戦前の都市公園
2024年02月25日
下鴨森ガ前児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨西高木町にある下鴨森ガ前児童公園を探索しました。下鴨森ガ前児童公園は昭和14年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
下鴨森ガ前児童公園北門。
門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。
反対側も同じデザインで、シンメトリー。
公園内から。
下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。
北西隅の塀。
下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。
下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。
下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。
四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。
何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。
下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
下鴨森ガ前児童公園北門。
門柱と袖塀はセセッションの影響を受けたデザインに見えます。
反対側も同じデザインで、シンメトリー。
公園内から。
下鴨森ガ前児童公園南門。こちらも北門と同じデザインで統一しています。
北西隅の塀。
下鴨森ガ前児童公園で象徴的なのは、この藤棚のあるバーゴラでしょう。公園の北東隅に扇型にテラスを作り、藤棚とベンチ・テーブルを設けています。
京都市内の戦前の児童公園には必ず藤棚のあるバーゴラが設けられていますが、規模の大小に限らず大抵は長方形で、この下鴨森ガ前児童公園のように扇形にしているのは珍しいです。
下鴨森ガ前児童公園には国旗掲揚台も残されています。門柱と同じ感じでセセッションっぽいデザインがされています。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。下鴨森ガ前児童公園の国旗掲揚台にはポールを固定する金具が今でも残されています。
下鴨森ガ前児童公園の中央にある花壇。
四角形の花壇を四つ並べて真ん中に十字の花壇を配置した幾何学的なデザインで、洋式庭園を意識した感じに思えます。
何かの基礎がありました。かつては何かが建てられていたのかもしれませんが不明です。
下鴨森ガ前児童公園の砂場。角型の砂場で戦後の物かも。
下鴨森ガ前児童公園は、戦前からの特徴的なバーゴラやセセッション風のデザインの門柱や国旗掲揚台が残されている貴重な近代化遺産が残された公園でした。
あおい(下鴨膳部)児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨東梅ノ木町にあるあおい(下鴨膳部)児童公園を探索しました。(※戦前は下鴨膳部児童公園という名前でしたが、現在は「あおい児童公園」となっています。以下は「あおい児童公園」と称します)。
あおい児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
あおい児童公園東門。
門柱脇の袖塀はアールデコ調のデザイン。
反対側も同じデザインで、シンメトリーになっています。
公園側から。
あおい児童公園南門。南門も東門と同じデザインです。
公園内には大きく「記念」と彫られたインパクトのある石碑があります。
背面の碑文。昭和8年に下鴨土地区画整理事業を記念して設置された記念碑です。
京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・萩児童公園にも記念碑が残されています。
あおい児童公園には国旗掲揚台も残されています。装飾の少ないモダニズムなデザイン。
戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。
あおい児童公園の国旗掲揚台の背面にもポールを立てるための窪みがあり、固定していた金具の跡も残されています。
あおい児童公園には砂場もありますが、あまり使われていないのか荒れていました。
あおい児童公園は少ないながらも質の高い戦前の児童公園の遺構が残されており、この地域の分譲地としての開発の歴史を伝える貴重な近代化遺産と言える公園です。
あおい児童公園は昭和10年5月14日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
あおい児童公園東門。
門柱脇の袖塀はアールデコ調のデザイン。
反対側も同じデザインで、シンメトリーになっています。
公園側から。
あおい児童公園南門。南門も東門と同じデザインです。
公園内には大きく「記念」と彫られたインパクトのある石碑があります。
背面の碑文。昭和8年に下鴨土地区画整理事業を記念して設置された記念碑です。
京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・萩児童公園にも記念碑が残されています。
あおい児童公園には国旗掲揚台も残されています。装飾の少ないモダニズムなデザイン。
戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。今でも京都市内の戦前の公園内や街角にいくつか残されています。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。
あおい児童公園の国旗掲揚台の背面にもポールを立てるための窪みがあり、固定していた金具の跡も残されています。
あおい児童公園には砂場もありますが、あまり使われていないのか荒れていました。
