年。

食用細菌の研究を行っていた会社のオーナーの住宅だった洋館。


工場の建物も残されていて、現在はカフェとして使用されています。

旧奈良市水道計量器室。 東之阪町。大正11年。現在は使われておらず、史跡といった形で残されています。


旧奈良監獄。般若寺町。明治42年。貴重な明治の監獄建築。設計は山下啓次郎。奈良少年刑務所の閉鎖により、ホテルとして再活用されることになり改修前の一般公開が2018年11月24日に行われました。

地下や中庭は中世ヨーロッパの古城のような雰囲気でした。旧奈良監獄の一般公開のレポ日記は別記事にしていますので、そちらをご覧ください。
※旧奈良監獄・一般公開見学レポ日記

奈良ホテル 高畑町。明治42年。辰野金吾設計の名建築。

ラウンジ。

階段室の天井。

奈良ホテルといえば、この赤膚焼の擬宝珠が有名ですね。奈良ホテルに関しては
また別記事にしたいかなと。

※2023年2月11日撮影。
奈良ホテルの敷地内には防空壕も残されています。これは補足編で触れます。

ゲストハウスたむら。高辻町。洋館付きの住宅を宿泊施設に再利用したもの。割と手ごろな値段で宿泊でき、この洋館内で手作り朝食を頂けるようで、いつか泊まってみたいかなと。
ここから、高畑町の住宅街へ。

M邸。高畑町。ログハウス風の洋館。

H邸。高畑町。

昭和初期頃の洋館でしょうか。

2023年2月11日の補足探索時に再度訪問したら、前の住宅が更地となり、洋館の全体が確認できるようになってました。

旧足立邸。高畑町。大正8年。洋画家・足立源一郎の自邸として建てられた洋館。昭和3年に洋画家・中村義夫が譲り受け自邸としました。

現在は「たかばたけ茶論」という喫茶店になってますが、開店が14;00からと待っていられないので、敷地外から撮影して終了。

K邸。高畑町。

A邸。高畑町。鎧戸のある洋館。

T邸正門・塀。高畑町。かなり立派な門と塀のある住宅。奥の住宅は最近のものですが、この門の立派さを見ると、かつては相当な洋館が建っていたのかもしれません。

煉瓦塀のある長屋。高畑町。

表札不明の洋館。高畑町。

洋館住宅。高畑町。昭和初期頃と思われる大きな洋館住宅。

表札が外されており、現在は空家のようです。

側面。マントルピースの煙突があることから、内部も手が込んでいそうです。

ステンドグラスもありました。このまま空き家状態で失われていくのは勿体ないなぁ。

洋館住宅。高畑町。もしかしたら戦後かもしれませんが、一応掲載。

洋館住宅。高畑町。2階窓が鎧戸です。

平屋の洋館住宅。高畑町。旧足立邸の向かいにありました。
高畑町を後にし、近鉄奈良駅方面へ。

寛永堂。東向中町。元銀行だそうで、内部に装飾を施した柱が残されています。

これにて2019年の奈良市内の近代建築探索レポは終了。今回探索した範囲で見逃した物件と有名すぎていつも撮影せずスルーしていた建物を含めて4年後の2023年に補足探索を行いましたので、次回はそちらのレポ日記を書きたいと思います。

※建物の性格上、具体的な場所は明かせませんが、奈良市内に明治〜大正期築の大型の洋館の廃墟が存在します。

廃墟化してかなり荒れてますが、外観を見てもかなりハイレベルな洋館と分かります。

室内にはマントルピースやシャンデリアの座繰りが残されており、その豪華さが伺えます。奈良市内の戦前の洋館住宅としては、古さ・規模・デザイン性ともに随一かと思われます。
以前訪問した際のレポ日記を別記事にして書いております。
※奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記
※具体的な場所はお答えできません。以前、荒らしに近い無礼なコメントがあり、リンク先の記事のコメント欄は閉じています。当記事でも同様のコメントに関しては即削除します。
2023年01月29日
富雄丸山古墳・現地見学会レポ日記

