福井県
2021年10月03日
小浜市・高浜町の近代建築探索レポ日記(+後瀬山城・小浜城)
去年の2020年6月20日に探索した小浜市・高浜町の近代建築探索レポ日記です。去年の5月に新車に買い替え、せっかくだからとドライブがてらの探索でした。
まずは小浜市。コインパーキングに車を停め、西側から順に探索開始。
都菓子舗。小浜鹿島。大正15年。
洋風の要素を持つ和菓子店です。
高鳥歯科医院。小浜鹿島。大正14年。国登録有形文化財。
シャレた装飾のある地方の個人医院。
玄関部分の装飾。当時はハイカラな建物の象徴だったんでしょう。
白鳥会館。白鳥町。明治22年。国登録有形文化財。
土蔵造の建物に洋風の煉瓦のアーチという擬洋風建築というか和洋折衷というか変わった建物。
明治21年の大火後に薬品製造販売会社の店蔵として建てられたものだそう。
武藤写真館旧館。小浜竜田。大正13年。当時のままの下見板張りの洋館。いい雰囲気。
ここから車で移動して、フィッシャーマンズワーフ方面へ。
途中で見かけた建物。小浜鈴鹿。
雰囲気的に、戦前建築で間違いなさそう。
ここから北上。
日本聖公会小浜聖ルカ教会。千種町。明治30年。国登録有形文化財。
設計はバーガミニー。小さな教会ですが、明治時代建築の貴重な建物。
小浜聖ルカ教会旧幼稚園。千種。昭和初期頃。
小浜聖ルカ教会のすぐ横の建物。旧幼稚園だったらしいですが、元々は司祭の住宅だったのかも。
ここから、南川・北川を渡り、小浜城方面へ。
大手橋。城内。昭和14年。
南川に架かる今も現役の昭和戦前のRC橋。
大手橋の親柱にある竣工年の銘板。
西津橋。山手。昭和14年。
北川に架かる橋で、大手橋と同じ年の竣工。
戦前のRC橋は雰囲気が良くて好きですね。
西津橋の親柱にある竣工年の銘板。
小浜中学校旧図書館。雲浜。昭和11年。国登録有形文化財。
旧小浜尋常中学校の図書館だった建物。現在は洗心館という記念館。
ここから北にある住宅街へ。
M邸。山手。昭和初期か。偶然見つけた大きな洋館。
植木の隙間から何とか撮影。相当な規模とレベルの洋館です。
同じく植木の隙間から。
門まで近づきましたが、人気が全然ない上に庭も荒れている…。一応表札はありましたが空き家っぽい。門柱はあったけど門扉はなし。
恐る恐る玄関前まで近づくことに。
玄関部分。警備会社のステッカーがありましたが、人気が全然ない上、所々痛みも。
一応管理されているようですが、常住されてないのかも。
というわけで、ここまでで退散。それにしても相当な規模とレベルの洋館。小浜市でも有数の近代建築の一つになると思います。
ちなみに今年(2021年)撮影のGoogleMapの航空写真を見たら、庭木が全て伐採され、作業用らしきワゴン車が2台停まってます。もしかしたら解体の日が近いのかも…。
大下第三歯科医院。山手。気になった建物。
旧今村家住宅。山手。昭和7年。
ドイツ風(?)のオシャレな洋館住宅。
現在は別の方がお住まいですが、大切に住まわれているようです。
O邸。山手。昭和初期頃か。洋館付き住宅。
洋館部分のアップ。
O邸の近くにある洋館付き住宅。昭和初期か。この近辺はこの建物を始め、旧今村家住宅、O邸などが集中し、戦前の住宅街だったようです。
小浜市の探索はこれで終了。他にもいくつかあるようですが、郊外にあったりしたので今回はスルー。
ここから西に向かい、高浜町へ。
旧京都電灯高浜営業所。高浜町宮崎。昭和6年。
結構意匠に富んだ事務所建築にしては華やかな建物です。高浜町を代表する洋館。
現在は高浜まちづくりネットワークという観光施設となっています。
旧山口医院。高浜町事代。昭和8年。
いかにも戦前の地方の個人医院と言った雰囲気の洋館。しかし、私はこういった医院建築が好きですね。
玄関の装飾。独特な模様です。何という模様なんだろう。
たまたま見かけた下見板張りの洋館。高浜町若宮。
昭和初期頃かなぁ。
高浜町事代で見かけた大型の木造建物。戦前っぽい雰囲気で気になり観察してましたが、入り口の横にある小窓がチケット売り場のように見え、確証はないけど劇場か芝居小屋だったのではと推測。
ツイッターにてつぶやいたところ、元は「高浜座」という1960年代まで営業していた劇場だったという情報をいただきました。
城山海水浴場の近くにあるこの旧高浜座。かつては近隣のみならず海水浴客も利用して賑わっていたのかもしれません。しかし今は廃墟状態。いずれ取り壊され町の記憶から消えていくのでしょうね。