あおい児童公園は少ないながらも質の高い戦前の児童公園の遺構が残されており、この地域の分譲地としての開発の歴史を伝える貴重な近代化遺産と言える公園です。
萩児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市左京区下鴨萩ヶ垣内町にある萩児童公園を探索しました。萩児童公園は昭和15年12月1日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
萩児童公園南西角門。低い門柱が建てられています。
銘板。これは戦後の物でしょうか。
萩児童公園南門。南西角門よりシンプルな門柱。
萩児童公園東門。こちらは門柱にタイルの装飾があります。
南側の門柱と塀。
北側の門柱と塀。
銘板。東門の門柱は他の入口より手が込んでおり、東門が正門だったと思われます。
北門。南門と同じ簡素な門柱。
萩児童公園のある一帯は昭和9年に洛北土地区画整理事業で開発された分譲地でした。萩児童公園内には土地区画整理事業の完成を記念した石碑が残されています。京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・あおい児童公園にも記念碑が残されています。
萩児童公園にはラジオ塔が残されています。ラジオ塔は日本放送協会(現・NHK)がラジオ普及のために各地の公園等に設置された街頭ラジオで、最盛期には465基あまり設置されましたが、現在は37基しか現存していません。
そのうち京都市内にはこの萩児童公園の他に、円山・紫野柳・船岡山・橘・小松原・八瀬の7か所の各公園に現存しており、うち船岡山公園のラジオ塔は平成27年に新たに受信機が設置され機能が復活しました。
萩児童公園のラジオ塔に残る「JOOK」の文字。これは京都放送局「現・NHK京都放送局」のコールサイン。
萩児童公園のラジオ塔は、大きな庇を設けたコの字型の他に類を見ない形状で、中々モダンなデザインです。
萩児童公園の国旗掲揚台。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。萩児童公園の国旗掲揚台の背後にはポールを固定した金具が残されており、使われていた当時の様子を知ることができる貴重な遺構となっています。
国旗掲揚台の中には、紫野柳児童公園のラジオ塔のように、ラジオ塔と国旗掲揚台が一体化したものもあります。
萩児童公園の砂場。角を丸くした古いタイプのものと思われます。
萩児童公園のベンチ。擬石洗い出し仕上げの古いもの。
公園内の各所にこのような古いベンチが残されています。
萩児童公園には25mプールが残されています。
戦前の京都市の児童公園にはある一定以上の広さを持つ公園にはプールの設置が求められました。それは児童の心身鍛錬と防火用水としての機能を持たせるためでした。戦後しばらくはプールとして使用され続けていましたが、管理の問題から次第に廃止され、埋め立てられたり撤去されたりしていきました。また、学校と隣接した公園のプールは学校の敷地に取り込まれ、学校が管理するプールとなっていきました。
この萩児童公園のプールも現在は埋め立てられ広場となっています。現在京都市内の児童公園にある25mプールで現存しているのは萩児童公園の他には、南岩本・六條院・唐橋西寺の児童公園がありますが、全て埋め立てられたプール跡となっており、機能しているものはありません。
萩児童公園は、代表的なラジオ塔をはじめ、土地区画整理記念碑・国旗掲揚台・25mプール跡・門柱など戦前の児童公園の遺構がよく残され、日本土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
萩児童公園は、戦前の児童公園の雰囲気を知ることができる近代化遺産として貴重な公園となっています。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
萩児童公園南西角門。低い門柱が建てられています。
銘板。これは戦後の物でしょうか。
萩児童公園南門。南西角門よりシンプルな門柱。
萩児童公園東門。こちらは門柱にタイルの装飾があります。
南側の門柱と塀。
北側の門柱と塀。
銘板。東門の門柱は他の入口より手が込んでおり、東門が正門だったと思われます。
北門。南門と同じ簡素な門柱。
萩児童公園のある一帯は昭和9年に洛北土地区画整理事業で開発された分譲地でした。萩児童公園内には土地区画整理事業の完成を記念した石碑が残されています。京都市内の児童公園は周辺の分譲地開発に伴い造られたものが多く、紫野柳児童公園・あおい児童公園にも記念碑が残されています。
萩児童公園にはラジオ塔が残されています。ラジオ塔は日本放送協会(現・NHK)がラジオ普及のために各地の公園等に設置された街頭ラジオで、最盛期には465基あまり設置されましたが、現在は37基しか現存していません。
そのうち京都市内にはこの萩児童公園の他に、円山・紫野柳・船岡山・橘・小松原・八瀬の7か所の各公園に現存しており、うち船岡山公園のラジオ塔は平成27年に新たに受信機が設置され機能が復活しました。
萩児童公園のラジオ塔に残る「JOOK」の文字。これは京都放送局「現・NHK京都放送局」のコールサイン。
萩児童公園のラジオ塔は、大きな庇を設けたコの字型の他に類を見ない形状で、中々モダンなデザインです。
萩児童公園の国旗掲揚台。戦前の日本では、公園などの多くの人が集まる公共の場において、国旗の掲揚が推奨されました。そのため日本各地の公園内や町内に国旗掲揚台が設置されていきました。それらは町内会や個人・団体の寄付により建てられました。
国旗掲揚台は背後に金属のポールを設置し、そのポールに国旗を掲げました。萩児童公園の国旗掲揚台の背後にはポールを固定した金具が残されており、使われていた当時の様子を知ることができる貴重な遺構となっています。
国旗掲揚台の中には、紫野柳児童公園のラジオ塔のように、ラジオ塔と国旗掲揚台が一体化したものもあります。
萩児童公園の砂場。角を丸くした古いタイプのものと思われます。
萩児童公園のベンチ。擬石洗い出し仕上げの古いもの。
公園内の各所にこのような古いベンチが残されています。
萩児童公園には25mプールが残されています。