造り出し部分の埋葬施設から国宝級の発見があったと大きく報道された、奈良市にある富雄丸山古墳の現地見学会に行ってきました。
富雄丸山古墳は4世紀後半に築造された径109mの国内最大の円墳です。明治時代に墳頂部にある埋葬施設が盗掘され(出土したとされる副葬品は京都国立博物館が所蔵。国指定重要文化財)、昭和47年に埋葬施設が発掘調査されています。今回大発見があった場所は墳丘の裾に近い造り出しの部分から見つかった埋葬施設。ここから国内でも例を見ない盾形銅鏡と巨大な蛇行剣が見つかりました。
国宝級の発見と言われる盾形銅鏡と日本最大の蛇行剣はメディアにも注目され、続々と報道されまし
た。
盾形銅鏡と蛇行剣は保存処理中のため見れませんが、発掘現場の公開が28日と29日に行われ、28日は1400人、29日は3100人余りが見学に来たとか。さすがに注目されています。
私も29日の午前中に富雄丸山古墳の現地見学会に参加してきました。

一般公開の開始時間の1時間前である9時に到着。すでに40人くらい並んでいました。

受付の机に置かれていた盾形銅鏡の実物大パネル。

実際見ると大きく感じます。

蛇行剣の実物大パネル。237cmの国内最大の蛇行剣は実際見るとめちゃデカい。

出土した円筒埴輪。こちらは実物。

富雄丸山古墳の説明板。史跡指定はされていませんが、国内最大の円墳という事で周囲は公園化され保存されています。今回の発見で史跡指定される可能性は十分あります。

いよいよ、発掘現場の富雄丸山古墳へ。遠くに見えるのが富雄丸山古墳です。

墳丘裾部の葺石。

墳丘裾部の円筒埴輪列と葺石。かつては巨大な円墳の全体を葺石で覆い、円筒埴輪を巡らせていました。

U調査区。ここでも大きな発見がありました。

U調査区の鰭付円筒埴輪。そして・・・

湧水施設形埴輪。井戸のような湧水施設を模した埴輪だそうですが、こんな埴輪見たこと無い。

盾形銅鏡と巨大蛇行剣ばかりに注目が行ってますが、この湧水施設形埴輪も大発見。

墳頂部。かつてはここに富雄丸山古墳の主の埋葬施設がありましたが、明治時代に盗掘されました。一部の出土品は京都国立博物館に所蔵され国指定重要文化財となってますが、もし盗掘されていなければどれだけの発見があったのだろうと思うと残念ですね。

そしてこれが今回、盾形銅鏡と国内最大の蛇行剣が出土した造り出し部分の埋葬施設。
粘土槨(ねんどかく)という木棺を粘土で覆った形の埋葬施設です。

粘土槨には盾形銅鏡と蛇行剣の実物大パネルが置かれていました。

現地見学会資料にある出土状況の写真。こんなの出てきたらビックリしますわ。
ちなみに盾形銅鏡と蛇行剣は粘土槨の外側から出土したもので、粘土槨の内部はまだ発掘されていません。これから調査されるとのことで、どんな発見があるか楽しみです。

こちらは2号墳。横穴式石室墳なので、6世紀代まで時代が下ります。

3号墳は盗掘されているようです。

見学を終えた10時ごろには見学者もだいぶ増えてきました。

NHKの取材班も。いずれNスぺで特集して欲しい。
富雄丸山古墳の現地見学会は貴重な発見のあった場所を感じさせるまたとない体験となりました。
今後、粘土槨の調査、そして盾形銅鏡と蛇行剣の一般公開に期待したいですね。
2022年01月23日
橿原市(大和八木周辺)・大和高田市・桜井市の近代建築探索レポ日記
2022年1月22日に大和八木駅周辺の橿原市から大和高田市、桜井市の近代建築を探索してきました。
まずは近鉄大和八木駅周辺から。

近畿リテールサービス西大寺管理事務所。橿原市内膳町。昭和16年。

元々は変電所だったようです。

Y邸。橿原市八木町。

大きな洋館付き住宅です。

大きなお屋敷です。

司学舎。橿原市八木町。看板建築の建物。元商店と思いますが現在は学習塾。


八木町には古い商家の建物が残されています。

和洋折衷の住宅。橿原市八木町。

中々良い感じです。元医院とかそんな感じでしょうか。

畝傍高校北館。橿原市八木町。昭和8年。北館と南館が残ってます。戦時中は海軍経理学校橿原分校として使用されたとか。機銃掃射の痕もあるようです。今回は見学許可を得てないので敷地外からの撮影ですが、いつかじっくり見学できる機会があれば・・・