以上で小浜市・高浜町の近代建築探索でした。
ここから攻城記録。
小浜市には知られている2つの城跡があります。1つは中世〜戦国期の後瀬山城。もう一つは江戸時代の小浜城。今回、その2つの城跡も訪問しました。
まずは、後瀬山城跡。
後瀬山城は若狭国の守護大名、若狭武田氏の本拠地で、若狭最大級の中世城郭。山上に本丸等の城域を配置し、麓に現在の空印寺あたりに居館を設け守護所としました。
若狭武田氏は丹後の守護大名、一色氏との戦いに勝利し、一時は若狭と丹後を支配する大名でしたが、越前の朝倉氏の攻撃により没落。後瀬山城は朝倉氏の支配となりましたが、織田信長との戦いで朝倉氏滅亡後は丹羽長秀が入城しました。
現在、本丸周囲に残されている豪壮な石垣は、丹羽長秀が改修して造られたものです。
後瀬山城の麓にあった若狭武田氏の居館跡は江戸時代の京極氏時代に空印寺となりました。
空印寺の前にはかつて小学校がありましたが、移転により空き地となってました。ここも若狭武田氏の居館跡の一部で、案内板には史跡整備されかつての土塁や水堀・門を復元する予定のようです。
次は小浜城。
小浜城は江戸時代初期にそれまでの若狭国の支配拠点だった後瀬山城に代わる城として京極高次により着工されましたが、完成を見ずして松江に転封。代わって入封した酒井忠勝が小浜城の築城を引き継ぎ完成。以後、明治維新まで酒井家が小浜藩の藩主を務めました。
明治維新後は建物は取り壊され、堀は埋め立てられ、本丸以外は完全に失われました。
それでも天守台をはじめ、本丸の石垣が良く残されています。小浜城に関しては時期未定ですが、三層三階の天守を始めとした復元整備計画があるようです。
小浜城跡で出会った猫さん。今の小浜城を守る城主かなw
最後に昭和8年に吉田初三郎が描いた「小浜町鳥瞰図」。私の所有資料。
おしまい。
まずは小浜市。コインパーキングに車を停め、西側から順に探索開始。
都菓子舗。小浜鹿島。大正15年。
洋風の要素を持つ和菓子店です。
高鳥歯科医院。小浜鹿島。大正14年。国登録有形文化財。
シャレた装飾のある地方の個人医院。
玄関部分の装飾。当時はハイカラな建物の象徴だったんでしょう。
白鳥会館。白鳥町。明治22年。国登録有形文化財。
土蔵造の建物に洋風の煉瓦のアーチという擬洋風建築というか和洋折衷というか変わった建物。
明治21年の大火後に薬品製造販売会社の店蔵として建てられたものだそう。
武藤写真館旧館。小浜竜田。大正13年。当時のままの下見板張りの洋館。いい雰囲気。
ここから車で移動して、フィッシャーマンズワーフ方面へ。
途中で見かけた建物。小浜鈴鹿。
雰囲気的に、戦前建築で間違いなさそう。
ここから北上。
日本聖公会小浜聖ルカ教会。千種町。明治30年。国登録有形文化財。
設計はバーガミニー。小さな教会ですが、明治時代建築の貴重な建物。
小浜聖ルカ教会旧幼稚園。千種。昭和初期頃。
小浜聖ルカ教会のすぐ横の建物。旧幼稚園だったらしいですが、元々は司祭の住宅だったのかも。
ここから、南川・北川を渡り、小浜城方面へ。
大手橋。城内。昭和14年。
南川に架かる今も現役の昭和戦前のRC橋。
大手橋の親柱にある竣工年の銘板。
西津橋。山手。昭和14年。
北川に架かる橋で、大手橋と同じ年の竣工。
戦前のRC橋は雰囲気が良くて好きですね。
西津橋の親柱にある竣工年の銘板。
小浜中学校旧図書館。雲浜。昭和11年。国登録有形文化財。
旧小浜尋常中学校の図書館だった建物。現在は洗心館という記念館。
ここから北にある住宅街へ。
M邸。山手。昭和初期か。偶然見つけた大きな洋館。
植木の隙間から何とか撮影。相当な規模とレベルの洋館です。
同じく植木の隙間から。
門まで近づきましたが、人気が全然ない上に庭も荒れている…。一応表札はありましたが空き家っぽい。門柱はあったけど門扉はなし。
恐る恐る玄関前まで近づくことに。
玄関部分。警備会社のステッカーがありましたが、人気が全然ない上、所々痛みも。
一応管理されているようですが、常住されてないのかも。
というわけで、ここまでで退散。それにしても相当な規模とレベルの洋館。小浜市でも有数の近代建築の一つになると思います。
ちなみに今年(2021年)撮影のGoogleMapの航空写真を見たら、庭木が全て伐採され、作業用らしきワゴン車が2台停まってます。もしかしたら解体の日が近いのかも…。