戦前の京都市の児童公園にはある一定以上の広さを持つ公園にはプールの設置が求められました。それは児童の心身鍛錬と防火用水としての機能を持たせるためでした。戦後しばらくはプールとして使用され続けていましたが、管理の問題から次第に廃止され、埋め立てられたり撤去されたりしていきました。また、学校と隣接した公園のプールは学校の敷地に取り込まれ、学校が管理するプールとなっていきました。
この萩児童公園のプールも現在は埋め立てられ広場となっています。現在京都市内の児童公園にある25mプールで現存しているのは萩児童公園の他には、南岩本・六條院・唐橋西寺の児童公園がありますが、全て埋め立てられたプール跡となっており、機能しているものはありません。
萩児童公園は、代表的なラジオ塔をはじめ、土地区画整理記念碑・国旗掲揚台・25mプール跡・門柱など戦前の児童公園の遺構がよく残され、日本土木学会の選奨土木遺産に認定されています。
萩児童公園は、戦前の児童公園の雰囲気を知ることができる近代化遺産として貴重な公園となっています。
2023年12月30日
北岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条東岩本にある北岩本児童公園を探索しました。北岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
北岩本児童公園南側東門。
南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。
西門。
公園から。
西側の塀も同じデザイン。
北門。
門柱は全て同じデザインです。
銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。
東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。
東南隅の塀。
北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。
バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。
バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。
ベンチは当時のもののようです。
このような感じで並んでます。
北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。
半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。
反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
北岩本児童公園南側東門。
南岩本児童公園と同じ丸窓の空いた塀です。
西門。
公園から。
西側の塀も同じデザイン。
北門。
門柱は全て同じデザインです。
銘板は右書きで旧字体。開園当時のものと思われます。
東門。工事中でしたが、公園自体のの工事ではないようです。
東南隅の塀。
北岩本児童公園には近年まで使われていた児童プールがあります。
児童プールは他の児童公園にも設置されていましたが、管理の問題からか撤去されたり花壇にされたり、砂場にされたりで、当初の姿をとどめるのは北岩本児童公園と春栄児童公園くらいで、近年まで使用されていましたが、現在は使われていません。
バーゴラ。京都市内の戦前の児童公園にはほぼ藤棚のバーゴラがありました。
バーゴラのテーブルとベンチ。だいたい同じ形です。
ベンチは当時のもののようです。
このような感じで並んでます。
北岩本児童公園の一角には、このような構造物が残されています。
半円状に造られており、手前側が土で埋めたような感じなので、噴水だったような気します。
反対側はコンクリートの床面になっており、上の半円はベンチにもなっていたのではないでしょうか。
2023年12月24日
南岩本児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区東九条南岩本にある南岩本児童公園を探索しました。南岩本児童公園は昭和14年5月20日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。
塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。
銘板は新しいもの。
南側の門と塀はこんな感じです。
南岩本児童公園北門。
北門の門柱は南門と違い意匠的です。
北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。
南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。
プールの北側には手洗い場跡があります。
水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。
手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。
南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
南岩本児童公園南門。シンプルなデザインです。
塀には丸い窓が開けられ変化を持たせています。
銘板は新しいもの。
南側の門と塀はこんな感じです。
南岩本児童公園北門。
北門の門柱は南門と違い意匠的です。
北塀は南塀と同じく丸窓が開けられています。
南岩本児童公園にはかつてプールがありました。戦前の京都市内の一定の広さの児童公園には、プールを設置するよう定められれていました。子供たちの心身育成と防火用水の確保を目的とするためのもので、現在も萩・唐橋西寺・六條院にプールの跡が残されています。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
この南岩本児童公園のプールも埋め立てられ、ジャングルジムなどが置かれて広場へと変えられていますが、その広場自体も今は閉鎖されています。草の生えている場所がかつてのプールで、分かりにくいですが、奥にコースの番号が書かれています。