その畝傍高校の敷地にある木造の建物。記念館らしく戦前のものかと思いましたが、昭和61年の復元だとか。

八木町にある住宅群。どことなく洋風の雰囲気。戦前の分譲住宅だったんでしょうか。

JR畝傍駅。橿原市八木町。昭和15年。

JR畝傍駅は紀元二千六百年記念事業で建てられた駅舎。
近鉄橿原神宮前駅も同じく紀元二千六百年記念事業で建てられています。

貴賓室もあったようで、ここがその入り口かなと。

駅舎入口の庇。

内部も当時のまま。

この木造トラスいいですね。今となっては少なくなった昔懐かしい木造駅舎。

旧六十八銀行八木支店。橿原市八木町。昭和3年。

いかにも戦前の銀行建築。現在はレストラン。

日本聖公会八木基督教会。橿原市南八木町。昭和11年。

ロマネスク様式の教会ですが、どことなく和の雰囲気も感じられる素敵な教会。

妻側の装飾。
次に今井町へ。

寺内町として昔ながらの街並みが残されている観光地でもありますね。
そんな中にも洋館が。

H邸。橿原市今井町。

元医院だったそうです。大正から昭和初期頃でしょうか。

旧高市郡教育博物館。橿原市今井町。明治36年。昭和4年からは今井町役場として使用。

現在は今井まちなみ交流センターとして使用。残念ながら2階は閉鎖。
橿原市の探索はここまで。再び大和八木駅へ戻り、大和高田市へと向かいます。

大和高田市最初の探索は、天神橋商店街から。まずはバーバーつちだ。大和高田市内本町。

昭和初期でしょうか。軒周りには波模様があります。

ぜに宗。大和高田市内本町。バーバーつちだの道を挟んだ向かい。

日本聖公会高田基督教会。大和高田市内本町。明治22年。

新しく見えますが、明治22年築とのこと。窓から内部が見えました。

堀江歯科医院。大和高田市本郷町。

昭和初期くらいですかね。洋風建築ですがなんとなく土蔵造っぽい外観。

中央温泉。大和高田市本郷町。まるでお寺か武家屋敷みたいな外観の銭湯。一応営業しているようです。

旧銭湯。大和高田市北片塩町。中央温泉と同じ和風の銭湯。こちらは廃業。

洋風の外観の住宅。大和高田市北片塩町。

Y邸。大和高田市三和町。中々立派な洋館付きの住宅。
ここから再び内本町へ。

旧岡本歯科医院。大和高田市内本町。

町家風の外観ですが、よく見ると歯医者さんだった雰囲気が残ります。

こちらは住居棟でしょうか。

現在の岡本歯科医院も町家風の素敵な外観。

旧産業銀行高田支店。大和高田市内本町。昭和2年。

堂々たる銀行建築。

現在は企業の社屋ですが、こうして大切に使われていると嬉しくなりますね。

三宅蒲団店。大和高田市内本町。店名と電話番号は当時の物でしょうか。

旧吉野銀行高田支店。大和高田市内本町。昭和8年。

ロマネスク風の銀行建築。現在は電気屋さんですが、大切に使われています。

旧宮城医院。大和高田市内本町。大正15年。大正モダンな建物です。

宮城医院の文字。この本町通り沿いには多くの近代建築の建物が残されていて楽しい通りでした。他の建物が大切にされているので、この旧宮城医院も何か再利用されて欲しいですね。
大和高田市の探索はここまで。次に今回最期の探索地、桜井市へと向かいます。

櫻林亭洋館。桜井市桜井。駅前にある立派な洋館。

小規模ですがハイレベルな洋館。大正期、もしかしたら明治期まで遡るかも。
現在は櫻林亭という宿泊施設となってますが、隣に「H」の表札がありもしかしたらH邸の洋館だったのかもしれません。