大下第三歯科医院。山手。気になった建物。
旧今村家住宅。山手。昭和7年。
ドイツ風(?)のオシャレな洋館住宅。
現在は別の方がお住まいですが、大切に住まわれているようです。
O邸。山手。昭和初期頃か。洋館付き住宅。
洋館部分のアップ。
O邸の近くにある洋館付き住宅。昭和初期か。この近辺はこの建物を始め、旧今村家住宅、O邸などが集中し、戦前の住宅街だったようです。
小浜市の探索はこれで終了。他にもいくつかあるようですが、郊外にあったりしたので今回はスルー。
ここから西に向かい、高浜町へ。
旧京都電灯高浜営業所。高浜町宮崎。昭和6年。
結構意匠に富んだ事務所建築にしては華やかな建物です。高浜町を代表する洋館。
現在は高浜まちづくりネットワークという観光施設となっています。
旧山口医院。高浜町事代。昭和8年。
いかにも戦前の地方の個人医院と言った雰囲気の洋館。しかし、私はこういった医院建築が好きですね。
玄関の装飾。独特な模様です。何という模様なんだろう。
たまたま見かけた下見板張りの洋館。高浜町若宮。
昭和初期頃かなぁ。
高浜町事代で見かけた大型の木造建物。戦前っぽい雰囲気で気になり観察してましたが、入り口の横にある小窓がチケット売り場のように見え、確証はないけど劇場か芝居小屋だったのではと推測。
ツイッターにてつぶやいたところ、元は「高浜座」という1960年代まで営業していた劇場だったという情報をいただきました。
城山海水浴場の近くにあるこの旧高浜座。かつては近隣のみならず海水浴客も利用して賑わっていたのかもしれません。しかし今は廃墟状態。いずれ取り壊され町の記憶から消えていくのでしょうね。
以上で小浜市・高浜町の近代建築探索でした。
ここから攻城記録。
小浜市には知られている2つの城跡があります。1つは中世〜戦国期の後瀬山城。もう一つは江戸時代の小浜城。今回、その2つの城跡も訪問しました。
まずは、後瀬山城跡。
後瀬山城は若狭国の守護大名、若狭武田氏の本拠地で、若狭最大級の中世城郭。山上に本丸等の城域を配置し、麓に現在の空印寺あたりに居館を設け守護所としました。
若狭武田氏は丹後の守護大名、一色氏との戦いに勝利し、一時は若狭と丹後を支配する大名でしたが、越前の朝倉氏の攻撃により没落。後瀬山城は朝倉氏の支配となりましたが、織田信長との戦いで朝倉氏滅亡後は丹羽長秀が入城しました。
現在、本丸周囲に残されている豪壮な石垣は、丹羽長秀が改修して造られたものです。
後瀬山城の麓にあった若狭武田氏の居館跡は江戸時代の京極氏時代に空印寺となりました。
空印寺の前にはかつて小学校がありましたが、移転により空き地となってました。ここも若狭武田氏の居館跡の一部で、案内板には史跡整備されかつての土塁や水堀・門を復元する予定のようです。
次は小浜城。
小浜城は江戸時代初期にそれまでの若狭国の支配拠点だった後瀬山城に代わる城として京極高次により着工されましたが、完成を見ずして松江に転封。代わって入封した酒井忠勝が小浜城の築城を引き継ぎ完成。以後、明治維新まで酒井家が小浜藩の藩主を務めました。
明治維新後は建物は取り壊され、堀は埋め立てられ、本丸以外は完全に失われました。
それでも天守台をはじめ、本丸の石垣が良く残されています。小浜城に関しては時期未定ですが、三層三階の天守を始めとした復元整備計画があるようです。
小浜城跡で出会った猫さん。今の小浜城を守る城主かなw
最後に昭和8年に吉田初三郎が描いた「小浜町鳥瞰図」。私の所有資料。
おしまい。
2019年08月18日
敦賀市の近代建築探索レポ日記
2019年7月15日に敦賀港へ「護衛艦かが」の寄港による一般公開に合わせ、敦賀市へ行った際にフォロワーさんと敦賀市内の近代建築探索をしました。
ちなみに同日、祖父が下士官時代を過ごした敦賀連隊跡も訪問してきましたが、そちらは別記事にしております。
※敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
敦賀市は昭和20年7月12日の空襲で壊滅的被害を受けてますが、今回探索しましたら意外と戦前の建物が残されていることが分かりました。
まずは護衛艦かがが停泊していた桟橋の近くにある旧紐育スタンダード石油会社倉庫。明治38年。国登録有形文化財。
現在は敦賀赤煉瓦館という観光施設となっています。内部にある敦賀港のジオラマ展示は必見。
赤煉瓦倉庫の近くにあるコンクリート建造物。路駐の車が邪魔!