プールの北側には手洗い場跡があります。
水槽が広いので、足とかも洗っていたのではと思います。
手洗い場のあるプール北側、北門を入ってすぐ右側に扉のレールが残されていました。
プールへの入り口だったのかもしれません。
南岩本児童公園の砂場。隅丸の古いタイプ。開園当初のものかもしれませんが、今は使われていないのか草が生えてしまってます。
南岩本児童公園は現在はあまり使われていないのか荒れが目立ちます。
この南岩本児童公園、2025年4月の完成を目指した再整備が計画されており、イベントスペースやスタジオ、カフェなどを設置した多目的広場へと作り替えられるようで(※再整備計画の記事。完成イメージ図あり)、それにより、現在残されている門や塀、プール跡などの遺構はすべて失われる予定です。
2023年12月23日
富小路殿児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市中京区富小路通二条上る鍛冶屋町にある富小路殿児童公園を探索しました。富小路殿児童公園は昭和16年6月30日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
富小路殿児童公園西門。
門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…
門柱は開園当初のもの。
西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。
富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。
水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。
水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。
斜めから。
バーゴラの背面。
バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。
バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。
富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。
実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。
これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。
富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
富小路殿児童公園西門。
門柱。貼り石造りです。ちょうどゴミ回収の日だったのでゴミが置かれていますが…
門柱は開園当初のもの。
西門の門柱にある銘板。これも当時のものですね。
富小路殿児童公園の中央には、公園のシンボルといえるバーゴラと水飲み場跡
が残されています。
水飲み場跡はバーゴラと一体となっています。水飲み場の両側にある石柱は西門の門柱と同じデザインの貼り石造り。両側には花壇跡もあります。
水飲み場跡の部分。水受けは石造で台座は西門や両脇の石柱と同じデザインの貼り石造り。
斜めから。
バーゴラの背面。
バーゴラの煉瓦風の柱は新しく見えるのですが、元々あった開園当初のバーゴラの柱の表面を新たに煉瓦タイルで張り替えたのかもしれません。
バーゴラにある3つのベンチは開園当時のもの。なので、バーゴラの柱も開園当時のものかと思います。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初のものと考えられます。
富小路殿児童公園の東側入口にある地蔵尊。
実は富小路殿児童公園にはもう一つ地蔵尊があります。どうやらこの地蔵尊は別の場所から移されたもののようです。なので普通は児童公園には地蔵尊は1つです。
これは戦後の昭和中期から後期のものですが、笑い顔や泣き顔のついた遊具の山。
公園巡りをしている方たちにはインパクトがあるためか、割と人気ある遊具です。
富小路殿児童公園の隣には、明治36年築で国指定重要文化財の京都ハリストス正教会があります。京都市の近代建築としては有名で訪れる人も多いですが、隣の都市公園としての近代化遺産の遺構が残る富小路殿児童公園も併せて訪問してみてはいかがでしょうか。
六條院児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市下京区高倉通五条下る二丁目富屋町にある六條院児童公園を探索しました。六條院児童公園は昭和17年8月15日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
六條院児童公園北門。
門柱は当時のものですがかなり低いですね。
反対側。この塀は戦後かも。
塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。
東門。
こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。
六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。
水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。
背面。
国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。
背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。
コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。
これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。
このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。
そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。
脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。
現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。
噴水部分。
噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。
背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。
六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。
実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。
階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
六條院児童公園北門。
門柱は当時のものですがかなり低いですね。
反対側。この塀は戦後かも。
塀に取り付けられた銘板も戦後っぽい。
東門。
こちらも戦後に増築された塀っぽいですね。
六條院児童公園北東隅。塀というより敷地境が結構低いので、今と同じく生垣だったのかもしれません。
六條院児童公園の敷地には開園当時のものが多く残されています。
水飲み場。コンクリート製で化粧モルタルの洗い出しですかね。
背面。
国旗掲揚台。水飲み場から少し話した感じで並んでます。こちらもコンクリート製の化粧モルタル塗り。上部に公園内に落ちているものが置かれてますが、こういう形のものは何かわからなくても置きたくなりますね。
背面。かつては凹んだ所に金属の支柱が建てられ、国旗が掲げられていました。
戦前の公園では国旗を掲げることが推奨され、今でも京都市内では、下鴨森ガ前・あおい・船岡山・地蔵本・飛鳥井・小松原・西ノ京・萩・紙屋に残されています。また、公園以外でも学校や町内の街角にも造られ、今も多く残されています。
コンクリート製の遊具。いつ頃のものかは不明ですが古そう。
これと全く同じものが、紫野柳児童公園と春栄児童公園にも現存しています。
このベンチはもしかしたら開園当時のものかもしれません。
砂場は隅丸タイプ。このタイプの砂場は開園当初かもしれません。
そして六條院児童公園の特徴を物語るのがこの噴水跡。
脇の石製の柵も当時のもので立派なもの。
現在は埋められていますが、この扇型部分が池泉でした。
噴水部分。
噴水部分のアップ。石製の本体の上に洗い出しの擬石モルタルの壁を乗せている手が込んだ物で、水飲み場や国旗掲揚台が洗い出しモルタルのコンクリート製なのに対して、噴水が石製なのは、六條院児童公園のシンボル的な位置づけだったのでしょう。
背面は洗い出しモルタルのコンクリートで覆ってます。
六條院児童公園を取り上げた別サイトではプール跡としていますが、これは噴水池泉跡で間違いないと思います。ただし、池泉跡の北側に門柱らしきものがあり、子供が水遊びをする場の児童プールとしての役割も考えられていたのではと思います。
実は六條院児童公園のプールはその噴水跡に隣接して存在していました。現在は一段高くなった広場となってますが、ここがプール跡。掘りくぼめた形のプールでした。戦前のある程度の児童公園には子供の心身育成と防火水槽の用途を目的として設置が決められていました。今でも南岩本・萩・唐橋西寺などにプール跡が残されています。
階段は当時のもの。その階段の真ん中に何故か植え込みの跡が。今はかつて生えていた木の切り株が残されていますが、当初は花壇だったのかも。
児童公園のプールは戦後しばらくも機能していたようですが、管理が難しくなり学校と隣接している児童公園のプールはそのまま学校側が引き継ぎ、学校の敷地に取り込まれたりしていますが、そうではない児童公園のプールは埋め立てられ広場にされるか撤去されました。
水飲み場の前にはパンジーが植えられたプランターが置かれていました。東門の前にもパンジーが植えられ、地域の人たちに愛された公園だと分かります。ただ、特にトイレですが、やはり古さが気になる。それでも近代化遺産といえる開園当時のものが多く残されている六條院児童公園。
選奨土木遺産に認定されている公園でもありますから、開園当初の遺構を保存活用した再整備を行った高原児童公園のような再整備を望みたいです。
2023年12月21日
船岡山公園に現存する昭和10年頃のすべり台。(京都市内で現存最古か)
京都市北区にある船岡山は、中世には応仁の乱での西軍の本陣が置かれ船岡山城が築城、明治2年には織田信長を祭神とする建勲神社が創建されるなど、歴史的な丘ですが、昭和10年11月1日に都市公園として整備されて以来、京都市の近代化遺産としての都市公園の遺構を多く残す公園でもあります。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。
こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。
現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。
古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。
船岡山公園の広場にあるすべり台。
右横から。
左横から
正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。
背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。
すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。
戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。
絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。
逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。
先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。
いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。
最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
その船岡山公園に残る近代化遺産に関しては2018年に記事にしましたが、
※船岡山公園に残る近代化遺産
この度、開園当初の昭和10年代に撮影されたものと思われる広場の古絵葉書を入手しました。
こちらがその古絵葉書になります。絵葉書には休憩所と手前にすべり台の一部が写っています。
これとほぼ同じアングルで撮影した現在の船岡山公園の広場がこちら。
現存するすべり台や休憩所が同じ位置に写っています。また、船岡山公園広場のすべり台の特徴である2連のすべり台部分も絵葉書でも確認できます。
古絵葉書の通信面。通信面には右書きで「郵便はかき」「船岡山公園」「昭和十年十一月一日開園 京都市」の文字があります。ここで注目したいのは「郵便はかき」の表記。
この「郵便はかき」が「郵便はがき」と濁点がつくのは、昭和8年2月以降。右書きから左書きに変わるのは戦後であるため、昭和10年開園の船岡山公園の絵葉書と年代が一致します。
このことにより、船岡山公園の広場にあるすべり台は開園当時の昭和10年頃のすべり台ではないかと考えられ、もしそそうであれば、確認できる上で京都市内最古のすべり台になるのではと思い、現地で確認をしてきました。
船岡山公園の広場にあるすべり台。
右横から。
左横から
正面から。すべり台の部分は人造石研ぎ出し。後述しますが、人造石研ぎ出しのすべり台は京都市内の児童公園でよく見かけます。
背面から。登り階段は左右にあり、2連のうちどちらかから滑れるようになってます。
この写真でお気づきでしょうけど、階段部分の側板の鉄板はリベット打ちです。
すべり台の下部の様子。底面はL字型の山型鋼と平版鋼をリベット打ちして支えています。支柱もリベット打ち。
戦前の鉄骨は山型鋼と平板鋼でリベット打ちをするのが主流で、今日では主流になっているH型鋼とハイテンションボルト留めは戦後からになります。
絵葉書に唯一写るすべり台の下部を拡大して見ました。打たれたリベットが確認できます。
逆方向の写真ですが、同じ部分。リベットの位置は絵葉書に写るリベットの位置と同じ感じで、まさに昭和10年頃に設置されたすべり台と言えます。絵葉書では鉄製の支えのようなものが見えますが、のちに埋められたようで現在は確認できません。
先ほども書きましたが、京都市内の児童公園にはこの飛鳥井児童公園のすべり台のような昭和30年代位と思われる人造石研ぎ出しのすべり台をよく見かけます。しかし、船岡山公園のすべり台と比較すると、階段は溶接、すべり台自体も鉄骨リベット打ちではありません。ここ最近、京都市内の戦前の児童公園を調査していますが、公園内にある古いすべり台は全て飛鳥井児童公園のタイプの造りで、船岡山公園のタイプは、船岡山公園に残るのみです。
いつもお世話になっているフォロワーのミカンセーキ(@hnnh_mikan)さんに現地で計測したデータを基に図面に起こしていただきました。
この船岡山公園のすべり台、開園当時の昭和10年頃のものであると思われますが、そうなると、今のところ私が把握している中では京都市内最古のすべり台ということになり、近代化遺産として全国的にも非常に貴重な存在と考えられます。
ぜひ、公的機関による調査が行われ、文化財としての近代化遺産、そして現役の戦前の遊具として保存対策をお願いしたいところです。
最後にすべり台に登ってみました。計測では約260cmの高さがあり、立つと結構怖いです。
2023年12月16日
高原児童公園に残る都市公園としての近代化遺産とその活用例
京都市左京区田中西高原町にある高原児童公園を探索しました。高原児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。
高原児童公園南側東門。
門柱は特に意匠的ではないですね。
公園側から。誰かの忘れ物が…
銘板。これは開園当時のもの。
高原児童公園南側西門
こちらも南側西門と同じデザイン。
公園側から
銘板も当時のもの。
高原児童公園西門。
高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。
全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。
西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。
竣工記念碑の噴水。
昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。
裏側。
裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。
噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。
日時計。これも記念碑を兼ねています。
日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。
日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。
公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。
京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。
竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園の近代化遺産
そして、この高原児童公園は近代化遺産の保存活用を意識した再整備例としても特筆すべき公園でもあります。