旧吉野銀行桜井支店。桜井市桜井。昭和5年。

最近改修されたようですね。以前の写真見ましたが、今の方がずっと素敵です。
現在はフレンチレストラン。

廃墟の建物。桜井市桜井。かなりボロボロ。元は工場の事務所だったんでしょうか。

元スナックの建物。桜井市桜井。

「1ねん1くみ」というスナックだったようですが現在は廃業のようです。
外壁の下見板張りの感じ、2階のベランダの造りと持ち送りで戦前物件と判断。

桜井高校講堂。桜井市桜井。明治37年。

煉瓦基礎の古い建物。記念館として残されているのでしょうか。歴史ある建物です。

旧藤桜会館。桜井市桜井。昭和16年。

桜井高校の敷地内にある建物。元同窓会館と思いますが、大切にされているようです。

洋館住宅。桜井市桜井。

下見板張りの住宅。昭和初期でしょうか。

日本聖公会桜井聖羅保教会。桜井市桜井。明治40年。

舟津書店。桜井市桜井。駅前にある看板建築。
今回の探索はここまで。ほとんどが割と知られている物件ばかりですが、初見の物ばかりで楽しい探索となりました。

今回時間の都合で橿原市の橿原神宮方面は探索はしませんでしたが、数年前に探索をしたことあります。ただ、その時の写真データを紛失してしまい、再び探索する必要が出てきました。その中でも現在は失われているこの建物の写真だけは残していたのは救いでした。
まずは近鉄大和八木駅周辺から。

近畿リテールサービス西大寺管理事務所。橿原市内膳町。昭和16年。

元々は変電所だったようです。

Y邸。橿原市八木町。

大きな洋館付き住宅です。

大きなお屋敷です。

司学舎。橿原市八木町。看板建築の建物。元商店と思いますが現在は学習塾。


八木町には古い商家の建物が残されています。

和洋折衷の住宅。橿原市八木町。

中々良い感じです。元医院とかそんな感じでしょうか。

畝傍高校北館。橿原市八木町。昭和8年。北館と南館が残ってます。戦時中は海軍経理学校橿原分校として使用されたとか。機銃掃射の痕もあるようです。今回は見学許可を得てないので敷地外からの撮影ですが、いつかじっくり見学できる機会があれば・・・