正面から。草ぼうぼうでよく見えませんが、先ほどの道路側からの姿を見たら戦前はありそうな古さに見えたので。
近隣の方がいたので聞くと、元々はガソリンの保管庫だったそうです。
敦賀港駅ランプ小屋。明治15年頃。
現在は展示施設になっていました。ちなみにすぐそばの敦賀港駅も明治15年築だそうですが、非公開です。活用してもらいたいですが。
敦賀倉庫。昭和8年。赤煉瓦倉庫と共に商業港としての敦賀港の繁栄を伝える建物。
出窓のデザインが可愛らしい。
敦賀倉庫事務所。昭和8年。リフォームされてますが、当時の面影は良く残されています。
汐谷鉄工所。昭和初期頃?当時の姿をそのまま残す下見板張りの建物。
よく空襲で焼けなかったものです。
気になる建物もいくつかありました。
旧大和田銀行。明治25年。敦賀市立博物館となっている旧大和田銀行本店の前身の建物。
路駐の車が邪魔…。この日は前述のとおり護衛艦かがの一般公開が行われた日であり、市内の各所にこういった路駐の車で溢れていました。
アップ。洋風建築に見えますが、背後は町屋造りです。
旧大和田銀行本店。昭和2年。国指定重要文化財。
規模・質共に敦賀市で一番の近代建築。現在は敦賀市立博物館。
玄関部分。
営業室。当時の姿が復元されています。
階段も豪華な造り。
金庫室。
2階貴賓室。重役会議も開かれていたと思います。流石に格式高い造りです。
3階講堂。旧大和田銀行本店は銀行の店舗としてだけでなく、敦賀市民向けに講堂や地下の食堂を開放しており、講堂は市民の催し物や講演会などのイベントにも利用されたようです。
3階講堂に展示されているエレベーター。大正14年製の国産最初期のエレベーターだとか。
日本聖公会敦賀基督教会。この教会ちょっと変わっていて、2階が明治後期築。1階が昭和8年築というもの。元々平屋だったのが昭和8年に1階部分を持ち上げ2階にすることで1階を増築する形になっています。
敦賀市内にはこういった伝統的な町屋のある街並みも残されています。
擬洋風っぽい住宅。
洋館付き住宅。腰壁部分は石張りになっている割と手の込んだ建物。敦賀市内にはまだこういった戦前の洋館付き住宅が残されていそうです。
市街地の南へ。東洋紡敦賀工場クラブハウス。昭和10年。
ハーフチンバーの洒落た洋館です。
かつてはこのクラブハウスの周りには沢山の東洋紡敦賀工場の社宅が建ち並んでいました。この洋館はその唯一の名残。
東洋紡敦賀工場の敷地内には戦前当時の建物も残されています。
敷地南端に残る通用門と思われる門柱。
当時の物と思われる塀。
昭和初期頃の東洋紡敦賀工場を撮影した絵葉書。現在残る塀と同じ物が写されています。
今回の敦賀市の近代建築探索で一番の成果だった建物。事前の下調べでも敦賀市の近代建築を扱ったサイトのどこにも取り上げられていなかった知られていない物件。
玄関部分。この玄関の梁の形は昭和初期の建物によくみられるもの。
内部を窓から撮らせてもらいました。建物の平面プランは戦前の事務所建築そのままに思えます。
個室部分。現在リフォーム工事中でした。戦前の近代建築が再再利用されるのは嬉しいこと。どんな建物に生まれ変わるのか楽しみです。
今回の探索は市街地の中心部をメインに探索したので、空襲を受けた市街地でも思った以上に
戦前の建物が残されていたので、比較的空襲被害の少なかったであろう西側の気比の松原あたりの一帯はまだまだ多くの近代建築が残されていそうなため、次回以降の課題にしたいと思います。
2019年08月12日
敦賀連隊跡探訪レポ日記(祖父の足跡を訪ねて)
福井県敦賀市にある敦賀連隊の跡地を訪ねてきました。敦賀市にはかつて陸軍歩兵第19連隊が駐屯し、昭和15年には留守連隊の歩兵第119連隊が、戦争末期の昭和20年には本土防衛部隊の歩兵第441連隊が編成されます。この敦賀連隊は祖父が下士官として終戦まで赴任した縁の連隊であり、仙台陸軍教導学校卒業後の伍長から軍曹までは歩兵第119連隊に、昭和20年の曹長からは本土防衛部隊の歩兵第441連隊の連隊付下士官として渥美半島へ赴任し終戦を迎えました。