まずは、高原児童公園を訪問。
高原児童公園南側東門。
門柱は特に意匠的ではないですね。
公園側から。誰かの忘れ物が…
銘板。これは開園当時のもの。
高原児童公園南側西門
こちらも南側西門と同じデザイン。
公園側から
銘板も当時のもの。
高原児童公園西門。
高原児童公園には3つの門がありますが、すべて同じデザイン。
全ての門に銘板があるのは珍しいかも。しかも全て当時のもの。
西門には土木学会の選奨土木遺産のプレートが取り付けられています。
そして、高原児童公園内には近代化遺産としての公園の設備が保存されています。
竣工記念碑の噴水。
昭和7年に完了した高原地区の土地区画整理を記念して造られたもの。
京都市内の児童公園は分譲地としての土地区画整理事業により造られたものが多く、何か所かに記念碑が今でも残されていますが、噴水が竣工記念碑になっているのはここだけ。
裏側。
裏側には関わった人たちの名前が刻まれています。
噴水は再整備により復活したそうです。水が噴き出す姿を見てみたい。
日時計。これも記念碑を兼ねています。
日時計には土地区画整理事業の沿革が刻まれています。
日時計も新たにプレートが設置され、機能が復活しました。
公園の隅にはお馴染みの地蔵尊。
京都市内の戦前の児童公園のうち、紫野宮西(昭和10年5月)、紫野柳(昭和10年5月)、下鴨森が前(昭和10年5月)、あおい(昭和10年5月)、高原(昭和13年5月)、地蔵本(昭和13年5月)、比永城(昭和13年5月)、
橘(昭和14年7月)、小松原(昭和14年7月)、西ノ京(昭和14年8月)、萩(昭和15年12月)、六条院(昭和17年8月)、南部(昭和17年11月)の13か所が土木学会の選奨土木遺産に認定されています。しかし、10年前からの京都市による再整備事業で、南部児童公園は完全に開園当初からの遺構は失われ、橘児童公園もラジオ塔のみ保存され、意匠的だった噴水を含めすべて失われました。また、紫野宮西もベンチが残るのみです。その他は当時のまま残されていますが、今後の再整備事業でどうなっていくかは分かりません。
(さすがに代表格の紫野柳児童公園はもし再整備が行われるなら、保存を前提にした整備が行われると思いますが。)
その中でも高原児童公園は当初から近代化遺産、土木遺産としての価値を認識し、それらを保存・活用しつつ、時代に合わせた利用しやすい公園の再整備が行われた好例です。京都市の戦前の児童公園に興味を持ち、調べ始めたときに高原児童公園の再整備例を知り、ぜひ訪ねたいと思いました。ただ保存するだけではなく、かつての機能をよみがえらせる整備をし、そして公園を利用する多くの人にその価値を知ってもらうために説明版まで設置した高原児童公園の再整備は素晴らしいの一言でした。
竣工記念碑の噴水と日時計という地域の人にとってもシンボルのある高原児童公園。
他の戦前の遺構の残る公園も近代化遺産としての価値を認め、生かした再整備が行われればいいなという思いを抱きつつ後にしました。
2023年12月10日
比永城児童公園に残る都市公園としての近代化遺産
京都市南区西九条比永城町ある比永城児童公園を探索しました。比永城児童公園は昭和13年5月24日に開園した児童公園で、昭和10年代に土地区画整理事業や住宅地の改良事業等で京都市内各地に造られたものの1つです。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産
比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。
公園側から。
比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。
公園側から。
比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。
公園側から。塀は失われています。
バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。
別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。
砂場。隅丸タイプ。
比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。
反対側から。
水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。
公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。
※昭和10年代に京都市内各地に開園した児童公園・都市公園に関しては、紫野柳公園の記事にて触れています。
※紫野柳公園に残る都市公園としての近代化遺産
比永城児童公園北側東門。時代を反映したものか装飾のないシンプルなデザインです。
公園側から。
比永城児童公園北側西門。こちらもシンプルなデザイン。
公園側から。
比永城児童公園西門。こちらも同じ。
昭和10年くらいまでは各門柱ももう少し意匠的だったりするのですが。
雰囲気的に開園当時のものかなとは思うのですが、もしかしたら戦後に作り直したのかも。
公園側から。塀は失われています。
バーゴラ。京都市内の戦前戦後の古い児童公園には休憩所としての藤棚のあるバーゴラが大抵設置されています。
別方向から。長方形の敷地の両側の角に藤を植えるスペースがあり、藤棚を設け、その下にテーブルとベンチを設けるスタイルはほぼ共通しています。
砂場。隅丸タイプ。
比永城児童公園には当初のものと思われる水飲み場が残されています。
反対側から。
水飲み場のアップ。
現在は使われていませんが、開園当初の昭和13年の水飲み場を物語る貴重な遺構だと思います。
公園敷地の外になりますが、地蔵尊もあります。
公園造成の際に予定地にあった祠を公園内や公園のすぐ脇に移したのか、京都市内には地蔵尊が設置されている児童公園をよく見かけます。京都市内の街中にも地蔵尊の祠が多く存在しますが、公園に設置したのは、京都で盛んな地蔵盆の存在があり、その地蔵盆を通じて地域のコミュニティの場としての中心的役割を果たすためだったのではと思います。