その畝傍高校の敷地にある木造の建物。記念館らしく戦前のものかと思いましたが、昭和61年の復元だとか。

八木町にある住宅群。どことなく洋風の雰囲気。戦前の分譲住宅だったんでしょうか。

JR畝傍駅。橿原市八木町。昭和15年。

JR畝傍駅は紀元二千六百年記念事業で建てられた駅舎。
近鉄橿原神宮前駅も同じく紀元二千六百年記念事業で建てられています。

貴賓室もあったようで、ここがその入り口かなと。

駅舎入口の庇。

内部も当時のまま。

この木造トラスいいですね。今となっては少なくなった昔懐かしい木造駅舎。

旧六十八銀行八木支店。橿原市八木町。昭和3年。

いかにも戦前の銀行建築。現在はレストラン。

日本聖公会八木基督教会。橿原市南八木町。昭和11年。

ロマネスク様式の教会ですが、どことなく和の雰囲気も感じられる素敵な教会。

妻側の装飾。
次に今井町へ。

寺内町として昔ながらの街並みが残されている観光地でもありますね。
そんな中にも洋館が。

H邸。橿原市今井町。

元医院だったそうです。大正から昭和初期頃でしょうか。

旧高市郡教育博物館。橿原市今井町。明治36年。昭和4年からは今井町役場として使用。

現在は今井まちなみ交流センターとして使用。残念ながら2階は閉鎖。
橿原市の探索はここまで。再び大和八木駅へ戻り、大和高田市へと向かいます。

大和高田市最初の探索は、天神橋商店街から。まずはバーバーつちだ。大和高田市内本町。

昭和初期でしょうか。軒周りには波模様があります。

ぜに宗。大和高田市内本町。バーバーつちだの道を挟んだ向かい。

日本聖公会高田基督教会。大和高田市内本町。明治22年。

新しく見えますが、明治22年築とのこと。窓から内部が見えました。

堀江歯科医院。大和高田市本郷町。

昭和初期くらいですかね。洋風建築ですがなんとなく土蔵造っぽい外観。

中央温泉。大和高田市本郷町。まるでお寺か武家屋敷みたいな外観の銭湯。一応営業しているようです。

旧銭湯。大和高田市北片塩町。中央温泉と同じ和風の銭湯。こちらは廃業。

洋風の外観の住宅。大和高田市北片塩町。

Y邸。大和高田市三和町。中々立派な洋館付きの住宅。
ここから再び内本町へ。

旧岡本歯科医院。大和高田市内本町。

町家風の外観ですが、よく見ると歯医者さんだった雰囲気が残ります。

こちらは住居棟でしょうか。

現在の岡本歯科医院も町家風の素敵な外観。

旧産業銀行高田支店。大和高田市内本町。昭和2年。

堂々たる銀行建築。

現在は企業の社屋ですが、こうして大切に使われていると嬉しくなりますね。

三宅蒲団店。大和高田市内本町。店名と電話番号は当時の物でしょうか。

旧吉野銀行高田支店。大和高田市内本町。昭和8年。

ロマネスク風の銀行建築。現在は電気屋さんですが、大切に使われています。

旧宮城医院。大和高田市内本町。大正15年。大正モダンな建物です。

宮城医院の文字。この本町通り沿いには多くの近代建築の建物が残されていて楽しい通りでした。他の建物が大切にされているので、この旧宮城医院も何か再利用されて欲しいですね。
大和高田市の探索はここまで。次に今回最期の探索地、桜井市へと向かいます。

櫻林亭洋館。桜井市桜井。駅前にある立派な洋館。

小規模ですがハイレベルな洋館。大正期、もしかしたら明治期まで遡るかも。
現在は櫻林亭という宿泊施設となってますが、隣に「H」の表札がありもしかしたらH邸の洋館だったのかもしれません。

旧吉野銀行桜井支店。桜井市桜井。昭和5年。

最近改修されたようですね。以前の写真見ましたが、今の方がずっと素敵です。
現在はフレンチレストラン。

廃墟の建物。桜井市桜井。かなりボロボロ。元は工場の事務所だったんでしょうか。

元スナックの建物。桜井市桜井。

「1ねん1くみ」というスナックだったようですが現在は廃業のようです。
外壁の下見板張りの感じ、2階のベランダの造りと持ち送りで戦前物件と判断。

桜井高校講堂。桜井市桜井。明治37年。

煉瓦基礎の古い建物。記念館として残されているのでしょうか。歴史ある建物です。

旧藤桜会館。桜井市桜井。昭和16年。

桜井高校の敷地内にある建物。元同窓会館と思いますが、大切にされているようです。

洋館住宅。桜井市桜井。

下見板張りの住宅。昭和初期でしょうか。

日本聖公会桜井聖羅保教会。桜井市桜井。明治40年。

舟津書店。桜井市桜井。駅前にある看板建築。
今回の探索はここまで。ほとんどが割と知られている物件ばかりですが、初見の物ばかりで楽しい探索となりました。

今回時間の都合で橿原市の橿原神宮方面は探索はしませんでしたが、数年前に探索をしたことあります。ただ、その時の写真データを紛失してしまい、再び探索する必要が出てきました。その中でも現在は失われているこの建物の写真だけは残していたのは救いでした。
2019年02月09日
奈良市内某所にある明治〜大正期築の廃墟の洋館・探索レポ日記

その廃洋館を知ったきっかけは奈良市内の近代建築を探索するため、事前にGoogleMapで調べていて見つけたことからでした。航空写真からも分かる大規模かつレベルの高いその洋館に興味を持ち、近代建築関連のサイトを色々検索しましたが全くヒットせず。とりあえず先月、奈良市内の近代建築探索の際に訪問。洋館は廃墟となってましたが、その際はさっと見て撤退。しかし1ヶ月後、やはりどうしても気になり今回再訪することにしました。
その間、この謎の廃洋館について調べましたが近代建築・廃墟サイトとも中々ヒットせず、かつて飲食店だった時の店名で調べたら僅かですがヒットしました。
そのブログの記事は13年前のもの。まだ飲食店として使用されていた時に入られた方の記事で、店主のお婆さんの話では建物は明治時代のもので、戦後は進駐軍に接収されたこともあったとか。ブログには店内のかつての姿の写真もあり、確かに天井の照明の座繰りや暖炉を見ると戦前の物らしく見えました。

国土地理院公開の昭和21年米軍撮影の航空写真を確認して見ると、確かに件の洋館は写っています。
明治期の建物かは分かりませんが、戦前の物であることは間違いないかと思います。
(※別サイトにて奈良市近代化遺産調査報告書に記載があり、明治〜大正期の築とのこと)
調べるとどうも10年位前に廃業したようです。私が訪問した時はすでに廃墟と化し荒れていました。
※知っている人は知っている物件の様で、現役の頃に何度か行った人の証言もありましたが、不埒者に荒らされることを防ぐため詳細な場所やかつての店名が分かる部分は伏せます。
具体的な場所に関する質問にもお答えかねます。