この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
歩哨舎正面。
その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
敦賀連隊史蹟碑。
祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録。
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)
この度、その祖父ゆかりの敦賀連隊の跡地を訪問し、祖父の足跡をたどることにしました。
敦賀連隊跡地。かつて営門があった場所には歩哨舎が残されています。
歩哨舎正面。
その脇には移設された「陸軍省」の境界石柱が保存されています。
営門前の県道225号線前には敦賀連隊当時の塀がそのまま残されています。
祖父のアルバムにあったほぼ同じアングルの連隊前の写真。現在残る塀は当時のままで残されていることが分かります。
営門から少し離れた場所にも塀が残されています。
営門から西へ進んだ井の口川に架かる金山橋。昭和8年竣工。
恐らく敦賀連隊の兵士たちも渡っていたでしょうね。
現在、敦賀連隊の敷地は団地となっており、建物等の遺構は何も残されていません。敷地内には昭和39に敦賀連隊史蹟碑保存会により建立された記念碑があります。
敦賀連隊史蹟碑。
祖父のアルバムにあった恐らく連隊本部と思われる建物。
軍旗を掲げる連隊旗手。連隊旗に痛みがなく新しいので、昭和15年に編成された歩兵第119連隊の連隊旗と思われます。
検閲行進の1枚。他にも数枚あります。奥に兵舎が見えますね。馬が引いているのは連隊砲(四一式山砲)でしょうか。
営門の向かいには坂田写真館という写真館がありました。明治33年創業の老舗の写真館で、敦賀連隊の兵士たちの御用達の写真館であり、多くの兵隊さんの記念写真を撮影されました。
現在手元にある祖父の軍人アルバムの写真はまさにこの坂田写真館で撮られたものでした。
曹長に任官し祖母と結婚した際の記念写真。以前別の記事にて紹介していましたら、2代目の次男の方からコメントがあり、床の模様や祖母が座る椅子は紛れもなくかつて坂田写真館にあったものと教えていただきました。
現在写真館はその次男の方の甥に当たる方が継がれ、谷写真館と名を変えて営業されています。
※谷写真館様公式HP
突然の訪問にも関わらず、快く対応していただき、当時の貴重な写真を見せていただきました。
特に祖父の遺した軍人アルバムと全く同じものが谷写真館様にも残されていたのには感動しました。
見せていただいた写真群の中には残念ながら祖父の姿はありませんでしたが、このアルバムと同じ物が出てきたときは確かにこの地との繋がりを感じ取ることが出来ました。
谷写真館様に置かれている写真機。かつて使われていた写真機で、敦賀連隊の多くの兵隊さんを撮影したであろうこの写真機。私の祖父も撮影したことでしょう。
営門後から東に進んだ場所にかつての旧郵便局の建物が残されています。
敦賀連隊の兵隊さんもよく利用した郵便局。残されている祖父母宛の葉書もここから配達されたり、相手に手紙を出したりしたことでしょう。
連隊近くの下宿に居住していた時の祖父母宛の葉書。昭和20年3月8日の消印があります。
昭和20年1月20日、本土防衛のための歩兵第441連隊が編成。根こそぎ動員で編成されたこの連隊は渥美半島に配備され、沿岸の防衛にあたりました。祖父はこの441連隊の連隊本部付下士官として配属され終戦を迎えました。
祖父宛の葉書。「護京第二二六五三部隊」は歩兵第441連隊。その部隊本部宛になっています。
この時の祖父の軍装品一式が今も実家に残されています。以下のリンク先に軍装品一式を記録した記事を書いております。
※祖父の遺品である軍装品の記録。
また、敦賀赴任前の仙台陸軍教導学校への入校前までの日記となりますが、祖父の軍隊時代の日記を紹介した記事もここに紹介しておきます。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)