廃洋館に至る門。こちらは和風。戦前の屋敷には洋館でも門が和風だったりするのは普通でした。
飲食店だった頃はここが入り口で、今でも店名の扁額が掲げられています。

洋館東面。前回行けず今回確認したかった東面は付属屋等で塞がれ確認出来ませんでしたが、たまたま隣の敷地の門(ここもかつてはお屋敷があったようです。)が開いていたためそこから撮影。出窓らしき張り出しが見えます。

洋館西面。西側は改装されているようですが屋根や軒周りは当時の面影が残されています。屋根は日本瓦葺き。最近建てられた洋館ならスレート葺きになるので、この洋館が古いものであることが分かります。
敷地への入り口は扉の無いコンクリートらしき門柱のみの門。「立ち入り禁止」等の看板も何もないため、外観だけでもと前回同様お邪魔することに。

西側の入り口。洋館自体の規模が大きいため、建物を分けてこちらも別の飲食店として使用されていたようです。西面は外観が大きく改修されており、あまり面影がありません。

西側を過ぎ、南側へ。GoogleMapで確認した塔屋っぽい張り出しが2つ並ぶいかにも戦前の洋館と言った雰囲気。最初にGoogleMapで見たときは震えました。

反対側から。一部窓が改修されていますが、当時の上げ下げ窓も残されています。
庭木であった梅が花を咲かせていました。

正面から。

南側は中庭だったようで燈籠などもありましたが、管理者がいなくなり放置された今では庭木も伸び放題で、引きが取れませんでした。

南面の東側には接続している付属屋へ入る入り口が。ここを入ると気になる東側に行けるはずですが、さすがに行けませんでしたね私は。

西側から南側へとつながる階段。再び元の場所に戻ります。

北側へとつながる小さな門。ここを通ると最初に紹介した和風の門の裏側、かつて飲食店だった時の玄関へと至ります。

洋館北側。煉瓦造の大きな煙突が目立ちます。

かつての玄関口。こちらが本来の洋館の玄関だったと思われます。
玄関の屋根が落ちて傷んでいます。廃業して管理されなくなってからかなりの時間が経ったことが分かります。

洋館角の2階部分には柱頭飾りがあります。最近建てられた洋館だとここまでこった装飾はまずしません。

2階窓部分。2重扉になっています。窓は当時の物のようです。

玄関を東方面を向いて撮影。玄関車寄せの柱や手摺も凝ったものです。

玄関床のタイル。黒島模様のものです。

窓から内部を撮影してみました。長年放置された窓はホコリだらけで、カメラを窓に当ててもうまくピントが合わない。何回か撮影して何とか内部が撮影できました。内部は現役だった頃の写真のままで、竣工当時のままと思われる暖炉や天井のシャンデリアの座繰りがそのままでした。



スマホで撮影した写真の方が幾分マシのようだったので掲載。雑多にはなってますが、飲食店だった頃の雰囲気は残されてました。戦前の住宅だった時代の名残も良く残されています。
この廃墟の洋館はブログの情報では明治期とのことですが、見た感じでは大正期のように思えました。それでも戦前の大規模洋館であることは変わりはなく、廃墟と化して痛み始めてはいるもののまだ状態は良く、奈良市内でも屈指の戦前の洋館であり貴重な近代建築であることには変わりません。進駐軍も接収した経緯のある洋館だけにレベルの高さが伺えます。しかし、元々誰の屋敷だったのか、具体的な竣工年はいつなのか、設計者は?など洋館そのものの詳細な経歴が一切不明です。(ただし、奈良県近代化遺産調査報告書には掲載されているかもしれません。ただ、そうなるとすでにチェックして報告している人がいるはずですが…)
そしてこれだけの洋館が見向きもせずに放置されている現状は、やはり古都奈良という土地柄だからでしょうか。国登録有形文化財はもちろん、指定文化財になってもおかしくはないこの洋館。最近内で奈良市内では近代建築をカフェや案内所等に再利用している例もあるわけですし何とか修復して再びレストラン等に再利用できないものでしょうかね。場所的にも好立地ですし、このまま朽ち果てて失われるのは惜しすぎると思うのですが。
2018年11月29日
旧奈良監獄・一般公開見学レポ日記

2018年11月23日から25日にかけて開催された旧奈良監獄の最後の一般公開に行ってきました。
旧奈良監獄は明治41年に完成した明治の五大監獄の1つで、設計は司法省営繕課の山下啓次郎。
ジャズピアニスト山下洋輔氏のお爺さんに当たる方です。
私は2日目の24日10時より参加。1時間も早く着いてしまったけど、入場前には凄い列ができ、早く来て正解でした。写真は正門。ロマネスク様式の洒落た煉瓦の門は刑務所というよりテーマパークの門のようです。

正門をくぐると目の前に現れる庁舎。華やかな正門と比べて装飾は控えめの威厳のある姿。
シンメトリーで威厳溢れる戦前の官公庁の庁舎って好きなんですよね。私は。

庁舎の横にある倉庫。

庁舎の入り口部分。

庁舎1階部分。

庁舎2階の講堂。かつてはここで受刑者が映画とかを見ていたようです。

庁舎講堂の窓から収容棟を眺める。

展示されている奈良監獄で使われていた道具。

奈良監獄の典獄(監獄長)や看守長のサーベル。

庁舎を過ぎると収容棟へと至ります。ここは中央監視所。八角形の棟から放射状に収容棟が伸びています。

中央監視所は吹き抜けとなり、1階も見渡せます。

中央監視所の天井。

中央監視所から伸びる収容棟も中央廊下が吹き抜けです。

収容棟の階段横の小部屋。

収容棟の独居房。

手洗いは石製。

独居房の扉。当然ながら分厚く頑丈で外から閉められると中からは開けられない構造になっています。

収容棟1階廊下のマンホール。
続いて収容棟から地下へ。
この地下部分が見ごたえのあるものでした。

地下の階段を降りたところの部屋。

窓から外を眺める。

地下からは外の中庭へ出られました。





古色蒼然とした煉瓦の壁が聳え立つ中庭の風景はまるで、中世ヨーロッパかファンタジーの異世界の城か要塞か監獄の中に迷い込んだかのような気分に。日本のしかも古都奈良にある建物とは思えないくらい。

地下の一室。雰囲気が素晴らしすぎる。電灯じゃなくて蝋燭か松明を置いて脇に木の樽や粗末なをテーブルを置いたら、まんま中世ヨーロッパの城の中。粗雑な兵士が飲み食いしている情景が目に浮かぶよう。

この地下室の隣の小部屋の壁に文字が書かれていました。どういった意味か分かりませんが。

再び収容棟へ。小部屋の棚。

収容棟1階。

収容棟の扉。

収容棟の裏側。

収容棟の裏手には同時期に建設された木造の実習棟がいくつかあり、その中には陸軍歩兵第38連隊の兵舎を移築した建物もあったようですが、悉く解体され更地になってました。
後でフォロワーさんから頂いた内部の写真を見ると、階段の手すりはそのまま残され、、内務班の部屋も兵舎時代の雰囲気が良く残されていました。できれば最後の一般公開の時までは残しておいて公開してほしかった…

拘置監や医務所のある裏庭。紅葉が煉瓦の赤と映えてきれいでした。

拘置監の建物。拘置監は未決囚や模範囚が収容されていた棟。

拘置監と回廊を繋ぐ廊下。

拘置監と接続する医務所の中央棟。こちらも八角形で、中央監視所のミニ版といった感じです。

隔離棟。精神疾患や集団生活が厳しい受刑者を収容した建物。

この狭く暗い煉瓦の建物に閉じ込められるのはかなりキツイ・・・。さすがに人道的な面から近年は使用されていませんでした。

隔離棟の横に保存されている江戸時代の奈良奉行所時代の牢舎。
まるでキリギリスの虫篭のように見えたので通称「ギス監」と呼ばれていました。
近代監獄ができる前は囚人はこのような場所に閉じ込められていました。
旧奈良監獄はこの後、改修を経て2019年に行刑史料館・2021年にはホテルとしての開業が予定されています。改修前の最後の姿を見ることができた一般公開。実習棟や旧歩兵第38連隊の兵舎がすでに失われて見れなかったのは残念でしたが、貴重な体験をすることができました。特に地下室と中庭が素晴らしかったなぁ。
※おまけ。

旧奈良監獄から少し南に下ったところに小さな古い煉瓦の建物が残されています。
旧奈良市水道計量器室。大正11年築。

すでに屋根は崩落し、廃墟状態ですが、建物のデザインや雰囲気は中々良く、旧奈良監獄と合わせた煉瓦建築として修復・整備してもらいたいものですねぇ。